Tuesday, October 30, 2007

Monsters of Excellence

≪いささか大げさな言い方で恐縮だが、大学こそ現代日本の普通の若者の集まる場である。その大学を変えなければ日本の将来はない。≫(『崖っぷち弱小大学物語』)

レディングスの『廃墟のなかの大学』に全面的に賛成というところからは程遠い位置に私はいるわけだが、それでも数々の指摘は実に真実を穿っていると思う。

例えば、大学における高等教育を取り巻く状況の中で、「エクセレンス」を追求する姿勢(COE=Center Of Excellence)と、「消費者主義」が密接に結びついているという指摘は正しい。

エクセレンスとは何か?量的基準への一元化であり、その基準への盲目的信仰の嬌声=強制である。エクセレンス主義と消費者主義の結合についてだけ言えば、「弱小大学」だろうが、「一流大学」だろうが、抱えている構造的な問題は同じである。

この問題をCOEで取り上げるという姿勢自体、高く評価できる。絶えざる自己省察、自己批判の姿勢、そう、それこそ哲学の仕事だと思う。

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昨今、巷で話題になっている社会現象は、多かれ少なかれこの大きなグローバリゼーションの流れの中にある。

「小さい政府」「民間の活力の導入=競争社会」に快哉を叫び、トヨタが自動車生産台数で世界二位になったと自慢げで、経済大国になった今も世界有数の長時間労働を続け、サラリーマンの年収が8年連続でダウンしているのに、小さなデモさえ民衆自身から非難される。

「ハケンの品格」を信じ込まされ、テレビ・雑誌を通じて「セレブ」に羨望の眼差し。持ち上げて落とすことが昨今の現象なのではない。その周期と落差が加速度的に速く、大きくなったことが新しいのであり、その背後には「エクセレンスの論理」がある。

食品にまつわる偽装や、少年ボクサーのルール違反といった問題が新しいのではない。エクセレンス至上主義(売上高、株価や視聴率といった量的基準への急速な一元化)が、丸山真男の指摘した「無限責任→無責任」という特殊日本的な風土と見事に結びついたことが新しいのである。

消費者的「非難」が一向に生産的な「批判」、建設的な「議論」に転じていかない。

レディングスの大学をめぐる状況分析は、どこまで日本に当てはまるのか?これが私の素朴な疑問である。

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この国は経済的貧者・社会的弱者を切り捨てる方向に進んでいる、それは確かだ。人々はそんな国の姿勢を知らず知らず真似し、子供はそんな親の姿勢を知らず知らず真似する。それでいて「いじめをなくせ」だの、「教育再生」を願っているなどと言う。

教育を語る際に「斜交いからの視線」――夜回りや元不良といった「マージナル体験」への盲目的な信仰――を持ち上げること自体がすでにデマゴギー的である。批判装置自体が「エクセレンスの論理」に取り込まれてしまっている。

揚げ足取りの「批判」で己の知的優越感を感じ、悦に入ろうというのではない。哲学が政治や教育になしうる寄与があると言いたいだけだ。「忙しいから」「興味ないから」と逃げないこと、少しでも知ろうと努め、事態を把握しようとすること、まずはそこから始まる。

行動を起こすこと、大事なのはそれだけだ。社会や政治が変わるのでなければ、教育が変わるはずもない。教育が変わるのでなければ、社会が変わるはずもない。政治や教育を変えられない哲学にさほどの意味があるとも思えない。哲学には経済効率以外の、人間精神を豊かにするパフォーマティヴもある、と示すことができるはずだし、また示すことができるのでなければならない。

学問は何の役にも立たず、役に立たないことに意味がある、と大正教養主義的な「虚学」賛歌を言っているのではない。質的に異なるさまざまな「役に立つ」がある、異質なパフォーマティヴを模索せねばならない、と言っているのである。


保護者の理不尽なクレーム、専門家による支援検討 文科省
7月9日8時1分配信 産経新聞

 理不尽な要求で学校現場を混乱させる保護者ら、いわゆる「モンスターペアレント」について、文部科学省が来年度から、本格的な学校支援に乗り出す方針を固めた。地域ごとに外部のカウンセラーや弁護士らによる協力体制を確立し、学校にかかる負担を軽減することを検討している。来年度の予算要求に盛り込みたい考えで、各地の教育委員会にも対策強化を求める。

 文科省が検討している支援策は、保護者から理不尽な要求やクレームが繰り返された際、教育専門家ら外部のカウンセラーが保護者と学校の間に入り、感情的なもつれを解消して問題解決を図るというもの。

 保護者とのトラブルが法的問題に発展するケースもあるため、学校が地域の弁護士からアドバイスを受けられるような協力体制づくりも進める。地域ごとにカウンセラーや弁護士らの支援チームを結成することも検討する。

 教育現場では近年、無理難題を押しつける保護者らが急増。こうした保護者らは「モンスターペアレント」と呼ばれ、校長や教員が話し合いや説得に努めてきた。しかし感情的なもつれなどから問題解決がこじれ、学校にとって大きな負担になることが少なくないという。

 モンスターペアレントについては今月初めの副大臣会議でも取り上げられ、文科省の池坊保子副大臣が早急に対策に取り組む姿勢を示していた。 文科省幹部は「学校が一部の保護者らの対応に追われて、子供たちの教育活動に支障が出るようになったら本末転倒。各教委が率先して対応に乗り出す必要がある」としている。


【主張】問題親 非常識に寛容すぎないか
産経新聞(06/19 05:17 )

 自分の子が悪いのに、しかった教師のところに怒鳴り込む。なんでも学校のせいにして損害賠償まで請求する。そんな理不尽な親の問題が深刻になっている。

 親からの無理難題の事例は枚挙にいとまがない。 大阪大の小野田正利教授らがつくる「学校保護者関係研究会」の聞き取り調査からも、その一端がうかがえる。「なぜうちの子が集合写真の真ん中ではないのか」「子供がけがをして学校を休む間、けがをさせた子も休ませろ」「子供から取り上げた携帯電話代を日割りで払え」など、要求内容はあきれるばかりだ。

 東京都港区教育委員会は、弁護士と契約して校長らの相談窓口をつくった。親とのトラブルで訴えられるケースを想定し、保険に入る教職員も増えている。こじれる前の対応が重要なのはいうまでもないが、やむにやまれない措置をとる教委が目立つ。

 学校関係者を中心に、「モンスターペアレント」(怪物親)という造語が広がっている。絶え間ない苦情攻勢で学校教育にも支障を来す親の存在は、教師を萎縮(いしゅく)させている。学校が壊されてしまうという恐れも抱くという。そんな関係は危機的だ。

 学校給食費を払わないばかりか、子供が通う保育園の保育料を払わない親も増え、自治体が法的措置を講じて督促するなど対応に苦慮している。支払い能力があるのに払わない親が増えているのだという。ここでも、自己中心的で規範意識のない親、学校を軽くみる親の姿が浮かび上がる。

 問題親が増えている背景に、子育てに対する学校、家庭、地域の役割分担意識の希薄化を指摘する見方もある。教育はすべて学校の責任とする風潮である。教育委員会も親からのクレームに過敏となる傾向がある。その結果、親の非常識が放置され、理不尽な要求に振り回されている。

 今年元日付の「年頭の主張」でも紹介したが、かつて欧米人は礼節を備えた日本の子供たちに目を瞠(みは)り、その子供たちを一体となって育(はぐく)む日本の社会や家庭の姿に感銘を受けたという(渡辺京二著『逝きし世の面影』から)。そうした社会を取り戻す必要がある。それにはまず、親の非常識を正すところから始めなければなるまい。

想像力、海外組

私とは入れ違いなので交流はないのだが、リールにClaudio Majolinoという若手の分析系現象学者がいる(おそらくJocelyn Benoit的な方向性と考えてそれほど間違いではないだろう)。

彼のやっているセミネールは想像力に関するものである。
Séminaire « Facta et ficta : analyse du traitement phénoménologique de l’imagination (Phantasie) et des actes non positionnels ».

