Saturday, February 16, 2008

有限性をめぐって(3)ダスチュール

さて、続いてダスチュールである。彼女とは何度か食事を共にしたことがあるが、しなやかでたくましい野生の猫、という感じをいつも受ける。これは本を読んだ印象とはかなり違う。というのも、ブーリオーの著作も「教育的」なのだが、ブーリオーの著作にはどこか「ガリ勉」の香りがするのに対して、ダスチュールは「優等生」な感じがするのだ。痒いところに手が届くというか、懇切丁寧というか。野性味、豪快に笑い飛ばすといった雰囲気は著作の中にはない。

著作と実際に会ってみた印象が最もかけ離れていたのはEric Dufourである。姿形だけを見て、彼が新カント派の研究者と言い当てられる人はこの世に存在しないのではないかと思うくらいだ。

とまれ。『死。有限性に関する試論』には2バージョンある。Hatier社の叢書Optiquesから1994年8月に出た版は、biblioまで含めても80頁足らずの小著。



ちなみに、Jean-Michel Besnierに率いられたこの叢書は実に優れた叢書だった。ダスチュールが13年後に振り返った時の言葉を借りれば、

"Cette collection, qui n'existe plus aujourd'hui, était destinée à donner à un large public - allant des étudiants d'université et des élèves de la classe terminale des lycées à tous ceux qui s'intéressent à la philosophie sans avoir reçu de formation spéciale à cet égard - un accès à une réflexion philosophique centrée sur un petit nombre de questions fondamentales. Les livres de la collection "Optiques" devaient porter chacun sur une des notions du programme de philosophie de l'enseignement secondaire et se présenter sous une forme compacte, ce qui veut dire que leur nombre de pages était précisément calibré. / Lorsque l'on m'offrit de publier un essai dans cette collection, en me précisant le cadre dans lequel il s'agissait de s'insérer, j'eus tout de suite envie de participer à cette entreprise..." (La mort, PUF, coll. Epiméthée, 2007, p. 7).

リシールの身体論、バディウの倫理学、バルバラスの知覚論、ピショの優生学をはじめ、他にもMichel Haar, J.-M. Domenach, R. Misrahi, A. Renaut, P. Canivez(エリック・ヴェイユの専門家)など、錚々たる名前が並ぶ。ついこの間言及したレステルの『動物性』もこの叢書である(表紙の美青年ぶり…)。


いつも言うことだが、どの出版社から出ているか、とりわけどの叢書から出ているかはどうでもいいことではない。「叢書の地政学 géopolitique de la collection」とでも言うべきものがあるからだ。叢書によって内容に関する多くのことが事前に分かり、どのような思想の水脈に位置づけられるべきかおおよその見当がつくからである。

この叢書が良質なものだった証拠に、この叢書が消滅した後、次々と他の出版社から再版が決定している。バディウの『倫理』はすでに2003年に「第二版への序」を付してNousという出版社から再刊されているし、レステルも2007年にL'Herneから出た。

2007年9月にPUFの名門叢書エピメテから出た『死。有限性に関する試論』の2バージョンめは200頁を超え、大幅にバージョンアップがなされている。



ブーリオーにとって有限性とは人間の可感的な認識の限界を指していた。ダスチュールにとって、有限性とは死である。「死と有限性とは私にとって本来的に結びついたものだ」(p. 8)。おそらくどちらか一方だけでは駄目で、この両面を見据えないと有限性という概念の十全な把握には到達できないのだが、とまれ。。

*

人は自分がいずれ死ぬと知っている。通常、この己の死に関する「知」は、人類の本質的特徴の一つに数えられる。宗教、形而上学、総じて文化全般は、死に「打ち克つ」ことを謳う。哲学もその例に漏れない。プラトンからヘーゲルに至るまで、西洋哲学もまた、思考の修練のうちでこそ死と有限性は「乗り越え」られうる、と主張してきたのだった。

そこでダスチュールは、まず古代神話や聖書にまで遡り、「死の彼岸」に関する形而上学的・宗教的・哲学的な思索の歴史をたどり直し、次いで、従来とは異なる死生観、死との関係を紡ぎ出すことが可能であることを示そうとする。

モンテーニュが言うように死と「慣れ親しむ」のでもなく、死をかわそうとするのでもない、第三の道。もちろんダスチュールにとって、それはハイデガーにほかならない。『存在と時間』における「死に臨む存在」などの分析から出発して、死の可能性の条件を、人間存在が自らの有限性を自由に引き受けることと見なす。

死という体験のもつ意味の変化は、無限と有限の関係にも変化をもたらす。従来の「死の形而上学」は常に、死を超越した存在の無限性、神的なものの時間を超越した無限性と対になる形で、人間存在の有限性を考えてきたが、ハイデガー=ダスチュール的な死の思想は、徹底して地上的で、時間的で、身体的である。

…これが本書の骨格であり、それはそれでいいのだが、「有限性」と言えば「死」という思考パターンには正直うんざりしている。哲学者ならぬ哲学屋は荘厳めかすのが好きなあまり、赤ん坊の鳴き声や血にまみれた「誕生」が有限性のもう一つの極であることを忘れているのだ。それだけにいっそうダスチュールが本書の終り近くで「有限性と出生 Finitude et natalité」に一節を割いているのは注目に値する。次回はこの点を見ていこう。

Friday, February 15, 2008

動物性(ドミニク・レステル)

2月14日、UTCPで行われたドミニク・レステルの「動物性」に関する講演に参加。良くも悪くも挑発的で刺激的な議論。[追記:以下、粗雑にまとめてしまったけれど、その後、郷原佳以さんによる的確なまとめがアップされたので、そちらを参照されたい]





チンパンジーがビデオゲームに習熟する、オランウータンが結び目を結ぶ、といった「規格外」の学習を通常の動物生態学者は嫌うのだという。純粋な行動環境が人間によって「汚染」されたのでは、「客観的」な観察が出来ない、と。この種の実在論的・デカルト主義的アプローチは、純粋状態の動物なるものが存在すると仮定し、その上で動物を型にはまったルーチン・反復的行動(comportement)を行なう「機械」と見なしやすい。

