Saturday, October 31, 2009

続く。

ようやく、予定されていたイベントのすべてが終わった。若いさわやかな人たちとの付き合いはいつも楽しい。

しかし仕事はまだまだ続く(まあすぐに大学の仕事に引き戻されるんだけどね)。今日も一つ、岩波の校正を終えたばかり。

1)校正の仕事あと二つ。

2)大学紀要次号の校正がいきなり。なんでこんなに早いの。でも、可能なかぎり直したい。いつまでも、どんな評価に対しても、そこから何かを汲み取る努力を続けたい。

3)11月21日の「ネオジャクソニスム研究会」にお誘いいただいたので、おそらく参加する予定。

4)12月中に、すでに書いたベルクソン/ソレル論文をバージョンアップしつつ英訳。

5)1月までに今回のエリーとのデジャブ・セッションで行なった発表を論文化。

6)来年3月のパリ・シンポのための発表原稿準備。

7)同時期にCIEPFCで、ドゥルーズとグールドについて発表をさせてもらうつもり。

8)同時期にトゥールーズ大学で、ベルクソンについて発表させてもらおうかな。

9)デリダ大学論の翻訳のお手伝い。

Thursday, October 29, 2009

阪大でのワークショップ

昨日は、エリーと私がデジャヴ現象についてのベルクソンとドゥルーズの解釈から出発して、絡み合うセッションを展開。分かる人には非常にスリリングな概念的な探究だったはず。聴衆は少なかったけれど、駒場や本郷の優秀な若手研究者が来てくれたのは嬉しい収穫。中身はこんな感じ。

1)鈴木さんによるDの潜在性概念の要約・整理・幾つかの疑問の提示

2)エリーによるデジャヴの病理学的研究史概観(特にジャネ)、およびBがその中で占める戦略的な位置、彼の解釈のポイント。

3)私のBデジャヴ解釈とメルロの幻影肢解釈の比較

4)エリーによるDのデジャヴ解釈のポイント。ランシエール、バディウによるD潜在性概念の批判

これらの発表は、議論の大筋も含めて、『死生学研究』の特集として収録されるはずなので、お楽しみに。



明日は最後のイヴェント。ベルクソン物理学研究の精鋭・三宅岳史さんが「哲学者の時間は存在するのか」について、現時点での研究の到達点を示し、エリー・デューリングが「現代美術における空間の使い方」のほうへと話を発展させる。一見関係のない話を、司会の檜垣立哉さんがどう絡ませていくのかはお越しいただければ分かります。関西方面の皆様、14時から阪大人間科学部です。ぜひお越し下さい

Monday, October 26, 2009

関連イベント情報

エリー・デューリングの甘いマスクと議論の鮮やかな手さばきに魅了された方は、

28日の東大でのエリーと鈴木泉さんと私のセッション(デジャヴをめぐって)

30日の阪大でのエリーと三宅さんのセッション(現代物理から現代芸術へ)

にぜひ足をお運びください。損はさせません。

詳細は法政ベルクソンHPで。ポスターPDFをクリックしてください。

シンポ無事終了!

昨日、無事にシンポジウムが終了しました。連日、90人以上の方々が来てくださり、おかげさまで、ポール=アントワーヌ・ミケルも懇親会でのスピーチで述べていたように、

「日曜日、午前、雨という三つの悪条件の中、マニアックなフランス哲学の話を聞きに駆けつけてくれた大勢の人に囲まれていると、議論にも自然に熱が入る」

のも自然なことでした。会の成功は、これはエリー・デューリングがやはり懇親会のスピーチで述べていたことですが、

「オーガナイザーや発表者、聴衆にかかっているのはもちろんですが、フランス語でpetits mains(小さな手たち)と言われる人たち、つまり会場運営や大量の資料作成や送迎に携わってくれたこんなにも多くの人々の存在抜きには語れないことですね」

と如実に感じられました。最終日はとりわけ、ヴィデオ・コンフェランスがあり、どうなることかとひやひやしましたが、むしろちょっとしたサスペンス、ほどよく肩の力の抜けた緊張感があって、ジョン・マラーキーのスリリングかつどことなくユーモアのある発表と相まって、これも上々の仕上がりでした。