興味のある方はSTLの該当頁を覗いてみてはいかがでしょうか。

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サッカー日本代表のオシム監督は、「残念ながら日本には個人のスターしかいない。私はチームとしてスターになりたいし、いつかそういう時代がやってくる」と言った。選手によって人気が上下する日本のサッカー文化の未成熟さに原因があるというのはもっともだ。

「人気が低下している」フランス思想・哲学研究も同じことではないだろうか。「殿様商売」を改めねばならない。だが、「観客が見たいのは海外組」などというマーケティングの専門家は、期待の地平を一歩も超え出ていない。評価基準を自らつくりだし、「需要」を創出するのが真のパフォーマティヴではないか。

いつまでも海外組でもあるまい。だが、一昔前の広島カープのように、純国産にこだわる意味もない。チームとして向上するにはどうすればいいか、それだけが重要だ。人気は監督の考える最優先事項ではない。

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スター不在で集客・視聴率低迷 サッカー日本代表
産経新聞
07:36
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 サッカーの日本代表人気が低下している。かつてプラチナチケットだった入場券は昨年のオシム監督就任以降、減少傾向で6月のモンテネグロ戦は日韓W杯以降、最低の2万人台の入場者数を記録した。危機感を募らせる日本協会は“殿様商売”を改め始めた。そんな中、アジア杯が開幕したが、29日の決勝戦が参院選投開票日とぶつかり大会が選挙戦とかぶってしまい、前回大会のような盛り上がりは期待しにくい。

■ヒデの穴 日本代表戦といえば、スタジアムがレプリカユニホームを着たファンで真っ青に染まるのが相場だった。ところがオシムジャパン発足後、国内開催7試合中、4試合で観客の入りは9割未満。モンテネグロ戦に至っては2万8635人と、6割にも満たなかった。


 視聴率も低迷気味だ。平均視聴率が20%を超えたことはなく、特に3月24日のペルー戦の13・7%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)は同時間帯に行われた女子フィギュア(38・1%)、プロボクシング亀田興毅のノンタイトル戦(16・2%)にも及ばなかった。


 この低迷の原因を、あるテレビ局関係者は「中田英寿氏の引退が大きい」と語る。「今の代表の先発を言える人、どれだけいますか?普段スポーツを見ない人をひきつけるためにも、スターは不可欠です」。現代表にも中村俊、高原ら人気選手はいるが数字上は「スーパースター不在」を意味している。

■低い満足度 もっとも「個」を尊重したジーコ前監督と異なり、オシム監督は特定の選手に頼らずチームとしての機能性を重視する。このため、新たなスターが生まれにくい状況も生み出している。


 そんな“オシム流” について間宮聰夫・順大大学院客員教授(スポーツマーケティング論)は「スポーツをビジネスとしてみた場合、観客満足度を高めていない」と断じる。「観客が見たいのは海外組。直前合流による肉体的負担や連係不足はわかるが、日本協会がクラブ側に金銭補償してでも海外組がチームに長くいられるような環境作りも必要」と提案する。



 当のオシム監督は「残念ながら日本には個人のスターしかいない。私はチームとしてスターになりたいし、いつかそういう時代がやってくる」。選手によって人気が上下する日本のサッカー文化の未成熟さに原因があると言いたげだ。

 

■動く協会 日本協会もオシム監督のチーム作りを支持している。人気低下についても、オシム路線というより「ドイツW杯への期待と(惨敗という)結果のギャップが大きかった」と田嶋幸三専務理事はみる。それでも、ここまでの観客減は衝撃だった。



 田嶋専務理事は最近、現場とマーケティングの連携の重要性が身にしみるという。「レアル・マドリード(スペイン)の成功も、その点を無視していないから」。代表戦というだけで黙っていてもチケットが売れた時代は終わったという。



 今年に入り日本協会はチケット券種に変更を加えた。代表戦の観戦者動向調査データを参考に一番値段の高い座席数を減らしファミリーシートを増やし、北京五輪アジア2次予選では自由席を1000円で販売するなど柔軟性をみせ始め殿様商売から一歩踏み出した。



 アジア杯も日本代表の活躍で低迷打破の起爆剤にと期待されたが、参院選の余波で視聴率への影響も考えられる。田嶋専務理事は「一番大事なのはみんなが応援に来てくれるような魅力あるチームを作り勝つこと。チケットの売り方などはその次」とオシムジャパンへの注文と期待を語るのだが…。(森本利優)

Monday, October 29, 2007

ゴールドクレスト

子供が生まれた時、記念に区役所からもらったゴールドクレストが遂に枯れ果て、捨てられてしまった。。私も連れ合いも、植物を育てるのにはとことん不向きな人間である。

赤ん坊を育てていると、対人関係について考えさせられることが多い。別に高尚なことや深遠なことではなく、ごく普通のこと。

袖を通してあげるときは、こちらで袖を折りたたみ、赤ん坊の腕を一気に通してしまう。こちらで全部準備して、相手には最小限の負担、最短の時間しかとらせない。でないと、ぐずってしまう。時間がなく焦っているとき、つい面倒くさくなったとき、袖をそのままに腕を通そうとして失敗する。

子育ては、赤ん坊の理不尽さと親の至らなさの間で揺れ動く。授業・教育でも、事務作業でも、シンポの準備でも(笑)、同じだとつくづく思う。

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日曜は家庭サービスの日。ときどきレディングスを読む。

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我々のベルクソン・プロジェクトもシンポまでは成功した。次は出版の段階である。が、研究者個人の研究書ならともかく、シンポジウムの出版はなかなか難しいのだそうだ。

今回のシンポは内容的にもきわめて充実していたと思うので、なんとか流通に乗る出版にこぎつけられればと思うが、果たしてどうなるか。

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<学位商法>熊大教授が米国の非公認大学「博士号」を公表
8月30日9時1分配信 毎日新聞

 熊本大学教育学部の教授が、公的機関から学位として認められていない米国の非公認大学の「博士号(文学)」を、自らの最終学歴・学位として公表していたことが分かった。非公認大学の学位の多くは、数十万~百数十万円を支払うだけで簡単に取得できる「学位商法」として米国などで問題になっている。文部科学省は、海外の非公認大学で取得した学位で採用や昇進を認められた大学教員がいないか、全国1206大学を対象にした実態調査を進めている。

 関係者によると、この熊大教授は、大学の教育水準を評価・保証する全米高等教育機関基準認定協議会(CHEA)が、大学として認定していない、米パシフィック・ウエスタン大学(PWU)から学位を取得。独立行政法人・科学技術振興機構の研究者情報サイトには、PWU大学院の博士号を95年に取得と登録し、福祉教育に関する著書(02年)にも経歴欄に博士号を指す「Ph・D」と記載した。教授は佛教大などを経て99年に熊大に移籍したが、現在の同大サイトの研究者情報には「文学修士」のみ記載がある。

 取材に対して教授は、同大学広報室を通じ「論文提出などの審査を受けて、学位を受けた。当時は非認定の大学という認識は全くなかった。熊大採用時の履歴には記載していなかった」と回答した。文科省は国内の大学教員の一部が、国際的に無意味な学位を最終学歴に掲げていることを問題視。国内の全大学に、米国などの公的な認定リストに掲載がない機関が授与した学位名称の有無▽採用・昇進審査の判断材料にしたか――などについて回答を求めている。文科省は、こうしたやり方が横行すれば「大学教育の質の維持が危ぶまれ、国際的な信用低下につながる」として、今秋にも調査結果を公表する。【石田宗久】

Sunday, October 28, 2007

来場者数

子供を預けられない休日のほうが疲れる。。そして書類、書類、書類。

ynさんが誘ってくれたUTCPの「哲学と大学」の第一回が11月1日にある。
レディングスの著作をもとに哲学と大学の歴史的関係を概観し、グローバル状況下における人文学の現状を考察します。事前にテクストを読んできたり、購入して持参したりする必要はとくにありません。どなたでも御自由に手ぶらでご参加ください。

