マラソンランナーは「次の電柱まで全力疾走」と思いつつ、42.195キロを走るのだと聞いたことがある。
時間的にも精神的にも余裕はまったくない。それでもベストを尽くしたい。それでしか示せないことがある。
Sunday, September 30, 2012
Saturday, September 29, 2012
原稿・初校・再校…
つらい日々が続いている。そのなか、今日も朝からnさんの論集のための論文執筆にいそしんでいるのだが、夕方になって、下記論集の再校ゲラが届いた。私はまったく全体の構成を知らなかったのだが、入不二先生のページによると、以下のようらしい。
2012年9月13日(木) 「『哲学の挑戦』(春風社)の執筆者」
・ 西日本哲学会60周年を記念して発刊される『哲学の挑戦』(春風社)の再校のゲラが届く。
・ 先日ツイッターで、装幀者の矢萩多聞さんとやり取りをした。どのような装幀になるのか楽しみである。
・ 担当編集者の内藤寛さんからの情報によると、テーマと執筆者の全体は以下のとおり。
――――
「日本語の哲学」(飯田隆)
「現実の現実性」(入不二基義)
「真理と直観」(上野修)
「美学と存在論」(倉田剛)
「いのち」(種村完司)
「物と心」(中畑正志)
――――
「自伝的な手記」(稲垣良典・松永澄夫・松永雄二・村上勝三)
――――
「存在について考える―ハイデッガーと共に/を越えて」(菊地惠善)
「 徳(アレテー)と幸福(エウダイモニア)―『ニコマコス倫理学』を近世哲学から解放する」(菅豊彦)
「自由意志の起源 ニューロサイエンスからみたスピノザ」(柴田健志)
「記憶しえぬものの記憶 ベルクソンとレヴィナス」(藤田尚志)
――――
【2012年9月13日記】
私は初校を戻したのが遅かったので、再校の締め切りが10月3日…。
2012年9月13日(木) 「『哲学の挑戦』(春風社)の執筆者」
・ 西日本哲学会60周年を記念して発刊される『哲学の挑戦』(春風社)の再校のゲラが届く。
・ 先日ツイッターで、装幀者の矢萩多聞さんとやり取りをした。どのような装幀になるのか楽しみである。
・ 担当編集者の内藤寛さんからの情報によると、テーマと執筆者の全体は以下のとおり。
――――
「日本語の哲学」(飯田隆)
「現実の現実性」(入不二基義)
「真理と直観」(上野修)
「美学と存在論」(倉田剛)
「いのち」(種村完司)
「物と心」(中畑正志)
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「自伝的な手記」(稲垣良典・松永澄夫・松永雄二・村上勝三)
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「存在について考える―ハイデッガーと共に/を越えて」(菊地惠善)
「 徳(アレテー)と幸福(エウダイモニア)―『ニコマコス倫理学』を近世哲学から解放する」(菅豊彦)
「自由意志の起源 ニューロサイエンスからみたスピノザ」(柴田健志)
「記憶しえぬものの記憶 ベルクソンとレヴィナス」(藤田尚志)
――――
【2012年9月13日記】
私は初校を戻したのが遅かったので、再校の締め切りが10月3日…。
Friday, September 28, 2012
準備学級(天国への階段?)
Classes prépas : cet enfer où coulent l'encre et le miel
Les classes prépas : un enfer où les jeunes héritiers
s'aguerrissent dans une ambiance "marche ou crève" digne de Full Metal
Jacket ? Ou bien le paradis des savoirs, un Eden gorgé de fruits
défendus laissés à portée de main des jouvenceaux initiés à la libido
sciendi ? Grantanfi explore aujourd'hui le quotidien des 79000 élèves
des prépas publiques, (encore) gratuites et en accès libre, ...
