Sunday, November 18, 2007

メモ

自分用のメモに。シンポジウムや講演などは新たな出会いの場である。教えてもらった情報を忘れないうちに書きつけておかないと。

1.PAMから勧めてもらった本を読むこと。生物学者たちが「生物の論理Logique du vivant」(ジャコブの本の原題)でなく「生命の論理Logique de la vie」に関心を持つようになってきている、その代表例として挙げてくれたが、はたして…?
Denis Noble, The Music of Life, Oxf. Univ. Press.

2.YKがドイツの生気論の歴史をフォローしたものとして教えてくれたのがこれだった。読まねば。
Timothy Lenoir, Strategy for Life.

3.MKが「オランダにはほとんどベルクソニアンがいないけれど」と言いながら紹介してくれたのが彼。
Jan Bor, thesis Bergson en onmiddellÿke ervaring (1990)
(Bergson and Immediate Experience)

Retired 2005 from Hogeschool (Polytechnic) van Amsterdam, Bor is interested also in art, (zen-)buddhism.

大国のベルクソン受容ばかり追うのは何だか…という気がしている。英仏独語、それは確かに大事なのだが、そこに留まって安穏としているのも何だか…。マイナー言語を母国語とする者としての問題意識を大切にしたいし、それを何らかの形で実践に変えていきたい。

フランス、ブラジルに発つので、ひと月ほど更新できなくなります。では、十二月中旬以降に。皆様もお体にはくれぐれもお気をつけて。

Sunday, November 11, 2007

悪い奴ら…誰が?

あまりにも忙しすぎる。事務作業で一日が終わる、そんな繰り返し。それでも、そんなときにこそ真価が問われるのだと自分に言い聞かせる。自分がイラついているとき、何かに、誰かにかこつけて爆発してみせることはあまりに容易い。

ymさん、fiさん、ご著書およびご研究、お送りいただき本当にありがとうございました。ぜひ参考にさせていただきます。



「奨学金削減」の記事を見たとき、この記事を思い出した。

生活保護不正受給、4年で1・5倍に増加…厚労省

3月6日1時52分配信
読売新聞

 2005年度の生活保護費の不正受給額は、前年度を約10億円上回り、約71億9000万円だったことが5日、厚生労働省のまとめでわかった。

 01年度(約46億7000万円)と比べ、約1・5倍に増加している。

 厚労省によると、件数も1万2535件で、前年度比で1624件増加。内訳を見ると、働いて得た収入をまったく申告していなかったケースが53・4%と最も多く、働いて得た収入を過少申告していたケースも加えると、63・5%だった。「各種年金などの無申告」も15・5%あった。

当たり前のことだが、不正受給を擁護しようというのではない。問題は、「不正受給」が増えてきたからという名目のもとに正当な受給そのものを削減するという手口である。なぜ事業予算そのものの削減なのか。なぜ不正受給防止策の練り直しではないのか。この件については、「善意を利用する者たち」(tours de babel, 2006年6月5日)も見ていただければ。


善意を利用する者たちを利用して、善意を盗みとろうとする人々がいつでもいる。そして、小悪を叩いて回ることに血道をあげ(反撃を恐れなくていいから)、巨悪に盲目な人々がいつでもいる。


財務省 奨学金事業の見直し検討 遊興費転用の学生増加で
10月29日8時33分配信
フジサンケイ ビジネスアイ

 財務省は28日、2008年度の奨学金事業予算を削減する方針を固めた。同事業費が年々増額を続ける一方で、奨学金を遊興費に転用する学生が目立ち、苦学生支援という奨学金本来の意味が薄れつつあるためだ。

 奨学生数は、07年度に全国の大学・短大生の3分の1に当たる114万人に達し、同事業予算も年々増加を続けている。同事業を所管する文科省は、08年度概算要求で奨学金関係予算で前年度比約210億円増の1439億円を求めた。

 これに対し、財務省は「苦学生でない人が同事業の対象に入っている」と指摘する。無利子奨学金に比べ審査基準の緩い有利子奨学金を含めると所得1344万円以下の世帯が対象となり、大学生などの子供を抱える世帯の約8割が条件に当てはまる。学力基準も緩く「手を挙げれば大体、奨学金がもらえる」(主計局)のが現状という。

 財務省の資料によると、奨学金を電話代や海外旅行費など勉学以外の目的に使う奨学生が増加する一方で、勉学費や書籍購入費は大幅に減少している。

 また、奨学生の増加に伴い奨学金が回収できなくなる例が続出。05年度末の時点では、14万件が不良債権化し、06年度には延滞債権総額が2000億円を超えた。旧育英会の奨学金事業を引き継いだ「日本学生支援機構」が回収を進めているが、06年度に扱った1万件のうち、約半数の4395件は居所不明などの理由で未解決のままだ。

