Tuesday, May 15, 2007
熱視線
ジーコは国内組がいくら健闘しようが、海外組の調子が悪かろうが、後者に全幅の信頼を置き、その序列を頑として変えなかった。オシムは、積極的に国内視察を行ない、就任一年目の去年から今年にかけて、長らく一度も海外組を召集せず、国内組のみで代表戦を戦った(今は混合)。
これで、Jリーグ内での代表選抜への競争意識が活性化したことは疑い得ない。頑張れば自分にもチャンスが回ってくるかもしれない。名前ではなくプレーを見ているという基準が明確化すれば、選手の目の色も変わってくる。
研究者も同じである。頑張っている若手にチャンスを与えるとは、「鍛えてやる」というだけではなく、生き残りのために業績作りのチャンスを与えるということである。大学の紀要に書かせるという以上のチャンスを、である。それを見つけてくるのもまた、一定以上の年齢の研究者の任務なのだろう。
例えば、昨年のブランショ国際コロックは、優秀な若手研究者に、海外の研究者の前での発表の機会を与えていた。いずれ(今年はまだ無理だが)、我々の領域でもこういった機会を少しずつ増やしていければと思う。
ただ、「フランス語を勉強しろ」とお題目のように唱えても、駄目なのだ。実際に目の前で示して見せないと。海外リーグの試合が日本で見られるようになったこと、海外の選手と対等に渡り合う日本人選手の姿を見ることが、国内で頑張る若手選手の意識にどれほどの顕在的・潜在的な影響を与えたことか。
業績作りはたしかに目的化、「お仕事」化してはいけない。札束で頬をひっぱたくがごとき、悪弊の師弟関係も復活させるべきではない。だが、綺麗ごとで人は動かないというのもまた厳然たる事実だ。魅力あるチャンス・メイキングと連動させてこそ、「鍛錬系」は真に駆動しうるのではないか。
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<サッカー日本代表>オシム監督、裾野拡大で近藤らに視線毎日新聞 - 2007/5/14 21:56
サッカー日本代表候補の合宿が14日夜、千葉県習志野市内で始まった。4月に続き、強化目的の3日間の短期キャンプで、最終日には大学生チームとの練習試合も組まれている。オシム監督は裾野拡大をテーマに挙げ、23歳のDF近藤(柏)、左サイドのスペシャリストである村井(磐田)らに注意深い視線を注いだ。
Monday, May 14, 2007
昨日
内容以外に良かった点。なるべく読み上げでなく、話し言葉でまとめるという方針の採用。私も以前述べた「聴診」ということの重要性が強調されたことはよかった。
8月の第4回、ハクロンの中間発表で手を挙げた。かなり逡巡したのだが、やれるだけのことをやって叩かれたほうがいい、と覚悟を決めた。なんとはなしに漂っている期待が幻想であったと判明するなら、それはそれで仕方がない。今の自分の実力を厳しく冷静に見つめ続けること。
私的な理由のほかに、博士課程以上の人、先生方も発表することが望ましい、といった組織上の理由もある。つまり、叩く人、叩かれる人の役割分担をフレキシブルにしておかないと、すぐに学会・研究会的なヒエラルキーが出来上がってしまうおそれがあるので。。
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檄文、ちょっと顔をしかめる人もいれば、もっとやれと言ってくれる人もいたり。まあ、バランスに気をつけつつ、でも言うべきことは言う、という今までどおりのスタンスで続けていきたいと思っています。
蓄積疲労に苦しみつつも、来週の学会発表に向けて鋭意努力。
Wednesday, May 09, 2007
Tuesday, May 01, 2007
抵抗の核
1)MLに檄文的なことを書くのは控えなさい、と少し年上の方にたしなめられる。書き方に気をつけないといけないのは確かなのだが、他方で、不言実行の人と有言実行の人がいるのも事実なので。。私が苛立ち、打破したいと願っている停滞状況自体によって規定されている「抵抗の核」が問題なのであってみれば、私の言動に苛立つ人がいるのはむしろ当然ではないか、という気もするのだが。。
2)日仏哲学会用の論文、およびトゥールーズ篇の発表原稿、それぞれひとまずの完成稿を送る。トゥールーズ篇参加者の論文は随時掲載されているので、興味のある方はどうぞ。
3)あと三週間をきった仏文学会だが、隠喩論文、まだ何も書いていない。一応、骨子は頭にあるので、これを書いていけばいいのだが、早くやらないと。書いているうちにさらにいいアイデアが浮かぶのだが、残念ながら時間切れというのがいつもの悪いパターンなので、改善していかないと。
4)十月・日本篇の準備、着々と進んでいる。海外から9人(10人)、日本から9人のガチンコ対決。お客さんお呼びし、お話を謹聴して「フジヤマ、ゲイシャ、スキヤキ」(スター扱いで接待)はもういいよ。やりたいのは真剣勝負。
5)十一月にコレージュ・ド・フランス主催で行なわれる『創造的進化』シンポジウムのワークショップCFPが出た。関心のある方は、私まで。
6)ハクロンは??これが私にとって一番の「抵抗の核」なのだ。。
Friday, April 27, 2007
「ものすごく真っ当」な方策
出村謙知(でむら・けんじ)さんの「ラグビーの街トゥールーズから起こった旋風」(4月26日)から一部抜粋。
しかも、トゥールーズFCはボー監督を迎えるにあたって、単にトップチームの指揮官に指名するだけではなく、年齢カテゴリー別に4個あるジュニアチームも含めたトゥールーズFC全体のコーチングスタッフを取り仕切るGMとして契約を結んでいる。
つまり、ボー監督の立場は単純に現在のトップチームの成績を上げればいいというだけではなく、ジュニア強化を含め、長期的視野に立ってクラブを健全に発展させていく責任も負ってもいるのだ。
「まずは選手それぞれの特徴をコーチが受け入れること。こちらから、こういうプレーをしろと押し付けることは指導者の仕事とは対極に位置するものだ。常に各選手の優れている点に着眼しながら、それが集積された時に全体として一番強くなりそうな部分を強調したチーム作りを進める必要がある」
そんなコーチ哲学を持つボー監督が、就任1年目にして早くもしっかりしたチーム作りに成功しているのは、前述してきた成績が示す通りだ。
「このチームの若い選手は素晴らしいポテンシャルを持っていて、その上しっかり組織プレーが植え付けられている。ただ、2位になるなんて考えもしなかったこと。今でも、まずは今季当初からの目標である20チーム中10位以内を確保することの方が優先であることに変わりはない」
あくまでも控え目な態度を崩さないポー監督への若い選手たちからの信頼は抜群だ。「ボー監督は、若い自分たちが持っている可能性を最大限に引き出してくれている。彼の存在がなければ、今のチームの成功はなかった」(MFアシル・エマナ)
現在のトゥールーズFCにチーム一丸となっている一体感があるのは、今季スタジアムに行ったことがあるファンなら間違いなく感じていることだろう。よそ者として、一度だけトゥールーズFCの試合を現地取材した者にも、それは十分に感じられた。
圧倒的な存在であるメジャースポーツ、ラグビーに常に圧倒され、一時は経営破綻から3部落ちまで経験したトゥールーズFC。そんな苦境を脱するために取られた方策は、ものすごく真っ当なものだった。すなわち、ジュニア強化に力を注ぎ、自分たちに最もふさわしい実績ある指導者を招いてトップチームの指揮を執らせる一方で、ジュニアも含めたクラブ全体のコーチングシステムを整えるということだ。
Thursday, April 26, 2007
『創造的進化』百周年・日本篇正式決定!
