Thursday, September 10, 2009
夢の続き、仕事の続き、ストレスの続き
仕事が忙しいのがストレスなのではなく、それらをてきぱき片づけていけないのがストレスなのである。なぜてきぱき行かないのか。相手のある仕事だからである。さまざまな関係の相手に、微妙なニュアンスを要するフランス語の、英語の、ときには超ブロークンなイタリア語で、メールを書き続ける。とても疲れるし、時間も食う。
しかしそれで終わりではない。それぞれの返事を待たねばならない(ここに「持続」がある!)。遅れてきた一通の返事の内容によって(あるいは返事の遅れそのものによって)、状況が一変することもしばしばである。すると、いろいろなことをまたやり直さざるを得なくなる…。
シンポの準備に専念できるならまだいい。ここに昨日書いた一つ一つの作業がのしかかってくる。書いていないたくさんのことものしかかってくる。
そういうわけで、夢の続きを見ているような感覚を半分持ちながら、深夜(早朝?)に起き出して仕事の続きをしている。
一つ一つのこまごまとしたことがストレス要因なのではなく(私はそれほど器の小さな人間ではないつもりである)、それらが絡み合って身動きが取れなくなるのがストレスになる。多分ストレスの原因など、あってないようなものなのだ。
もっと忙しい方は山ほどいらっしゃるというのに、情けない限りだが…。
Wednesday, September 09, 2009
ストレスフル
・授業準備ぼちぼち(哲学史の続き、ドゥルーズ入門、ベルクソン入門など)。事務関係ぼちぼち。
・来年、プロジェクト・ゼミという三年生の領域横断的なゼミで結婚論をやる。どうせなので、日本平安文学の専門家、古代ギリシャ社会史の専門家、現代日本の家族社会学の専門家、近代フランス文学の専門家に助けていただきながら、わいわい楽しくやろうと思っている。今はその下準備。
研究関係
・シンポ&edツアーの準備、大詰め。メールにかなりの時間をとられる。
・大学紀要校正大詰め。
・大学紀要次号の締め切りがすでに近付きつつある…。
・雑誌論文2本、大詰め。
・友人の科研に加勢、大至急やらないといけないのだが…。
・仏語アクト、大至急やらないといけないのだが…。
・ゴーシェ翻訳&解説、大至急やらないといけないのだが…。
幾つかの要因で仕事のリズムを作れない。まったくストレスフルな状況。いいかげんにしてほしい。
Thursday, August 27, 2009
ドゥルーズと音楽
パルネ曰く、あんたは音楽についてけっこう語っているけど、実際にはほとんど音楽は聴かない(コンサートには行かない)し、ましてやオペラはベルクの『ルル』や『ヴォツェック』だけ好んで聴いている。そして日常的には大衆歌謡、特にピアフ(とかクロード・フランソワ)が好きじゃないかと。
そしてとどめの言葉。映画や絵画についてはまるまる一冊(以上)本を書いているのに、音楽については書いてない。あんたはほんとはvisuelな人間なんじゃないか、と。
これに対するドゥルーズの答えは揺らいでいる。グールドのコンサート・ドロップアウトに関する説明がそうであるように。
・コンサートにほとんど行かないのは、コンサートの予約は展覧会に行くより手間がかかるから。
・コンサートは自分のréceptivitéを超えているから。
・音楽について語るのはきわめて難しいから。
しかし、文章を書いたり読んだりすることの中で、自分にとって最も重要な要素が聴覚的なものである点で、やはり自分は音楽的なのだ、と強調していた。
ドゥルーズと音楽の関係は見かけ以上にねじれた関係なのかもしれない。
Thursday, August 20, 2009
もう一つのD&G
*
後期は、哲学史の続き以外に、ベルクソン講義、ドゥルーズ講義をする予定である。時代の雰囲気の中で生きていた哲学者の姿を浮かび上がらせたいと思っているので、時代背景的な話にも力を入れているのだが――「世界史の復習的な要素も入れてもらいたい」というのが上からの要望でもある――、これを準備するのはけっこう時間がかかる。見かけは無駄話風なんだけどね。
ベルクソン講義では第三共和政期フランスや当時のヨーロッパの雰囲気が、とはいえ、陳腐な形ではなく、伝わるようにしたい。というわけで、今は松浦寿輝の『エッフェル塔試論』を読んでいる。「ベルクソンと音楽」については、ドビュッシーだけでなく、シェーンベルクとも比較したい。
また、ドゥルーズ講義では、68年5月をはじめ、第五共和政期フランスの話はもちろんするが、ドゥルーズとグールド――もう一つのD&G――のアナロジーに力を入れてみたい。そういうわけで、グールド関連の本を読み漁り、ディスクを聴きまくっている。ゴルトベルクをランドフスカやヴァルハと聴き比べてみたり。
ちなみに、私が一番好きな彼のディスクは、「モスクワ・リサイタル」である。新ウィーン学派――当時ソビエトでは演奏が禁止されていたという――とバッハという選曲がもろに好みだということもあるが、何よりほどよく肩の力の抜けた(音楽学生である観客との和気あいあいとした関係が伝わってくる)レクチャーコンサートという形式もいい。
