Wednesday, November 29, 2000

熱狂・ジャイアン・メディア(k00634)

 mgさんとmtさんのお話、実に実に興味深く読ませていただきました。当時の独英における熱狂論の布置をもう少し詳しく教えていただけると本当に助かるのですが…(自分でも調べてはいるのですが、フランスの辞書では、そこらへんには限界がありまして…)

 ちなみに時代をもう少し下って19世紀初頭(18世紀フランスはご存知でしょうから)、おやっさんの本から引用しますと、

「スタール夫人はかくして、フランスで巧みに普及させた驚くべき解釈によって、カントを典型的な熱狂の哲学者として紹介するに至った。そしてこの状況は、1830年以降、カントの主要な作品が翻訳されて、彼女の解釈を修正することが出来るようになるまで続いた。スタール夫人個人の思想において熱狂という概念がどんなに大きな位置を占めているかは、周知のとおりである。『ドイツ論』の最後の三章は、ある特定の歴史的文化を紹介するという範囲を越えて一般的な射程をもっており、この熱狂という問題に当てられている。・・・」(『文学生産の哲学』、邦訳43頁)

ちなみにこの本は、フランスにおける哲学(特にドイツ)の受容史に関しては、ちょっとしたものである。

>>mgさんへ

>このへんあまり事情を知らないのですが、
>樫山キンシロウの訳は要するにどうだということなのでしょう。

 いえ、単に僕には一文の意味すらも分からないという個所が頻出する、というほどの意味しかないんですが(笑)。

>むかし、樫山の『悪の問題?』とかいう本は読みました。

 どうでした?僕は彼の「解題」「解説」しか読んでいないので、研究者としての側面について何も言う資格はないのですが…

>あるカント研究書の翻訳は、一格(主格)と四格(目的格)を間違えて
>ました。

 最初は、「んなばかな」と笑ってしまいましたが、(m)ichですか…。トライの宣伝なら、「mich。mを取っても自分です」とでもなるのだろうか。ああ、それに中性名詞なら…。

>>mtさんへ 「t大英文ラカン派」、そのうちの一人はひょっとして、多少仏文がかっていたりするのでは(笑)?仏文のゼミではまずありえない話ですね。デリダ派とまでは行かなくとも、バルト派とか、せめてジュネット派とかあってもよさそうなもんだが。「流行」があってはじめてそれとの対決・乗り越えとか回避・忌避といった動きが可能になってくるし、さらには沈黙や無関心といったことまで意味を持つことになってくるのだと思うのだけれども。動きがなければ、摩擦もない。無風の凪では、新たな波も寄せてはこない。

 「読書会」。こちら北の果てでは、おやっさんの会員制シークレットライブが行なわれております(以下のアドレスで原稿読めます。http://www.univ-lille3.fr/www/recherche/set/sem/Vico4.html)。

 ジャイアン・リサイタルのごときワンマンショーでありますが、間口は広く、ほとんど何でも来い状態なのは良いことです(ゼミタイトルは「哲学、広義の」であります)。私も組の若い者として見込まれたらしく出入りが許可されたので、行っていつもの調子でべらべらやってまいりました(外国人でなかったら、どやしつけられるところであります。というのは嘘ですが、まぜっかえされるのは確かです。負けず嫌いノルマリアンなのです)。

 理論的深度はともかくも、博覧強記であることだけは間違いないので、文学・哲学に関する貴重な「情報」には事欠きません(一例を挙げますと、ある日、ヘーゲルの授業で、メディアのことに言及したら(先のラカン派とは違って、これには文脈的必然性が明瞭な形であったのでありますが)、「しかしメディアといっても君、エウリピデス版もあれば、セネカ版もある、ああ、それにコルネイユ版だって…」。すでにスタンジェールを読んでいて、「どうせおやっさんは大して知らないだろう」とたかをくくっていた私も、特に最後の奴にはびっくりしました。コルネイユといっても、小の方(弟トマ)ですよ!!

