Saturday, March 31, 2012
お詫び
30日、31日は学会および研究会があり、ぜひ行きたかったのですが、2月初旬に再発した病気がまだ全快とは言えず、みなさまにお会いできる状態ではなかったので、今回は残念ながら見送ることに致しました。ご迷惑をおかけした方々には心よりお詫び申し上げます。hf
Friday, March 30, 2012
Thursday, March 29, 2012
エリー・デューリング「行為とイデア:バディウとコンテンポラリーアート」
エリーお得意の美学エッセイ、バディウ編。
« L’Acte et l’Idée : Badiou et l’art contemporain »
Elie During
« L’ACTE ET L’IDÉE : BADIOU ET L’ART CONTEMPORAIN »ELIE DURING (Université de Paris Ouest-Nanterre)
Version modifiée d’un texte paru dans Autour d’Alain Badiou, I. Vodoz et F. Tarby (dir.), Paris, Éditions Germina, 2011, p. 57-79.
全文はこちらから。私の興味は「同時代性」の分析にある。
C’est du moins ainsi que j’interprèterais le régime contemporain de l’art, tel que le constitue le discours critique : comme une perversion du schème moderniste exposé par de Duve à partir du cas exemplaire de Duchamp. Ce raccourci, notons-le, présente l’avantage de ne pas recourir à la fable postmoderne de la fin des « grands récits ». Il permet aussi de tenir à distance l’interprétation peut-être trop charitable du « n’importe quoi » comme affirmation d’un art sans qualité, promotion du quelconque sous la grande équivalence Art = Vie. L’indiscernabilité de l’art et de la vie – trop rapidement assimilée à une indiscernabilité entre art et politique – est une proposition ruineuse pour l’art si elle se confond avec une simple esthétisation du quotidien [4] ; maintenue dans sa forme pure, comme stratégie de l’imprésentation, elle risque de conduire à sa dissolution sous la forme d’un activisme de l’opération furtive ou d’une mystique du désœuvrement, de sorte que se repose tôt ou tard la question de savoir comment instituer une scène de l’acte artistique qui maintienne l’évidence de l’art sans le faire basculer dans un histrionisme généralisé.
De cette affaire, Badiou retient l’essentiel, à savoir le primat de l’acte artistique comme puissance absolue de commencement, concentré dans le présent de son effectuation [5]. L’affirmation du présent comme mesure du réel, aux dépens de la sédimentation historique des formes et des codes légués par la tradition, explique que le geste artistique privilégié soit celui de la rupture, inséparable de l’institution du nouveau. La fonction du manifeste est d’inscrire formellement ce geste, de déclarer la nouveauté [6]. Il est certes tentant, de ce point de vue, d’assimiler l’acte artistique à un acte de langage, suivant un schème performatif qui semble s’accorder naturellement à la forme vide de l’impératif catégorique. Badiou ne va pas jusque là. Mais il est clair que si l’acte peut s’émanciper de l’objet et s’identifier, à la rigueur, à de simples gestes, voire à des « attitudes », il faut que l’art se soutienne constamment d’énoncés qui le manifestent dans le champ des productions culturelles. Quitte à ce que ces énoncés deviennent des « formes » travaillées pour elles-mêmes (comme on l’observe avec Fluxus, ou dans certains avatars de l’art conceptuel) ; quitte aussi à ce qu’ils se réduisent finalement à un constatif au contenu absolument indéterminé, dès lors que, chargé de manifester le caractère absolu de la volonté artistique, il s’applique virtuellement à tout ce qu’on voudra, là même où l’œuvre manque.
4/10 クレール・ルゲ「合理性の非合理的起源」
リール時代、哲学関係で、私の仲の良い友人の一人でした。遠く福岡からエールを送ります。
Aux origines irrationnelles de la rationalité
Mardi 10 avril à 18h30 - Entrée libre
Par Claire Louguet, Maître de conférences en philosophie ancienne, UMR 8163 « Savoirs, Textes, Langage », Université Lille 3.
La rationalité, en Grèce ancienne, a-t-elle son
origine dans l'irrationnel au sens où l'émergence de la rationalité
marquerait une rupture par rapport à un mode de pensée « archaïque »
considéré comme non rationnel (le mythe et les croyances
traditionnelles), ou au sens où la rationalité serait intrinsèquement
liée, dès ses origines, à l'irrationnel (que celui-ci désigne l'objet de
la pensée ou la pensée elle-même) ? Nous verrons que la distinction
entre rationnel et irrationnel – deux notions qu'il s'agira de définir –
ne suffit pas à caractériser la spécificité de la pensée scientifique
grecque.
