Tuesday, May 31, 2011

空回り

最近、何もかもうまくいかない。フランスからの帰国直前から体調を崩し、アトピーが悪化。何も手につかないまま、即座にレスを要求される仕事を、ただずるずると引き伸ばし、周りに迷惑を掛け続けている。

その挙句に、ついに今までしたことのない失敗を犯してしまった。論文集の原稿を「落として」しまった。最後の締切に間に合わなかったのである。これまでおぜん立てをしてくださった皆様に本当に申し訳ない。

自分としても、これまで考えずに放置してきた大きな問題について、考えをまとめる願ってもないチャンスだったのだが、精神的・身体的不調によって断念せざるをえなかった。

また、それとは別に、フランス語で書いた論文を論文集に載せてもらおうと打診したら、その論文集も締め切ったところだった。

他にもいろいろ悲しいこと、嫌なことが重なり、どうしようもない。

ポスター



Friday, May 20, 2011

6/18国際シンポ「制度と運動――哲学の権利をめぐる問い」



連続国際シンポジウム「福岡でフランス哲学を!」第3回

《制度と運動――哲学の権利をめぐる問い》

日時:6月18日(土)10時‐18時

場所:九州産業大学15号館15103教室(詳細はこちら

アクセス:

 電車:JR鹿児島本線・博多駅から上り普通電車で約15分、「九産大前」駅下車、徒歩約1分

 バス:天神バスセンター(1番のりば)から都市高速経由で約20分→「産業大学南口」下車、徒歩約2分

主催:九州産業大学 国際文化学部 藤田研究室(お問い合わせは、hfujita[at]ip.kyusan-u.ac.jpまで)

***

第一部:映画上映「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」(西山雄二監督)

 約90分程度の上映時間を予定しています(10:00-11:30)。上映後、シンポ発表者による討論、観客からの質疑応答の時間があります(11:30-12:30)。


第二部:シンポジウム「制度と運動――哲学への権利をめぐる問い」(14:00-18:00)

発表はフランス語およびドイツ語(発表の翻訳配布、質疑は通訳あり)

講演者紹介

アルノー・フランソワ 「シンポジウムとは何か」
1978年生まれ。トゥールーズ第二大学准教授。ベルクソン『創造的進化』の校訂版編者として著名(2007年)。著書・編著に『ベルクソン『創造的進化』を読む』(2010年)、『ベルクソン、ショーペンハウアー、ニーチェ。意志と真理』(2008年)や小著ながら要を得た『ベルクソン』(2008年)などがある。若くして、ヨーロッパ圏における人文科学研究者養成のためのフランス語圏組織(OFFRES)語の共同代表、エラスムス・ムンドゥス・マスター「ユーロフィロソフィー」コーディネーター、国際ベルクソン学会書記などを兼務。


後藤正英(ごとう・まさひで) 「大学の教養教育における倫理と宗教」
1974年生まれ。佐賀大学文化教育学部准教授。近代ドイツ哲学、近代ユダヤ思想。共著に『ユダヤ人と国民国家』(岩波書店、2008年)や『グローバル・エシックス』(ミネルヴァ書房、2009年)など。論文に「シュトラウスとローゼンツヴァイク ―20世紀ユダヤ哲学の系譜― 」(『思想』岩波書店、2008年12月号)、「スピノザ『神学政治論』からメンデルスゾーン『エルサレム』へ」(『スピノザ―ナ』第11号、2011年)など。翻訳:シェリング「自然哲学体系への草案序説」(『シェリング著作集1b』、燈影舎、2009年)など。


西山雄二(にしやま・ゆうじ)  「哲学の/と無償性La gratuité de/et la philosophie」
1971年生。首都大学東京准教授。国際哲学コレージュのプログラム・ディレクター。著書に、『哲学への権利』(勁草書房、2011年)、『異議申し立てとしての文学――モーリス・ブランショにおける孤独、友愛、共同性』(御茶の水書房、2007年)、『哲学と大学』(編著、未來社、2009年)。ジャック・デリダ、モーリス・ブランショ、カトリーヌ・マラブー、ジャン=リュク・ナンシーなどの著作を翻訳。


藤田尚志(ふじた・ひさし)  「フランスにおける哲学と大学」
1973年生。九州産業大学講師。専門はフランス近現代思想。研究プロジェクトとして、「哲学と大学」と「結婚の形而上学とその脱構築」を進めている。共著に『哲学と大学』(未来社、2009年)や『ベルクソン読本』(法政大学出版局、2006年)。論文に「ドゥルーズか、ベルクソンか―何を生気論として認めるか」(『思想』岩波書店、2009年12月号)、「言葉の暴力―ベルクソン哲学における比喩の問題」(『フランス語フランス文学研究』第92号、2008年)など。日本フランス語フランス文学会2010年度学会奨励賞受賞。

Saturday, May 07, 2011

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©National Geographic



©National Geographic










Tuesday, May 03, 2011

「絶対的な正義」とは何か(ビンラディン暗殺の日に思う)

どのような美名や名目の下でも、暗殺は暗殺である。

やなせたかし氏 日本人の正義とは困った人にパン差し出すこと

NEWS ポストセブン 5月3日(火)16時5分配信


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やなせたかし氏 日本人の正義とは困った人にパン差し出すこと
アンパンマンとやなせたかし氏
コラムニストの石原壮一郎氏は、震災直後、事務所で付けっぱなしにしていたラジオから『アンパンマンのマーチ』が流れてきたのを聞き、思わず落涙した。そ して自分がレギュラーを務めているラジオ番組の企画で「被災者を元気づける曲」として、この曲を躊躇わずイチ押ししたという。なぜそれほどまでに心を揺さ ぶられたのか。