 日本の仏文学者だって、何人知っているか…こんなことを言ってくれる哲学者はフランスでもなかなかいないはずです(分業化が仕事の上だけならいいのですが、現代では(このMLの哲学者たちを別とすれば)、どれほどの哲学者が文学に親しんでいることか…)。

>>皆様へ 決して忘れていたわけではなく、訳に少し問題があって中断せざるを得ないままになってしまっているのですが、お約束した「メディアであること」の前半部分を添付します。

>>isさんへ

 1) いつだったか「添付ファイルは、ネチケットに反する」等とNTTの友人に言われた気もして、前回のデリダ訳はそうしなかったのですが(今回はすでに長いのでそうしましたが)、isさん、どちらのほうが良いのでしょう?

 2) あと、「ML復帰嘆願書」に「岡道男云々」と書いていたのは、メディア関係で何か面白そうな論文はないかという魂胆があってのことだったのです。4つのヴァージョン(大コルネイユも含めて)と、関係論文を集めて、「メディア集成」とでも題して、筑摩あたりから出してもらうよう売り込もうかなんて考えていたのですが…(笑)

 コルネイユに関しては専門家の心当たりがあるのですが、関沢さん、セネカ訳してみませんか、なんて。 ちなみにジジェクも、「今、アンチゴーヌよりもメディアに関心を持っている」と言っていました。

Saturday, November 25, 2000

すべては政治的である、のか?(k00592)

"Tout est-il politique ? (simple note)", Actuel Marx no. 28, pp.77-82.(承前) 

≪この論理に従えば、「すべては政治的である」は原理的な所与であるということになる。そして、ある制度ないし知(ないし術)から切り離された領域としてあるはずの「政治」自体が、何よりまず己れの表明し指し示している自然の全体性を実現するために、己れ自身の[他領域との]区別[分離]の廃棄を目指すことしかできない、ということになる。そうだとすれば、最終審級にあっては「すべては政治的である」と「すべては経済的である」との間に相違はないことになる。

こういうわけで、民主主義と市場は、互いに手を携えて、今日「世界化」と呼ばれているプロセスへの道を自分たちのために切り開いているのである。「すべては政治的である」はしたがってまた、次のような主張に行き着くことにもなる。己れ自身の自然本性[人間本性]の生産者と見なされる、ということはその内に表れている自然全体の生産者として見なされる「人間」には自足がある、と。

この自己充足、この自己-生産という漠然とした表象は、今日までのところ、「右翼の」であろうが「左翼の」であろうが、「政治」の表象をすべからく支配している。「国家的」であれ「反国家的」であれ、「合意に基づいた」ものであれ「革命的」であれ、何にせよ、少なくとも広範な政治の「プロジェクト」を旗印に掲げた表象はすべてそう捉えられる。(単なる調整や不均衡の是正、緊張の緩和などといった、政治のおとなしめのヴァージョンもあるにはある。よくやっていると言えるときもあるが、妥協を重ねていることも多いあの「社会民主的」手間仕事がそうであるが、その背景はやはり同じである。) 

したがって、今日政治の「危機」「不振」「麻痺」と名付けられているものが提起する問題とは、ひとえに人間の、そして/あるいは、人間の内でのないし人間による自然の、自己充足である。ところで、まさにこの自己充足こそは、現在という時が日々少しずつその薄弱さを明らかにしているところのものである。というのも、世界化、-すなわちpolisの一般的なoiko-logisation-はいずれにせよそれ固有の展開の非-自然性を、絶えずより活発に、あるいはより暴力的に生ぜしめているからである(だがそれはまた、最終的には、「自然」と目されているもの自体の非-自然性でもあるだろう。我々は未だかつてこれほどある種のmetaphusisの領域にいたことはなかった)。≫

 この(とりわけ前回訳出した部分に顕著な)デリダ=ハイデガー的な語源学への露骨な依拠の方法論的妥当性はともかくとして、「経済的なもの」そのものを語ることを回避しようとする態度は一目瞭然ではあるまいか。人は「経済的なもの」について語っているつもりで、その実「政治経済的なもの」について語っているに過ぎない、しかもその「政治経済的なもの」の根底には人間と自然の錯綜した関係がある、というナンシーの議論の方向性は前回指摘しておいた通り、まさに「滞留」の渦の一つとしか見なせないものである。しかし、この議論の行く末をもう少し追ってみなければならない。