 財務省は、この対策として「機関保証」の義務化などを検討している。機関保証は奨学生が毎月一定額の保証料を「日本国際教育支援協会」などの保証機関に支払い、返済が滞った場合、同機関が本人に代わり国に返済する制度だ。

 文科省は「事業費の不足で、貸与の条件を満たしていても奨学金を受けられない学生が毎年いるのが現状」として予算増額の必要性を強調するが、財務省は「納税者に説明できるとは思えない」としている。


奨学金予算削減へ 回収不能2000億円/遊興費に転用増え…
10月29日8時0分配信
産経新聞

 財務省は28日、来年度予算で文部科学省の奨学金事業予算を削減する方針を固めた。奨学金を遊興費に転用する学生が目立ち、苦学生支援という奨学金本来の意味が薄れつつあると判断している。奨学金を返さず、回収不能に陥った延滞債権総額も急増、平成18年度には2000億円を突破しており、財務省では新たな保証制度の義務化も迫る構えだ。

 文部科学省は来年度予算の概算要求で、奨学金関係予算として前年度を約210億円上回る1439億円を計上した。

 奨学生数は、19年度で全国の大学・短大生の3分の1に当たる114万人に膨らんでおり、奨学生数の拡大を背景に奨学金関係予算は年々増加している。

 ただ、財務省は奨学金が「必ずしも苦学生でない人も対象に入っている」と指摘。無利子奨学金に比べて審査基準が緩い有利子奨学金まで含めると、年間所得が1344万円以下の世帯が対象で、大学生などの子供を抱える世帯の約8割が条件に当てはまる。審査の学力基準も緩く「手を挙げた人はだいたい奨学金がもらえる」(主計局)のが現状だという。

 財務省によると、奨学金を電話代や海外旅行費など勉学以外の目的に費やす奨学生が増加傾向にある。これに対して勉学費や書籍購入費は大幅に減少しており、財務省は奨学金が勉学よりも娯楽に振り向けられているとみている。

 一方、貸し出した奨学金が回収不能に陥るケースも急増している。

 18年度には延滞債権総額が2000億円を超え、15年ほどで約3倍に膨らんだ。旧日本育英会の奨学金事業を引き継いだ日本学生支援機構が回収を進めているが、18年度に回収を行った1万件のうち、約半数の4395件は居所不明などの理由で未回収のままだ。

 このため、財務省は奨学生に対する機関保証の義務化などを検討している。奨学生が毎月一定額の保証料を日本国際教育支援協会など保証機関に支払うことで、返済が滞った場合、保証機関が本人に代わって返済する制度を導入することにより、同省は未回収リスクを回避できるとみている。

 文科省は「事業費の不足で、貸与の条件を満たしていても奨学金を受けられない学生が毎年いるのが現状」として予算増額の必要性を強調するが、財務省は「納税者に説明できるとは思えない」として削減方針を固めている。

Wednesday, November 07, 2007

哲学と大学と…余暇

ドゥルーズ・スピノザ研究者であるIzumiS/Zさんの11月5日付のブログ「大学における哲学教育をめぐる雑感」を読む。

まったくそのとおりである。最後は、自分の哲学する力を高めること、それに尽きる。それには静かな時間、孤独な時間が必要だ。社交からも、ブログからも解き放たれる時間。こうして一方に余暇の問題がある。

他方で、学校で教わること、「学び」の重要性がある。とりわけ現在の若手研究者が高度な研究を遂行していく上で必要な語学力――正確な読解力だけでなく、書き、話す力――を確実に養成する制度的枠組み作りには、大学別といった枠を超えて、日本の西洋哲学研究者全体で取り組む必要があるように思う。

余暇と学び、要するに伝統的な「スコラ」の問題である。

西洋の哲学研究者たちは、長期休暇を利用して思索を深め、研究を進める。学期中は丹念な教育活動とダイナミックな研究活動(学会・研究会)に忙殺されるからである。

私たちの国の大学は、それを許す環境にあるだろうか?