もちろんすべてに満足しているわけではありません。まず第一に、私自身の発表には自分自身、忸怩たるものがあります。大学の仕事をそつなくこなしながら、完璧なオーガナイズをして、そしてかつ優れた発表をする、というのが目標だったのですが、今回はそのいずれもボロボロでした。中身ももちろんですが、何より、人にはさんざん「長い発表など論外」と言っておきながら、自分がかなり長くしゃべってしまい、相当落ち込んでいます。私は相変わらず長く発表してしまう人を評価しないし、今後は自分が絶対にやらないようにしないといけない、と強く思いました。

また、オーガナイザーとして言えば、やり残したことも多々あります。私の一存ではどうにもならなかったことも、私の意図がうまく伝わらず、結果として実現できなかったことなど、数え上げればきりがありません。そのことについては思うところが多々ありもします。

でも、そうやってでも、自分が正しいと思う方向に、日本のフランス哲学研究が向かっていくことに少しでも尽力できればと思う。もちろん、自分の拙い研究の向上・発展にも日々努力しつつ。とりわけ、シンポの成果を「形」にしていくこと、つまり何らかの形で論文集を出すだけでなく、そこで行なわれた発表、質疑応答の中で示唆された事柄を次の研究課題と して追究していくことも忘れてはならないと思っています。徐々に落ち着いてきたら、この三年間のすべての原稿を読み返し、そこから自分なりに何が引き出せるか、考えてみるつもりです。

今後も、さまざまな形でこの種のイベントに携わっていければと思っています。これで三年間の長きにわたる国際プロジェクトは一応の完結を見たわけですけれども、まさにシンポの仏語タイトル(Tout ouvert=開かれた全体/まったき開け)のように、また次への一歩を踏み出せればと思っています。すでに次の小さな無数のプロジェクトが動き出しているようです。

関わってくださったすべての方々に篤くお礼を申し上げるとともに、

今後ともご支援・ご協力のほどをよろしくお願い申し上げます。

Tuesday, October 20, 2009

シンポ近づく

フランス大使館UTCP、友人たちの掲示板などで宣伝していただいていますが、あと3日で始まります。

前にチームで動くことの重要性を書きましたが、すべての人に過不足なく情報を行きわたらせるというのは本当に難しい。きちんと分業体制を敷いても、必ず境界線上の事例が出てくる。あるいは誰かの(例えば私の)ケアレスミスで、他の誰かに支障が出る。そのリカバリーに努める。そんなことの連続です。水道工事屋かビルのメンテナンス係になった気がします。

例えば、今回は英国とつなぐヴィデオ・コンフェランスなどもあり、慣れている人々には何でもないんでしょうが、準備というか、関係者全部のコーディネーションはけっこう大変でした(です)。双方の大学のヴィデオ・チームがこの種の国際行事をやり慣れていれば問題はないのでしょうが。まあ、こういった一つ一つは大したことのないプロセスの積み重ねが短期間に一挙に押し寄せてくると、けっこうな仕事量になります。大学で働いている人はみな同じようなものでしょうけれど。

そんなこんなですが、中身としてはいいものになっていると思います。ベルクソンだけでなく、フランス哲学の生き生きとした一面を実感したいという方はぜひ会場にお越しください。

Saturday, October 17, 2009

マシュレ『カンギレムからフーコーへ。規範の力』(2009年)

マシュレが新刊を送ってくれた。『カンギレムからフーコーへ。規範の力』(2009年)である。

De Canguilhem à Foucault. La force des normes, éd. La fabrique, 2009.