Wednesday, March 28, 2012
扇子から落ちた話――フランス語で落語
扇子から落ちた話
フランス語で落語
Histoires : tombées d'un éventail
座ったままのワンマンショーコメディー?座布団の上を歩き、扇子を使って飲み、手ぬぐいを読んで、何人もの登場人物を一人で演じる語り部?日本の伝統芸能、落語が初めてフランス語でお目見えし ます!
- 日時:3月31日(土)18:15
- 会場:九州日仏学館5F多目的ホール
- 入場無料(要予約)
- ご予約・お問い合わせ:九州日仏学館(Tel : 092-712-0904)
明治時代の落語家、ヘンリー・ブラックの人気演目のいくつかは今日 まで語り継がれる作品となっています。日本に帰化したこのイギリ
ス人落語作家は 「青い目の語り部 」 ―ブラックユーモアに満ちた失 意の男―と呼ばれ、人々にもてはやされ、そして忘れられました。 100
年経った今、語り部ステファン・フェランデスがこのヘンリー・ ブラックを舞台によみがえらせ、あなたを落語発見の旅に誘います。
ラジオの未来
Affirmations péremptoires sur le futur de la radio (mauvaise foi incluse)
Suite à la journée de la radio à l'ENS Lyon, qui a eu lieu
jeudi, quelques reprises de notes sur le futur de la radio. Où il est
question de mobilité, de relief et de quadrature du cercle.
少し前にも言ったが、ラジオが好きだった。好きで聴いていたというより、よく流れていた。
小学生のころ聴いていたSFラジオドラマも、落語や講談や浪曲も『小沢昭一的心』も、中高生のころ聴いていたさまざまな音楽番組も野球中継も、ラジオだった。
ラジオの時代が過ぎ、今やテレビの時代も終わりつつあるかもしれないが、ネットや携帯などで依然として「視覚中心」的な時代が続くなか、ラジオは案外大切かもしれないと思う。もちろん、ネットも聴覚的な使い方をしている人もいるので(作業用BGM作ってる人もいるしね)、対立するものではないのだろう。
いずれにしても、「ラジオ的」な在り方の中では、いくつもの違う時間の流れが強調されるというか、より「スロー」になるというか。ラジオ、この反時代的なもの。
「スロー」と鍵括弧を付したのは、「持続とは遅れである」とベルクソンが言うとき、「遅さ」は必ずしも量的・等質的・計測的なものを意味せず、むしろ重要なのは質的・異質的・リズム的な「ずれ」を意味しているからだ。
ユーストリームとかニコニコ動画とかは興味ないけど、いつかラジオ番組はやってみたいかも。
*
大学院生の頃、大学から1分くらいのところに下宿があり、お昼ご飯を食べに帰り、『ラジオ名人寄席』の再放送を聴き、語学講座を聴くというのが日課だった――「残しておきたい江戸情緒、下座のお囃子、寄席幟(のぼり)。『ラジオ名人寄席』、席亭の玉置宏でございます。この『ラジオ名人寄席』には、嘗て一世を風靡致した、東西演芸界の「名人」「上手」「人気者」が、お得意の出し物で御機嫌を伺います」(という感じだったと思う)。
権利関係は大切、というのは分からないではない。だが、追いつめた人物がいたというのが事実だとして(Wiki参照)、実に無粋、野暮である。
少し前にも言ったが、ラジオが好きだった。好きで聴いていたというより、よく流れていた。
小学生のころ聴いていたSFラジオドラマも、落語や講談や浪曲も『小沢昭一的心』も、中高生のころ聴いていたさまざまな音楽番組も野球中継も、ラジオだった。
ラジオの時代が過ぎ、今やテレビの時代も終わりつつあるかもしれないが、ネットや携帯などで依然として「視覚中心」的な時代が続くなか、ラジオは案外大切かもしれないと思う。もちろん、ネットも聴覚的な使い方をしている人もいるので(作業用BGM作ってる人もいるしね)、対立するものではないのだろう。
いずれにしても、「ラジオ的」な在り方の中では、いくつもの違う時間の流れが強調されるというか、より「スロー」になるというか。ラジオ、この反時代的なもの。
「スロー」と鍵括弧を付したのは、「持続とは遅れである」とベルクソンが言うとき、「遅さ」は必ずしも量的・等質的・計測的なものを意味せず、むしろ重要なのは質的・異質的・リズム的な「ずれ」を意味しているからだ。
ユーストリームとかニコニコ動画とかは興味ないけど、いつかラジオ番組はやってみたいかも。
*
大学院生の頃、大学から1分くらいのところに下宿があり、お昼ご飯を食べに帰り、『ラジオ名人寄席』の再放送を聴き、語学講座を聴くというのが日課だった――「残しておきたい江戸情緒、下座のお囃子、寄席幟(のぼり)。『ラジオ名人寄席』、席亭の玉置宏でございます。この『ラジオ名人寄席』には、嘗て一世を風靡致した、東西演芸界の「名人」「上手」「人気者」が、お得意の出し物で御機嫌を伺います」(という感じだったと思う)。
権利関係は大切、というのは分からないではない。だが、追いつめた人物がいたというのが事実だとして(Wiki参照)、実に無粋、野暮である。
名司会者・玉置宏を精神的に追い詰めた事件
2010年02月15日 11時30分 [芸能] 2010年02月バックナンバー
「一週間のご無沙汰です」の名フレーズで有名だった名司会者・玉置宏が亡くなってしまったが、芸能界ではその早い死を惜しむ声が多い。
晩年見る影もなくやつれていたが、芸能史の生き字引と呼ばれたその知識を、データとして記録すべきであったという意見も出ている。演芸研究家である知識を 活かし、「横浜にぎわい座」で観客に名調子を聞かせていたが、晩年にはその言葉も時折、呂律が回らなくなることもあった。