そもそも、長期休暇自体が短く、しかも休暇中にしばしば拘束される(私は「一流大学」の話ばかりをしているわけではない)。これは日本の社会全体が労働過多を容認しているからである。日本は「経済大国」だと思っている人は多いが、日本企業の実に多くの部分は「時間泥棒」をしてはいないか(最近のpenses-bêtesの一連の記事を参照のこと)。
「短絡的な考えがもたらす害の例の一つは、多くの教授たちは週六時間しか働かないという現在の認識である。野球選手が、打者としてバッターボックスに立つ時間によって報酬が決まるとは誰も考えない。

他の選手が走るのに、キャッチャーはしゃがんでいるからといって、報酬が他の人より少なくて当然とは誰も思わない。

スポーツの世界からもう一つ例をとれば、例えば、冬季オリンピックのフィギュア・スケートの相対的人気は、速さを競う他の種目とは違った意味をもっている」(レディングズ、『廃墟のなかの大学』)

膨大な量の事務作業は、大学教員の仕事なのか?サッカーにおける「ホペイロ」の役割を、日本で大学を論じる人々はもっと知るべきだ。
Jリーグ開幕前、僕が日本に戻ってきたとき、日本サッカーには本当に何もなかった。ある程度予想はしていたけど、さすがに少し戸惑った。ブラジルでは、ドクターやマッサージ師はもちろん、ホペイロ(ポルトガル語で「用具係」)や洗濯係まで、選手を支える各ポジションに「プロ」がいたからね。僕が加入した読売クラブ(現・東京ヴェルディ1969)は、当時の日本では、プロフェッショナリズムという点では一番進んでいたと思うけど、それでもクラブハウスはプレハブ小屋の域を出ていなかった。スパイクの手入れもユニフォームの洗濯も、みんな選手が自分でやるのが当然のことだった。(『カズの手紙』第27回、2005年7月7日付)
(日本人ホペイロ・プロ第一号である松浦紀典(まつうら・のりよし)さんに関する基本情報は、こちらこちらなど)


日本の大学の研究・教育環境の整備状況は、Jリーグ開幕以前的である。独創的な研究活動を行なうにも、丹念な教育活動を行なうにも、財政支援だけでなく、何よりも時間が必要である。

そのためにこそ、経団連や財務省の推進する「資本の論理」、その尻馬に乗る文科省の「エクセレンスの論理」「産学共同」ではない道、もう一つのパフォーマティヴを、哲学的に、模索する必要がある。時間泥棒の張本人が時間をもっと有効に使えと説教するとは!

古来から時間が哲学の特権的主題の一つであったこと、哲学が「余暇」との関係抜きに考えられないことを思い起こせば、「哲学と大学」を論じるにあたって、時間と哲学、時間の哲学が問題にならないはずはない。


国立大交付金/地方国立大学を守ろう
(『山陰中央新報』、2007年5月30日付論説)

 国立大学の運営費交付金の配分をめぐり、ホットな論争が続いている。経済財政諮問会議の民間議員からの提案がきっかけだ。成果に応じて配分される競争的研究費だけでなく、日常の人件費などランニングコストにあたる運営費交付金も各大学の成果を反映した配分としたらどうか、というのだ。

 運営費交付金は、国立大収入の約半分近くを占める。教員数など規模に応じて配分され、人件費や日常の教育・研究費など基盤的経費として使われる。大学法人化後は毎年度1%ずつ減額され、一方で競争的研究費の割合が高くなってきた。

 提案は、国際競争力を高めるため、基盤的経費の配分にも競争原理を導入し、資金の選択と集中を促そうというものだ。

 これに対し国立大側は、成果の見えやすい分野ばかりが評価されることになり、基礎研究や自由な発想による研究の芽がつぶされる、と反論。産業基盤の弱い地方大学や教育系大学の経営が困難になると主張している。

 資源の有効活用は必要だが、大学の役割を考えれば、ここは国立大側の方に説得力がある。「努力と成果に応じた配分」と言うが、大学は産業界の下請けではない。企業にすぐ役立つ応用研究ばかりに目が向くような一面的な議論では国の将来を誤りかねない。

 ノーベル賞につながるような問題発掘型の研究には、研究者の自由な発想が不可欠だ。長期に問題に取り組める土壌が必要で、基盤的研究費は欠かせない。

 教育という視点も忘れてはならない。教員養成など人材育成はそもそも競争になじみにくく、すぐに「成果」が見えるようなものでないが、大学の重要な仕事だ。

 財務省の試算によれば、競争的経費である科学研究費補助金の配分実績で運営費交付金を再配分すると、現在より配分が増えるのは東京大など十三大学だけで、七十四大学が減額となる。

 中でも、教員養成が目的の教育系大学の減額幅は大きく、現状の一割以下になるところもある。まさに「技術開発に取り組める人たちが申請した件数だけでお金を配分したら、将来の人材を養う基礎にお金が回らなくなる」(伊吹文明文部科学相)。

