今回の病気を通して学んだことが一つある。それは、回復するときには、マイナスが減っていって、ゼロになって治癒するといった「ゼロサム」ないし几帳面な収支見積もり型ではなく、マイナスは常にありつつも、それを超える猛烈な勢いで治癒が進む、どんぶり勘定型であるということ。少なくとも今はそう思っている。
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日曜日に学会発表を終えた。病気が徐々に良くなっているせいか、研究の「アベレージ」も徐々に回復してきている気がする。司会のnmさんと学会終了後も長いあいだ議論する機会を得て、今後別の出来事(イベント)に発展しそうな予感。
質疑応答での質問は主に三つ。Q1)ソレルへのベルクソンの影響は分かったが、ベルクソン側はどう受け止めていたのか?A)書簡集に答えの一半がある。
Q2)「資本の論理」と「資本家の論理」は違うとの指摘。A)まさにそのとおり。前者は後者に還元されないが、後者は広い意味で前者に含まれると考えているので、私は前者の表現しか用いていない。
Q3)ソレルのポイントは「生産者のモラル」にあるのでは?A)それは『暴力論』新訳の訳者の一人今村さんの解釈でもあり、1981年に出たArthur L. Greilの研究書(おそらく博論)Georges Sorel and the sociology of virtueの言う「徳の社会学」もその方向性である。
ソレルのこの側面をモラルと呼ぶか、徳と呼ぶか、あるいはベルクソン研究側の唯一まとまった研究であるアンドルーのそれ(「ベルクソンとソレル」)のように、宗教的・神秘的とするか、それを決定する要因を探すことには私は興味がない。私の言い方で言えば、『暴力論』はベルクソンの『二源泉』がそうであるように、「人はいかにして行動へと駆り立てられるか」という〈行動の論理〉を探究した書物であり、その意味で、行動へと駆り立てる個々の契機が道徳であれ宗教であれ、それ自体はさほど重要ではないと思うからである。それよりも私にとって重要だと思われるのは、ベルクソンとソレルが概念ではなくイメージと隠喩に依拠した同じ言語戦略――「言葉の暴力」とはその別名にほかならない――を意識的に用いていたということ、これである。ソレルが暴力の思想家だとして、それはプルードンの影響ではなく、ベルクソンの影響ではないかとすら考えたくなる。これが今回の発表のテーマの一つであった。
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土曜、学会後の懇親会には友人たちがまったくおらず、かなりがっかりする。が、それはそれ、気持ちを切り替えて、前々から話してみたかった人に話しかけたり、旧知の方々にご挨拶したり、となかなか有意義であった。日曜、上に同じ。最後は某出版社や先生方に連れられ、謎のジャズ喫茶に…。
一例。シュルレアリスム研究の俊英msさんに「シュルレアリスムにおけるアナロジーの機能」という質問をぶつける(ブルトンの)。私の発表を聴きに来て下さり、『水声通信』No.23:「シュルレアリスム美術をどう語るか」、2008年3/4月号 をいただく。
一例。バルザック研究の大家tkさんは実に気さくな方。《結婚の脱構築》の話を振ると、「結婚契約」論(彼は「結婚財産契約」と訳すつもりらしい。一見識である)を送ってくださるとのこと。
お二人とも、私のような見ず知らずの若者にも気取りなく接してくださる。やはり、こんな研究者になりたいもの。
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月曜日、宿怨の、いやいや、長い間頭痛の種であったゴーシェ翻訳、ふんぎりをつける。共訳者の(き)さん、本当にごめんなさい。
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火曜日、村上靖彦さんの新著『自閉症の現象学』(勁草書房、2008年)をいただく。いきなりリズム論が目に飛び込んでくる。私自身のrythmesure論をもっと深めないとと思い続けて、はや幾星霜…。
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5-6月の課題。
1)6月までに、昨年のコレージュでの発表原稿仕上げる(あと三日…)。
2)6月下旬のブラジル・シンポの原稿(あと三週間と少し…)。
3)某学会の投稿論文、6月末までに仕上げる(やれんのか…)。
Wednesday, May 28, 2008
Saturday, May 03, 2008
自分だけの部屋(a room of one's own)
「条件付きの大学」の発表を終えた。『条件なき大学』の批判的読解を展開した第一部にほとんどの時間を費やし、制度論の必要性を説く第二部にはごく簡単に触れることしかできず、現代フランスの幾人かの哲学者の著作に解決の糸口を見出す第三部には入ることもできなかった。
