Sunday, January 28, 2001

オツベルと象(k00644)

 おそらく日本人の大半は、宮沢賢治の「オツベルと象」を読んだことがないに違いない。だからこそ、金メッキの太い鎖のついた時計(その実、重石)を「褒賞だ」と首に巻かれて喜んでいられるのだろう。

≪宗教は、人間が動物に対して持っている本質的な区別に基づいている。したがって動物は何らの宗教をも持っていない。昔の無批判的な動物誌家たちは確かに、象は他の賞賛すべき諸特性と共に、宗教心という徳をも備えていると考えていた[何だか急に「オツベルと象」を思い出した]。しかし、象の宗教というようなものは、おとぎ話の世界のものである。最も偉大な動物学者の一人であるキュヴィエは、自分自身の観察に基づいて、象を犬より少しでも精神段階が高いものと見ていない。

 しかし、このように人間を動物から本質的に区別するものは何であるか?この問いに対する、最も単純であり且つ最も一般的であり、また最も通俗的でもある答えは、それは意識であるという答えである。けれどもここで言う意識は、厳密な意味での意識である。何故かと言うと、自己感情とか、感性的な識別力とか知覚とかという意味での意識、さらには外的事物を一定の顕著な目印に従って判定するという意味での意識さえも、動物に認めないわけにはいかないからである。最も厳密な意味での意識はただ、自己の類・自己の本質性が対象になっているところの存在者のところにあるだけである。動物は確かに個体としては自己の対象になっている。それだからこそ動物は自己感情を持っているのである。しかし動物は類としては自己の対象になっていない。このために動物には、自分の名前を知から引き出しているところの意識が欠けている[意識(Bewustsein)は知(Wissen)から派生した語であるということ]。意識があるところ、そこには科学のための能力が存在する。科学とは、類の意識である。我々は生活においては個体と交渉し、科学においては類と交渉する。しかし、ただ自分自身の類・自分の本質性が対象になっている存在者だけが、他の事物または他の存在者をそれらのものの本質的な本性の方から対象にすることができるのである。

 したがって、動物はただ一重の生活を送るだけであり、人間は二重の生活を送る。すなわち、動物の場合には内的生活が外的生活と合一しているが、人間は内的生活および外的生活を送る。人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ、類の機能を一つも果たすことができない。しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能―何故かと言うと、考えるとか話すとかは真の類的機能であるからである―を果たすことができる。人間は自己自身にとって私であり君である。人間は自己自身を他人の地位に置くことができる。そしてそれはまさに、人間にとってはただ自己の個体性が対象であるだけではなくて、自己の類・自己の本質もまた対象であるからなのである。

 動物とは区別された人間の本質は、ただ宗教の根底であるばかりではなくて、また宗教の対象でもある。しかるに宗教とは無限者の意識である。したがって宗教は、人間が自己の本質―そしてもとより有限で制限されている本質ではなくて、無限な本質―について持っている意識であり、且つそれ以外の何物でもあることができない。(…)生活や行動が一定の種の植物に拘束されている毛虫が持っている意識は、またこの限られた領域以上には広がらない。この毛虫は確かにその植物を他の植物から区別しはするが、しかしそれ以上のことは知らない。我々はこのように制限された意識―しかしそれはまさにそのように制限されているために誤ることがなく欺くこともない―を、そのためにまた意識とは呼ばないで本能と呼んでいる。厳密な意味または本来の意味での意識と無限者の意識とは分離されない。制限された意識は何ら意識ではない。意識は本質的に総括的で無限な性質のものである。無限者の意識とは、意識の無限性に関する意識以外の何物でもない。≫(フォイエルバッハ、『キリスト教の本質』、第1章)

Wednesday, January 24, 2001

近況 (k00642)

 アレクセイ・ゲルマン「我が友イワン・ラプチン」を見ていたら(東京で観た「フルスタリョフ、車を!」は私好みの映画であった)、あの言葉が出てきた。

"Rien n'est fini. Rien n'est meme commencé." 卒業論文で「ナジャ」の一節をエピグラフに引いたことを思い出す。「ロシア語で始まりという意味なの。ただ始まりだけなの」。始まりは、ただ始まりだけで、本当に始まりなのか?始まり続ける始まりは、始まりと呼びうるのか?