Thursday, November 23, 2000

デバ・ガメ(k00591)

 今日、偶然市立図書館で、YannickBeaubatie(dir.), Tombeau de Gilles Deleuze, Mille Sources, Tulle, 2000. という本を見かけた。もしかしたらどこか気の早い出版社や雑誌がすでに訳しているかもしれないが、ちょっと毛色が変わっているので紹介してみようと思う。

 まず出版地のチュール(フランスの中央少し下、へその辺りにあるコレーズ県の県庁所在地。同名の織物はここから来ている)をわざわざ特記したのは別にペダンからではなく、この本の特色と直接に関係するからである。この本の特色、それは何と言っても地方性である。

 この本の編者の言いたいこと、それは「ドゥルーズはリムーザンだったんよ(パリ生まれだけど)。そしてこのリムーザン気質こそが彼の哲学の発展に大きく寄与したんよ」(信州訛りを再現してみたつもり。ぜんぜん違うか)ということに尽きる。

 ちなみに(これは純粋にフランス地理ペダンだが)、ドゥルーズが夏の数ヶ月を過ごしに来ていたのは、コレーズの北西の隣接県、リモージュを県庁所在地とするオート・ヴィエンヌ県のサン=レオナール=ド=ノブラであるが、車のリムジンで有名な「リムーザン」とは中央山塊(マシフ・セントラル)の北西部のコレーズ・クルーズ・オート=ヴィエンヌの3県辺りの地域を指す。

 そういうわけで、わざわざタイトルもそのまま出したのである。Tombeau とは、もちろんクープラン辺りが源泉とされ、とりわけマラルメの一連のシリーズが仏文では有名な(「墓」という第一義からの)転用で、「偉大な個人に捧げられた詩・音楽作品」のことであるが、ここではそこからさらに反転して、「リムーザン地方に深い愛着を抱いていたジル・ドゥルーズは、当地に埋葬されることを強く望んでいたのである」という場所(空間)性・地方性を含んだ意味になっている、と解したほうが良いだろう(穿ち過ぎだが)。

 地方性を前面に押し出すことから(そうでもしないと、まず第一にドゥルーズ本人が哲学者における個人史の重要性をほとんど認めず、また哲学者としての側面以外の自らの個人史を彼自身がほとんど語っていないということがあり、第二に単なる「ドゥルーズと私」にはすでに新味が乏しいということがある以上)、個人としてのドゥルーズについて語ることがかろうじて許されるという構図である。

 確かに、ドゥルーズが地方のびっくりニュースに興味しんしんで毎日隣町までどっさり新聞・雑誌を買い込みに行っていたなどという全く瑣末な情報は、デリダがテレビ中毒で、特に毎週日曜日必ずと言っていいほどユダヤ・イスラムの宗教番組を見ているなどという情報同様、彼らの哲学の理解に何の関係もない。単なる好奇心、卑しいデバガメ根性である。

 「リムーザン地方でドゥルーズについて書かれた記事一覧」には笑い、「フランス語以外のドゥルーズ関係著書」のいいかげんさには呆れるとしても(タケシ・タムラがいつ「ドゥルーズの思想」を「書いた」というのだ!)、エリック・アリエズやジャン=クレ・マルタンの論文も読めるなどと口実をつける必要もないような、ともかく毛色の変わった本なのである(モーリス・ド・ガンディヤックがまだ生きていて、少なくとも回想録を書ける(というか、2年前の本から見て、最近彼はそれしかしていないのではないか)くらいにはまだ健在であるということも判明した)。

 さらなるデバガメ根性をお持ちの方は一読されたし。

Tuesday, November 21, 2000

マルクスのもとへの滞留(k00590)