彼が一番最初に書いた論文は、カンギレム論だった。以来、四十年以上、地味な読解作業を続けてきた人だ。哲学のテクストを「読む」ということを私が学んだのはこの人からだった。「倦まず弛まず」ということを身をもって教えてくれたのもこの人だった。

地味だが、アカデミシャンではない。きらびやかな読解もいいし、渋い訓詁学もいいが、しかし、人々はどうしてこの両者の間には実に広大な空間が広がっていることに気づかないのだろうか。どうしてああも簡単にどちらかに「イカれる」のだろうか。そしてとりわけ、どうして自分なりの「思考のスタイル」――un style de penséeは本書に収められたある論文のタイトルである――を産み出そうと努めないのだろうか。

本書は、1963年の処女論文から1993年までに書かれた5篇のカンギレム・フーコー論を収めたものである。この本を訳すのは私の仕事ではないが、私は彼の処女作『文学生産の理論のために』をいつか訳すだろう。



病院に行ってきた。ここ数カ月胸が苦しく、ここ数日ぜんそくがひどかったから。



ひとつずつ小さいものを乗り越える。

小さい他人を乗り越えるのではない。小さい考えを乗り越える。

大きな流れに身を委ねるために。

Saturday, October 10, 2009

お仕事

・シンポ詳細が更新され、レジュメが公開されております。ご覧ください。これらはこれからも随時アップデートされていきますので、来場を予定されている方は、法政ベルクソンHPのチェックをお願い致します。

・岩波の『思想』12月号がベルクソン生誕150周年記念の特集号になります。合田・金森・檜垣の三先生の対談をはじめ、最新の研究事情紹介など、ベルクソン研究の現在の活況を知ることができます。ぜひお買い求めください。

・数奇な運命(実に奇妙な…)を辿った私の論文も、ようやく公開されました。よろしければ、大学図書館などでご一読ください。

仕事の大半は苦しいだけで何の見返りもないものだが、ときどき嬉しいことがある。
学生が授業を面白いと感じてくれたとき、誰かが自分の仕事を見てくれているとき。
面白い仕事だけが、つまらない仕事の疲れをいやすことができる。

Thursday, October 08, 2009

石の上にも…

大規模でありながら、細やかな神経の行き届いたシンポというのを実現させようと思うと、チームとしての分業体制が整っていないとできない。

正直言って、我々が三年かけて築き上げてきた体制は、もちろんさまざまな瑕疵はあるだろうけれども、世界屈指であると思う。

オーガナイザーの仕事はもちろんけっこうきつい(冗談抜きに…)。しかしそれは措こう。翻訳チーム、通訳チーム、会場整理・コピー・送迎チーム、皆さんそれぞれ本当によくやってくださっている。

例えば、翻訳チームだ。皆さんが会場で何げなく手に取る「海外研究者の発表原稿の翻訳」は、質向上のために、ダブルチェックをかけてくれている。複数人数で互いの翻訳をチェックするのである。

この行程が願わくば、若手研究者にとって(塾のバイトなどよりは)研究に密着したアルバイトであり、かつ多少の研鑽の場として機能してくれると本当に嬉しいと思う。上の世代の「責任」は、研究内容において果されると同時に、まさに「場」をつくりだす――そのための予算を獲得する――という制度的な創造性においても果たされるべきである。



フランス人たちは、一般にシンポを互いの社交の場として考えており、彼らには往々にして、シンポを聴きに来る人たちへの配慮が欠けている。レジュメを一切配らない、とかね。

私はフランス人の同世代の友人たち――上の世代は残念ながら出来上がってしまっていて通じない――に口を酸っぱくして言う、「社交じゃないシンポ、研究の場として機能するシンポをつくらないとダメなんだ」と。一般聴衆に開かれると同時に、研究としても質の高いシンポはいかにして可能か。

そのためには、老・壮・青のどの層が欠けても駄目だ。小さな自我を捨てて、国際的な研究の場をつくりだすこと。それもまた、哲学の一部であるはずだと信じている。とりわけ現在の日本の哲学研究においては、それを強く言うべきだとも。

Saturday, October 03, 2009

ようやく…

ベルクソン・シンポ2009の詳細について、法政ベルクソンHPが更新されました。ぜひご覧ください。

ただ、最後の調整が行なわれており、プログラムの順序など、若干の変更が生じるかもしれません。変更については当該HPで告知致しますので、ご来場の際には必ずご確認のほどをよろしくお願い致します。