この言葉に、ベルクソンの次の言葉は呼応しているような気がする。「この本(「二源泉」)は、他の著作とは全く異なる条件の下で書かれた。すべてが一挙に動き出して飛び立つ代わりに、私はかつて見た乗合馬車の馬たちと同じようにやってしまった。彼らは馬車を引き上げるために同じ坂の下まで何度も何度も連れ戻されていたのである」。

ベルクソンの『二源泉』に取り組んでいる自分の試みもまた、ラプチンやナジャや馬たちのようにぐるぐると同じところを動き回っているような気すらする。それでも変化はある。「失われた時」の崩れ落ちてくる大聖堂、永遠に崩れ落ち続けてくるままの大聖堂のように、動き出そうとする瞬間に永遠に閉じ込められた汽車の振動を見て、ブルトンは「美とは痙攣だ」と言った。

決して始まってしまわず、始まり続けるもの、永久革命のような粗雑な概念ではなく、その倦むことのない回帰から洩れる回転音、きしみに耳を澄ますこと。法の門前に辿り着き続けること。門番は永遠に腰をかがめて大声で怒鳴り続け、永遠に門を閉じ続ける。

ピナ・バウシュの「カフェ・ミュラー」の恋人たちのように、反復することが同じ事態の質の変容を促す。愛の仕草は、そのままで、観る者に苦痛を与える暴力となる。

Tuesday, January 09, 2001

フランス現代思想の指標としてのギリシャ三大悲劇

「王女メディア」を読むために(2)

 今は全くの与太話として聞いていただいて構わないのだが、私の主観的な印象では、一般に「古代ギリシャ三大悲劇」として知られる作品は、また同時にフランス現代思想の幾つかの時代を画す形象ないし指標としてみることもできるものである。

 まず、三つの作品のうち最もよく知られているのは、言うまでもなくソフォクレスの「オイディプス王」である。父殺しと母との姦通を通じての自我の形成という三項関係にまで還元された単純な図式は、おそらくは(ヘーゲル的であれ、マルクス主義的であれ)弁証法的思考の隆盛と相俟って、70年代半ば辺りまで広汎な影響力をもつ。この影響力が失速したのは、「アンチ・オイディプス」のせいなのかどうかは今のところよく分からない。

 70年代半ばあたりから、ラクー=ラバルトの(ナンシーとの共同作業の成果である)、相対的に見れば規模は小さいが、やはり重要であることには変わりない、ドイツ思想(初期ニーチェ)・文学(ドイツロマン派)の翻訳紹介の一環として、ソフォクレスの(ヘルダーリンの、ブレヒトの)「アンチゴーヌ」の翻訳・上演が始まる。彼の特徴でもある、限られた対象への執着、一貫した関心は、現在まで続いている。「アンチゴーヌ」において問題となっているのは、「神の掟・法に従うために人の掟・法に反逆しつつ、共同体の枠内に留まること」である。ここで、第一段階の精神分析=政治的アプローチから、第二段階の美学=政治的アプローチへと移行したと要約できるかもしれない。

 次の第三段階はまだ始まってもいない。僕が勝手に夢想しているだけのことにすぎない。しかし、「精神現象学」第6章「精神」で個人主義的精神から人倫的精神への移行を、オイディプスからアンチゴーヌへと説明したヘーゲルが何故、メディアに言及できなかったのか(しなかったか、ではない)、考える価値はあると思うのである(例えば、『詩学』第14章においてアリストテレスは、同様の比較をオイディプスとメディアで行なっている)。

 ちなみにアリストテレスは、「メディア」に言及する際には(14、15、25章)必ず批判しているが、アリストテレスに批判されるというのはそう悪いことではない(批判されている点は以下の点ではない、念のため)。松本仁助(にすけ)・岡道男の感動的に懇切丁寧な訳注によれば、「詩学」が重要視している憐れみ(eleos)と怖れ(phobos)の感情は、「抑制できないような激しい感情ではなく、緊密な因果関係にもとづいて組み立てられた(悲劇作品の中の)出来事を正しく理解するところから生じる感情である。(…)私たちは、あまりにも大きな恐怖に襲われるとき、もはや憐れみの感情をもつことはできない。現存の悲劇作品を見ても、自殺、殺人など、大きな恐怖を呼び起こす可能性のある出来事は、舞台の裏で起こるように(観客には見えないように)仕組まれており、憐れみと怖れの感情は、主として観客が出来事の組み立てと経過を正しく理解することによって生じる」(岩波文庫、137-138頁)。メディアのすべてに過度な振る舞いは、アリストテレスの「中庸」と「模倣」によるカタルシスの美学とは全く相容れないのである。

 うまくは言えないが、オイディプスを欲望と、アンチゴーヌを倫理と一言で形容するとすれば、メディアは(…)

Monday, January 08, 2001

『王女メディア』を読むために (1) (k00641)

1. メディアとは誰か(ピエール・グリマル『ギリシャ・ローマ神話事典』より、「メディア」の項目)