レステルは、透明で中立的な観察者という神話を拒否し、動物の創造的で発明に満ちた活動(activité)―規範的な科学者の「常識」から逸れたanecdotes(些細な細部)―に注目する科学者の存在を常に意識する―anthropomorphisme(擬人観)が不可避であるならば無意識に抑圧するのでなく、意識裡に制御するほうを選ぶべきではないか。動物の活動を構成的なものとして意識するだけでなく、その行動に積極的に働きかけ、構成に介入していくという意味で、「複合的な構成主義 bi-constructivisme」こそ、21世紀の動物生態学が採用すべきアプローチであり、20世紀の動物生態学が二つの恥ずべき罪として切り捨ててきたanthropomorphismeとanecdotesを積極的に活用していかねばならない、とレステルは言う。

要するに、人類学でなされたようなある種の解釈学的転回(「ガヴァガイ」など)、方法論的な反省を要請する批判的モーメントを動物生態学にも取り入れねばならない、ということであろう。動物生態学の人類学化、人類学の(かつてのような帝国主義的な形でなく、相対的な)動物生態学化の必要を説いていた。

私の質問は三つ。
1)動物性:科学とエピステモロジーの区別。ご説ごもっとも、でも現場の科学者はこういった正論的エピステモロジーに耳を傾けるんでしょうか。「特異なものの科学science du singulier」は果たして実現可能なのか?

2)人間性:レステルは人間の合理性と動物のそれとの差異を強調していたが、すでに人間の合理性と呼ばれるものの内部にも幾筋もの亀裂が走ってはいないか。動物生態学の人類学(ないし教育学?)への応用可能性はあるのか。

3)機械性(彼がmachinitéと呼ぶもの):テクノロジーの発達は、機械の動物化(animalisation de la machine)を促すとし、アイボの例を出していたが(ちょっと古い…)、そのようなものを機械の動物化と呼ぶのであれば、あらゆるアニミスム化はすでに人類の曙と共に存在していたのではないか。

*

挑発が好きな人は好きだろうし、嫌いな人は嫌いだろうなという議論だろう。自分の議論に似た部分を感じて(笑)、以て他山の石とすべし。

講演に行く時はいつも関連する書籍を持参し、電車で眺める。今日はこんな感じ。

Dominique Lestel, L'animalité. Essai sur le statut de l'humain, Hatier, coll. "Optiques", 1996.
Thierry Gontier, L'homme et l'animal. La philosophie antique, PUF, coll. "Philosophies", 1999.



フランス語理解を向上させたいという人には、こういった地道な努力(事前に本を読む、ネットで講演者のプロフィールを調べておくといった作業)をお勧めする。

レステルは、夜は日仏会館で「デリダの猫」(L'animal que donc je suis)について(多少批判的な)講演をすると言っていたが、私の現在の体調では一日に二つはとても無理なので断念。来週大丈夫かな…。

Thursday, February 14, 2008

フランス語と司法/正義

体の調子は悪いまま膠着状態。

2月10日、GEFCO(現代フランス研究会)に出席。友人の伊達聖伸さんの「フランスのライシテの歴史と市民宗教」を聴くためだったのだけれど、「ナチ支配下におけるアルザス自治主義者の役割―対独協力と抵抗」とか、「アレクシス・ド・トクヴィルの政治思想における〈アリストクラシー〉概念」などの発表も面白かった。

トクヴィルと言えば、トクヴィルでサントリー学芸賞をお取りになった宇野重規さんのフランス政治哲学に関する本は、誰にでも自信をもってお勧めできます。「ある学問分野についてパースペクティヴをもつ」というのはこういうことを言うんだな、と体感できるでしょう。

次回のGEFCOは、「フランス語と司法/正義」だそうです。転載自由とのことですので、ここに貼らせていただきます。

記
中央大学人文科学研究所「総合的フランス学の構築」チーム公開セミナー協力 
GEFCO現代フランス研究会、日仏会館フランス事務所
日時 2008年3月31日(月)18時~20時30分
場所 日仏会館6階601号室
(同時通訳付)
テーマ Le français et la justice「フランス語と司法/正義」
発題者 酒井 幸(弁護士)「石原フランス語訴訟」
    金塚綾乃(弁護士)「法曹養成制度と弁護士業の日仏比較」
    新倉 修(青山学院大学法科大学院教授)「裁判員制度と死刑廃止」
司会  三浦信孝(中央大学)

発題者の先生方はすべてフランス留学・実務研修の経験者で、金塚さんはパリ弁護士会の資格もお持ちです。比較憲法学の樋口陽一さん、東京都立大学の菅野賢治さんもフロアから討論に参加します。日仏会館フランス事務所サバン学長のご好意で日仏同時通訳がつきます。フランス人フランコフォンの方々もお誘い合わせの上いらしてください。なお3月20日は「国際フランコフォニーの日」です。

Wednesday, February 06, 2008

心身の合一(哲学と病気)

東京は何日か雪景色でした。

あまり人とも会いたくなく、ただぼーっとするために一人でふらっと三日ほど旅に出たいのだが、家族と仕事が待っている。

重病ではまったくないし、このブログを『病牀六尺』にするつもりもないのだが、しかし病疲れしている。久しく遠ざかっていたアトピーが突発的に再発するのは、《疲労・ストレス・風邪》によるのだそうだ。私の場合、とりわけ精神的疲労・ストレスから来ているのは明らかで、しばらく業界から遠ざかると次第に病状がよくなり、様々な事件に巻き込まれるとその一つ一つにダメージを受ける。

なるべく遠ざかりたいのだが、遠ざかれる程度のしがらみであれば精神的ダメージなど受けないわけで、押すことも引くこともままならない状況であるからこそ、精神的ダメージが身体にまで及ぶのである。心身合一論(そう言えば、メルロの『心身の合一』講義が文庫版で出た)や心身二元論を唱えた哲学者各々の健康状態との関係を知りたいものだ。

そういうわけで、長い文章も、筋道だった論理構成もままならないし、研究のための真剣な読書もできない。しばらく論文を書かなくていいのでまことに助かる。自分にストレスを与えないようにそっとそっと。濁った水の入ったコップをかき混ぜても濁りは増すばかり。piano piano...

