Tuesday, February 15, 2011

15/02/2011 Journée "Bergson et ses usages"

Journée "Bergson et ses usages"

Journée d’étude internationale EuroPhilosophie – Université de Toulouse – 15 février

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Journée organisée par Hisashi Fujita (scholar boursier EuroPhilosophie) et Arnaud François (coordinateur local EuroPhilosophie à l’Université de Toulouse)

Université Toulouse II-Le Mirail, Maison de la recherche, salle D 31

15 février 2011, 9h-18h

9h : Hisashi Fujita (Université Kuyshu Sangyo, Japon) : « Désir et joie : deux philosophies politiques de la vie (Deleuze ou Bergson II) » (titre provisoire)
10h : Su-Young Hwang (Université Hallym, Corée du Sud) : « L’évolution et la contingence : l’évolutionnisme de Bergson en comparaison avec R. Dawkins et S. Jay Gould »
11h : pause café
11h30 : Yasushi Hirai (Université de Fukuoka, Japon) : « Les événements changent-ils ? Bergson contre McTaggart »

13h : déjeuner

14h30 : Takuya Nagano (Kumamoto National College of Technology, Japon) : « L’arithmétisation bergsonienne de la durée : pour une confrontation de sa philosophie avec la relativité »
15h30 : Paul-Antoine Miquel (Université de Nice-Sophia-Antipolis) : « Épistémologie non fondationnelle et métaphysique de la nature »
16h30 : pause café
17h : Pierre Montebello (Université Toulouse II-Le Mirail) : sur Bergson et Deleuze (titre à préciser)
17h45 : discussion générale

voir également le site des Nouvelles philosophiques.

Saturday, February 12, 2011

【報告】パリ・シンポ「アジアにおける現代フランス哲学」

今回のシンポジウム(正確に言うとJournée d'études)は、CIEPFC(現代フランス哲学国際研究センター)とEUroPhilosophie(エラスムス・ムンドゥス)の共同企画である。

アルノー・フランソワと私のco-organisationであるが、プロジェクト自体にゴーサインを出し、ENSのSalle Dussaneという非常にいいところ――2007年のベルクソン・ワークショップの第一セッションが開催された場所。アルノーは「君が発表した場所だね」と懐かしく思い出してくれた――を用意してくれたヴォルムス教授に感謝したい(ENSの哲学部門のサイト上でも宣伝してくれていた!)。また、企画の成立に奔走してくれたアルノー・フランソワに、co-organisateurとして本当に感謝している。

一つ目は、檜垣立哉先生(大阪大学)による「ドゥルーズにおけるバロック的時間の理論に向けて」。本当は「賭博の哲学」でお願いしていたのだが、諸種の事情があったようで変更になり、とても残念。ドゥルーズの時間論と、西田の時間概念、ベンヤミンの歴史概念は交錯しうる、というお話。

討論者カミーユ・リキエも、「これは日本というヨーロッパから遠く離れた視点を持つことによってしかできない発表」と誉めていたし、エリー・デューリングもいい質問――ベルクソンに対するバシュラールの批判に見られるような、非連続性をどう考えるのかという問題は、この三人の時間概念に共通している気がす る――を放ってくれていた。

二つ目は、鈴木泉先生(東京大学)による「リトゥルネロとポップ音楽」。ドゥルーズ哲学において音楽、次いでリトゥルネロ(反復)概念が占める位置を厳密に再構成した後、ポップ音楽における「リフ」のもつ役割の分析が要請される地点まで。具体的な分析に踏み込む一歩手前で終わってしまったのが残念。

討論者エリー・デューリングは、スティーヴ・ライヒのギターのリフを使った作品を聴衆に聴かせてくれ、何が問題となりうるのかを具体的に感じさせてくれた。そのうえで、「作品」概念について――いいリフと悪いリフがあるのか、あるとすればどのように――質問した。アルノー・フランソワはディープ・パープ ルのSmoke on the Waterとデューク・エリントンの「A列車で行こう」におけるリフを取り上げ、ロックとジャズにおけるリフの持つ意味合いの違いについて質問した。

三つ目は、安孫子信先生(法政大学)による「コント『実証哲学講義』におけるパスカルの三回の登場」。デカルトは(批判されるべき)「先駆者」としてコントによってたびたび名指されているが、パスカルはほとんど登場しない。しかし、ブルデューに至るまで「社会的なものの思想家」としてフランスの思想界で取 り上げられるパスカルがおり、フランス社会学の淵源にいるコントにとってパスカルは無視できない存在である。

討論者フレデリック・ケックは、デカルト的「進歩と秩序」の、つまりは「実証主義」を合理主義の枠内で取り上げる旧来のコント像ではなく、パスカル的社会 的なものの思想家コントを描きだそうという野心的な試みを評価。ヴォルムス氏は、パスカルに対して、デカルトを「プレ・モダン」と分類する安孫子氏独自の解釈の意味について質問した。

四つ目は、スヨン・ファン先生(韓国・Université Hallym)による「コンディヤック、メーヌ・ド・ビラン、ラヴェッソンにおける自然発生性(spontanéité)から意志(volonté)への 移行」。18世紀末のディドロら唯物論的な動きと並行して、生命のまさに生命的な部分に着目した研究。

討論者クレール・マランは、フランスでも数少ないラヴェッソンの専門家であり、ヴォルムスともsoinに関する現代医学的・治療的観点から共同研究を行なっている人物。現代医学との関係について質問。ヴォルムスは、単なる受動性と見られていたものの中にすらも、自然発生的・意志的努力があるというフランスのある種の伝統を思い起こさせてくれたと指摘した。

最後に、藤田尚志(九州産業大学)による「結婚の形而上学とその脱構築」。結婚に関しては人類学的・社会学的・政治経済的・文化的・フェミニスト的・ポス コロ的研究はあっても、哲学的観点からはあまり見られない。この「結婚における哲学的な居心地悪さ」をもたらしている現代的な歴史動向と切り結ぶために は、アクチュアルな現状の分析ではなく、古典的で形而上学的ですらある諸概念を脱構築する必要があると強調。「契約」「優先性」「個人性」の三概念をデリ ダ、アドルノ、ドゥルーズとともに分析することを試みた。

討論者ジョゼッペ・ビアンコは、発表の中でフーコーに言及しつつ、積極的に活用しなかった理由を尋ね、ドゥルーズを活用することで、現代的な結婚の要請――安定性と流動性の両立――に効果的・実質的な政治的介入をもたらしうるのかと問うた。エリー・デューリングは「積極的に主張しうる定理は何か」、ヴォルムスは「キェルケゴールについてなぜ語らないのか」質問した。

このシンポジウムは近々、ENSのサイトで録音が公開されると聞いている。関心がおありの方はぜひどうぞ。



主題が「アジアにおけるフランス現代哲学」ということで、聴衆は少なめ。来てくださったのは、日本人留学生の方々、日本関係のフランス人、および今回の関係者という感じだった。いかに日本で知られている先生方であっても、フランスでまったくの無名である以上、これは致し方ない。「非関係者」であれ、「関係者」であれ、聴きに来てくれたごくわずかな人々が、発表や議論自体を――発表だけそこそこよくてもダメである。議論ができなければ。このことは強調しておく――心底 「面白い」「またぜひ聴きに来たい」と思ってくれるようになるまで、努力を続けていかねばならない。

そのためには、内容はもちろん、発表の長さや発表の仕方――発音の聞き取りやすさ、話の組み立て――など、すべてにおいて高いパフォーマンスを目指す必要がある。

今回、聴きに来て下さった方々がどう考えるにせよ、私たちはベストを尽くしたと思っている。それでも、まだまだ足りないことは自分が一番痛切に感じている。これからもさらなる進歩を目指して精進していきたい。まだ何も手にしてはいないし、まだ何も始まってはいない。

さて、次は15日のシンポ。

Thursday, February 10, 2011

10/02/2011 La Philosophie française contemporaine en Asie

LA PHILOSOPHIE FRANCAISE CONTEMPORAINE EN ASIE

Jeudi 10 février 2011

Centre International d’Étude de la Philosophie Française Contemporaine (CIEPFC) et Master Erasmus Mundus EuroPhilosophie

LA PHILOSOPHIE FRANCAISE CONTEMPORAINE EN ASIE

Journée d’étude internationale organisée par Hisashi Fujita et Arnaud François

École normale supérieure

Jeudi 10 février 2011, 9h-17h30, salle Dussane


PROGRAMME

Matinée : présidence : Frédéric Worms

9h : ouverture, par Hisashi Fujita et Arnaud François

9h15 : Tatsuya Higaki (Université d’Osaka, Japon) : « Le temps du pari – la contingence et la vie » (répondant : Camille Riquier)

10h15 : Izumi Suzuki (Université de Tokyo, Japon) : « Philosophie de la ritournelle : Deleuze et la pop music » (répondant : Élie During)

11h15 : pause café

11h45 : Shin Abiko (Université Hoseï, Tokyo, Japon) : « Les trois apparitions de Pascal dans le Cours de philosophie positive » (répondant : Frédéric Keck)

13h : déjeuner

Après-midi : présidence : Shin Abiko

14h30 : Su-Young Hwang (Université Hallym, Corée du Sud) : « Le passage de la spontanéité à la volonté chez Condillac, Maine de Biran et Ravaisson » (répondante : Claire Marin)

15h30 : Hisashi Fujita (Université Kuyshu Sangyo, Japon) : « La métaphysique du mariage et sa déconstruction » (titre provisoire) (répondant : Giuseppe Bianco)

16h30 : discussion générale.

voir également le site des Nouvelles philosophiques.