これらの講義準備と、8月末締切の雑誌論文、そしてそろそろゴールが見えてきた(?)ゴーシェ翻訳を同時進行している。まあ、地味な自分の道を一歩一歩、ね。
Wednesday, August 05, 2009
なまもの
しかし昨年、そのVVVで大活躍し、見事一部リーグ昇格の原動力となった。その本田が、一部の新シーズン初戦で活躍した。以下のコメントでも随所に「俺様」的ではあるが、同時に自分の実力を冷静に見ることもできていて、「若いっていいな」と楽しい。
スポーツ選手も研究者も「なまもの」なので、常に進化したり退化したりしている。そこを見ないで、「誰それはやっぱりいい」「やっぱりダメ」というのは、あまり意味がない。
「誰も止められないところまで1年で突入したい」と言える気力は残念ながらないのだが、自分なりの努力を続けていきたい。そう心から願っている。
VVV本田「誰も止められないところまで1年で突入したい」 (2/2)
~オランダからの叫び~
2009年8月3日(月)
■オランダで議論「アフェライと本田。どっちが上か?」
試合後、1ゴール1アシストの本田にオランダメディアが殺到した。(…)
VVVのファン・ダイク監督は、「これまで『本田がオランダで一番のMF』とわたしが言ったらおかしいと思われていたが、今日はその力を見せつけてくれ た」と本田の活躍を喜んだ。その夜、ファン・ダイクはサッカーディスカッション番組に出演し、「(PSVの)アフェライと本田。どっちが上か?」と問われ た。「2人は違うタイプの選手」とファン・ダイク。「本田はより頭がいい選手だ」
PSV戦での本田はシモンスのマークに苦しみ、さらにシモンスを援護するPSVの選手の寄せに遭い、ボールを再三失った。しかし、本田はチャンスを待ち続け、少ない好機にビッグプレーを連発し、オランダ人を感嘆させた。そこがファン・ダイクの言う“賢さ”なのだろう。
「(5月31日に行われた)ベルギー代表との試合でもシモンスとはマッチアップしていたし、『お前、分かっているからな』というオーラは感じてましたし、 前半何回か来た。でも、その後は来ないんで、“あ、びびっているな”と思いながらやっていた。悪いけど、おれの勝ちかな。でも今日見た限り、まだまだおれ よりアフェライの方が驚異的かなと感じる。ケン(レーマンス)もアフェライに苦労しているなと感じた。それをもっと、おれがシモンスに感じさせるべき」
シモンスとのマッチアップ、そして2005年ワールドユース(現U-20ワールドカップ)の同期アフェライとのバトルを本田は振り返った。
「おれとしては満足していない部分がある。点を取ったことは満足しているけど、もっとやれると思っていたから。『本田はオランダリーグでもやれるやん』と いう問題ではないレベルに、おれは突入していかなければと自覚している。極端に言えば、去年の2部リーグでのおれの存在みたいに、誰も止められないという ところまでこの1年で突入していきたい。自分はまだそこまで行けていないと分かっている。それが自分の課題。だからもっとドリブルを増やしたい。若干読ま れている部分はあるけれど、それは評価されていることだからうれしい。それを自分は打開していく」
今、オランダでは「アフェライはアーセナルへいくかもしれない」という情報が流れている。
「アフェライがPSVを去ったら、本田はPSVに行くだろう」とファン・ダイク。「移籍金は2000万ユーロ(約27億1000万円)だ(笑)」
ベルデン会長が設定した移籍金は1000万ユーロ。「その価値にふさわしい選手になる」と開幕前に語っていた本田だが、ジョークながらもファン・ダイク によってその価値が2倍になってしまった。そして、PSVのサポーターは今も本田獲得についてフォーラム上で熱く語り合っている。
Tuesday, August 04, 2009
潜水
夏休みのしんとした大学で、そういう活動にいそしんでいると、じっとプールで潜水しているような感覚になる。とても心地よい。
午後7時ごろ研究室を出ると、夕日。ひぐらしが鳴いている。
校舎が小高い丘の上にあり、建物から出ると、辺りが一望できる。
近くに山があり、京都の大学時代によく見た風景に近い。
明日も地味に同じことの繰り返し。
本をばんばん出せる研究者というのは、いったいどういう研究生活と家庭生活を送っているのだろう?
Thursday, July 30, 2009
イタリア語
そして事実それに最大限の力を注ごうとしているのだが…
今秋のシンポの準備が重くのしかかっている。今日も日本語、フランス語、英語で、何通メールを書いたことか。プロヴァンスの太陽を満喫しているらしいedからは、「自分の勉強する時間取れてる?」と心配そうなメールが来た。さらに…
rrからイタリア語のメールが来た。まあ、たしかに「今あなたの本をイタリア語で読んでます」とは言ったが…
時間がないのに、デリケートな事態なので、辞書を引きつつメールを読む。
というわけで書評、もうしばしのご猶予を…
Tuesday, July 28, 2009
prepare
「prepare」を大切にするのは好打者の共通点?
