Wednesday, August 25, 2021

vocationに悩む(その3)

 ところで、ベルクソン自身はvocationという語をどのように使っているのか。例えば、ギトンはこう述べている。

《ベルクソンは、彼の最後の著作〔『二源泉』〕で、通常の責務すなわち社会的義務を越えたところには、より高次の責務があると述べているが、それはつまるところvocationの責務に他ならない。ただし、ベルクソンはこのvocationという語を用いてはいない。彼はもっとシンプルな「呼びかけ」(appel)という語を好んだのだが、それらはまったく同じことである。》(p. 15)

ギトンは間違ってはいないが、厳密ではない。間違っていないというのは、『二源泉』第一章の道徳的責務をめぐる議論においてたしかにvocationという語は用いられていないからである。厳密でないというのは、『二源泉』第三章の、必ずしもappelと無関係とはいえない文脈において、vocationという語はただ一度だけ用いられているからだ(DS, 228)。

《平凡な教師でも、天才的な人たちの創造した科学を機械的に教えることによって、彼の生徒たちの誰かのうちに、彼自身は持たなかったような天分(vocation)を覚醒させ、知らず識らずのうちに、その生徒を彼の伝達する使命(message)のうちに不可見的に現存しているそれらの偉人たちの競争者に変えるだろう。》(1953年[1977年改訳]・平山高次訳、262‐263頁)

《平凡な教師でも、天才的な人間がつくり出した科学を機械的に教えることによって、その生徒の誰かのうちに、彼自身がもたなかった天分(vocation)を目覚めさせ、知らず知らずにその生徒を偉大な天才たちの――目には見えないが、彼の伝える使命(message)のうちに現存している天才たちの――競争相手にするだろう。》(1965年・中村雄二郎訳、259頁)

《凡庸な教師が、天才の創り出した学問を機械的に教えていても、この教師自身には与えられていない使命(vocation)へ呼び覚まされる者が、その生徒たちのうちから出てくることがある。教師は、この生徒を無自覚のうちに、そうした偉人の好敵手に変えつつあるのであって、そうした偉人は、教師が運び手でしかないこの使命(message)のうちへ――目に見えぬ形で――現前しているわけである。》(1969年・森口美都男訳、434頁)

《凡庸な教師も、天才的な人間の創造した学問をただ機械的に教えることで、彼のある生徒のうちに、彼が自分自身では持たなかった召命(vocation)を呼び起こし、無意識的にこの生徒を偉人たちに匹敵する者へと変容させるだろう。偉人たちは、この教師が伝達した音信(message)のなかに不可視のまま現前しているのである。》(2015年・合田・小野訳、296頁)

Tuesday, August 24, 2021

後期の教科書

 昔のようにデカルトやライプニッツを読んでいた時代は完全に過去のものになってしまった。

しかし、何とか踏みとどまりたいと思い、試行錯誤を繰り返している。

ゼミⅠの教科書:

岡本裕一朗『哲学の世界へようこそ。』、ポプラ社、2019年。

→佐藤岳詩『心とからだの倫理学 エンハンスメントから考える』、ちくまプリマ―新書、2021年。

ゼミⅡの教科書:

斎藤環『キャラクター精神分析』、ちくま文庫、2011年。

→佐藤岳詩『心とからだの倫理学 エンハンスメントから考える』、ちくまプリマ―新書、2021年。

ゼミⅢの教科書:

山口尚『日本哲学の最前線』、講談社現代新書、2021年。

→佐藤岳詩『心とからだの倫理学 エンハンスメントから考える』、ちくまプリマ―新書、2021年。


ハードカバーの専門書や、原書講読は叶わないが、せめて生きのいい哲学に学生たちが触れられる機会になれば。

Monday, August 23, 2021

vocationに悩む(その2)

実際、ギトンのこの著作もLa Jeunesse de Bergsonと名付けられてもよい著作である。目次を訳出しておこう。

序論

第一章:vocationに関する省察

第二章:イメージと名残(images et vestiges)要するに「ベルクソンの顔が写った写真と彼の筆跡」(des visages et des écritures de Bergson, p. 31)のこと。