Friday, February 04, 2011

ヨーロッパ大学の未来

De : antonio negri

For more information, see the site of Edu-Factory: http://www.edu-factory.org

Dear Friends,

Next weekend (11-13 February), there will be a conference here in Paris on European university struggles which will see the participation of many groups and collectives from England, Italy, Spain, Russia, Slovenia, etc.. The discussion will talk about the crisis of the university within the context of the global political and economic crisis and will critically examine various prospectives of reform. In this sense, the discussion will aim at creating a autonomous political alternative to the capitalist management of the European university.

We hope you can participate and that you will circulate this invitation.

Cordially,

Antonio Negri

Thursday, February 03, 2011

若書き

私が昔(2003年)書いて放り出していたものが、知らないうちに引用されているのは、うれしいような、恥ずかしいような。この「論文」に関しては、見知らぬアメリカ人から突然メールをもらったり、いろいろなことがあった…。いつかちゃんと書こうと思っているうちに、時間はあっという間に過ぎていく。若手研究者の皆さん、ご注意を。

Wednesday, February 02, 2011

英語論文

メンフィス大学が出している老舗の雑誌The Southern Journal of Philosophyが、来年2012年で創刊50周年を迎えるとかで、何号かにわたって大規模な祝賀的特集を組むらしく、そのうちの一つ - "Continental Philosophy: What and Where Will It Be?"に書かないかとしばらく前にお誘いが来て、興味のあるテーマだったので引き受けることにしていたのだった。締め切りは9月1日。

大陸哲学の未来…。外してもいいから、思いきり何か独創的なものでいくか。それとも、おとなしめでいくか。迷うことはない。前者で行くに決まってますね(笑)。

今まで二度、英語の論文を出したが、それらはいずれも仏語から誰かに翻訳してもらったものだったので、今度こそ拙くても自分の英語で書くぞと決意(でも時間がなくなってきたら日和るかも…)。

さっきsubmitの仕方を説明してくれるメールが届いた。権利関係の書類など、本当に煩瑣だ。英語で書くというだけで面倒くさいのに…。

そのメールにその号の執筆者リストと思しき人々の名前があって、メンツを見てびっくりしている。もちろん比較的若手も混じっているが、いわゆる「世界標準」な比較的若手ばかりである。どうして私の名前が入っているのだろう?あの人とか、この人とか、他にいくらも適任な人がいるような気が…。うーむ、誰が推薦してくれたんだろうか…?

ダウン

あれからダウンしてしまった…。かなりの熱が出て。いまも体調不良。
少し良くなってきたかと思うと、次の症状が現れるの繰り返し。
気分の浮き沈みも激しい。

その中で、論文を一本どうにかこうにか終らせ(本当にダメダメ)、
大学の仕事をし続けていた。

Thursday, January 27, 2011

悪寒

26日(水)。体調が徐々に悪化。夜、食後、悪寒と吐き気。薬を飲んで、すぐ眠る。

27日(木)
。小康状態。本問題は、次のような「変化」あり。

ROISSY INTER CHRONOPOST
Consignment received at destination country

Chronopost France
Consignment left depot Customer Service Dept.

しかし、まだ油断はできない。銀行問題も結局まだ解決していないし…。

Wednesday, January 26, 2011

講義

25日の夜、それほど遅い時間ではなかったのだが、AFの家に泊めてもらう。巨大なカテドラルが聳えていて、二階の窓から見渡せる。しばし静かに語り合って、就寝。

26日(水)。AFは朝8時半から授業だということで、7時起床。なんと哲学専攻の学部3年生向け「講義」は、4時間!8時半から12時半まで…。この学年は(ストの影響などもあり)人数が少なく10人ということもあるのか、「講義」だが、ひたすらゆっくりスピノザの『エチカ』を読み進めていくのだという。いやはや、すごい…。最初にしっかりイントロをやってから入るのかと訊くと、「いや、それをやってしまうと、学生たちが読解格子を手軽に入手して、あとは「読む」という作業をしなくなるから、マシュレのようにいきなり地道に読むという作業をさせるつもりだと言っていた。

ちなみに、私たちの間では、マシュレの評価は高い。これは直接教えを受けた者の影響だろう。地味と言われようが、無味乾燥と言われようが、平凡と言われようが、それらの非難をすべておおむね承諾したうえでも、それでも彼には魅力がある、としか言いようがない。そういうものだ。

講義の話に戻ると、気になるのは、学生のモチベーション。学生はついてくるのかと言ったら、ちゃんとついてくるよ、と。実態はどうなのか、無理を承知で、今度授業を見せてもらうことにした。昔から言っているのだが、フランスにおけるこの種の基礎的な哲学教育に関する知識とか経験を持っておくことは、自分の研究対象に関する最新情報を入手するのと同じくらい、あるいは場合によってはそれ以上に、大事だと思う。

そして、ふたたび本問題。なぜこの問題を解決するのにこれほど時間がかかるか分からないが、とにかく一日経っても何の返事もないので、大学の事務方に助太刀をお願いした。

Tuesday, January 25, 2011

日々の課題

25日(火)。 相変わらず本は止まったまま。まず、フランスの郵便局のEMS(フランスではChronopostという)のHPにあったUbiFranceの電話番号に電話。一通り説明すると、「担当につなぎます」。いかにも不慣れな新人という感じの声に不安を覚えつつ、もう一度最初から説明。すると、頼りなさ気に「ここじゃありません。ここは税関でどんな問題があったか把握した後で、その対応に対して、法的に何か措置を講じなければならないときに対応する機関で…」。そんなこと知らないよ。じゃあ、なんであなたにつながれたわけ?!ひとしきり弁明を受け、要するに、彼女もどこにかけたらいいのか知らない、と。自分でロワシー空港の税関の電話番号を調べろ、と。それでもまだ「誠実」な対応なのでいいけれど、税関相手だとそうはいくまい…。

税関の電話番号を何とか調べて、かけると、案の定、ストレスに満ちた声。こちらは外国人で、ゆっくり、理路整然と説明しているのに、初めから聞いていない。「factureをもっているか?」と聞かれ、「factureって何のfacture?たしかに、Sender's copyっていうのは持ってるけど」。「だから、factureをもってるんだな?」「まあ、factureっていうのかもね」「じゃあ、それを送ってくれ」「でも何で?自分の本なのに?」「でも、お前さっきfacture持ってるって言っただろ」「いや、だから、Sender's copyを持ってるって言ったでしょ」「とにかく、後で担当者から明日にでも電話させるから」。ガチャン。

その二分後、担当者から電話。Eメールアドレスを教えろと。教えると、その数分後に、メールが。
そこで、私の荷物は「商品の輸入」と勘違いされているということが判明。仕方がないので、自分用に使う研究書の郵送であると説明したメールを出した。

あー、もう…。

他方で、銀行のカード問題はようやく終結しそう。さっき、大学のほうに連絡があった。ふう。
こんなことであっという間に半日潰れてしまう。これが海外生活なんだよなあと思い出してみたり。

今日は夜、エラスムスの学生たちとの初顔合わせ&久しぶりにGSBに会う予定。
それまで、もう一仕事。

Monday, January 24, 2011

近況

21日(金)。夕方、試験の採点をしていると、JCGが現れた。いつものように、怒涛のように喋りまくり去っていく。私は毎週火曜日2・3時間の講義をやることに決まった。

今関心を持っている三つの軸を少しずつ進めていきたい。
1)ベルクソンとドゥルーズの対比。
2)哲学と大学。エラスムスの学生たちには特に「制度」に対して敏感であってほしいので。
3)生の哲学の延長としての「結婚の脱構築」。

23日(日)。AFと昼食。Place Saint Georgesにあるおいしいレストランでこの地方のおいしいものを。



2月10日、トゥールーズで、永野さん、平井さん、ミケル、ファン、モンテベロ(?)とベルクソン・シンポ。

2月15日、パリで、安孫子先生、鈴木先生、桧垣先生、スヨン、私の発表に
ケック、リキエ、ヴォルムス、アルノー・フランソワ、エリー・デューリングなどが応答者
になってくれる「アジアにおける現代フランス哲学」シンポ。

3月28日、パリで、西山さんのCIPhセミナーの枠内で喋らせてもらう。デリダの大部の大学論について話す予定。

詳細は時期が迫ってきたら告知します。

Sunday, January 23, 2011

手紙は必ず届く…?