結婚論はひとまず休止。学会論文の初校チェック。依頼された雑文の書き直し。

二月上旬は(もう半ばを過ぎたが)、
1)遅れに遅れたb&l論文(仏語)の完成
2)翻訳再チェック
3)企画書執筆

中旬以降、大学論に集中する(つもり)。

Friday, February 01, 2008

結婚の無名性

《哲学的思考は古代ギリシアの昔から、恋愛を理性では抑えられない不条理な情念と見なしてきた。哲学者が恋愛について語るとき、それは常にこの情念をいかに善的な目的に利用しうるか、という点に焦点を当てていた。

恋愛は本来的に社会秩序と相容れない、社会秩序を破壊する情念と考えられたから、社会秩序の枠内に慣習や制度として組み込まれ、秩序維持に寄与する結婚とは初めから別の次元にあった。恋愛は社会秩序を毀損しない範囲で、あるいは社会の側が自身の加える制度的圧力からしばし息抜きさせるために用意した装置の中でのみ許容された。

恋愛も結婚も社会を映し出す一種の文化型と言えるが、恋愛が常に文学のメインテーマとして豊かな想像力をかき立ててきたのに対し、結婚はお話にハッピーエンドをもたらすための終着点としてか、あるいは平穏無事な夫婦関係が不倫という第三者の介入によって亀裂を生ずる場合以外には、人々の関心を集め、記録されることがほとんどなかった。もちろん記録を残す人々にとって、結婚は日常で、恋愛は非日常である。日常はその流れが滞ったとき以外には書き記す意味がないというのが、一般的な感覚だったろう。[…]

結婚していた詩人も多いが、妻についての記録を残している詩人は極めて少ない。ベアトリーチェに対する永遠の愛を高らかに歌ったダンテも、妻については何も語ろうとしなかった。恋愛と結婚はまったく別の時空にあるものと考えられていたのである。

恋愛の有名性と結婚の無名性、この際立った対照性は、両者がもとより異なる時空に属するものだとしても、ともに男女の緊密な関係を作り出す文化型であるだけに、なおさら興味を惹く。》(前野みち子、『恋愛結婚の成立 近世ヨーロッパにおける女性観の変容』、名古屋大学出版会、2006年、3-4頁)

ゾラ、「ある恋愛結婚」(1866年、『テレーズ・ラカン』原型)、『ゾラ・セレクション』第1巻「初期名作集」、宮下志朗訳、藤原書店、2004年。読了

Monday, January 28, 2008

「哲学と大学」第三回

メール回復した…はずです。

月曜日(2008年1月28日)午後6時から「哲学と大学」の第三回目が行われます。畏友斉藤渉さんが「フンボルトにおける大学と〈教養〉」について発表されます。詳細はこちら。

フンボルト、「ベルリン高等学問施設の内的ならびに外的組織の理念」、『大学の理念と構想』(世界教育学選集第53巻、明治図書、1970年)所収、および梅根悟による巻末解説(ベルリン大学創設をめぐって書かれた、シュライエルマッハー、シュテフェンス、フィヒテ、フンボルトの四つの大学論について)。読了。

日本における大学論の重要な論者の一人である潮木守一さんがいわゆる「フンボルト理念」を構成に祭り上げられた神話とするパレチェク仮説を論じた論文はこちら。

大学論
潮木守一、『世界の大学危機』読了(ようやく…)。
 日本についても一章ほしかった。
InterCommunication, no. 48、特集「大学 21世紀の知のシステム」, Spring 2004。
 巻頭対談、噛み合ってないのが逆にいい…のかな。
竹内洋、『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』、中公新書、2003年。
 第三章「帝大文学士とノルマリアン」は特に興味深かった。
秦郁彦、『旧制高校物語』、文春新書、2003年。
 文春臭に耐えつつ学ぶ。清も濁も併せ飲むべし。
Guy Burgel, Université, une misère française, Hachette littérature, coll. "Tapage", 2006.
 都市地理学の大御所が奸計にかけられたルサンチマンをもとにフランスの大学の現状をぶった斬る、というトホホな内容…のように見える、今のところ。

結婚論
『マリヴォー・ボーマルシェ名作集』、小場瀬卓三+田中栄一+佐藤実枝+鈴木康司訳、白水社、1977年。
平林たい子、「情熱紀行」、『全集』第四巻(潮出版社、1977年)所収。
加藤秀一、『〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか 性道徳と優生思想の百年間』、ちくま新書、2004年。
 うーむ、発想が大胆というか…何とも言えない。

Saturday, January 26, 2008

messagerie pleine...

23日あたりからメールを頂いた方、戻ってきているのではないでしょうか?すみません。メールボックスがいっぱいになっていたようで。。かなり掃除したのでもう大丈夫だと思いますが、掃除をサーバー側が認識し、それが反映されるまでに今しばらく(数時間から一日)時間がかかるかもしれません。お急ぎの場合は、私の他のアドレスにお願い致します。hf

Friday, January 25, 2008

風邪

子供の風邪が直撃、ただでさえ忙しいのにまたダウンしてしまった。風邪をひくと、アトピーが多少楽になるのが唯一の救い。最近読んだ本。

b研究:
Paulette Kayser, Emmanuel Levinas : la trace du féminin, PUF, coll. "Philosophie d'aujourd'hui", 2000.
内田樹、『レヴィナスと愛の現象学』、せりか書房、2001年。
当たり前と言えば当たり前なのだが、レヴィナス研究者として、レヴィナスの言う「女性的なもの」をいかにポジティヴに読めるか試みた二冊。ただし、方向は真逆。前者はレヴィナスに女性的エクリチュールの可能性を見、後者はレヴィナスを批判するイリガライの女性的エクリチュールを疑問視する。

大学論:
潮木守一、『世界の大学危機 新しい大学像を求めて』、中公新書、2004年。
ドイツが最も詳しく、一次文献にあたっている感じがある。次にアメリカ。イギリス、とりわけフランスに関しては二次文献のつぎはぎという感が否めない。しかし、以上四カ国の大学の基本的なシステム、社会的な位置、問題点などをてっとり早く知るのに便利。