ご興味がおありの方は、誰でも参加してよいそうなので、ぜひどうぞ。

第一回の分析対象であるビル・レディングスの『廃墟のなかの大学』(原書1996年、法政大学出版局、2000年)、少しずつ読んでます。今の私の年齢の時に亡くなったのですね。コスモポリタン的な大学歴はまた、英語圏の特権でもあるのではないでしょうか(フランス語圏から飛び出した人は、ごくわずか…)。

コレージュ篇ワークショップでの発表レジュメの締め切りも同じ日。『創造的進化』と『全体性と無限』の一節を取り上げて(以前このブログで取り上げた「踏切板と石板」である)、ベルクソンとレヴィナスにおける物質と記憶、自由と制度の問題を簡潔に論じてみたい。

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来場者数

さて、『創造的進化』シンポ私的報告の続きである。

一週間のマラソン・シンポジウムは、フランス人にとっても、私たち迎える側にとっても、生易しいものではなかった(さらに、私を含め、数人の人々は、直後に韓国に行ったので、けっこう壮絶な極道ぶりではあった。。)。

しかし、参加者にかなりの無理を強いたこの企画は、観客動員において十分に報いられたと言っていいだろう。この種の催し(フランス語で行われたフランス哲学に関する専門的なシンポジウム)では、相当健闘した結果だったと思う。私の個人的な印象でしかないが、

第一日目(学習院大学):100~120名
第二日目(法政大学):70~90名
『二源泉』ワークショップ(東京大学):60~80名
第三日目(京都大学):60~80名

来て下さった皆様、本当にありがとうございました。

下の写真は、すべての日程を終え、京都を出発する直前に、京都大学裏の寺を散策した折に撮ったものである。疲れた、しかし充実したフランス人たちの雰囲気を伝えてはいないだろうか。



Saturday, October 27, 2007

撒種するとはどういうことか?

大作を何とか書き終え、激動の一週間を終え、トンネルを抜けると、そこは家事と事務書類の国だった。。共働き&赤ん坊持ちの同世代の若手研究者たちは、いったいどうやって研究したり、まめにブログを更新したりできているのだろうか。自分ではけっこう働いているつもりなのだが、まだまだ甘いということなのだろう。

さて、三日間の『創造的進化』百周年記念国際シンポジウム+『二源泉』ワークショップ+韓国篇である。

★以下に書き連ねることはあくまでも私の個人的な考えであって、他の主催者、主催団体や発表者の方々の意見を代表するものではありません。

企画の意図

一番大きな眼目は、「日本のベルクソン研究(ひいてはフランス思想・哲学研究)の活性化に少しでも寄与する」ということであった。

そのためには、一日か、せいぜい二日、数人の海外研究者を呼んで、こぢんまりと世界の最先端のお話を興味深く拝聴する、といった旧来の方式ではあまり意味がないと思われた。

やるなら三日、ベルクソン研究の先端を行く世界の研究者(フランスだけでなく、少なくとも英米系)と、世界に紹介して恥ずかしくない日本を代表するベルクソン研究者の真剣な議論を、日本の聴衆、とりわけ若手研究者に、ライヴで見てもらうことが最も重要であるように思われた。

今回のシンポを旧来の延長線の感覚で見てしまった人がいるとしたら、この企画は失敗である。

やれ「フランスの誰某は大したことがない」だの、「日本の誰某の新刊はイマイチ」だの、批評家気取りで、言いたいことを言う。それでは巨大掲示板に「言いっ放し」を書き込んで、いっぱし専門家気取りの素人とたいした違いはない。それでいて、自分は満足に英・仏・独語で論文一つ書けはしない。日本語でなら、単に業績づくりの口実でなく、単に訓詁学的でもない、問題提起的な論文を書けているのだろうか?

若いのだから、大きなことを言ってもいい。ただ同時に、もっと自分の足元を見つめ直すべきなのだ。そう痛感してくれた若手(要するに私と同世代の人たちのことである)が一人でも増えたとしたら、この企画は成功である。


発表者の陣容

かねてから、ベルクソン研究をきちんと多様化する必要がある、と感じていた。「何でもアリ」がいいというのではない。一定の水準を保ちつつ、しかし、過度に訓詁学的にならない、という警戒感は必要であるように思われた。また、純粋哲学的と言おうが、形而上学的ないし存在論的と言おうが、同じことだが、とにかくベルクソン哲学における重要なモーメントである「科学との接触」を失うことも避けねばならないと思われた。ここから、以下の三本柱が決定した。

1.哲学的・哲学史的研究
2.科学的・科学史的研究
3.現代思想との関わり

今回は、画期的な「事件」「出来事」としてこのプロジェクトが一定の認知を得る必要があった。そこで、著名な実力者のみにご登場いただいたわけだが、次年度以降は、できれば小さなセミナー形式であれ、若手に発表の場を与えられるような「プラス・アルファ」を可能な限り導入していきたい(財政的な問題も含め、クリアしなければならない問題が山積しているので、約束はできないが)。

*

中堅以上の研究者には、真摯に努力を続けている若手を「救う」義務がある。もちろん自助も大切だろう。だが、若手を取り巻く状況は、帝大時代とも、バブル期とも違う。業界自体が崩れようとしているのである。

私と共に立ち上がってくれた方々、手を差し伸べてくださった方々もいた。その方々には篤く感謝申し上げ、今後ともご協力をお願い致します。

だが、あるときは私をエリート主義者と呼び、あるときはポピュリストと呼ぶ、都合のいい態度を取っていらっしゃるだけの幾人かの人々もいた。「私は授業をちゃんとやっていますよ」とか、「大学の委員を積極的に引き受けていますよ」、というのは状況に対する何らの積極的な打開策ではない。その方々は、ならば、このような状況をどうお思いなのか、どう対処していくべきだと思っていらっしゃるのか。

Friday, October 26, 2007

共に、そして離れ離れに

とうとう激動の一週間が終わった。一週間にわたる『創造的進化』百周年日本篇を終え、その足でソウル国立大学で行われた韓国篇に向かったのが日曜日のこと。昨日、韓国から戻ってきた。これらの動きについては追々、少し詳しく報告していくつもりだ。

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私の「大学と哲学」論はとても単純だ。一方で、左翼=現代思想系の人々は往々にして「自由」を称揚しすぎる気味がある。大衆を積極的に取り込んでいく、象牙の塔に閉じこもらない、という基本姿勢にはまったく同感である。しかし、次のような姿勢が彼らの思想のうちに(実際のCOEや科研費獲得競争においてではなく)ほとんど見られないように思うのだ。
≪研究を進めるためには研究費を獲得しなければならない。大学院生の分まで必要である。研究費を獲得するためには次々と成果を上げなければならない。出てきた成果をできるだけ早く論文に書いて、主要な部分は英語で公表しなければならない。書いた原稿は国際的な学術誌に投稿して、審査員からどんなにケチをつけられても繰り返ししっかりと書き直して最後はパスし、掲載されるところまで持っていかなければならない。世界の最先端でいまどんな研究が進められているか、いつも外国語で書かれた膨大な量の論文に目を通して把握していなければならない。そして、どうやって最先端を自分自身が作り出せるかという、厳しい競争にさらされていたことは確かだ。誰もが必死だった≫(杉山幸丸(すぎやま・ゆきまる)、『崖っぷち弱小大学物語』、中公新書ラクレ、2004年)。

つまり、「エリート教育」(これが悪しき「エリート主義」と峻別されるべきことは繰り返し述べてきた)の問題が考え抜かれていないように思うのである。だとすれば、彼らの姿勢は根底においてポピュリズムの危険を孕んではいまいか。