出発前に大金をはたいて出したEMSがまだ届かない。日本の郵便局HPで追跡調査してみると、ロワシーの税関で18日以来ストップしているらしい。今日はフランスのポストHPで調べてみると、
Scan site:Roissy - Paris - FR
Comment:Contact with sender or consignee in progress
Consignment stand by: documents missing (invoice or customs documents)
Consignment stand by: awaiting additional information

うーむ、必要な本だけを厳選して送ったのに…。送り返されたり、ロストしたら、今回の研究滞在に甚大な影響が…。

読書三昧

21日(金)、晴れ。こっちに来たからといって大学の仕事から完全に解放されているわけではまったくない。試験の採点に追われる。

22日(土)、曇り
。週末だからといって仕事ばかりできるわけでもない。生活基盤を整えるべく、引き続き大きな買い物に従事。とても疲れる。

…さらに一昨日くらいから寒くなり、今日はとても寒い。あまりに寒いので、天気をチェックしてみた

トゥールーズの最高気温   最低気温   東京の最高気温   最低気温
16日(日)    13℃       0℃        6℃        0℃
17日(月)    15℃       3℃        10℃       1℃
18日(火)    14℃       5℃        10℃       1℃
19日(水)    10℃       2℃        10℃       3℃
20日(木)    7℃       -1℃        9℃        3℃
21日(金)    5℃       -2℃        8℃        3℃
22日(土)    1℃       -4℃        10℃       3℃

私がトゥールーズに到着したのが15日。気持ちのいい日曜のマルシェを散歩したのが16日。
うーむ、一週間経たないうちに19℃くらいの差を体験したわけか…。



それでも日本にいるときに比べて、集中的に本を読めるのはありがたい(大学の関係者の皆様に感謝!)。最近読んでいる(読み直している)本。

Jean-Claude Monod, Sécularisation et laïcité, PUF, coll. "Philosophies", novembre 2007.
私が現在、ライシテにアプローチする際に最も参考になる著者(ただし、非常に読みにくい)。「アプローチ」に関しては参考になるが、最終的な「読み」はかなり違う。この人の本は翻訳されていいと思う(私はやりませんが…)。

Jean-Louis Vieillard-Baron, La religion et la cité, édition augmentée et corrigée, éd. du Félin, coll. "félin poche", septembre 2010.
数年前に出た初版は読んだ(博論で批判的に言及した)のだが、それに新たに二編の論文を追加したようだ(訂正がどの程度に及んでいるかは、初版を持参していないので不明)。気持ちいいくらい、あらゆる歴史家・社会学者に喧嘩を売っている超反動的な本。特にゴーシェは目の敵にされている。しかし、慎重に取り組むべきテーゼもある。

《宗教なき社会は、社会なき宗教をもたらす。[…]ひたすらに社会学的な宗教概念は、宗教的事実を説明しない。すべてを社会的機能によって説明しようと望むのは、我々の時代の病である。》

この一節は吟味に値するテーゼを含んでいると思う。

Pierre Manent, Le regard politique. Entretiens avec Bénédicte Delorme-Montini, Flammarion, septembre 2010.
専門家には大切な著者だと思うが、私はあまり関心を持てなかった。

Alexis de Tocqueville, De la démocratie en Amérique, tome I, préfacé par François Furet, GF Flammarion, 1981.

トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第1巻(上)、松本礼二訳、岩波文庫、2005年。

島薗進『宗教学の名著30』、ちくま新書、2008年。

19世紀から20世紀にかけてのフランスにおける「宗教的なもののゆくえ」について執筆するという無謀な企てを何とか遂行するべく、基本的なお勉強のし直し。

羽田正編『世俗化とライシテ』、UTCPブックレット6、2009年。
これは素晴らしい本。要点が非常にコンパクトにまとまっている。現在、UTCPのサイト上で無料ダウンロードできるのが信じられない。どこかの出版社から正式に出版して、もっと広く読者の目に触れるべき本。

Thursday, January 20, 2011

大学へ

20日(木) ようやく大学へ。12時、A.F.とメトロのEsquirol駅で待ち合わせ。久しぶりの再会を喜び、友人たちの近況を尋ねる。

大学(Université de Toulouse II Le Mirail)に着くと、さっそくMaison de la Rechercheに案内してくれる。「覚えてる?」「もちろん!」2007年に日仏『創造的進化』ワークショップをやった場所だ。

今回私が最もお世話になるであろう場所はその裏にあるPavillon de la Recherche。「ここから世界中にErasmusの情報を発信してるんだけど、味気ない建物だよね(笑)」とA.F.。ここに研究室というか、勉強部屋を与えてくれた。

彼はdoctorantsの博論計画報告会があるとかで、昼食をP.M.と食べる。いきなりドゥルーズvsベルクソンについての議論を戦わせる。ラプジャッドとか、ソヴァニャルグとか、ギヨームらのドゥルーズ解釈についても、だいたいP.M.と同意見。はっきり言って、こういう展開は大好き。世間話は最低限でいい。

昼食後、P.M.は試験監督へ――フランスの大学教授も大変だと愚痴をこぼしていた(笑)。エラスムス一期生のM.N.さんも報告するとのことだったので、少しでも聴こうかと会場へ向かったのだが、ちょうど終わったところだった。少し挨拶をして、A.F.に中央図書館と学部の図書館に案内してもらう。

A.F.が即座に手紙を書いてくれ、図書館カードがその場で発行される(本を借りられる)。ここらへん、日本のアドミニとの違いではなかろうか。日本のアドミニは通常は早いが、何につけても杓子定規だ。フランスのアドミニは通常は遅いが、コネがあるとものすごく速い。

それにしても、DEAの学生としてフランスに来たのが2000年だったから、あれから十年。生活環境も研究環境も一から、いやゼロから自分の手で作り上げねばならなかったあの頃と比べると雲泥の差だ。遠くまで来たなあ、と思うと同時に、まだ本当に何も手にしていない、と改めて実感。遠くへ、もっと遠くへ。

さて、生活環境も(ほぼ)整い、研究環境も(ほぼ)整った。あとは研究活動を開始するだけ…。

Wednesday, January 19, 2011

説明しようと思って、本を読むんです

今の大学で教えるようになってから、「分かりやすく、しかしなるべく本質的な部分を削らないで、説明する」ということに腐心するようになった。というわけで、「winwin対談 池上彰さん ニュースの本質を一生懸命つかもうとする」。興味のある方は、全部読んでみてください。下は、授業準備のときの読書姿勢と重なるところがあるなと思う部分。

説明しようと思って、本を読むんです

佐々木

月並みな質問で恥ずかしいんですけれども、お忙しいのにそんなに本を読んでいる時間っていうのは……。

池上

時間はね、こういうと大体の人に納得していただけるんですが、私は酒が飲めないんですよ。

佐々木

私も飲まないのですが、何なんでしょう(笑)。でもお酒の時間といっても、NHKの時代って、番組にもよりますけど、勤務時間がそんな短いわけでもないですよね。

池上

長いです、長いですねえ。でも行き帰りの電車の中で往復2時間あれば、本、一冊ぐらい読めますよね。勉強方法って 気がついたんですけど、なんかね、この話がわからないから理解しようと思って読んでもなかなか理解できない。あるいは時間かかるんですね。これを人に説明 できるようにするためにはどうしたらいいかって思っていろんなものを読むと、非常に理解が早いんですね。

日銀ってなんだろうかって勉強しようと思って読むと、なんかやっぱり経済学難しいでしょ。こう、時間かかるし眠くなりますよね。日銀を子どもに説明しよう、さぁ、どうしよう、銀行の銀行ってどういうことなのか、なんてやってくと、理解度が進むんですよね。