苦労した甲斐あって、素晴らしいメンバー、素晴らしい内容のシンポになると思います。フランス語と英語での発表ですが、ペーパーには日本語の翻訳があり、議論には優れた通訳の方々が付き添ってくださいます。多くの方のご来場をお待ちしております。

Monday, September 28, 2009

ホフクゼンシン

研究で三つ心に重くのしかかる仕事があり、それぞれ心理的に滅入って進められないでいる。だが、心はどうあれ、前に進まねばならない。昨日徹夜し、今日も午前二時までかかって、ようやく一つ片付けつつある。

これから明日の授業の準備。残された時間は5時間。二日続きで徹夜することにすれば、の話だが…。

Saturday, September 26, 2009

すばらしい日々

明日は土曜日。たぶんどこの私立大学も似たようなものではないかと想像するのだが、月曜は休みが多すぎるので、その振替授業がある。それが明日である。ちなみに、補講なしの休講は許されない。

今は午前二時、ようやく明日の授業準備を終えた。ドゥルーズのヒューム論(1953)とニーチェ論(1962)をグールドのゴルトベルク(1955)と比較するという試みで、自分的にはかなり満足いく出来栄えになった。

独り疲れて自分の道を行く。

矢野顕子は「すばらしい日々」のカヴァーを何バージョンも残しているが、Beautiful Songs Liveの録音が一番好きだ。「君は僕を忘れるから、僕は君に会いに行ける…」

Monday, September 14, 2009

疲労の披露

日曜はベルクソン哲学研究会@法政大学に出席。身体の調子が悪くてうまく集中できなかったせいか、前の二つの発表は、レベルが高そうだという印象を受けるものの、私の中できちんとした像を結ばなかった。一つ目は空間概念を記憶力と想像力の観点からみるというもの。二つ目は縮約の概念をドゥルーズを越える形でベルクソン哲学の中心に(とりわけMMとECのつなぎ目に)置けないかというもの。どちらの発表も、「知覚」の位置づけはどうなるのかなと漠然と思った。

最後の発表には、ほとんど感動した。山田秀敏さんの「ベルクソンと教養」である。「教養」概念を「エリート主義」から解き放ち、「キャリア教育」にも役立つよう、「ユニクロ的」(山田さん談)なものにしたい、そのためにベルクソンが一肌脱げるのではないか、というもの。私は大筋には完全に同意できる。というか、私が去年書いた仏語論文と目的においてかなり近い。

ただ、気にかかるのは、「教養は無償的であって、「利」と鋭く対立することになる」(4頁)という点である。これは同意できない(そして、この点につながる、教養の技術性(マニュアル化)、教養と社会といった問題系において、種々の反論が生まれるが、それは措こう)。

私の考えでは、「教養」は、ベルクソンで言えば「直観」であり、「利」を求める社会の要請に応えることもあるが、それを目的とはしない。いずれにしても、「利」の要請のありかたそのものをひそかに変えてしまうものである。

教養はモル的なレベルでイデオロギー的に権力と対立するのではない。分子的なレベルで、エリートにおいても、大衆においても、至るところで、さまざまなレベルで作動するものではないか(だから、ポピュリズムの蔓延する現状においては、エリート批判にもあまり賛同できない)。

ベルクソンは知性を「否定」したのではなく、「批判」した、つまり本能との区別を精査した。その結果、彼は知性から本能に向かうのではなく、知性を本能のほうに向き変えた。本能のほうを向いた知性、それが直観であり、ベルクソンが教育論において強調する「良識」や「礼儀正しさ」である。

マニュアル教育の功利性をベルクソン的に「批判」することは決して、即、功利性概念一般の否定ではない。それはむしろ功利性概念の鋳直しへと向かうだろう。功利性概念を鋳直す力、それが効力である。