マウアーと会話していて気づいたことがある。それは「prepare(準 備をする)」という単語をよく使うことだ。「僕はまだメジャー6年目。シーズンや試合に向けた準備の仕方をもっと学びたい。それが何より大事だと思うん だ」。準備を人一倍大切にしているのはイチローも同じこと。次の機会には、試合前のルーティンからマウアーをじっくり観察して、好打者の共通点を見出して みたい。
***
■腎臓手術で4月は全休
その柔和な表情を見ていると、史上最強捕手というイメージは全くわいてこないし、クラブハウスでの立ち居振る舞いも控えめで、26歳という若さで 首位打者を2度も獲得したスーパースターとは思えない。気のいい隣のお兄さんというのが率直な印象だ。ジョー・マウアー(ツインズ)はしかし、静かに熱 く、イチローとの一騎打ちの様相を呈してきたバットマンレースを制して、捕手として史上初の3度目の頂点を目指す――。
おそらく最後の最後までしのぎを削ることになる2人は、偶然にも今季の開幕に出遅れた。イチローが胃潰瘍(かいよう)を患ったのに対し、マウアーは腎臓手術で4月の試合をすべて欠場した。
「ベッドから起き上がれないほど痛かったこともあった。以前から腎臓の具合がよくなかったので思い切って手術した。おかげで長年の痛みから開放されたよ」 と、ソフトな口調で微笑さえ浮かべて語る。そんな病気を抱えながらセンセーショナルな活躍を続けてきたとは、驚きというほかない。
5月に戦列に加わると、いきなり打棒爆発。得意の広角打法で打ちまくり、一時は4割打者誕生か、という気の早い報道もあった。しかし、それよりも何より も驚かせたのは本塁打の量産だった。わずか2カ月ほどで自己最多の13本を更新し、7月27日(日本時間)現在で17ホーマーをマークしている。
「パワーアップの秘訣? そんなものはないよ。経験を積んできたことが実を結んできたのだと思う」と、いたって謙虚だ。
■地元ミネソタで生まれ育ったスーパースター
(…)運動能力は並外れて高く、リトルリーグでは投手を始め、あらゆるポジションをこなした。捕手に落ち着いたのは中学のとき。高校時代にはアメリカンフットボールのクォーターバックとして大活躍、オールアメリカンにも選ばれ、ミネソタでは最も知られた高校生だったという。
「ジョーのすごいところは、10代からスターだったのに、そういうそぶりが全くないところだ。地元出身で期待もプレッシャーも高いのに、最初から動じるこ ともなく、プレーに集中している。試合に臨む姿勢、練習態度、研究熱心さ、どれをとっても素晴らしい。どこまで進化していくのか。本当に楽しみな選手だ」 と、ツインズのロン・ガーデンハイヤー監督は褒めちぎる。
Sunday, July 26, 2009
雨のち雨
午後ずっと今秋のシンポのための打ち合わせ。
毎回、海外の研究者を招聘する際には、その人たちの仕事を日本の研究者に読んでもらい、報告していただくという会合をやっているのだが、今回がまさにそれであった。
日本でも世界でもほとんどのシンポは打ち上げ花火、一部の大物の話以外まともに聞いていないという状況だが、それではダメだと以前から強く感じていたので、このような「読み合わせシステム」を導入したのである。
ちまちましているし、「大物」の先生方はなかなか分担を引き受けてくれないのだが、私はこういう地味な仕事はとても大切だと思っている。制度を変えていくのは、抽象的な理論だけではなく、こういう地味で地道な作業の継続でもある、と信じている。
6時に会合を終え、飲み会に…と行きたいところだったが、ビールを一気に飲み干し、羽田へ急ぐ。翌朝9時半からオープンキャンパスがある。福岡に帰ってくると、また雨。
*
翌朝も雨。早朝、家から駅に着くまでに、横殴りの雨でびっしょり。ベルを鳴らすのを忘れて、バス停を一つ乗り過ごしてしまう。大雨の中で…。大学につくまでに、再びぐっしょり。
オープンキャンパスは、雨にもかかわらず盛況だった。一年目の新人に「研究室紹介」で何を話せというのかと思っていたが、みんなこのような機会に少しずつ大学のことを自分で学んで(学ばされて)いくのだなと実感。おかげで勉強になりました。
最寄駅に着くとまた雨。家に帰ると今年呼ぶedからメール。「プロヴァンスの太陽が勉強させてくれないよ」って…。
明日は1限から試験監督。
Friday, July 24, 2009
大雨
そういえば、今日はとてつもない大雨で、全身びしょ濡れで帰宅した。福岡にいるんだなとあらためて実感。
Tuesday, July 21, 2009
夏休み
今週は、今秋のシンポの準備会合があり、そのための資料を作成せねばならない。
というわけで、辞書と首っ引きでイタリア語の本を読んでいる。これはこれで楽しい。
来週は、とある書評を書く。常々敬意を表している方の本だけに力を入れたいのだが、自分がそもそもどれくらいの「力」を持っているのか、今どれくらいの力を発揮できるのかも、もはや分からなくなってしまった。時間もないし、不安だ。
再来週は、仏語アクトの校正&テスト採点週間。苦痛である。