結婚論:
工藤庸子、『プルーストからコレットへ いかにして風俗小説を読むか』、中公新書、1991年。読了
寺田透、『人間喜劇の老嬢たち バルザック一面』、岩波新書、1984年。
モーリス・ルブラン、『アルセーヌ・ルパン名作集4 アルセーヌ・ルパンの結婚』、岩波書店、1997年。読了
工藤庸子の文章はとても読みやすい。ひとまずこの路線(フランス文学における風俗現象としての結婚)で手当たり次第に読んでいく。

偉大な哲学者は皆、文学ともっと深く切り結んでいた。哲学は芸術を必要とする。文学を必要とする。 偉大な哲学者は皆、日常ともっと深く切り結んでいた。愛を論じ、家族を論じ、風俗を論じ、結婚を論じていた。

その他:
大友浩、『花は志ん朝』(初版2003年)、河出文庫、2006年。読了
志ん朝と談志の比較はこの小著の理論的白眉。《「現代」を標榜する談志が、一方で「懐かしさ」に深く囚われ、「伝統」を志向するとみなされている志ん朝が、その時その時の「今」を素直に楽しんでいる…談志の中では、現代と過去とが鋭く分離してせめぎ合っているのに対して、志ん朝の中では、両者は自然に溶けて一つのものになっている》とは真に至言である。

この手の本にはべた褒めが多いが、本書は志ん朝の昔気質の負の面(「女真打」の創設など)をも語っており、目配りがきいている。ただ、最後の小三治のインタヴューは要らなかった気がする。小三治の良さは、いじいじとした鬱屈、愛嬌のあるひねくれなのだろうが、彼が志ん朝を一貫して圓生型の落語家としか見ないのはまったくの不見識だと思う。「いわばハードディスクのフォーマットを[八代目]正蔵によって行なった」志ん朝は、その後、「変幻自在な草書の芸の志ん生に対して楷書の芸と言われ」た八代目文楽を目指したのであって、六代目圓生のうまく芸に昇華された性格の悪さは志ん朝には全く見られないのである。太陽と月は見紛う筈もない。

Friday, January 18, 2008

今シーズンの目標

デスクワークがもっぱらの研究職。皆さんもそれぞれ冷え性対策をされてることでしょう。
「オトコにも増えている!?“冷え性”。その原因と対策」

たしかに体調はあまり良くないけど、働き過ぎが原因じゃないと思うんですよね。精神的な弱さだと思います。

嬉しいこと楽しいことを考えたい。まったく知らないエコール・ノルマルの若手研究者から「Bのリズム論読みたいから送って」とメールが来たのは本当に嬉しい。プロ意識をもって、より高いレベルで打ち合いたい、ただそれだけなのだ。

*

今年の目標は二つ。一つは去年の仕事のペースを維持すること。つまり、二三か月に一つ発表を行ない、論文に仕上げていくこと。今のところ、おそらく日本語で三つ、フランス語で二つ、英語で一つ発表する機会がありそうなので、それに向けて頑張っていきたい。言うことはいつも同じ。スタミナと技術的精度。

1月:いろいろ
2‐3月:哲学と大学
4‐6月:b類比論、bとl(後編)
7‐9月:bとd、
10‐11月:結婚論

4~6月で発表二つが一番きつそう。どちらもネタ下ろしなので。。アメリカでも一つアプライしようと思う。こちらは旧ネタのバージョン・アップと英語の訓練を兼ねて。

相変わらず中心はbなのだが、日本語の二つは、「哲学と大学」と「結婚の形而上学」に関係するものにしたい。何と言われようが、自分の道を進めるところまで進む。

もう一つは、事務を粛々とこなせるようになること。

以前、語学をやり直すと言っていたが、仏語詩の暗唱を再び始めた(今レパートリーは15くらい)。これはしかしスポーツで言えば、「シーズン中の目標」というより「肉体改造」に近い。

Thursday, January 17, 2008

リターンエース

細かいことが積み重なって、一日でスランプを脱することができた。

昨日、一本論文の校正を終えた(もう一本は二日ほど締め切りを延ばしてもらった)。集中できたのはほんの一二時間だったけれど、その割にはいいバージョンアップが出来たと思う(もちろん二ヶ月来、体のどこかでずっと考え続けてはいた)。それもこれも校正(査読)レポートが的確に問題を指摘してくれたおかげである。

こういうのはテニスと同じだ。こちらがある程度の力でそこそこいい場所に打ち込んでも、向こうが「ホームラン」ならそもそもゲームは成立せず、こちらもよりいいショットを打つ機会がない。

的確な指摘、というのは空いていたいい場所に的確に打ち込んできてくれたということで、それによってこちらはさらに厳しい場所を狙って打ち返すことができる。

査読者の狙いは論者の最大限を引き出すことにあるのだから、へこませてみてもしょうがない。論者の力を見極めつつ、「こいつならこの程度に打ち返しておけば、さらに厳しいところに打ち返せるだろう」という頃合いのショットを正確に放つことが査読者には求められるわけだが、これはなかなか難しい仕事だ。

どなたか存じ上げませんが、ありがとうございました。

今年の論文第一号がこうして終わった。さて次は仏語論文。

Wednesday, January 16, 2008

床を観て、人を知る

このブログをときどき見てくれている、とキュレーターをしている人が言ってくれたのは素直に嬉しかった。関係あるような関係ないような業界の人とどこかで偶然出会うのはとても好きです。長谷川祐子さんの回、たぶんご覧になったでしょうが、よろしければどうぞ。

Tuesday, January 15, 2008

疲れ

去年できたばかりだと思うのだが、AFIC(Association franco-italienne pour la recherche en philosophie française contemporaine)はかなり活発に活動しているように見える。2月8-9日にリヨンでフーコーのコロックをやると知らせてきたので、関心のある方は是非どうぞ。