 試算では、交付金が半分以下になる大学が五十大学。鳥取大が60%、島根大に至っては70%以上の減額となる。文部科学省によると、半分以下となれば経営破たんは免れないという。民間議員からは「努力しない大学がつぶれるのは仕方がない」「全都道府県に国立大が必ず一つ必要なのか」との声もあるが乱暴すぎる。

 私大の多い大都市圏と違い、地方国立大の地域への貢献度は大きいものがある。医師や教員など地域を担う人材育成で重要な役割を担っている。都市と地域の格差が広がる中で、地域と密着した地場産業支援の役割を担えるところがほかにあるだろうか。

 授業料設定などに自由競争を持ち込む動きもある。だが「効率」だけでこの問題を切り取るのはあまりに短絡ではないか。研究面での独創をどう生かすか、人材育成や地域の主体性をどう支えるのか、地方分権への展望も含めた複眼的論議が絶対に必要だ。



地域格差を誘導する恐れ/国立大交付金減額

 財務省は国立大学法人(全国八十七大学)の運営資金として国が支出している「運営費交付金」について、競争原理に基づき再配分する試算を公表した。

 科学研究の成果等という一面で評価した試算で、全国の85%の七十四大学で交付金が減額されるという内容だ。そして50%以上の減額が弘前大学の68.7%など五十大学、50%未満が二十四大学になるとされた。教育系大学は悲惨な内容だ。

 国の財政改革という命題の中で、歳出削減が検討されたものという。一つの試算とはいえ、直線的な評価であり、大学間格差を助長し、ひいては地域格差を誘導する恐れのある机上の財政理論といわざるを得ない。

 国立大学法人が歳出削減の聖域とはいかない。しかし、財務省が示した試算が科学研究費の配分実績を尺度にしたことには、異論がある。わずかに東大、京大、東京工業大、東北大、北大など十三大学が増額されるだけ。これに対し、地方大学は脅かされる内容だ。

 こうした財務省の成果主義に対抗し、文部科学省は大学の地域経済に与える影響を検証し、弘前大学の四百六億円、雇用創出六千七百七十四人をはじめ、中堅大学が生み出す経済効果を試算。「大学の地域貢献を無視した(今回の)議論は、あまりに乱暴」と、財務省試算に反発した。国が教育再生を叫ぶ中で、多くの大学も同様だろう。

 科学研究とはいっても、地方の経済基盤は脆弱(ぜいじゃく)で、大学の産業振興研究(シーズ)への企業参加は極めて少ない。そもそも中央との格差は、歴然としている。

 一方で、大学の役割には教育、研究、地域貢献がある。科研費のみを指標に大学を測り、地方切り捨てにつながるシミュレーションに、真に合理性や総合的見地があるのだろうか。

 弘前大学の二〇〇七年度予算をみると、予算総額はざっと三百六十億五百万円。約半分は総人件費に充てられる。歳入は付属病院収入百数十億円を見込み、国からの運営費交付金が約百二十億円。これに授業料、検定料、入学金などが加わる。大学の経営に、運営費交付金がいかに寄与しているかがわかる。

 時期は示されていないが、仮に試算通り68.7%、約八十億円もの減額なら総合大学の維持、経営は死活問題となる。

 いま、日本社会を少子化の大波が襲う。「大学全入時代」に突入するともいわれる。さらに、国は未曾有の財政赤字に苦しんでいる。大学間に競争原理を導入した独立法人化の狙いのその深奥には、こうした時代背景を基にした大学の再編・統合があるといわれる。もちろん、各大学は改革を積極的に進め、一層の努力をする必要がある。

 運営費交付金については経済財政諮問会議等でも、一部から見直し論や意見書が出された。弘大は二十五日夜、政府諸会議に対し遠藤正彦学長名で緊急声明を出し「人を育むための百年の計に真に耐えるものか疑いを持たざるを得ない」と批判した。

 試算について財務省主計局は「大学改革の一つの論議の中で、交付金配分ルールも論議への一つの材料」としたが、地方をよく見つめる必要がある。

Friday, November 02, 2007

哲学と大学(第一回)

「哲学と大学」第1回に参加してきた。楽しく刺激的な時間を過ごさせていただき、どうもありがとうございました。

とりわけynさんの活躍ぶりを間近に見ることが出来てよかった。あらためて「色んな分野で活躍している人たちというのは、やりたいこととやるべきことをきちんとやってのけているんだな」という思いを深くした。

