Friday, September 14, 2012

大学の時間(2)単位の歴史

つらいことがあっても、前を向いていかないといけない。つらいことを忘れるためにではなく、かつて行なったさまざまな人々とのさまざまな「約束」を記憶しつづけるために。たとえ何があっても。ニーチェは決して「健忘」だけを強調したわけではない。彼は「約束」を単にネガティヴに捉えたわけではない。ルサンチマンの感情=感性としての記憶だけでなく、未来へ向かう意志としての記憶がある。忘れない。恨みとしてではなく、後悔としてでもなく、記憶を保てるか。災厄のために、私たちの過ちのためにもう届かない住所(アドレス)に、それでも手紙(メール)を書く。ルサンチマンからではなく、祈りから。




日本の単位制度小史(1)大学基準  日本の大学の単位制度は、第二次大戦後の194778日、大学基準協会が占領軍総司令部(GHQ)民間情報教育局(CI&E)の影響を受けて制定した「大学基準」にさかのぼる[8]。戦前の日本の大学にも単位制度は存在したが、そこでは単位数が授業時間から算定されていた。これに対して新制度では、学習が教室内でなされるか否かにかかわらず、一科目あたり学生に対して期待される学習時間の総体から算定されている。具体的には、単位数の基準として、1時間の講義に対し、教室外における2時間の準備学習を必要とすること、毎週1時間15週の講義を1単位とすることなどが規定された(「7.授業科目及びその単位数決定」)。この1単位の規定の仕方は、19世紀の終わりからアメリカの大学において徐々に形成されてきたものであり、前述の「科目の自由選択を通した学生の自主性の醸成」という理念と連動したものであった。この新たな単位制には、旧制大学の詰め込み主義を基礎とする監督教育・受動的学習から解放して、自学自修を奨励することで積極的・自発的な勉学活動へと誘う狙いがあった。結果はどうなったのか。
大学基準から大学設置基準へ  戦後教育改革史の専門家であり比較・国際教育学者でもある土持法一(つちもち・ほういち、1945-)によれば、文部省および新制大学の改革を審議した教育刷新委員会の指導者が、学生の自学自習の奨励という単位制の「理念」についての認識を欠いていたため、あるいは、大学改革の中心を明らかに旧制高等学校の再生に置いていたため、単位制は、すでに新制大学のスタート時点から形骸化の兆しがあった[9]。例えば、1科目に対して伝統的な1コマ2時間の連続講義ではなく、1時間の講義を週に何回か行なうことが、教育的配慮の強い(歴史的経緯から強くならざるを得なかった)アメリカ式の単位制では決定的に重要であったが、この「細部」は移入されなかった。依然として社会的・文化的エリート集団であり、旧制高校的「求道」のエートス(それは必ずしも習慣ではない)を身につけた当時の日本の大学人たちにとって、このような教育的配慮およびそのための授業の数量化・細分化は小手先の技術的改善と映ったことであろう。