稀代の名司会者をここまで追い詰めたのは、とある事件がきっかけである。2008年03月にラジオNHK第1放送の番組『ラジオ名人寄席』で発生した「落語音源無断使用事件」である。
この番組は、落語史に造詣の深い玉置宏が秘蔵する古い落語名人のテープが披露されるのが目玉であり、マニアックなセレクトが巷の好事家を楽しませていた。 だが、2008年2月10日に放送された先代の林家正蔵の音源が、87年にTBSラジオで放送されたものであることが判明。NHKがTBSに謝罪し、著作 権料を支払った。だが、このような無断使用は、番組が放送されていた12年間において、NHK以外のメディア7社からも91演目にも上り、1千万を超える 著作権料が未払いであることがわかり、玉置宏は番組を降板、『ラジオ名人寄席』も打ち切られた。
その後、玉置宏はみるみる痩せ衰え、周囲から心配されていた。この事件の際、玉置宏に対して、日本芸能実演家団体協議会理事職から辞任するように追い込み、玉置のライフワークともいわれた番組 『昭和歌謡大全集』も降板させるなど、彼を必要以上に精神的に責め立てた人物の存在が囁かれ、一部のメディアでも、やり過ぎではなかったのかと非難されて いる。
ミスは誰にでもあることである。芸能界を支えた功労者に対して、ここまで追い込む必要があったのだろうか。
晩年見る影もなくやつれていたが、芸能史の生き字引と呼ばれたその知識を、データとして記録すべきであったという意見も出ている。演芸研究家である知識を 活かし、「横浜にぎわい座」で観客に名調子を聞かせていたが、晩年にはその言葉も時折、呂律が回らなくなることもあった。
稀代の名司会者をここまで追い詰めたのは、とある事件がきっかけである。2008年03月にラジオNHK第1放送の番組『ラジオ名人寄席』で発生した「落語音源無断使用事件」である。
この番組は、落語史に造詣の深い玉置宏が秘蔵する古い落語名人のテープが披露されるのが目玉であり、マニアックなセレクトが巷の好事家を楽しませていた。 だが、2008年2月10日に放送された先代の林家正蔵の音源が、87年にTBSラジオで放送されたものであることが判明。NHKがTBSに謝罪し、著作 権料を支払った。だが、このような無断使用は、番組が放送されていた12年間において、NHK以外のメディア7社からも91演目にも上り、1千万を超える 著作権料が未払いであることがわかり、玉置宏は番組を降板、『ラジオ名人寄席』も打ち切られた。
その後、玉置宏はみるみる痩せ衰え、周囲から心配されていた。この事件の際、玉置宏に対して、日本芸能実演家団体協議会理事職から辞任するように追い込み、玉置のライフワークともいわれた番組 『昭和歌謡大全集』も降板させるなど、彼を必要以上に精神的に責め立てた人物の存在が囁かれ、一部のメディアでも、やり過ぎではなかったのかと非難されて いる。
ミスは誰にでもあることである。芸能界を支えた功労者に対して、ここまで追い込む必要があったのだろうか。
Tuesday, March 27, 2012
岡本 源太『ジョルダーノ・ブルーノの哲学―生の多様性へ』
トマス・アクィナスにの厳密さとルネ・デカルトの明晰さのはざまに生まれ落ちたジョルダーノ・ブルーノは、はたして近代科学の先駆か、それとも古代呪術の末裔か。ブルーノが開いた“近代”を生の多様性の発見として再評価し、たえず変化し続ける動的関係に充ち満ちた“無限宇宙”の哲学を読み解く。ジェイム
ズ・ジョイスの二篇のエッセイ「ブルーノ哲学」「ルネサンスの世界文学的影響」の新訳を附す。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
岡本 源太
1981年生まれ。専門は哲学、美術史、思想文化論。現在は関西大学、京都造形芸術大学非常勤講師。京都大学博士(人間・環境学)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1981年生まれ。専門は哲学、美術史、思想文化論。現在は関西大学、京都造形芸術大学非常勤講師。京都大学博士(人間・環境学)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
- 単行本: 227ページ
- 出版社: 月曜社 (2012/03)
G. William Barnard, "Living Consciousness: The Metaphysical Vision of Henri Bergson"
G. William Barnard (何度も確認したのだが、Bernardではなかった)
Living Consciousness: The Metaphysical Vision of Henri BergsonState Univ of New York Pr (December 2011)でハードカバー版が出ていましたが、このたび4月1日にペーパーバック版が出るとのお知らせを著者の方よりいただきました。かなり宗教的なアプローチなのかなという感じがしますね。
From the Back Cover
Living Consciousness examines the brilliant, but now largely
ignored, insights of French philosopher Henri Bergson (1859-1941).
Offering a detailed and accessible analysis of Bergson's thought, G.
William Barnard highlights how Bergson's understanding of the nature of