まず、ビッグ・ニュース。実は前々から企画していた『創造的進化』日本篇が、この度本格的に始動することになった。様々な人にあたりをつけ、調整し、企画書を書き、とグランド・デザインを殆ど一人で行なったので、感慨もひとしお。10月15~20日に東京・京都にて(もう一つの地方は却下された。地元人士を恨むべし)。
次に、個人的なこと。
1)『現代思想』5月号のとある欄を執筆。フランス哲学研究の内弁慶的現状をちくり。
2)カッシーラー仏訳と序論、最終確認。三週間ほど遅れて、Annalesの第三巻が出る予定。
3)SubStanceというアメリカの雑誌の『創造的進化』特集に応募していた論文が通った。アングロ=サクソン系には受けるだろうという見通しを持っていたので(彼ら向けに書いたわけではないが)、気に入ってくれたそうで何より。
最後に、友人・知人からメールで報せを受けた新刊・雑誌を幾つか。
・ウェブ上の哲学雑誌としては小柄ながら本格的な部類に入る、P.-F. MoreauのKlêsis。最新号は、ズラヴィシュヴィリ追悼特集。ドゥルーズ解釈では必ずしも彼と一致を見たわけではないが、期待の若手だった。Autour de François Zourabichvili。この手の企画も日本の哲学界では見かけない。お互いを真剣に読み合い、議論し合い、尊敬し合うという当たり前の関係。
・éd. Beauschesneの雑誌 Revue Présentaineの新刊案内。
n°18/19 : Musique, Phénoménologies - Ontologies - interprétations
・Abécédaire de Jacques Derrida, sous la direction de Manola Antonioli. Collection Abécédaire, n°3. Éditions Sils Maria/Éditions Vrin, coédition. マノラは最近、『ドゥルーズと政治』というデカイ論文集(actes)も出しましたね。
・François Azouvi, La Gloire de Bergson. Essai sur le magistère philosophique, Gallimard, coll. "nrf essais", avril 2007. 『デカルトとフランス』が出たときから、次はベルクソンだろうと思ってました。彼は完全にコレージュ狙いですね。
Thursday, April 12, 2007
大学の幼児、幼児の大学
民間企業のように、「私大と同様に」(このことの帰結をじっくり考え抜いた者が果たしていたのか)、親しみやすく、学生に優しく、限りなく優しく、「学生さんはお客様で、お客様は神様です」…。目を開けて見よ、これが独法化の指し示す方向である。
≪戦前の日本の「大学の自治」対国家の闘争は、帝国大学の特権的基盤のうえに立ってはじめて可能であったのであり、それは帝大が日本においては例外的な、本当の意味の、保守主義の砦であったからである。早くから「大衆化」し、「国民化」した私大は、大衆を背景にしたファシズム反動の前に、帝国大学よりもはるかにもろかったし、むしろ便乗しさえした。≫(丸山真男、『自己内対話』、223頁)
一方で、望ましい改善の動きも見落としてはならないだろう。認識においては悲観主義者、意志においては楽観主義者たれ、とはルカーチ経由のロマン・ロランの言葉であっただろうか。
東大キャンパスに保育園オープン、女性研究者ら支援
4月4日11時31分配信 読売新聞
東大・本郷キャンパスにオープンした「東大病院いちょう保育園」で遊ぶ子どもたちを見守る小宮山東大総長(左)
子供のいる教職員をサポートするため、東京大学の本郷キャンパス(東京都文京区)内に今月から開かれた「東大病院いちょう保育園」の開園式が4日行われた。
東大の教員に占める女性の割合は9・3%(昨年5月1日現在)にとどまる。女性研究者を育成するには、女性が働きやすい環境整備が欠かせないとして、大学が直接運営する保育所を各キャンパスに設立することにした。
いちょう保育園はその第1号。計6人のスタッフで運営され、一時保育も含めた定員は32人。当面は看護師ら病院職員を対象に小学校就学前までの子供を受け入れ、現在7人が入園している。将来は、本郷キャンパス内にもう1園を開設するなど3園を作り、教職員や大学院生や学部生の子供を受け入れる方針だ。
<広報合戦>10大学が広告代理店などと業務提携
4月4日3時3分配信 毎日新聞
国立の全87大学のうち8大学が学外から広報担当者を受け入れ、10大学が広告代理店などと業務提携をしていることが、文部科学省の初の調査で分かった。07年は大学・短大への全志願者数と全入学者数が同じになる「大学全入時代」といわれる。中には「マスコット」を作成する大学も現れ、国立大の広報合戦が過熱している。
文科省は06年3月以降、国立の87大学を対象に、広報活動の状況を聞いた。 外部から広報担当者を受け入れていたのは▽東京大▽東京外国語大▽東京海洋大▽静岡大▽神戸大▽熊本大▽北陸先端科学技術大学院大▽奈良先端科学技術大学院大の8大学で、広告代理店や私立大学、大手予備校などから招いた。
また、北海道大や東北大、一橋大など10大学は広告代理店や情報誌、新聞社などと業務提携。大手広告代理店と提携した九州大は「大学のブランド戦略を検討するうえでのアドバイス、資料提供」を目的に挙げている。
このほか▽岩手大▽静岡大▽兵庫教育大▽島根大は、大学独自のマスコットを作り、「がんちゃん」(岩手大)などの愛称をつけてPRしている。
河合塾と旺文社から計2人の広報担当者を招いた静岡大は「(04年の)国立大法人化と大学全入時代を前に、入試や広報でさまざまな取り組みが必要になったが、今までの教職員は何をすべきか具体的なイメージが描けなかった。入試改革もマスコット作成も、大学のイメージアップ戦略の一つ」と話した。
文科省は「これまで国立大は入学試験の広報が中心だった。しかし、法人化以後、私大と同様に大学全体の広報活動をするようになっている。イメージアップは、優秀な学生確保や産学官連携などの際のベースになる」と分析。文科省は各大学の参考となるよう、3月末に調査結果を各大学へ送付した。【高山純二】
<社会意識調査>「悪い方向に」教育がトップ 内閣府発表
3月31日19時31分配信 毎日新聞
内閣府は3月31日、社会意識に関する世論調査結果を発表した。現在の日本の状況について「悪い方向に向かっている」と思う分野を複数回答で聞いたところ、教育が前回(06年)から12.3ポイント増え36.1%となり、98年にこの質問を盛り込んで以来最高で、初のトップとなった。高校の履修不足問題や、相次ぐいじめ自殺などが影響したとみられる。医療・福祉31.9%、地域格差26.5%も10ポイント以上の増加で過去最高を記録した。
「政治や社会情勢の影響を受けやすい調査」(内閣府)だけに、安倍政権の課題を浮き彫りにした形だ。 調査は1~2月、全国の成人男女1万人を対象に面接方式で実施。5585人(回収率55.9%)から回答を得た。
教育と答えた人を男女別にみると、男性36.7%、女性35.6%。年代別では男女とも30代がトップ(男性47%、女性47.8%)で、20~40代の男女がいずれも4割を超えるなど、子育て世代の教育不安を裏付けた。
教育に、前回トップの治安35.6%(前回比2.7ポイント減)、雇用・労働条件33.5%(同4.6ポイント増)が続いた。急増した医療・福祉(31.9%)と地域格差(26.5%)はそれぞれ、5位と8位だった。
小泉政権で増加の一途だった外交は前回比8.9ポイント減の22.4%で、日中、日韓首脳会談の再開といった安倍外交を国民が評価していることをうかがわせた。
一方、「良い方向」(複数回答)は(1)科学技術19.7%(2)通信・運輸18.9%(3)医療・福祉16.5%――の順だった。【渡辺創】
Wednesday, April 11, 2007
基礎練と営業
1)世界標準レベルにまだ達していないという冷静な自己認識(Jリーグの一流選手でも、世界で通用するかどうかは不明、という冷静な状況認識)。
2)追いつくために何かをしなければならないという意志(遅れていますがそれが何か?という意味不明の開き直りは、日本の人文科学でも、思想業界にしか存在しない。日本語で書き続ける自然科学者などありえないという自明の事実)。
3)個人の努力ではなく、集団で、制度的な対策を講じる必要性の認識。何を、どのように、具体的にアップさせるべきなのか、についての議論。体力と技術力。語学力、議論する力、哲学史の知識。
4)スター(「神様」ジーコ…)を呼ぶことの意義もあるが、もっと大事なのは自分のレベルをアップさせてくれる教育的資質を持った人材を呼ぶこと。日本のフランス哲学研究者は、観客なのか、批評家なのか、それとも、いかに「ヘタレ」であろうとも、同じ舞台に立つ役者たろうとしているのか。
5)営業ばかりでは困る、そんなのは当たり前のことだ。誰もまともな(自分本位の、営利目的でない)、教育的な営業をやっていない現状において、何もしていない人にしたり顔で指摘されても困るのだ。
