Wednesday, June 23, 2021
Tuesday, June 22, 2021
2021年6月下旬
ロンドンWS発表準備の週
6月23日(水)朝:ゼミ、午後:ゼミ、その後、発表準備
6月24日(木)朝:翻訳、★本務校・対面授業再開。午後:授業、夜:その日のうちに火曜のミニレポ採点終わらせる。
6月25日(金)朝:翻訳、午後:授業、夜:発表準備
6月26日(土)朝:発表準備、午後:合同ゼミ、夜:発表準備
6月27日(日)朝:発表準備、午後:PBJ-DI研究会
自著完成の週
6月28日(月)朝:ゼミ、午後:授業、夜:木のミニレポ採点
6月29日(火)朝:ゼミ、午後:授業、夜:金のミニレポ採点
6月30日(水)朝:ゼミ、午後:ゼミ(+学内業務)、夜:査読1
7月1日(木)朝:翻訳、午後:授業、夜:査読2
7月2日(金)朝:病院➡翻訳、★佐大へ対面授業再開。午後:授業、夜:自著完成
7月3日(土)朝:10:00-西日本哲学会・編集委員会、(自著完成)15:00-理事会(代理出席)
7月4日(日)自著完成、火曜のミニレポ採点
ベルクソン、ソレル論完成の週
7月5日(月)朝:ゼミ、午後:授業、夜:木のミニレポ採点
7月6日(火)朝:ゼミ、午後:授業、夜:金のミニレポ採点
7月7日(水)朝:ゼミ、午後:ゼミ、B-S論完成
7月8日(木)朝:翻訳、午後:授業、B-S論完成
7月9日(金)朝:翻訳、★佐大へ。午後:授業
7月10日(土)火曜のミニレポ採点、B-S論完成
7月11日(日)木曜のミニレポ採点、B-S論完成
Sunday, June 20, 2021
ベルクソンにおける「正しく理解された自己利益(intérêt bien entendu)」
政治哲学や社会思想史の専門家にもご参加いただき、ベルクソンとソレル、ベンヤミンについての発表をした。その中でソレルの『創造的進化』評論を取り上げたのだが、ディスカッションで「ベルクソンはintérêt bien entenduについてどう考えていたのか」と質問を受けた。
intérêt bien entendu(正しく理解された自己利益)は、19世紀の政治思想史のなかではどちらかと言えば批判の対象となることの多かった概念だということであった。例えば、たまたまネット検索で目についた杉本竜也さんの「市民的主体性と地方自治」(法政論叢48巻2号)にはこうある。
《しかし、再三記しているように、問題は人々の積極的な関与が期待できないデモクラシーでは、そのような共同体は実現困難だということである。
そこでトクヴィルは「正しく理解された自己利益」(intérêt bien entendu)という考えを持ち出す。彼は、人々が私利を追求することをいったん容認するかわり、私利の追求を公益の実現〔と〕結び付けることで個人的欲求を適正化することによって、個人主義を克服し、公共性を実現することを企図した。この転換を可能にするのが共同体における公的実践であり、これこそが個人主義に陥った人々を公共性へと導くことができる、現実に採用しうる数少ない選択肢だとトクヴィルは考えた。
ただ、トクヴィルにとって、正しく理解された自己利益を前提とした社会・政治理論は次善の策に過ぎない。というのも、彼の中には”経済”というものに対する拭い難い不信感・警戒感が存在していたと思われるからである。》 (123頁)
要するに功利主義的社会観・道徳観の中心に「経済」をどう評価するかということがあったわけである。
ソレルの『創造的進化』評論は、この点についてというわけではないが、ともかくもベルクソンの生命哲学のこの経済学的側面を鋭く指摘している。
「ベルクソン氏が自らの考えを明確にしようとするとき、しばしば経済学者たちから、利便性(commodité)や最小の努力(le moindre effort)、正しく理解された自己利益(intérêt bien entendu)に関する諸々の考察を借用している(例えばpp. 123-124、p. 143)。道すがら膨大な数の失敗について語るとき、ベルクソン氏が経済学に負っているものに気づかなかった人はいないだろう(p. 141)」(第一論文p. 279)。
これは、ソレルの視点から『創造的進化』の論法が浮き立たせられたおかげで出てきた質問であり、普通に生物学的議論だけを追いかけているとほぼ見えてこない翻訳の問題である。
