≪挽歌。
――瞑想的生活の後退やときにはそうした生活の過小評価を伴ってくるということは、おそらく我らの時代の長所なのであろう。しかし我らの時代が偉大なモラリストに乏しく、パスカル・エピクテトス・セネカ・プルタルコスがもうほとんど読まれず、労働や勤勉――以前は健康という大いなる女神のお供であった――がときおり病気のように荒れ狂うかに見えるということは、率直に認めなくてはならない。思索のための時間も思索にある安らぎも欠けているので、人はもう相違する見解を吟味しない。それを憎んで足れりとしている。生活速度が恐ろしく増したので、精神も眼も半端なまたは間違った観察や判断に馴らされ、誰もが土地や住民を鉄道によって知る旅行者に似ている。
自主的な慎重な認識態度はほとんど一種の狂気として見下げられる。自由精神は悪評されている。特に学者たちによってだ。彼らは自由精神の物の見方に、彼らの深遠性や蟻の勤勉さが欠けているのを不満として、自由精神を学問の片隅に閉じ込めておきたがっている。ところが自由精神は、孤立した立場から学者・博識者の全召集軍を指揮して彼らに文化の進路や目標を示すというまったく別のさらに高い課題をもっているのである。――
今歌われたような嘆きは、たぶん止むときが来るであろう、そしていつか瞑想の精霊の堂々たる帰還に際して自ずから黙り込むであろう。≫
*
≪活動家の主要欠陥。
――活動家には通常高級な活動が、私のいわゆる個人的な活動が欠けている。彼らは役人・商人・学者として、つまり類的存在としては活動的であるが、はっきりときまった個々の、しかもかけがえのない人間としてはそうではない。この点から見れば彼らは怠慢である。
――彼らの活動がほとんどいつも幾らかは不条理であるということが、活動家の不幸である。たとえば、金を貯めている銀行家にその休みない活動の目的をたずねてはならない。この活動は不条理なのである。活動家は、石が転がるように、機構の無感覚性に従って転がっていく。
――あらゆる人間は、あらゆる時代と同様に、今でもまだ奴隷と自由人とに分かれている。なぜなら、自分の一日の三分の二を自分のために持っていない者は奴隷である。その他の点ではたとえ彼が政治家・役人・学者など何者であろうとしても同じことである。≫
*
≪閑人のために。
――瞑想的生活の評価が下がってきた印として、学者たちは今では一種のせかせかした楽しみを求めて活動家と張り合い、それでしたがってこの楽しみ方を、本来彼らに属しているような、そして事実はるかに多くの楽しみともなるようなやり方よりも高く評価しているかに見える。
学者たちは閑暇を恥じる。しかし閑暇や無為は高貴なものだ。
――無為が実際あらゆる悪徳の始まりであるならば、したがってそれは少なくともあらゆる美徳のすぐ近くにあることになる。暇な人間は常に、活動家よりまだましな人間だからである。
――だが、私が閑暇や無為ということで、諸君を指しているとはまさか思うまいね、怠け者の諸君?――≫(ニーチェ、『人間的な、あまりに人間的な I』、第5章、断章282-284)