6)思想はけっきょく孤独な営み、と自分に呟きつつ、けれど、自分一人で思想を始めたわけでもなければ、また、自分が育てられた教育環境を必ずしも瑕疵なきものと見ているわけでもないことは明白である以上、介入の必要と責務が生じるのではないか。
「いままでにない!」桜戦士初体験…これが世界基準トレ
サンケイスポーツ - 2007/4/10 8:01
ラグビー日本代表強化合宿(9日、千葉・日本エアロビクスセンター)9月開幕のフランスW杯へ向け、日本代表が練習を開始した。ジョン・カーワン・ヘッドコーチ(42)は、自ら指名した豪州協会所属のマーチン・ヒューメ・フィットネスコンサルタント(50)と、ニュージーランド(NZ)協会から出向するマイケル・バーン・技術コーチ(45)が主導する練習メニューを導入。豪州、NZ両代表の強化メニューを桜の戦士に初日から課し、世界基準を体感させた。
いきなりカーワン流が炸裂だ。世界に勝つために、世界を知れ。カーワン・ヘッドが日本代表に世界基準を体感させた。
合宿練習初日。午前練習を指揮したのは、トレーニングのエキスパート、ヒューメ氏だ。NZやイングランドのプロチームなどでコーチ歴があり、03年W杯では日本を破ったスコットランド代表を指導した男。現在は豪州協会と契約し同国代表の体力強化にも携わる敏腕コーチは、豪州代表でも取り入れている7分間のインターバル・テスト(ダッシュとウオーキングと静止をおり交ぜた走力テスト)を課した。 結果は、世界との差を痛感させられることになった。トップは14.7という数値を記録したSH大東功一(NEC)。だが、ヒューメ氏によると「スコットランド代表のトップは16、17台」だという。走力が自慢の日本のBK陣の平均的数値は13前後で、世界の強豪チームのFW第1列と同程度という厳しすぎる現状を突き付けられた。
午後練習に登場したのは、バーン氏。ヒューメ氏と同様にスコットランド代表を指導し、現在はスキル(技術)コーチとしてNZ協会と長期契約を結ぶ世界的指導者だ、ボールを蹴る時にひざをしっかり伸ばす技術をBK全員に指導し、「苦戦していたが、これを克服すればレベルは必ず上がる」。主将のNO・8箕内拓郎(NEC)は「いままで経験のないメニュー。いい刺激になる」と練習の手応えを語った。
世界屈指の強豪国と契約を結ぶ2人の指導者を招いたのは、カーワン・ヘッドだ。NZの13人制ラグビーチームに所属していた時にコーチだったのがヒューメ氏。イタリア代表監督時に対戦したスコットランド代表のキック精度を高めた指導者がバーン氏。ツテをたどって招へいした指導者によって体力と技術の向上を目指すカーワン・ヘッドは「フィットネスの向上、そしてキックを使ってトライを取ることは日本にとって重要だから」と意義を説明した。
肉体強化を託されたヒューメ氏は「初めて体験するメニューで、この結果は悪くない」とフォローした上で、「9月までには、世界レベルの数値にいくこともできる」と太鼓判を押した。W杯へ向けた初練習の場で世界基準を体感したカーワン・ジャパンは、世界を打倒するための一歩を踏み出した。
“走る営業部長”為末、人気回復目指しイベントを企画
サンケイスポーツ - 2007/4/10 8:01
8月開幕の世界選手権大阪大会の前哨戦『国際グランプリ大阪大会』(5月5日、長居陸)に参戦する為末大(28)が9日、陸上競技の“走る営業部長”に名乗りを上げた。“ミリオネア資金”を元手に陸上イベントを企画するなど、世界陸上銅メダリストが人気回復にひと役買う。
陸上をマイナーにはさせない。国際グランプリ出場選手の記者会見に出席した為末が「今年は陸上の浮沈が懸かっている。陸上がメジャーになるような仕掛けをしていきたいと思っています。今年はセ・リーグでもパ・リーグでもなくて、陸上界です」と宣言した。
01年エドモントン、05年ヘルシンキと世界選手権で2枚の銅メダルを持つ男の訴えだ。女子マラソンを除けば、陸上の話題が取り上げられるのはわずか。人気低下が競技人口を減少させ、弱体化につながる。株のトレーダーとしても知られる為末にとって、将来が心配でならない。
そこで、昨秋に人気テレビ番組「クイズ・ミリオネア」で獲得した1000万円を元手に、繁華街での陸上イベントを企画。8月の世界陸上までの実現を目指して調整している。100メートルの末続慎吾や走り幅跳びの池田久美子ら親しい仲間からもアイデアを募り、サプライズを演出していく。
昨年は走る速さを高めるため、ハードル競技には出場せず脚力を鍛えた。今大会では、1年9カ月ぶりにハードルを“解禁”する。「スピードは速くなった」。16年ぶりに国内で世界選手権が開催される陸上イヤー。走る宣伝マンが、ファンの視線をトラックへ向けさせる。
Tuesday, April 10, 2007
ソフトからハードを動かす。
nsさん、三宅剛一の講義ノート、『ドイツ観念論に於ける人間存在の把握』(学習院大学、2006年)、ありがとうございました。「およそ哲学史研究というものが、テクストの厳密な読解や、論理の飛躍をそれと見抜くだけの批評眼を必要とすることは言うまでもない。しかしそのうえで、哲学史研究がわれわれの実存に対して開き示してくれる哲学そのものの『何のために』」こそ示唆に富むのだという解題に記された(kkさんの)言葉、そのとおりだと思います。
hhさん、『現象学を超えて』(Didier Franck, Dramatique des phénomènes, PUF, 2001.)、萌書房、2003年、どうもありがとうございました。フランクといえば有名な『肉と身体』『ハイデガーと空間の問題』くらいしか、しかもざっとしか読んだことがありませんでした。これを機会に勉強させていただきます。
mnさん、デリダ論ありがとうございます。読んで勉強させていただきます。
tmさん、ベルクソンの超レアもの、「アリストテレスの場所論」ラテン語版のコピー、どうもありがとうございます。いつか、ラテン語の辞書と首っ引きで読書会しましょう。
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辛仁夏(Yinha Synn)さんのルポ 「フィギュア強国ニッポンの土台が揺らぐ?(2)爆発的ブームの中で何をすべきか」(スポーツナビ、2007年4月2日)は、言うべきことを言っている。一部抜粋させていただく。
人気が出てきた今こそ環境の整備を
注目が集まり、人気が出てきた今こそ、戦略的にフィギュアスケートを世間にアピールしていく必要がある。潤沢ではない強化費用や運営資金など、恵まれていない環境を整備する絶好の機会となるはずだからだ。[…]
伊東秀仁強化部長も「五輪後のこの人気の中で開催できることはタイミングとしてはすごく良かった。この大会でフィギュアスケートを始めたという選手が後に出てくると思う。これをブームに終わらせたくないし、ずっと人気を続けていくことが大事。今後の動きとしては、専用リンクを作ってほしいということが大きい。ナショナルトレーニングセンターにリンクが出来ればいい。将来につなげていくには必要。競技人口が増える中、ソフトからハードを動かしていきたい」と語った。今後はこの人気を活用してリンク減少を食い止め、イモ洗い状態に陥っている現在のリンク不足を一気に解消する動きが出てくればいいが……。
強化体制の練り直し、ジュニア勢の強化が課題
日本には、海外のフィギュア関係者も注視している、毎夏に野辺山で行われる全国有望新人発掘合宿がある。これは豊富なタレントを輩出する「選手製造工場」だが、昨年新体制になったフィギュア部の強化方針がいまだ明確に定まっていないだけに、今後もきちんと稼動するかが心配される。今季はシニアの世界選手権で手放しの成績を残せたが、その一方でジュニア世界選手権では02年から男女を通じて続いていたメダル獲得ができず、女子の5位が最高だった。
この1、2年の上げ潮の中で、いかに地道な強化体制を練り直すかに、今後の日本フィギュア界の行く末が懸かっているように思えてならない。来季、新採点システムで育ってくるジュニア勢の強化に本腰を入れないと、フィギュア強国ニッポンの土台が揺らぐことになりそうだ。
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フィギュアも一極集中 みんな名古屋出身の秘密
3月30日10時0分配信 日刊ゲンダイ
●「世界選手権」視聴率東海地区は最高56% 世界選手権で金・銀メダルを獲得した女子フィギュアの安藤美姫(19)と浅田真央(16)の共通項はズバリ、名古屋出身であること。中野友加里(21)、恩田美栄(24)など日本代表クラスの女子選手はみ~んな、名古屋育ちだ。
世界選手権の平均視聴率も、名古屋地区は43.0%(ビデオリサーチ調べ)と関東38.1%、関西34.8と比べてダントツ。瞬間最高は56.6%にも達したというからオドロキだ。どうして名古屋人のフィギュア熱は、どえりゃあ高いのか。「名古屋は、お稽古事が盛んで子供より母親の方が熱心なくらい。フィギュアの教室でも、いつも最初から最後まで練習を見つめ、子供もサボれません」(愛知県スケート連盟フィギュア委員長・久野千嘉子氏)
見た目にも華やかで、嫁入り道具に大金をかけたがる見えっ張りな名古屋人気質にもマッチしている。
だが、とにかくフィギュアはカネがかかる。エッジを含めたスケート靴の相場は1足12万円!