実際、原書Quadrige版p. 133に対するこれまでの訳はこうなっている。
つまり、動きやすくなることは動物にとりまぎれもなく利益(intérêt bien entendu)であった。さきに適応一般に関して述べたように、種の変形はその種特有な利益(leur intérêt particulier)というものからつねに説明されるはずである。変異の直接原因がそこから示されるにちがいない。けれどもそのようにして与えられるものはしばしば変異のごく皮相な原因にすぎないであろう。深い原因は生命を世界につき入れる衝力にある。(真方敬道訳、岩波文庫、1979年、164頁)
それゆえ、動きやすくすることは、動物の真っ当な利益になる。適応一般について述べたように、種の変化をそれぞれの個別的な利益によって説明することは常に可能だろう。このようにして人は変異の直接的な原因を与えることだろう。しかし、このようにして与えることになるのは、たいてい変異の最も表面的な原因だけだろう。深い原因は生命が世界に放った推進力である。(合田正人・松井久訳、ちくま学芸文庫、2010年、171頁)
動物の関心事は、だから言わずもがな、自らの運動能力をさらに際立たせることにあった。適応一般について先に述べたように、種の変化を、それぞれの種の個別の関心事によって説明することはできるだろう。それを形質変異の直接的原因と見なすことはできるだろう。しかし、こうして説明される直接的原因というものは、もっとも表層的な原因でしかない場合が多い。その奥に横たわる原因は、生命活動をわれわれの世界に出現させた衝撃力であり…(竹内信夫訳、白水社、2013年、157頁)
太字で強調した二つの語は、以上の経緯を踏まえれば、ほぼ同義語として捉えてよいということになるだろうか。いやはや、まだまだ修行が足りない、と反省するとともに、自分のフィールドの外に出て話を聞いていただくことの大切さを改めて実感した次第である。ディスカッションに参加いただいた方々、本当にありがとうございました!
Thursday, April 29, 2021
いただきもの(2019年-2020年)
寄川条路『教養としての思想文化』、晃洋書房、2019年10月10日。
高校生から読めるように間口を広くとった語り口ながら、特に、第4章第6節でヘーゲルと西田の弁証法を比較しているあた
上枝美典先生より2020年にいただきました。
(勁草書房、2020年9月20日)
「知ること」について知ることの重要性は、一方で「知識をあまりにも性急に欲するので、知識それ自体につい
私の教えている環境では、どちらの罠も切実な問題です。「無知の
「ものすごくそれを必要としているのに正面からそれについて考え
現代認識論は、正統的な哲学の嫡子ですね。
もしかしてこれが初めてですか!?びっくりしてしまいました。
私にとっては、まずはバディウとともに叢書Ordre philosophiqueの責任者を長らく務めていたこと、次に150名近くの執筆者を束ね
このテーマ(ノスタルジー)は、いつもどこかで心にかかってい
https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/b
一昨年の夏、友人の遺品を整理していて、森先生のご著書が何
Friday, April 16, 2021
Monday, March 29, 2021
Wednesday, March 10, 2021
2020‐2021年度の業績
刊行物としては実にごく短い報告文が一つと情けない限り。他方で、研究発表は7つ:ベルクソン研究が4つ、結婚の脱構築が2つ。「かゆみの哲学」という新たな方向性が1つ。英語やフランス語での発表がなかったことも反省点の一つ。
①単著【報告】「知的冒険とは何か――講演会へのイントロダクション」(第29回国際文化学会報告:久保田裕之「未来の結婚を哲学する――『最小の結婚』監訳者にきく結婚の脱道徳化と民主化」への導入として)、『九州産業大学国際文化学部紀要』第77号、2021年3月、35-36頁。
①単独発表「ベルクソンとリズムの問題」(日仏哲学会春季・秋季合同大会シンポジウムⅡ(秋季)「リズムの哲学:ソヴァネ、ベルクソン、マルディネ」、オンライン会議(zoom)、2020年9月13日)