「震災で被災地の悲惨な状況を見て心を痛めたり、原発事故で不安を感じたり、モヤモヤとした複雑な感情が入り交じっていたと思うんです。その中でこの歌 が、たとえいろいろなことがあっても人は生きて行かなくてはならないんだということを教えてくれました。漠然とした生きる事への不安に対して、それでも生 きていけと励ましてくれたのです」

人々を勇気づけるこの歌はどのように誕生したのか、どのような想いが込められているのか。自ら作詞を手がけた「アンパンマン」作者で今年92歳、漫画界の大御所やなせたかし氏に、ノンフィクション・ライターの神田憲行氏が聞いた。

* * *
やなせ:「アンパンマン」を創作する際の僕の強い動機が、「正義とはなにか」ということです。正義とは実は簡単なことなのです。困っている人を助けるこ と。ひもじい思いをしている人に、パンの一切れを差し出す行為を「正義」と呼ぶのです。なにも相手の国にミサイルを撃ち込んだり、国家を転覆させようと大 きなことを企てる必要はありません。アメリカにはアメリカの“正義”があり、フセインにはフセインの“正義”がある。アラブにも、イスラエルにもお互いの “正義”がある。つまりこれらの“正義”は立場によって変わる。でも困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても国が違っても 「正しいこと」には変わりません。絶対的な正義なのです。

やなせ氏は第二次世界大戦では砲兵として中国に駐留していた。大東亜共栄圏の美名のもと「正義の闘い」だと信じていたものが、戦後、侵略戦争だと知った。 「天皇陛下万歳」と叫んでいた者たちが「民主主義」に走り去っていく姿も見た。全ての正義が相対化されていくなかで、絶対的な正義とは何か考えていって、 突き当たったのが飢えに苦しんだ兵隊時代の記憶だった。そこから「自分を食べさせて人を救う」ヒーローが生まれた。

やなせ:うん。だから正義って相手を倒すことじゃないんですよ。アンパンマンもバイキンマンを殺したりしないでしょ。だってバイキンマンにはバイキンマン なりの正義を持っているかも知れないから。それに正義って、普通の人が行うものなんです。政治家みたいな偉い人や強い人だけが行うものではない。普通の人 が目の前で溺れる子どもを見て思わず助けるために河に飛び込んでしまうような行為をいうのです。ただし普通の人なので、助けに行って自分が代わりに溺れ死 んでしまうかも知れない。それでも助けざるを得ない。

つまり、正義を行う人は自分が傷つくことも覚悟しなくてはいけない。今で喩えると、原発事故に防護服を着て立ち向かっている人々がいます。自分たちが被爆 する恐れがあるのに、事故をなんとかしなくてはという想いで放射能が満ちた施設に向かっていく。あれをもって、「正義」というのです。怪獣を倒すスーパー ヒーローではなく、怪獣との闘いで壊された街を復元しようと立ちあがる普通の人々がヒーローであり、正義なのです。

――未曾有の国難といわれています。日本は復興できるのでしょうか

やなせ:(笑みを浮かべて)出来るのに決まってるじゃないか!あの戦争だって日本は焼け野原になって、原爆をニ個も落とされて人が何十年も住めないと言わ れたんだよ。それがあそこまで復興できたんだから。日本人は粘り強く、正しく立派に生きている人たちです。間違いなく復興できますよ!

やなせ氏は震災直後に1000万円を寄付し、さらにグッズの売り上げを寄付にする活動を継続中である。

「被災地の子どもたちがアンパンマンが助けに来てくれると思ってるらしいんだ。だからこうして活動していると知ると、喜んでくれるんじゃないかと思うんだ」

取材後、私(神田)が仙台で被災した従兄弟に小さな子どもが2人いることを話の流れで言うと、やなせ氏は目を見開いて「この事務所にあるオモチャどれでもいいから持って行きなさい。送って励ましてあげなさい」と言ってくださった。秘書の方が丁寧に選んで手渡してくれた二つのオモチャを持つだけで、帰り道の 私の気持ちは温かくなった。

DG情報

Séminaire Deleuze et Guattari
CIEPFC ENS UlmAnnée 2010-2011D’un mille ou mille et unième plateau ?Deleuze et Guattari : sémiotique et politique
Prochaine séance : le 7 mai 2011, de 14h-17h, Ens, 45 rue d'Ulm, Paris, salle Weil
Arnaud Villani


Guattari, L'inconscient machinique (Recherches, 1979, rééd. 2010).Deleuze et Guattari, Mille Plateaux (Minuit, 1980).

Politiques de l'imageAprès avoir l’an dernier travaillé sur les politiques de l’image à partir de Deleuze, de Guattari et de Deligny, nous reprenons cette année la lecture de Mille plateaux (1980), en la croisant avec L’Inconscient machinique de Guattari. Il s’agira de préciser les rapports entre sémiotique et politique, en poursuivant le dialogue avec les sciences sociales, la critique du structuralisme, l’attention aux agencements machiniques.BibliographieGuattari, L'inconscient machinique (Recherches, 1979, rééd. 2010). Deleuze et Guattari, Mille Plateaux (Minuit, 1980).Deligny, Oeuvres (éd. de l'Arachnéen, 2007) et L'Arachnéen (éd. de l'Arachnéen, 2008). Programme des séances 2010-2011
Les séances ont lieu le samedi de 14h à 17h, à l’ENS, 45 rue d’Ulm,Samedi 2 octobre 2010 Salle PasteurSamedi 13 novembre 2010 Salle WeilSamedi 11 décembre 2010 Salle BeckettSamedi 8 janvier 2011 Salle WeilSamedi 5 février 2011 Salle WeilSamedi 5 mars 2011 Salle WeilSamedi 9 avril 2011 Salle WeilSamedi 7 mai 2011 Salle WeilSamedi 4 juin 2011 Salle Weil