これを選手は年4、5足も履き潰し、衣装代やレッスン料だってバカにならない。誰でも手軽にできるスポーツではないが、名古屋の家庭事情にはこんな秘密があった。「都市部の核家族化が進む中、名古屋は大都市ながら3世代同居の世帯数が全国トップ。東京や大阪の倍近い数です。家族の絆を大事にする土地柄で、孫に使う金額もケタ違い。名古屋のフィギュア熱は、祖父母の支援があってこそです」(三菱UFJリサーチ&コンサルティングのエコノミスト・内田俊宏氏)
スケートの練習にはリンクが不可欠。ほかの地域は夏はプール、冬だけ氷を張るところが多いが、名古屋は3つの通年営業リンクが稼働中だ。通年営業は全国23カ所のみ。うち3カ所ある自治体は名古屋と横浜だけだ。ミキティや真央ちゃんも練習に使う「名古屋スポーツセンター」の黒柳一男社長が言う。「アルベールビル五輪の銀メダリスト・伊藤みどりさんもウチのリンクで練習しました。一般客に交じって滑ることもあり、世界技術に間近で触れる機会が多かったのも人気の要因です。伊藤や浅田を育てた山田満知子コーチなど優秀な指導者も多く、ジュニア教室も活発。今回の金銀独占は底辺拡大の成果です」
真央ちゃんやミキティの活躍でフィギュア教室はさらに活況――。王国は今後も安泰だ。
Friday, April 06, 2007
「戯作者文学論」について(3)切ない鼻息
あまりグループを作りたくない。特にグルーピーとかファンとか弟子とかを持ちたくない。そんなレベルではないのだから。後輩にもなるべくくだけた調子で近づき、あるいは突き放し、脱神話化するよう努めている。
***
安吾は大言壮語の人と思い込んでいる人がいるとすれば、その人は真実の半分しか見ていない。7月14日の項。
≪親類の人の紹介状をもって、浅草向きの軽喜劇の脚本を書きたいから世話をしてくれ、という人が来た。北支から引き揚げてきた人だ。全然素人で、浅草の芝居を見て、こんなものなら自分も作れると思ったというのだが、自分で書きたいという脚本の筋をきくと、愚劣千万なもので話にならない。こういう素人は、自分で見てつまらないと思うことと、自分で書くことは別物だということを知らない。つまらないと思ったって、それ以上のものが書ける証拠ではないのだが、恐れを知らない。自分を知らない。
夏目漱石を大いにケナして小説を書いている私は、我が身のことに思い至って、まことに暗澹とした。まったく、人を笑うわけに行かないよ。それでも、この人よりマシなのは、私は人の作品を学び、争い、格闘することを多少知っていたが、この人は、そういうことも知らない。何を読んだか、誰の作品に感心したかと訊くと、まだ感心したものはないという。
名前すら知らない。無茶なんだ。いつまで経っても帰らず、自分の脚本を朗読と同じように精密に語る。私はまったく疲れてしまった。私はまったく、泣きたいような気持ちになってしまった。それは我が身の愚かさ、なんだか常に身の程を省みぬような私の鼻息が、せつなくなったせいでもあった≫(全集第15巻、20-21頁)。
私も学部生や院生と話していると、ときどき自分の「鼻息」が切なくなる。他人との共闘が意味を持つのは、まず自分がいっぱしの仕事をしてからのことである。幾重にも自戒を。
Thursday, April 05, 2007
戯作者文学論(2)心情的共感に抗する
***
安吾は「戯作者文学論」という創作日記の第一日目、1946年7月8日に「女体」という小説の執筆動機をこう記している。
私はこの春、漱石の長篇を一通り読んだ。ちょうど、同居している人が漱石全集を持っていたからである。私は漱石の作品が全然肉体を生活していないので驚いた。
すべてが男女の人間関係でありながら、肉体というものが全くない。痒いところへ手が届くとは漱石の知と理のことで、人間関係のあらゆる外部の枝葉末節に実にまんべんなく思惟が行き届いているのだが、肉体というものだけがないのである。
そして、人間関係を人間関係自体において解決しようとせずに、自殺をしたり、宗教の門をたたいたりする。そして、宗教の門をたたいても別に悟りらしいものもなかったというので、人間関係自体をそれでうやむやにしている。漱石は、自殺だの、宗教の門をたたくことが、苦悩の誠実なる姿だと思い込んでいるのだ。
私はこういう軽薄な知性のイミテーションが深きもの誠実なるものと信ぜられ、第一級の文学と目されて怪しまれぬことに、非常なる憤りをもった。しかし、怒ってみても始まらぬ。私自身が書くよりほかに仕方がない。漱石が軽薄な知性のイミテーションにすぎないことを、私自身の作品全体によって証し得ることができなければ、私は駄目な人間なのだ。それで私はある一組の夫婦の心のつながりを、心と肉体とその当然あるべき姿において歩ませるような小説を書いてみたいと考えた。
私は自分がベルクソンという唯心論者(通常、精神とか魂とか生命というものを重要視しているとされる潮流)の身体「概念」、というよりベルクソン哲学を通じて身体をめぐって漠然と形成されていくある「論理」の生成と構造を目下の中心的な研究対象としているので、この一文に何か非常に近いものを感じる。
おそらく常識的な知識人はこのような粗雑な漱石批判には眉を顰めるに違いない。漱石はなんと言っても日本近代文学の「天皇」である。漱石が好きだと言っておけばひとまず間違いはない。しかし、眉を顰めるということは常識以上の何物も示すものではない。
だが、他方で、安吾のこの一文に心情的な共感を示して興奮する人々に過度の期待をもってもならない。すべからく――68年の大学紛争における「心情三派」同様――心情的な共感などをあてにしてはならない。そういう人々は結局、風向きが変われば、昨日までとは逆のことに今度は「共感」を示し始めるのだから。
研究も同じである。盲目的に誰かや何かを崇拝してみても、嗤ってみても、怒ってみても始まらない。私自身が書くよりほかに仕方がない。私自身の作品全体によって証し得ることができなければ、私は駄目な人間なのだ、と呟き続ける必要がある。「自己内対話」を言うのは、自戒としてである。
Wednesday, April 04, 2007
「戯作者文学論」について(1)日記に抗する日記
「聖書と木材」というページがあり、聖書に登場する木や植物の種類、出典箇所が網羅されている。しかも作られているのはどうやら、大阪堺市の木材屋さん?凄すぎる!