town and gownという言葉があるが、タウンとは截然と区別されたガウンの世界としての「学問の府」ないし「象牙の塔」では、単位数や授業時間などに拘泥することは、学問の蘊奥を究めることに比べれば些事であった。19561022日、大学の自主団体である大学基準協会が入会資格判定基準として示した「大学基準」とは異なり、きわめて基準性の強い省令として、「大学設置基準」(文部省令第28号)が新たに制定される。この省令は、単位算出基準を明確にし、1単位の履修時間を「教室内及び教室外を合わせて45時間」(第26条)という原則規定を初めて明示したが、同時に、「但し」書きを加え、授業に重点を置くことを可能にした。「仏作って魂入れず」あるいはPloughing the field and forgetting the seeds(畑を耕して種を忘れる)というべきか、いずれにしても土持によれば、こうした基本的原則の「例外」措置は、単位制度の特長である「自学自修」の精神を否定し、旧来の授業重視の形態に逆戻りしたもので、単位制度の空洞化の要因となった。
日本の大学における単位をめぐる諸問題  では、戦後はや六十数年を過ぎ、狭義の知的エリート層などとうの昔に消滅し、ガウンがタウンに凌駕されて久しい今日、単位の問題はどうなったのか。当初アメリカ側から(CI&E教育課のウィグルスワースの講演などを通じて)提示された「理念」においては、1科目につき毎週3時間という勉学活動の時間配分はまったく画一的ではなく、大学側は、科目の性格や授業形態に応じて柔軟に対応することが期待されていた。講義科目は授業1時間に対して家庭や図書館で2時間の予習・復習、実験を伴う科目は授業2時間に対して1時間のノートの整理、製図などは3時間の授業といった具合である。だが、学生側が週2時間の準備を必要とするものとして構想された講義が、日本でどれほど行なわれたであろうか。学生にとっては、講義より演習のほうが、演習より実験・実習のほうが準備にはより多くの時間を割いているというのが実情ではないだろうか。また、授業形態は同じでも(例えば、同じ講義科目であっても)、いわゆる「楽勝科目」と、そうでない科目で、「一票の重み」ならぬ「一単位の重み」は異なる。(現在はなくなりつつあるが)休講の多いクラスとそうでないクラスの単位、あるいは少人数クラスと多人数クラスの単位は同じ「価値」を持つのだろうか。学部や学科によって卒業に必要な単位数が大きく違っている場合も(少なくとも大綱化までは)少なくなかった。その一方で、単位制度は科目選択の自由と結びついているにもかかわらず、大学によってはその選択の機会が限られ、ほとんどの学生が同じようなカリキュラムを消化している場合もある。つまり、単位制度史の専門家である清水一彦(1952-)が指摘する通り、同じ1単位の学習の量は、実際には授業形態をはじめとする、さまざまな要因によって著しく異なっており、上に垣間見たさまざまな不公正・不公平の現実は、とりもなおさず一定の学習量を前提とした単位の等価値性の原理がすでに崩壊していることを示すものである[10]