*

ここ数日、疲れている。年末に数年ぶりにアトピーを再発し、薬を飲み続けているからだろうか。まともな仕事が出来ていない。

昨日もブリリアントな人たちに囲まれ、楽しいひと時を過ごさせていただいたが、輝かしさに目が眩み、何度も気が滅入りそうになった。

明日締め切りの論文を2本抱えているのに、今日はだらだらと落語の本ばかり読み耽り、それでもテンションは上がらず、モチベーションも上がらず。。技術的精度を上げるどころか、最低レベルもクリアできていない。

今までスランプの時は数日そうやって気散じに興じていれば、いつの間にか浮上のきっかけをつかんでいた。しかし、それでは間に合わなくなってきている。仕事のペースを上げているから、のんびりスランプに陥っている暇がなくなってきたのである。2本の論文が終わっても、1月だけで翻訳チェックと新しい翻訳の開始、そして仰せつかった小文の執筆、次の学会発表の準備、企画書執筆、「哲学と大学」論の準備。。

「仕事のペースを落として、一つ一つの質を上げることに努めれば?」と助言を受けたりもする。しかし、たぶん私の性格を考えた場合、そうではないのだ。ペースを落として時間を作ったところで、質を上げる努力が出来るかというとそうではない。たぶんその時間を別のことに使ってしまう。

もう一つ上のレベルに達するための精神力とそれを支える体力が必要だ。などと分かった風なことを書いても、明日の締め切りは待ってくれない。ああ、もう。

Saturday, January 12, 2008

去りゆく人の志

1月11日付東京新聞、宮内勝典さんによるエッセイ。

《年の瀬に小包が届いた。そろそろ退職の日が近づいている知人が本を送ってくださったのだ。カントの『永遠平和のために』が入っていた。青いインクで「編 集者生活の最後にこんな本を作りました。ご笑覧ください」という言葉が添えられていた。ああ、この一冊を遺して出版界から去っていこうとしているのか。

(…)そして帯に記されている「16歳からの平和論/このちいさな本から『国連』や『憲法9条』の理念が生まれた」という言葉が、去りゆく編集者のひそかな遺言のように思われてくる。すべてが劣化しつつあるいま、その志がとてもまぶしい。》

Monday, January 07, 2008

有限性をめぐって(1)ブーリオー

有限性(finitude)という概念について少しでも考えを深めたい。そう思って、二冊の本を併せ読んでいる。

Christophe Bouriau, Aspects de la finitude. Descartes et Kant, Presses universitaires de Bordeaux, coll. "Histoire des pensées", juin 2000.

Françoise Dastur, La mort. Essai sur la finitude, PUF, coll. "Epiméthée", septembre 2007.

後者については説明するまでもないだろう。フランスを代表するハイデガー研究者の一人である。前者ブーリオーには、ドイツ観念論、新カント派、現象学者によるさまざまなカント読解の要点をコンパクトにまとめた

Lectures de Kant. Le problème du dualisme, PUF, coll. "Philosophies", octobre 2000.

がある。まず、ブーリオーの著書『有限性の諸相。デカルトとカント』から見ていこう。


1.新カント派によるカントとデカルトの接合
デカルトについては、コーエン以来、ナトルプやカッシーラーなどドイツの新カント派による「批判哲学的」読解の伝統があった。周知のとおり、新カント派によるカント読解の最大の特色は、カント哲学の認識論的側面の強調である。ヘーゲル流の自然哲学が学=科学を完遂するというヴィジョンが崩れ去った19世紀後半、哲学に残された唯一の道は、より謙虚に科学的言説の真偽を問い質すことであるように思われた。すなわち存在者についての学=科学たろうとするのではなく、学=科学の批判理論としての認識論として生き残りを図ったのである。

コーエンおよびマールブルク学派によるこのようなカントへの回帰は、『純粋理性批判』を自然科学の認識論と見なし、あらゆる哲学的な試みのモデルとした。当然、カント以前の哲学も、カントを尺度にして測られることになる。自然科学の可能性の条件を追究した理論家デカルトがこうして誕生することになる。パウル・ナトルプの1882年の著作『デカルトの認識論。批判哲学の前史のために』は表題自体が雄弁に当時の読解格子の在りかを物語っている。

2.ハイデガーによるカントとデカルトの分離
この「カント=認識論」解釈に対して、これまた周知のように、ハイデガーは公然と異議を唱えた。当然、「デカルト=カントの先駆者」図式も完全否定である。ハイデガーによれば、カントは存在者の学たる自然科学についていかなる理論を打ち立てようとも望まなかった。彼が打ち立てようと望んだのは存在者全般に関する理論なのであって、何らか特定の存在者の領域に関する理論ではない。要するにカントの批判哲学は、自然科学はいかに可能となるかを探る認識論ではなく、形而上学は学として成立しうるかを問う一般存在論、すなわち存在者一般に接近するための諸条件を探究する理論なのだ。

このようなハイデガー的なカント読解からすれば、魂と身体の区別や神の存在証明などについて、あらかじめあらゆる客観的認識の可能性の条件を問い質すことなしに形而上学的認識を増大させられるとするデカルトは、カント的な批判意識とは何の縁もない、純粋理性の限界を知らない、独断論哲学だということになる。

3.ブーリオーによるカントとデカルトの離接=分離接合(新カント派とハイデガーの間で)
ブーリオーの立場は、新カント派とハイデガーの間を取ることにある。彼は一方でハイデガーの前提を共有する。すなわち、批判哲学を存在者全般に接近する諸条件の探究、人間に与えられた認識能力の限界に関する探究と解することに賛同する。しかし他方で彼は、それでもなおデカルトとカントを接近させようと試みる。すなわち、

「たとえカントの批判哲学のうちで、可感的な認識機能すなわち感覚と構想力に与えられた決定的な位置を強調し、感性によってあらゆる理論的認識に課せられた限界を強調することにしたとしても、デカルトがそのような批判哲学的発想から完全にかけ離れたところにいると言いきることはできない、と示せればと思う」(p. 20)。

デカルト思想の独断論的な側面からカントの批判が達成した前進を忘れ去ることなく、しかしながら本質的な点で、すなわち感性(可感的なもの)の地平そのものの上で、デカルトとカントはある直感を共有していたのではないかと問うこと、そのためにデカルトの認識論における感性の地位と役割を分析すること、これがブーリオーの意図である。