佐々木

重要なところを抜き出す力がでてくるってことですね。

池上

そうですね。目的意識を持って読むわけでしょ。自分が理解するのと、人に説明するだけ理解できるって理解度に物凄く差がありますよね。

Tuesday, January 18, 2011

アブラハム・結婚・ギャッツビー

こちらに来てから、買った本など。

ちなみに、Le Monde des religionsのサイトはこちら

最初にスーパーに行ったとき(15日(土))、地元の新聞La Dépêche du Midiの一面の隅に、

Toulouse: Le Pacs détrône le mariage (トゥールーズ:パックスが結婚を廃位する)

という文字が目に飛び込んできた。中身に何ら目新しいことはないが、détrônementという言葉は強いので、何かあったのかと思ったのだ。中見出しを見ると、

Le Pacs dépasse le mariage On se marie autant qu'il y a dix ans à Toulouse malgré l'explosion du Pacs

で、ずいぶんおとなしくなっている。さらに、記事の本体になると、

Stabilité des mariages, multiplication des Pacs

と要するに、何の新味もない記事だと確信できるタイトルに…。
まあ、これについては項を改めて。

ちなみに、写真中央の記事によれば、今フランスの労働市場でトゥールーズが熱い注目を浴びているのだそうな。



飛行機の中でThe Great Gatsbyを観たと書いたが、15日にFNACで、偶然そのフランス語新訳が出ていたのを見かけ購入。

Francis Scott Fitzgerald, Gatsby, Nouvelle traduction par Julie Wolkenstein, P.O.L, 2011.

P.O.L――私のように無知な人間にとっては、ゴダールの脚本を刊行していた出版社として記憶に残っている――のサイトをのぞいてみると、訳者のビデオ・コメントと、最初の20頁ほど試読できるようになっていた。ご関心のある方はどうぞ

なみに、フランス語ではこれまで二つ訳が出ていたそうで(1945年と1976年)、タイトルはいずれもGatsby le magnifiqueであったらしい。この「伝統的」なタイトルも、Le grand Gatsbyという、より直訳的なタイトルも採用せず、ただ『ギャッツビー』としたのは、満足いく翻訳が見つからなかったため。『ギャッツビー』愛好家たちはずっとこんな風に略してきたし、そもそもフィッツジェラルド自身、決してThe Great Gatsbyというタイトルを気に入っていたわけではなく――彼はこの作品の商業的失敗を、後にこのタイトルのせいにした――、『ギャッツビー』は候補の一つであった。彼がそうしなかったのは単に、1922年に発表されたシンクレア・ルイスのベストセラー『バビット』との混同を防ぐためであった…。

「私はこれまで他の小説を翻訳したことはないし、これからもおそらく翻訳しない。この翻訳はある出会いの結果であり、この本との唯一の恋物語の結果だから」。

Monday, January 17, 2011

日曜の午後

16日(日) 昼すぎに家に帰ってきて、買ってきたリエットをパンに塗って、簡単に昼食を済ませる。

その後、ふたたび買い物に。今度は近くのépicerieというか、ミニスーパーでちょっとした買い物。

(日曜日は基本的にほとんどの店が閉まっているが、アラブ系の人がやっていることが多い、小さな商店は日曜もやっていたり、普段の日も夜遅くまで開けていたりする。)

晩ご飯のために、charcuterieでgratin dauphinois(ジャガイモの生クリームかけグラタン)とanchois(油と酢漬けアンチョビの開き身)を購入。しかし、その他の日用雑貨を売っているミニスーパーが結局見つからず、歩いてcentreへ。

普段はバスに乗るのだが、歩いても20分くらい。というか、フランスにいると、よく歩くようになる気がする。車も自転車も持っていないのだから、まあ半ば必然なのだが…。

写真はマルシェが開かれていたサントーバン教会やその周辺のもの。

中心街まで出たのはいいものの、あまり買えるものはなく、結局こまごました物をちょっと買い、疲れ切ったので、カフェでお茶をして、退散。

カフェはキオスク(フランス語でもkiosqueという)にもなっていて、前にフランス滞在していた頃によく買っていたLe Monde des religionsを購入。私が留学していたころに創刊されたもので、その頃はまだ一ケタ台だったのに、今は45号。時間の経つのは早い…。ちなみに特集は、janvier-février 2011 no. 45: "Dossier: Abraham le patriarche".

夜は買ってきたお惣菜で簡単に済ませる。

寝る前のひとときに読書できるのは久しぶり。といっても、疲れに勝てず、すぐに寝てしまうのだが…。村上春樹の「著者初の本格的音楽エッセイ」、『意味がなければスイングはない』(文春文庫、2008年)を少し読む。

マルシェ

夕食会のときに聞いたフランス語メール表現については、こちら。夕食会が終わったのが夜11時。それからシャワーを浴びて、倒れるように就寝。

1月16日(日) 9時くらいに起床。外は昨日よりさらにいい天気。近所のboulangerieで買ってきたパンをゆっくりと食べる――以後もきわめて基本的なフランス語が出てくるが、あくまでも学生のフランス語勉強用なので悪しからず。

ジャンさん宅の「離れ」=私の仮の住まいはこんな感じ。この家のすぐ前には偶然、bananier japonaisが植えてあり、その隣にはブドウの木(蔓?)が。季節柄、どちらも枯れていたけれど。

11時ごろ、ジャン・ドミニック夫妻に連れられて、近くのマルシェへ。奥さんのドミニックさんは生物学者だそうなので、「虫なんかが太陽に向かう性質はなんというんでしたっけ?」と歩きながら質問。答えは…

héliotropique(向日性)。日曜の散歩は向日性で。

歩いていると、レンガ造りの巨大な建築群。casernesらしい。トゥールーズのそれは、ただ軍隊ではなく、légion étrangère(外人傭兵部隊)が一時的に駐留する、少し特殊な場所らしい。年々数が減少し、巨大な兵舎の大半が空いているそうだから、今年の寒波でSDFたちが苦しんでいた時、彼らに場所を開放してやればよかったのに、とドミニックさん。

15分ほど歩くと、marchéへ到着。日本でもそうなのだが、市場での買い物というのはどうも苦手だ。では、スーパーでの買い物が上手かというとそうでもないが…。

とりあえずこういうところの定番、rillettesを一瓶購入。

ああ、そうそう、日本では食べない、ウサギやハトもこちらでは食べるので、食用としてマルシェで売られている。生きたままのものも、そうでないものも…。

野菜。懐かしい名前。endive, fenouil, artichaut, etc. etc. 果物。oranges amèresなんて名前のものもあるんだなあ。おいしそうなclémentineを幾つか購入。ちなみに、写真の女性は無関係。

食べ物だけでなく、ありとあらゆる雑貨類が売っているのは、日本と同じ。飛行機に置き忘れてきたニット帽と手袋の代わりをここで購入。質はお世辞にもよさそうとは言えないけど、今はとにかく風邪をひかないことが一番。

Sunday, January 16, 2011

到着(ブラニャック空港からカラス通りへ)

朝靄に包まれたトゥールーズのブラニャック空港(aéroport de Toulouse Blagnac)に朝8時半ごろに到着。空港では大きな荷物を受け取るのに、またも運良く早めに受け取ることができた。

早い時間にもかかわらず、温厚なほほ笑みとともに出迎えてくれたのは、応用物理学者のジャン・Mさん。豊かな白髪と白い髭をたくわえた小柄な初老の姿は、まさに科学者。

12月の中旬ごろに、物理学者でエピステモローグでもあるジャン=マルク・レヴィ=ルブロン氏の講演会で通訳を務めたとき、まだ家が決まっていない、フランス側のアドミニの対応は日本側のそれとずいぶん違うように思うという話をしたら、親切にお友達を紹介してくださったのである。レヴィ=ルブロンさんも温厚そのものという感じの人だったが、ジャンさんも本当に親切な方である。なんというか、このお二方が友人であるというのが必然以外の何物でもないという感じがする。



ジャンさんの車に荷物を積み込み、彼のお宅へ。お宅はカラス通り(rue Jean Calas)。フランスの街路の名前は、たいてい歴史上有名な人物の名前がとられており、簡単な説明が添えられている。たとえば、rue Blaise Pascal, physicien du XVIIe siècleという感じ(この説明が妥当かどうかはともかく、実際そう書いてあったのである)。

Jean Calasという名前にはvictime de l'intoléranceという説明が添えられている。…とここまでで誰だか分かった人は(学部生なら)なかなかのもの。ヴォルテールが介入する「カラス事件」の犠牲者である。