大学の時間(1)アカデミック・クォーター

註は採録しない。詳しくは論文を読んでいただきたい。

アカデミック・クォーター  academic quarterという言葉がある[1]。日本では、「大学の教員がのんびりと15分くらい遅れて授業にやって来る(さらには15分くらい早めに授業を切り上げる)こと」といった意味に理解されていることが多い。本来は、ヨーロッパの幾つかの国の大学で採用されてきた伝統的な時間の捉え方である[2]。それらの大学では、時間割のコマとコマの間に休み時間が取られておらず、教師や学生が教室間(特に離れた敷地にある場合)を移動するのに要する時間を、あらかじめ授業時間内に繰り込んであるのである。ある意味で旧来の大学や大学教師像を象徴するこの奇妙な隙間の時間は今、少なくとも日本の大学では、絶滅の途上にある。
時間と哲学  思えば「時間」はいつの時代も、理論的かつ実践的な思弁の対象であった。すなわち時間は、古代から現代に至るまで常に哲学の主要な検討対象であったと同時に、人間のあらゆる活動、中でもとりわけ労働の合理化・能率化・効率化においては、常に計算し、秩序づけ、要するに統御する対象とされてきたのである。現代フランスを代表する哲学者であり、「脱構築」を提唱したことで知られるジャック・デリダ(1930-2004)は、未来の大学や人文学のありかたについて論じた講演の中で次のように述べている。
みなさんには数時間かけて時間というものについて、つまり純粋に虚構的で計算可能な単位について、時間を統御し、秩序づけ、計算し、物語り、つくり出す、あの「かのように」(虚構とは象徴するものであり、また、つくり出すものです)について話したいところでした。大学では講義、ゼミ、講演が時間ごとに計算されますが、大学の内外で、時間は今もなお労働時間の計算軸となっています。「アカデミック・クォーター」という発想自体、時間に規定されているのです。脱構築とは時間を問いに付すこと、「時間」という単位を危機に陥れることでもあるのではないでしょうか[3]
もし「大学について哲学する」「大学を哲学する」ということが可能であるなら、重要な争点をはらんだ主要なターゲットの一つは「大学の時間を哲学すること」であるに違いない。それは、具体的にはどのような企てでありうるのか。例えば、単位について考えてみることは、「大学の時間」を哲学する一つのやり方でありうる。
時間と単位  そもそも単位(units/credits)とは何か。大学における授業(講義・演習・実験・実習・製図・実技・論文指導など)の履修にかかわる学生の学修量を測るための尺度、学問的作業の文字通りの数量的単位である[4]。「学習」が知識や技能を学び習うことであるのに対し、「学修」はそれらを学び修める(身につける)ことであり、授業時間内だけでなく、図書館や自宅など教室外で行われる予習・復習まで含めた、学生の勉学活動の総体を指す。大学の歴史において、時間を単位とする教授・学習形式はすでに中世ヨーロッパに存在していたが[5]、学生の学修量を時間という概念で測定する単位制度credit system19世紀後半のアメリカで初めて考案された。時は1869年、場所はアメリカで最も伝統があり、常にリベラルアーツ・カレッジの中心的な存在であったハーバード大学。初の非聖職者出身の学長に就任したエリオット(Charles W. Eliot, 1834-1926)は、従来の必修科目制を廃止し、学生による教科の自由選択を認めた科目選択制(elective system)を本格的に導入した[6]エリオットは、学長就任演説の中でこう述べている。
ごく数年前まで、このカレッジを卒業する学生は、すべてただ一種類の画一的なカリキュラムのなかを通過して行った。個人の特性・好みとは無関係に、すべての者は同じ教科を同じ割合で学習することとなっていた。そこでは個々の学生が教科を選ぶことも、教師を選ぶこともなかった。この仕組みは未だ、アメリカのカレッジでは支配的で、その擁護者もまた多い。たしかにそれは単純だというメリットを持っている。……つまり、教育は異なった精神をもった個人の特徴というものに、十分注意を払って来なかった。少年時代に通う学校では、その教科はすべての領域を代表していることが必要であろう。そして知識の主要な領域がすべて網羅されていなければなるまい。しかし、19歳、20歳の青年は、自分が何を好み、何に最も適しているのか知らなければならないはずである。……個人にとって賢明なことは、集中することであり、その個人特有の能力を完全に発展させることである。他方、国家にとって必要なのは、知的産物の多様性であって、その画一性ではない[7]
つまり大学の単位制度は、学生のより自発的でより自律的な学習を推進するための制度としてスタートしたのである[8]。たしかに、大学がそれまでの教育の場と最も大きく異なるところは、学生が自分でカリキュラムを決め、卒業するために必要な単位を自分で管理するという点に存する。そこに大学の魅力の一つがあるとすら言いたい衝動に駆られる。だが、そう断言できない事情がある。もう少し歴史をたどってみよう。

Thursday, September 13, 2012

【クリップ】新卒で年収1500万円も 「スーパー大学生」獲得合戦

もし大学生にしっかり勉強してほしいなら、産業界および文科省は、四年間の「学びの時間」を大学がしっかり確保できるよう側面支援すべきである。そのためには次の三条件が欠かせない。

1)学生が就職活動に使う時間を大幅に削減すること。経団連が倫理憲章を改定 し、「公式の」就職活動の開始時期を大学3年の12月に遅らせた。それ自体は評価すべきことだが、さらに前進させていただきたい。就職活動に大幅に時間を割かれ、一年生から就職活動のプレッシャーをかけられる現在の状況を根本から改善すべきである。「即戦力として「使える」学生を」という事柄自体の是非はともかく、どんな勉強にせよ、まず学びの時間を確保しなければならない。