consciousness and, in particular, its relationship to the physical world
remain strikingly relevant to numerous contemporary fields. These range
from quantum physics and process thought to philosophy of mind, depth
psychology, transpersonal theory, and religious studies. Bergson's
notion of consciousness as a ceaselessly dynamic, inherently temporal
substance of reality itself provides a vision that can function as a
persuasive alternative to mechanistic and reductionistic understandings
of consciousness and reality. Barnard closes the work with several
"ruminations" or neo-Bergsonian responses to a series of vitally
important questions such as: What does it mean to live consciously,
authentically, and attuned to our inner depths? Is there a
philosophically sophisticated way to claim that the survival of
consciousness after physical death is not only possible but likely?
About the Author
G. William Barnard is Associate Professor of Religious Studies at Southern Methodist University. He is the author of Exploring Unseen Worlds: William James and the Philosophy of Mysticism, also published by SUNY Press, and coeditor (with Jeffrey J. Kripal) of Crossing Boundaries: Essays on the Ethical Status of Mysticism.Monday, March 26, 2012
3/31 DELEUZE et GUATTARI : d’un mille et unième plateau
Deleuze et Guattari
CIEPFC ENS Ulm/Université Paris Ouest Nanterre EA 4414
Année 2011-2012
DELEUZE et GUATTARI : d’un mille et unième plateau
Guattari
La prochaine séance aura lieu le 31 mars 2012, salle Cavaillès à l'ENS, 45 rue d'Ulm
Après avoir travaillé l’an dernier sur les ritournelles, nous poursuivons cette année le travail autour des sémiotiques des Mille plateaux, en explorant l’œuvre de Guattari, tout spécialement Les trois écologies et Chaosmose.
Nous lirons ainsi, selon le principe de connexion et d’hétérogénéité, outre Mille Plateaux,
De Félix Guattari : La révolution moléculaire, Paris, Recherches, coll. « Encre », 1977, rééd. UGE, coll. « 10/18 », 1980 ; Les Années d’hiver 1980-1985, Paris, Barrault, 1986 ;Cartographies schizoanalytiques, Paris, Galilée, 1989 ; Les trois écologies, Paris, Galilée, 1989 ; Chaosmose, Paris, Galilée, 1992 avec Toni Negri, Les nouveaux espaces de liberté, Paris, Dominique Bedou, 1985 ; avec Suely Rolnik, Micropolitiques, 1986, tr. du brésilien par Renaud Barbaras, Paris, Les Empêcheurs de penser en rond, 2007.
Et de Gilles Deleuze : L’Image- mouvement et L’Image-temps ( Minuit, 1983 et 1985) ;Foucault, Minuit, 1986 ; Le Pli, Minuit, 1988.