感動はつかのま疲れを忘れさせ、人を奮い立たせる。あてこすりや厭味は人をよりいっそう疲れさせ、意気消沈させる。

Sunday, September 13, 2009

感謝

土曜日は日仏哲学会@雨の東京。いろいろな方に「大変みたいだね、がんばってね」と声をかけられる。哲学研究や生きることそのものにおいて「遠くへ」行くのは好きだが、最近、哲学研究、つまり生きること自体から「遠ざかっている」なあ、と憂鬱になっていた。諸先輩方、友人たちに励まされるというのは本当に大きい。ありがとうございました。

発表についての所感。行なった質問をざっと書きつけておこう。

午前一つ目:ベルクソン『試論』における空間と延長について。まず時間内に発表を終わらせるということが大前提。別に一分や二分、と思うかもしれないが、一般発表というのは若手研究者の鍛錬の場なので、一分超えてもいけない。少なくとも私はそう思ってやってきた。内容の批評はそのあとの問題。

午前二つ目:ベルクソンにおける「習慣」概念は各著作から表面的に拾い上げてくるとネガティブなものが多いが、生産的・創造的といえる「新しい習慣をつける習慣」がある、というもの。しかし、真に新しい習慣をつけさせるのは、「動的図式」をはらむ「(知的)努力」である。「習慣」はそれに引きずられつつ、それを具現化する「物質」のような側面に着目して研究してみると面白いのではないか。

午前三つ目:ベルクソンにおける「individu個体・個人」概念は、『進化』と『二源泉』の断絶を画するものであって、人間の創造的な側面を表す、というもの。しかし、『進化』の「個体」と『二源泉』の「特権的個人」を同一レベルで論じることができるのか。『二源泉』は「特権的個人」というより、特権的個人を超え出ていこうとする力とその横溢としてのpersonnalité(人格性)を称揚しているのであって、これはindividualité(個体性)と分けて考えるべきではないか。『二源泉』における「個人」はむしろ閉じた社会に見られる「社会―個人」のサーキットの中に見いだされる。「人間種という停滞」こそ、種とは停滞であると言いながら、人間種の勝利をほぼ手放しで謳歌していた『進化』において、きちんと見いだされていなかった次元といえる。

午後シンポジウム:現象学以後のイメージ問題をめぐって、加國さんがメルロ=ポンティ、宇野さんがドゥルーズ、澤田さんがナンシーを論じた。

17世紀以降プラトンのミメーシス批判のミメーシスが続いたが、20世紀に入って、イメージを「本質/仮象」「オリジナル/コピー」の二分法で考えるのをやめ、イメージそのものの持つ力を見いだそうという方向が表れてきた。これはドゥルーズの言葉を借りれば「偽の力」(puissance du faux)というべきもので、今回の三つの発表はいずれも、この力とそれ以前的な問題構成との間の切断線を強調するものであったと言える。

ドゥルーズは最も現代的で、最も映画的な映画の本質として、「偽の運動」ともいうべき「つなぎ間違い」や「非合理的切断」(coupure irrationnelle)によってつくりあげられた「偽の力」を考えており、これは非有機的生気論(vitalisme non-organique)に支えられている。しかし、主体の問題を棚上げにしながら、本当に純粋な「非有機的」生気論を貫徹でき、非人称的で前主体的な超越論的領野を維持できるのだろうか。

加國さんの発表は、「自然的知覚」の優位を説いてきたとみなされるメルロが、実は映画論において技術性(人工的知覚)、とりわけ「モンタージュ」を積極的に取り入れており、ここに現象学的映画論の可能性があるのではないか、というもの。「偽の力」が「モンタージュ」に見いだされている。しかし、メルロの映画論には、「映画の現象学」を可能にするものというよりは、「現象学を映画の用語で語ったもの」という意味で、「現象学の映画」という印象を受ける。現象学は「偽の力」を受け止めることができるのだろうか。真理との関係を完全に断つことができるのだろうか(この点で、ベルクソンが真と偽のはざまにある「デジャヴ」を取り上げたのに対し、メルロが主体的知覚の「真」を支える「幻影肢」を取り上げたのは興味深いことである)。