(カラス事件とは…知りたい方はこちら

ジャンさんのお宅の庭の片隅に離れがあり、ここに住まわせてもらえることになったのである。離れとはいっても、二階建てで、キッチン、トイレ、シャワー完備(一階がジャンさんの研究室)。二ヶ月半という中途半端な期間の滞在で問題になるのは、meubléを探すことだが、彼らはかなりの生活必需品を揃えてくれていた。

もちろん、それでも買い足していかなければならないものはあるが、ゼロからすべて、というのとは天と地の開きがある。ただ、ひたすら感謝、である。

おなかが減っていたので、朝食をいただき、しばし歓談。その後、部屋で荷解きをして、昼前に中心街へ。昼食を済ませて、まず入ったのが、大型書店FNAC(笑)。久しぶりにフランス語の哲学書コーナーを見て、なんだかうれしくなる。と同時に、昔のように、そこにいつまでも佇んだりはしなくなった。体力も持たないし、家に帰ってやるべき仕事もたくさんある。

その後、大型スーパーへ行って買い物。留学時代の初心に帰って、小さなメモ帳を買うことにした。もう一度、分からない言葉や表現を書き留めるなどして、この機会にさらなるレベルアップを目指したい。

フランスに住んでいた時もずっと思っていたのだが、街路がいちいち大きいので、買い物に行っただけで疲れてしまう。

帰ってきて、しばし休息。夜は、奥さんのドミニックさん、娘さん二人らも交えて、歓迎の晩餐。昔はこういう機会に、よく表現をメモしていたのだが、いつの間にかしなくなっていた。今回学んだのは、à la bonne franquetteという表現。「ざっくばらんに」といった意味。ジャンさん宅を間借りしての二ヶ月半の滞在を始めるにあたって、悪くない出だしである。

パリからトゥールーズへ


パリのシャルル・ドゴール空港には夕方の5時半に到着。国際線、特に長旅の場合、ここからが長い。

まず、少なからぬ手荷物を持ち、入国審査場へ。EUの人々用のゲートと、その他一般のゲートが分かれている。もちろん、非常に混んでいるのは後者。

それが終わると、預けてあった大量の荷物を引き取りに。ここは運もあるが、たいてい自分の荷物がベルトコンベアーに乗って運ばれてくるまでにかなりの時間がかかる。

荷物をすべて持ち、よたよたと出国ゲートへ。ここから緊張感が高まる。油断はできない。空港近くのホテルが、送迎の無料バスを20分ごとに走らせているというので、そこを予約してあった。問題はそのバスがどこに発着するのかを、疲れ切った状態で探し当てること。

ここまでで既に疲れており、おまけに飛行機の中にニット帽と毛糸の手袋を忘れてきたことに気づく。寒がりの私には致命傷。…と思いきや、そんなに寒くない。「ヨーロッパに大寒波襲来!」とさんざん脅されてきたのに。うろうろ、よたよた、ようやく発見して、ホテルへ。シャワーを浴び、倒れるようにベッドへ。

しかし、こういうときというのは、えてして眠れないものだ。体は疲れ切っているのだが、頭も鈍くしびれているような感じだが…。

結局、うやむやのうちに、朝4時半ごろ目を覚ます。昨晩買っておいたパンの残りを少し食べ――日本のコンビニ文化に馴れきった学生は注意!計画的に買っておかないと、あとで痛い目を見ることに…――、6時に送迎バスへ。

CDGはデカイ。歩いて目的地へ行くだけでも一苦労。6時半ごろに手荷物検査を通過…のはずが、なぜかそこでひっかかる。新しく買ったPCケースから"substance"が検知?感知?されたというのである(笑)。ずいぶんfouillerされてから、ダッシュでゲートへ。

ところが、出発時刻を過ぎても飛行機へのバスが出発しない。飛行機に全員が乗り込むと機長が不機嫌そうに「出発時刻が遅れたのはcertains d'entre vousが遅れてきたから」という。もちろん遅刻者もいただろうが、検査が厳しかったせいでもあるのではなかろうか。

ちなみに、検査場の入口に「アメリカ政府の要望により、450ml(だったかな?)以上の印刷用インクは預け荷物でも手荷物でもダメ」と書いてあった。恐るべしアメリカ。

朝早い飛行機を楽しむ(論文に追われていない)機会はそうはないが、今回は写真を撮ってみた。こうして一時間でトゥールーズへ。

Saturday, January 15, 2011

韓国、そしてフランス


これからしばらく日記風に綴っていこうと思う。フランスやフランスでの生活に馴染みのない学生のためにごくごく基本的なことも書いていくので、悪しからず。

14日の朝7時半に出発(国際線の飛行機は2時間前までにチェックインしないといけないので)。

福岡空港には国際線のターミナルもあるが、およそ「国際線」の名に値しない貧弱さ。それでも定食屋があるのはありがたい。日本を発つ前に、かつ丼とうどんを食す。留学時代は、毎日ケバブでも、毎日カルボナーラでも平気だったが、この夏のスイス旅行では、三日目にもうアジア料理が食べたくなってしまった…。

8時半にチェックイン。ぎりぎりまで徹夜で作業をしていたので、手荷物検査・出国手続きをした後、ゲート前で爆睡。10時半すぎに出発。

12時ごろ、韓国・インチョン空港に到着。到着が遅れたのは、この日降った雪のせいらしい。

無料のWifiがありがたい。トランジットも快適に過ごせる。

ちなみに、言うまでもないことだが、日本の国際空港の「顔」である成田空港は、韓国のインチョン空港にも、シンガポールのチャンギ空港にも、完璧に負けている。日本びいきの人には申し訳ないが、事実は事実である。いつこんなにも引き離されてしまったのか…。

大韓航空も、JALやANAよりサーヴィスがはるかに充実している。彼らの意気揚々とした「右肩上がり」の調子がうらやましくも懐かしい。

昼過ぎに、今度はパリへ向けて出発。長旅の機内では、前半戦は映画。ディカプリオ+渡辺兼の最新作『インセプション』と、レッドフォード+ミア・ファロー主演の『華麗なるギャッツビー』を観た。

みんなが寝静まった後半はふたたび論文。ノートパソコンとフランス語の研究書と電子辞書を小さなテーブルの上に無理やり置くと、そこは小さな研究室。

Friday, January 14, 2011

決着(ひとまずの)

あと数時間でフランスに発ちます。今回は2か月半の滞在。目的地はトゥールーズ。エラスムスのヴィジティング・プロフェッサーとして行きます。

あと数時間で出発というのに、終わったはずの二本の論文の見直しをしています…。

1)韓国のフランス大使館が主導する日中韓台共同の
人文系雑誌に載る予定のフランス語論文。

これは仏語添削者(仏人ネイティヴ)とのやりとりをメールではなく、
あるシステムでしなくちゃいけなくて、正直とても面倒くさい。
ようやく最終段階…(あと少しで本当に終了)。

2)アメリカのベルクソン論集に載る予定の英語論文。
翻訳者問題は、結局「翻訳者としては記載せず、註に日本語から仏語へ翻訳した旨を注記」するという折衷案で合意。手直ししているので、中身もバージョンアップしている。

Monday, January 10, 2011

余波

ちなみに、これまでに私が自分の仕事を翻訳した二本のケースでは、

1)2004仏語紀要論文(査読あり)→2007英語雑誌投稿論文:論文の冒頭に「日本語既出」の註あり。ちなみに、このとき私は翻訳者の翻訳をチェックし、意見交換も交えたのだが、私の名前が翻訳者としてクレジットされることはなかった。

2)2008仏語雑誌論文(依頼論文)→2009日本語紀要論文:論文の冒頭に「仏語既出」の註あり。

今度、英語の論文集に収められる2011?論文は、日本語で書いたもの2009を翻訳して載せてよいと言われていたので――したがってもちろん、編者はその事実を知ったうえで、私の論文の掲載を承諾している――、何も断りをつけずに翻訳したのだが、今回の件で不安になってきたので、すでに最終原稿を提出した後だったのだが、急きょ掛け合ってみることにした。交渉は次の二点。

1)日本語ですでに発表された論文の翻訳である旨、断りの註を冒頭に入れること。

2)私の名前を第二翻訳者として追加すること。というのも、今回は、私は日本語論文をまず最初にかなりの程度、拙い英語に訳し、次に、完全に(すべて)、フランス語に翻訳したのである以上、たとえ最終的にちゃんとした英語にしてくれた人が「翻訳者」であるとしても、私もまた自分の原稿を「翻訳した」という事実に変わりはないからである。また、この事実が明確に記載されたほうが、先々いろんなことが生じてきたときに(特に業績のカウントに際して)ややこしいことにならない、と思ったからである。私の提案が受け入れられるとよいが、さてどうなることか。