2)学生がアルバイトに使う時間を大幅に削減すること。学生の自由にできるお金が十年前に比べて三割減だという報告もある。学生の経済状況をもっと安定させる施策を国がとらないかぎり、学生はこれからも授業準備よりアルバイトに熱を入れ続けるだろう。他方で、同時進行的に、学問にようやく関心を持ってきた学生が、親の経済状況の悪化によって道半ばにして大学を辞めていくケースも多発している。「学生が勉強しない」という問題を、学生の意識の問題だけに還元してしまうことは問題を矮小化することにつながる。大学側と学生自身が意識改革に取り組まねばならないのは当然として、経済支援によって改善する可能性のある問題(逆に言えば、経済的な状況の変化がない限り、根本的な変化など望むべくもない問題)は、引き続き大きく改善させていってもらいたい。

3)「大学は四年間遊ぶ場所である」という旧世代の認識を改めること。親や周りの大人が、会社では若手社員に「大学で何を学んできたんだ」と言い、他の場所では「大学では何も勉強しなかったよ」と勲章のように言うのは矛盾している。これには現在、高校生や大学生の親にあたる世代への啓蒙活動が重要であると思う。この二十年間、大学は変わり続けている。大学側も自分たちの変化をもっと積極的にアピールしていくべきなのだろう。

時間はなかったが、今回、この点を少しでも深く考えるために、「大学の時間」という小文を書いた。 

 

新卒で年収1500万円も 「スーパー大学生」獲得合戦

週刊朝日 9月11日(火)7時5分配信
 就職活動の長期化を是正するため、経団連は昨年3月、倫理憲章を改定。シューカツの開始時期を大学3年生の10月から、12月へと遅らせた。だがそうした動きに関係なく、水面下では早い時期から優秀な人材の獲得合戦が繰り広げられている。

 就職支援のエキスパートで、『〈就活〉廃止論』(PHP新書)の著者である佐藤孝治さんもこう話す。

「企業が欲しいと思うような大学生の出現率は、100人募集して5人、つまり5%というのが経験則です。採用の現場では、この5%を巡って熾烈な獲得競争が行われているのです」

 実際、「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングは、学年にこだわらない採用の一環として、今年は現役の大学1、2年生約10人に、卒業後の入社を 認める内々定を出している。"スーパー大学生"を早めに確保し、卒業までの間、ユニクロの店舗でアルバイトしてもらうことで、入社までに即戦力として育成 するのが狙いだ。

 同社広報チームによれば、学生はいずれも目標や目的意識がしっかりしていて、コミュニケーション能力も高いという。他社に流れて入社してくれない可能性はあるが、「そこはやむを得ない」と割り切っているそうだ。

"スーパー大学生"を獲得するため、破格の好待遇を打ち出した企業もある。

 ソーシャルゲーム運営大手のグリーは、来春の新卒採用の大学生と大学院生について、実績と能力に応じ、最大で年俸1500万円支払うことを募集要項に明記した。グリーが狙うのは、新卒でも即戦力になりうる学生だ。

「かつては採用してから1、2年かけて人材を育てる余裕が企業にあったため、いい大学に入っておけば就職はなんとかなりました。しかし競争環境が激化し、 企業は即戦力になる優秀な人材を新卒にも求めるようになった。その結果、一部の学生だけが、優位に働き先を選べる時代になってきたのです」(前出の佐藤さ ん)

※週刊朝日 2012年9月21日号

Tuesday, September 11, 2012

大学(と)産業

1.労働≠人生

経済はたしかに人間の生の重要な一側面ではあるが、すべてではない。労働は人間の活動の一部であって、すべてではない。産業界の要望があたかも定言命法のように社会の至る所に通用する社会は、「労働=人生」と考えることを強制する社会ではないだろうか。今、産業界が大学界に要望していることは、要するに体のいい「人材育成のアウトソーシング」である。