その次は後期の授業準備、と同時に、とある雑誌の論文&紹介文、シンポ原稿、英語論集のための論文…。楽しいのか、不安なのか、苦痛なのか、それら全部なのか。
いつ、どれくらい自分の「本」に取り掛かれるのか…。
Sunday, July 19, 2009
トマス・アクィナス関係読書リスト
1年目前期:古代、後期:中世
2年目前期:近世・近代、後期:現代
3年目前期:現代、後期:近世・近代
4年目前期:中世、後期:古代
*
最後二回は、スコラ哲学の面白さをどう表現しようかと一思案。平凡だが、ゴシック建築との並行性を前フリに。
エルヴィン・パノフスキー『ゴシック建築とスコラ学』(前川道郎訳、原初1951年)、ちくま学芸文庫、2001年。
割注が読みすぎて読みにくい。この手の博学本によくありがちな悩み。
馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー――中世の聖なる空間を読む』、講談社学術文庫、1992年。
建築の部分については分かりやすく詳しい。ただ、肝心のスコラ学との並行性の部分はイマイチ。
酒井健『ゴシックとは何か――大聖堂の精神史』、講談社現代新書、2000年。
パノフスキーやマールらの「スコラ学のゴシック建築への影響」説を否定し、並行説を主張。まあそれが妥当でしょうね。
西田雅嗣(まさつぐ)編『ヨーロッパ建築史』、昭和堂、1998年。
スコラ学についての言及はまったくないが、ロマネスクとの対比でゴシックの特徴を分かりやすく説明してくれている。ただ、建築専門チームなのだから、もう少し見やすい図版の収集ないし作成に努力してほしい。図版にセコハンが多く、見づらい。
*中世哲学一般(アウグスティヌスの項に追加)
Alain de Libéra, La Philosophie médiévale, PUF, coll. "Que sais-je?", 1989. 大著の『中世哲学史』の簡略版。
ジャック・ルゴフ『中世の知識人――アベラールからエラスムスへ』、岩波新書、1977年。ある時期までの岩波新書には「こんな素晴らしい翻訳書が新書で!」というのが幾つかあった。その好例。
J.B.モラル『中世の政治思想』(柴田平三郎訳)、平凡社ライブラリー、2002年。
ジルソン『中世哲学の精神』、既出。
Gilson, Introduction à la philosophie chrétienne...
Gilson, L'Être et l'essence (1948), Vrin, 2e éd. revue et augmentée, 1981.手元に持っているのはこの第二版なのだが、第三版(1984年)が最終らしい。大きな変更があるのだろうか…。
山本耕平「スコラ哲学の意味」、『新岩波講座』、既出、292-319頁。ごく基本的な概説。
*トマス
Jean-Pierre Torrell O.P., Initiation à saint Thomas d'Aquin. Sa personne et son oeuvre (1993), 2e éd. revue et augmentée d'une mise à jour critique et bibliographique, 2002. 後述の日本のトマス研究の大家である稲垣氏の著書でも、「この二十年の間」で「トマスの人と思想の全般を取り扱った著作として特に注目に値する」ものとして挙げられているが、私はこの著作を畏友CdMから勧められて、フランス滞在中に購入しておいたのだった。ただし、かなりの大著なので、「90分でトマスを」という人には向かない。
Thomas d'Aquin, Commentaire du traité De l'âme d'Aristote, introduction, traduction et notes par Jean-Marie Vernier, Vrin, coll. "Bibliothèque des textes philosophiques", 1999.
ジルソン/べーナー『アウグスティヌスとトマス・アクィナス』、既出。
水田英実(ひでみ)・藤本温(つもる)・加藤和哉「トマス・アクィナス」、中公新社『哲学の歴史』第三巻、既出、429-531頁。
クラウス・リーゼンフーバー『中世思想史』(村井則夫訳)、平凡社ライブラリー、2003年。前著『西洋古代・中世哲学史』(平凡社ライブラリー、2000年)よりいいが、宗教的観点があまりに勝ちすぎており、おまけにジルソンのようにある程度の哲学的な冴えもないとなると厳しい。解毒剤としてラッセルを併読することは必須。ただ、そのようなものとして読むなら、勉強にはなる。
フェルナンド・ファン・ステンベルゲン『トマス哲学入門』(原書1983年 稲垣良典ほか訳)、文庫クセジュ、1990年。私にとっては悪いクセジュの典型。
稲垣良典(りょうすけ)『トマス・アクィナス』、講談社学術文庫、1999年。
Saturday, July 18, 2009
約束は真面目ではない?