***「まだ始まってもいない」。とても厭な、でもまとわりついて離れない言葉。考えているつもりで「考えさせられている」ないし「考えたつもりになっている」ことがなんと多いことか。

***「政治的なもの」について語ることが花盛りである。しかし、もはや飽和状態なのだろう。新マルクス主義者宣言の流行は、「政治的なもの」と「経済的なもの」との間での滞留の徴候である。 「政治的なもの」について語るだけでは現状に対して充分に有効な批判的言説を支えきれないことは自覚しているが、かといって一足飛びに再び「経済的なものの最終審級」へと舞い戻るわけにも行かず、さりとて新たな「経済的なもの」への移行ないし両者(政治的なものについての思考と経済的なものについての思考)の融合が容易に成し遂げられるわけでもないという滞留状況の徴候として、ドゥルーズ以後、デリダや柄谷をはじめとする一連の「宣言」は捉えられる。

 80年代にはリオタールによるカントの政治哲学の強引きわまりない奪取のそばで「政治の美学化」を批判しつつ、独自の「政治的なもの」についての思考を展開していたナンシーとラクー=ラバルトも、一見するとより露骨に「政治的」に語るようになってきているように見える(前者については後述、後者は現在マルクス論を準備中とのこと。藤原書店の「環」1号参照のこと)が、見落としてならないのは、それらの言説の背後に「経済的なものの影」とでも言うべきものが潜んでいるということ、マルクスは、現在のところ、実現するまでには至っていない模索の消極的な一時的帰結、着地点を見極めるまでのひとまずは強力な避難所としての役割を果たしているにすぎないということである。

***「滞留」は「停滞」ではない。「停滞」は別の場所にある目標へ向けての前進を前提とするが、「滞留」は必ずしもそうではない。

***Actuel Marx no.28(PUF, sep. 2000.)は、「政治哲学に独自の思考は存在するか」という徴候的な(末期症状的なとは言わないまでも)テーマを掲げている。ジャン=リュック・ナンシーは、そこに「すべては政治的である、のか?」と題するノートを寄稿しているが、我々の興味を引くのは、その中の「経済的なもの」の模索に対する彼の批判(我々の目にはある種の回避と映るもの)である。少し長いがその部分を引用してみよう。

≪今日、「政治は経済によって阻止され支配されている」などと時折言われることがあるが、それは性急な混同の結果によるものである。ここで「経済」(economie)と呼ばれているものは実際、かつては「政治経済」(economie politique)と名付けられていたもの、すなわち相対的に自足的な家族(oikos)のではなく、市邦(polis)の規模での生計・繁栄の維持・管理機能以外の何物でもない。「政治経済」は、polisをある種のoikosと(一つの自然的秩序(世代、血縁関係、土地・財・奴隷などの世襲財産)に属すると想定されたある集団的ないし共同体的実在と)見なすことに他ならなかったのである。

 したがって必然的に、oiko-nomiaがpolisの規模に移し変えられるということは、単に規模の水準において移動がなされるのみならず、politeia(市邦の諸問題に関する知)自身がある種のoiko-nomiaとして再解釈されるということを含意する、ということになった。だが、このoiko-nomiaは同時にそれ自身、もはや単に生計・繁栄(「良き生」)といった観点だけからではなく、富の生産と再生産(「より多く持つこと」)という観点から再解釈されることになったのである。

 結局のところ常に問題となっているのは、人間集団をどう解釈するかである。「政治的なもの」自体が全体として、全体化する、包括するものとして規定される限り、人間集団もまた「全き政治的なもの」として解釈されるほかはないが、人間集団があるoikosの包括性として、より正確に言えばoiko-logiqueな(その成員による天然資源の(語の原義的な意味での)concours[競合]ないしconcurrence[競争]の)包括性として自己規定することで、事態はまさに大方そのように推移してきたのである。それははじめ「重農主義」(「自然による統治」)と名付けられた。[訳注:concoursの原義は、「同一の場所に大勢の人が集うこと」であり、concurrenceの原義は「出会うこと」である。]

 同じ頃、政治的なoikosの成員の「自然の」本性[nature "naturelle"]を規定することが必要になっていたが、もはやoikoi に対して自律的かつ超越的な(それら以外の本質的存在に属しつつ、それらの基盤となり、それらを連合させる)秩序からではなく、原初に想定される「oikologie」から、すなわちoikoi間の人間同士の親交や人と自然との親交から市邦自体を構成することによって、この必要は満たされたのであった。こうして、ある「社会体」ないしある「市民社会」(市民の社会あるいは政治的社会、という語の厳密な原義における)の制度が、傾向としては、理想的には、原初的には人類自体の制度と同一のものとして与えられた。