いやはや、せちがらい世の中になってきた…。

Sunday, January 09, 2011

東京医大教授、論文を二重投稿 大学側は厳重注意

うーむ。私の仕事のスタイルからすると、微妙かつ重要な問題だ。

今までのところ、日本語と英・仏語でほぼ同内容(もちろん、毎回多かれ少なかれバージョンアップしている)の論文を刊行したことが二度あるが――そして、こういったケースはこれからますます増えていくと予想される――、それらはすべて依頼論文であるか紀要論文であり、おまけに、どちらも最初の註でその旨断っている。したがって同内容で「二重投稿」したことはない。

まず、狭義の「二重投稿」についてだが、まずい点は、すでに他の場所で発表したという事実を隠匿しているという点にあると思われる。たしかに、これは道義的にどうかという気もする。しかし、非常にフランクに言って、日本語で発表されたことがあるかどうかなど、フランス人やアメリカ人にとってはどうでもいいことであろう――自然科学系では「当時、明確な基準がない雑誌でも、日本語のオリジナル論文があることを示すことを原則としていた」らしいので違うのであろうが、フランス語の哲学雑誌でそのような「原則」を見かけた記憶がない。私が「初出」を記したのは、プライオリティの問題をはっきりさせておきたかったからである(これは日本人相手でも同じことだ)。

次に、広義の「二重投稿」のまずい点は、同じ業績の使い回し、という点にあると思われる。しかし、少なくとも人文系において、仮にほぼ同内容の論文であったとして、それを「翻訳」する労力はかなりのものだ。私は、既発表の論文の英語化・仏語化などを一つの「業績」とみなされるべきと考える。

英語の論文をフランス語に使い回したというのと、日本語の論文をそうしたというのとでは、意味が違う(いささか、日本人弁護的になるが、翻訳の労力も同じではないとさえ言いたい)。世界の哲学シーンで、日本人以外の誰が日本語の哲学論文など読むだろう。仮にいたとして、ごくごく少数であろう。したがって、今の日本の人文社会科学の「国際化」「世界標準化」を推進したいのであれば、むしろ積極的に――むろん道義的な問題はクリアしたうえで――「二重投稿」を進めるべきである(別々の業績にカウントすべきである)と考えるが、如何?

***

2011年1月7日7時0分

 東京医科大学の整形外科の教授(52)が複数の英語論文について、二重投稿したり、同僚の論文に自分を筆頭筆者として加えて投稿したりしていたことが朝日新聞の調べでわかった。一部は2004年の教授選の選考で業績に挙げていた。大学側は論文2本を二重投稿と認定し、厳重注意した。日本整形外科学会も調査している。

 朝日新聞の調べでは、大学側が二重投稿と認定した2本は、04年と09年に海外の専門誌などに載った論文。このほか、03~06年に、7本の日本語論文の主要なデータを英訳して、海外誌に載せていた。こうした投稿も、二重投稿とみなす学会や科学誌も少なくない。当時、明確な基準がない雑誌でも、日本語のオリジナル論文があることを示すことを原則としていたが、7本ともその旨を明記していなかった。教授は今後、大学の助言を受けて、教室の全論文を点検、論文の修正や取り下げが必要か検討するという。

 この7本の中には、15年前のデータを再使用して、海外誌に投稿した論文もあった。90年の日本整形外科学会誌と05年のアジア太平洋整形外科学 会(APOA)の雑誌に載った論文で、特殊なマウスの関節を写した同じ電子顕微鏡写真10枚が使われていた。日本語の論文は90年以前に研究されている が、APOA誌には「00~03年に行った研究」と書いていた。この教授は「『あらためて検討した』と書くつもりが、『研究を行った』との誤訳になってし まった」と説明している。

 日本の雑誌に掲載された同僚の論文に、自分の名前を中心的な役割を意味する筆頭筆者として加えて、海外誌に投稿していた例も複数あった。その理由 について、同僚の論文でも研究には参加していたため、と説明している。一方で、共同筆者の1人は「教授の論文投稿自体、記憶にない」と話した。共同筆者か ら筆頭筆者に変わっていた論文もあった。

 教授に就いたのは04年4月。東京医大の教授になるには「英文論文が10本以上、5本は筆頭筆者」という条件が02年に加わった。二重投稿など問題のある論文9本のうち、3本は教授選考の評価対象だった。

 教員の処分を決める大学の裁定委員会は昨年6月、論文2本を二重投稿と認定。ただし、1本について、教授が事前に雑誌に取り消しを申し出ていたことを考慮して、教授への処分は厳重注意にとどめ、非公表としていた。

 教授は「英語論文はほかにも出しており、教授選のために水増ししたつもりはない。論文投稿について認識が甘かった。今後このようなことがないよう徹底したい」と話している。(杉本崇、林敦彦)

Wednesday, January 05, 2011

新年

あけましておめでとうございます。

いきなり疲れてしまってますが…。
今年も頑張りますので、応援よろしくお願いします。

研究もさることながら、教育。来年何をやろうかなといろいろ思案中。

「欧米思想史」という講義を持つことになったので、
フランス哲学史(デカルトからデリダまで)もいいし、
現代ドイツ哲学入門(フッサールからスローターダイクまで)とかでもいいし、
英米哲学史(ロックからローティまで)もいいなとか。

ただ、他の講義との兼ね合いもある
(全部の授業を完全にリニューアルすることはできない)ので、思案中。8コマ…つらい。

通年:ゼミ3つ、講義1つ
2年ゼミⅡ(ライプニッツ『人間知性新論』を読む)
3年ゼミ(結婚の脱構築)、
卒論ゼミ(哲学・思想研究)、
教職哲学(西洋哲学史+若干の東洋思想史)

前期:講義4つ
哲学入門A(古代哲学篇:タレスからプロティノスまで)、
倫理の世界(結婚の西洋哲学史)、
哲学の世界(芸術学部向け:芸術の哲学★リニューアル)、
欧米思想史A(検討中)★リニューアル

後期:講義4つ
哲学入門B(中世哲学篇:アウグスティヌスからクザーヌスまで)★リニューアル、
異文化との接触(海外留学事情)、
哲学の世界(国際文化学部向け:検討中)、
教養講座(結婚の近現代日本思想史)

Tuesday, December 28, 2010

近況

1)事典項目日本語…(8月末締切)。
2)09シンポ原稿仏語…(9月末締切)。
3)11/17大阪・結婚論シンポ仏語原稿(なんとか終了)
4)11/20福岡・結婚論シンポ仏語原稿(なんとか終了)
5)英語ベルクソン論文集・原稿校正(終了。もっといじりたいけど、時間が…)
6)12/26「大学と哲学」研究会予習(なんとか終了)

7)田母神先生科研・論文英語化に向けて再検討(12月下旬)鋭意作業中…。
8)鈴木先生COE・デジャヴ原稿仏語論文化(12月下旬)鋭意作業中…。
9)仏語雑誌掲載論文の仏語校正(1/10締切)鋭意作業中…。
10)ライシテ・シンポ依頼論文(日本語)執筆(1/10締切)鋭意作業中…。
11)2/10パリ・シンポ「アジアにおける現代フランス哲学」原稿
12)2月中旬トゥールーズ・ベルクソン・シンポ原稿
13)3月仏語ベルクソン論文集のために論文バージョンアップ
14)3/28パリ・CIPhセミナー原稿
15)白水社・政教論文(2011年3月末締切)
16)デリダ翻訳(2011年3月末締切)
17)ベルクソン&ドゥルーズ科学論(2011年8月末締切)
18)英語雑誌・依頼論文執筆(2011年8月末締切)

Wednesday, December 22, 2010

ピエティスムスの祖シュペーナーに関する書誌断片

大学にいるときの数少ない楽しみの一つに、
他分野の研究者のお話を聴けるということがある。

ピエティスムスについて幾つか文献を伺ったので、メモしておこう。
いつか読んでみたい。

①シュペーナー、「ピア・デシデリア」Pia desideria(敬虔な望み)1675年、『キリスト教教育宝典5』玉川大学出版部、1969年。

②シュペーナー(堀孝彦訳)「敬虔なる願望」(PIA DESIDERIA, 1675の抄訳)、『福島大学教育学部論集』、18号の2(人文科学)、1966年10月25日。PDFはこちら