 メディアは、黒海東部にあった古代の王国コルキスの王アエテス(Aeetes)の娘である。したがって彼女は、太陽神ヘリオスの孫娘であり、アイアイエ島に住む魔女キルケの姪である。彼女の母は、大洋神オケアノスの娘たち(海の精オケアニデス)の一人イディーである。しかし時に、その母として、すべての魔女の守護者たる女神ヘカテの名が挙げられることもある。ディオドロス(Diodore)も踏襲したこの伝承によれば、ヘカテがアエテスの妻であり、メディアがキルケの妹であるということになる。

 メディアは、アレキサンドリア文学においては、それにローマにおいても、魔女の典型となった。これは、彼女がすでにアッティカ悲劇において、そしてアルゴー船の乗組員たちの伝説において果たしていた役割である。

 メディアなしでは、ジェイソンは、金羊毛を手に入れることはできなかったであろう。ヘファイストスの雄牛たちの吐く火による火傷から彼を守ってくれる軟膏を与えてくれたのも彼女なら、竜を魔力で眠り込ませてくれたのも彼女なのである。ディオドロスによってもたらされる比較的後の伝承が我々に教えてくれるところによれば、メディアは実際には人間性に満ちた王女で、王国にやってきたすべての外国人を殺すという父の政策に激しく反対していたということになる。彼女の内に秘めた反発に業を煮やした父アエテスは、彼女を牢に閉じ込めるが、彼女は苦もなくそこから脱することができた。さて、まさに運命の日がやってきた。コルコス海岸にアルゴー船の乗組員たちが上陸したのである。彼女は、もしジェイソンが望みを果たすのに尽力し、彼を、遥か彼方から探し求めてやってきた金羊毛の主にしてやるならば、自分を娶ってくれるよう約束させて、即座に自分の運命を彼らのそれと堅く縛って結びつけた。ジェイソンが約束したので、メディアは王国についての知識を利用しつつ、貴重な毛皮の保管されている寺院を開かせた。しかしにもかかわらずアルゴー船の乗組員たちは、兵士たちを襲って彼らを蹴散らしてしまう。エウエメロス説[神話の神々は実在の英雄などが死後神格化されたもの、とするギリシアの哲学者エウエメロスの説]の影響を受けたこの伝承は、伝説の様々なエピソードの「合理的」解釈にすぎない。例えば、火を吐く雄牛[taureaux]がタウリドス[Tauride]出身の兵士になる、といった具合である。金羊毛も、アタマスの息子たる若きフリクソスの家庭教師をしていた(それまでは道に迷っていた)ある牡羊座の男の皮にすぎないということになる。

 ともかくも、ひとたび金羊毛を手に入れるや、メディアはジェイソンとアルゴー船の乗組員たちと共に逃げ出す。次の点に関してだけは、すべての伝承が一致している。すなわちジェイソンはメディアに結婚を約束したということである。メディアが後に犯すことになるすべての犯罪は、ジェイソンのこの偽りの宣誓によって弁解、ないし少なくとも説明される。ジェイソンについていくために、彼に勝利をもたらすために、メディアは父アエテスを裏切り捨てたばかりか、脱出の際に実兄アプシルトスを人質にとり、父の追跡を遅らせるためにためらうことなく彼を殺し、切り刻んでばらばらにしたのである。

Saturday, January 06, 2001

pour A. A.(k00640)

 個人としての浅田彰や彼の軽口、また彼個人に対する陰口にもまったく興味はない。誰にでも好きなライフスタイル・性向を選び取る権利があり、軽口を叩く権利があり、それに対してまた便所の落書きのような陰口を叩く「権利」があるといったことにすぎない。依然として私の興味を引き続けるのは、浅田彰的あり方、「可能性の中心」としての浅田彰である。

 私は以前、柄谷と蓮実がそれぞれドゥルーズとデリダに似ているとすれば、浅田彰はフーコーに、それもカント的フーコーに似ていると言った。ここ数年来の彼の発言は、「ポストモダン的記号の戯れを経て、もう一度大文字の理念を」という観念に集約されるように見える。『フーコー思考集成』で彼が監訳者として選び取った巻は、文字通りこのような彼の姿勢の表れである。(残念ながら、現段階で私がフーコーについて言いうることの全ては決定的・最終的なものからは程遠い、ということをあらかじめ認めざるをえない。)

 だが、それにしても、かつて浅田彰自身がドゥルーズについての討議の中で言った言葉、「僕はどちらかと言えばガタリに近い」は、考慮されていい言葉である。ガタリは、ある意味ではドゥルーズ以上に、概念を生産する機械、概念製造機の純粋な形象である、と言うことが出来る。ドゥルーズが概念機械の操作技師であるとすれば、ガタリは概念機械そのものである。そのような概念製造機としての浅田彰を彼自身のうちに見出すことは可能であろうか。この問いに答えるためには、ここで我々は少し立ち止まって、「概念製造」「概念の生産」とは具体的には何をすることなのかと問わねばならない。