1)重要な思想家を一つのイメージで印象付け、
2)その思想家の生きた時代と生涯を、彼の思想と関連づける形で簡単に紹介し、
3)その思想家の基本的な思想を概説し、
4)結婚論がその思想体系に占める位置や意義、ならびにその結婚論の概説
という形で進行したので、結婚論自体としては、それほど深い次元までは行けなかった。これはジレンマで、結婚論講義としてはもちろん4が最重要なのだが、2や3の基本的な知識が前提としてないと、インパクトも薄れてしまう。そこで、2や3に時間をかけた結果、4がいつも駆け足になるのである。
来年度は、思い切って4を前面に押し出してみることにしようか。「ヘーゲルって結婚の思想家だと思ってた」と学生に言われることを恐れないならば、の話だが…。
*
結婚論の最後二回は、ドゥルーズ=ガタリとデリダ。来年あたり仏文学会で「結婚の形而上学とその脱構築(デリダの場合)」に関する発表をしてみようかな。
前にも書いたが、結婚論の重要な論題の一つに「誓い」や「約束」の問題がある。それは結婚の哲学が時間の哲学でもあるからだ。というのも、「誓い」や「約束」の問題とは「不可逆性」の問題だからである。東さんは『絵葉書』を情報伝達経路、コミュニケーションの話として読み解いたが、私はこの観点から読み解けるという直観を持っている。
《オックスフォードのよきスコラ哲学に従えば、約束は約束することしかできない。到達すること、自分の約束を果たすに至ることを約束することは決してない。可能なら約束を果たすに至るよう全力を尽くすことを約束するだけだ。
人は到達することを約束するのではない。到達する意図があること、到達するために自分の能力のすべてを傾注することを約束するのだ。もしそれが私の能力のうちにないために、また私のうちの、あるいは私の外のあれやこれ、あれこれの人が私の到達を妨げてしまったために、私が到達するに至らないとしても、私は自分の約束に背いたわけではない。私は相変わらず到達を望んでいる。だが、私は到達するには至らないのだ。
私は一貫して自分の約束=契約に忠実であろうとしてきた。君はこう言うだろう、そんなのはおよそ真面目な話とはほど遠い、オックスフォードの人間は不真面目だ、そういう「私のうちの、あるいは私の外の」とかいうのは恐ろしく曖昧か偽善的だ、可能とか意図などという観念は失笑を誘うだけだ。あなたは自分がその一語たりとても信頼を置いていない言説から論拠を引き出している、と(いや、いや、信頼している――他でもない真面目さの名において、オックスフォードの人々は話しているのだ[…])。
それに約束、誓約は真面目さに属するのだろうか、それは真面目なのだろうか、言ってごらん? それは真面目さより、はるかに深刻で危険で、はるかに軽く、より多くのものからなっている。だが真面目ではない。》(デリダ『絵葉書』)
Friday, July 17, 2009
てはつたえる→てつだえる
講義のほうはほぼ出来る限りのことをした。どこの大学でやっても恥ずかしくないレベルのものをやっていると思う。難しいことを可能なかぎり簡単に、しかし分かりやすさのために細部を犠牲にしない、というチャレンジ。アンケート結果が出てみないと学生の満足度は分からないが。
ゼミのほうは反省点がいろいろある。特に学生との距離。他学部の先生に伺うと、1年生ゼミでは、
・前期で少なくとも二回は、「レクリエーション」と称して、土曜日などに、近くのレクリエーション施設に学生を連れていき、ドッジボールやミニサッカーを一緒にやる。そうすると、学生たちとの連帯感のようなものが生まれ、結果としてゼミへの溶け込み具合が違ってくるのだそうだ。学生に幹事をやらせることで、責任感が生まれたり、「リーダー格」の学生の発見にもつながる、と。
・最終回には、お菓子やジュースを買っていって、みんなで「打ち上げ」をするのだそうだ。これも上と同趣旨の試み。学生と親しくコミュニケーションをとる中で、欠席学生の身辺にそれとなく探りを入れることもできる。
こういうことを書くと、「嘆かわしい」「馬鹿馬鹿しい」「そんなことは大学でやるべきことか」とおっしゃる先生方の顔も浮かぶのであるが、現実は現実として受け止めなければならない。学生たちを少しずつ「大学生らしく」変えていくためには、私たちのほうも少しずつ現実に合わせて変わっていく必要がある、ということだろう。
デリダの次のような言葉に完全に共感しつつ、でもそれだけでも駄目だとも感じている。
《例えば、言い回しの難解さを、襞を、パラドックスを、追補的矛盾をあきらめること、それらが理解されないだろうという理由で、あるいはむしろ、その読み方を知らない、本のタイトルそのものの読み方さえ知らないあれこれのジャーナリストが、読者あるいは視聴者はなおさら理解できないだろう、視聴率とその稼ぎ手が害を被るだろうという理由であきらめること、それは私には受け入れられない猥褻事です。それはまるで、私に頭を下げろ、隷属しろ――あるいは愚劣さで死ねというようなものです。》
「上から目線」に過剰なほど敏感な2009年の日本で、このような言葉を受け入れられる人はどれくらいいるだろう。そしてその「られる」という能力ないし可能性の問題、「どれくらい」という数の問題は何を意味するのだろう。これもまた、哲学の問題ではないのか。
「人文系研究の衰退を食い止めるのは、制度改革への批判ではなく、人文系研究の成果そのものである」? 私はそうは思わない。あれか、これか、ではない。あれも、これも、なのだ。人文系研究の衰退を食い止めるのは、研究者としての振る舞いと同時に、大学教員としての振る舞いである。
子育てはとても参考になる、大学生との付き合いばかりでなく、いろいろと(笑)。『クーヨン』2009年7月号「上手にNOを伝える育児」の特集「イライラせずにすむ「やっちゃダメ」の伝え方」から。
《おもちゃを片づけるとき――声をかけるだけでなく手を添えて導いて。
