2021年1月12日に福島勲先生よりいただきました。
Tuesday, June 29, 2021
いただきもの(2021年1月-3月)
Wednesday, June 23, 2021
Tuesday, June 22, 2021
2021年6月下旬
ロンドンWS発表準備の週
6月23日(水)朝:ゼミ、午後:ゼミ、その後、発表準備
6月24日(木)朝:翻訳、★本務校・対面授業再開。午後:授業、夜:その日のうちに火曜のミニレポ採点終わらせる。
6月25日(金)朝:翻訳、午後:授業、夜:発表準備
6月26日(土)朝:発表準備、午後:合同ゼミ、夜:発表準備
6月27日(日)朝:発表準備、午後:PBJ-DI研究会
自著完成の週
6月28日(月)朝:ゼミ、午後:授業、夜:木のミニレポ採点
6月29日(火)朝:ゼミ、午後:授業、夜:金のミニレポ採点
6月30日(水)朝:ゼミ、午後:ゼミ(+学内業務)、夜:査読1
7月1日(木)朝:翻訳、午後:授業、夜:査読2
7月2日(金)朝:病院➡翻訳、★佐大へ対面授業再開。午後:授業、夜:自著完成
7月3日(土)朝:10:00-西日本哲学会・編集委員会、(自著完成)15:00-理事会(代理出席)
7月4日(日)自著完成、火曜のミニレポ採点
ベルクソン、ソレル論完成の週
7月5日(月)朝:ゼミ、午後:授業、夜:木のミニレポ採点
7月6日(火)朝:ゼミ、午後:授業、夜:金のミニレポ採点
7月7日(水)朝:ゼミ、午後:ゼミ、B-S論完成
7月8日(木)朝:翻訳、午後:授業、B-S論完成
7月9日(金)朝:翻訳、★佐大へ。午後:授業
7月10日(土)火曜のミニレポ採点、B-S論完成
7月11日(日)木曜のミニレポ採点、B-S論完成
Sunday, June 20, 2021
ベルクソンにおける「正しく理解された自己利益(intérêt bien entendu)」
政治哲学や社会思想史の専門家にもご参加いただき、ベルクソンとソレル、ベンヤミンについての発表をした。その中でソレルの『創造的進化』評論を取り上げたのだが、ディスカッションで「ベルクソンはintérêt bien entenduについてどう考えていたのか」と質問を受けた。
intérêt bien entendu(正しく理解された自己利益)は、19世紀の政治思想史のなかではどちらかと言えば批判の対象となることの多かった概念だということであった。例えば、たまたまネット検索で目についた杉本竜也さんの「市民的主体性と地方自治」(法政論叢48巻2号)にはこうある。
《しかし、再三記しているように、問題は人々の積極的な関与が期待できないデモクラシーでは、そのような共同体は実現困難だということである。
そこでトクヴィルは「正しく理解された自己利益」(intérêt bien entendu)という考えを持ち出す。彼は、人々が私利を追求することをいったん容認するかわり、私利の追求を公益の実現〔と〕結び付けることで個人的欲求を適正化することによって、個人主義を克服し、公共性を実現することを企図した。この転換を可能にするのが共同体における公的実践であり、これこそが個人主義に陥った人々を公共性へと導くことができる、現実に採用しうる数少ない選択肢だとトクヴィルは考えた。
ただ、トクヴィルにとって、正しく理解された自己利益を前提とした社会・政治理論は次善の策に過ぎない。というのも、彼の中には”経済”というものに対する拭い難い不信感・警戒感が存在していたと思われるからである。》 (123頁)
要するに功利主義的社会観・道徳観の中心に「経済」をどう評価するかということがあったわけである。
ソレルの『創造的進化』評論は、この点についてというわけではないが、ともかくもベルクソンの生命哲学のこの経済学的側面を鋭く指摘している。
「ベルクソン氏が自らの考えを明確にしようとするとき、しばしば経済学者たちから、利便性(commodité)や最小の努力(le moindre effort)、正しく理解された自己利益(intérêt bien entendu)に関する諸々の考察を借用している(例えばpp. 123-124、p. 143)。道すがら膨大な数の失敗について語るとき、ベルクソン氏が経済学に負っているものに気づかなかった人はいないだろう(p. 141)」(第一論文p. 279)。
これは、ソレルの視点から『創造的進化』の論法が浮き立たせられたおかげで出てきた質問であり、普通に生物学的議論だけを追いかけているとほぼ見えてこない翻訳の問題である。
実際、原書Quadrige版p. 133に対するこれまでの訳はこうなっている。
つまり、動きやすくなることは動物にとりまぎれもなく利益(intérêt bien entendu)であった。さきに適応一般に関して述べたように、種の変形はその種特有な利益(leur intérêt particulier)というものからつねに説明されるはずである。変異の直接原因がそこから示されるにちがいない。けれどもそのようにして与えられるものはしばしば変異のごく皮相な原因にすぎないであろう。深い原因は生命を世界につき入れる衝力にある。(真方敬道訳、岩波文庫、1979年、164頁)
それゆえ、動きやすくすることは、動物の真っ当な利益になる。適応一般について述べたように、種の変化をそれぞれの個別的な利益によって説明することは常に可能だろう。このようにして人は変異の直接的な原因を与えることだろう。しかし、このようにして与えることになるのは、たいてい変異の最も表面的な原因だけだろう。深い原因は生命が世界に放った推進力である。(合田正人・松井久訳、ちくま学芸文庫、2010年、171頁)
動物の関心事は、だから言わずもがな、自らの運動能力をさらに際立たせることにあった。適応一般について先に述べたように、種の変化を、それぞれの種の個別の関心事によって説明することはできるだろう。それを形質変異の直接的原因と見なすことはできるだろう。しかし、こうして説明される直接的原因というものは、もっとも表層的な原因でしかない場合が多い。その奥に横たわる原因は、生命活動をわれわれの世界に出現させた衝撃力であり…(竹内信夫訳、白水社、2013年、157頁)
太字で強調した二つの語は、以上の経緯を踏まえれば、ほぼ同義語として捉えてよいということになるだろうか。いやはや、まだまだ修行が足りない、と反省するとともに、自分のフィールドの外に出て話を聞いていただくことの大切さを改めて実感した次第である。ディスカッションに参加いただいた方々、本当にありがとうございました!