***
あまりにも低次元の話なので、ここで取り上げることもないのだが、最近自分のブログ観やら日記観を一応表明しておかざるをえないと感じるのは、結局どこかで心理的なプレッシャーがかかっているのかもと思うと、あながち無関係でもないのだろう。
≪自分の日記にあしあとやコメントが付くと、周囲から認められたという「認知欲求」、自分を受け入れて欲しいという「親和欲求」が満たされ、それが快感になるという。好意を持っていたり、尊敬している相手からあしあとやコメントが付くと、さらに高い快感が得られるため、快感を求めて日記を更新し続けるという“中毒”症状につながる。(…)
友人同士をリンクで結ぶ機能「マイミクシィ」(マイミク)が、この応酬をさらにヒートアップさせる。ユーザーは、別のユーザーにリンク申請して承認されると、自分の「マイミクシィ一覧」上に相手が表示される。マイミクはいわば、友人である証だ。
山崎さんは「マイミクは、社章のようなもの」と言う。社章を付けた人は、その会社の社員であることを強く意識し、社員としてのふるまいを強化する傾向があると考えられている。A社の社章を付けた人は、より「A社の社員らしくふるまおう」と意識するといい、社会心理学で言う「役割効果」が発揮される。≫(IT media News、≪「mixi疲れ」を心理学から考える≫、2006年7月21日より一部引用)
幼稚な心理である。ブログやHPというのは、murakamiさんのように淡々と、あるいは私のように「くどい」のでもいいが、ともかくクールにやるに限る(上方落語は、志ん朝同様、くどいがクールなのである)。
Cf. IT media News、≪「mixi読み逃げ」ってダメなの?≫、2007年3月20日より一部抜粋
≪読み逃げを気にするユーザーの日記などを詳細に読んでみると、リアルで会ったことがないマイミクとの関係に気を遣っているケースが多いことが見えてきた。
見知らぬ人とマイミクとしてつながった場合、人間関係を保障してくれるのは、mixi日記へのコメントやメッセージ、足あとだけ。だから自分のページに足あとが付けば、必ず訪問してコメントやメッセージを残し、「あなたのことをマイミクと認めていますよ」とアピールするし、相手も同じようにコメントやメッセージを返してくれ、自分を認めてくれることを期待する。読み逃げされると「嫌われたのかな?」「マイミクと認めてくれてないのかな?」などと落胆するようだ。≫
*
坂口安吾に「戯作者文学論」というエッセイがある。「文学論」と題され、私も仕方なく「エッセイ」と呼んだが、「女体」という小説を書き上げる行程を綴った二十日間ほどの創作日記――「私の小説がどういう風につくられていくかを意識的にしるした日録」――である。1947年の作品だから安吾は41歳ごろ。
なぜ創作日記を「文学論」と名づけるのか。あるいは、なぜ文学論の表題の下に創作日記を綴るのか。おそらく二つの理由がある。一つには、自らの文学を語るのに通常の文学論の形態で語ることに嫌悪感を覚えたということがあるだろう。自ら戯作者をもって任ずる彼に「戯作者文学論」を執筆するよう求めた平野謙に対して、安吾はこう答える。
≪私が自ら戯作者と称する戯作者は私自身のみの言葉であって、いわゆる戯作者とはいくらか意味が違うかもしれない。しかし、そう大して違わない。私はただの戯作者でも構わない。私はただの戯作者、物語作者にすぎないのだ。ただ、その戯作に私の生存が賭けられているだけのことで、そういう賭けの上で、私は戯作しているだけなのだ。
生存を賭ける、ということも、別段大したことではない。ただ、生きているだけだ。それだけのことだ。私はそれ以上の説明を好まない。それで私は、私の小説がどんな風にして出来上がるか、事実をお目にかける方が簡単だと思った≫(ちくま文庫版『坂口安吾全集』第15巻、14頁)。
かといって、日記を書くことで、真実の「作者の意図」が記されうると考えるほど、安吾はナイーヴではない。「それに私は、この日記に、必ずしも本当のことを語っているとは考えていない」(同上、15頁)という言葉から、では、安吾は嘘をついているのか、と早合点する人はよもやいまい。それによっては真実を描こうとしても描きえぬ方法というものがあるのである。これが「文学論」と名づけたもう一つの理由である。
≪私は今まで日記をつけたことがなく、この二十日間ほどの日記の後は再び日記をつけていない。私のようにその日その日でたとこまかせ、気まぐれに、まったく無計画に生きている人間は、特別の理由がなければ、とても日記をつける気持ちにならない。
日記などはずいぶん不自由なもので、自分の発見でなしに、自分の解説なのだから、解説というものは、絶対のものではないのだから。
小説家はその作品以外に自己を語りうるものではない。だから私は、この日記が、必ずしも作品でないということを、だからまた、作品であるかもしれぬということを、一言お断り致しておきます≫(同上、13、15頁)。
私のこの「創作日記」もまた、安吾に比べて思想的にいかに惰弱で貧相であろうとも、ささやかな「哲学論」「思想研究論」たろうとしており、それ以外にこのようなものを書く意味もない。思想研究者はその作品以外に自己を語りうるものではない。だから私は、このブログが、必ずしも作品でないということを、だからまた…。
Tuesday, April 03, 2007
フランス哲学セミナー
1・explication de texteだけでなく、さまざまな点でフランス風を取り入れてみても面白いと思う。レジュメの作り方、読み方など。これについては「テクストの聴診」 (2006年11月12日の項)参照のこと。
2・大きな学会でも、個別の研究会でも出来ないことの一つに、「玄人好みの研究者紹介」というのがある。研究者であれば、誰しもマイ・フェイヴァリットというのがあるはずで、私で言えば、D. Janicaud, J.-P. Séris, G. Lebrun, J.-F. Marquetなど、個別の思想家研究を軽くはみ出てしまう個性的な人たちをいずれ紹介してみたい。それはともかく、「ここでしか出来なさそうなこと」をもう少し追求してみるといいのではないか。
3・コレギウム・プロジェクトと何らかの接続を徐々に模索していければ。
最後に、京都からお呼びたてしてしまったmnさん、もし期待しておられたものと違っていたとしたら、ごめんなさいね。でも、研究者同士のつながり、特に直接会って話すことはとても重要だと思っているので。
Friday, March 23, 2007
プルーストとサント=ブーヴ(2)創造という虹
プルーストは『サント=ブーヴに反論する』の中の「サント=ブーヴの方法」という中心的な章の一つをこう始めている。
≪この世で一番言いたく思ってきたことを、突然二度と言えなくなってしまうのでは、と危惧するような時期に、なんなら状況にといってもいいが、私は立ち至っている。感受性の衰弱と才能の破産のせいで、一番言いたかったことというのはもう無理だとしても、その次ぐらいの、きわめて高くきわめて内密な理想と比べれば評価はおのずと低いが、これまでどこでも読んだ憶えはないし、今言わなければ言わずじまいになってしまいそうな、いずれにせよ私たちの精神のさして深からぬ部分に関わると知れた事柄、それをしも言えなくなってしまうのでは、と恐れるわけだ。[…]ここで習い性となった怠惰にとどめを刺し、「光あるうちに仕事をせよ」というヨハネ伝のキリストの良き戒めに従いたいと考える≫(前掲、25頁)。
ここで怠惰と訣別してプルーストが言おうとしているのは、「この世で一番言いたく思ってきたこと」ではなく、少なくとも最低限言っておかねばならないことである。「サント=ブーヴについて、それなりに重要な事柄」(同上)を言おうと決心しているのは、サント=ブーヴの才能の浪費を嘆きもし、また浪費されるほかない才能のあり方というものがあると喝破してみせたプルーストその人である。プルーストはこの並行性に――少なくとも方法論のレベルでは――意識的である。「サント=ブーヴを話題に上せつつ、彼自身がよく使った手だけれども、私はこの人物を、生のさまざまな様相を語るための良き手がかりにしてみたいのだ」。
≪おそらく、『月曜閑談』以後、サント=ブーヴは、単に生活態度を変えただけではなく、強いられてやむなく仕事をする今の生活のほうが、生来、無為に流れやすくて、強制されないと自分の持つ富を放出できないたちの人間には、結局のところずっと多産でもあるし、またぜひ必要なものでもあるという思想に登りつめる――と言えるほど高次な思想ではなさそうだ――辿りつくことになる≫(前掲、36頁)。
才能はまったく発揮しないより浪費されたほうがマシだ、というあまり高尚とは言えない思想――林達夫や浅田彰や、多くのスマートで博覧強記の知識人を想起させる思想――と縁を切り、孤独のうちに籠もり、自分自身と真摯に向き合って文学の仕事に邁進せねばならない。あたかも反面教師に対するように、あたかも自分自身に言い聞かせるように、プルーストは言う。サント=ブーヴは、一度たりとも、詩的感興や文学上の作業には特殊性があり、文学の仕事は、一般の人たちのさまざまな仕事とも、作家自身の、文学以外の仕事とも、まるで違うものだということが分からなかったとおぼしい、と。
≪孤独に浸りつつ、自分のものでもあれば、他人のものでもあるような言葉には、沈黙を命ずる。たとえひとりきりでいようと、自分になりきらないまま物事を判断しているようなとき、私たちが使っている言葉は黙らせてしまう。そして自分自身にあらためて面と向かい合い、おのが心の真の響きを聞き取ってそのまま表現しようとする。それが文学の仕事というものだろうが、サント=ブーヴは、この仕事と会話とのあいだに、どんな境界線も引こうとしなかった。「書くこと…」