Thursday, September 27, 2012
10/16 Jacques Bouveresse, "L’université, la science, la démocratie et le débat public"
Conférence inaugurale des Universités Lille 1 et Lille 3
Mardi 16 octobre 2012 à 16h30
Par Jacques Bouveresse, Professeur honoraire au Collège de FranceL’université, la science, la démocratie et le débat public
Wednesday, September 26, 2012
Monday, September 24, 2012
授業を変えてみる
つらくても、やらねばならないことはやらねばならない。
単位のことを真面目に受け取るなら、授業のスタイルを変えねばならない。
そこで、少し大変ではあるのだが、こう変えてみた。
第1回の授業で、通常のオリエンテーションとともに、必ず「単位とは何か」という話、「自学自修」の話、「1単位=45時間」の話をしておくのが前提である。でないと、「たかが選択の授業」という態度で授業に臨んでくる学生に以下の課題を求めるのは無理がある。
1)教職の哲学(西洋哲学史)月曜1限
今までのように90分講義形式でなく、学生3人を1チームとし、授業をさせることにした(40分)。
①或る哲学者の生きた時代と生涯を、中心思想と絡めて紹介(10分)
②その哲学者の中心思想その1(15分)
③その哲学者の中心思想その2(15分)
授業を聞く学生たちには、その授業の良かったところ、改善すべき点などを常に意識しながら聞かせることで、自分が今度やる模擬授業の参考にさせる。発表後、みなの意見を聞きながら、授業のよりよいやり方を一緒に考えつつ、足りなかった点を補足する(50分)。
補足はやはりするので、授業準備はしなければならず、さらに授業中も講義形式とは全く異なる注意が必要なので、かなりくたびれる。
今日はデカルトだったが、一週間しか準備期間がないなか、女子学生三人は良くやってくれていた。
2)フランス近現代思想史 月曜2限
こちらは90分講義形式には違いないのだが、毎回テクストの抜粋(4頁くらい)を事前に配布し、A41枚程度のレポートを毎週書いてきてもらうことにした。先週第1回の授業では、モンテーニュ『エセー』のコピーを配布。15人程度の授業なので、何とか実施可能である。
何とか来週までに学生たちのレポートを読んで、モンテーニュの授業に取り込み、活かしていきたい。加速度的に忙しくなっていく学期中に、これを毎回できるかが勝負の分かれ目。
しかし、50人とか、60人規模の授業になってくると、難しい。。「読んでコメント」を毎週するとなると、今の担当コマ数(8)でやるのは、少なくとも私には不可能に思える。
さらに研究を学期中も継続するとなると…。
単位のことを真面目に受け取るなら、授業のスタイルを変えねばならない。
そこで、少し大変ではあるのだが、こう変えてみた。
第1回の授業で、通常のオリエンテーションとともに、必ず「単位とは何か」という話、「自学自修」の話、「1単位=45時間」の話をしておくのが前提である。でないと、「たかが選択の授業」という態度で授業に臨んでくる学生に以下の課題を求めるのは無理がある。
1)教職の哲学(西洋哲学史)月曜1限
今までのように90分講義形式でなく、学生3人を1チームとし、授業をさせることにした(40分)。
①或る哲学者の生きた時代と生涯を、中心思想と絡めて紹介(10分)
②その哲学者の中心思想その1(15分)
③その哲学者の中心思想その2(15分)
授業を聞く学生たちには、その授業の良かったところ、改善すべき点などを常に意識しながら聞かせることで、自分が今度やる模擬授業の参考にさせる。発表後、みなの意見を聞きながら、授業のよりよいやり方を一緒に考えつつ、足りなかった点を補足する(50分)。
補足はやはりするので、授業準備はしなければならず、さらに授業中も講義形式とは全く異なる注意が必要なので、かなりくたびれる。
今日はデカルトだったが、一週間しか準備期間がないなか、女子学生三人は良くやってくれていた。
2)フランス近現代思想史 月曜2限
こちらは90分講義形式には違いないのだが、毎回テクストの抜粋(4頁くらい)を事前に配布し、A41枚程度のレポートを毎週書いてきてもらうことにした。先週第1回の授業では、モンテーニュ『エセー』のコピーを配布。15人程度の授業なので、何とか実施可能である。
何とか来週までに学生たちのレポートを読んで、モンテーニュの授業に取り込み、活かしていきたい。加速度的に忙しくなっていく学期中に、これを毎回できるかが勝負の分かれ目。
しかし、50人とか、60人規模の授業になってくると、難しい。。「読んでコメント」を毎週するとなると、今の担当コマ数(8)でやるのは、少なくとも私には不可能に思える。
さらに研究を学期中も継続するとなると…。
Thursday, September 20, 2012
9月中旬
9月中旬(09月11-20日)の課題
①『挑戦』論文初校(B&L・邦語)直し(9月12日まで)ようやく20日に終了。
いろいろ苦しかったが、かなりましになった。最低レベルには達しただろうか。
二校が9月末かそれより少し早いくらいの予定。
後期の授業が先週金曜日から始まった。どこに夏休みがあったのだろうか。
授業が始まってしまうと、なかなか研究が進まない、といきなり学期冒頭に痛感。
どれだけ時間がなくても、精神的に苦しくても、前に進むしかない。それでしか示しえない。
9月下旬(09月21-30日)の課題
①自著(すぐ)
②n大学論論文(9月末)
③okBD論文初校(9月末?)