 無論、人類は、第二の自然として、あるいは徹底して人間化した自然[nature entierement humanise](このような概念が矛盾したものでないとすればの話であるが。このことはおそらくはまさに問題の一つの核心であろう・・・)として、自分自身を自己産出する以外のいかなる最終目的をも取り立てて持たないのではあるが。

 この論理に従えば、「すべては政治的である」は原理的な所与であるということになり、そこから「政治」自体が、ある制度ないし知(ないし術)から切り離された領域として、何よりまず表明し指し示してきた自然的な全体性を実現するために己れの分離の廃棄を目指すことしかできない、ということになる。そうだとすれば、最終審級にあっては「すべては政治的である」と「すべては経済的である」との間に相違はないことになる。こういうわけで、民主主義と市場は、互いに手を携えて、今日「世界化」と呼ばれているプロセスへの道を自分たちのために切り開いているのである。≫

 長くなってしまったので、以下次回。自分のeuphoriqueな健忘症に抗することができますように。

Monday, November 20, 2000

Re: ソーカル(k00589)

***「まだ始まってもいない」。とても厭な、でもまとわりついて離れない言葉。

isさんへ

>なぜかこの本、僕の周りであまり話題になって
>いなかった気がするのですが(・・・)

 東京のごく一部のローカルニュースにすぎませんが、プリゴジンの自称弟子(翻訳者でもあります)は、この本に共感していたようです。ソーカルの本が標的にしている当のものをほとんど(あるいはまったく)読んだこともなく、それどころか人文科学一般についてただ漠然としたイメージしかもっていないにもかかわらず、それらをもとに「科学的思考に基づいて」判定を下せると考える大学人(無論理科系には限られないでしょう)には一定程度受け入れられているのではないでしょうか。

nyさんへ

 本当にお久しぶりでした。お元気ですかと聞くまでもなく、雑語を見れば分かりますね。こちらは、モグラだか、冬眠前の熊だか、ひっそりそれなりです。

mtさんへ

 マシュレもまた「ひっそりそれなり」の人です。彼はおそらくこのリール第三大学の中で最も古風な(しかしきわめて明晰な)授業を展開している哲学教授かもしれません。デカルトの情念論、スピノザの情動性、ヘーゲルの精神現象学についての授業は模範的といって良いでしょう。

 私はマシュレの長所は、鈍重で野暮で時代遅れかもしれないけれど、執拗に問いつづけ、彼なりの仕方で哲学しようとしているところにあると思う。この言葉へのこだわりの執拗さという点において、塩川徹也教授が自然と思い出されてきます。彼らのもとに身を置いて考えることを始めたいというのが、今漠然と感じていることです。それは正統への回帰や正統からの出発ということではない。彼らは、私が自分の下に材料を集めることのできるようないわば仮設的な「真空状態」を作ってくれる。通常感じずに済んでいる大気の重みを感じさせることによって。重みに耐えられなければ結局のところ考えるところにまでは至りつかない。私は京都でおそらくは考えるということの匂いを嗅ぎ、それへの憧れを持ったけれども、いかなる重みをも背負わなかった。東京でフランス文学を通して少しは背負うということを知った気がするけれど、哲学の重みを背負わなかった。残念ながら今ごろからようやく取り掛かろうとする、という感じです。

 どのような「場所」に身を置くかということは、物を本当に考える上できわめて重要ですね。「考える」というのは本当に難しい。考えているつもりで「考えさせられている」ないし「考えたつもりになっている」ということがなんと多いことか。どうしてもこの一種の循環の中から抜け出すことはできないと、あるいは端的に考える必要のないこと、考えるだけ無駄なことと考えることも可能かもしれません。しかし、少なくともどこに身を置くべきではないか・・・

Saturday, November 04, 2000

citephilo2000(k00578)