実際には、作家が一般読者に提示するのは、ひとりきりで、ひたすら自分のために書いたものであって、それこそが彼自身の作品なのである≫(前掲、34-35頁)。
著者・作家に対するこのような視点は、当然読者との関係、ひいては作品概念をも規定している。
≪…こうして彼[サント=ブーヴ]には、自分の紙上批評が、何かアーチのようなものに思えてくる。起点はたしかに自分の思索や文章の中にあるのだが、終点は読者の心の中にまで延び、讃嘆の念にまで届いていて、そこでようやく虹の円弧も完成するし、色彩も最終的に仕上がるというわけだ。[…]
新聞記事の美は、あげて書かれた記事にあるというわけにはいかない。総仕上げをしてくれる読者の胸裡から切り離されてしまえば、ただの毀れたヴィーナス像にすぎない。そして新聞記事の美は、読者大衆からこそ最終的な表現を汲むものである以上(選りすぐりの大衆であったとしても同じことだ)、その表現にはいつも幾分か通俗的なところがある。あれこれの読者の、声なき賛同を思い描きつつ、新聞寄稿家は自分の言葉の重みを量り、言葉と思索の釣り合いを取ろうとする。したがって彼の作品は、意識的にではないにせよ、他人の協力を得つつ書かれていて、その分だけ、彼独自のものとは言いにくくなっている≫(41-42頁)。
サント=ブーヴを批判しつつ、彼の手法に依拠するとはどういうことか。批評という文学活動の「余技」「灰汁(あく)」のようなものがもつ読者との根本的な対話があるのである。そしてその批評はプルーストが「この世で一番言いたく思ってきたこと」、文学的営為の結晶とすら無関係ではない。このテーゼの論証はしない。これは論文ではないからだ。
最後に、ブーレーズの言葉を引いておく。思えば、ドゥルーズが「より深いというのではないが、別種の、暗黙裡の、(彼は自分の著作の中でしばしばプルーストを引用しているが)言外の関係」をブーレーズと結んでいるものとして指名したのは、マラルメでも、ミショーでもシャールでもなく、プルーストであった(『エクラ/ブーレーズ 響き合う言葉と音楽』、笠羽映子訳、青土社、2006年、299頁)。
≪PB:けれども、小説が進行していくにつれ、形式的な進展がいっそう目立ってきます。それで、『失われた時を求めて』は物語自体についての省察となり、内省は鋭さを増し、芸術創造の核心に触れる問題が扱われていきます。章が進むにつれ、小説としての小説は重要性を失うことが分かります。[…]
彼の結論?文学作品はそれを読む人によって作られるということです。当時としては、そうした記念碑的な作品と向き合う際、人々を面食らわせる結論でした。結局、創造家は、読者を証人とするんです。
――いささか過小評価的な理屈ですね…
PB:そんなことはありません。逆に素晴らしく実り豊かです。プルーストは「作品は、私がそれに与えた意味だけではなく、読者であるあなたが、読むたびに与える意味をも持つ」と指摘していますからね。それは、作者の占有物としての作品を否認することになりますが[言うまでもなく所有の問題系である]、それを読んだり、眺めたり、聴いたりする人のために、作品を昇華することになるのです。
この機会に指摘しておくなら、未完の作品や構想中の仕事はしばしば人々の想像力を豊かにする可能性をもっています。[…]未完の絵をまず嘆賞すべしと言っているのではありません。私が問題にしているのは、示唆に富んだ、意味深いアプローチです。というのも、『失われた時を求めて』の最後の巻は、大急ぎで仕上げられていて、デコボコや矛盾を免れていないのですが、その代わり、文学創造の方法に関する新たな世界を私たちに示してくれているのです≫(上掲、322-323頁)。
Thursday, March 22, 2007
大局観(2)日本と世界
友人たちが最近数ヶ月に刊行した本をまとめて紹介しておく。Gilles Deleuze, Georges Canguilhem, Il significato della vita, a cura di Giuseppe Bianco, Mimesis Edizioni, nov. 2006.
(友人とはもちろん御大二人ではなく、ビアンコである。なかなか面白い奴なので、トゥールーズに呼ぶようゴダールに提案したら、彼ものってくれた。ゴダールはレン同様、「大局観」ということを本当に理解している数少ない友人だ。大局観を持つのに、年齢も地位も関係ない。)
Arnaud Bouaniche, Deleuze, une introduction, Presse Pocket, jan. 2007.
「コレギウムとは何か?」の項に、CPの公式サイトのアドレスを追加しておいたので、興味のある方はどうぞ。去年はデリダ追悼ということで、サリス、ベニントン、ローラー。今年は、解釈学系らしい。テーマは「解釈、言語、イメージ」。
来年2008年のディレクターは、今年のセッション終了直前に公にされる。具体的な募集は来年からになるだろう。
重要なのはここに大挙して日本人の院生が押しかけることではない。それではパリのブランドショップと同じ現象が起きてしまう。
なぜブランド品を買うのか?目に見えない「雰囲気」を身につけるためでなくて、他にあさましい所有欲以外の何があろうか?雰囲気を感じとることが最も大事なのに、集団で、彼らの「地」のスタイル(服装ではなく)で行くことで、まさに求めるべき「何か」を壊してしまう。挙句の果てに、金を払って動物並みに扱われ、見下されて「オトクな買い物」と満足する――こんなことでエレガンスが得られるはずもない。
同様に、むやみに学生を送り込んでも、学生にも向こうにも大したメリットはなく、所期の目的を達成することはできまい。むしろ教官の側が優秀な学生を精選して送り込んだほうがいい。
学生の側にもというのは、悪平等では、実効的な研究者養成は達成できないからである。ここでもまた、大局観が必要なのだ。偽のエリート主義ではない、本物のエリート教育が必要なのである。
向こうにもというのは、アメリカがせっかく長年かけて作り上げてきたシステムを体験させてもらうのだから、やはり遠慮は必要だということである(アメリカ側の参加学生のレベルはたぶん日本の平均とそう変わらない。それでいい。私たちとは目的が異なるのだから)。
体験は、それがどんな体験でも、貴重なものにしてあげるべきだと思う。コレギウムの体験は彼らにとって生涯忘れられないものとなるだろう。私もまた、サイトの写真を見ると、あの夏を思い出し――2003年、ヨーロッパ中が記録的な猛暑に苛まれていた――、しばし感傷に耽る。
Wednesday, March 21, 2007
大局観(1)地方と中央
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歳を重ねるほど、失望は深くなる。フランス哲学・思想研究の置かれた現状に関して、大局観を持たない無邪気な人々は四十代だろうが、五十、六十代だろうが、いる。年齢、地位、風評など本当に当てにならないものだ(強調しておくが、研究者としての能力とも直接関係はない)。
むろん、嘆けばいいというものではない。「今、ほんと何もかも駄目だよね」。日本を知的砂漠と評したければそれも結構だが、問題はどこにあるのかという具体的な現状分析、具体的な処方箋の模索がなければ、そんな言葉には何の意味もない。
地方の――といっても、日本有数の大都市なのであるが――学生にも普段聞く機会のない世界標準レベルの哲学的議論、それも代表的なフランス人哲学者とフランス語で行なわれる議論を肌で感じてもらおうと私が提案したことがあった、としよう。
「東京でやったほうがいい。」
「東京でやることは既に決まってるんです。その上で、地方でもやろうということなんです。」
「東京で二回やったほうがいい。私も呼んでくれ。」
「…」
私は地方大学の実態・今どきの学生の平均レベルを知らないわけではない。地方の大学教員の「悲哀」を直接間接に聞いてもいる。けれど、だからといって、希望を失って(あるいは自分本位の希望を胸に)、自分の学生たちの未来の可能性までも奪っていいのか。もしかしたら、気まぐれからシンポジウムに顔を出し、それがきっかけ(ショック療法?)となって真剣な勉強を始めるかもしれないではないか。
戦にはグローバルに勝てばよいのであって、将来への先行投資として「覚悟の負け戦」が一部あってもいい。大局観とはそういうものだ。
人は往々にして理念の力をもはや信じられなくなった者に「枯淡の風」や「泰然自若」を見て取ってしまい、理念の力を信じ続けようと努める者を「幼い」「若い」と評する。だが、私に言わせれば逆である。大局観を持たない者は、精神年齢において、永遠に「幼く」「若い」ままなのだ。
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今度のトゥールーズ篇のヴィデオ撮影とは、これのことを言っているらしい。フランス南西部の大学が共同してやっているらしい哲学科修士課程のワークショップの模様を見ることができる(『アンチ・オイディプス』について)。今度のメンバーとずいぶん重なっている。
この地方大学(連合)の健闘、いや奮闘をどう見るべきか。「できない」「無理だ」「意味がない」と言う前に、やるべきことがあるのではないか?やれることがあるのではないか?