 比喩に溺れず、言葉に絡めとられず、言葉を通して思考対象の機能のみに注目すること、いわば言葉における唯物論を堅持しつつ思考を展開することである、とひとまず言っておこう。 暴力的要約によって一種の寓話を物語ってみせることは、翻訳・要約・配置を一挙に行なうことである。過剰な圧縮は、対象を変成させる。一例を挙げよう。『世紀末文化の臨界』の中でクロソウスキーとバタイユを対置する時彼が行なっていることが概念操作でないというなら、ドゥルーズが例えば『サドとマゾッホ』で行なっていることは全て概念的ではない。無論、両者に展開の大小の違いはある。だが、デリダとのように質の差異はない。したがって我々は、浅田彰に概念操作の萌芽を、いわば死産した概念とでも言うべきものを見る。何故なら彼は彼の概念たちのその後の行く末を一向に気にかける風もないからだ。だが、展開が小さいからという理由で評価されないということになってはならないだろう。いずれにせよ日本という枠内で見た場合、それだけでもすでに大したことなのだから。

 嗚呼、私は少しはこの問題に関する自分の考えを推し進めたつもりであったのに、ふと気づいてみると、5月27日の00452で言っていたことを下手くそに(具体的論証の部分を切り捨てて)圧縮し、別の角度から言い換えたにすぎないということに気づく。00453のsさんの指摘にもきちんと答えられてはいない。くたびれもうけか…しかし、手仕事!


(以前書きかけた関連事項)2. 浅田の東浩紀的存在への影響という場合、まずは「東的存在」とはどのようなものであるのか規定されている必要があります。

 (*東浩紀個人について)東浩紀が今後どのような軌跡を描いていくのかには幾分悲観的にならざるを得ないところがあるように思います。私は第一作の『存在論的、郵便的』を、ほとんど滑稽な文体模倣の域を出ていなかった中期デリダ研究を刷新すべく理論的な読解を試みた野心作として今でも評価していますが、第二作の『郵便的不安たち』については、「こんなにも頑張っている僕」といったような自己言及の目立つ、彼の言うところの「営業」的な著作であるという点で、他に見るべき点がないわけではないにもかかわらず、総体としての評価は否定的です。おそらくは『構造と力』の次に『逃走論』という小文・対談集を出した浅田を意識しているのでしょうが、いったん狭義の専門以外の学問的な領域の外に出て素手で勝負するとなると途端に足腰の弱さが露呈してしまったという印象を受けます。

しかし、それはともかくとしても、東浩紀の出現は、少なくとも我々の世代にとっては計り知れない意義があります。たしかに「世代」などというのは怪しげな一般観念ですが、しかし事実として、棒高跳びで、不可能と言われていた記録をいったん一人が偶然にでも乗り越えてしまうと、次々とその記録を乗り越える選手が現れてくるように、「東浩紀現象」は我々の年代の者に一定の効果を及ぼし始めていますし、現に今も及ぼしていることでしょう。

 1)「暴力的な要約」を語り口の中心に据えていること。その際、柄谷との差異は、議論全体への目配りが議論の細部への配慮より優先し、全体として簡潔にすぎ性急な印象を読むものに与えもするという点、また、このことと一見矛盾するようだが、議論全体を支える根拠となる情報の列挙・提示については柄谷以上に神経質になるという点にある

 2)ジャーナリズムとアカデミズムの間をすり抜けていこうとする代償ないし(好意的に言えば)成果であるこの神経質は、主題の扱い方にも現れている。一応デリダについての「専門的」な「研究書」と言える『存在論的、郵便的』の著者とは逆に、実際、柄谷は(浅田もそうだが)一つの主題・一人の思想家について「大きな物語」を作ったことがない。『マルクスその可能性の中心』は言うに及ばず、『終焉をめぐって』にせよ、『漱石論集成』にせよ、事後的に一冊の書物となった著作に整然とした体系の体裁を与えようという意図は、あるとしても、成功していない。

 3)新たなメディア媒体への、柄谷以上の関心。その関心が常に仕事の本質的な一部をなしているという点で柄谷とは大きく異なる。(続く)