>mtさん マシュレの話はまたいずれじっくりさせていただきます。
>isさん 真紀子話ありがとうございました。

 今日は目下目前に迫っているあるイヴェントについてご紹介させていただくことにしましょう。リール市を中心とするノール・パ・ド・カレ地域圏において、11月8日から一ヶ月間にわたって開催されるこの"citephilo2000"は、あるテーマに基づいてヨーロッパ各地から哲学者・思想家を招くシリーズの4回目に当たります。

 今回の共通テーマは≪抵抗するとは?≫ですが、開始早々御大K.-O. アーペルが招かれている(今回の最重点国がドイツだからだそうですが)ことからも分かるとおり、ほとんど無限に幅広くこのテーマは解釈されているようです。

 また、fnacが絡んでいることからも推察されるとおり、結局のところ単なる思想書販売促進のための大規模なブックフェアではないのかという拭い去りがたい疑念もないではないのですが、いずれにしても興味深い試みであることに変わりはないので、以下にその日程等の一部を抜粋しておきます(より詳細に知りたいという方は、HPをご覧下さい。www.citephilo.com)。

11月10日(金) 15時30分- ≪哲学に抵抗するもの≫(アラン・バディウ+イザベル・スタンジェール+クリスチャン・ゴダン)   最後の人物は、最近、『全体性』という著書を出したクレルモン=フェラン大学の助教授です。ちなみに、スタンジェールの近作『私がメディアであることを覚えておきなさい』の試訳の一部を近々このMLで読んでもらおうかと考えています。

 18時- ≪エレーヌをすべての女性のうちに見ること、ホメロスからラカンへ≫   (バルバラ・カッサン+モーリス・マティウ+バディウ)

11月15日(水) 12時- ≪市民権≫(バリバール)

 17時- ≪技術と時間≫(ベルナール・スティーグレール+ジャン=ミシェル・サランスキー) 「技術の哲学的・科学認識論的・政治的諸争点を考えることはなお可能か」を論ずる。前者は、ed.Galileeから講演タイトルと同名の著書二冊と『テレビのエコー断層撮影法』と題したデリダとの共著(というよりロング・インタヴュー)を出しているコンピエーニュ工科大学の哲学教授。後者は、元リール第三大学教授、現在パリ第10大学(ナンテール)哲学教授で、近著に『意味の時間』。

11月17日(金) ≪革命の欲望≫(J.-L. ナンシー)

11月24日(金) 15時- ≪道徳感覚、道徳哲学の歴史≫(ローラン・ジャフロ+アラン・プティ)   「道徳感覚?この観念はモラリストたちのキマイラにすぎないのではないのか?18世紀の道徳哲学とそれを駆り立てていた諸論争の歴史を再構成する」。前者はパリ第1大学(ソルボンヌ=パンテオン)助教授。後者は、ブレーズ・パスカル クレルモン第2大学助教授。  

 19時30分- 「ニーチェ、第五の福音書」(ピーター・スローターダイク+マルク・クレポン+マルク・ド・ローネー)

11月25日(土) 16時- ≪イデオロギーの亡霊たち≫(スラヴォイ・ジジェク)

 16時30分- ≪J.-P. サルトルの出口なし≫(アガート・アレクシス+フランソワ・フリマ+ミシェル・コンタ)

11月27日(月) ≪ロバを称えて、あるいはジョルダーノ・ブルーノの燃え尽きた(火刑に処せられた=激情に駆られた)人生≫(アントネッラ・デル・プレーテ+ピエール・マニャール)前者はピサ大学教授で、著書に『ブルーノ、無限、そして諸世界』。後者はパリ第4大学名誉教授。一昨年来あたりから、フランスでもブルーノの全集が対訳版の形で刊行され始めています。日本でも全集と銘打たれたもののうち一、二冊刊行されたはずですが、その後どうなってしまったのでしょう。

11月28日(火) ≪パウル・ツェランをめぐって: 翻訳、解釈、思考≫(J.-P.ルフェーブル+ステファーヌ・モーゼス)

12月5日(火) ≪東欧で崩壊したのは何か≫(ダニエル・ベンサイード+リュシアン・セーヴ)