②単独発表「声の肌理をどう翻訳するか――ベルクソンのコレージュ・ド・フランス講義『時間観念の歴史』翻訳について」(第 46 回ベルクソン哲学研究会:『時間観念の歴史』&『物質と記憶』刊行記念ワークショップ「ベルクソンの翻訳をめぐって」、ZOOM会議、2020年10月4日)
③単独発表「分身と分人――哲学と文学のあいだで」(日本フランス語フランス文学会2020年度秋季大会ワークショップ「分身――その増殖のプロセス」 、ZOOM会議2020年10月25日)
④単独発表「ベルクソンCdF講義を導入する」(PBJ(Project Bergson in Japan)主催「ベルクソンと現代時間哲学『コレージュ・ド・フランス講義1902−1903年度 時間観念の歴史』合評会」、ZOOM会議、2020年11月21日)
⑤単独発表「結婚の脱構築――ヘーゲル、キルケゴール、マルクス」(明治大学大学院・教養デザイン研究科での特別講演、動画配信、2020年12月)
⑥単独発表「触覚をめぐる最近の哲学的考察(デリダ、伊藤亜紗)――痒さの哲学に向けて」(科研費・基盤(B)《「ポスト身体社会」における芸術・文化経験の皮膚感覚についての横断的研究》(課題番号19H01207)研究会、ZOOM会議、2021年3月11日)
⑦単独発表「図式論と生――ベルクソンとハイデガーにおけるカント解釈をめぐって」(実存思想協会 2021年3月春の研究会講演会「ベルクソンとハイデガー――「時間観念の歴史」をめぐって」、ZOOM会議、2021年3月14日)
⑧単独発表「ベルクソン人格概念と英米哲学接合の試み(仮)」(PBJ-DI分析系分科会、ZOOM会議、2021年3月29日)
3/11 平芳幸浩科研での発表「触覚をめぐる最近の哲学的考察(デリダ、伊藤亜紗)ーー痒さの哲学に向けて」(クローズド)
私の発表では、①デリダの『触覚』を使って伝統的な哲学的触覚論
3/14 実存思想協会シンポジウム「ベルクソンとハイデガー —「時間観念の歴史」をめぐって」@ZOOM
実存思想協会2021年3月春の研究会
シンポジウム(15:00~17:00)
藤田尚志氏(九州産業大学)
峰尾公也氏(早稲田大学)
司会
村山達也氏(東北大学)
趣旨:
Sunday, January 10, 2021
【WS発表要約(ロング・バージョン)】分身(double)と分人(dividuel) 文学と哲学のあいだで
WSの記録としては1000字の要約になるので(3月くらいに仏文学会cahierの中に公開予定)、ここにロング・バージョンを公開。
分身(double)と分人(dividuel)
文学と哲学のあいだで
藤田尚志(九州産業大学)
本発表では、とりわけ19世紀の文学や絵画、音楽において大きく取り上げられた「分身」を根本的に近代的な形象として捉え、「分人」という現代的な形象との対比のうちにその本質を浮き彫りにすることを試みた。
「分身」の読解格子としておそらく最も有名なのは、精神分析的観点であろう。フロイトは、ドッペルゲンガーとは死(自我の消滅)への恐れという原初的な自己愛(ナルシシズム)から生じた防衛機制であるとするランクの見解を拡張し、心的な検閲を遂行する「超自我」的機能(良心の声)や、抑圧された無意識の欲望を回帰させる「エス」的機能まで分身に負わせていた(cf. 中山元『分身小説論』)。自我・超自我による上方・側面からの検閲・抑圧であれ、エスによる下方からの突き上げ・沸騰・横溢であれ、いわゆる「局所論」として名高い精神分析的図式は、「分身」を精神の垂直的分裂の帰結として捉えている。
精神分析に代表される近代的な読解格子では、分身は、同一の自分であるはずの個人が何らかの形で二重化した姿として捉えられていたが、ポスト構造主義的読解は「私こそが他者の分身である」と主張する。ドゥルーズは『フーコー』(1986年)において、「フーコーに常に執り憑いていた主題は、分身(double)の主題である」と喝破した。「他者」といっても、絶対的な超越性が問題となるのではない。一見断絶と見えたものも襞の折り畳みにすぎず、垂直的分裂と見えたものも、実際には水平的折り畳みにすぎない。「分身」は他者の内在化として新たな姿を現したのである。