Contact : Anne Sauvagnargues - asauvagnargu es@gmail.com
Programme des séances 2011-2012
Les séances ont lieu le samedi de 14h à 17h, à l’ENS rue d’Ulm
22 octobre 2011, salle Celan
5 novembre 2011, salle des Résistants
3 décembre 2011, salle Histoire
7 janvier 2012, salle Celan
4 février 2012, salle Celan
3 mars 2012, salle Celan
31 mars 2012, salle Cavaillès
12 mai 2012, salle Celan
フーコーとウィトゲンシュタイン
Quatrième séance du séminaire
« Philosophie française & Philosophie analytique au 20e siècle »
Mardi 3 avril 2012, 17h-19h, Université Paris Ouest-Nanterre, L 321
Luca PALTRINIERI (CIRPP)
« L'archéologie à l'épreuve de l'analyse du langage : Foucault avec Wittgenstein »
Il est désormais connu que Foucault connaissait et lisait
l’œuvre du philosophe autrichien pendant l’écriture de l’Archéologie du
savoir. Mais il s’agira moins de s’interroger sur les emprunts de
Foucault à Wittgenstein ou sur l’influence de Wittgenstein sur Foucault,
que de repérer les analogies et les “ressemblances de famille” entre
deux styles de pensée qui aboutissent à deux conceptions de la vérité
fondées sur la même critique du modèle représentationnel de la
connaissance. C'est dans cette perspective que seront abordées des
questions comme celles du rapport entre explication et compréhension, de
la fiction et du jeu linguistique, ou encore de la différence entre les
notions de “discours” et de “langage”. Nous chercherons alors à obtenir
un éclairage réciproque des deux méditations sur la connaissance : la
réflexion wittgensteinienne sur la certitude permet d’expliquer la
notion de savoir chez Foucault, tandis que la méthode archéologique
foucaldienne révèle une dimension historique qui était restée implicite
dans les écrits de Wittgenstein.
Descriptif de la séance et bibliographie :
Programme du séminaire :
Plan d'accès :
Sunday, March 25, 2012
高山裕二 『トクヴィルの憂鬱--フランス・ロマン主義と<世代>の誕生』
[本]のメルマガより
***
■今月のこの一冊 グロバール化した世界を斜め読みする 小谷敏
------------------------------
------------------------------ ----------
高山裕二
『トクヴィルの憂鬱--フランス・ロマン主義と<世代>の誕生』
白水社2600円
面白い本でした。本書は、『アメリカの民主主義』 で知られるアレクシス・
トクヴィルを、フランス・ ロマン主義の伝統の上に位置づけた野心作です。著
者はまだ30代前半。新進気鋭の政治思想史研究者です。 原典でトクヴィルの
全著作を読破したその語学力と、 19世紀前半フランスの文化と思想の状況を
俯瞰する博識には敬服脱帽する他ありません。トクヴィル、 ロマン主義…。そ
う言われてもぴんとくる人は少ないでしょう。しかし、 この本はフランス思想
史というジャンルを超えた普遍的な広がりをもつ問題を提起してい ます。
トクヴィルは1805年生まれ。 幼少時はナポレオンの全盛期でした。「世
紀病」と呼ばれた、何者かにならんと志す「大望」の病原菌を、 ナポレオンは
トクヴィルと同年代の若者たちの間に撒いていたのです。 しかし彼らが世に出
た頃のフランス社会では産業が発達し、 私利の追求に熱心な俗物たちが支配し
ていました。 大望を満たしてはくれぬ社会に失望した彼らが起こしたのが、ロ
マン主義の文化運動です。一つの<世代> としての自覚を共有した彼らは、詩
情を欠く機械文明と俗物の支配に呵責ない論難を加えていったので す。
法律家となった若きトクヴィルは、 監獄制度の視察のためにアメリカに渡り
ます。平等な人々が、 徹底的な議論のなかで共同体の進むべき方向性を決定し
ていくアメリカの共和主義をトクヴィルは高く評価していました。 しかしアメ
リカは、 同時にトクヴィルの世代が忌み嫌った機械文明の先端を走る国でも あ
りました。『アメリカの民主主義』のなかでトクヴィルは、 経済的活動におい
て過度に個人の利益を追求し孤独に陥ったアメリカ人たちが、 精神の空洞を埋
めるために、 カルトめいた宗教の門前に群がる有様を活写しています。
豊かな社会のなかでは、労せずとも必要なものが手に入るので、 人間の欲望