③堀孝彦「ドイツ敬虔派の思想と運動――シュペーナーのばあい」、『近代の社会倫理思想』(青木書店、1983年)に第2章として所収。

④伊藤利男『敬虔主義と自己証明の文学』、人文書院、1994年。

⑤芝田豊彦『ドイツにおける神秘的・敬虔的思想の諸相――神学的・言語的考察』、関西大学出版部、2007年。

Tuesday, December 21, 2010

わびさび

今日ようやく授業が終了。最近は本当にハードスケジュールだった。
例えば、今日はこんな感じ。

10:40-12:10ドゥルーズ講義
昼休み:留学生二人が試験の質問。次の授業のプリント印刷。昼ご飯を食べる暇なし…。
3限:ベルクソン講義
4~5限:事務作業(たまりにたまった書類の処理…)、
先の留学生の質問の続き(1時間強)。
言語レベルにかなり制約のある学生に哲学の記述試験対策をするのは本当に大変…。

その後、卒論指導の学生をかなり待たせつつ、試験対策は強制終了。
卒論指導、かなり熱心にやっているつもりだが、何度アドバイスしても理解されていないのは悲しい…。

こんな感じで、最近は、授業の合間を卒論指導と試験対策に埋め尽くされ、
明らかにオフィスアワーなぞという生ぬるい制約をはるかに超えて
学生対応をしているにもかかわらず、
学生たちの反応は今一つ。疲れるし、なんとなく侘しい…。

帰りに読み始めた本:
柳沼良太『プラグマティズムと教育――デューイからローティへ』、八千代出版、2002年。

Monday, December 20, 2010

停滞

ようやく英語論文集のための論文がひとまず終了。ほっとする間もなく、日本語論文の見直し。

卒論学生の指導のために、キェルケゴールの『人生行路の諸段階』、キェルケゴール関連の研究書を数冊読んでいる。

執筆中の論文関連の本。それ以外となると、今は来年度のシラバス作成の時期なので、読む本がどうしても、シラバスのネタになりそうなものに偏ってしまう(笑)。しかし、どのみち最近、ほとんど本が読めていない。

石井洋二郎『フランス的思考――野生の思考者たちの系譜』、中公新書、2010年12月20日。
春日キスヨ『変わる家族と介護』、講談社現代新書、2010年12月20日。
小川仁志『はじめての政治哲学――「正しさ」をめぐる23の問い』、講談社現代新書、2010年12月20日。
小林正弥『サンデルの政治哲学――〈正義〉とは何か』、平凡社新書、2010年12月10日。

Friday, December 17, 2010

12/26「哲学と大学」公開ワークショップ@一橋大学

12月26日(日)13.30-16.45
一橋大学 佐野書院(西キャンパス南側 JR国立駅から徒歩20分)
地図:http://www.hit-u.ac.jp/annai/campus/index.html(図中28番の建物)

「哲学と大学」公開ワークショップ
13.30-14.15
西山雄二(首都大学東京)「戦後フランスの哲学教育」 コメント:藤田尚志(九州産業大学)
14.15-15.00
宮崎裕助(新潟大学)「英米圏での人文学論」 コメント:大河内泰樹(一橋大学)
15.15-16.45
藤本夕衣(京都大学)「アメリカの大学における教養教育論争 ―「文化戦争」にみる政治哲学の問い」

主催:科研費基盤研究(B)「啓蒙期以後のドイツ・フランスから現代アメリカに至る、哲学・教育・大学の総合的研究」 入場無料、事前予約不要

Saturday, December 04, 2010

12/16ジャン=マルク・レヴィ=ルブロン講演会「文学が科学にもたらすもの」

文学が科学にもたらすもの

ジャン=マルク・レヴィ=ルブラン氏による講演会

Que peut la littérature pour la science ?

文学が科学にもたらすもの

科学がどのような機能を果たしているか、もしくはどのように科学がその機能を果たしているか、歴史、哲学、社会学、科学などの学問の他に、文学からも学ぶことが出来るのです。

  • 日時:12月16日(木)19:00
  • 会場:九州日仏学館5F多目的ホール
  • フランス語、日本語逐次通訳つき
  • 入場無料(要予約)
  • お問い合わせ・ご予約:092-712-0904(九州日仏学館)

ジャン=マルク・レヴィ=ルブラン氏は「文学が科学にもたらすもの」は何かを問います。というのも、ユゴーやフローベール、ブレヒトなどの良く知ら れた作品であっても、またそうでなくても、文学作品は科学的な活動やその本質、また現在は争点となっていることについて、私たちの理解を助けているからで す。
物理学者、理論家であるレヴィ=ルブラン氏の研究分野は、一般相対性と量子力学。また科学哲学者として、広く一般にも分かりやすく解説することを実践して います。彼はコレクション『シアンス・ウヴェルト』(スゥイユ社)や雑誌『アリアージュ』を指揮しており、それらは科学的な知識と非科学的な実践の橋渡し ともなっています。ニース大学名誉教授、2001年より国際哲学コレージュのプログラム・ディレクター。

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Monday, November 29, 2010

シンポ報告(続)

「ご来場いただいた方々」とさらりと書いてしまいましたが、大分や佐賀など九州各地から、さらに遠くは東京(oさん)、大阪(kさん)、神戸(hさん)から遠路はるばるお越しいただいた方々、本当にありがとうございました。全部で30人弱だったでしょうか。東京や京都でのシンポの規模には遠く及びませんが、それでも福岡でのシンポに(しかも私どものような手作りシンポに)ご参加いただけたこと、本当にうれしく思っております。今後ともよろしくお願い致します。

さて、第二セッションの主題は、セクシュアリティと所有でした。

パトリス・マニグリエは、藤田が大阪でした話を巧みに取り入れ、それに呼応する形で、しかも随所に昨今のフランスの結婚事情に関する数字や制度改革の話をちりばめながら、自分の話の外枠を形成した。結婚の歴史は、制度から契約化(contractualisation)へと移行しつつあるかのように語られるが、実際に必要とされているのは自由にして空虚な制度としての結婚なのではないか。性も、人数も、子どもを持つか持たないかも自由な、ただお互いの「約束」だけが――したがって国家や法制度を介した「契約」がではない――お互いを縛るような結びつき。それは何が性的であるかを国家に規定させない「ポスト・セクシュアリティ社会」においてはじめて実現されるのではないか。

藤田は、結婚の2000年の歴史を概観した後――これについては、結婚の自然誌を人類学的規模で考えるべきだというご指摘を大阪でいただいた。構造主義的な観点との兼ね合いでどう考えるか。いずれにしても考えてみる価値はある――、結婚の形而上学の根本諸概念のひとつとして「所有性」をとりあげ、アドルノにおけるその「脱構築」の模様をその一例として概観した。その後、デリダにおける「結婚の脱構築」の両義性を幾つかのテクストを用いて説明しようと試みた(が時間の関係でまたも宙吊りに…)。ただ、パトリスとの議論の中で、少しは私の所論が明らかにできたのではないかと思う。

Sunday, November 28, 2010

シンポ無事終了!



ご報告が遅れましたが、結婚論シンポ福岡篇は盛況のうちに終了致しました。ご来場いただいた皆様、宣伝・告知・開催にご協力いただいた方々には、厚く御礼申し上げます。今後ともご厚情を賜りたく、何とぞよろしくお願い致します。


当日のプログラムは、

第1部:交換とコミュニケーション

フレデリック・ケック氏は、まず、英国の人類学者タイラーの生物学的・進化論的・自生的結婚観――「外で殺されるか、外で結婚するか」というタイラーの言葉に集約されるこの結婚観は、インドとイギリスなど、大英帝国内における植民地主義的結婚政策に加担するものでもあった――に対して、レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』において、象徴的-文化的・構造主義的・構築主義的結婚観を対置したことを強調する。また、ボーヴォワールが刊行直後に書いた書評で、後の多くのフェミニストたちとは異なり、「女性の交換」というレヴィ=ストロースのテーゼを評価し――ケック氏自身の言葉で言えば、レヴィ=ストロースとボーヴォワールの立場は「外で結婚するか、内で行き詰まるか」(インセスト・タブーの回避から生じる族外婚)――、彼女自身の小説群においては、このような構造主義的視点から現代社会における「男性の交換」が描き出されてはいないかと示唆した。

大森晋輔氏は、「侵犯の思想家」というクロソウスキーの通俗的なイメージと、そこから安易に生じうる彼の「逸脱的結婚」観を拒絶し、むしろクロソウスキーにおける言語の次元に注目することを提案する。二十年を隔てて書かれた二つのサド論の変遷――二つ目のサド論は、クロソウスキーの特異な結婚観が端的に表れている『歓待の掟』のすぐ後に刊行されたものである――に如実に見られる、このような思索の深化は、しかしながら、クロソウスキーにとって強迫的とさえ言える主題であった「結婚」との訣別を意味しない(『生きた貨幣』は1970年に刊行されている)。したがって、「結婚か言語か」の偽の二者択一を峻拒し、「結婚と言語」を同一地平において、「切り離しえない」ものとして扱う視点が要求されるのではないか、と大森氏の発表は示唆している。