産業界が大学の一つのステークホルダーである以上、「産業界の要望」を聞くのは望ましいことであり、必要なことである。だが、それはあくまでも「要望」であって「至上命令」ではない。大学、特に私立大学は、その点できちんとした認識をもつべきだと思う。

人生が労働のためにあるのではないように、大学は会社のためにあるのではない。大学は会社の人材育成の下請けではない。大学は「労働者」をつくるためにあるのではなく、「人間」を育てるためにある。大学は会社が望む「利益」のはるか先を見て、「人間」を育成しようとするべきだ。

2.社会人≠会社人

産業界と大学は、根本的に異なる価値観をもつ「他者」として、お互いに敬意をもって接したほうがいい。企業人には企業人のエートスがあり、大学人には大学人のエートスがある。ロックミュージシャンのいいところを活かしたいのであれば、彼に会社人のように考え、振る舞うことを求めるべきではない(もちろん、だからといって、そのミュージシャンが傍若無人に振る舞っていいわけでないこと、言うまでもない)。

よく誤解されているが、「社会人」と「会社人」は異なる。「大人になる」「社会に出る」ことは必要だが、それは必ずしも「会社に入る」ことを意味しない。人間にはいろいろな生き方がある。多様性なき社会は貧困な社会である。「社会に出ること」を「会社に入ること」としか学生に考えさせない社会の未来は決して明るいとは言えない。

ミュージシャン、大学人、僧侶、マタギ、羊飼い…。ある種の「河原者」であるかもしれないが、生物多様性から言えば、さまざまな種類の職業と呼べるかどうかも分からない職業についた人間がほどよく混ざっていることが社会として望ましいのではないだろうか。

大学は「会社人」を育てるだけの、会社の下部組織になるべきではない。そして、社会も会社の下部組織になるよう大学に求めるべきではない。


3.待つこと≠富者の特権

今の日本社会には「待つ」余裕がない。そして余裕がないことを振りかざして――「おまえたちみたいに悠長なことは言ってられないんだよ!」という怒号が聞こえてくる気がする――、長期的な利益につながらないことを知りながら、あるいは見て見ぬふりで、あるいは思考停止して、短期的な利益をなりふりかまわず追求しようとする弱肉強食の論理が猛威をふるっている。

「待つ」ことができるのは富者の特権ではない。大企業が良い例である。彼らは富者だが、まったく「待つ」ことを忘れてしまっている。メセナ精神を棄て、死に物狂いで生き残ろうとしている。それが企業の本質であるといえば、それはそうかもしれない(私は企業の未来には別の可能性があると思うが、それを決めるのは企業人だ)。だが、それは必ずしも人間本来の姿ではないし、望ましいあるべき姿でもない。

「待つ」ことができるのは、無為の大切さを知る河原者である。河原者こそは、自ら待つことを学び、またそれを社会に教えることのできる存在である。貴族は道化を手元に置き、殿様は河原者を手元に置いた。それは彼らの異形の眼差しが自らに有益であるかもしれないことを知っていたからである。


4.異文化理解≠外国についての知識

大学人は変わり者であるという。どこの会社にも、どんな大企業にも変わり者がいる一方で、どこの大学にもごく常識的な人間がいるという実に当たり前の事実を今はおいておくとして、なるほど、そうだとしよう。だが、その積極的な意味を忘れるべきではない。


大学には産業「にも」役立つ部分がある。そのかぎりで産学「連携」は積極的に進めるべきだろう。だが、産業に対する大学の「従属」は、産業にとっても、大学にとっても、長期的に有益であるとは思えない。企業の生き死にのためにではなく、人間ひとりひとりの生き死にのために、大学はあるべきなのではないか。人間が文化的に、ということはつまり、異形の眼差しをもって、あるいはもつことは叶わずとも、せめてそれに対する敬意は持って、よりよく生きられるように学生を育てること。それが大学の使命なのではないだろうか。

