2*
プロ球団のオーナーが就任後、真っ先にやるべきことは何だろうか?それは現場の激励、視察ではあるまいか。「ご苦労さん、よくやってくれているね。さらに一層の奮起を期待します」などなど。そして、少なくとも現場を自分の目で確認したうえで、自分が野球の素人であるということを肝に銘じたうえで、なすべき緊急の改革があるならば、現場の声にしっかりと耳を傾けながら、その改革を行なっていくというのがあるべき姿勢なのではないのか。
大学の理事長が就任後、真っ先にやるべきことは何だろうか?なるほど、大学の各種施設の視察、それも大事なことには違いない。だが、最も大事なことは、今自らの大学でどのような教育が実際になされているのか、その現場を見ることから始めることではないのか。売り場を実際に見に行かない、現場に足を運ばない経営者に、”健全経営”を云々されても困る。
まともな民間企業のトップなら、そこから始めるはずだ。「まず激励、そのうえで、改善点の具体的な(抽象的な精神論ではない)指摘」が基本中の基本だからだ。大学教員は、勉強しない学生たちにさえ、日々そのように接している。「まず激励、そして具体的な改善の奨励」と。いきなりダメ出しから、それも根拠も論拠もない精神論的な完全否定から入るなどとは、教育産業のトップにあるまじき振る舞いであると言わざるを得ない。
現場を見たこともない、生の野球を見たこともない、球場に足を運んだこともないオーナーに、球団の経営改善ではなく――それは完全にプロ野球選手の仕事ではない――、チームのプレイ改善やファンサービス向上による観客動員アップ――それが唯一選手にできることだ――について、何か有意義なことが言えるだろうか?
教室に足を運んだこともない、実際の講義やゼミの風景を見たこともない理事長に、しかもこともあろうに50年前の自分の(しかもろくに勉強しなかったと公言して憚らない自分の)うっすらとした記憶を頼りに、教育の質向上による志願率アップについて、何か有意義なことが言えるだろうか?
「だいたい、あなたがたのプレイはなっていない。私はプロ野球のド素人であり、かつあなた方のプレイを一度も見たことはないが、あなたたちが一生懸命やっているとは到底思えない。あなた方のプレイに魅力がないから、観客動員が悪いのだ」なんて。
一度も講義やゼミに足を運んだことのない理事長が、「あなたがたの教育に魅力がないから、学生が集まらないのだ」とおっしゃる。そんなことがありえるだろうか?まさか。
ひとくちにプロ野球チームといっても、その内部はさまざまであり、例えば、選手に限ってみても、部門によって大きく性質を異にし、選手の気質も、彼らが抱える問題もさまざまであるという基本的事実すらわきまえないオーナーや球団社長に、「プレイの質改善による観客動員」を云々する資格は果たしてあるのだろうか。
ひとくちに大学といっても、その内部はさまざまであり、学部によって大きく性質を異にし、学生気質も、彼らが抱える問題もさまざまであるという基本的事実すらわきまえない理事長が、あるべき大学像を云々する。それは理のあることだろうか?
*
学内でも学外でも業務は山積しており、急いで書いたので、言い足りない、不十分な点も多々あろうかと思う。だが、日本にとってのW杯がほぼ終わりつつある(?)現在、経営陣にも分かりやすい、使える比喩を提示しておこうと考えた次第である。もしお役に立つようなことがあれば幸いです。
私は無意味な感情的対立は不毛だと思っています。相手がどれほど非合理的で、むやみに好戦的で、理不尽であろうとも、最後の最後まで、理性的に、時にユーモアをもって、言論で応戦することが学者として正しい在り方だと信じています。
Tuesday, June 24, 2014
誰にでも分かる比喩で説明する(1)研究と教育の関係
0*
さる大学の大学教員から、「あんたの研究なんかどうでもいいんだ。要はうちの大学でどういう教育をしてくれるのか、それを聞かせてほしい」、そうはっきりと理事長面接で言われたことがある、という話を聞いたことがある。
このようなことを言う理事長は、そもそもまったく教育について理解していない。
私たちは、大学が「教育産業」だということを理解している。そして、教員として可能な限りの努力を行なっている。しかし、上のようなことを言う理事長は、大学が「教育産業」だということを理解していない。どこの民間企業のトップが、自社の業種の特殊性について素人で無知だが、その経営には一家言あるなどと公言するだろうか?
「教育について自分は素人で無知だ。だが企業経営には一家言ある」と公言して憚らない理事や理事長や経営陣を前に、彼らにも分かる言葉遣いで、議論を行なって行かねばならない。現在の私立大学は、そのような状況の中にいることが多いのではないか。以下はそのような現状に鑑みて、私なりにつらつらと考えてみた思索ともつかぬ思索の断片である。
1*
大学経営者の多くが、大学教員から「研究の時間」を奪いさりたがっているように見える。教育とは関係ないと思っているからである。だが、それは間違いであることを、ごくわかりやすい比喩で説明してみる。
優れた研究を行ない、活発に研究業績を発表し、シンポジウムや研究会に招かれる研究者は、ナショナルチーム(プロ野球で言えば侍ジャパンであり、サッカーで言えば日本代表である)に召集される代表選手であり、彼(彼女)が日々教育を行なっている本務校の大学とは、クラブチーム(プロ野球の各球団やJリーグの各チーム)である。
たしかに、研究を活発に行なう研究者は、そうでない研究者に比べて、出張が多く、また学外の(学会や研究会、国際シンポのオーガナイズなど)業務が山積しており、学内的な視点から見れば、不必要な労力を割かれているように見えるかもしれない。だが、そもそも、彼(彼女)が大学のその職に就いたのは、その能力を見込まれてのことであったのであり、まさにその同じ能力が認められているがゆえに、当該研究分野で必要な人材とされているのである。
またたしかに、代表での活躍を重視するあまり、クラブチームで体力温存に走る選手がいるとすれば、それは困りものである。その姿勢は修正されるべきであろう。だが、問題は、代表チームとクラブチームとの間でどのようなバランスを取るかであって、代表かクラブかという絶対的二者択一ではありえないし、ましてや代表で発揮されるべき能力とクラブで発揮されるべき能力が根本的に異なるということではありえない。
つまり、学内で必要とされる「教育能力」と、学外で必要とされる「研究能力」は、発揮の仕方は違うとしても、基本的に同じ能力なのである。香川がマンUと日本代表で違う役割を求められるとしても、発揮すべき能力は同じである。
研究と教育の間に常に「葛藤」があるとしても、決して原理的な「矛盾」が存在しえないのは、ナショナルチームとクラブチームでの活躍の間に常に「葛藤」があるとしても、原理的な「矛盾」が存在しえないのと同じである。
代表に招集されるほどの一流選手は、その能力によって、クラブチームに貢献する。研究で活躍する研究者は、その研究技能でもって、教育に当たるのである。
選手が代表に招集されたことを我がことのように、クラブ全体の名誉として喜び、快く送り出してやる。全面的なバックアップを約束する。それがひいてはクラブチームのためになるのだということを分からないオーナーがいるだろうか?