私たちは、どこから始めるべきか。何から始めるべきか。人を年齢や地位や風評でしか判断できず、現状を打算や政治的力学、人間関係のしがらみでしか判断できない者たちよ、何度でも繰り返す、哲学の歌を聴け。
Tuesday, March 20, 2007
プルーストとサント=ブーヴ(1)月曜閑談
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恋は盲目というが、ファン心理はごく当然の真理までも見えなくさせてしまう。中途半端にアカデミックな「常識」では、ドゥルーズは「当然」ベルクソンより「深く」、マラルメは「当然」ヴェルレーヌより「深く」、プルーストは「当然」サント=ブーヴより「深い」。しかし、問題はむしろその「深さ」が、異なる尺度で測られるべきものに対して強引にただ一つの尺度が押し付けられた結果ではないのか、つまり蜃気楼の産物ではないのかどうかを知ることなのである。
プルースト(Marcel Proust, 1871-1922)の「サント=ブーヴに反論する」(Contre Sainte-Beuve)はいつ読んでもぎくりとさせられる。とりわけこのブログに書き込んでいるときには。それが月曜であったりするとなおさら。
念のために言っておけば、サント=ブーヴ(Charles Augustin de Sainte-Beuve, 1804-1869)とは、近代批評の父であり、代表作に『月曜閑談』(Causeries du lundi)がある(例のごとくGallicaで原本を見られる。この第15巻にはルソーやヴォルテールなどのほかに、ド・メーストルやトクヴィル、サン=シモンらの名前が見える)。
≪友人のために、自分のために、また、おそらくは書かれずじまいになったはずの、長いこと想を練ってきた作品のために、彼としては大事に取っておくつもりだったものが、十年間にわたってことごとく形を成し、次々に世に出ることになってしまった。
貴重な思索をぎっしり収めた貯蔵庫があって、一篇の小説をまわりに結晶させるべき核も、いずれは詩に発展したかもしれない材料も、かつて美しさに感じ入ったことのある事物も容れたまま、書評すべき本を読んでいるサント=ブーヴの思考の奥底からせりあがってくる。
すると彼は、律儀にも、より美しい捧げ物をするためとばかり、最愛のイサク、至高のイフィゲネイアのほうを生贄にしてしまうのである。
十年の間、月曜ごとに打ち上げたあの類なく華やかな花火を作るのに、もっと長続きする書物の原料となるべきものをぶちこんでしまったので、原料は、以後、底をついてしまったのだとも言えよう。≫(『プルースト評論選』第I巻「文学篇」、保苅瑞穂(ほかり・みずほ)編、ちくま文庫、2002年、38頁)。
プルーストとサント=ブーヴの距離が明らかに遠い箇所は論ずるに及ばない――「サント=ブーヴは文学を総体として『月曜閑談』の類と見なしていた」「彼は文学を時間の相の下に眺めていた」「彼の書物は、さまざまな対談相手を招いた一連の社交場といった趣がある」など。プルーストは安心しきって攻撃している。
けれど、プルーストがあそこまで執拗にサント=ブーヴを批判せずにいられなかった理由を訊ねていくと、二人の距離は必ずしも遠くはない。
しかし、それはまた次の機会にしよう。私のプルーストの声が聞こえてきそうだ。まだ大したこともしていないのだから「自己内対話」が大事だというのはそのとおりだが、対話を「作品」に結実させるなおいっそうの努力を、という声が…。お前なりに精一杯のopus magnumを書け、と。
Friday, March 16, 2007
老いたり、ゴト師(晩年の林達夫を聴く)
国際哲学オリンピアード(International Philosophy Olympiad,実態を知らないので何とも言えないが(というのも往々にして哲学という名称はさまざまなイデオロギーに利用されるから)、理念には興味を惹かれる。しかし、現代の日本の高校生に可能なのだろうか?