しかし、他方で、自分をノンポリだと思い込んでいる純粋学術系の人々は、えてして「哲学・教育・政治」の根本連関自体を軽視することによって、自分が悪しきエリート主義に陥っていることに気づいていない。そのような人々の紡ぐ思索は、いかに「現実との接触」を語ろうとも、大学という自らの思索の唯物論的な基盤、「場所」についての哲学的省察を欠いてるがゆえに、本質的に脆弱な思考である。
≪大学が危機に直面しているのは日本だけではない。先進国の大学は、第二次世界大戦後に拡張政策をとったために、それぞれ構造的な問題が生じている。古典的な高等教育を維持しようとするイギリス、平等な公立大学の限界から脱出しようとするドイツ、大学以外の高等教育機関との調整に苦慮するフランス、そして大学院化が一層進むアメリカ。それぞれに事情の異なる各国の対処法から日本の大学が学ぶべきことは何か≫(潮木守一(うしおぎ・もりかず)、『世界の大学危機 新しい大学像を求めて』、中公新書、2004年)。

「大学と哲学」をめぐるこのような二極分化の間で、いかに理念を失わない現実主義を貫けるか。私の関心はそこに尽きている。以上の問題関心から出発して、昨今、フランスで展開された「哲学の教育、教育の哲学」の議論の一端を垣間見てみたい、というのが私の願いである。

***

このブログを見てくださる方が増えているそうである。とてもありがたいことだ…とばかりは、しかし、言えない。

別に、思ったことが書けなくなるとか、そんなくだらないことを心配しているのではない。私はそういう人間ではない。

ただ、多くの人にとって時間の無駄じゃないだろうか、と思うだけだ。

私がここに書いていることが本当の意味で理解できるのは、それぞれの道において「極道=道を極める」ことに精進している人だけである。それ以外の人々は、高名な学者であれ、残念ながら私(のブログ)とは本質的に関係がない。

読んでいますよ、などという目配せも不要である。本当に読んでいるかどうかは、その人の行動で分かる。言葉によってではなく、行動によって人の価値は測られる。読んでいても、大半の人は読んでいない。

不遜な言い方だ、と言われるだろう。しかし、それが数年間ブログを書き綴ってきた私の正直な実感である。自分のたかの知れた哲学的な実力を過大評価しているわけではない。ただ、理念をもって現実に立ち向かう大学人の少なさを知っているというだけのことである。

山羊の熟れ乳の人よ、共に、そして離れ離れに、道を極めることに勤しもう。それ以外の世の毀誉褒貶など、すべて塵に等しい。昨日「君のやっていることは本当に素晴らしい」と言っていた人間が、明日は「前々から不遜な奴だと思っていた」と陰口を憚らない、そんな世界にあって、信念と行動を同じくする人はごく少数だ。

Friday, October 05, 2007

近況・展望(自分の仕事の)

仕事と言えば、やはり自分の研究が一番しっかりしていないといけない。華やかな仕事などは、理想をもった現実主義の「現実」の一部分にすぎない。

・2007年8月:日仏哲学会刊行の『フランス哲学・思想研究』第12号に「ベルクソンと目的論の問題―『創造的進化』百周年を迎えて―」。

・2007年9月:大学紀要に三部作の第二篇。

・2007年9月:日本フランス語フランス文学会刊行の『フランス語フランス文学研究』第91号に「唯心論(スピリチュアリスム)と心霊論(スピリティスム) ―ベルクソン哲学における催眠・テレパシー・心霊研究―」。

今年はこれで大論文一つ、論文6本掲載(日4、仏1、12月ごろに英1)、翻訳(独→仏)1本、檄文一つ。各種応募用に日本語論文を増やすという所期の目的は達したと言える。来年も、少しでも質の高い日本語論文を、2カ月に一本のペースで書き、少なくとも一本は「これぞ」というフランス語論文を書ければ、と思う。

で、論文の内容なのだが、従来の研究の核であるベルクソン研究に加えて、ひとまず三つの軸を持ちたいと考えている。

1)「旅行の哲学」というときわめて軽そうなのだが、実際には"Weltanschauung et perspectivisme"という哲学的な問題体系を裏に秘めている。

2)「結婚の形而上学とその脱構築」。これまた「宗教と聖性」「存在と所有」「fides概念」といった形而上学直球の問題系を現実問題と交錯させて論じたい、という意図がある。

3)「教育の哲学、哲学の教育」。これも長年やりたいと思っていたテーマ。その一部はすでにこのブログでも書き散らかしてきた。

お約束した関係もあるので、まずは3あたりから、研究論文の形で徐々に書いていきたい。

翻訳はお約束したものが幾つかありますが、これは何とかやり遂げたいと思っています。それ以後は、原則的にお引き受けしないと思います。

Wednesday, October 03, 2007

哲学と大学

一つ大きなヤマを越えようとしている。大規模な国際シンポの準備、複数の関連イヴェントとの調整、期限の迫った諸々の論文の校正、各種応募、そして子育て。。。周りから見てどうか分からないが、自分ではよくこんなコンディションに耐えて、それなりのものをつくりあげたとほっとしている。まだ完全には終わっていないけれど。

ここ数日、大量のメールを読み、書き、送るだけで一日の大半が潰れている。微妙な人間関係を含んでいるにもかかわらず、即時に返信しなければならない多数のやり取り。メールを書きすぎると、自分を消耗する。スイッチのオンオフが大切だと自分に言い聞かせる。というわけで、もう夜はメールを読まないことにしたので、返事が遅れても、苛立たずに(笑)お待ちください。

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新たな運動に巻き込んでもらえて嬉しい限りだ。そうして巻き込まれつつ、他の人も巻き込んでいきたい。新たな出会いを準備していければと願っている。

UTCP「哲学と大学」

正直、買い被られている気がするけれど、化けの皮が剝がれたら剥がれたでしょうがない。それが自分の今の実力なのだから。

Monday, September 10, 2007

場の論理

ある場所を立ち上げる時はいいのだけれど、既存の場所をいかによりよくしていくか、という問題は非常にデリケートだ。すでにatmosphèreがあるからである。

「よりよく」というのは必ずしも「今までが悪かった」ということを意味しはしないのだが、往々にしてそう受け取られてしまう危険性を孕んでいる。

そう受け取られたとき、誰か特定の人(々)を恨んでみても始まらない。それぞれの場の論理というものがあり、言ってみればそれぞれのgenius lociが働いている以上は。

変えること、進むことばかりが重要なのではない。引くこと、擱くことが必要なときもある。

引くこと、擱くことばかりが重要なのではない。変えること、進むことが必要なときもある。

正しい答えなどあるのだろうか?けれどそれを探す真摯な試行錯誤の道のりだけが、唯一信じられるものであるように思える。

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とはいえ、「善意の押し売りほど有難迷惑なものはない」ということもしっかり胸に刻みつけておかないとね(笑)。

Thursday, August 23, 2007

マンモスの創造的進化

ヤフー・フランスのトップニュースのタイトルの付け方はいつも少しひねってある。例えばこんな感じ(今回はひねりが少ないけれど)。


Le mammouth comme cible
L’Éducation nationale attendait la nouvelle avec anxiété. C’est maintenant officiel : 11 000 postes ne seront pas remplacés en 2008.


日本だとこんなときに用いるのは「象」だろうか。この手のニュース解説を日本語で読みたい方は、penses-bêtesの友人Kiyonobu TedoさんのブログKiyonobumieからたどっていかれるといろいろな発見があることでしょう。

大学にかかわる限り、教育の問題を考えずに避けて通ることはできない。知的興奮を誘う新たな制度的創出によって、事態を少しずつ変えていこうとする努力もまた、真に哲学的な営為に属するとなぜ分からないのだろうか。人を鍛錬系、啓蒙主義者などと揶揄するだけでは一インチたりとも先に進んだことにはならない。



Environ 11.000 postes pas remplacés dans l'Education en 2008
Reuters - Mercredi 22 août, 20h13
PARIS (Reuters) - Environ 11.000 postes ne seront pas remplacés à l'Education nationale en 2008, annonce Xavier Darcos.