「あんたの研究に興味はない」と言い放つ理事長は、「あんたの能力に興味はない」と言っているプロ野球チームのオーナーと同じである。
プロ野球チームは、スペシャリスト集団である。彼らの適性を見極め、現在のチーム編成に必要かどうかを(監督や現場の首脳陣とともに)判断するのが、経営陣でありフロントの仕事なのではないのか。
ちなみに、理事長がオーナーなら、理事はフロント(球団社長など)に当たり、学長が監督だとすれば、投手コーチや守備走塁コーチなど、各部門のヘッドが各学部の学部長にあたり、それぞれの学部教員は、投手や野手など各分野のスペシャリストである。
そもそも選手経験のないオーナーや球団社長がプレイを云々すること自体、本来はおかしなことなのであるが、それがまかり通っている以上、議論の土俵には少なくとも乗らねばならない。そして、彼らにしっかりと当たり前のことを理解してもらう必要がある。
さる大学の大学教員から、「あんたの研究なんかどうでもいいんだ。要はうちの大学でどういう教育をしてくれるのか、それを聞かせてほしい」、そうはっきりと理事長面接で言われたことがある、という話を聞いたことがある。
このようなことを言う理事長は、そもそもまったく教育について理解していない。
私たちは、大学が「教育産業」だということを理解している。そして、教員として可能な限りの努力を行なっている。しかし、上のようなことを言う理事長は、大学が「教育産業」だということを理解していない。どこの民間企業のトップが、自社の業種の特殊性について素人で無知だが、その経営には一家言あるなどと公言するだろうか?
「教育について自分は素人で無知だ。だが企業経営には一家言ある」と公言して憚らない理事や理事長や経営陣を前に、彼らにも分かる言葉遣いで、議論を行なって行かねばならない。現在の私立大学は、そのような状況の中にいることが多いのではないか。以下はそのような現状に鑑みて、私なりにつらつらと考えてみた思索ともつかぬ思索の断片である。
1*
大学経営者の多くが、大学教員から「研究の時間」を奪いさりたがっているように見える。教育とは関係ないと思っているからである。だが、それは間違いであることを、ごくわかりやすい比喩で説明してみる。
優れた研究を行ない、活発に研究業績を発表し、シンポジウムや研究会に招かれる研究者は、ナショナルチーム(プロ野球で言えば侍ジャパンであり、サッカーで言えば日本代表である)に召集される代表選手であり、彼(彼女)が日々教育を行なっている本務校の大学とは、クラブチーム(プロ野球の各球団やJリーグの各チーム)である。
たしかに、研究を活発に行なう研究者は、そうでない研究者に比べて、出張が多く、また学外の(学会や研究会、国際シンポのオーガナイズなど)業務が山積しており、学内的な視点から見れば、不必要な労力を割かれているように見えるかもしれない。だが、そもそも、彼(彼女)が大学のその職に就いたのは、その能力を見込まれてのことであったのであり、まさにその同じ能力が認められているがゆえに、当該研究分野で必要な人材とされているのである。
またたしかに、代表での活躍を重視するあまり、クラブチームで体力温存に走る選手がいるとすれば、それは困りものである。その姿勢は修正されるべきであろう。だが、問題は、代表チームとクラブチームとの間でどのようなバランスを取るかであって、代表かクラブかという絶対的二者択一ではありえないし、ましてや代表で発揮されるべき能力とクラブで発揮されるべき能力が根本的に異なるということではありえない。
つまり、学内で必要とされる「教育能力」と、学外で必要とされる「研究能力」は、発揮の仕方は違うとしても、基本的に同じ能力なのである。香川がマンUと日本代表で違う役割を求められるとしても、発揮すべき能力は同じである。
研究と教育の間に常に「葛藤」があるとしても、決して原理的な「矛盾」が存在しえないのは、ナショナルチームとクラブチームでの活躍の間に常に「葛藤」があるとしても、原理的な「矛盾」が存在しえないのと同じである。
代表に招集されるほどの一流選手は、その能力によって、クラブチームに貢献する。研究で活躍する研究者は、その研究技能でもって、教育に当たるのである。
選手が代表に招集されたことを我がことのように、クラブ全体の名誉として喜び、快く送り出してやる。全面的なバックアップを約束する。それがひいてはクラブチームのためになるのだということを分からないオーナーがいるだろうか?