④『挑戦』論文二校直し(9月末?)
⑤来年6月の南山・結婚論WSの要旨(すぐ)
⑥DBP仏語論文化(すぐ)
⑦来年3月パリ・シンポの発表タイトル(10月10日)
ちょっと気が早いが、長年アプローチし続けていた大物がついに来年来てくれるかもしれない。うれしいことだ。
Tuesday, September 18, 2012
大学の時間(6)反省の時
大学は/を忘れない。大学は/を記憶する。大学は/を約束する。
大学における/としての記憶と約束については、西山雄二編『人文学と制度』(未来社、2012年)所収予定のニーチェに関する拙稿を参照のこと。
大学における/としての記憶と約束については、西山雄二編『人文学と制度』(未来社、2012年)所収予定のニーチェに関する拙稿を参照のこと。
*
以上見てきたように、単位の問題は、大学における時間をめぐる問題であるが、私たちが哲学的に取り組むことができるのは、それだけにとどまらない。秋入学など時期・季節の問題を含めた入試の在り方、授業回数増加の問題、大学における労働と余暇の関係など、すべて「大学の時間」の問題圏に属する。ビル・レディングズの的確かつユーモアにあふれた言葉を引用しておこう。
短絡的な考えがもたらす有害な例の一つとして、多くの教授たちは週六時間しか働かないという現在の認識がある。野球選手が、打者としてバッターボックスに立つ時間によって報酬が決まるとは誰も考えないし、何を価値あるものとするかの判断は、多くの複雑な要因を考慮に入れて慎重に行なわねばならないと誰でも知っている。他の選手は走るのに、キャッチャーがしゃがんでいるからといって、報酬が他より少なくて当然とは誰も思わない。これは、大学内ワールド・シリーズが必要だなどと言っているのではなく、ただ、他者の考えを理解する過程で自動的に生じるロスを差し引いても、価値の問題は思った以上に複雑なものになりうると言いたいだけなのだ。スポーツの世界からもう一つ例をとれば、たとえば、冬季オリンピックの中でも比較的人気のあるフィギュア・スケートは、時間計算によって確実に勝者が決まる〔速さを競う〕他の種目と比べた場合、ポイント計算がシンプル〔芸術点などの評価基準が審査員の判断によるもの〕だからといって大きな障害にならないことを示唆している[14]。
このレディングズの著作『廃墟のなかの大学』で示された基本的な認識を踏まえて大学論を展開すべきであるとすれば、「廃墟の後で」を標語にしてもよいであろう。
反省の時 まとめよう。大学をめぐる問題の一つは、時間の問題であり、それが典型的な形で現れてくるのは単位の問題であることを簡潔に見てきた。そのような大学の時間を、先述したフランスの哲学者デリダは「反省の時」(le temps de la
réfléxion)と呼ぶ。それは、社会的時間から相対的に独立した、大学という装置の内的リズムが、社会の要求の緊急性を緩和し、この要求に、大きな戯れの自由、すなわち無限の可能性と無際限の危険性に同時に開かれた場所、私たちが「多孔空間」と呼んだものを確保してやるといったことだけを意味しているのではない。デリダによれば、
反省の時とは、言葉のあらゆる意味でのréflexion(反射・反映・反省)の諸条件そのものにまで立ち帰っていく機会でもあり、それはちょうど、新しい視覚装置の助けによって、ついに見ること自体が見えるようになる、つまり、ただ自然の風景や街や橋や深淵が見えるだけではなく、見ること自体の中に「貫入」する(« téléscoper » la vue)ことができるようになる、そういう時に似ています。それはまた、聴覚装置を通じて聴くこと自体を聴くようなもの、言い換えれば、聴きがたいものを一種の詩的電話術(téléphonie poétique)によって捉えるようなものです。してみると、反省の時とはいわばもう一つの時間、自らが反省(反映・反射)しているもの〔社会の時間〕とは異質な時間なのであり、思考を呼び求め、それこそが思考と呼ばれるようなもの(ce qui appelle
et s’appelle la pensée)の時間も、おそらくはそれによって与えられるのです[15]。