異文化理解が重要なのは、国際化時代に対応するためではない。あるいは、こう言えばいいだろうか。国際化時代に真に対応しようと思うなら、一番大切なのは、「異形の眼差し」をもつことだ、と。いくらアメリカやヨーロッパ、アジアの異文化に関する最先端の知識を付けても、その知識を元に物事を見る「眼差し」が、「社会に出るとは、会社に入ること」といった「常識」に縛られた眼差しであれば、「異文化理解」の意味は半減する(もちろん、常識が不要だと言っているのではない。常識だけでは物足りない、と言っているのである)。

真の異文化理解とは、ごく身の周りの事柄について異形の眼差しを持てることである。

5.企業と学校の間にある大学

大学、特に私立大学は、一つの産業「でも」ある。それは否定しようのない事実である。だが、大学は、同時に、幼/保・小・中・高などと同様に、人間を育成するかけがえのない場でもある。例えば、法人格をもつ宗教団体は一つの法人「でも」 あるが、それと同時に、見失ってはならない精神的な価値を常に追求するものでもあるだろう。

大学は、企業の世界と学校の世界の間にある。どちらとの連携もおろそかにすることなく、自らの立ち位置を考えるのでなければならないし、社会もまた、そのようなものとして大学を考えたほうが、その社会自体にとって、長期的な視野・大局的な見地から見た場合、より有益なのではないだろうか。

大学に入るとき、「偏差値」や「就職率」は確かに重要な指標であるが、それだけでいいのだろうか。大学を考えることは、社会の未来を考えることに似ている。

【クリップ】九州11公立大、合併案 九経連検討、窯業学部新設も

「日本の経済の将来が不安ですね。今のうちにトヨタと日産とホンダを合併しておきましょう」と大学関係者が有識者を集めて、言ったとする。たしかに日本経済の将来は不安ではあるが、そしてこの合併話にまったくメリットがないと五十年後確実に言いきれるかどうかそれは分からないが、まずもって「余計なお世話」というのがそれぞれの会社の言い分であろう。

九州11公立大、合併案 九経連検討、窯業学部新設も

図:「九州立大学」のイメージ「九州立大学」のイメージ

九州の11の公立大と公立短大を合併して「九州立大学」をつくる構想が持ち上がっている。学生数で九州大に並び、知名度の高い総合大学をめざす試みだ。観光や窯業(ようぎょう)など九州らしい学部を新設する案もある。だが、肝心の自治体側は慎重姿勢を崩していない。

Monday, September 10, 2012

9月上旬

9月上旬(09月01-10日)の課題
①大学業務(緊急)ようやく終了(まだまだ続くけれど)
②紀要論文(大学論・邦語)のバージョンアップ(すぐ)ようやく終了
某邦語論文集(B&L・邦語)のバージョンアップ(9月12日まで)
自著(すぐ)

…うーむ。どうしよう。さらに、すっかり忘れていたが、二つの要旨もそろそろ提出せねば。。

⑤来年6月の南山・結婚論WSの要旨


⑥来年1月の某Festschriftのabstract。完了。rythmesure論を取り上げ直し、ブラッシュアップすることにした。

というわけで、

9月中旬(09月11-20日)の課題

某邦語論文集(B&L・邦語)の1校バージョンアップ(9月12日まで)
自著(すぐ)
来年6月の南山・結婚論WSの要旨



DBP仏語論文化(すぐ)


⑤okBD論文1校(9月末) 
⑥n大学論論文(9月末)

一つ一つの試合を大切に、最高のパフォーマンスを見せられるように。当たり負けしないようなフィジカルをつくって。

Saturday, September 08, 2012

9/11 Alain et la philosophie française

Alain et la philosophie française

Université de Rouen, MDU, Salle divisible Nord, Mardi 11 septembre 2012 9h30-17h30