Le ministre de l'Education précise dans un entretien à paraître ce jeudi dans Paris Match que seul le second degré connaîtra une baisse de ses effectifs et que les non-enseignants seront, en proportion, les plus concernés.

"L'Education nationale, qui représente à peu près la moitié de la fonction publique, participera pour moitié à l'allègement de 22.700 suppressions d'emplois dans l'Etat l'an prochain."
"Donc environ 11.000 fonctionnaires partant à la retraite ne seront pas remplacés", dit-il.

Dans le premier degré, l'Etat compte créer environ mille postes chaque année.

"Dans le second degré, il y aura des départs à la retraite non remplacés: ce sont, en proportion, les fonctionnaires non enseignants -cadres, agents techniques ou administratifs-, qui représentent 20% des postes, qui seront le plus concernés", précise le ministre de l'Education.

Il attend 25.000 élèves de plus dans le premier degré et 25.000 de moins dans le second, soit au total 6,7 millions d'élèves en maternelle et en primaire et 5,4 millions dans les collèges et lycées.

Xavier Darcos estime qu'"on ne manque pas de professeurs", la France en comptant 83 pour 1.000 élèves dans le secondaire contre 66 en Allemagne et 60 au Royaume Uni.

"L'offre d'options est à revoir", ajoute-t-il, car "on compte sur le territoire 500 professeurs d'allemand sans élèves. Même situation pour le portugais. De même pour certaines options désertées dans certaines sections professionnelles".

Xavier Darcos déclare également qu'alléger les emplois du temps "est d'autant plus nécessaire qu'il n'y a pas de corrélation entre le temps passé et la réussite".

"Comme tous les pays du monde, la France doit rationaliser les études, avec plus de suivi individuel et moins d'options", dit-il.

"Attention, en particulier aux filières sans débouché évident. Je pense à 'ES' (économique et social). Elle attire beaucoup d'élèves qui occupent ensuite de grands amphis mais se retrouvent avec des diplômes de droit, psychologie, sociologie... sans toujours un emploi à la clef", poursuit-il.

Thursday, August 16, 2007

打率

問題というのは本当に思わぬところから起こってくるものだ。自分ではずいぶんいろんなことに注意もし、できるかぎり問題の起こらないよう配慮してやっているつもりだが(それを感じ取ってくれている人々もいることでしょう)、それでもやはり問題は生じてくる。というか、こういうことにきりはないのだ。いつでも、どこにでも問題は突如生じうる。

そして、問題が起こったからといって、研究のほうが待ってくれるわけでもない。プロの世界では結果がすべてだ。

最近、打率ということをよく思う。研究は日々の積み重ねだ。一打席、あるいは一試合、素晴らしい打撃をしたからといって、それが何だろう。コンスタントに打つ、トータルでいい成績を残すこと。それがまずは一軍に定着し、スタメンに名を連ねる条件だろう。

「打率」、日々の積み重ねとは、試合のことだけではない。日々の練習をより効果の高いものにし、より効率よくこなすことも意味している。若いうちは体をいじめ抜け、それが最終的に長くプロ選手をやっていくうえで土台、貴重な財産になる、とスポーツでは言われる。高校野球のスターのうち、何人がプロ野球の一流選手になっただろうか。研究も同じだと思う。

(体をいじめ抜く、とはもちろん、過剰な練習で体を壊すことを意味しない。しかし、自分がこれまで限界としてきたことを超えようとする作業ではある。どのみち、私は、研究のやり過ぎで体を壊すほど真面目な人間ではないので、これはあまり関係ないが。)

日々の練習は、実は、ベテランになっても続く。若手の練習は実力を伸ばすためのものだが、ベテランの練習は、実力を維持するためのものだ。今の体力、それに支えられた技術を維持するために、体をいじめ抜くのである。

*

今、自分は二流選手だと思っている。今まで論文掲載を拒否されたことは一度もないし、奨学金やプロジェクトの申請もまずまず受かっているので、まったく無能、三流だということではないのだろう。

ポカもあるが、要所要所ではそこそこのバッティングをする。けれど、それでは駄目だ。日々の努力が足りない。もっと努力できるし、もっと自分を追いつめることができるはずだ。ところが、それが出来ていない。

一流と二流を分かつ差は、才能ではなく、努力だと思う。いや正確に言えば、できうる限りの努力をできる才能だ。今のところそれが足りない。欠けているとは思わないが、まったく不十分だ。

これはとても歯がゆい。長距離走のときの歯がゆさに似ている。力尽きた、もう駄目だと思って、歩くようなスピードで走っていたのに、ゴール近くで待っている人たちの声援を受けると、自然とラスト・スパートができる。問題はおそらく、経験不足から来るペース配分ミス、そして何より意志の弱さだったのだ。

*

けれど、そこで終わりではない。一軍に定着し、活躍することのさらに上がある。

三割打者はすでに一流の証である。試合に勝てばそれでいい、自分の打率は二の次だ、そういう考えもある。けれど、そこに安住しない選手もいる。

勝とうが勝つまいが、一打席一打席ベストを尽くす。三割に満足しない、試合に勝つことに満足しない、それこそが超一流と呼ばれる選手だろう。そこに到達するには、まだまだ何もかもが足りない。

今は自分をもっともっと伸ばす時期。がむしゃらにやればいいというのではない。若さで押し切る時期は終わってしまった。決然とした意志と、明確な目標を持って日々の練習に取り組むことだ。

いずれは、自分の研究時間を確保し、現在の実力を保つだけで精いっぱいという時期がやってくるのだろう。しかし、それはベテランと呼ばれる選手たちの問題だ…。ベテランにも「打率」の問題はやはりつきまとうのである。

Wednesday, August 08, 2007

ベルクソン『創造的進化』研究HP

ようやく出来上がりました。

http://www.cms.k.hosei.ac.jp/project-Bergson-Japan/

まだ立ち上がったばかりの段階ですが、これから少しずつ充実させていく予定です。ご尽力いただいた(ている)nsさんに深謝。

また、Link欄から、ポスターにアクセスできます。

Thursday, July 19, 2007

頭痛のタネ、友情の種

もうメンバーも内容も会場も決まって、秋のシンポジウムは一段落した、と思われているかもしれないが、とんでもない。ここに来て急に問題が持ち上がっていた。

ここ数日、自分の研究をほっぽり出して(赤ん坊や家事は放置するわけにはいかないので)、純粋に不毛なやりくり算段に埋没していた。

問題を解決しようにも、フランス人は今まさにバカンスに出発する(した)時期である。なんでこんな時期に!

特に頭が痛いのは、近頃ユーロが強すぎるということ。どう処理すれば一番効率的なのか。こちらにもきちんと検討するゆとりが欲しかったが、緊急処置を要する問題でもあり、そういうわけにもいかない。

本当はある程度詳細を書いたほうが後進の人の参考になるだろうとは思うのだが、ちょっとデリケートすぎる。紆余曲折の末、事態はようやく今日になって、収束の方向に向かっている。

一言だけ言えば、誰が相手であれ、いかに耳の痛い真実であれ、言うべきは言う、そういう関係を世界の研究者とこれからも維持していきたいと思っている。

このconsternantな問題の中で唯一嬉しかったのは、アジア人の知的・財政的協力者がおとこ気を見せてくれたことだ。彼とはウマが合いそうな気がしている。長期的な視野に立って、より一層の連携を深めていきたい。


地下鉄初乗り1000円!=英ポンド、対円で高騰
7月18日6時1分配信 時事通信

 【ロンドン17日時事】ロンドン外国為替市場で17日、英ポンドの対円相場が上伸し、一時16年ぶりに1ポンド=250円を突破した。日英両国の金利差が、ポンド相場上昇の背景。ロンドンの地下鉄初乗り料金(4ポンド)は、円換算で1000円を超え、日本人観光客や円を基準に給料を受け取る駐在員からは、日本との価格差の広がりに、悲鳴も上がっている。