「社会の時間」の扱い方について絶えず反省し、再検討する「大学の時間」を守る必要がある。ただし、それをただ盲目的に死守するのではなく、そのような「大学の時間」それ自体について絶えず反省し、再検討するという仕方で。視覚自体を見直すことで見えないものを見る、聴覚自体を聴き直すことで聴こえないものを聴くという仕方で。冒頭で触れた「アカデミック・クォーター」は、考えてみれば奇妙な時間である。それがイタリア・スペイン・フランスといった、いかにものんびりとしたラテン系諸国には存在せず、逆に北欧・中欧の国々では几帳面にシラバスにまで書き込まれているのである[16]。大学の時間を哲学するとは、大学で、大学によって、大学のために、反時代的で奇妙な効力をもつさまざまな「アカデミック・クォーター」を記憶し、約束し、発明することなのかもしれない[17]。
Monday, September 17, 2012
大学の時間(5)...abhorret a vacuo
どこのブログからいただいたのだか、忘れてしまったが、アメリカの「大学の時間」に関する情報。いずれもう少し網羅的に調べようと思っている。
「空白」を恐れる管理者側は嫌がるだろうが、そして本当にシステム変更するとなれば多大の犠牲と労力を伴うが、しかし、学生の自主性を尊重するというのはこういうことだろう。
***
アメリカの大学が全部そうなのかどうかは分かりませんが、スタンフォードは4学期制(summerは普通の学生は休みの場合が多いが、興味に応じてコースを取ることもできる)で、1学期が大体10週間くらいです。この10週間の間に集約させるそのやり方が半端じゃないです。
最初、いろいろな人に「アメリカの大学はすごいから」とずっと言われていましたが、授業を受け始めたころは何がすごいのか全く分かりませんでした。
ところが、時間が経つにつれて分かってきたことがあります。
「空白」を恐れる管理者側は嫌がるだろうが、そして本当にシステム変更するとなれば多大の犠牲と労力を伴うが、しかし、学生の自主性を尊重するというのはこういうことだろう。
***
アメリカの大学が全部そうなのかどうかは分かりませんが、スタンフォードは4学期制(summerは普通の学生は休みの場合が多いが、興味に応じてコースを取ることもできる)で、1学期が大体10週間くらいです。この10週間の間に集約させるそのやり方が半端じゃないです。
最初、いろいろな人に「アメリカの大学はすごいから」とずっと言われていましたが、授業を受け始めたころは何がすごいのか全く分かりませんでした。
- 教授陣は確かに優秀なんだけど、東大にも優秀で教え方の上手い人はたくさんいました。
- 学生も確かに優秀なんだけど、東大にも同じくらい優秀な人はいたし、スタンフォードのクラスに出ていても、ちんぷんかんぷんな質問する人だっている。
ところが、時間が経つにつれて分かってきたことがあります。
- 大抵の授業は90分×2-3コマ/週くらいあります。2日に一回講義を受けることになります。
- フルタイムの学生でも1学期に3-4個しか授業取りません。(取れません。)時間割を見ると一見スカスカで一日の半分以上が空いているように見えます。
- もちろん講義中の90分は、完璧に制御された時計通りに進みますので、予習復習しないと落ちこぼれます。(最近はe-learning用に録画しているので、長時間講義を延長するのは許されないみたいです。)
- 宿題の量と質がものすごいです。例えばComputer ScienceのMachine Learningの一回目の宿題は、http://www.stanford.edu/class/cs229/ps1.pdfにある通りで、このクラスの宿題が10週間の間に4回出ます。その他に中間試験、期末試験があります。
- この1回分の宿題は感覚的には、東大の最も難しいクラスの講義の期末のレポート並みの重たさだと思います。(その場合、そのレポートだけで大抵全て終わりという具合だったような気がします。)
Sunday, September 16, 2012
大学の時間(4)真の「単位の実質化」のために
論文は極度に時間のない中で書きあげられたので、大綱化以降の状況について、いったい何が問題であるのか、もう少し補足しておく。
文科省のHPにはこうある。
*