「片付けなさい!」と声だけかけても、ラチがあきません。そんなときは、おもちゃを持つ手首を引いて、おもちゃ箱へ。「はーい」という気持ちが励まされます。》
声をかけるだけではダメなのだ、大学教員も。
Wednesday, July 15, 2009
ウェイト・トレ
怒涛のように仕事が押し寄せてきて、さまざまな悪条件が重なっても、疲れきっていても、
ただ翻弄されるがままになるときでさえも、
その翻弄のされ方を或る程度コントロールできる、というような意味でのスタミナ。
この部分を強くしていくには、普段から仕事量を上げていくしかない。
ウェイト・トレと同じようなものか。ふたたび、プロに入りたての高卒ルーキーみたいな気分になる。
Tuesday, July 14, 2009
大切なこと
今は我慢の時。ひとつひとつこなしていく。
ヒディンク監督来日、ユース世代の育成を実践指導
6月23日0時27分配信 スポーツナビ
6月23日7時54分配信 サンケイスポーツ
来日中のロシア代表のフース・ヒディンク監督(62)が22日、埼玉スタジアムでユース指導者に向けた講演と実技講習を行った。02年日韓W杯で韓国をベスト4に導いた名将は「日本は技術的な問題はない」と評価した上で、「最近のサッカーは90分間、走らないといけない」。W杯4強を目標にする岡田ジャパンに“体力サッカー”のススメを説いた。
「(4強を)厳しく感じる選手も出てくると思うけど、厳しいと言っていたら1次リーグ突破も無理」。W杯予選突破を祝う花束をクラブ職員から受け取っても、厳しい表情は変わらなかった。あと1年。中沢はより高みを見る。(志田健)
Tuesday, July 07, 2009
教育社会(七夕に)
《日本では、メディアが「謝罪」の画にこだわります。
メディアの側は、「そうしないと世間が納得しないから」と言いますが、本当はそうしないと映像的にオチをつけられないからでしょう。
だから、「世間を騒がせたことに対して、謝罪はないんですか!?」なんて、いまひとつ意味が分からない要求と共に、臆面もなくマイクを突き出せるわけです。》
ただ、個別大学の個々のコメントや個別メディアの個々の対応に疑問はあっても、事態を理解する(intelligere)にはその視点では十分ではない。なぜメディアは謝罪の絵にこだわり、なぜ謝罪側は結局のところ「謝罪」「責任」をとらねばと感じるのか。問題はそこにある。
*
世間では日々数々の犯罪が起こっている。大学は公的性格をもつ以上、何か事件が起きれば、その「社会的責任」が厳しく問われるのは当然のことである。
会社員が犯罪を犯したとしよう。その社員の働く企業が有名企業であった場合、すなわち「ニュース」になりやすい場合は必ず、「社会的責任」から、トップの謝罪、組織としての対応が問題とされるだろう。
だが、先に取り上げたような度を越した犯罪(準強姦)の場合、トップの辞任といった責任問題に発展するだろうか?事件の規模や性格によってはそういう場合もないとは言えないが、考えづらい。なぜか?問題行動を起こした「原因」が、社内教育の欠如ないし不備にのみある、と断定できないからであろう。
社内でのセクハラなどであれば、「よりいっそう(社内)教育を徹底し、再発防止に努めて参ります」と言えるが、度を越した異常な犯罪――例えば、テレビ局の社員が同僚に爆発物を送りつけた事件が少し前にあったが――について、トップは謝罪すべきだろうか。企業は責任をとれるだろうか、とるべきだろうか?コンプライアンス研修会と心理カウンセリングの社員への周知をさらに徹底するくらいが関の山であろう。
大学だけでなく、教育界だけでもなく、あるいは官公庁だけでもなく、おそらく現在の社会情勢においては、責任がとれるか否か、取るべきであるか否かにかかわらず、「よりいっそう(社内)(学内)教育を徹底し、再発防止に努めて参ります」という言葉が、すべての社会構成員に対して、一般的に求められているのだ。
まさかいい歳をした大人に「腹がたっても、爆発物を送りつけてはいけません」とか、大学生に「強姦は重罪です」としっかり諭すことが真に有効な防止策だとは思えないし、効果を上げる部分よりむしろ非効率な部分のほうが圧倒的に多いと思うが、それでもなおエクスキューズとしての「コンプライアンス研修会」と「心のケア」は増える一方であろう。なぜなら、それをしていなかった場合にその組織は「責任」を問われるからだ。
要は、対外的なエクスキューズとしての〈教育〉が、至るところで求められているわけだ。問題は、この〈教育〉の内容ではなく、その本質である。
日本は十数年前、「訴訟社会アメリカ」を嗤っていた。熱いコーヒーで訴訟になる国、濡れたプードルを電子レンジで乾かそうとして訴訟になる国、と。そして、今、日本製のありとあらゆる電子機器の説明書には、過剰なほど「注意書き」が溢れている。ありとあらゆるお節介な看板やポスター、電車やバスの車内放送は、ますます過剰になる一方だ。
逆説的なことだが、これほど教育の不足が叫ばれながら――「ゆとり教育」の放棄――、「教育社会」なのだ。生涯教育の時代に、人間はすべて、いつまでも陶冶の対象である。
どこでも教育が強調されるが、それはエクスキューズとしての教育である。外部からの指摘に備えて行なわれる教育、教育される対象よりも本当は目が外部からの視線に行っている教育、それが管理社会で行なわれる一般的な教育ではないか。これが先に言った〈教育〉の本質であるように思われる。
「モンスターペアレント」とは一部の異常な親ではなく、「クレイマー」の一種であり、このようなエクスキューズ社会の産物、「教育社会」の鬼子なのだろう。
教育にとって困難な時代である。
Monday, July 06, 2009
近くて遠きは田舎の道…と学術交流
*
三浦信孝さんのおっしゃるように、
《日仏交流で日本のことを説明する局面が増えています。