書き足りないところや、不正確な表現も多々ありますが、ひとまず書けたところまで送ってしまいます。

Thursday, January 04, 2001

フェチへの道(3)「フェティッシュ」の歴史

「フェティッシュ」という語の起源と「フェティシズム」という概念の発明

 「フェティッシュ」という語は、ポルトガル語のfeiticoから来ている。このfeitico自体は、「人工の」を意味し人間の巧みと自然との共同制作物であるものに適用されるラテン語のfacticiusに由来する。その自然でないほうの[人間に関わる]構成要素において、このポルトガル語は、「作られた」ないしは「偽の」「後から付け加えた」あるいはさらに「模倣された」を意味する。feiticoという語における偽と作られたもののこの両義性は、実詞・名詞として用いられ、「妖術」という観念に行き着いたのであった。

 この語の起源はしたがってヨーロッパである。「フェティッシュ」は、15・16世紀にギニア及び西アフリカの諸民族・諸文明の崇拝対象や信心業に対して白人たちが与えた名である。

 「フェティシズム」という観念については事情が異なる。「未開」で「野蛮」な諸民族の宗教に関する一般理論の概念であるこの語は、ようやく1760年に、[ディジョンの議会の]議長シャルル・ド・ブロッスによって匿名で公刊された試論『フェティッシュな神々の崇拝について』の中に登場したに過ぎないのである。

 「フェティッシュ」という語の誕生と「フェティシズム」という語の登場とを隔てる期間には、当初ギニアというきちんと限定された文脈において精錬されていた「フェティッシュ」という観念が、普及と一般化の過程を経て、ついには「未開」で「野蛮」な諸民族・諸文明の全体に適用されるに至る、といった事態が観察され把握される。白人の植民地化の進展が、社会的・人間的進化の階梯の第一段階に割り当てられてしまった諸民族・諸文明の表象を理論的・イデオロギー的なレヴェルで等質化することを推進したのである。「フェティッシュ」という観念と「フェティシズム」という概念は、宗教の領域において、この植民地主義的イデオロギーに心地よいものであったはずである。「フェティッシュ」という呼称の下にヨーロッパ人たちが指し示した崇拝対象は、「他者」に関する白人たちの文化的先入観に従って社会的・知的原始性の一条件として現われるものに対応していたのである。

 したがって、18世紀にシャルル・ド・ブロッスが、人類の原始的崇拝と考えていたものを指し示すためにフェティシズムという概念を発明し用いたとき、彼の行なった理論的一般化は、発見と征服、そして近代的植民地化の過程全体においてヨーロッパで流通していた諸観念の普及の結果である。ド・ブロッスは、彼のフェティシズム理論において3つの要素をまとめて一つにしてしまっている。まず、古代の諸民族と現代の「野蛮」な諸民族とにおける宗教・慣例・習俗の合致という観念と共に、比較研究という方法がもたらす諸結果。次に、「野蛮」な諸民族の発見に端を発した、人類の起源に関する彼の同時代の喧しい議論の諸帰結。そして最後に、進歩というイデオロギーである。
(アルフォンソ・イアコノ著、『フェティシズム、ある概念の歴史』、原著5-7頁)


ファン・ダーレ、フォントネル、ベッカー:様々な信仰の合致、人間本性の一様さ

 フェティッシュという観念からフェティシズムという観念へと至る過程を理解するためには、17世紀と18世紀、すなわち史実の記述・説明から超自然的な存在(神や悪魔など)への依拠を取り除くことに努めた時代の哲学的思索の領域を考慮に入れねばならない。つまりホッブズあるいはスピノザが諸民族の宗教・信仰の起源の問題について議論し、オランダ人アントニウス・ファン・ダーレが1683年に―カトリック信者たちとの論争において―悪魔はいささかもoraclesの中心人物ではなく、oraclesはキリスト教の誕生以後、存在しなくなったなどと言うのは誤りであると書いていた、当時の文脈を考慮に入れねばならないのである。フォントネルは、オランダ語で書かれたこのファン・ダーレの著作の翻案に他ならない『oracles の歴史』を1686年に公刊して、ファン・ダーレの説の大々的な普及を確固たるものとした。ファン・ダーレとフォントネルの貢献は、歴史解釈の領域から悪魔を取り除いたことにあった。神学の対象と信仰に関する研究の対象との分離へと向かうきわめて重要な一歩が踏み出されたのである。信仰は、人間本性の振る舞いに関する研究の領域へと持ち込まれることになった。偽の信仰の原因に関する問題に対しては、これ以後は、人間本性の定義の諸限界の中で答えればよいことになったのである。したがって歴史解釈と哲学理論との間にある結合関係が築かれることになるだろう。この結びつきは18世紀の思想の典型をなし、比較研究の発展の二つの軸の一つを規定することになるであろう。人間本性とその一様な諸原理に関する定義は、空間的にも時間的にも互いに遠く隔たっている諸民族の種々の信仰・習俗・慣習の比較に関する理論的基礎となるであろう。