討議での発言を幾つか拾っておこう(後記:討議についての報告が既にUTCPのHPに掲載されている。簡にして要を得た、見事なまとめである。この報告を読まれた後に、以下の文章を読んでいただくと、問題の所在が分かりやすくなるように思う)。

1.「宛先」の問題

こういった議論を始めるにあたっては、常に議論の「場」がどのように形成されているのかに注意を払わねばならない。言い換えれば、「ここにいない者」に注意を払わねばならない。

a(・女性)*女性はいらっしゃったので。
b・「崖っぷち弱小大学」(杉山幸丸)の存在
 *「一流大学」との両極だけでなく、中間層(例えば、地方大学)も考慮に、との声もあった。
c・自然科学・理工系の存在
 *自然(自然科学)と人間(人文科学)の間の社会(社会科学)も考慮に、との声もあった。
d・非西洋系の存在

この「宛先Adressat」の問題は、今回取り上げられたレディングズの『廃墟のなかの大学』についても指摘された。誰に向かって書かれているのか?大学人に向かって書いていていいのか。

a・性差などマイノリティの問題は、カルスタの勃興を通じて明瞭に意識されている。
・その一方で、「大学は従来、国民文化と強く結びついていたが、グローバリゼーション状況下でその結びつきが決定的に解消される」という図式が、例えば戦後日本にどれほど当てはまるのか、疑問が残る。言い換えれば、本書においては「文化」と「国民文化」がほぼ同一視されてしまっているように思えるが、果たしてそれは妥当か。この同一視は、日本のように大学の数がきわめて多い国における

b)大学と文化の関係、教育と研究の関係(大学に「文化=教養」を求めるのか、ノウハウ=各種資格を求めるのか)、
c)文科系と理科系の関係(文科系が圧倒的に多い)、
d)カルスタの現状

を分析する上で、見逃しえない影響を及ぼすように思われる。

2.『廃墟のなかの大学』の大枠

・批判的分析の部分(主に1~3章)および
・歴史的経緯の部分(主に4~9章)はおおむね的確と言えるが、
・積極的提言の部分(主に10‐12章)にはかなり不満が残る、 といった印象が共有されたように思う。

批判的分析に関して「的確」というのは、現状を客観的に分析するに際して、「エクセレンス」概念がそのイデオロギー的な性格を暴露するところまで徹底的に議論を進めることによって、この「空疎な概念」に批判的な射程をもたせたからであり、

「おおむね」というのは、その批判的射程が厳密に(とりわけ特殊日本的に)どこまで届きうるものなのか、未だ判然としないところも残るからである。

もう少し時間があれば議論を深めたかったのは、むしろ後半部について、とりわけ「不同意の共同体」や「大学をめぐる信の問い」の真の射程についてであった。

3.商業主義(commercialism)と消費者主義(consumerism)

 エクセレンスを量的一元化志向と捉えるとしても、大学によって追求するエクセレンスは質においても量においても異なる。研究における学問的エクセレンスを追求する姿勢が文科省によって奨励・推進されるという事態と、「即戦力」教育・資格取得を強調することで少しでも多くの学生を囲い込もうとする事態は、まったく同じ事態の裏表ではないように思われる。

では、前者は国際競争における生き残りを賭けた闘いであり、後者は少子化を踏まえ生き残りを模索する闘いであると定義できるだろうか。これについてはもう少し考えてみる必要がある。

エクセレンスの「本性の差異」に対して、あらゆる大学を貫く傾向、「差異の本性」として指摘できるのは、学生や学費を払う親を「消費者」として位置づける消費者主義の蔓延ではないだろうか。周知のように、オープン・キャンパスなどの試みはすべて、学生獲得競争の一端にほかならない。


企業の研究職社員、学士の3割期待外れ…文科省調査
10月30日13時42分配信 読売新聞

 研究職で採用した社員が「期待を上回った」と考える企業は1~2%程度にとどまっていることが、文部科学省の調査でわかった。

 「期待はずれだった」とする企業の割合も、大学の学部卒者(学士)で3割にのぼるなど、企業に利益をもたらす新規事業や新製品開発を担う中心的な人材として採用されながら、期待に沿えない企業研究者が相当数いることが浮き彫りになった。

 調査は今年2~3月、研究開発を行う資本金10億円以上の企業1791社を対象に実施。過去5年間に採用した学士、大学院の修士、博士の各課程修了者、博士号を取得済みの「ポストドクター(ポスドク)」の四つに分けて、研究者の資質などを聞いた。有効回答は896社。