2007/07/13-11:44
円、対ユーロで最安値更新=一時、168円95銭

 13日午前の東京外国為替市場の円相場は、内外の金利差に着目した円売りが進み、対ユーロでは一時、1ユーロ=168円95銭を付け、169円台目前に迫るなど、9日に付けた史上最安値168円55銭を更新した。午前11時現在1ユーロ=168円78-79銭と前日比52銭の円安・ユーロ高。

 日銀の金融政策決定会合での政策金利据え置きを受け、改めて内外の金利差が意識され、金利の低い円で資金を調達しユーロなどの高金利通貨で運用する「円キャリー取引」が活発化。円は、英ポンドやオーストラリアドルに対しても売られる全面安の展開となった。

 円は対ドルでも続落。午前11時現在、1ドル=122円46-47銭と前日比41銭の円安・ドル高。ユーロ・ドル相場は、1ユーロ=1.3781-3782ドル(前日1.3785-3786ドル)。

Wednesday, July 18, 2007

現役復帰(学問における)

私自身、若い人だけでなく、少し年を取ってなんとなく元気がない、研究の動機を見失いかけている(ようにも思われる)人たちにも積極的に声をかけていくことで、もう一度奮い立ってもらえればと思っている。願っているだけでなく、実際そのために動いてもいる(そのうち明らかになるだろう)。

もちろん一度失いかけた情熱を取り戻し、その間に蓄積された情報量をキャッチアップすることは簡単なことではない。だが、また、不可能でもない。

また、もちろん一研究者としては、そういうプロモーター的な仕事でなく、自分自身の研究の中身が一番大事なわけだが、それだけに閉じこもりたくはない。どれほど忙しくても。


【HERO'S】船木誠勝「桜庭や田村の試合を見て現役復帰を決意した」
GBR 格闘技WEBマガジン - 2007/7/17 14:19

 7月17日(火)都内ホテルにて、TBS主催『OLYMPIA HERO'S 2007 ミドル級世界王者決定トーナメント開幕戦』の一夜明け記者会見が行われ、大晦日での現役復帰を発表した船木誠勝(ARMS)が心境を語った。

 会見はFEG谷川貞治代表による、復帰までの経緯説明から始まった。「船木さんはHERO'Sの旗揚げ戦から中継の解説の仕事をしてもらっていて、当時はパンクラスを離れてフリーとしてタレント活動されていました。格闘技から離れているということで、私から『また(格闘技を)やりたくないですか?』と軽くお願いしたことはありましたが、正式なオファーをしたことはありませんでした。

 ところが柴田選手の練習を見たり、試合を見ているうちに火が着いたんだと思いますが、半年ほど前に船木さんの方から『格闘技をもう一度やりたい』という話を受けました。そこで(現役復帰が)本気かどうかを確認して『明日の大会で発表してもいいですか?』と聞いたところ了承がありました。ですから前田さんに船木さんの復帰を話したのも大会前日でしたし、細かい話合いはこれからです。

 私も船木さんが練習されているという話を聞いて、ある現役の有名格闘家から『かなり強い』ということや、そういう選手たちも極めてしまうという話も聞きました。それだったら(現役復帰も)大丈夫だろうと。ただし7年間の空白がありますから、調整のためにも大晦日がいいということになりました。

 船木さん、桜庭選手、田村選手は、グレイシーと闘いながら、プロレスファンに夢を与えて、名勝負をやって、総合格闘技を日本でブレイクさせた世代です。そんな船木さんのために最高の舞台、場所や相手を一生懸命用意したいと思っています。

 船木さんたちの世代があり、それから宇野選手たちの世代につながっている。船木さんたちはメインイベンターとしての風格を持っていると思います。そして下の世代の人たちにもいい刺激になると思います。また選手としては大変だと思いますが、総合格闘技の現状に立ち向かって欲しいです」

 谷川代表の言葉を受けて船木が挨拶。復帰を決意した理由を自らの口から語った。「桜庭選手がHERO'Sに参戦することになり、自分は解説席から見ていたのですが、選手としてはもう潮時だとうと思っていました。しかしそれでも桜庭選手は闘っていて、それを見て心が動きました。また今年の頭に柴田がデビューするということになって、柴田を通して現役の選手としてリングを見て、自分もやらきゃいけないと感じました。

 Dynamite!! USAで田村選手と会って、もし桜庭選手が欠場した場合にはホイスと闘うというオファーを受けていたと聞きました。同年代の選手たちが身を削ってやっているのに、それを解説席から批評するにはやりきれなかった。LAから帰ってきて、柴田と一緒に色んな選手たちとスパーリングをしても、まだ力が残っていると感じます。それで上がるリングがあるのであれば、もうやるしかないだろうと。それで現役復帰の話をしました。

 昨日もリングに上がって挨拶をしましたが、自分のことを知らない人もたくさんいると思います。でもリングの中は100%選手のものです。その選手の生活やすべてリングに出ます。ありのままの自分を出せば、損をさせない自信はあります。若い選手たちにも『何であんなヤツが』と思って、牙を向いてくれたらいい活性化にもなるでしょう。

 またアメリカにとられた日本の総合格闘技のいい部分を作り直したい。今は日本が作ったものを、アメリカでお金で持っていった。だったらもう1回自分たちで作り直せばいい。2,3年かかるかもしれませんが、不可能だとは思いません。これからは大晦日に向けて、100%選手としての生活に入りたいと思います」

 そして挨拶を終えた後は記者からの質疑応答に答え、今後の選手活動のビジョンを明かした船木。質疑応答の最後には前田日明HERO\'Sスーパーバイザーが船木の復帰についてコメントし、「色んな意味で期待している。思い入れのある選手なので、協力してやっていきたい」と激励している。

Sunday, July 01, 2007

謝罪

6月27日の本ブログで、「フッサール業界のある若手の人」のことを話した。ご本人から「訂正」を求めるコメントをいただいた(同日分コメント欄参照のこと)。要点は以下のとおりである。

・たしかに自分は「指導を受けたい人がいないので、行く必要は感じない」という趣旨のことを言ったが、続けて「しかし外国語で書いていく必要はある」と言おうとしたのである。

・実際、自分は英語で発表もし、書きつつもあるので、「外国語で書かない」大学院生と同一視されるのは不本意である。
 
おっしゃることは全面的にもっともです。

したがってここで明記しますが(また、同日分のブログに変更と分かる仕方で変更を加えますが)、

・「指導を受けたい人がいないので、行く必要は感じない」と言うことと、「世界に向けて発信する必要はない」「外国語で書く必要はない」と言うこととは必ずしも同じではないこと、

・今、真意を伺い、また英語で書こうと鋭意努力されていることを伺って、上記二項を同じだとしたのはあくまでも私の拙速な判断であったこと

を認め、私の認識・記述を訂正致します。また、せっかく努力されている矢先に、私の不用意な発言で精神的なご不快を被られたことに対しても、ここに深くお詫び申し上げます。

Friday, June 29, 2007

『創造的進化』百周年・日本篇詳細

■「生の哲学の今―ベルクソン『創造的進化』刊行百周年記念国際シンポジウム」
(2007年10月16-20日)

ベルクソン『創造的進化』刊行百周年記念国際シンポジウム実行委員会主催,
在日フランス大使館・関西日仏学館・ベルクソン哲学研究会・法政大学・学習院大学後援

第1日:『創造的進化』の哲学
10月16日(火)学習院大学 創立百周年記念会館小講堂
開会式(10:00-10:30)
セッション1(10:30-12:10)
 フレデリック・ヴォルムス(リール第三大学)+杉山直樹(学習院大学)
セッション2(14:00-15:40)
 ジャン=クリストフ・ゴダール(ポワチエ大学)+藤田尚志(日本学術振興会)
セッション3(16:00-17:40)
 ピエール・モンテベロ(トゥールーズ第二大学)+平井靖史(福岡大学)
全体討議(17:40-18:30)