「あんたの研究に興味はない」と言い放つ理事長は、「あんたの能力に興味はない」と言っているプロ野球チームのオーナーと同じである。
プロ野球チームは、スペシャリスト集団である。彼らの適性を見極め、現在のチーム編成に必要かどうかを(監督や現場の首脳陣とともに)判断するのが、経営陣でありフロントの仕事なのではないのか。
そもそも選手経験のないオーナーや球団社長がプレイを云々すること自体、本来はおかしなことなのであるが、それがまかり通っている以上、議論の土俵には少なくとも乗らねばならない。そして、彼らにしっかりと当たり前のことを理解してもらう必要がある。
【ラジオ】古い戦争、新しい戦争
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Sunday, June 22, 2014
仕事の予定
毎月の連載以外に、そして幾つかの刊行可能性を模索している企画以外に、以下の予定があります。新たに幾つかのお仕事のお誘いをいただき、うれしい限りです。機会を与えていただけたことに感謝しつつ、チャレンジしていきたいと思います。「自分たちのサッカー」ならぬ「自分なりの哲学・思想研究」を追究しつつ…。
2014年6月末 デリダ翻訳
2014年7月 09シンポ原稿
2014年9月 宮野さん合評会
2015年3月 デリダ大学論@西山さんパリ・セミナー
2015年3月 フランス現代思想の共同体論(70枚程度)
2015年8月 ベルクソンとリクール(25枚程度)
すみません、もし何か忘れている予定がありましたら、ご連絡いただければ幸いです…。
2014年6月末 デリダ翻訳
2014年7月 09シンポ原稿
2014年9月 宮野さん合評会
2015年3月 デリダ大学論@西山さんパリ・セミナー
2015年3月 フランス現代思想の共同体論(70枚程度)
2015年8月 ベルクソンとリクール(25枚程度)
すみません、もし何か忘れている予定がありましたら、ご連絡いただければ幸いです…。
「自分たちのサッカー」…
ギリシャが10年前に得たような確信を、果たして日本代表は…。
(…)
欧州のトップクラブで活躍するタレントを多数擁するコートジボワールやコロンビアとは違い、特筆すべきスターが見当たらないギリシャは、もしかするとグループCの対戦相手の中で、最も与しやすいと考えられているのかもしれない。
だが、サッカーの流行り廃りとは関係のない、それでいて勝利には絶対不可欠な要素──規律、団結心、組織力──を、しっかりと、あるいは日本以上に携えているのがギリシャであると、私は思っている。初戦でコロンビアに完敗を喫したとはいえ、あの一戦だけですべてを判断するのは早計だ。
果たしてアルベルト・ザッケローニに率いられた日本代表は、ギリシャが10年前に得たような確信を、彼らが呪文のように唱える「自分たちのサッカー」に持ち合わせているのだろうか。苦しい時に立ち返るべきスタイルを手に入れたと、本当に胸を張って言えるのだろうか。互いに負けが許されない状況ではなおさら、そうしたファクターが勝敗に大きく影響を及ぼすような気がしてならない。
(…)文:吉田治良
欧州のトップクラブで活躍するタレントを多数擁するコートジボワールやコロンビアとは違い、特筆すべきスターが見当たらないギリシャは、もしかするとグループCの対戦相手の中で、最も与しやすいと考えられているのかもしれない。
だが、サッカーの流行り廃りとは関係のない、それでいて勝利には絶対不可欠な要素──規律、団結心、組織力──を、しっかりと、あるいは日本以上に携えているのがギリシャであると、私は思っている。初戦でコロンビアに完敗を喫したとはいえ、あの一戦だけですべてを判断するのは早計だ。
果たしてアルベルト・ザッケローニに率いられた日本代表は、ギリシャが10年前に得たような確信を、彼らが呪文のように唱える「自分たちのサッカー」に持ち合わせているのだろうか。苦しい時に立ち返るべきスタイルを手に入れたと、本当に胸を張って言えるのだろうか。互いに負けが許されない状況ではなおさら、そうしたファクターが勝敗に大きく影響を及ぼすような気がしてならない。
(…)文:吉田治良
イライラする横パス
<W杯:日本0-0ギリシャ>◇1次リーグC組◇19日◇ナタル
今大会たくさんチームを見てきて、日本が一番走っていない。例えばスペースに飛び込んだり、相手を引きつけて味方のためのスペースをつくったり、走れないから、そういう動きができない。横にパスを回すだけで、どんなベテランのチームなんだ、日本は。もうスペインや日本のようなパスサッカーは終わったな。足元でパスを受けるだけのサッカーは通用しない。ボールを支配する時間は長いが、縦に出るスピードがないし、裏も取れない。だからシュートまでいけないし、打てない。10人の相手ですら、楽に守れるから疲れないのだろう。
そもそもシュートへの意識の低さも問題だ。もう本田にはFKを蹴るなと言いたい。彼は止まったボールしか蹴れないのか。FKを蹴るような選手は、流れの中でだって前方が空いたら必ずシュートを打つはず。岡崎も香川もシュートゼロじゃあ話にならない。
日本以外のチームがみんな素晴らしく見えるよ。よく走るし、戦う姿勢もある。無我夢中になって得点を取ろうとする。感動するんだ。日本はパス、パス、パス…ってイライラする。「自分たちのサッカー」と言ったって、全然通用していないじゃないか。(日刊スポーツ評論家)
【W杯】ザックジャパンの攻撃はなぜ機能しなかったのか? 決定力不足だけでないギリシャを崩せなかった理由
フットボールチャンネル 6月20日(金)13時26分配信
改めて問う「自分たちのサッカー」とは?
大会中多く聞かれた「自分たちのサッカー」という言葉。果たして「自分たちのサッカー」とは何なのか。未だ見えない。だが、それが何かを検証するのは大会後でもいいのではないか。今重要なのは、目の前の試合を“いかに勝つか”だ。
あれだけエリア内に人が密集していたのだ。中にもっと仕掛ければDFが腕を掴む、足を引っ掛ける、など主審に笛を吹かせる機会ができたかもしれない。拮抗した場面を勝ち抜くための“いやらしさ”がまだまだ足りない。
ザックジャパンは相手が嫌がることをできていただろうか。ギリシャの得意分野でばかり勝負していては、得点を奪うのは難しい。敵の弱点を突く――攻撃の本質を見失っては、本当の意味で攻撃していたとは言えない。どれだけ押し込もうと無意味だ。
前半で退いたキャプテンの長谷部誠は、エースFWのミトログルをベンチに追いやり、カツラニスのファウルを誘った(意図的かは不明だが)。賛否は分かれるだろうが、長谷部は勝利のために重要な仕事をした。
ギリシャから失点する可能性はずっと少なくなった。フェアではないかもしれない。だが、実力で上回る相手に勝つためにはそういった狡猾さも時には必要だ。次なる敵はコロンビア。自分たちのサッカーを発揮できたとして勝てる相手ではないのだ。
あれだけエリア内に人が密集していたのだ。中にもっと仕掛ければDFが腕を掴む、足を引っ掛ける、など主審に笛を吹かせる機会ができたかもしれない。拮抗した場面を勝ち抜くための“いやらしさ”がまだまだ足りない。
ザックジャパンは相手が嫌がることをできていただろうか。ギリシャの得意分野でばかり勝負していては、得点を奪うのは難しい。敵の弱点を突く――攻撃の本質を見失っては、本当の意味で攻撃していたとは言えない。どれだけ押し込もうと無意味だ。
前半で退いたキャプテンの長谷部誠は、エースFWのミトログルをベンチに追いやり、カツラニスのファウルを誘った(意図的かは不明だが)。賛否は分かれるだろうが、長谷部は勝利のために重要な仕事をした。
ギリシャから失点する可能性はずっと少なくなった。フェアではないかもしれない。だが、実力で上回る相手に勝つためにはそういった狡猾さも時には必要だ。次なる敵はコロンビア。自分たちのサッカーを発揮できたとして勝てる相手ではないのだ。
植田路生
ギリシャ戦ドローにセルジオ越後氏「“自分たちのサッカー”とはこの程度。日本はどの国よりも未熟」