略称:IPO)は、元々1993年にブルガリアで始まったグローバルな哲学教育運動です。次代を背負う若者たちの物の考え方を哲学的に涵養し、訓練することを目的として、参加国の高校生に外国語(英独仏)によるエッセイ・コンテストを毎年一回(通例五月)に実施してきました。日本は、2001年5月に、米国のフィラデルフィアで開催された第九回IPOに初めて参加しました。
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やはり一月半ほど前に書いたもの。
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近くに図書館があるというのはとても幸せだ。かなり定期的に利用している。私は一時期古本屋に精通していたが、この「カセットできく学芸諸家シリーズ」など、図書館でないとお目にかからない気がする。
で、期待して聞いた。なにしろ日本の誇るエンシクロペディストにして軽妙洒脱なエッセイスト林達夫である。
が、失望した。なにしろ話が長いうえに、下手だ。彼の喋り方はいかにもインテリくさい節回しの訥々としたものだが、問題はそこではない。私はそういう喋り方は嫌いではない。肝心の「三つのドン・ファン」の中身がぜんぜん貧相なのである。
まず、前置きに三十分。自分と岩波書店の関わりについて(和辻より年上、とか)。そのうちになんとなくドンジュアンの翻訳の話になるが、これも「前ふり」ではなく、エディションがどうだの、こんな訳もある(鈴木力衛より年上、とか)、あんな訳もある(石川淳も訳していた、とか)、といった話で、ちっとも「三つのドン・ファン」にいかない。それなら「日本のドン・ファン翻訳百面相」とでも題して話せばいいのに。
モリエールの生誕三百周年だから、彼の『ドン・ジュアン』が他の二つ(ティルソ・デ・モリナとモーツァルト)に比してクローズアップされるのは当然だが、そうなるのかと思ったらそうでもない。延々と『タルチュフ』や『守銭奴』の話をやってA面が終わる。つまり、四十五分間、比較にほとんど入らなかったわけだ。それなのに、「僕に言わせりゃ時間が短くって」などとのたまわっている。このテープだけから判断すると、悪しきペダンティストという印象を免れない。以って他山の石とすべし。。
面白かった点。
・ファウストは実在の人物からとられているのに対し、ドン・ファンはティルソ・デ・モリナの完全な創作らしいこと。ただし、ファン(フアン、ホアン)はありふれた名である。
・ティルソ・デ・モリナの『ドン・ファン』は基本的に説教劇で、直前の作『不信堕地獄』と並べてみるとその意味がよく分かる(らしい)ということ。『不信堕地獄』では、道徳心を持たないが神を信じきっている大悪党が死の淵でも神への絶対的な信頼を保ち、道徳心を持ってはいるがどこか神を信じきれていない僧侶を動揺させる。その隙に付け込んだ悪魔は、大悪党が天国へ行く姿を僧侶に見せ、彼の信仰を打ち破る…。このスキャンダラスな演劇に宗教界は騒然となり、自作の援護のために、ティルソ・デ・モリナは、今度は『ドン・ファン』で徹底的な悪党が地獄に堕ちる、という劇を書いた、というわけである。
それ以外は知っていたことばかりだ。つまりモリエールについては昔勉強したこと以上の何も得るものがなかった。
林の結論:モリエールの『ドン・ジュアン』はさまざまに解釈でき、この意味のバロック的多義性、多層性こそが重要だ。
モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』は「薄っぺら」の一言で片付けられて、ダ・ポンティの寄与とか、キェルケゴールの解釈とか、まるで切り捨てられている。おいおい。
唯一考えつく弁護は、77歳だから仕方がない、ということかしら。もっと若い頃は、もっと話が上手かったのか。ともかくこのテープはお奨めできない。
Thursday, March 15, 2007
ゴト師、林達夫(下)…と資本主義
この頃の林達夫は冴えていた。三木の「剽窃」騒動を、彼は「学問の共有と私有」の問題構成と結びつける。剽窃、広く盗みの問題は、プルードンを引くまでもなく所有権の問題であり、私有財産の問題なのである。
≪資本家的大盗人から同輩的コソ泥に至る一連の、学問を金にしようとする泥棒…金、金、金…学説所有権の擁護の叫びは、だからとりもなおさずこれらの学問泥棒に対する学者の生活権擁護の叫びにほかならないのだ。学問が社会の共有財産であらねばならぬのに、しかもこれをあくまでも神聖なる私有財産視しなければならぬのは、実にここにその根拠をもっているのである。
かくて資本主義社会では「剽窃」も多くこの角度から取り上げられる面を有し、それが「不労所得」を意味し、「窃盗罪」を構成する場合も少なくないのだ。
では、人は何とかしてこの学問的共有と私有との深い矛盾を取り除くことができるであろうか。我々にとって明らかな一事は、かかる矛盾の克服は現在のままでは資本主義的体制の埒内では決してできないということである。
かくて「剽窃」の問題も資本主義の存続する限り、唾棄すべき財産的犯罪の問題として提起せられる一面を常に保持し続けるであろう≫(『林達夫著作集』、第4巻「批評の弁証法」、平凡社、1971年、158-159頁)。
知的所有権以上に哲学的に問題になりうるのが、固有身体の所有ではないだろうか。いずれ「愛と所有:結婚の形而上学とその脱構築」という研究に取り掛かりたいと思っている。
*
林達夫は、日本の思想界において一流の「ゴト師」であった。例えば、彼の西田論「思想の文学的形態」を見よ。「随筆」と「随想」の区別から始まって、西田哲学を常に生成途上にある哲学行為の「随筆」と規定する手つきの鮮やかさ。
ただ、惜しむらくは、西田論の第二部「思想、文学、教育のフランス的三位一体について」が、単なるフランス論に終わり、この三位一体は我が国でどのように考えられ、とりわけ西田の哲学においてどのように考えられていたのかについて、突っ込んだ考察がなかったことだ。
林達夫の思考には――浅田彰にも言えることだが――ほぼ常に深さ、粘り強さが欠けている。西田は随筆的だがやはり哲学であり、林は哲学的だがやはり随筆なのである。パチプロとゴト師の違いと言えば、冗談にも程があると言われるだろうか。ならば、天才と秀才の違いと言おう。
≪鴎外→あらゆるものを内面的に理解しながらそのどれとも自己をidentifyしようとしない冷たさ、それは「秀才」の悲劇である。捨て身にならない。捨て身にならないですむから、――なぜなら、理解力を示すだけで常人よりはるかにすぐれた業績を残しうるから、「理解力に頼りすぎる」≫(丸山真男、『自己内対話』、みすず書房、1998年、5頁)。
天才とは自分の道において呆れるほど馬鹿になれる人のこと、極道になれる人のことを言う。道を極めると書いて、極道と読む。
Wednesday, March 14, 2007
ゴト師(壮年の林達夫を読む)(上)剽窃…
rythmeとmesureを組み合わせたときのように、見掛けは似ているけれど実は異質で、しかし緊張関係にあるという二つの項を衝突させることで何かが見えてくる、という手法はスリリングで好きだ。メタファーとアナロジーがそうなるかどうかはまだ分からないが。
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2月上旬に書いたもの。
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さまざまな器具等を使用し、パチンコ店等で不正に出玉を獲得する人を「ゴト師」という。まあ要するに、いかさまをやる人のことと思ってもらえばいいだろう。ここでは、「ゴト師」という言葉をもちろん犯罪的な意味においてではなく、広義の意味で用いる。
*
林達夫は、広義の意味での「ゴト師」の側に自分を置き入れた。板垣直子の三木清に対する「剽窃」告発騒動のさなか、「いわゆる剽窃」(1933年)という文章で三木を擁護したときのことである。
「もっとも仮借なき《職業的》廓清家(レーニンのいわゆる職業的革命家と同じような尊敬的意味で)」たる板垣直子の「秋霜烈日の如き断罪的方法」に、林達夫は「多少ともかの中世的スコラ的宗教裁判方法に似通う形式主義、機械主義、末梢主義への危険」を嗅ぎ取る。
いわゆる剽窃は日本の今日の現象であるばかりでない。シェークスピアやモリエールやスタンダール。プラトンやデカルト。古来その独創性を以って鳴る西洋の大文豪や大学者のうちにさえ、証拠歴然たる剽窃行為が見出される(しかも当の張本人たちがその正当性を主張している)。
人類社会の共通現象であるとも言えそうで、となると、他人の思想や文句のドロボウ、インチキ師、ゴト師は、無数に世界を横行していることになる。何という恥ずべき、嘆かわしい犯罪的世界!
むろん林達夫はありとあらゆる剽窃を擁護しているのではない。「私がこんなことをいいだしたのは、いわゆる剽窃にはピンからキリまであるということがいいたかったからだ」。そこで林は、板垣夫人とはまったく異なる見解をもつ知識人を引く。アナトール・フランスである。
かつてドーデが剽窃のかどで攻撃されたとき、彼はドーデの擁護者として立ち、有名な「剽窃の擁護」を書いた。詳しく知りたい人のために原典を挙げておく。
Anatole France, "Apologie pour le plagiat", Le Temps, 4 janvier 1891, reprise dans La Vie littéraire, quatrième série, Paris, Calmann-Lévy, 1924, pp. 157-167.
BNFでは原本をウェブ上で読むことすらできる。日本の知識人の端くれとしては羨ましいというほかない。「フランスを羨ましがってばかりいないで、日本の厳しい現実を見たほうがいい」としたり顔で忠告してくれる人もいる。だが、まず夢見るところから始めなくて、この国に何が残されているのか。
アナトール・フランスによれば、剽窃家とは、何でもかでも、他の家から家財でも雑巾でもゴミ箱でも滅茶苦茶に盗んでくる人間のことであって、かかる輩は思想の殿堂に住むに値しない。
「だが、他人から自分に適したもの、得になるものだけを取る作家、選択することを心得ている作家について言うならば、それは立派な人間である」。
また、アナトール・フランスによれば、それは「節度の問題」でもある。「人はミツバチのように他に迷惑をかけずに盗むことができる。だが、穀粒をまるごと略奪するアリの盗みは決して真似してはならぬ」。
つまり剽窃には二つあるのだ。法のレベルに納まるものと、法の概念そのものを揺るがし、ひそかにその根本的刷新を促すものと(アンチゴネーを剽窃の問題から考えることも出来るかもしれない)。