は小さくなります。 欲望が小さくなると自分のなかには行為の導くものが希薄
になるので、他者が行動の基準になります。そうした人間は、 他人のもってい
るものを自分がもっていないと不安に陥りやすい。 だから小さな欲望しか持た
ない人は、羨望に支配されやすくなるとトクヴィルは言います。「 草食系」と
呼ばれるいまの若者は、 大きな欲をもっていませんが他者の目を気にする人た
ちでもあります。トクヴィルのこの洞察は、 いまも古びてはいません。
トクヴィルは、現実政治の世界にも身を投じています。 2月革命の直後には
内務大臣の地位に就きました。しかし、当時のフランス政界では、 鉄道敷設の
ような利益誘導に政治家たちが血道をあげていました。そして、 読書から遠ざ
かり、理想を語ることのできない俗物に支配された政界に、 トクヴィルは絶望
を覚えます。利益誘導の政治。教養を欠いた俗物政治家。 政治の世界はいまも
昔も変わりません。深い憂鬱にとらわれ、 精神を病んだトクヴィルは、「大望」
と並ぶ「世紀病」であった結核のために、この世を去っています。
◎小谷敏
大妻女子大学人間関係学部教授。「余命5年」の難病から生還し、 こうしてモ
ノが書けることに感謝。
最新刊「若者は日本を変えるか-世代間断絶の社会学」世界思想社
***
■今月のこの一冊 グロバール化した世界を斜め読みする 小谷敏
------------------------------
高山裕二
『トクヴィルの憂鬱--フランス・ロマン主義と<世代>の誕生』
白水社2600円
面白い本でした。本書は、『アメリカの民主主義』
トクヴィルを、フランス・
者はまだ30代前半。新進気鋭の政治思想史研究者です。
全著作を読破したその語学力と、
俯瞰する博識には敬服脱帽する他ありません。トクヴィル、
う言われてもぴんとくる人は少ないでしょう。しかし、
史というジャンルを超えた普遍的な広がりをもつ問題を提起してい
トクヴィルは1805年生まれ。
紀病」と呼ばれた、何者かにならんと志す「大望」の病原菌を、
トクヴィルと同年代の若者たちの間に撒いていたのです。
た頃のフランス社会では産業が発達し、
ていました。
マン主義の文化運動です。一つの<世代>
情を欠く機械文明と俗物の支配に呵責ない論難を加えていったので
法律家となった若きトクヴィルは、
ます。平等な人々が、
ていくアメリカの共和主義をトクヴィルは高く評価していました。
リカは、
りました。『アメリカの民主主義』のなかでトクヴィルは、
て過度に個人の利益を追求し孤独に陥ったアメリカ人たちが、
めるために、
豊かな社会のなかでは、労せずとも必要なものが手に入るので、
は小さくなります。
になるので、他者が行動の基準になります。そうした人間は、
るものを自分がもっていないと不安に陥りやすい。
ない人は、羨望に支配されやすくなるとトクヴィルは言います。「
呼ばれるいまの若者は、
ちでもあります。トクヴィルのこの洞察は、
トクヴィルは、現実政治の世界にも身を投じています。
内務大臣の地位に就きました。しかし、当時のフランス政界では、
ような利益誘導に政治家たちが血道をあげていました。そして、
かり、理想を語ることのできない俗物に支配された政界に、
を覚えます。利益誘導の政治。教養を欠いた俗物政治家。
昔も変わりません。深い憂鬱にとらわれ、
と並ぶ「世紀病」であった結核のために、この世を去っています。
◎小谷敏
大妻女子大学人間関係学部教授。「余命5年」の難病から生還し、
ノが書けることに感謝。
最新刊「若者は日本を変えるか-世代間断絶の社会学」世界思想社
Philosophie Avis de parution Mars 2012
Philosophie |
Avis de parution
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LA FIN DE LA PENSÉE ?
Philosophie analytique contre philosophie continentale Babette Babich N'y aurait-il de pas de différence notable entre les philosophies analytique et continentale ? La première serait la bonne philosophie, la seconde une philosophie non rigoureuse, de comptoir. Ce jugement est l'apanage des philosophes analytiques, qui considèrent leurs confères de formation continentale, à l'instar de Jacques Derrida, comme des « astrologues », des non-philosophes. L'auteur approfondit ici le débat, en identifiant de façon rigoureuse les différences importantes qui divisent les deux philosophies.
(Coll. Commentaires philosophiques, 13,5 euros, 120 p., mars 2012) ISBN : 978‑2‑296‑56016‑1
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APPRENDRE À PENSER COMPLEXE (TOME I)
Se relier au monde Jean-Marc Fert "Il faut substituer une pensée qui relie à une pensée qui disjoint", comme le disent Stéphane Hessel et Edgar Morin. Nous voyons très souvent la complexité du monde comme angoissante, même menaçante. L'auteur veut nous la montrer comme une source intarissable de joie et vivre et de libération. La suite de ce volume, consacré à la complexité du monde, porte sur la complexité humaine.