SOCCER KING 6月20日(金)13時2分配信
ブラジル・ワールドカップのグループリーグ第2節、初戦のコートジボワール戦を落とした日本は同じくここまで勝ち点0のギリシャと対戦し、0─0で引き分けた。
コートジボワール戦のスタメンから香川真司と森重真人を替えて臨んだ日本は、堅守速攻スタイルを貫くギリシャに対してボールポゼッションで上回り、さらに相手が1人退場となったことでその攻勢をより強める試合を繰り広げたが、最後までゴールを割ることができなかった。
この結果、日本がグループを突破するためにはコロンビア戦の勝利が絶対条件。加えてギリシャがコートジボワールに勝つか引き分けなければならない、という絶望的な状況となった。
試合後、解説者のセルジオ越後氏はサッカーキングの取材で次のように語った。
「『自分たちのサッカー』がどうこうというフレーズが騒がれているけど、一つ答えを出すとすれば、今日のこの試合で見せたプレーが、まさに『自分たちのサッカー』だよ。本来の力を出せていないのではなくて、これが世界における我々の本来の力なんだ。そこを見誤っては成長がない。他の試合をよく見てほしい」
「グループステージ突破は、限りなく可能性が低い。コロンビアはメンバーを落としても日本より強い。実力で言えば、グループの1位はコロンビアで、2位はコートジボワールが妥当だ。けれど、突破どうこうではなく、とにかく最終戦には勝って帰ってきてほしい。意地と可能性を見せてほしい。このままでは、本当に何もなくなってしまうよ」
SOCCER KING
前ミラン指揮官、ギリシャ戦の本田のプレーは「少しガッカリした」
ブラジル・ワールドカップのグループリーグ第2節が19日に行われ、グループCでは日本代表とギリシャ代表が対戦。日本はボールを支配し、ギリシャに退場者が出たため、数的優位も得たが、最後まで得点を挙げることはできず、スコアレスドローに終わった。
イギリスでは同試合を『BBC』で放映。ワールドカップ期間中に同局で解説者を務めている前ミラン指揮官のクラレンス・セードルフ氏が、日本代表FW本田圭佑について言及した。
(…)また、昨シーズン途中から率いたミランで指導をした本田のプレーについては、以下のようにコメントした。
「本田のプレーには少しガッカリした。彼は常に中央でいい位置取りをするが、パスの選択肢を間違えていた。フリーの選手にパスをせず、カットされる場面が目立った。彼は常に相手ゴールから離れた場所でプレーしていたし、日本の攻撃時にも前線にいなかった」
「彼はもう少し速くプレーする必要があるし、私がイタリアで彼の起用に困っていた理由はプレーの遅さだ。彼は昨シーズン終盤に少しプレーが速くなり、やや改善された。だが彼は規律と才能のある選手で、良い左足を持っている」
(…)また、昨シーズン途中から率いたミランで指導をした本田のプレーについては、以下のようにコメントした。
「本田のプレーには少しガッカリした。彼は常に中央でいい位置取りをするが、パスの選択肢を間違えていた。フリーの選手にパスをせず、カットされる場面が目立った。彼は常に相手ゴールから離れた場所でプレーしていたし、日本の攻撃時にも前線にいなかった」
「彼はもう少し速くプレーする必要があるし、私がイタリアで彼の起用に困っていた理由はプレーの遅さだ。彼は昨シーズン終盤に少しプレーが速くなり、やや改善された。だが彼は規律と才能のある選手で、良い左足を持っている」
Thursday, June 19, 2014
啓蒙の時代の科学的啓蒙、殺人の精神分析、MK2
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Wednesday, June 18, 2014
6/20 WINC6月例会《東部ウクライナ事態の起源》
WINC6月例会のリマインダーをお送りいたします。
(変則的に、6月20日金曜日という平日の、
夕方5時30分からおこなわれますので、ご注意ください。)
今回は、 韓国の論壇で鋭く時代状況を撃つ論客として注目されている
パク・ノジャさんをお呼びして、
「東部ウクライナ事態の起源」 と題したご報告をしていただきます。
パク・ノジャさんは、
『ハンギョレ』 新聞の記事などで根強い人気と尊敬をかち得ている方ですから、
日本でもご存じのひとは多いかと思いますが、
レニングラード生まれの知識人で、
主要には朝鮮語で論陣を張っていますが、
ノルウェーのオスロ大学の教員でもあります。
存在自体があらゆるナショナルな発想を超えてしまっていますね。
旧ソ連出身であるというバックグラウンドを持つ方であるからこそ 、
この緊迫したウクライナの状況を、
いっそう深いところで論じてくださるものと期待しています。
御講演と 質疑応答という形にします。
あらためて整理すると次のようになります。
――――――――――――――――――――――――――
■ 日時 6月20日金曜日 午後5時30分から
■ 場所 東京外国語大学海外事情研究所 研究講義棟4階427
※ 東京外国語大学の住所は「府中市朝日町3-11-1」です。
西武多摩川線(中央線武蔵境駅にてのりかえ)多磨駅 下車徒歩4分
あるいは、京王線 飛田給駅下車北口からの循環バスで5分、
「東京外国語大学前」下車です。
東京外国語大学のホームページ上の案内図を参考にしてください。
URLは、http://www.tufs.ac.jp /access/tama.htmlです。
■ 講演者 パク・ノジャ(朴露子)さん
■ 主題 「東部ウクライナ事態の起源」
■ 言語 朝鮮語の講演ですが、朝鮮語⇔日本語の通訳を
東京外国語大学大学院のキムウネさんが引き受けてくれます。
パク・ノジャさんの御講演は、日本ではなかなかない機会です。
このような素晴らしい機会が実現したのは、
高榮蘭さんがあいだに入ってくださって、
わたしたちを結び付けてくださったからでした。
ぜひお誘い合わせのうえ、ご参集ください。
(WINC運営委員会)
(変則的に、6月20日金曜日という平日の、
夕方5時30分からおこなわれますので、ご注意ください。)
今回は、
パク・ノジャさんをお呼びして、
「東部ウクライナ事態の起源」
パク・ノジャさんは、
『ハンギョレ』
日本でもご存じのひとは多いかと思いますが、
レニングラード生まれの知識人で、
主要には朝鮮語で論陣を張っていますが、
ノルウェーのオスロ大学の教員でもあります。
存在自体があらゆるナショナルな発想を超えてしまっていますね。
旧ソ連出身であるというバックグラウンドを持つ方であるからこそ
この緊迫したウクライナの状況を、
いっそう深いところで論じてくださるものと期待しています。
御講演と 質疑応答という形にします。
あらためて整理すると次のようになります。
――――――――――――――――――――――――――
■ 日時 6月20日金曜日 午後5時30分から
■ 場所 東京外国語大学海外事情研究所 研究講義棟4階427
※ 東京外国語大学の住所は「府中市朝日町3-11-1」です。
西武多摩川線(中央線武蔵境駅にてのりかえ)多磨駅 下車徒歩4分
あるいは、京王線 飛田給駅下車北口からの循環バスで5分、
「東京外国語大学前」下車です。
東京外国語大学のホームページ上の案内図を参考にしてください。
URLは、http://www.tufs.ac.jp /access/tama.htmlです。
■ 講演者 パク・ノジャ(朴露子)さん
■ 主題 「東部ウクライナ事態の起源」
■ 言語 朝鮮語の講演ですが、朝鮮語⇔日本語の通訳を
東京外国語大学大学院のキムウネさんが引き受けてくれます。
パク・ノジャさんの御講演は、日本ではなかなかない機会です。
このような素晴らしい機会が実現したのは、
高榮蘭さんがあいだに入ってくださって、
わたしたちを結び付けてくださったからでした。
ぜひお誘い合わせのうえ、ご参集ください。
(WINC運営委員会)
【ラジオ】安楽死:フランスはベルギー・モデルに倣うべきなのか?