日本のことをミニマムわかってもらわないと、
どんな分野でも学術交流にならないと痛感しています。》
でも、これは三浦さんのように、すでに数多くの交流を通してその「下地」を作った人だからできること。
我々のフランス哲学研究の分野では、まだまだ我々自身のアウトプットが少ない。そこで「日本思想に興味を持て」といっても、欧米の研究者から儀礼以上の関心が引き出せるか。まずはフランス哲学研究の実力を認めさせたうえで、日本のことをもっと多く混ぜていく、という戦略が必要だと思う。
ともあれ、遠くからご成功をお祈りしています。
日仏シンポジウム《「日本の近代化」再論:「近代主義」の何を継承するか?》
2009年7月11日(土)12日(日) 日仏会館ホール
共同座長: マルク・アンベール(レンヌ第1大学-日仏会館フランス事務所)+廣田功(帝京大学)
7月11日(土)
10:00〜12:30
三浦信孝(中央大学) 「日本の近代化という問題:発展段階論か文化類型論か」
ピエール・スイリ(ジュネーヴ大学) 「明治日本における歴史学の成立:権力の掛金・過去の支配・抵抗」
杉山光信(明治大学) 「戦後啓蒙と戦後民主主義」
14:00〜15:40
松本健一(麗澤大学) 「脱亜論とアジア主義:日本の近代化とアジアの近代化」
フィリップ・ペルティエ(リヨン第2大学) 「島国:日本の近代化と領土化」
16:10〜17:50
水林彪(一橋大学) 「日仏比較:二つの近代法」
望田幸男(同志社大学) 「日独比較:二つの近代、二つの戦後」
7月12日(日)
10:00〜12:30
加藤哲郎(一橋大学) 「日本マルクス主義と社会主義運動の遺産」
クリスチーヌ・レヴィ(ボルドー第3大学) 「大逆事件:例外的裁判か抑圧の近代的モデルか」
藤井隆至(新潟大学) 「未完の日本近代:柳田国男『遠野物語』はなぜ読まれるか」
14:00〜15:40
ベルナール・トマン(国立東洋言語文化研究院) 「戦前の日本における労働者の管理:人口の管理技術としての近代化」
落合恵美子(京都大学) 「脱欧入亜する日本:アジア家族の比較研究から」
16:10〜17:50
アラン=マルク・リユー(リヨン第3大学) 「近代の理論:比較論をどう打ち立てるか」
総合討論
Colloque de la Maison franco-japonaise
La modernisation du Japon revisitée :
Que reste-il de l’approche moderniste ?
Les 11 et 12 juillet 2009, à l’auditorium de la Maison franco-japonaise
Sous la co-présidence de Marc Humbert (Bureau français de la MFJ) et d’Isao Hirota (Univ. Teikyô)
Samedi 11 juillet
10:00 ~ 12:30
Nobutaka Miura (Univ. Chûô), La modernisation du Japon en question : évolutionnisme linéaire ou typologie culturelle?
Pierre Souyri (Univ. de Genève), La constitution de l’histoire comme discipline académique dans le Japon de Meiji : enjeux du pouvoir, contrôle du passé, résistances
Mitsunobu Suguiyama (Univ. Meiji), Lumières et démocratie de l’après-guerre
14 :00 ~ 15:40
Kenichi Matsumoto (Univ. Reitaku), La sortie de l’Asie et/ou l’asiatisme : la modernisation du Japon et la modernisation de l’Asie
Philippe Pelletier (Univ. de Lyon 2), «Shimaguni » : modernisation et territorialisation au Japon
16:10 ~ 17:50
Takeshi Mizubayashi (Univ. de Hitotsubashi), Comparaison France-Japon : deux droits modernes
Yukio Mochida (Univ. Dôshisha), Comparaison Allemagne-Japon: deux modernités, deux après- guerres
Dimanche 12 juillet
10:00 ~ 12:30
Tetsuro Kato (Univ. de Hitotsubashi), Héritage du marxisme et du mouvement socialiste au Japon
Christine Lévy (Univ. de Bordeaux 3), L’affaire du crime de lèse-majesté (1910): un procès d’exception ou un paradigme moderne de la répression?
Takashi Fujii (Univ. de Niigata), La modernité japonaise inachevée: Pourquoi lit-on encore « Tôno-Monogatari » de Kunio Yanaguita ?