 もう一人のオランダ人、バルタザール・ベッカーは、『魔法をかけられた世界』と題して、古代の異教と「野蛮人たち」の宗教との比較分析を1691年に発表する。ベッカーの比較は包括的で、古代の諸民族と「野蛮」な諸民族の全体に適用されている。ギニアのfetissoは、アフリカやアメリカの他の「野蛮」な諸民族の(…)
(アルフォンソ・イアコノ著、『フェティシズム、ある概念の歴史』、原著7-10頁)

Wednesday, January 03, 2001

フェチへの道(2)広末(k00639)

(…)などと書いていたら、数時間を経た(同じ日の)今はすっかり(本当に雲ひとつない)青空が広がっている。リールの天気は変わりやすい。

>>isさん、了解しました。遠慮なく(笑)、やらせていただきます。

(承前) 教科書的おさらいを差し挟んで申し訳ないが、『ドイツ・イデオロギー』は、大きく三つの部分に分けることが出来る。

①全体の序論かつ後の二つの部分の理論的一般化と見なすことができる部分:
  (Ⅰ-1)序言、(Ⅰ-2)1.フォイエルバッハ。
②バウアーとシュティルナーを標的とする論争的部分:
  (Ⅰ-3)ライプツィヒ公会議、(Ⅰ-4)2.聖ブルーノ、(Ⅰ-5)3.聖マックス、(Ⅰ-6)ライプツィヒ公会議の終幕)。
③「ドイツ社会主義」ないし「真正社会主義」の批判的分析:
  (Ⅱ-1)真正社会主義、(Ⅱ-2)1.『ライン年誌』あるいは真正社会主義の哲学、  (Ⅱ-3)4.[2.と3.は失われてしまったようである] カール・グリューン著、『フランス及びベルギーにおける社会運動』(ダルムシュタット、1845年)、あるいは真正社会主義の歴史的記述。  (Ⅱ-4)5.「ホルンシュタイン出身のゲオルク・クールマン博士」あるいは真正社会主義の予言。

 バリバールは、この「構成」(呈示の仕方)

[expositionを訳者は「叙述」と訳しており、それは間違いではないが、筆者の言わんとするところを余すところなく伝えているか、という点で疑念を生じさせる訳語選択ではある。以下の引用の「構成」を「叙述」に戻して読まれると、先に私が「言葉の取り扱いが若干雑」といった意味を実感してもらえるであろう。私は決していい加減に人の翻訳を非難しているわけではない。]

に関して、次のように言っている。

 ≪ところで、『ドイツ・イデオロギー』の構成は、私がすでに指摘したように、ただ単にかなりこんがらかっているだけではなく、その点に関して人を誤らせるものなのである。その構成は、テクストが執筆された順序を逆にしてしまっており、論争的な部分を後の方に追いやり、まず手始めに、その導きの糸が分業の歴史であるような一般的な展開を提示する。≫(邦訳66頁)

 広末(ヒロマツと打ったら「廣松」ではなく、アイドルの名前が出た)の草稿研究も読んでいないので、執筆順序に関する事実関係はバリバールを信じることにして彼の論述を追うと、ここからマルクスのイデオロギー解釈に対する一般的な誤解(あるいは、マルクス自身の理解からは自由な解釈)が生まれてくるのである。

 ≪すると確かに、イデオロギーという概念は、「現実生活」すなわち生産によって構築される「基部」からの「上部構造」(この表現は少なくとも一度用いられている)という派生物に由来するように思われる。議論の本質的な部分は、社会的意識(Bewusstsein)の理論であるということになるかもしれない。この意識が依然として社会的存在(Sein)に依存したままであるにもかかわらず、ますますこの後者に対して自律的になり、遂には非現実的で「幻想的」な≪世界≫を、つまりは現実の歴史に成り代わる見かけの自律に恵まれた≪世界≫を出現せしめるに至る、といったことはいかにして可能になるのかを理解することが問題となっているように思われるかもしれない。そこから、意識と現実の間でそのような≪世界≫を構成する隔たり、新たな歴史の発展が意識を転倒させ、意識を生のうちに再統合することによって最終的に解消してしまうことになる隔たりが出て来るであろう。したがってそれは、本質的には、認識論の裏面を成す、誤認ないし幻想の理論であるということになるかもしれない。≫(拙訳)

 だが、今問題にしている草稿執筆の少し前の時点に[邦訳「我々に提示されている編集の手前に少し」は誤読。先に言及した「観念論の揚棄」参照のこと]遡ってみるならば、イデオロギーの問題構成が二つのはっきりと異なる問題の出会う地点に出現することが分かる。(以下次回)