第2日:哲学史・科学史の中の『創造的進化』
10月17日(水)法政大学 スカイホール(ボアソナードタワー26F)
開会式(10:00-10:30)
セッション1(10:30-12:10)
 ジャン・ガイヨン(パリ第一大学)+安孫子信(法政大学)
セッション2(14:00-15:40)
 ポール=アントワーヌ・ミケル(ニース大学)+金森修(東京大学)
セッション3(16:00-17:40)
 アルノー・フランソワ(リール第三大学)+ミシェル・ダリシエ(パリ中国・日本・チベット文化研究所)
全体討議(17:40-18:30)

第3日:『創造的進化』と現代思想
10月20日(土)京都大学 文学部新館第3講義室
開会式(10:00-10:30)
セッション1(10:30-12:10)
 ジョン・マラーキー(英ダンディー大学)+檜垣立哉(大阪大学)
セッション2(14:00-15:40)
 マイケル・コルクマン&マイケル・ヴォーガン(英ウォーウィック大学)+合田正
人(明治大学)
セッション3(16:00-17:40)
 スザンヌ・ガーラック(米カリフォルニア大学バークレー校)+守永直幹(宇都宮
 大学)
全体討議(17:40-18:30)


■関連企画(東大グローバルCOE「死生学の展開と組織化との共催)
在日フランス大使館・ベルクソン哲学研究会後援
ワークショップ「生の哲学の彼方 ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』再読」
10月18日(木)東京大学 文学部教員談話室

開会式(10:00-10:30)
セッション1(10:30-12:10)
 岩田文昭(大阪教育大学)+杉村靖彦(京都大学)
 [レスポンス]フレデリック・ヴォルムス(リール第三大学)
セッション2(14:00-15:00)
瀧一郎(大阪教育大学)
 [レスポンス]アルノー・フランソワ(リール第三大学)
セッション3(15:20-17:00)
 鶴岡賀雄(東京大学)+中村弓子(お茶の水大学)
 [レスポンス]ジャン=クリストフ・ゴダール(ポワチエ大学)
全体討議(17:00-18:00)

Thursday, June 28, 2007

すしボールの憂鬱(それにもめげず)

何度でも繰り返し言わねばならないのは、それだけ病根が深いからでもある。

フッサール業界のある若手の人が「世界(ドイツ)に出ていく必要を感じない。ついて学びたい人も特にいない」と言っていた。こういう趣旨の発言は、ベルクソン業界でも、ついこの間まで聞かれた。

[以下に読まれることの中で、問題とされている「フッサール業界のある若手の人」に関する記述は、私が6月27日時点で下していた拙速な判断に基づいて書かれており、したがって事実認識の部分に誤りがあると判明した。必ず本項目コメント欄における氏の反論と、6月30日付の私の「謝罪」を併せ読んでいただきたい。重ねて氏にはお詫び申し上げる次第です。]

しかし、重要なのは、その人が世界のフッサール研究をいかに認識しているかではなく、その人を世界のフッサール研究がいかに認識しているか、なのだ。[氏はすでに英語で発表され、英語論文も用意されているとのことである。]

いかに正確な世界のフッサール研究の見取り図を自分の頭の中に描くか、が問題なのではなく(それはそれでまずは素晴らしいことだが)、世界のフッサール研究がその人のことを知らなければ(評価していなければ)、そういう認識・発言はあまり意味を持たないということをもっと痛切に認識したほうがいいのではないか。[繰り返すが、氏はすでに英語で発表され、英語論文も用意されているとのことである。]

そういう評論家的態度は、これまでの日本の西洋哲学研究に相当程度染みついている(例外も、特にドイツ哲学研究には、多いけれど)。《世界水準は知っているがどうせ大したことはない》ので、《マーケットもどうでもいい》、ただ真理を追究できれば、と。そして、その「真理の探究」はもっぱら日本語で行われる。

だが、世界に向けて書くという姿勢が、哲学には根源的に要請されているのではないのか?そういった基本的な哲学的問いを自らに厳しく問いただすという姿勢が日本の平均的な哲学科大学院生には欠如しているように思われる。自分の語学能力の不足などという学問以前的な理由でその問いを回避し続ける。そのくせ、批評家的態度は保持する。自分に甘く、他人に厳しい。

世界ではまだまだ日本人の思想研究は知られていない。知られても最初のうちは、「色もの扱い」とは言わないまでも、好奇の目に晒されることは確実である。それほど、海外での日本人に対する愚かな(そう、愚かとしか言いようのない)先入観というのは抜きがたいものなのだ。海外で研究するということは、そういう偏見をはねのけながら戦うということも意味している。

一人や二人活躍したって全く不十分なので、野茂やイチローがあれだけ長期間、並みの大リーガー以上の活躍をし続けても、少し別のところで新たに活躍する選手が出てくれば、そいつは依然として「スシ」なのだ。

私がしばしば取り上げるスポーツの譬えがよく分からないという人に日本で研究している人が多く、いちいちよく分かるという人に海外で研究している人が多いというのは、示唆的である。日本で研究している人は、自分がどのような制度にどれほど守られて(規定されて)生きているのか、おそらくあまり意識したことがないのではないか。


米紙が桑田を特集 カーブは「すしボール」
2007年6月27日 (水) 9:51 共同通信社

 米大リーグ、パイレーツの地元紙、ピッツバーグ・ポスト・ガゼット(電子版)が26日付のスポーツ面のトップで桑田真澄投手の活躍を取り上げた。

 記事では、桑田のカーブを「SUSHI-BALL(すしボール)」と命名。のり巻きの具としてボールが挟まっているイラストも掲載された。のりに巻かれ、中身が分からないすしのように、打者に対して予測が不可能なカーブを投げると説明している。

 桑田のボールを一番多く受けているブルペン捕手のアンドラデさんは「ボールの動きはすごいよ」と驚き、同僚のラローシュ内野手も「僕にはチェンジアップのように見える」と話した。

 これまで6試合に登板し6奪三振。日米通算2000奪三振にもあと「14」と迫っている。中継ぎとして良い結果を残している桑田の存在感は地元でも高まっているようだ。(マイアミ共同)

Tuesday, June 26, 2007

Il naquit, travailla et mourut. 宇井純のために

23日土曜日は、午前中「実存思想協会」の発表を聴きに行き、午後「フランス哲学研究セミナー」に出席した。

そういうわけで、出られなかったのだが、東大安田講堂で、昨年十一月に亡くなられた環境学者の宇井純さんを偲ぶ催しが行われた。以下は、「日本環境会議」のHPから一部抜粋。

≪宇井純さんは、公害と環境の研究と運動において、常に「気になる人」だった。宇井さんの言葉と仕事は、ポジティブに、また人によってはネガティブにも、強いインパクトがあった。宇井さんはよく歩き、多くの人と語り、そして仕事をした。昨年11月に宇井さんは亡くなったが、彼のインパクトは多くの人たちの中に生きている。

「公害に第三者はいない」という科学の客観性と公平性に関わる問題提起、「分からなくなったら現場に出ろ」という現場主義、「矛盾している情報を掘り下げてゆくとそこに真実がある」という論理的思考と実証的データの重視、「複数の研究分野をもて」という学際的研究の実践、「どんな立場にいてもやることはある」という連帯への指向など、宇井さんの遺した言葉を、私たちは自分なりに咀嚼し、あるいは批判して、今後に活かす必要がある。そこで私たちは、学問や大学に対する批判も含めて、宇井さんの言葉と仕事が自分にとってどんな意味を持つのかを、宇井さんを直接知らない若い世代とともに考えるための場を企画した。≫

よく歩き、多くの人と語り、そして仕事をする。歩くといっても営業ではないし、語るといっても自己顕示ではないし、仕事といっても業績づくりではない。理念をもった現実主義者。

Friday, June 22, 2007

無様なautomatisme

これも何度も言っているのだが、日本の新聞のスポーツ欄、スポーツ新聞の記事は一般的に――例外もあることは言うまでもないし、これまでにも積極的に取り上げてきた――きわめてレベルが低い。勝った負けたと一喜一憂し、次のスターを仕立て上げることに血眼、まさに「朝三暮四」を地で行っている感がある。