ナンシーは「偽の力」を、イメージの裸形、イメージそのものの露呈というほとんど唯物論的な語り口で、イメージの眼差し、何も眼差してはいない眼差しが、にもかかわらず、主体を成立させる、といわんばかりである。ここで登場してくる主体は、近代的な主体とどう違うのだろうか。

Friday, September 11, 2009

ルーキーイヤー

ちゃんとしたブレイクを入れなければと思いつつも、じりじりと仕事を進めている。塵のように降り積もっていく、大学の仕事を一つ一つ片付けていく。会議、書類、研修会、書類、訪れる学生の話を聞く、書類。その合間に、シンポ準備、授業準備を進め、論文の校正をし…と要するに、ごく標準的な大学教員の生活を送っている。

自分が特別に忙しいと思っているわけではまったくないし、他の人と忙しさ競争をするつもりもない。そういうことではないのだ。ただ、大学のペースに乗って行けない自分が歯がゆいだけである。

前にも書いたが、高卒ルーキーのような気持だ。高校球児だった頃は、プロでも通用するかもと思っていたが、いざプロの世界に入ってみると、技術以前に、基礎体力が決定的に足りないと判明した、というような。

土日は学会、研究会で東京に行く。息抜きになるだろうか、いっそう消耗するだろうか。

月曜から後期が始まる。国際シンポジウムあり、ワークショップあり、講演会ありの十月には一週間休講する。代償は大きい。長丁場をうまくやりおおせるだろうか。

Thursday, September 10, 2009

夢の続き、仕事の続き、ストレスの続き

「シンポの準備」と一言で書いた。二三人の日本人研究者を呼ぶのに大した手間は要りはしない。外国人研究者十人(+日本人十人)を招聘する国際シンポの準備をほんの二三人でやることがどれくらい大変か。傍でいろいろ言うのはとても簡単なことだ。いろいろ厭味を言われても、準備が大変でも、理念的な賭け金があると思えばこそ、やり通すほかはない。夢の続き。

仕事が忙しいのがストレスなのではなく、それらをてきぱき片づけていけないのがストレスなのである。なぜてきぱき行かないのか。相手のある仕事だからである。さまざまな関係の相手に、微妙なニュアンスを要するフランス語の、英語の、ときには超ブロークンなイタリア語で、メールを書き続ける。とても疲れるし、時間も食う。

しかしそれで終わりではない。それぞれの返事を待たねばならない(ここに「持続」がある!)。遅れてきた一通の返事の内容によって(あるいは返事の遅れそのものによって)、状況が一変することもしばしばである。すると、いろいろなことをまたやり直さざるを得なくなる…。

シンポの準備に専念できるならまだいい。ここに昨日書いた一つ一つの作業がのしかかってくる。書いていないたくさんのことものしかかってくる。

そういうわけで、夢の続きを見ているような感覚を半分持ちながら、深夜(早朝?)に起き出して仕事の続きをしている。

一つ一つのこまごまとしたことがストレス要因なのではなく(私はそれほど器の小さな人間ではないつもりである)、それらが絡み合って身動きが取れなくなるのがストレスになる。多分ストレスの原因など、あってないようなものなのだ。

もっと忙しい方は山ほどいらっしゃるというのに、情けない限りだが…。

Wednesday, September 09, 2009

ストレスフル

大学関係
・授業準備ぼちぼち(哲学史の続き、ドゥルーズ入門、ベルクソン入門など)。事務関係ぼちぼち。
・来年、プロジェクト・ゼミという三年生の領域横断的なゼミで結婚論をやる。どうせなので、日本平安文学の専門家、古代ギリシャ社会史の専門家、現代日本の家族社会学の専門家、近代フランス文学の専門家に助けていただきながら、わいわい楽しくやろうと思っている。今はその下準備。

研究関係
・シンポ&edツアーの準備、大詰め。メールにかなりの時間をとられる。
・大学紀要校正大詰め。
・大学紀要次号の締め切りがすでに近付きつつある…。
・雑誌論文2本、大詰め。