しかしながら、20世紀後半以降、分身は、大衆文化・サブカルにおいては依然として根強い人気を誇るものの、もはや哲学的・理論的な関心を引かなくなっているようにも思われる。ドゥルーズは、1990年6月13日の日付をもつジャン⁼クレ・マルタンへの手紙の中で「私はシミュラークルという概念を完全に捨て去ったように思います。この概念には大した価値がないからです」と述べていた。これは、シミュラークルという概念が実効性を失ったからではなく、むしろそれが現代社会を覆いつくしたからではないか。オリジナルが模造に対して圧倒的な価値をもっていた前近代、複製技術の到来によりオリジナルと複製の差異が曖昧になっていく近代、そして私たちが現実世界で見ているものよりも、バーチャルリアリティの世界のほうがリアルな力をもつ現代――例えば、カーナビは現実の道路を見ているわけではないが、現実への介入力という意味では、実際の道路を目視で確認していくよりはるかに強力だ――というボードリヤール的図式はよく知られていよう。
近代的な産業社会の成立を通じて人間精神は本格的に個人として共同体と対峙することになり、その緊張・葛藤・対立・矛盾の“効果”として「分身」が生じてきたのだとすれば、現代社会とそこに生きる自我や人間関係の変質とともに、「分身」の形象自体もその読解格子とともに変化を見せることになるだろう。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』(1972年)は、巨視的なマクロの視点から「パパ-ママ-私」の三角形の中に幼児の精神形成やその後の心理的諸問題を押し込める「家族主義」を批判し、微視的なミクロの視点から人間の欲望の多様な流れとそれを織りなす諸々の微細な特異点の動きを規定する「部分対象の論理」の解明を主張した。
このような時代状況の変化とともに、私たちの「自我」の存在様態自体もまた大きな変化を蒙らざるを得ない。ドゥルーズは1990年の「追伸――管理社会について」と題された小論において、その変化の特徴を「分人」という単位の出現に見ていた。「いま目の前にあるのは、もはや群れと個人の対ではありません。分割不可能だった個人(individus)は、分割によってその性質を変化させる「分人」(dividuels)になったのです」。自我の垂直的分裂から他者の水平的折り畳みへという「分身」の読解格子の変化は、「分人」概念の登場と軌を一にしていたのではないか。
だが、「個人から分人へ」あるいは「分身から分人へ」という単線的で不可逆的な図式を思い描くとすれば、それはいささかナイーヴにすぎるだろう。個人/分人は、シミュラークルの三つのフェーズ同様、消滅・交代の通時的関係ではなく、並行・包含の共時的関係にあるのではないか。18世紀の異形の作家レチフ・ド・ラ・ブルトンヌは、私たちの考えでは、分人主義的な作家であり、分人的な思考・文体が現代以前にも存在していたことを証明する格好の存在である。ル・ボルニュは、ルソーとレチフの自伝作品を「『告白』あるいは特異な自我(moi singulier)の対象化」「『ムッシュー・ニコラ』あるいは範例的自我(moi exemplaire)の対象化」として実に興味深い比較を行なっているが、私たちとしては、この対比のうちに「個人」と「分人」の概念的差異を明確にできるのではないかと考えている。発表では、1)「凝縮表現」(raccourcis)か「見せびらかし」(étalage)か、2)「感情が入り乱れて作り出す無秩序な状態を解きほぐす(débrouiller)」か「自然と目の前にある事物によって心や頭に反して引き回される存在として、あるがままに描く」か、3)パースペクティヴが個別化・特殊化(particularisant)の傾向をもつか一般化・全般化(généralisant)の傾向をもつか、4)見事なジャンルの書き分けかラディカルなまでに混淆的な創作物か、といった点について個人主義と分人主義の比較を試みた。
Friday, December 04, 2020
【限定公開】特別講義動画「結婚の脱構築--ヘーゲル、キェルケゴール、マルクス」@明治大学大学院教養デザイン研究科
ヘーゲルに関しては自分なりにかなり、キルケゴールについては少し前進できたかなと思います(マルクスは…)。よろしければご覧ください。