この意図を実現すべく、一方で彼は、デカルトとカントにおける可感的な認識機能の比較分析を行なう。デカルトが認識において想像力に与える位置は、彼の「独断論」の後継者たち(まさにカントが『純粋理性批判』において糾弾した人々)、すなわちライプニッツやスピノザにおけるそれとはまったく異なると示すことで、いわばデカルトを「救い出す」ことを試みる。

他方でブーリオーは、デカルトの独断論というイメージを緩和すべく、永遠の真理の創造というデカルトの説を再検討する。たとえデカルトが形而上学的認識をあらゆる種類の可感的直観とは独立に拡張しようとしたことが事実である(そしてこれは紛れもなく独断論的な姿勢である)としても、そのような認識は、創造された我々人間の理性に内在的な限界、すなわち有限性の意識と切り離せない、したがってその意味では、カントの主張した人間認識の相対的な性格を十全に引き受けるものである――というのである。

次回、幾つかの章を具体的に見ていくことにしよう。

Saturday, January 05, 2008

発表失敗(年初にあたって)

年初にあたって、あらためて書いておく。このブログは私自身と私のごく少数の友人たちが前に進むために書かれたもので、それ以外の宛先・目的はない。私が直接声を掛けて読んでもらっている方々以外は完全なヴィジターである。

日本のブログを使わないのは無意味な語句検索で簡単に拾われてしまうから(最近はそれでも拾われてしまうが)、snsを使わないのは完全に閉じたami-amiの共同体をつくるのが生理的に好きではないからだ。

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「二十歳の微熱?」と題して私が書いた一文を読んで得られた印象が、「自画自賛」とは。。どう読み違えれば、そうなるのか。人の言葉を常に悪く、低く受け取る人を見ると、腹が立つというより、悲しい。

何度でも言う。私は、前を向くための言葉を紡ぎ出そうとしている。それが分からない人にはこのブログは完全に無意味である。読むのをやめることをお勧めする。

自分のポジティヴなオフィシャル・イメージをつくりあげることには興味がない。もしそうしたければ、私は毎日、海外の研究者とのやり取りを微に入り細に入り報告し、青臭い原理論など素知らぬ顔で通し、颯爽として禁欲的な研究者としてのイメージを固めることに専心することもできる。

誤解を避けるために特に強調しておくが、それをするのが悪いと言っているのでは全くない。それは一人一人の人生の選択である。もしかすると近い将来、私だってそうするかもしれない。しかし、少なくとも今のところ私はそうしていない、と言っているのである。

前を向くためなら、恥ずかしいことでも書く。例えば、昨年7月のある日書いたように。そういう気持ちで今年も書いていきます。一年間どうぞよろしくお願い致します。

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一昨日、仏文学会誌掲載用の論文校正を終了。7月19日までに日仏哲学会誌掲載用の論文校正。それ以外は、大論文に集中。

といいつつ、昨日、次号掲載予定の紀要論文のさらなる向上を求め、その内容を某ゼミで発表させてもらったのだが、結果は散々。

内容的には自分の実力並みだったと思うのだが、プレゼンの仕方がまったく良くなかった。

すでに書き上げた論文を「ですます」調に直して読み上げれば何とかなると思っていたのだが、結果は大いに問題アリ。初めから聴衆に聞かせることを意図して書かれた講演、それを論文にしたものと、元々論文として発表されることを念頭に書かれた論文、しかも連作の途中部分とでは、発表の仕方に異なる工夫があって然るべきだった。

先生方には「フランス料理のフルコースを無理やり短時間で食べさせられた感じ」と言われてしまった。
本当にいい発表というものは、どんなに高度な内容を扱っていても、何かしら心に響くものがある。難しさよりも魅力の勝る箇所がある。それはそうだが、しかし聴衆への最低限の配慮はその場合でも必要不可欠だ。

今回の発表は明らかに聴衆(しかも非専門家)への配慮より、書いた中身をそのまま伝えることに重きを置いてしまった。それだけ自分に余裕がなく、また慢心があったのだろう。一節進むごとに目の前で一人また一人と聴衆の心が「ぽきっ」と折れていく音まで聞こえた気がした(笑)。

読み上げ原稿を準備しないのであれば、言いたい内容を大掴みでもいいからその場でまとめて話すという形にすればよかった、と反省。

堅い雰囲気のゼミで、失敗を恐れて、つい目の前に確実な形で存在するマテリアル(論文)にしがみついてしまった。安全策を取ったつもりで、かえってひどい失敗を犯してしまった。

まだまだ道のりは遠いが、同じ失敗を繰り返さないようにしたい。

Sunday, December 30, 2007

二十歳の微熱?(「哲学と大学」のために)

プロ野球選手は、選手として自分のパフォーマンスを最大限に上げることを目指すと同時に、一事業主として、自分たちの属するプロ野球界がより公正で、より魅力ある形で発展するよう、議論を怠らない。若手選手であろうが、同じことである。

若手研究者はよりよい研究をすることにだけ没頭していればよいのだろうか?私は「政争」などに首を突っ込もうとは思わない。ただ、自分の置かれた状況に関して、その「歴史」を学び、その「政治学」を学び、哲学的な分析を施し、そのことによって状況がより開かれたものになるよう、稚拙ではあれ、絶えず試みたいとは思う。

私個人の研究は、それがいかに拙いものであれ、研究史を学び、その問題点を浮き彫りにすることで当該分野の刷新に貢献しようとする問題意識に貫かれている。

問題意識に貫かれた研究をするだけでなく、問題意識そのものをすでに何度も公表している(「世界におけるB研究の現在」「観客でも批評家でもなく」)。

状況に対する批判的考察だけでなく、積極的な「介入」も行ないうる限り行なっている。例えば、国際シンポジウムをやる。ただし、西欧の有名な研究者を読んでお話を拝聴、そんなことはやらない。彼らを呼ぶとしても、それはガチンコ勝負の場を用意するためであり、日本の第一線の研究者たちにフランス語で発表してもらうため、その現場を若手研究者たちに見せるためだ。