1つの90分授業に対して、270分の予習・復習が必要であるような講義をせねばならないということである。当然、講義は、学生とのより活発なやりとりを含むものとなり(そうでなければ、予習・復習の成果が計測されない)、大きな変化を余儀なくされる(少人数でなければ、そのような計測は不可能であるから、少人数制の徹底も必要になる)。詳細は省くが、このことはすでに1951年の報告『大学に於ける一般教育』において指摘されていた。
また、いわゆるキャップ制によって課された一年間に取得できる単位数の制限も、今以上に厳しく制限されるべきだろう。さらに、学生の「オン・オフ」の切り替え、彼らの「充実したキャンパス・ライフ」(海外留学、ボランティア活動など)をアメリカ並みに実現しようと思うなら、夏季長期休暇の確保は必須である。この観点から言うと、「夏季長期休暇の確保」と「1学期=15週の徹底」を両立させようと思うなら、残る手段は「四月開始の廃止」しかない(長期休暇を挟んで1学期を行なうのは学習効果の定着という観点から非効率的だからである)。
アメリカの単位制度を導入しておきながら、アメリカの学期制度を導入しないのは制度設計的に無理があることを今一度考え直すべきだと思う。この点については稿を改めるが、いずれにしても「大学の時間」を考えるとは、「学生の時間」「学びの時間」「余暇とは何か」「学期はどうあるべきか」といったことを理念と照らし合わせつつ考え直すことでもある。
*
大学で学生たちが着実に学力をつけるような授業を行なうことを「単位の実質化」という。単位の実質化は、一方で、以上に見たように、大学の制度設計および各教員の授業設計に対する根本的な態度変更を要求する。
しかし他方で、もし文科省と経済界が「単位の実質化」とその期待される結果としての「大学生の学力アップ」を真剣に検討するのであれば、大学だけに「勉強時間の確保」を求めても効果が上がらないことは明らかである。
まず、「大学の時間」を大幅に奪っている「就職活動」をどうにかすべきである。文科省は、大学に「学生の勉強時間」の確保を求める前に、産業界に就職活動のあり方を今以上に根本的に見直すよう求めるべきである。
次に、学生に学業成績に応じた積極的な財政支援を今よりもっと弾力的に行ないつつ、学生アルバイトを(少なくとも学期中は)全面禁止するか、大幅に時間制限を掛ける必要があるだろう(何度も言うが、文科省と産業界が「勉学の時間の確保」を真剣に求めるのであれば、だ)。だが、これもまた産業界の利害に直結している。社会は、大学生を低賃金労働者として大いに利用している現実を直視する必要がある。
大学にばかり文句を言っていても始まらない。変わらねばならないのは大学だけでなく、産業界であり、そして社会である。
「大学の時間」を考えるとは、「単位」を考えることでもあるが、それは単なるつじつま合わせ、数合わせであってはならない。今日まで一貫して引き継がれており、基準改正時において議論されたこともほとんどない、新制大学の尊重する自学自修を反映した教室内外の45時間の履修を「最も基礎的な単位算出基準としての1単位」とするという「大原則」自体は、現代の日本の大学と大学生を取り巻く状況下において、本当に「とくに問題はない」のだろうか。
「大学の時間」を考えること、それは、奇妙な効力をもった、いくつもの反時代的な「アカデッミック・クォーター」を発明することでなければならないのではないか。
*参考・清水一彦『日米の大学単位制度の比較史的研究』(風間書房、1998年)
《ここで注意しなければならないのは、〔大綱化によって、〕授業時間設定の自由度は増したが、従来の1単位の大原則は順守され「標準45時間の学修」という基本的枠組みは残されたことである。したがって、45時間から授業時間を差し引いた残りの時間は、学生の予習や復習の準備学習の時間となり、その意味では制度発足〔時〕の自学自修の尊重は維持されたと言える。大学審議会の議論の過程でも、当初は教室外の学習成果を単位計算の中に組み入れることが現実には空洞化しており、単位計算方法を「技術的な観点から」見直すことに始まったという。しかし、その後に「標準45時間の学修」という大枠は最終の段階で残すことになり、それは「単位の実質化という観点から」この問題を考え直した結果でもあった。教室外の準備学習及びその成果をどのように考え具体的に対処していくかという、古くて新しい問題がここでも議論の中心となったのである。》(410頁)