 翻訳が下手な人は結局のところ、翻訳という作業を何か付随的・非本質的なものと捉え、「翻訳術」を学ぶことを疎かにしているがゆえに下手なのではあるまいか。しかし、翻訳術とは文章術に他ならないのだから、学者として必須の習得科目に数えられねばならないはずである。学者が修辞学を修めていることは、近世まで、すなわち近代的な大学制度が確立すると同時に専門細分化が始まる時代までは、(無論皆が一様に習熟したわけではないにしても)常識であったのではないのか(これは反語ではなく、純粋な質問です、isさん)。概して研究者に悪文家が少なくないことは洋の東西を問わないようであるが、教授資格を問う制度としては、フランスのagrégationはかなりいい(ドイツのHabilitationはどうですか、mgさん)。日本の中等教育も、感情の自由な発露など目指さずに、厳格なdissertation教育を導入すべきである。

たどり着かないということにたどり着く。(k00638)

 友人snに、ある翻訳の解説の一部となるべき次のような文章を書き送った。

≪今の日本の哲学界には、冒険者の向こう見ずな好奇心に喩えられるべき新たなパースペクティヴへの意志と、哲学的伝統の中に埋もれた興味深いものを見つけ出してくるためには労をも厭わぬという、いわば知的肺活量とでも言うべきものを兼ね備えた人物が欠乏している。

 一方で、新しい物好きは、新奇なものにすぐ飛びつくけれど、哲学的伝統への精通に支えられた知的筋力がないために、発展させるということが出来ない。著者の語彙をそのまま用い、著者の思想を得意げに振りかざす。まるでライオンの毛皮のように。「プラトン以来の西洋形而上学の伝統に対して、某は…」などと言ってみたところで、実はまるでその当の伝統を知りもしないのだ。毛皮をなでるように海を見渡し、新奇なものを見つけるや飽きるまで追いまわすけれど、深く潜ることが出来なければ、海の広さを充分に満喫したと言えるだろうか?新奇なものに飛びつくということと新たなパースペクティヴを持とうとするということは、似てはいるが非なるものである。

 他方で、伝統の中に埋もれすぎてしまった人々は、潜水病にかかってしまったのだろう、再び陸に上がって見る陽光を容易に信ずることが出来ない。海女には肺活量はある。だが、自分の持ち場しか見ていない。新たな日の光の下で海の広さを見晴るかすということを知らない。ちまちまと他人の研究にけちをつけることに汲々とするばかりで、少しも創造的なところがない。ところで、創造するとは、新奇なものを追いまわすということでは全くない。流行を追いまわす姿はいつの時代にもありきたりなものだ。だが、同時に言っておかねばならないことは、そう言って流行に背を向ける姿もまた、いつの時代にも見られるありきたりのポーズなのだということである。

 新しいものとは永遠に新しいもののことだ、とある哲学者は言っている。

 この『…』は、そのような二つの困難な課題を二つながらに克服した、稀な、それだけに翻訳する価値のある著作であると訳者は信ずる。≫

 これに対し、snは次のような返事を送ってくれた。

≪おれはどちらかと言うと身辺の流行に背を向けて生きている人種だ。これは一種のポーズなのだが、ポーズと言うだけでは言い足りない。それは生態のリズムと関係している。人間には皆大体よく似た、しかしよく見ると微妙に違う個々のリズムと言うものがある(後天的か先天的かは知らないが)。このリズムをあまり本調子から逸脱させると、その人間にはストレスが蓄積する。自分のリズムを知ること、そしてそのリズムを意識的に調律し、他のリズムとの間を測ること。ポーズはここに関係している。 なぜ流行はこんなにも大きく、背反のポーズさえもがステロタイプなのか。その原因と結果をともに引き取る全体主義とフォード主義の自己完結性、その強力さの証明とみるべきか。(だけではないだろうが) いずれにせよ、凡人はポーズをとる。重要なのはそのポーズに対する反省、批判的なまなざしだ。リズムをあまり大きく乱さない、乱されないことだ。

 おれはときどき山に登る。大抵は一人で歩くから、疲労の蓄積と注意力の低下はなるべく避けたい。特別なことはなくて、急がない、無理はしない、一定の間隔で休みを取り、水・食い物をこまめに取る。そうすると、日帰りなら大体10時間くらいは疲労なく歩ける。焦ったり、悲観的になると疲労は倍増する。ポーズをとってみる、変えてみる、大体こんなところだと言うリズムが分かってくる。山歩きの場合、リズムは年齢とともに変化するようだ。他の活動でも似たところはあるだろう。≫