このような発想は、過去数十年の日本の哲学研究に対する私なりの見方から出てきた私なりの回答である。つまりは、私なりの「理論的介入」であった。何人かの若手は本当の意味でインパクトを受け取ってくれたように思う。それは彼らの今後の行動で分かってくるだろう。

自分がそこに身を置いてものを考えている「場所」について考え、書き、そして介入すること、この「理論的実践pratiques théoriques」なしに哲学的思索の深まりなどあり得ない。これが私の素朴な、しかし深い信念である。

日本において哲学は大学で展開されている。哲学の唯物論的基盤は大学であり、日本の哲学的思考は大学という知の再生産機構によってその形態・内容を規定されている。だが、「哲学と大学」という結びつきは決して普遍的に自明な事柄ではない。そしてだからこそ問いかけねばならないのだ。哲学と大学はいかなる関係を結んでいるのか、結びうるのか、と。

「哲学と大学」と言ったとき、単に「哲学科」のみが問題になっているわけでもないし、教えられる学科内容としての「哲学」だけが問題になっているわけでもない。

私がこの問題について考え始めたのは最近のことではない。新しいのは、少人数ながら同志を得て、共に考え始めたこと、このことである。

レディングズを読み、『諸学部の争い』を読み、フンボルトを読む。それは、哲学・思想研究者なら誰もが通り過ぎる「二十歳の微熱」なのだろうか?そうかもしれない。だが、そうであるとしても、日本の過去数十年の思想的・政治的状況は、まさに、「それは誰しもが通り過ぎる道」と言いながら、実は誰も真に通り過ぎてはいなかった、誰も共に通り過ぎてはこなかったという事実を端的に示してはいないだろうか?

大学論も哲学論も教育論も教養論も山ほどある?そのとおり。そして結果は、西洋哲学の観客であり批評家である。日本の現状に対して毒にも薬にもならない観客であり批評家である。「教育再生会議」!

哲学には現実を分析し、分析によって介入する力があると信じるのか否か、問題はそれだけだ。哲学史は哲学の重要な一要素だとは思うが、哲学のすべてだとは思わない。

「教育の哲学、哲学の教育」「結婚の形而上学とその脱構築」「旅行の哲学。世界観と遠近法主義」、他人から見てどれほど幼稚に見えようとも、私にとってはどれも哲学的なessaiなのである。

Thursday, December 27, 2007

「理科系離れ」が本当に意味していること

飛行機の中で、『教育民主化の袋小路。「理科系の危機」について』という本を少し読んだ。

Bernard Convert, Les impasses de la démocratisation scolaire. Sur une prétendue crise des vocations scientifiques, éd. Raisons d'agir, octobre 2006.

内容をかいつまんで説明しておくと――

≪近年、理科系離れの進むフランスは、世界的な科学技術競争で後れをとっている。これはおおよそ事実だが、その説明とされる主張は完全に誤っている。いわく「嫌いになったから」、「怠けるようになったから」、最近の子供たちは、理科系の授業の厳しさから逃げ出すようになった、というのである。

フランスの大学における理科系離れの兆候は、1990年代中頃に現れた。物理学と化学、次いで生物学と数学。この現象には歯止めがかからず、教員たちは懸念を表明し始めた。事が公になると、ジャーナリストや政治家がさまざまな説明を付け始める。時の文科相[ministre de la Recherche]は、科学に対する「意欲の欠如」だと「説明」した。この手の分かりやすい説明は、多くの人々の賛同を得やすく、反論するのが不可能なほど曖昧模糊としているので(「努力しようという意欲の喪失」などなど)、またたく間に広まってしまった。

モリエールの医者たちが説明に持ち出したvirtus dormitivaの現代版[日本で言えば「昔は空き地があり、ガキ大将がいたから、いじめがなかった」というアレな説明である]には大きく分けて三つある。

一つは、イメージの問題である。科学技術の進歩が問題解決よりもむしろ解決不可能な問題を量産することに役立ってしまっている、というのである。だが、各種世論調査が示しているように、科学や科学者という職業は常に非常な敬意の対象となっているし、それより何より、大半の生徒たちはそういった「イメージ」で進路選択をしているわけではない。

二つ目は、教育の問題である。科学教育は、アカデミックすぎる、堅すぎる、例えば最近の物理学は過度の数学化が進み、素朴な好奇心や直にものに触れ、実験するという姿勢を忘れてしまった、というのである[有馬…]。この問題は、結局は、次の三つ目の問題と結びついている。

要するに、現在の理科教育は難しすぎる、だからより「易しい」、より「報われる」学問が選ばれるのだ、理科系の学問は学者として成功するのが最も難しい学問だ、というわけである。だが、この手の主張は説明すべき事柄を先延ばしにしたにすぎない。理科系の学問に「難しい」というイメージがあるのは今に始まったことではない。ならば説明すべきは、二十年前より易しい内容を教えているはずの今日の理科系からなぜ学生は離れていくのか、ということであるべきだろう。

これらの説明が不十分であるのは、見定めるべき「兆候」を見誤っているからである。理科系に進学する学生数の減少に目がくらみ、国を支える科学・技術の未来を憂えて、ジャーナリストや政治家、有識者たちは、この現象に過度に注目しすぎているのである。生徒たちが理科系に進まなくなったのは、科学に不満を持っているからだ、科学が好きでなくなったのだ、イメージだ、教育だ、難しすぎる…

だが、この事態において本当に問題になっているのは「理科系」なのだろうか?筆者コンヴェールの主張はこうだ。

いわゆる「理科系離れ」の背後には、実は、1980年代末に始まった高等教育の変化が潜んでいる。行政当局の圧力と、数を増す一方の生徒(そして親)の要望に圧され、大学は、企業の要求に応える即戦力教育(formations professionnalisées)を重視し、いわゆる純粋理論系の基礎研究を疎かにしてきた[言うまでもないが、金になる基礎研究は別である]。

1990年から2000年までの高等教育への進学内訳を見てみると、興味深い事実が浮かび上がる。それは、生徒たちが離れていったのは「理科系」ではなく、「大学全体」だということ[ここには特殊フランス的な要因があり、日本と単純比較はできない]、より正確に言えば、大学で教えられる「理論的な学問全体」だということである。すなわち文学、人文学、経済学、法学もまた、まったく同じ時期に入学者数が減少に転じているのだ。これらの学問も突如として「イメージ」が悪くなったり、突如「難しく」なったり、突如教育を見直さねばならなくなったのだろうか?