Société |
Euthanasie : faut-il s'inspirer du modèle belge ? |
Le Conseil d’État rendra ce vendredi son avis sur le cas de Vincent Lambert, ce patient tétraplégique en état de conscience minimale après un accident de la route. De son côté, la Belgique autorise l'euthanasie, y compris pour les mineurs. Faut-il s'en inspirer ? Nous attendons vos réactions et témoignages. |
Tuesday, June 17, 2014
【訂正】6/13『週間読書人』書評
校正時に修正をお願いしていた箇所が読み取りにくかったようで(編集者の方にはご迷惑をお掛けしてすみませんでした)、一つ句点が落ちてしまいました。
四段目の真ん中あたり:
訂正前:自らの現象学のア・ ポステリオリ性を強調するデリダの論法の~
訂正前:自らの現象学のア・ポステリオリ性を強調する。 デリダの論法の~
これ以外は訂正箇所はありません。
四段目の真ん中あたり:
訂正前:自らの現象学のア・
訂正前:自らの現象学のア・ポステリオリ性を強調する。
これ以外は訂正箇所はありません。
【ラジオ】プルースト的であるとはどういうことか?
Grands Classiques |
Qu'est-ce qu'être proustien ? |
Etre proustien, c'est quoi ? Alors qu'un « balzacien » est quelqu'un qui connaît Balzac, la notion de « proustien » va au-delà de la littérature et témoigne d'une fascination étonnante pour une oeuvre qui n'épuise jamais ses significations... A écouter sur France Culture Plus. |
6/21 社倫研公開シンポジウム「工業化と企業家精神-ヨハネス・ヒルシュマイヤーの時代-」@南山大
公開シンポジウム「工業化と企業家精神-ヨハネス・ ヒルシュマイヤーの時代-」のご案内【再掲】
下記のとおりシンポジウムを開催致しますのでご案内申し上げます 。皆様のご参加をお待ちしております。
記
■テーマ
工業化と企業家精神:ヨハネス・ヒルシュマイヤーの時代
■日時
2014年6月21日(土)13:30~17:40
■場所
南山大学 名古屋キャンパスR棟1階フラッテンホール
交通アクセス → http://www.nanzan-u.ac.jp/ Information/navi/nagoya_main. html?15_7_1
■趣旨
経済学者・経営史家ヨハネス・ヒルシュマイヤー(1921- 1983)の著作集『工業化と企業家精神』(日本経済評論社)の
刊行を記念してシンポジウムを開催します。ヒルシュマイヤーは、 カトリック教会神父・神言修道会会員として来日、南
山大学長在職中に急逝するまでの間、日本的経営をはじめ、 日本文化や日本社会に関する多彩な業績を残しました。この
シンポジウムでは、幅広い世代の専門家の目を通じて、「 ヒルシュマイヤーの時代とその後」を考えます。
■第I部 講演
・由井 常彦(公益財団法人三井文庫文庫長/明治大学名誉教授)
「日本の経営発展の将来展望―日本のシステムの連続( コンティニュイティ)と変化(チェンジ)について」
・宮本 又郎(企業家研究フォーラム会長/大阪大学名誉教授)
「ヨハネス・ヒルシュマイヤー博士と企業者史学の発展」
■第II部 パネル・ディスカッション 「ヨハネス・ヒルシュマイヤーの研究をめぐって」
<パネリスト>
・杉山 伸也(社会経済史学会代表理事/慶應義塾大学名誉教授)
・橘川 武郎(経営史学会会長/一橋大学大学院商学研究科教授)
・ばん沢 歩(大阪大学大学院経済学研究科教授)
・石井 里枝(愛知大学経営学部准教授)
・岡部 桂史(南山大学経営学部准教授)(司会)
■総合司会
奥田太郎(南山大学社会倫理研究所第一種研究所員/ 人文学部准教授)
■プログラム
13:30~13:35 開会の辞 丸山雅夫(南山大学社会倫理研究所長)
13:35~13:45 南山大学長挨拶 ミカエル・カルマノ(南山大学長/南山学会会長)
13:45~15:15 第I部 講演
15:15~15:30 休憩
15:30~17:30 第II部 パネル・ディスカッション
17:30~17:40 閉会の辞 川崎勝(ヒルシュマイヤー著作集編纂委員会委員長、 元南山大学経済学部教授)
■主催
南山大学社会倫理研究所/南山学会
■共催
経営史学会関東部会・関西部会・中部ワークショップ/ 企業家研究フォーラム
■協賛
南山大学経済学会・経営学会
■協力
南山大学史料室
■定員
500名
■申込方法
必要事項を明記の上、 EメールまたはFAXにて下記連絡先までお申し込み下さい。( 申込締切:2014年6月19日)
【必要事項】
●氏名(ふりがな)
●所属
●Eメールアドレス、または、住所、または、電話番号・ FAX番号(連絡方法に応じてお選び下さい)
●懇親会(18時00分~)に □参加する □参加しない(該当をお選びください)
*当日申込も可能ですが、 定員超過の場合はご予約いただいた方を優先いたします。
*懇親会会費(4,000円) は当日会場受付にてお支払いいただきます。
(南山学会会員はお支払いいただく必要はありません。)
*シンポジウム参加費は無料です。
下記のとおりシンポジウムを開催致しますのでご案内申し上げます
記
■テーマ
工業化と企業家精神:ヨハネス・ヒルシュマイヤーの時代
■日時
2014年6月21日(土)13:30~17:40
■場所
南山大学 名古屋キャンパスR棟1階フラッテンホール
交通アクセス → http://www.nanzan-u.ac.jp/
■趣旨
経済学者・経営史家ヨハネス・ヒルシュマイヤー(1921-
刊行を記念してシンポジウムを開催します。ヒルシュマイヤーは、
山大学長在職中に急逝するまでの間、日本的経営をはじめ、