Journée rganisée par Natalie Depraz et Frédéric Worms, avec le soutien d’Emmanuel Faye, en partenariat avec l’Institut Alain, Les amis d’Alain et Les amis du Musée Alain et de Mortagne
Programme
Accueil : 9h30
Présentation de la journée : Natalie Depraz
Matinée sous la présidence d’Emmanuel Faye
- Emmanuel Blondel (professeur de philosophie au lycée de la Vallée de Chevreuse, Président de l’Association des Amis d’Alain, codirecteur de l’Institut Alain), « Le vertébral d’Emile Chartier : retour sur quelques exemples méconnus »
Discutant : Yves Millou (professeur d’anglais et doctorant à l’Université de Rouen)
- Patrick Attali (professeur de philosophie au Lycée des Bruyères à Sotteville-Les-Rouen et chargé de cours à l’Université de Rouen), « L’art de lire en philosophe un romancier lui-même ‘philosophe’ : Alain lecteur de Stendhal »
Discutant : Audrey Gerlain (allocataire à l’Université de Rouen)
- Philippe Fontaine (professeur de philosophie à l’Université de Rouen), « Le ‘sujet oisif’ et la paresse de la pensée : la critique merleau-pontienne de la conception intellectualiste de la perception selon Alain »
Discutant : Anne Voscaroudis (professeur d’anglais et étudiante en Master II à l’Université de Rouen)
Après-midi sous la présidence d’Annie Hourcade
- Grégory Corman (chercheur à l’Université de Liège) « Enfance, culture, morale. Autour de Sartre lecteur et relecteur d’Alain »
Discutant : Natalie Depraz (professeur de philosophie à l’Université de Rouen)
- Camille Riquier (maître de conférences en philosophie à l’Institut Catholique de Paris), « Sartre et Alain ou la guerre autour de l’héritage cartésien »
Discutant : Philippe Drieux (professeur de philosophie en lycée et chargé de cours à l’Université de Rouen)
- Frédéric Worms (professeur de philosophie à l’Université de Lille, directeur du Centre de philosophie contemporaine à l’ENS, Paris), « Jalons sur la relation avec Alain dans la philosophie du XX° siècle en France »
Discutant : Franklin Nyamsi (professeur de philosophie au lycée de Forges-les-eaux et chargé de cours à l’Université de Rouen)
Présentation d’ensemble de la journée
La présente journée se situe dans le cadre d’un projet de recherche centré sur la figure d’Alain et son inscription dans la philosophie française, dans l’histoire du début du XXème siècle, à la fois locale et globale, ainsi que dans sa réception littéraire dans les pays européens limitrophes.
Cette deuxième journée prolonge une première rencontre organisée le 10 avril dernier à l’Université de Rouen par Hervé Boillot et Natalie Depraz, avec le soutien d’Emmanuel Faye et en partenariat avec l’Institut Alain, Les amis d’Alain et Les amis du Musée Alain et de Mortagne, consacrée à « Alain et l’enseignement de la philosophie » et dont les conférences sont disponibles en ligne sur le site de l’Université de Rouen (http://www.univ-rouen.fr/audio/inde...)
Notre « propos » dans le cadre de cette deuxième rencontre est de mettre en lumière, à travers quelques philosophes qui l’ont précédé ou suivi, le mode d’inscription d’Alain dans la philosophie française, son originalité, mais aussi ses liens de filiation avec quelques auteurs du XIXème siècle notamment, tout autant que son impact pour certains phénoménologues français.

Friday, September 07, 2012

Cahiers de philosophie de l'Université de Caen, N° 49 : Levinas : au-delà du visible : Etudes sur les inédits de Levinas des Carnets de captivité à Totalité et Infini

Cahiers de philosophie de l'Université de Caen, N° 49 : Levinas : au-delà du visible : Etudes sur les inédits de Levinas des Carnets de captivité à Totalité et Infini

