まあ、なんというか、世の中にはいつも「聖戦」を仕掛けたい人間がいるのだなあと思う。とても十字軍的であり、とても魔女狩り的であり、とても異端審問的だ。
以前、このブログで大澤+橋爪『ふしぎなキリスト教』を
「ポップな入門書」だと評し、中世哲学入門のための大雑把なキリスト教理解のための参考書の一冊として挙げておいたのだが、どうやら厳格なキリスト教研究者の方々による聖戦――このようなトンデモ本を大学教員が勧めていいのかと教員たちの名前を実名で挙げている――の過程で軽く血祭りにあげられているようである(彼らのツイッターの2012年
5月22日の項)。
その方々がつくった
「2012年5月23日現在、110個以上」の間違いリストを読ませていただいた。大変細かく書かれていて、とても勉強になりました。ありがとうございました。
例えばこんな感じである。
p184, p185 |
「救いは、恩恵の問題なんです。神の恩恵に対して、人間に発言権があるかというと、ゼロです。なんの発言権もありません。」 |
極端な予定説を述べているが、アウグスティヌスの恩恵論についてはカトリック教会からプロテスタントに至るまで様々な温度
差がある。アルミニウス主義もある。そもそも橋爪氏はルーテル教会信徒の筈なのだが、フィリップ・メランヒトンおよび神人協力説論争は完全に無視してい
る。また正教会は「共働」概念を採る。 |
私は十字軍の方々が言っていることはおそらく正しいと思う(彼らを上回る知識がないのだから、当然断言できない)。「大橋」(大澤+橋爪:いつの間にか消されてしまった?彼らの誤記だが、秀逸)が開き直っているなら、それはよくないことだと思う。間違いは間違いなのだから、素直に謝って訂正すればよいと思う。
だが、単純な誤記・誤認以外、例えば、「救い」「恩恵」「予定説」の説明に関して、この種の「誇張」まで「間違い」とされたら、日夜、学生・生徒たち相手に奮闘し、なんとか分かりやすく教えようとしている教員たちの言葉のほとんどは間違いだということになる。
だいたい、どの分野の入門書でもこの手の「誇張」は枚挙にいとまがない。私たちはそれにいちいち眉をつりあげたりしない。そこに分かりやすい比喩が載っているのならそれを使い、その後で適宜修正、ニュアンスを添えていけばいいだけのことである。参考文献は「素材」「材料」であって、「食事」ではない。入門書は常に複数読まれるべきものであって、そこにすべてが書かれているべき研究書ではない。
私は、AKBにソルフェージュの何たるかを知らないと声高に叫んでいる人にはあまり言うべき言葉を知らない。そうですね、あなたのおっしゃるとおりですね、と言うしかない。
だが、世の中にはAKB大好きと真顔で語る若者たちがいて、そこを入り口にして音楽を語ろうとすることが有効に思える場合というのもあるのだ。
*
繰り返すが、彼らの批判は正しい。私としては、次の諸点だけ指摘しておく。
1)大澤と橋爪がベルリンフィル(建物)で歌うバリトン歌手でなく、決して声がいいとは言えず、歌い方も我流の売れ線ポップ歌手であることは、私の周囲では言うまでもない前提である。
仮に「歌舞伎町の女王」が「夜の女王」を我流で歌ってヒットしたとして、そのアリア歌唱法が伝統的で正当なものでないことに何の不思議があろうか。本格派ソプラノ歌手がそれをあげつらったとして、私にはその種の批判は「たしかに正しいが、正しすぎるない物ねだり」のように思える。
2)私が先のポストにおいて、バランスを取る意味で、小田垣雅也さんの『キリスト教の歴史』を挙げて、
「ベーシックな入門書」と評していることには目もくれず、大澤+橋爪のほうだけを足早に爆撃していかれたようだ。おそらくその方々にとっては、小田垣さんは論外なのであろう。
3)レベルはまったく違うが(フーコーなど出すのはもったいないが)、フーコーの《ラス・メニーナス》読解に対して、美術史家たちは彼らと同様の聖戦を仕掛けることが出来るだろう。けれど、私はダニエル・アラスのような態度を好む。
《さらに重要なことは、フーコーのテクストのおかげで、伝統的な美術史学者たちは、《ラス・メニーナス》に注意を注がざるをえなくなったことです。見事ではあるけれども歴史的には間違っているフーコーの説明を、なんとか厄介払いするために、美術史学者たちはこのタブローが何であったかを理解しようとして、膨大な古文書の研究を行なわねばなりませんでした。〔…〕ここに、フーコーのアナクロニスムのじつに興味深い効果があります。それは理論的レベルにおける効果であると同時に、《ラス・メニーナス》に関する歴史研究のレベルにおける効果でもありました。》
私が聖戦論者たちに言ってあげたいこと、それは《あなたがたのような厳密な(彼らにとっては「当然」であるらしい)批判が出て、またあなたがたのおっしゃるように、「大橋」以外に興味深く良質な入門書がたくさんあることが、私たちのような無知な大学教員だけでなく、無知なキリスト教関係者にも(なぜなら彼らはそういった人々をも標的にしているから)知られたのだから、それをこの本の最大の功績とするべきではありませんか》ということだ。
4)にもかかわらず、細部に看過できない間違いが散見されるとしても――厳密に見れば「散見」でないという聖戦論者たちの意見は分かるが、私から見れば「過ち」ではなく「誇張」であることが「散見」された――「大橋」が興味を引く形でざっくりまとめているのは事実である。私なら、「間違いリスト」とともに「大橋」を勧める。