・友人の科研に加勢、大至急やらないといけないのだが…。
・仏語アクト、大至急やらないといけないのだが…。
・ゴーシェ翻訳&解説、大至急やらないといけないのだが…。

幾つかの要因で仕事のリズムを作れない。まったくストレスフルな状況。いいかげんにしてほしい。

Thursday, August 27, 2009

ドゥルーズと音楽

講義を準備すべく、ドゥルーズの『アベセデール』を観直している。オペラと題してOの項で語っているのだが、音楽体験についての対話が面白かった。

パルネ曰く、あんたは音楽についてけっこう語っているけど、実際にはほとんど音楽は聴かない(コンサートには行かない)し、ましてやオペラはベルクの『ルル』や『ヴォツェック』だけ好んで聴いている。そして日常的には大衆歌謡、特にピアフ(とかクロード・フランソワ)が好きじゃないかと。

そしてとどめの言葉。映画や絵画についてはまるまる一冊(以上)本を書いているのに、音楽については書いてない。あんたはほんとはvisuelな人間なんじゃないか、と。

これに対するドゥルーズの答えは揺らいでいる。グールドのコンサート・ドロップアウトに関する説明がそうであるように。

・コンサートにほとんど行かないのは、コンサートの予約は展覧会に行くより手間がかかるから。
・コンサートは自分のréceptivitéを超えているから。
・音楽について語るのはきわめて難しいから。

しかし、文章を書いたり読んだりすることの中で、自分にとって最も重要な要素が聴覚的なものである点で、やはり自分は音楽的なのだ、と強調していた。

ドゥルーズと音楽の関係は見かけ以上にねじれた関係なのかもしれない。

Thursday, August 20, 2009

もう一つのD&G

潜水。と書くと、ただただ静かに自分の仕事に沈潜しているかのようだが、現実にはそうはいかない。自分のケアレスミスもあり、シンポの準備は未だに手間取っている。ご迷惑をおかけした方々、本当にすみません。



後期は、哲学史の続き以外に、ベルクソン講義、ドゥルーズ講義をする予定である。時代の雰囲気の中で生きていた哲学者の姿を浮かび上がらせたいと思っているので、時代背景的な話にも力を入れているのだが――「世界史の復習的な要素も入れてもらいたい」というのが上からの要望でもある――、これを準備するのはけっこう時間がかかる。見かけは無駄話風なんだけどね。

ベルクソン講義では第三共和政期フランスや当時のヨーロッパの雰囲気が、とはいえ、陳腐な形ではなく、伝わるようにしたい。というわけで、今は松浦寿輝の『エッフェル塔試論』を読んでいる。「ベルクソンと音楽」については、ドビュッシーだけでなく、シェーンベルクとも比較したい。

また、ドゥルーズ講義では、68年5月をはじめ、第五共和政期フランスの話はもちろんするが、ドゥルーズとグールド――もう一つのD&G――のアナロジーに力を入れてみたい。そういうわけで、グールド関連の本を読み漁り、ディスクを聴きまくっている。ゴルトベルクをランドフスカやヴァルハと聴き比べてみたり。

ちなみに、私が一番好きな彼のディスクは、「モスクワ・リサイタル」である。新ウィーン学派――当時ソビエトでは演奏が禁止されていたという――とバッハという選曲がもろに好みだということもあるが、何よりほどよく肩の力の抜けた(音楽学生である観客との和気あいあいとした関係が伝わってくる)レクチャーコンサートという形式もいい。

これらの講義準備と、8月末締切の雑誌論文、そしてそろそろゴールが見えてきた(?)ゴーシェ翻訳を同時進行している。まあ、地味な自分の道を一歩一歩、ね。

Wednesday, August 05, 2009

なまもの

オランダ二部リーグのVVVでプレーしていた本田は、北京五輪のとき「三連勝する」と豪語したが、チームは三連敗、自身も空回りのプレーが目立ち、「ビッグマウス」のイメージが定着しそうになっていた。