大学のイベント欄
https://www.meiji.ac.jp/humani
ポスター(ここのURLから飛べるみたいです)
https://www.meiji.ac.jp/humaniさらなる発展形は、次の論文に。岩野卓司編『共にあることの哲学と現実――家族・社会・文学・政治(フランス現代思想が問う〈共同体の危険と希望〉2 実践・状況編)』、書肆心水、2017年11月30日、「現代社会における愛・性・家族のゆくえ――ドゥルーズの「分人」概念から出発して」、37-81頁。
12/6 シンポジウム「魂の不死をめぐる系譜-古代哲学と近世哲学のダイアローグ」
西日本哲学会第71回大会が、来る2020年12月5日(土)12月6日(日)の両日、オンラインにて開催されることになりました。
13:00-15:00 シンポジウム「魂の不死をめぐる系譜-古代哲学と近世哲学のダイアローグ」
提題
プラトン『パイドン』はどう読まれたか、どう読むべきか
東京大学 納富信留
啓蒙思想は魂の不死をめぐって何を問題としたのか
佐賀大学 後藤正英
司会
九州産業大学 藤田尚志
Monday, November 23, 2020
11月の活動
11月6日(金)研究室遺品整理その2(松元さん)
ベルクソン国際シンポジウム第一日@オンライン
11月7日(土)研究室遺品整理その3(早淵君・原田さん・勝木さん)
ベルクソン国際シンポジウム第二日@オンライン
11月14日(土)研究室遺品整理その4(伊ヶ崎さん・田中君・冨さん)
某作業2回目:11月18日(水)~25日(水)※23日(月)休
11月20日(金)研究室遺品整理その6(神宮司君・野北君・深耕さん・三村さん)
11月21日(土)ベルクソン『時間観念の歴史』書評会@オンライン開催
11月22日(日)学内業務10:00~15:00?
11月25日(水)久保田裕之先生講演会
11月27日(金)
明治大学大学院・教養デザイン研究科での講義動画作成(キェルケゴール?)
(12月1日より一か月間配信予定)
11月27日(金)京都の某先生と久々に会合。
12月6日(日)@佐賀大学(遠隔開催)
「魂の不死」をめぐるシンポジウム司会
某作業3回目:12月4日(金)~10日(木)
12月19日(土)研究室遺品整理その5(鑑江さん・松下さん)
2月11日(木)・2月12日(金)プレエントランスデー
平芳先生の科研での「皮膚」についての発表(ドゥルーズ?)
2021年3月14日(日)実存思想協会シンポ@オンライン
負債:
1)ベルクソン単著
2)英語論文
Friday, October 23, 2020
10月25日(日)仏文学会ワークショップ「分身―その増殖のプロセス」@オンライン
10月25日(日)仏文学会ワークショップ「分身について」での発表(レチフ?)@福岡大学⇒オンライン開催(提題者:阿尾安泰・相野毅・藤田尚志)
分身―その増殖のプロセス
コーディネーター・パネリスト:阿尾 安泰(九州大学)
パネリスト:相野 毅(佐賀大学)、藤田 尚志(九州産業大学)
分身というのは、月並みな問題のようにも思える。現代においては、文学、芸術のみならず、思想的、社会的問題にもなりうるほか、マンガ、アニメ、ゲームの世界にも見出すことができる。また歴史的に考えても、ナルシスの場合から考えていけば、その射程の広さも感じることができる。
それではこの主題は、そうした広がりの中に解消されていくに任せていけばいいのだろうか。 むしろこのテーマをそうした普遍性から離れて、ある種の特殊性の観点から探究してみたい。というのも、分身という問題が、19世紀以降特に大きな発展を見せていくように思われるからである。歴史的な長いスパンの中に現れる、この不均衡なプロセスに光を当ててみたい。なぜ19世紀以降に急にこの主題が広がっていくのだろうか。18世紀後半から19世紀、20世紀そして21世紀へと至る流れの中で何が変わったのだろうか。