体調の悪さが聴衆に分からないほど「元気そう」だったというのは私のささやかな誇りでもあるのだが、体調は依然悪いまま推移しており、予定していた準備の三分の一程度しかできなかった。
***
「条件付きの大学」第一部から第二部への移行部分にタイトルを与えるとするなら、「自分だけの部屋」ということになるだろう。ヴァージニア・ウルフの有名なエッセイの出だしをこんな風に借用しつつ。
*
《哲学と大学という題目は、哲学および大学とはどのようなものであるかという意味かもしれませんし、あなた方もその意味で考えていらしたのかもしれません。あるいは、それは、哲学と哲学が紡ぎ出す大学論という意味かもしれませんし、哲学と哲学をそのうちに構成要素として含む大学という意味かもしれません。もしくは、これら三つが入り混じっていることを意味していて、あなた方は私にこの題目をそのように考えることを望んでおられるのかもしれません。
でも、この題目をその一番最後の最も興味深い意味で考え始めた途端、それには致命的な欠点があることに私は気付きました。決して結論に到達できないだろうということです。私は、講演者の第一の義務と自分で了解していること――つまり、一時間の講演の後で、あなた方がノートの頁の間に包んで暖炉の上にずっと保存しておけるような一塊の純粋な真理をお渡しすること――は到底出来ないでしょう。
私がせいぜいできることは、一つの小さな点についてある意見――すなわち、哲学が大学について考えようとするなら、《お金と自分自身の部屋》を持たねばならないということ――を述べるだけなのです。ということは、言うまでもなく、哲学の本質および大学の本質という大きな問題を未解決のままにしておくことになりましょう。私はこれら二つの問題について結論を出すという義務を避けたわけで――哲学と大学とは、私に関する限り、未解決のままなのです。
しかし、いくらかでも埋め合わせをするために、私がどのようにして《部屋とお金》についてこうした意見を抱くに至ったかをできるかぎりお話ししてみましょう。私にこうした考えを抱かせた次第を、あなた方の前で、できるかぎり丹念に率直に辿ってみたいと思います。この声明の背後にある色々な考えや偏見を洗いざらいお見せすれば、きっとあなた方はそれらが哲学にも幾分関わりがあり、また大学にも幾分関わりのあることがお分かりになるでしょう。》
体調の悪さが聴衆に分からないほど「元気そう」だったというのは私のささやかな誇りでもあるのだが、体調は依然悪いまま推移しており、予定していた準備の三分の一程度しかできなかった。
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「条件付きの大学」第一部から第二部への移行部分にタイトルを与えるとするなら、「自分だけの部屋」ということになるだろう。ヴァージニア・ウルフの有名なエッセイの出だしをこんな風に借用しつつ。
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《哲学と大学という題目は、哲学および大学とはどのようなものであるかという意味かもしれませんし、あなた方もその意味で考えていらしたのかもしれません。あるいは、それは、哲学と哲学が紡ぎ出す大学論という意味かもしれませんし、哲学と哲学をそのうちに構成要素として含む大学という意味かもしれません。もしくは、これら三つが入り混じっていることを意味していて、あなた方は私にこの題目をそのように考えることを望んでおられるのかもしれません。
でも、この題目をその一番最後の最も興味深い意味で考え始めた途端、それには致命的な欠点があることに私は気付きました。決して結論に到達できないだろうということです。私は、講演者の第一の義務と自分で了解していること――つまり、一時間の講演の後で、あなた方がノートの頁の間に包んで暖炉の上にずっと保存しておけるような一塊の純粋な真理をお渡しすること――は到底出来ないでしょう。
私がせいぜいできることは、一つの小さな点についてある意見――すなわち、哲学が大学について考えようとするなら、《お金と自分自身の部屋》を持たねばならないということ――を述べるだけなのです。ということは、言うまでもなく、哲学の本質および大学の本質という大きな問題を未解決のままにしておくことになりましょう。私はこれら二つの問題について結論を出すという義務を避けたわけで――哲学と大学とは、私に関する限り、未解決のままなのです。
しかし、いくらかでも埋め合わせをするために、私がどのようにして《部屋とお金》についてこうした意見を抱くに至ったかをできるかぎりお話ししてみましょう。私にこうした考えを抱かせた次第を、あなた方の前で、できるかぎり丹念に率直に辿ってみたいと思います。この声明の背後にある色々な考えや偏見を洗いざらいお見せすれば、きっとあなた方はそれらが哲学にも幾分関わりがあり、また大学にも幾分関わりのあることがお分かりになるでしょう。》
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