 私たちは同じことを言っているのか、違うことを言っているのか。こんなちょっとした意見の隙間からも「手仕事」は始められる。

 ただ意見を交わすこと、一見無意味な単語の切れ端でさえも、そこにはじめて気づかれぬほどの風が立つ。波が起こる。ドゥルーズが対談について述べた否定的な見解の全てに賛同したうえで、にもかかわらず彼は決して意見を投げ付け合うことの意義までも否定したわけではなかった、ということを確認しておきたい(『ドゥルーズの思想』冒頭と『記号と事件』中のガタリとの共同作業についての記述)。

 対談は「大筋」を気にかけてしまう傾向がある。「ドラマタイズしてしまう」傾向がある。対談者たちは往々にして、話しての「言わんとすること」以外には、あるいは(モーゼス柄谷のような)もっとひどい場合には自分の言いたいこと以外には、話し手の笑いや身振りから立つ風には、ましてや席に着く時、席を離れる時に立つ「風」には注意を払わない。

 ここから道は二つに分かれる。「あなたたちは、「風」に注意を払うことをしません。風に注意を払うことこそが重要であるのに」と、話し手の身振りに十二分に注意を払っているという自分の身振りに神経症的にこだわれば、人はデリダになることができるし、他人にどう見えるかは二の次にして実質的に「風」にこだわりつづけ、そこから面白いものを引き出そうと努めれば、人はそのときドゥルーズ的であるだろう。

 この分岐はもちろん「生態のリズム」に由来するが、また同時に、デリダは(昔から私が主張しているように)本質的には「文学批評家」(critique litteraire)だということを示しているように思える。

 哲学者は概念を扱い、文学者は言葉を扱う。デリダがいくら「概念を機能させる」と言おうとも、その号令で踊りだすのは言葉であって概念ではない。一例を挙げよう。ドゥルーズは、音楽に関する講義の中で、ファルセットとカストラートを対比する。このとき彼が注目しているのは、両者の「機能」である。彼はそれらの描写がつむぎだす比喩に溺れない。

 一方、デリダは、確かに哲学のテクストにこだわる。一字一句の意味を検証していく。だが、本文・原文とそれらのデリダ自身によるパラフレーズ・ずらしが綾なす比喩のテクスチュアに彼は耽溺してしまう、あるいは耽溺してみせる。バルザックから盗用された「デリダ的スターシステム」とも言うべき、彼の著作群におけるテーマ系・概念の相互参照体系は、彼の概念の虚弱を隠蔽するのに役立つ。「私はこのテーマを別の場所でさらに展開し発展させている」等。

 人はそこにもっと本格的に展開されているのだろうと想像する。だが、当該個所を参照してみれば、やはり概念的には同レヴェルの漠然とした比喩の戯れがあるにすぎない。

 はっきり言おう。「遺産のテーマ系」、別に他のどのテーマでも構わないのであるが、それが一体どのような概念を機能させているというのか。「遺産とは、回帰してくるものを選択的に濾過して引き受けることである」。なるほど、それで?「遺産とは、単に我々が選び取れるというようなものではなく、我々に憑きまといそれを相続するよう迫ってくるものである」。なるほど、なるほど。

 しかしこういった言葉は全て、「遺産」という言葉が彼の頭の中に触発するイメージを記述したものに過ぎない。走り出したのは比喩であって、概念ではない。先ほど我々は、「風」という言葉から何がしかを思考しようとしてみた。それを「思考」と呼ぶことはできよう。けれどそれは明らかに概念の作動といったものではない。概念を機能させるとは、一連の比喩が織り成す巧まざる偶然に自ら感心してみせることではない。比喩の内容をいかに豊かに展開して見せようとも、その比喩の外側に出ることは出来ない。ただ別の比喩に出会うだけだ。

 さて、一つの比喩が尽きそうになったら、次の展開は読めている。「この遺産のテーマ系は、別のテーマ系と密接に結びついている、すなわち死のテーマ系、つまりは亡霊のテーマ系と」。比喩から比喩へ、どうりで分厚い本が出来上がる。こうして彼の「哲学」実践は、我々の眼から見れば内在的要請から必然的にそうなるのであるが、彼自身が「法の門前」で言っているように、「たどり着かないということにたどり着く」。うまい言い方ではあるが、たどり着いていないことに変わりはない。

 だが、文学研究においてテマティックは市民権を得ている。「これこれのテーマは、ここにも、あそこにも、見出される」、等等。私は、現に自分自身がしばしば試みる「思考」そのものを批判しているわけではない。デリダのそれは、文学研究としては(学生にとって模範的とは言えないかもしれないが)名人芸的テクスト読解として賞賛されるべきものである。私はただ、それは哲学ではないと言っているだけだ。

 デリダはおそらく自分が「正統的」哲学者であると主張するつもりは毛頭ないだろう。だから、私たちは意見の一致を見る。