《最も基礎的な単位算出基準としての1単位については、新制大学の尊重する自学自修を反映した教室内外の45時間の履修という大原則は今日まで一貫して引き継がれている。この原則自体はとくに問題はなく、基準改正時において議論されたこともほとんどない。》(415頁)
文科省のHPにはこうある。
Q3 日本の大学の現状について、「授業に出席しなくても単位が取れる」「勉強しなくても簡単に卒業できる」などの声を耳にしますが、これについて大学はどのような対策を講じているのですか。
これまでの我が国の大学に対する評価の中に、大学では適切な卒業認定が行われておらず、学部卒業者として期待される教育内容がきちんと身に付いていない場合があるのではないかとの指摘があります。大学は人材養成の役割を担うことから、学生に対して教育目標を明示し、その目標に向けた計画的な学習を可能とする環境を提供した上で、適切な成績評価・卒業認定を行うことにより、学生の卒業時における質の確保を図っていくことが大学の社会的責務であり、大学にはこうした指摘を受けることがないよう充実した教育活動を行うことが強く求められています。
授業の設計と教員の教育責任
我が国の大学教育は単位制度を基本としていますが、同制度は、教室での授業と授業の事前・事後の準備学習・復習を合わせて単位を授与することを前提としており、各大学において1単位当たりの必要な授業時間を確保するとともに、学生には大学の教室で授業を受けるだけでなく、教室外においても自主的な学習を行うことが求められます。このため、授業中に指導を行うだけでなく、シラバス等により、年間スケジュールや毎回の講義内容を詳細に明示したり、
講義の前提として読んでおくべき文献を指示するなど、学生の準備学習・復習について適切な指示を与えることも大学の教員の務めと言うことができます。このことについて、大学やそれぞれの教員が自覚を持って、授業の設計と学習指導に取り組むことが必要であり、また、これに応じて、学生の側においても主体的に学習に取り組んでいくことが重要です。
*
昭和31年(1956年)10月22日の『大学設置基準』第二十一条に「一単位の授業科目を四十五時間の学修を必要とする内容をもつて構成することを標準とし」とあり、平成3年(1991年)6月24日の『大学設置基準の一部を改正する省令の施行等について』、いわゆる「大学設置基準の大綱化」の後もこの点は踏襲されている。ほとんどの科目は2単位だから、2 単位=90時間=5400分。90 分 1 コマと考えると、60 コマの学修が必要となる。大学で行なわれる講義は15回=15コマなので、自宅学習は45コマ必要。これを予習と復習に振り分けると、例えば、予習15コマ、復習30コマとなる。簡単に結論だけ言えば、1科目の単位を得るためには、予習:授業:復習=1:1:2の学習が必要ということ。
1つの90分授業に対して、270分の予習・復習が必要であるような講義をせねばならないということである。当然、講義は、学生とのより活発なやりとりを含むものとなり(そうでなければ、予習・復習の成果が計測されない)、大きな変化を余儀なくされる(少人数でなければ、そのような計測は不可能であるから、少人数制の徹底も必要になる)。詳細は省くが、このことはすでに1951年の報告『大学に於ける一般教育』において指摘されていた。
また、いわゆるキャップ制によって課された一年間に取得できる単位数の制限も、今以上に厳しく制限されるべきだろう。さらに、学生の「オン・オフ」の切り替え、彼らの「充実したキャンパス・ライフ」(海外留学、ボランティア活動など)をアメリカ並みに実現しようと思うなら、夏季長期休暇の確保は必須である。この観点から言うと、「夏季長期休暇の確保」と「1学期=15週の徹底」を両立させようと思うなら、残る手段は「四月開始の廃止」しかない(長期休暇を挟んで1学期を行なうのは学習効果の定着という観点から非効率的だからである)。
アメリカの単位制度を導入しておきながら、アメリカの学期制度を導入しないのは制度設計的に無理があることを今一度考え直すべきだと思う。この点については稿を改めるが、いずれにしても「大学の時間」を考えるとは、「学生の時間」「学びの時間」「余暇とは何か」「学期はどうあるべきか」といったことを理念と照らし合わせつつ考え直すことでもある。
*
大学で学生たちが着実に学力をつけるような授業を行なうことを「単位の実質化」という。単位の実質化は、一方で、以上に見たように、大学の制度設計および各教員の授業設計に対する根本的な態度変更を要求する。