こうした問題はこれまで、文学的な次元から個々のテクストの内的、構造的な分析等を通じてアプローチされることが多かった。確かにそうした方向で研究の深化を図る道もあるだろうが、それに加えて、自己と他なるものが取り結ぶ関係の中にこの問題を広く位置づけながら、 従来とは異なる方向にも探究を向けていきたい。意識に関わる哲学的な観点、また可視性の変貌などをめぐる認識論的なアプローチも考えられるだろう。さらに分身という主題体系が作り出す作品群を享受する層の発生を巡る文化論的探求、政治、社会状況の変化の下での新たなメディアの出現という観点からの分析も想定できるかもしれない。このワークショップにおいては、そうした主題出現の条件、出現をもたらした環境の変容に重点を置いて考えてみたい。
Saturday, September 26, 2020
10月の活動
9月26日(土)午前:学生問題、午後:分身論と翻訳論の準備
9月27日(日)午前:レポート添削、午後:分身論と翻訳論の準備
10月4日(日)第46回ベルクソン哲学研究会@オンライン開催
15:50~17:50 『時間観念の歴史』&『物質と記憶』刊行記念ワークショップ「
10月10日(土)研究室遺品整理その1(佐大組:田村君・髙岡君・安武さん)
10月14日(水)~10月22日(木)※土日を除く、授業を除く9時30分~17時 某作業第1回
10月18日(日)10:00~ 分身論WS打ち合わせ第2回
10月25日(日)仏文学会ワークショップ「分身について」での発表(レチフ?)@福岡大学⇒オンライン開催(提題者:阿尾安泰・相野毅・藤田尚志)
Wednesday, September 09, 2020
Saturday, July 18, 2020
今後の予定
8月25日(火)13時から リズム論打ち合わせ
8月下旬の仕事
9月5日(土)レチフ勉強会での発表
9月13日(日)@京都大学
日仏哲学会シンポジウム「リズムの哲学に向けて」での発表(ベルクソン研究)
10月25日(日)@福岡大学
仏文学会ワークショップ「分身について」での発表(レチフ?)
12月
明治大学大学院・教養デザイン研究科での講義(キェルケゴール?)
12月6日(日)@佐賀大学(遠隔開催)
シンポジウム司会
2月
平芳先生の科研での「皮膚」についての発表(ドゥルーズ?)
負債:
1)ベルクソン単著
2)事典項目
3)英語論文
計画:
1)ベルクソン講義録翻訳
Monday, July 06, 2020
キェルケゴールをJ-POPで
倫理的領域:オフコース《生まれ来る子供たちのために》(1979)
PVも含めて佐藤竹善バージョン (2002)が、ヘーゲル的人倫とキェルケゴール的決断の単独性の両面をよく表している。
一方で、ヘーゲル的人倫は「愛するこの国」の現在を憂い「この国の明日をまた想う」「僕らは今どこにいる」と現状を批判しつつ、「ひろい空よ」と普遍性への高まりを呼び掛ける。「生まれ来る子供たちのために何を語ろう」という言葉から、国家と言っても、市民社会・家族も含めた人倫的共同体のことを指していることは明白である。
大きく手を拡げて 子供たちを抱き給え
ひとりまたひとり 友は集まるだろう
ひとりまたひとり ひとりまたひとり
他方で、佐藤竹善のPVは、少し距離を取って取り巻く人々(水平化?)に対して、一人で弾き語りで呼びかけるという単独者的・決断的側面がより強調されているとは言えないだろうか。傘を差して、若干距離を置いて佇んでいる人たち(信仰の騎士たち?)。
宗教的領域:ユニコーン《すばらしい日々》(1993)
Saturday, June 06, 2020
ハイデガーのキェルケゴール評
《ニーチェをキルケゴールと組み合わせることは、茶飯事になりはしたが、だからといってその疑わしさが減じたわけではなく、ニーチェが形而上学的な思索者としてアリストテレスへの近さを護っているということを見誤っており、しかも思索の本質の誤認に基づいて見誤っているのである。キルケゴールはアリストテレスの名をしばしば挙げてはいるが、彼はアリストテレスに対して本質の上で遠い所に留まっている。なぜならば、キルケゴールはいかなる思索者でもなく、一個の宗教的文筆家であり、しかも数ある中の一人ではなく、彼の時代の命運に適った無双の文筆家であったからである。このような語り方がとにかく誤解というものではないとするならば、彼の偉大さはそこに安住しているのである。》「ニーチェの言葉「神は死せり」」、ハイデッガー全集第5巻『杣径』(茅野良男、ハンス・ブロッカルト訳)所収、創文社、1988年、278頁(GA5, 230)。
