大学のグランド・デザインに直結する今回の事業仕分けですら、恥ずかしながら、新聞で読んだ程度で、詳しく調べることはしなかった。もちろん言い訳はいくらでもできる。体調がすぐれない中で、私は私なりに教育と研究に全身全霊を傾けているつもりである。だが、そういうことが問題ではないのだ。
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無邪気な無関心(研究・教育が忙しいので…)、怠惰な無関心(自分はもう「一丁上がり」だし関係ないから)、ニヒリズム(どうせそんなこと知ったって…)は、政治的去勢の裏返しである。また逆に、ポスドクという不安定な状況にいることを強いられているにもかかわらず、大学問題を理論的に考察しようとせずに、ただルサンチマンを養殖しているだけの人々(「なんであの程度のやつが就職できて、自分が…」)も問題である。大学就職後の無関心と、就職前の無関心、大学の人文科学研究は二つの無関心の挟み撃ちに遭っている。
理系の著名な科学者たちが声を大にして発言していることはメディアでも伝わってきた。おそらくメディアが伝えていないだけで、文系の著名な科学者たちも積極的に発言しているに違いないが、私は寡聞にしてあまり知らない。
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仲間が、とりわけ優秀な仲間がいて、共に考えるよう誘ってくれるというのはとても幸せなことだ。現在、UTCPを中心に幅広い活躍を続けている西山雄二さんは、大学と人文科学の問題をここ数年、哲学的な仕方で追究されてきた方だ。
彼が最近書いた二つの小文と一部抜粋をご紹介しておきます。
・【現場報告】大学の未来像 ― 行政刷新会議「事業仕分け」
私的関心に引きつけると、会場では人文社会科学に限定した議論もなされた。人文社会科学系の研究者は研究教育の必要性を語る言葉をもつように促されている が、さらに高等教育の政策論まで見据えた展望や論理を磨き上げることも大事だ。私たち人文社会科学系の研究者は学問と社会をつなぐ言葉や理念をどの程度 もっているだろうか。大学に対して経済合理主義的な評価がなされる現実を前にして、私たちの現在と未来を包み込むような説得的で実効的な理念をどの程度 もっているだろうか。
・国家と人文学――「新しい教養」の行方
最後のセッションだけあって、質疑応答は白熱し、「評価をどう考えるべきか」「国家との関係において大学とは左翼的なものであるのか」「フィクションの権利の危険性をどう考えるのか」といった質問が相次いだ。なかでも、「日本でも韓国でも一部の大学のみが国家から資金援助されて、残りの大多数の大学や学生 は貧しい状態で喘いでいる。この格差を私たちはどう考えるのか」という問いが印象的だった。大学論に必要なことは、大学が多種多様な現実で構成されていることを自覚し、モノローグ的な「私の大学論」の誘惑に陥らないことである。大学に関係する者はまず自分の限定的な立場を自覚することで、大学を批判的な公共空間として創造することができるだろう。*
「自分の大学」のことを考えようとしている人はたくさんいる。自大・自学部・自学科・自専攻の維持・発展(弱小私立大学の場合には、その前に「生き残り」)を願って、大変な役職を引き受け、煩雑な委員会活動を誠実かつ真摯にこなし、大学の運営に携わっておられる方々はたくさんいらっしゃる。それはそれでとても大切なことだが、それはごく限定的な自己防衛本能にすぎないとも言える。
「大学というものそのもののありようはどうなのか」という問いになると、とたんに腰が引けてしまう。あの無邪気な常套句「大学なんか潰れても哲学(文学研究)はやっていける」は、実は思想的な弱腰の裏返しにすぎない。「大学なんか潰れても自然科学はやっていける」などと言っているまともな自然科学者がどこにいるだろう。はっきり言ってそれは「核戦争で文明が破壊され尽くしても、人間は生き残る」というのと同程度の真理性しかもたない。
哲学が真理の探究であると同時に、真理を探究する者をどう育成するかという教育の問いでもあり、制度をめぐる政治的な問いでもあるというのは自明のことだ。哲学・教育・政治の三位一体である。この三つ組がアクチュアリティへの対応・適応を越えて、反時代的なものに自らを高めねばならない(何度でも言うが、反時代的とは反動的・保守的ということではない)。
問題はここにある。「無関心」とは端的な無関心だけを指すのではない。表面的には(自分の意識としては)大学に関心をもっている「自己保存欲」、アクチュアリティに追従しているにすぎない右往左往の対応もまた、病根の深い「無関心」なのである。
大学をめぐる問題は、大学の中のこの広義の「無関心」と闘い、大学人に自覚を促しつつ(これがとても大変な作業であることは重々承知したうえで)、大学の外や周囲にいる人々と共に考えていくのでなければならない。
絶えず頭をもたげ、優勢を占めようとする自分の「無関心」と闘い続けること。