シンポジウムでは、幅広い世代の専門家の目を通じて、「
■第I部 講演
・由井 常彦(公益財団法人三井文庫文庫長/明治大学名誉教授)
「日本の経営発展の将来展望―日本のシステムの連続(
・宮本 又郎(企業家研究フォーラム会長/大阪大学名誉教授)
「ヨハネス・ヒルシュマイヤー博士と企業者史学の発展」
■第II部 パネル・ディスカッション 「ヨハネス・ヒルシュマイヤーの研究をめぐって」
<パネリスト>
・杉山 伸也(社会経済史学会代表理事/慶應義塾大学名誉教授)
・橘川 武郎(経営史学会会長/一橋大学大学院商学研究科教授)
・ばん沢 歩(大阪大学大学院経済学研究科教授)
・石井 里枝(愛知大学経営学部准教授)
・岡部 桂史(南山大学経営学部准教授)(司会)
■総合司会
奥田太郎(南山大学社会倫理研究所第一種研究所員/
■プログラム
13:30~13:35 開会の辞 丸山雅夫(南山大学社会倫理研究所長)
13:35~13:45 南山大学長挨拶 ミカエル・カルマノ(南山大学長/南山学会会長)
13:45~15:15 第I部 講演
15:15~15:30 休憩
15:30~17:30 第II部 パネル・ディスカッション
17:30~17:40 閉会の辞 川崎勝(ヒルシュマイヤー著作集編纂委員会委員長、
■主催
南山大学社会倫理研究所/南山学会
■共催
経営史学会関東部会・関西部会・中部ワークショップ/
■協賛
南山大学経済学会・経営学会
■協力
南山大学史料室
■定員
500名
■申込方法
必要事項を明記の上、
【必要事項】
●氏名(ふりがな)
●所属
●Eメールアドレス、または、住所、または、電話番号・
●懇親会(18時00分~)に □参加する □参加しない(該当をお選びください)
*当日申込も可能ですが、
*懇親会会費(4,000円)
(南山学会会員はお支払いいただく必要はありません。)
*シンポジウム参加費は無料です。
Monday, June 16, 2014
Sunday, June 15, 2014
6/17 Conférence de Jean-Marie Chevalier (Collège de France) : « Abstraction et formes logiques »
17 Juin : « Abstraction et formes logiques »
Jean-Marie Chevalier (Collège de France)
Conférence hors-série du séminaire « Formalisme(s) : la philosophie française et les sciences formelles »
Mardi 17 Juin 2014, 16h30-18h30. Salle Séminaire (sous-sol), Pavillon Pasteur. École Normale Supérieure.
Résumé :Je veux m’interroger dans cet exposé sur la manière dont il est possible ou souhaitable d’utiliser la logique pour parvenir à des thèses ou à des conclusions proprement philosophiques, et plus particulièrement, métaphysiques. Comment fonctionne le passage de la logique vers la métaphysique ? Qu’est-ce qui dans la logique informe positivement notre connaissance du monde ? Je soutiendrai que dans sa plus grande généralité, la logique offre des formes qui sont déjà des catégories du réel. Une abstraction sur ces catégories contribue à dessiner les formes du réel. Jules Vuillemin a examiné l’éventualité d’un passage de la logique au monde sensible par les méthodes abstractives de Alfred N. Whitehead et de Bertrand Russell. Dans leur continuité, je présenterai celle de Charles Peirce, qui se situe entre abstraction aristotélicienne et déduction transcendantale. Aux côtés de la géométrie dans le monde sensible de Jean Nicod et de la constitution de Rudolf Carnap, l’abstraction prescisive en particulier offre un outil pour penser l’effectivité des formes logiques dans le réel. Plutôt que d’une abstraction métaphysique à partir du sensible contrôlée par la logique, il s’agirait d’une abstraction métaphysique à partir de la logique et contrôlée par le sensible, un contrôle empirique de ces conclusions étant en effet indispensable. Dès lors, entre une déduction trop stricte et une induction trop lâche, la voie est bien celle de l’abstraction, mais d’une abstraction corrélée aux acquis des sciences.