(12 euros, 148 p., mars 2012) ISBN : 978‑2‑913167‑71‑1
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APPRENDRE À PENSER COMPLEXE (TOME II)
Reliances humaines et personnelles Jean-Marc Fert Ce second volume, consacré à la complexité humaine, fait suite au premier portant sur la complexité du monde. Il nous propose une mise à nu des techniques de manipulation et d'emprise des hommes de pouvoir, désireux de réduire notre complexité humaine à de grandes vérités trop simples. Il s'achève sur un entretien avec Edgar Morin.
(12 euros, 134 p., mars 2012) ISBN : 978‑2‑913167‑72‑8
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LA FORME
De la sensation à la perception, du particulier à l'universel Jean Piwnica La forme est une structure complexe qui procède par une sélection de propriétés relevées dans le foisonnement de nos sensations. Phase immobile d'une période de l'existence, la forme est opposée à la réalité qui est changement continuel ; cette stabilité répond au besoin de signification qu'exige l'intelligibilité des phénomènes.
(Coll. Ouverture Philosophique, 11,5 euros, 84 p., mars 2012) ISBN : 978‑2‑296‑96682‑6
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MARC AURÈLE ET LE GOUVERNEMENT DE SOI-MÊME
Dominique Villemot Marc-Aurèle, dernier représentant des philosophes grecs stoïciens, a laissé une oeuvre très personnelle, les Écrits pour soi-même, recueil d'exercices de maîtrise de soi. Rejetant la notion d'empereur tout puissant et tyrannique, il dénonce le comportement de César et prône le retour à l'esprit de la République. Devenu modèle de l'empereur équilibré, il accomplit le projet politique de la philosophie grecque de Platon et d'Aristote, celui d'un monde dirigé par un philosophe.Š
(Coll. Inter-National, 14,5 euros, 142 p., mars 2012) ISBN : 978‑2‑296‑96347‑4
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MISE(S) EN SCÈNE DE LA RÉPÉTITION
Bergman, Dreyer, Ibsen, Strindberg Olivier Cauly Dans sa provenance kierkegaardienne, la répétition n'est pas un concept de la pensée pure. L'esthétique de la répétition n'a cessé d'inspirer le théâtre (Ibsen, Strindberg), mais aussi le cinéma dans sa continuité et sa rupture avec le théâtre (Dreyer), comme dans sa volonté de pleine assomption de l'imaginaire renaissant à lui-même (Bergman). La répétition n'est pas seulement un principe spirituel au plan éthique, mais ce qui au plan esthétique affecte l'art dans sa forme même.
(Coll. Ouverture Philosophique, 17 euros, 174 p., mars 2012) ISBN : 978‑2‑296‑96935‑3
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PENSÉE EN SOUFFRANCE
Sortir du nihilisme Patrick Kabakdjian Martin Heidegger s'est attaché à frayer le chemin menant à une pensée post-métaphysique, "pensée en souffrance" au double sens de pensée à venir, cherchant à répondre à l'attente d'une humanité soumise à la dévastation et en recherche de salut. Ce livre est une tentative d'appropriation personnelle de la pensée de ce philosophe et une mise en relief de ses axes principaux s'appuyant sur une lecture approfondie de son œuvre.
(Coll. Ouverture Philosophique, 30 euros, 288 p., mars 2012) ISBN : 978‑2‑296‑96808‑0
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RICHARD RORTY
Ou l'esprit du temps Irma Julienne Angue Medoux, Jacques Poulain Richard Rorty est certainement l'un des philosophes contemporains qui ont contribué le plus directement à la discussion internationale en philosophie. Cet ouvrage entend honorer sa mémoire en rappelant cet engagement, et en situant sa philosophie, dans ses propres termes, comme « la politique culturelle » qu'il a su promouvoir tout en pratiquant le dialogue philosophique comme le paradigme du dialogue transculturel dont nous avons aujourd'hui besoin.
(Coll. La philosophie en commun, 20 euros, 200 p., mars 2012) ISBN : 978‑2‑296‑96665‑9
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RICOEUR FACE À L'ANALOGIE
Entre théologie et déconstruction Luca M. Possati La démarche analogique ricoeurienne tient ses racines dans la réponse du théologien protestant Karl Barth au défi de l'analogia entis. Le détour théologique ouvre une nouvelle image de l'oeuvre de Ricoeur, mais aussi un terrain philosophique inexploré : les analogués de l'analogie. L'exercice exégétique devient alors une conversation entre Ricoeur, Barth et Derrida.