フリーランスで書いている人のもののほうがはるかに世界を知っていて視野が広く、長期的な展望に立ち、技術論にも精通している(スポーツナビのコラム)。そんな高いレベルの話ではないが、一例だけ挙げよう。今回、相手チームの質・モチベーションに言及した記事が一般紙にどれくらいあっただろうか?毎回素晴しい記事を書いておられる宇都宮徹壱さんの記事はこんな感じである。

 昨今、日本で行われる親善試合(キリンカップを含めて)では、あまりにもモチベーションの低い、それこそ「試合後の秋葉原」が楽しみで仕方がないような、およそ「代表」とは名ばかりのチームも決して珍しくない。そんな中、このモンテネグロ代表は、久々に出会った、実にすがすがしく健全な(言葉は変だが)正真正銘の「代表」であった。

[…] ファイナルスコア「2-0」は、順当な結果だったと思う。かつてはサビチェビッチ、ミヤトビッチといったジェニオ(天才)を輩出してきたモンテネグロだが、少なくとも現時点では、モチベーションばかりが先行する新生国家でしかなかった。(宇都宮徹壱、「当てが外れたモンテネグロ戦」)

試合を客観的に「報道」するに際して、日本代表の他の試合、他の対戦チームと比較し、あるいはそのチームの過去のパフォーマンスと比較するのは「イロハ」である。それがなされない。あらゆる点で事前の勉強が不足している。だから、オシムは「どこまで貪欲に上を目指すのか」だの、高原は「さすがエース」だの、いかに感情的な「色」を付けるかに腐心することになる。

特に即座にやめてもらいたいのが次の三つ。
・精神論:「気合いで勝つ」「意地でも」「なんとしても乗り越える」
・スター主義:「神」「神様」「聖地に降臨」
・非合理的な断定:「~が~すれば~という不敗神話は継続中」

こういう無様なautomatismeを読んでいると、彼らは結局、他に書くことがなくて仕方なくマスを埋めているのだということが分かってくる。なぜなら広い視野も、長期的な展望も、解説するのに必要な技術論も持ち合わせていないからだ。

一般読者のレベルに合わせている?読者の知性を馬鹿にしている。こんなものを数十年読まされ続ければ、誰だってスポーツの鑑賞眼が落ちる。

ところが、mutatis mutandis、案外、こういったautomatismeは、私たちの業界とも無関係ではないのだ。

オシムの言葉(6.1会見抜粋)

■悪かった点を話す方が将来のためになる

勝った試合ではあるが、良かったことより悪かったことについて言葉を費やすことが明日のためになると思う。例えばパスミス、スキルの低さ、パスのタイミングが悪いこと、手間を掛けすぎること、ボールが私物であるかのように長い間キープしようとすること、などなど……。それらを直さないと、もっと良いチームにはならない。「今日は勝った、おめでとう」というのはお世辞にしか聞こえない。

■スター選手だけでは、サッカーは前進しない

――個人プレーということだが、個人でドリブルで勝負するときは、そうすべきだと思うか?

 そうしてもいいのだが、タイミング、時間帯、そして目的がよくなかったのだ。タイミングが選手のプライベートな要因で決められたことがあった。チームとして前進している時間帯に、チームのためでなく個人のためにボールを使う。例えばシュートして得点する、あるいはナイスパスを出す、あるいは競技場の大画面に自分がアップで映りたいとか、あるいは試合後に自分のユニホームを振り回しながら競技場を一周するとか――。それもサッカーの一部ではあるのだが、そういうことはチームのためにならないと選手には伝えてきた。日本はスター選手、個人で目立つ選手が人気を集める国だ。しかし、それではサッカーは前進しない。

■水野の才能が、潜在的な才能で終わってはいけない

――水野を入れたときに、相当長い指示をしていた。どういう指示をしたのか

私は水野だけでなく、交代選手にはかなり細かい指示を与えている。思うに、日本代表のフルメンバーとしては、まだ彼は子供だ。才能には恵まれているし、アイデアも溢れるほどある。ただし、そのアイデアに自分がとらわれてしまう。例えば、ここに牛がいるとしよう。ミルクが100リットル必要だ。そこで乳搾りをすればいいのに、牛にボールをぶつけてしまう。つまり、そんなことをしてもミルクが得られるわけがない。牛を見つける仕事までして、そこで成果を台無しにしてしまう。

彼には、効果的なプレーをしろと言いたい。サッカーのプレーをしているというよりも、ボール遊びが好きな選手だから。そういう選手がプロとして、職業としてサッカーをしている選手と混じって出場するわけだ。何に気をつけるべきか、指示したことについては、これ以上話すことはないだろう。彼の才能を、チームのために使わないのはもったいない。それくらいの才能を持っている。ただしその才能が、潜在的な才能で終わってはいけないと思う。

***

これは私たちの業界では何を意味しうるのだろうか。それを探すことが、私の言う「研究外在的な努力」の一つである。

≪欧州での経験が生きた。1メートル90前後のDFを常に相手にするドイツでプレーする中で、大型選手をいかに攻略するかで頭を悩ませた。そして得た答えが「縦への対応ではかなわないが、横の揺さぶりには弱い」だった。モンテネグロの先発DFラインの平均身長は1メートル85・5センチ。得点シーンは一度、相手DFの死角に入り、ファーからニアに流れる“横の動き”でマークを外したものだった。今季はリーグ30試合で11得点を記録し、欧州での日本人シーズン最多得点記録を樹立。ファン選定のチームMVPに選ばれた実力を発揮した。≫(『スポニチ』6月2日付記事より)

Tuesday, June 19, 2007

石板と踏切板(レヴィナスとベルクソン)

≪自由が現実に食い入ることが可能であるとすれば、それは制度によってだけである。自由は、さまざまな法が書き記された石板に刻み込まれる。自由が現実に存在するのは、制度的存在にはめこまれることによってなのである。自由は書かれたテクストに由来する。

テクストはたしかに破壊されうる。だがテクストは、他方では持続しうるのであって、そこで人間のための自由が人間の外で維持される。暴力と死とに曝された人間の自由が、ベルクソン的な飛躍によって一挙にその目標に到達することはない。人間的自由は、自分自身を裏切って諸制度のうちに逃げ込む。

歴史は一個の終末論ではない。道具をつくる動物が自らの動物的条件から解放されるのは、その飛躍が中断され、断ち切られるかに見える地点においてである。つまり、蹂躙されることのない意志として自ら目標に向かう代わりに、道具を製作し、自分の将来の行動の可能性を受け渡し、受け取ることができるもののうちで固定する場合なのである。

このようにして、政治的・技術的な現実存在によって、意志にその真理が保証される。≫(レヴィナス、『全体性と無限』)

*

≪生命の跳躍は、生命に背く構造に到達する。自由は自由自体が見る影もなく変わり果てるある決定的な選択に到達する。なんと人を食った矛盾であることか。生命は自分自身を余すところなく実現するために知性に頼るのに、知性は生命の期待を裏切るのである。

私たちが「器官-障害の弁証法 dialectique de l'organe-obstacle」と呼んでいたものは、すでに受肉の必要性をしっかりと打ちたてている。物質が足かせであるばかりではなく、生命の不可欠な協力者でもあるということを理解する機会は繰り返し私たちに与えられている。

物質は、生命がそれに対抗して自分を主張しなければならない抵抗を毎瞬間表しているばかりではなく、その起源からして、次第に枝分かれしていく進化の道の上に生命的飛躍を自らたわむことによって放り出した踏み切り台でもある。これは、飛躍ないし飛翔のイメージそのものが表現していることである。

おそらくは、たとえ物質が存在しなくともなお生命は存在するであろうが、生命的飛躍は存在しないであろう。物質が存在しなければ、本来の意味での進化は、自由の価値的優越性を増大させるという自らの存在理由を失うことになろう。≫(ジャンケレヴィッチ、『アンリ・ベルクソン』)