6/17 colloque CIEPFC "APPROCHES DE L’INDIVIDUEL : ÉPISTÉMOLOGIE, LOGIQUE, MÉTAPHYSIQUE"
17 JUIN : APPROCHES DE L’INDIVIDUEL : ÉPISTÉMOLOGIE, LOGIQUE, MÉTAPHYSIQUE
APPROCHES DE L’INDIVIDUEL : ÉPISTÉMOLOGIE, LOGIQUE, MÉTAPHYSIQUE
Cycle proposé par le Ciepfc (République des Savoirs, USR 3608 ENS / Collège de France / CNRS), organisé par Ph. Lacour, A. Lefebvre, J. Rabachou et F. Worms
Première journée : mardi 17 juin 2014
ENS, 45 rue l’Ulm Salle Jules Ferry
Argument
L’individuel place la philosophie devant un défi multiforme. Comment la pensée et la connaissance prétendent-elles appréhender ce qui se présente comme le critère de la réalité, mais qui semble leur échapper ? A-t-on seulement raison de le considérer comme tel : n’est-il pas plutôt un caractère dérivé, secondaire, d’une réalité dont la nature fondamentale serait tout autre, préindividuelle, relationnelle et processuelle ? Ce défi a attiré l’attention de nombreux épistémologues et philosophes français de la seconde moitié du 20ème siècle, permet de relire leurs œuvres encore trop méconnues, ainsi que de croiser et de poursuivre leurs interrogations. Par opposition aux grilles figées des systèmes, la possibilité d’une modélisation (ainsi chez G.G. Granger ou J.C. Pariente) a constitué, pour de nombreuses disciplines la promesse d’une saisie fine et différenciée, voire dynamique, de l’individuel. Par ailleurs, une autre tradition philosophique (ainsi chez G. Simondon) substitue à cette insistance cognitive, mais à partir, elle aussi, d’un rapport à la science, la technique et la connaissance, une métaphysique fondée sur le primat des relations individuantes. L’individu est alors pensé comme le résultat d’un processus d’individuation, qui est constitutif de la réalité elle-même. Dès lors, faut-il privilégier une approche de type critique, qui analyse les conditions de possibilité logiques d’une connaissance de l’individu, ou une démarche unificatrice, qui consacre la primauté de l’ontologie ? L’alternative est-elle si stricte qu’elle le semble au premier abord : n’y a-t-il pas une visée ontologique implicite de l’épistémologie, ainsi qu’un appui épistémologique de l’ontologie ? Autour d’un problème partagé, ce colloque ambitionne d’ouvrir un champ de travail en commun dans la philosophie contemporaine, articulant les différentes traditions de l’épistémologie, de la logique et de la métaphysique, qu’elles soient « françaises » ou « analytiques ».
Programme
9h-9h30 : ouverture par Frédéric Worms, directeur du Ciepfc
9h30-10h15 : Philippe Lacour, « Le statut épistémologique de la connaissance clinique : abduction, casuistique ou transduction ? »
10h15-11h : Jean-Michel Salanskis, « L’individu et la différence sans concept »
Pause
11h15-12h : François Clementz, « De l’individu en général »
Pause déjeuner
14h-14h45 : Anne Lefebvre, « Critère, degrés ou dépassement de l’individualité. Trois apports de la philosophie de l’individuation de Simondon »
14h45-15h30 : Julien Rabachou, « Strawson face à l’expérience des individus »
15h30-16h : clôture
Cycle proposé par le Ciepfc (République des Savoirs, USR 3608 ENS / Collège de France / CNRS), organisé par Ph. Lacour, A. Lefebvre, J. Rabachou et F. Worms
Première journée : mardi 17 juin 2014
ENS, 45 rue l’Ulm Salle Jules Ferry
Argument
L’individuel place la philosophie devant un défi multiforme. Comment la pensée et la connaissance prétendent-elles appréhender ce qui se présente comme le critère de la réalité, mais qui semble leur échapper ? A-t-on seulement raison de le considérer comme tel : n’est-il pas plutôt un caractère dérivé, secondaire, d’une réalité dont la nature fondamentale serait tout autre, préindividuelle, relationnelle et processuelle ? Ce défi a attiré l’attention de nombreux épistémologues et philosophes français de la seconde moitié du 20ème siècle, permet de relire leurs œuvres encore trop méconnues, ainsi que de croiser et de poursuivre leurs interrogations. Par opposition aux grilles figées des systèmes, la possibilité d’une modélisation (ainsi chez G.G. Granger ou J.C. Pariente) a constitué, pour de nombreuses disciplines la promesse d’une saisie fine et différenciée, voire dynamique, de l’individuel. Par ailleurs, une autre tradition philosophique (ainsi chez G. Simondon) substitue à cette insistance cognitive, mais à partir, elle aussi, d’un rapport à la science, la technique et la connaissance, une métaphysique fondée sur le primat des relations individuantes. L’individu est alors pensé comme le résultat d’un processus d’individuation, qui est constitutif de la réalité elle-même. Dès lors, faut-il privilégier une approche de type critique, qui analyse les conditions de possibilité logiques d’une connaissance de l’individu, ou une démarche unificatrice, qui consacre la primauté de l’ontologie ? L’alternative est-elle si stricte qu’elle le semble au premier abord : n’y a-t-il pas une visée ontologique implicite de l’épistémologie, ainsi qu’un appui épistémologique de l’ontologie ? Autour d’un problème partagé, ce colloque ambitionne d’ouvrir un champ de travail en commun dans la philosophie contemporaine, articulant les différentes traditions de l’épistémologie, de la logique et de la métaphysique, qu’elles soient « françaises » ou « analytiques ».