理科系離れは、現在なお進んでいるより大きな現象の一要素にすぎず、このグローバルな現象をこそ解明せねばならないのである。≫

日本には、「理科系離れ」の神話よりさらに厄介な神話もあるわけだが。。


理科専科教員の設置、「道徳」教科化…教育再生3次報告
12月25日22時42分配信 読売新聞

 政府の教育再生会議(野依良治座長)は25日、首相官邸で総会を開き、理科教育強化のために理科専科教員の設置を進めることや小中学校で「道徳」の教科化などを柱とした第3次報告を決定し、福田首相に提出した。

 同会議は来年1月、これまで3回の報告を踏まえ、最終報告を取りまとめる予定だ。 第3次報告は、「公教育の再生」を掲げ、<1>学力の向上<2>徳育と体育の重視<3>大学・大学院の抜本改革<4>学校の責任体制の確立――などを重点課題とした。

 具体的には、2006年国際学習到達度調査(略称PISA)などで、理数系の学力水準が低下していることを踏まえ、小学校高学年に理科専科教員の設置を進めるなど、理科教育の強化を打ち出した。さらに、学力向上に向けた意見交換のため、各都道府県の代表者による「全国教育再生会議」の開催を提案した。

Tuesday, December 25, 2007

クリスマス・プレゼント

パリを去る前日、友人ヴァイオリニストjvがオペラ・コミックでのゲネプロに招待してくれた。フレンチ・オペラの救世主ガーディナーの指揮で、ChabrierのL'étoile。演奏は少し硬かったかもしれないけれど、素人の私にそんなことが気になるはずもない。通常のオペラ・ブッファより繊細なタッチの音楽にのせた馬鹿馬鹿しくも大胆不敵なリブレットに、みんな大喝采。ちょっと早いクリスマス・プレゼントだった。

"Malgré toutes les qualités que j'ai évoquées, L'Etoile reste pour beaucoup à redécouvrir.

C'est qu'en effet le public français du XXe siècle s'est éloigné de sa tradition musicale pour se tourner principalement ves les répertoires italien et allemand. C'est l'une des bizarreries de l'évolution du goût moderne. On peut l'expliquer en partie par le fait que l'internationalisation des pratiques rend le répertoire français, et singulièrement comique ou bouffe, plus difficile à appréhender.

Pourtant, je pense que nous vivons aujourd'hui un moment historique et je suis heureux d'avoir la chance d'y participer. C'est un grand plaisir artistique de renouer avec ce répertoire mais aussi avec ce théâtre, où l'on sent battre l'âme de la musique française." Sir John Eliot Gardiner

On pourrait dire la même chose à propos de la philosophie française du XIXe et du début du XXe siècle. Husserl et Heidegger sont un Rossini et un Wagner en philosophie. Pourtant, je pense que nous vivons aujourd'hui un moment historique et je suis heureux d'avoir la chance d'y participer...

今夏来、彼と私の軽くて熱い議論の主題だったからだろうか。一昨日、友人vcがラルースの彼のコレクションから「結婚の形而上学とその脱構築」のポピュラー・バージョンを出さないかと提案してくれた。poisson d'avrilじゃないのと軽口を叩きつつ、もちろん承諾。軽い本になるけれど、書きたい主題なので。二年後に出す予定。これもクリスマス・プレゼントかな。

Thursday, December 20, 2007

喫緊の課題

12月18日、パリ第8大学のClaude Mouchard教授が、東大・駒場で開かれていたレクチャー・セミナーに参加。ミショーのL'espace aux ombres読解にはいろいろ示唆を受けた。私の「記憶の場所」論に活かせないかと思ってのこと。

12月19日、青山大学のFrançois Bizet助教授の講演"Post-exotisme : sur Antoine Volodine"に参加。「旅行の哲学。世界観と遠近法主義」に活かせないかと思ってのこと。

当面の課題。ひと月で三本。フィジカルと技術的精度。

1)十二月末までに日本語論文を某雑誌に投稿。
2)一月中旬までに仏語論文を完成(掲載決定済)。
3)同じく一月中旬までにベルクソンの隠喩論を完成(掲載決定済)。

Wednesday, December 19, 2007

課題

声を掛けてみる。何度も、何度も。辛抱して待ってみる。じっと待つ。粘り強く。

呼び声は、「自分が呼びかけられているのだ」と呼びかけられている者が気づいて、はじめて成立するものだ。

それでも駄目なら、仕方がない。諦めるというのではない。時節を待つ。

奉仕は往々にして罠に変わるものだから。奉仕という病の疾病利得。

ただ待つのではない。その間、自分を鍛え続ける。

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どのように前に進むのか。フィジカルと共に技術的な精度を上げること。課題はひとまず三つ。

A. 言葉。語学力の向上。

1.フランス語をもう一度、一から叩き直したい。関連して、翻訳技術の向上に取り組みたい。つまりは日本語力の向上に。
2.英語とドイツ語のパフォーマンスをもっと上げたい。
3.ラテン語とギリシャ語再入門。
(4.イタリア語とポルトガル語をせめて継続的に勉強していきたい。)

B. ベルクソン研究の深化(ショートプログラム)

ひとまず完成したばかりの研究だが、各パーツの再検討を始める。それぞれを深めるために、資料を再検討し、可能な限り厳密な形を目指したい。幾つかの論文として、仏語・英語・日本語での雑誌掲載を目指す。最終的に、二年後くらいに本にできればいいが。

C. 哲学の教育、教育の哲学(フリー・プログラム)

「旅行の哲学」「結婚の形而上学とその脱構築」とともに今後の研究課題なのだが、現在、「哲学と大学」グループが動き出したので、まずはこれから。