14:00 ~ 15:40
Bernard Thomann (INALCO), Gouverner les ouvriers dans le Japon d'avant guerre: la modernisation comme technique de gestion des populations
Mieko Ochiai (Univ. de Kyôto), Le Japon qui quitte l’Occident et entre en Asie : approche comparatiste du modèle familiale asiatique
16:10 ~ 17:50
Alain-Marc Rieu (Univ. de Lyon 3), Théorie du moderne: Comment fonder le comparatisme?
Débat de synthèse
Friday, July 03, 2009
ボーヴォワール関係読書リスト
結婚論は、マルクス、フロイトを終えて、ボーヴォワールへ。
「ボーヴォワール 画像」で検索するのと、「Beauvoir image」とでは、結果がかなり違うので驚いてしまった。日本での古典としての地位の低さは、少し異様な気もする。中公新社版『哲学の歴史』に「ボーヴォワール」はおろか、「フェミニズム」という章すらない…。
今回の読書で一番気に入ったのはこれ。
青柳和身『フェミニズムと経済学――ボーヴォワール的視点からの『資本論』再検討』、御茶の水書房、2004年。
なんというか、この手の、肩に力の入りすぎた仕事が好きだ。
「本書の直接的な問題関心は、2005年から2015年までの時期を中心とした女性のM字就業の解体を中核的内容とする日本におけるジェンダー革命の端緒的展開の予測と21世紀の世界史的なジェンダー革命の展望を明らかにするための歴史的・理論的考察である。そのためにフェミニズムの古典としてのボーヴォワール『第二の性』と、マルクス経済学の古典としての『資本論』とを比較検討しつつ、マルクスが検討しえなかった歴史と現状の資料、とくに性・生殖史と近現代の人口史の資料によって『資本論』を再検討することが直接の課題である。」
「2015年には予測の結果はほぼ判明しているので、予測に失敗した場合には一切の自己弁明をせず、筆者の学問的方法論、認識論まで含めた根本的な自己批判をすること、これが学問上の意味での「笑い者」のなり方である。」
真正面から直球勝負、いいですね。かっこいい現代思想家の威を借りて、キャリアを駆け抜けていくより、よほどいいです。
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大越愛子『フェミニズム入門』、ちくま新書、1996年。
京都にいた頃に買ったのに、まともに読んでいなかった。13年ぶりに読みました…。やっぱり好きになれませんでした、とても残念ですが。
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シモーヌ・ド・ボーヴォワール『女性と知的創造』(朝吹登水子+朝吹三吉訳)、人文選書2、1967年。1966年の滞日講演集。
セルジュ・ジュリエンヌ=カフィエ『ボーヴォワール』(原書1966年 岩崎力訳)、人文選書6、1967年。
ジョゼ・ダイヤン監督『ボーヴォワール――自身を語る』(映画1979年 朝吹三吉+朝吹登水子訳)、人文書院、1980年。
アリス・シュヴァルツァー『ボーヴォワールは語る――『第二の性』その後』(原書独語版1983年)、平凡社ライブラリー、1994年。
村上益子(ますこ)『ボーヴォワール』、清水書院、センチュリーブックス「人と思想」74、1984年。
佐藤泰正編『フェミニズムあるいはフェミニズム以後』、梅光女学院大学公開講座論集第28集、笠間選書163、1991年。以下二篇、視点は興味深いが…。
常岡晃「フランス文学におけるフェミニズムの諸相――スタンダールとボーヴォワールを中心に」
広岡義之「女性の現象学――ボイテンディクとボルノーに学びつつ」
クローディーヌ・セール『晩年のボーヴォワール』(門田眞知子訳)、藤原書店、1999年。
『第二の性』五十周年記念出版。
Tuesday, June 30, 2009
いろいろな成功
アーセナルのベンゲル監督「成功にはレアル・マドリーとは違う切り口もある」
スポーツナビ - 2009/6/30 11:07
アーセナルのアーセン・ベンゲル監督は仏紙とのインタビューで、レアル・マドリーからの監督就任要請を断り、アーセナルの描く将来のプロジェクトに賭けた理由を明かした。
「レアル・マドリーは(スター選手の獲得により)スペクタクルなサッカーを目指している。だが、チームの成功には別の角度からの切り口もある。若手選手を 登用しながら、クラブ独自の確固たるスタイルを築き上げるというやり方だ。わたしは『若いチームとともにプロジェクトを遂行する』というアーセナルの哲学 を選んだ。わたしの喜びは、“自分の好むサッカーを体現すること”であり、このチームで最終目標を達成したいと思っている」
ベンゲル監督は一方で、レアル・マドリーが移籍市場の相場を超える金額でクリスティアーノ・ロナウド、カカを獲得したことについては理解を示した。
「彼らへの支出が異常な金額に見えるのは分かるが、投資する者としては、将来的な収益源として試算してのことだろう。時には道徳面からの意見を無視し、収益性の観点から物事を見る必要もある」
とはいえ、ベンゲル監督は「相次ぐ選手獲得は戦術面でのリスクにもなりかねない」との見解も示した。
「レアル・マドリーの場合、さまざまな要素がうまく機能すれば対戦相手に大きなダメージを与えることができるだろう。だが、3人以上の選手を一度に獲得することは戦術面でのリスクを負うことにもなる。とりわけ、不確定要素が多い(ゴール前の)ゾーンで悪影響が出がちだ」
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