Emmanuel Housset et Rodolphe Calin : Présentation
Jean-Luc Marion : Préface – Les inédits de Levinas : la genèse d’une pensée
Michael Levinas : Introduction – La transmission posthume. L’écriture désespérée,
l’écriture inspirée : les Carnets de captivité et autres inédits
Dossier de la soutenance de thèse d’Emmanuel Levinas
Présentation
Notes d’Emmanuel Levinas
Annexe 1 : Résumés de thèse par Emmanuel Levinas
Annexe 2 : Rapport de Gabriel Marcel
Annexe 3 : Compte rendu de Jacques Taminiaux sur Totalité et Infini
Jacques Taminiaux : La genèse de la publication de Totalité et Infini
L’essence du langage
Danielle Cohen-Levinas : La phénoménologie et son double. Le son parle, la parole sonne
Dan Arbib : De la phénoménologie du son à la phénoménologie du visage
Rodolphe Calin : La métaphore absolue. Un faux départ vers l’autrement qu’être
Marc Faessler : Métaphore et hauteur
Francis Guibal : En chemin vers le sens du langage
Captivité et transcendance
François-David Sebbah : La débâcle ou le réel sous réduction. La « scène d’Alençon »
Zinaida Sokuler : La possession, la chose et le sujet : la théorie du besoin dans les
Carnets de captivité
Bernhardt Casper : « Salut n’est pas l’être » : pour comprendre la confrontation de
Levinas avec Heidegger, à travers les Carnets de captivité et autres inédits
Emmanuel Housset : Le monde cassé et le moi comme exil
Désir et amour
Carla Canullo : Penser à l’envers : la genèse du renversement de la philosophie chez
Emmanuel Levinas
Corinne Pelluchon : Le monde des nourritures chez Levinas : de la jouissance à la justice
Henrik Vase Frandsen : L’enseignement et le soi
Gérard Bensussan : De la « signification corporelle du temps »
Résumés
Notes sur les auteurs

Saturday, September 01, 2012

夏のいただきもの

法政大学出版局様より

『ベルクソン書簡集 I 』(合田正人監修/ボアグリオ治子訳)、法政大学出版局、2012年7月20日。


岩野卓司先生より

別冊水声通信『セクシュアリティ』、水声社、2012年7月30日。


村上靖彦先生より

『レヴィナス――壊れものとしての人間』、河出ブックス048【現代思想の現在】、2012年8月30日。


川口茂雄さんより

『表象とアルシーヴの解釈学――リクールと『記憶、歴史、忘却』』、京都大学学術出版会、プリミエ・コレクション23、2012年8月31日。


どれも私の研究に直結するものばかりで、大変ありがたいです。さっそく読ませていただきます。

Friday, August 31, 2012

8月下旬

08月21-31日

上旬より積み残しの課題:
①紀要論文(大学論・邦語)のバージョンアップ
②某邦語論文集(B&L・邦語)のバージョンアップ

中旬より積み残しの課題
①自著
②大学業務
③DBP仏語論文化

下旬にやったこと:大学業務と紀要論文のバージョンアップ(二校)。秋シンポの件も依然終わらず。

(たぶん多くの人には「大学業務」の一言に込められた重さは伝わらないだろうし、「シンポの件」の一言に込められた様々な思いも伝わらないだろう。でも、それはしょうがないことだ。)

自著も、ほんの少しずつではあるけれど。


9月上旬(09月01-10日)の課題
①大学業務(緊急)
②紀要論文(大学論・邦語)のバージョンアップ(すぐ)→⑦へ
自著(すぐ)
某邦語論文集(B&L・邦語)のバージョンアップ(8月末)→⑥へ
DBP仏語論文化(8月末)→⑥へ
⑥okBD論文バージョンアップ(9月末) ⑦n大学論論文(9月末)

9月以降の予定
⑨BF邦語発表(10月末)→⑩へ
⑩BF仏語論文(11月末)→⑬へ
⑪デリダ邦訳(12月末)
⑫某Festschrift英訳(1月末)
⑬パリ災厄シンポ(3月)

⑭仏文隠喩論WS(5月)
⑮南山結婚論WS(6月)