しかし他方で、もし文科省と経済界が「単位の実質化」とその期待される結果としての「大学生の学力アップ」を真剣に検討するのであれば、大学だけに「勉強時間の確保」を求めても効果が上がらないことは明らかである。
まず、「大学の時間」を大幅に奪っている「就職活動」をどうにかすべきである。文科省は、大学に「学生の勉強時間」の確保を求める前に、産業界に就職活動のあり方を今以上に根本的に見直すよう求めるべきである。
次に、学生に学業成績に応じた積極的な財政支援を今よりもっと弾力的に行ないつつ、学生アルバイトを(少なくとも学期中は)全面禁止するか、大幅に時間制限を掛ける必要があるだろう(何度も言うが、文科省と産業界が「勉学の時間の確保」を真剣に求めるのであれば、だ)。だが、これもまた産業界の利害に直結している。社会は、大学生を低賃金労働者として大いに利用している現実を直視する必要がある。
大学にばかり文句を言っていても始まらない。変わらねばならないのは大学だけでなく、産業界であり、そして社会である。
「大学の時間」を考えるとは、「単位」を考えることでもあるが、それは単なるつじつま合わせ、数合わせであってはならない。今日まで一貫して引き継がれており、基準改正時において議論されたこともほとんどない、新制大学の尊重する自学自修を反映した教室内外の45時間の履修を「最も基礎的な単位算出基準としての1単位」とするという「大原則」自体は、現代の日本の大学と大学生を取り巻く状況下において、本当に「とくに問題はない」のだろうか。
「大学の時間」を考えること、それは、奇妙な効力をもった、いくつもの反時代的な「アカデッミック・クォーター」を発明することでなければならないのではないか。
*参考・清水一彦『日米の大学単位制度の比較史的研究』(風間書房、1998年)
《ここで注意しなければならないのは、〔大綱化によって、〕授業時間設定の自由度は増したが、従来の1単位の大原則は順守され「標準45時間の学修」という基本的枠組みは残されたことである。したがって、45時間から授業時間を差し引いた残りの時間は、学生の予習や復習の準備学習の時間となり、その意味では制度発足〔時〕の自学自修の尊重は維持されたと言える。大学審議会の議論の過程でも、当初は教室外の学習成果を単位計算の中に組み入れることが現実には空洞化しており、単位計算方法を「技術的な観点から」見直すことに始まったという。しかし、その後に「標準45時間の学修」という大枠は最終の段階で残すことになり、それは「単位の実質化という観点から」この問題を考え直した結果でもあった。教室外の準備学習及びその成果をどのように考え具体的に対処していくかという、古くて新しい問題がここでも議論の中心となったのである。》(410頁)
《最も基礎的な単位算出基準としての1単位については、新制大学の尊重する自学自修を反映した教室内外の45時間の履修という大原則は今日まで一貫して引き継がれている。この原則自体はとくに問題はなく、基準改正時において議論されたこともほとんどない。》(415頁)
Saturday, September 15, 2012
大学の時間(3)単位と時間
日本の単位制度小史(2)大綱化以後 もちろん文部省も、日本の大学も、この事態にただ手をこまねいていたわけではない。1998 年の大学審議会答申『21 世紀の大学像と今後の改革方策について―競争的環境の中で個性が輝く大学―』の中で「我が国の大学制度は単位制度を基本としており、単位制度の実質化は教育方法の改善にとって重要な課題である。現在の単位制度は、教室における授業と事前・事後の準備学習・復習を合わせて単位を授与するものであり、学生の自主的な学習が求められる」と「自学自修」の重要性を強調し、2005年1月28日の中央教育審議会答申『我が国の高等教育の将来像』では、「単位の考え方について、国は、基準上と実態上の違い、単位制度の実質化(単位制度の趣旨に沿った十分な学習量の確保)や学習時間の考え方と修業年限の問題等を改めて整理した上で、課程中心の制度設計をする必要がある」として、より鮮明に「単位の実質化」を求めた。