5)間違いリストのページには「※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 」と書いてある。そして、「大橋」が版を変えずに黙って文章を修正していることに大変お怒りである。
したがって、私がこれから指摘することがもし正しい(あるいは議論の余地がある)と認められた場合、聖戦論者の方々は、自分たちが誤った(あるいは不十分な書き方であった)ことをはっきりと認めたうえで、修正されるのだろうと思う。ちなみに、私はネット上のプライヴェートな文章について「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という意見である(また、たいていの場合、特に断らずに修正していいとも思っている)。だから、訂正を要求しているわけではありません。彼らの「キリスト教美術」の項目の末尾の一文である。
「また、聖書の場面を描いたプロテスタントの画家も多い。レンブラントやフェルメールなど無数に存在する。」
(当たり前のことだが、私はこの一節が彼らのキリスト教理解の大筋に影響するなどとは考えていないし、これをもってして、彼らの批判の効力を削ごうなどとも考えていない。思想史や教養の授業に出てくるキリスト教理解の不正確を正そうという彼らの意図に賛同して、彼らのキリスト教研究に出てくる美術史的な不正確を指摘するのである。)
再びダニエル・アラスを引こう。
《フェルメールはプロテスタントが主流のオランダで、カトリック教徒だったのです。二十歳の時に改宗したカトリック教徒で、確固とした信仰を持っていたことは、モンティアスの集めた記録によって異論の余地がありません。彼は生涯を通じて、カトリックに対する軽蔑的な呼称である「教皇主義者の片隅」と呼ばれる場所で暮らしましたが、それはデルフトのカトリック教徒たちが集められていたところでした。》(『モナリザの秘密』172-173頁)
相対化するために、wikiの英語ページの一節も引いておこう。
In April 1653 Johannes Reijniersz Vermeer married a
Catholic girl, Catharina Bolenes (Bolnes). The blessing took place in a nearby and quiet village
Schipluiden.
[Note 3] For the groom it was a good match. His mother-in-law,
Maria Thins, was significantly wealthier than he, and it was probably she who insisted Vermeer convert to
Catholicism before the marriage on 5 April.
[Note 4] Some scholars doubt that Vermeer became Catholic, but one of his paintings,
Allegory of Catholic Faith,[13]
made between 1670 and 1672, placed less emphasis on the artists’ usual
naturalistic concerns, and more on religious symbolic applications,
including the sacrament of the
Eucharist, which was scorned by the Protestant order at the time. Walter Liedtke in
Dutch Paintings in the Metropolitan Museum of Art suggests it was made for a learned and devout Catholic patron, perhaps for his
schuilkerk, or "hidden church."
[Liedtke 1] So, whether it represents Vermeer’s own beliefs or only those of his patron is left to speculation.
聖戦論者たちの意見を借りれば、最低限、「議論の余地があるということを明記すべき」ということになるのだろうが…。
疲れる。キリスト教って愛と寛容の精神なんじゃないの?誤りを指摘してあげるのはいいと思うんだけど、どうも口調に好感が持てない。特にツイッターのほうは短文だからか、言葉の端々にとげとげしさとか、最近のネット言説によくある嘲笑系の匂いは感じられても、全然「過ちを犯した」相手に対する思いやり、「許し」の精神が感じられないよね。右の頬を打たれたから、相手を叩きのめします、という印象が否めないな…。「大橋」はたしかにキリスト教の厳密な(彼らにとっては「基本的」な)「知識」をもっていないかもしれないけれど、彼らはキリスト教の「本質」を体得・体現しようとしているのかな…?
なんだか、私の文章も無駄に好戦的な感じに染まってしまって、自分にがっかり。