しかし
昨年、そのVVVで大活躍し、見事一部リーグ昇格の原動力となった。その本田が、一部の新シーズン初戦で活躍した。以下のコメントでも随所に「俺様」的ではあるが、同時に自分の実力を冷静に見ることもできていて、「若いっていいな」と楽しい。

スポーツ選手も研究者も「なまもの」なので、常に進化したり退化したりしている。そこを見ないで、「誰それはやっぱりいい」「やっぱりダメ」というのは、あまり意味がない。

「誰も止められないところまで1年で突入したい」と言える気力は残念ながらないのだが、自分なりの努力を続けていきたい。そう心から願っている。

VVV本田「誰も止められないところまで1年で突入したい」 (2/2)
~オランダからの叫び~

2009年8月3日(月)

■オランダで議論「アフェライと本田。どっちが上か?」

 試合後、1ゴール1アシストの本田にオランダメディアが殺到した。(…)

 VVVのファン・ダイク監督は、「これまで『本田がオランダで一番のMF』とわたしが言ったらおかしいと思われていたが、今日はその力を見せつけてくれ た」と本田の活躍を喜んだ。その夜、ファン・ダイクはサッカーディスカッション番組に出演し、「(PSVの)アフェライと本田。どっちが上か?」と問われ た。「2人は違うタイプの選手」とファン・ダイク。「本田はより頭がいい選手だ」

 PSV戦での本田はシモンスのマークに苦しみ、さらにシモンスを援護するPSVの選手の寄せに遭い、ボールを再三失った。しかし、本田はチャンスを待ち続け、少ない好機にビッグプレーを連発し、オランダ人を感嘆させた。そこがファン・ダイクの言う“賢さ”なのだろう。

「(5月31日に行われた)ベルギー代表との試合でもシモンスとはマッチアップしていたし、『お前、分かっているからな』というオーラは感じてましたし、 前半何回か来た。でも、その後は来ないんで、“あ、びびっているな”と思いながらやっていた。悪いけど、おれの勝ちかな。でも今日見た限り、まだまだおれ よりアフェライの方が驚異的かなと感じる。ケン(レーマンス)もアフェライに苦労しているなと感じた。それをもっと、おれがシモンスに感じさせるべき」

 シモンスとのマッチアップ、そして2005年ワールドユース(現U-20ワールドカップ)の同期アフェライとのバトルを本田は振り返った。

「おれとしては満足していない部分がある。点を取ったことは満足しているけど、もっとやれると思っていたから。『本田はオランダリーグでもやれるやん』と いう問題ではないレベルに、おれは突入していかなければと自覚している。極端に言えば、去年の2部リーグでのおれの存在みたいに、誰も止められないという ところまでこの1年で突入していきたい。自分はまだそこまで行けていないと分かっている。それが自分の課題。だからもっとドリブルを増やしたい。若干読ま れている部分はあるけれど、それは評価されていることだからうれしい。それを自分は打開していく」

 今、オランダでは「アフェライはアーセナルへいくかもしれない」という情報が流れている。
「アフェライがPSVを去ったら、本田はPSVに行くだろう」とファン・ダイク。「移籍金は2000万ユーロ(約27億1000万円)だ(笑)」
 ベルデン会長が設定した移籍金は1000万ユーロ。「その価値にふさわしい選手になる」と開幕前に語っていた本田だが、ジョークながらもファン・ダイク によってその価値が2倍になってしまった。そして、PSVのサポーターは今も本田獲得についてフォーラム上で熱く語り合っている。

Tuesday, August 04, 2009

潜水

引き続き、シンポ準備しつつ、大学の紀要に載せてもらう論文の校正をしつつ、テストの採点。

夏休みのしんとした大学で、そういう活動にいそしんでいると、じっとプールで潜水しているような感覚になる。とても心地よい。

午後7時ごろ研究室を出ると、夕日。ひぐらしが鳴いている。

校舎が小高い丘の上にあり、建物から出ると、辺りが一望できる。

近くに山があり、京都の大学時代によく見た風景に近い。

明日も地味に同じことの繰り返し。

本をばんばん出せる研究者というのは、いったいどういう研究生活と家庭生活を送っているのだろう?