大学側も「シラバス」や「学生による授業評価」、単位の過剰登録を防ぐため、1年間あるいは1学期間に履修登録できる単位の上限を設けるいわゆる「キャップ制」の導入などを進めてきたが、学生の学力向上に関して目立った改善効果が見られなかったため、さらに直近では今年(2012年)3月26日、中教審大学教育部会は『予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ』と題して、「教育の質的転換は“待ったなし”の課題。学修時間を増やして学生の主体的な学びを確立する取り組みを柱に本腰を入れたい」とする報告書をまとめた[11]。たしかに一面からすれば、つまり1単位=講義+準備学修(予習・復習)戦前から今日まで、日本の大学教育はあまり変わっていないかもしれず、残念ながら日本の大学に固有の「大学らしさ」は未だに発揮されないままなのかもしれない。だがおそらく、ごく大局的に見れば、学生が自主的かつ主体的に「学修」しない、教員も学生も紋切り型の機械的・自動的・受動的な知識偏重の詰め込み教育に陥ってしまっているという非難はいつの時代にもあり、それが教育と教育をめぐる学を前進させてきたのである。むろん学生側の「あと三分の二」の勉学活動を授業へ組み込むには、大学教員側からの教育方法や教授方法の開発や工夫が欠かせないが、それにはすでに、ラーニング・ポートフォリオ、コンセプト・マップなど実際に種々試みられている事例がある[12]。
教育のパラドックスの象徴としての単位 問題はむしろその先にある。「学修時間を増やして学生の主体的な学びを確立する」という言葉そのもの、あるいは「自発性を育てる」とか「自学自修へ導く」という考えそのものに端的に見られるように、教育、とりわけ高等教育とはそもそもパラドクシカルなものである。単位とは、その高等教育という不可能事を可能にしようとする最も象徴的な指標なのである。にもかかわらずというべきか、だからこそというべきか、土持の指摘するように、「戦後日本の大学の歴史において、この単位制度が注目され真摯な議論が行なわれたことは少なく、単位制の導入期の新制大学発足時と大学設置基準の大綱化に伴う大学改革のわずか2回を数えるに過ぎない」[13]。だが、その2回がいずれも日本の高等教育の大変革期であったという事実は見逃せない。単位の問題は、理論的にも実践的にも、大学をめぐる諸問題の中でも中枢に位置しながら、あまりにも根幹的であるがゆえにかえって問いに付されずに来た問題なのである。
単位の時間 時計で計測される時間(分・秒)はいかに客観的な外観を持とうとも、歴史上のある時点で発明された一つの抽象的に仮構された単位であるが、大学の時間としての「単位」もまた、一つの抽象的・仮構的な存在であり、その歴史的な文脈によって異なる意味を与えられてきた。そして、そこで「問題」とされることは、時代によって、状況によって変移していく。この「単位の時間」を考慮に入れる必要があるのである。戦後の大学改革、1991年の大綱化、そしてそこから二十年を経て第三の改革が進みつつあるが、一つだけ大きな問題点を指摘しておくとすれば、単位制の本来的な理念である「学生を自学自修へ導く」ための方策の一つとして、「15週の授業」の徹底がなされ、その結果、唯一の長期休暇になりうる夏休みが縮減されている。「自学自修」と言っておきながら、学生には自分で何でも決められる「空白の時間」をなるべく与えたくないかのようだ。これは大いに考え直す余地がある。教育とは、強制力によってではなく、魅力によって人々を惹きつけ、義務(obligation)によってではなく、憧憬(aspiration)によって目標へと導こうとするものである。等しく学生の内にも、教育職員の内にも、事務職員の内にも、人間がもつ本来的な自主性・創造性があると信じきること、可能な限り彼らに自由裁量の余地を与えること、そのような自由と自主性の尊重と共にしか、多孔空間としての大学は開かれないだろう。単位時間が決定された20世紀初頭のアメリカの大学生と、現在の日本の大学生とでは状況が違いすぎる。現代日本の学生に「自学自修」への道を開くにはむしろ、「就職活動」からも「アルバイト」からもできるかぎり切り離されうる環境の整備こそが急務であり、文科省は双方にとって有益な妥協点を見つけるべく、産業界と交渉すべきである。
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