第三章:平和な少年時代(Paisible adolescence)辞書には「青年期」とか「思春期」という訳語が載っているが、「男は14~20歳、女は12~18歳くらいを指す」という補足説明を見るかぎり、現代的感覚からすると「青年期」は20代のような気がする。「思春期」は別のニュアンスが入ってきそうだし。

第四章:オーヴェルニュでの修行時代(Les années d'apprentissage en Auvergne)

第五章:或る肖像画のための素描

第六章:ベルクソンにおけるvocation mystique

終章:ベルクソンの運命(Destinée de Bergson)

付録・若書き or 初期習作(Travaux de jeunesse):エコール・ノルマルでの二つの小論文

というわけで、この本のタイトルとしてのvocationを訳すには、第一章と終章をもう一度読んでみるほかない。(続く)

Saturday, August 21, 2021

vocationに悩む

よく出てくる研究書なのに、実のところタイトルをどう訳すべきなのかよく分からぬままにやり過ごしてしまっていることが多い。Jean GuittonのLa vocation de Bergson (Gallimard, 1960)もそんな一冊である。

まずこのvocationという語が、きわめて多義的であるうえに、一つ一つの意味も、煎じ詰めて考えてみると、よく分からない。試しに『小学館ロベール仏和大辞典』を引いてみると、「①(生来の)好み、性向、適性、②使命、天職、(本来の)目的、用途、③【神学】神のお召し、召命」などとなっている。

そういうわけで、『ベルクソンの召命』とか『ベルクソンの使命』などと「③寄りの②」の感じで訳されることが多く、それでなんとなく分かった気になって、やり過ごしてしまうのである。

がしかし、それは要するにどういう意味なのか?「召命」はあまりに「訳語」チックで、単独で意味が取れないうえに、そもそもキリスト教の文脈が強すぎる。「使命」は、意味は分かるのだが、何だか「行け、ベルクソンよ!」的な勇壮な感じがしてしまう(気がする)。ただし、ギトンはキリスト教的なニュアンスを濃厚に漂わせているので、そういう意味ではそれほど外してはいないのだが、、、

そもそもこの本は、アカデミー・フランセーズのHenri Mondorが手がけた叢書vocationsの9冊目として刊行された著作であって、それ以前のラインナップ(7タイトル、8冊)を見ると、どうやら有名な作家の青年時代に焦点を当てようとしているらしいことが分かる。

André Bellivier, Henri Poincaré ou la vocation souveraine.

Jean Dellay, La Jeunesse d'André Gide. (2 vol.)

Pierre Flottes, L'Eveil de Victor Hugo (1802-1822).

Henri Mondor, Mallarmé lycéen.

Edouard Rist, La jeunesse de Laënnec.

Géraud Venzac, Jeux d'ombre et de lumière sur la jeunesse d'André Chénier.

そうすると、意味的には「①寄りの②」で訳したいところだが、『ベルクソンの好み・性向』ではファンブックみたいだし、『ベルクソンの適性』ではキャリア教育の指南書のようだし、『ベルクソンの天職』も今一つ、である。(続く)


Wednesday, August 18, 2021

ピエール・アンドルー(Pierre Andreu, 1909-1987)

ピエール・アンドルー(Pierre Andreu, 1909-1987)

最近、彼の伝記?風の短い紹介を見つけた。カルカッソンヌの方のブログのようである。

http://musiqueetpatrimoinedecarcassonne.blogspirit.com/archive/2019/04/02/pierre-andreu-1909-1987-un-ecrivain-atypique-3136177.html

『ベルクソン研究』(Les Études bergsoniennes)の第二号(volume II, 1949)のNotes et documentsという欄に小文?研究ノート?「ベルクソンとソレル」が発表された(pp. 225-227)。半分以上の紙幅(pp. 226-227)は、ソレルの未刊行の遺稿「精神のトリロジー」――1910年にエドゥアール・ベルトに託されたが、その後ベルト夫人が発見し、アンドルーに刊行を託したとのこと――の抜粋に割かれている。一言で言うと、「ベルクソンの成功を作ったのは宗教だ」(p. 227)という趣旨。

第三号(volume III, 1952)に論文「ベルクソンとソレル」が掲載されている(pp. 41-78)。