(Coll. Ouverture Philosophique, 23 euros, 234 p., mars 2012) ISBN : 978‑2‑296‑96337‑5
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LA SECONDE NATURE DU POLITIQUE
Essai d'anthropologie négative Bertrand Ogilvie Préface de Pierre Macherey La notion de " seconde nature " désigne depuis l'âge classique le problème des rapports et des proportions entre l'originel et l'institué dans l'existence humaine collective et individuelle. Mais cette question n'est pas une question anthropologique, sociologique ou psychologique : c'est avant tout une question politique car cette construction institutionnelle est le lieu d'un conflit irréductible. Longtemps revendiquée par les tenants de l'émancipation, elle fait aujourd'hui l'objet d'une appropriation néolibérale qui exige qu'on la repense en termes plus politiques et plus radicaux.
(Coll. La philosophie en commun, 17,5 euros, 176 p., mars 2012) ISBN : 978‑2‑296‑56945‑4
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SOCIALISME D'AUGUSTE COMTE
Aimer, penser, agir au XXIe siècle Eric Sartori Nos sociétés tendent spontanément vers un compromis social-démocrate, entre libreté totale et contrainte sociale, entre individualisme et solidarisme. Bizzarement, les forces politiques porteuses de ce projet sont plutôt en recul, ne parviennent plus à conquérir les peuples, les opinions, le pouvoir. Le projet de ce livre est de montrer que des élements essentiels de cette idéologie réformiste et socialiste peuvent être trouvés chez Auguste Comte.
(Coll. Questions contemporaines, 17 euros, 168 p., mars 2012) ISBN : 978‑2‑296‑96196‑8
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UNE ESTHÉTIQUE DE L'OUTRAGE ?
Jean-Marc Lachaud, Olivier Neveux Sous la direction de Jean-Marc Lachaud et Olivier Neveux Face à des productions scandaleuses, les critiques les qualifient aisément d'impertinentes, de blasphématoires voire subversives. Ces propositions dont les auteurs revendiquent le caractère radical font l'objet de polémiques. Certaines d'entre elles se confrontent à des procédures d'interdiction. Comment appréhender et comprendre ces foucades artistiques ? Comment distinguer les oeuvres qui répondent simplement aux exigences du spectacle et celles qui relèvent franchement d'un parti pris rebelle ?
(Coll. Ouverture Philosophique, 31 euros, 300 p., mars 2012) ISBN : 978‑2‑296‑96338‑2
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UNE ÉTRANGE MODERNITÉ
Jean-Paul Charrier La modernité de la culture occidentale s'appuie sur un triple héritage : celui du "miracle grec", c'est-à-dire de la naissance de la philosophie, celui de la spiritualité monothéiste judéo-chrétienne, celui d'un héroïsme de la raison scientifique. Mais l'histoire fut souvent infidèle aux exigences rationalistes et généreuses que ces valeurs proclamaient. Mais voulons-nous vraiment pour tous ce que nous revendiquons pour nous-mêmes ?
(Coll. Ouverture Philosophique, 22,5 euros, 216 p., mars 2012) ISBN : 978‑2‑296‑96054‑1
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ART, HISTOIRE ET SIGNIFICATION
Un essai d'épistémologie d'histoire de l'art autour de l'iconologie d'Erwin Panofsky Audrey Rieber Ni monographie sur Panofsky, ni essai d'histoire de l'histoire de l'art, cet ouvrage entend dégager les soubassements méthodologiques de l'un des discours majeurs sur l'art : l'iconologie. Ni ultime critique, ni tentative de réhabilitation, il s'agit d'analyser cette branche de l'histoire de l'art qui s'intéresse à la signification et d'interroger comparativement les histoires de l'art de Riegl, de Wölfflin, de Warburg et de Worringer.
(Coll. Esthétiques, 32 euros, 312 p., mars 2012) ISBN : 978‑2‑296‑96670‑3
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APPRÉHENDER L'ESPACE SONORE
L'écoute entre perception et imagination Renaud Meric Comment l'écoute appréhende-t-elle l'espace ? Qu'appréhende-ton lorsque on écoute ? Qu'est-ce qu'un son ? Quels en sont les limites spatiales ou temporelles ? L'auteur tente de montrer, en s'appuyant sur les théories esthétiques, pourquoi l'espace n'est pas pris en compte par les pensées sur la musique avant le XXe siècle. Il met en lumière le rôle essentiel du corps de l'auditeur dans notre perception de l'espace et le développement d'une implication active de l'écoute.
(Coll. Musique Philosophie, 41 euros, 434 p., mars 2012) ISBN : 978‑2‑296‑56035‑2
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