Programme
9h-9h30 : ouverture par Frédéric Worms, directeur du Ciepfc
9h30-10h15 : Philippe Lacour, « Le statut épistémologique de la connaissance clinique : abduction, casuistique ou transduction ? »
10h15-11h : Jean-Michel Salanskis, « L’individu et la différence sans concept »
Pause
11h15-12h : François Clementz, « De l’individu en général »
Pause déjeuner
14h-14h45 : Anne Lefebvre, « Critère, degrés ou dépassement de l’individualité. Trois apports de la philosophie de l’individuation de Simondon »
14h45-15h30 : Julien Rabachou, « Strawson face à l’expérience des individus »
15h30-16h : clôture
Saturday, June 14, 2014
【ラジオ】ムールージ、ウォルポール、フーコー
Musique |
Comme un p’tit coquelicot : Mouloudji, en souvenir des souvenirs |
Il y a 20 ans, le 14 juin 1994, disparaissait Mouloudji. L'interprète des « Feuilles mortes » de Cosma et Prévert, du « Déserteur » aussi, auteur, acteur et même peintre, encouragé par Sartre et Jean-Louis Barrault à ses débuts. Ce n'était pas l'auteur de ce « Comme un p'tit coquelicot » « Werther de toute une génération » avait écrit une critique (les paroles sont de Raymond Asso) mais ... |
Idées |
Le jardin de Julie |
Tant de choses ont changé dans les sensibilités dans la seconde moitié du XVIII° siècle ! Comme la nature humaine cesse d’être hantée par le péché originel, la nature tout court est réhabilitée ; on cesse de lui opposer la raison. Et le regard porté sur le paysage s’en trouve métamorphosé. D’Angleterre, nous arrive, comme souvent, une mode nouvelle. Sir Horace Walpole, important homme ... |
Opinion |
Michel Foucault sur France Culture dès le vendredi 13 juin |
A l’occasion du 30ème anniversaire de la mort de Michel Foucault le 25 juin prochain, France Culture rend hommage au philosophe, auteur d’une des œuvres les plus importantes et les plus originales du XXème siècle. Histoire de la folie à l’âge classique, Les Mots et les choses, L’Archéologie du savoir, Surveiller et punir, Histoire de la sexualité, autant de travaux qui marquent la vie ... |
Friday, June 13, 2014
近況
あっという間に、もう木曜の深夜である。疲れ果てている。
土・日:ドゥルーズ・カンファレンスin大阪。発表の機会を与えていただき、どうもありがとうございました。おかげで、 より広い世界を見ることが出来ました。これほど大規模な国際学会でも、日本の幅広い陣容を紹介し( そもそも彼らにOKをもらえること自体がhさんの実力と人徳だ と思います)、学生たちも巻き込みつつ、すべてのイベントを成立させつつ、 理想と現実を力業ですりあわせていけたのも、hさんならではだと感動しました。われわれのパネルはいささか場違いでしたが、まあ、それもいいんではないかと…。電車が混んでいて、結局家に帰り着いたのは11時過ぎ。
月曜は、書評校正し送付→3限:3年ゼミ→4限:2年ゼミ→書類作成
火曜は、昼から授業準備→書評最終確認→4時半から5時半まで、「結婚の哲学」関連DVD上映会(100分で名著『旧約聖書』編)→6時から7時まで、「西洋哲学史」関連DVD上映会(『四銃士』)→7時半からMP整理→翌日のための準備、早朝5時までかかってようやく終了。
水曜は、朝1限授業→2限MP整理→昼休みなしで3限にかけて卒論ゼミ→3時~4時半:某重要会議→教授会→コース会議
木曜は、昼休みに会議、3限(授業準備をする予定だったのに)教務委員の雑務に忙殺される+書類作成、4・5限授業、6限「芸術の哲学」関連DVD上映会(『ダヴィンチコード』→『HCB 瞬間の記憶』)、MP整理→深夜1時半までかかって終了。
Tuesday, June 10, 2014
6/13 衆議院通過と参議院院内集会
もうご存じかと思いますが、 先週の金曜日今回の学校教育法および国立大学法人法改正案は、 衆議院で修正の上可決されました。 修正の要点などについて私大教連のメールニュースがまとめてくだ さっていますので、ここに掲載いたします。
学校教育法等の改悪反対!メールニュース No.16
2014.6.6 発行・日本私大教連書記局
※加盟組合、関係団体、日本私大教連役員・元役員等にBCCにて 一斉配信しています。
※組合員はじめ多くのみなさんに転送をお願いします( 重複ご容赦ください)。
============================== ============================== ===============
★「学校教育法改正に反対するアピール署名」を大きく広げてくだ さい!
◎「アピール署名をすすめる会」HP http://hp47.webnode.jp/
英語版の署名サイトも設置されました http://eigoban.webnode.jp/
※6月5日18時現在、署名数は6053名(非公表含む)です。 多くのメッセージも寄せられています。ぜひご覧ください。
*引き続きメールの転送やツイッターなどで多くの大学教職員、 学生、関係者、市民のみなさんにお知らせください!
※組合、有志、関係団体などで、 声明や決議などの意見表明を引き続き追及してください!
リアリティのある現場からの声が国会審議を動かすカギになります 。
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▼ 本日6日の衆議院文科委員会で、 93条2項3号の修正案とそれ以外の政府案が可決
○本日9時~12時、衆議院文部科学委員会が開かれ、冒頭、 自民・民主・維新・ みんな4会派共同提案による修正案の趣旨説明が行われ、政府案・ 修正案を合わせた審議が行われました。
修正内容は以下の通りです。
【政府案93条2項3号】
三 前二号に掲げるもののほか、教育研究に関する重要な事項で、
学長が教授会の意見を聴くことが必要であると認めるもの
【修正案93条2項3号】
三 前二号に掲げるもののほか、教育研究に関する重要な事項で、
教授会の意見を聴くことが必要なものとして学長が定めるもの
要は「学長が認めるもの」を「学長が定めるもの」 とする修正です。
この修正の趣旨について提案者は、「政府案は教授会が意見を述べ る事項を2項目のみ明記し、 それ以外の事項は学長が認めるものに限定」 していることを問題とし、学長が教授会の意見を聴くべき「教育研 究に関する重要な事項」について、「学長が予め定める」 ことに修正するものと説明しました。
また審議の中では、この修正と合わせて、施行通知にて「 重要な事項」には教育課程の編成や教員の教育研究業績の審査等が 含まれることを盛り込むことも質疑答弁されました。
政府案が、中教審の「審議まとめ」からも大きく後退し、「教授会 の意見を聴く」事項さえも著しく限定したことを「審議まとめ」 の方向へ引き戻す修正ではありますが、そもそも「審議まとめ」が 教授会の審議事項を一律に狭く規制するものであること、政府案が 教授会の位置づけを学長が決定するに当たり意見を述べる機関に貶 め、学長に大きな裁量権を付与していることなど、 今回の法改正の重大性は残されたままです。
修正の件については、 民主党の本法案担当主査である細野豪志議員がご本人のブログで狙 いと経緯を解説していますのでご参照ください。https:// www.goshi.org/archives/4886. html
○本日の審議でも、法改正の目的の問題性、 法案条文が非常に不明瞭であることなどがますます明らかになりま した
しかし、審議日程と修正の取引の中で、 衆議院での審議は打ち切られ、共産・ 社民以外の会派の賛成により、政府案・修正案が可決されました。 また7項目の附帯決議が採択されました。
※本日の委員会審議も含めて、社民・ 吉川はじめ議員が法改正の問題性を非常に端的にブログで指摘して いますのでご参照ください。
日本私大教連と全大教は早急に、 衆議院における審議内容を分析し、 問題点の整理を行うこととしています。 結果はまとまり次第お知らせします。
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▼ 参議院審議に向けて、緊急院内集会を開催します! ふるってご参加ください!
○主戦場が参議院に移るに当たり、参議院議員に法改正・ 法案の問題性を訴え、徹底審議を要請するために、 緊急院内集会を開催します。 多くのみなさんのご参加を呼びかけます!
【日時】 6月13日(金)15時~17時
1時間ほど院内集会ののち議員要請をおこないます。
【場所】 参議院議員会館B103会議室(有楽町線「永田町駅」 が最寄となります)
14時30分より会館入口で通行証を配布します。
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