二人の発表に(そしてもちろんレヴィ=ストロースとクロソウスキーに)共通する主題、それは結婚という現象を「交換とコミュニケーション」の視点から眺めるという姿勢である。レヴィ=ストロースが「未開」部族という「冷たい社会」の構造化要因として取り出した「女の交換」を、ボーヴォワールが、現代社会という「熱い社会」においては「男の交換」も存在するという形で変換してみせたのだ、というケック氏の指摘と、「非言語による言語の侵犯」という説から「古典的言語そのものの徹底による言語の侵犯」という説へのクロソウスキーのシフトには、『歓待の掟』における夫・男の「分身」の問題が関係しているのではないかという大森氏の発表に見られる示唆は、共鳴しているように思われる。

第二部は、セクシュアリティと所有の問題である。これについては、また改めて報告することにしたい。

Saturday, November 27, 2010

Colloque international : La déconstruction du mariage Lévi-Strauss, Beauvoir, Klossowski, Derrida

Le samedi 20 novembre 2010 à l'Institut Franco-Japonais du Kyushu (Fukuoka)
2e colloque international de La PFF (La Philosophie française à Fukuoka !)
La déconstruction du mariage
Lévi-Strauss, Beauvoir, Klossowski, Derrida

Programme (tous les titres de communication sont provisoires)

13h30- Discours du directeur & de l'oragnisateur

La 1re session : échange et communication

13h 45- Frédéric Keck : « Beauvoir lectrice de Lévi-Strauss »

14h 20- Shinsuke Omori : « Le mariage selon Klossowski – autour des Lois de l’hospitalité »

14h 55-15h 30 Discussion

15h 30-15h 45 Pause-café

La 2e session : sexualité et propriété

15h 45-16h 20 Patrice Maniglier : « Le mariage selon Lévi-Strauss »

16h 20-16h 55 Hisashi Fujita : « La déconstruction du mariage – à partir de Derrida »

16h 55-17h 30 Discussion

17h 30-18h Discussion générale et clôture

18h 30-20h Closing Party

Friday, November 19, 2010

リマインド:11/20結婚シンポ

阪大での結婚論シンポは盛況でした。パトリス・マニグリエの仕事のほんの一端でも日本で紹介できたこと、そしてそれを堂々と自分の問題関心の中に取り込みながら行ないえたことは、うれしいことでした。

「結婚の脱構築」というプロジェクトを少しは理解してもらえたかなと思っています。

次は福岡。大阪では「ドゥルーズを例に」とって喋りましたが、福岡では「デリダから出発して」
喋ります。

まず言っておくべきは、結婚の脱構築(déconstruction)は決して結婚の破壊(destruction)ではないということ。姦通・不倫など呼び方は何でもよいが、二人の人間を実体的存在、「主体」として捉えたうえでの「結婚からの逸脱」などが問題になるわけではないということ。その程度の「侵犯」なら、わざわざ20世紀思想・文学の到来を待つまでもない。

次に、私は「結婚の脱構築」を、「哲学と大学」という、もう一つのプロジェクトと同じ問題意識で進めているということ。すなわち、哲学・思想研究者が最も目をそむけている自らの「唯物論」的な基盤、自らの思考を枠づけているものの省察である。私は大した哲学研究者ではないが、自分が足を置いて考える「思考の場所」への意識だけは大学生のころから持ち続けてきた。個人的にいかなる選択肢をとるとしても、「結婚」が多くの人々にとってと同様、哲学者にとっても重要な問題の一つであるという自明の事実をその選択肢が覆い隠してはならない。

最後に、結婚は我々の手によって脱構築されるのではないということ。我々の手によってなされる「べき」という未来のプログラムというよりは、「結婚が常にすでに脱構築されつつある」そのプロセスを明らかにするのが我々のプログラムなのである。だからこそ、最近の諸々の徴候や、最低限の歴史はおさえておく必要がある。結婚の歴史を…。


à partir de とは「~から出発して」という意味ですが、「~から立ち去るべき」という意味をも持ちえます。

何度も言っているが、デリダやドゥルーズ、あるいはベルクソンでも同じことだが、哲学研究者にとって、彼らの「ファン」や「訓詁学者」になることが重要なのではない。彼らが言ったことをただ反復・パラフレーズしたり、彼らの価値基準を押し戴いたりすることが重要なのではない。

彼らの思想の可能性の中心を、彼ら自身に抗して掴み取ることが重要なのだと思っている。そして、いかに稚拙な形であれ、常にそれを実践しようとしているつもりである。

「結婚の脱構築」という名を付したから、このプロジェクト全体がデリダ思想の庇護のもとに置かれているに違いないと考える人は多いようだ。もしそうであるならば、それはマルクスの『資本論』の副題「経済学批判」がカント哲学の庇護のもとに置かれているのと同じ程度においてである。

Sunday, November 14, 2010

近況

1)事典項目…(8月末締め切り)。
2)09シンポ原稿…(9月末締め切り)。
3)11/17大阪・結婚論シンポ原稿
4)11/20福岡・結婚論シンポ原稿
5)田母神先生科研・論文英語化に向けて再検討(12月下旬)
6)鈴木先生COE・デジャヴ原稿論文化(12月下旬)
7)12/26「大学と哲学」研究会予習
8)ライシテ・シンポ原稿論文化(1/10締め切り)
9)2/10パリ・シンポ「アジアにおける現代フランス哲学」原稿
10)トゥールーズ・ベルクソン・シンポ原稿
11)3/28パリ・CIPhセミナー原稿
12)白水社・政教論文(2011年3月末)
13)デリダ翻訳(2011年3月末)
14)ベルクソン&ドゥルーズ科学論(2011年8月)

Saturday, November 13, 2010

ライシテ・シンポ

11月13日(土)、東洋英和女学院大学にて、日仏社会学会のライシテに関するシンポに登壇させていただいた。お招きいただいた菊谷先生、裏方としてさまざまなご配慮をいただいた事務局の方々にお礼申しあげます。他の登壇者の方々のご発表、議論にも大変刺激を受けました。ありがとうございました。

発表は、私が哲学、伊達さんが宗教学、鳥羽さんが社会学の観点から、それぞれライシテを考察。今までにない多角的な視点からのライシテ・シンポになったと多くの方々から喜んでいただけたようで、まずは一安心。三者の発表内容に関しては、次号の『日仏社会学会年報』に掲載されるので、ご関心がおありの方は、そちらをご覧ください。

私個人としては、「宗教的なもののゆくえ」が気になっている。信、信仰、信頼、社会的紐帯といった概念群を介して、この問題は、私の中では結婚論とつながっている。

というわけで、二つの結婚論シンポに突入…。

Thursday, November 11, 2010

11/17結婚の形而上学とその脱構築:フランス現代思想の視点から

第4回ときめき☆セミナー(大阪大学最先端ときめき推進事業 バイオサイエンスの時代における人間の未来 研究代表者 檜垣立哉)

「結婚の形而上学とその脱構築:フランス現代思想の視点から」

発表者:
パトリス・マニグリエ(エセックス大学・講師)
藤田尚志(九州産業大学・講師)

日時:2010年11月17日(水) 15:30-18:30
場所:人間科学研究科・東館303

【セミナーの概要】
ソクラテスと「悪妻」クサンチッペ。哲学と結婚は最初から折り合いが悪かったというべきだろうか。哲学は愛(エロスないしアガペー)について、性(セクシュアリティないしジェンダー)について、家族(共同体ないし市民社会)について語ること夥しいが、結婚という日常の中の日常を語りはしない。だが、愛・性・家族の結節点としての「結婚」という現象は、プラトンからパウロを経てルターまで、ルソーからヘーゲルやキェルケゴールを経てニーチェまで、ボーヴォワールからレヴィ=ストロースを経てクロソフスキーやデリダまで、常に「哲学」にとって厄介だが避けて通れない、永遠にして喫緊の分析対象であり続けた。おそらくは人類とともに誕生し、古代・中世と絶えず形を変えながら生き延び(イエのための結婚)、近代(モダン)の所産であると同時に(ロマンティック・ラブ・イデオロギーの帰結としての「恋愛結婚」)、すぐれて生権力、生政治の現代的な問題――未婚化・晩婚化・少子化、「パラサイトシングル」から「おひとりさま」まで、幼児虐待からDVまで――でもある「結婚」という制度は、脱構築されるべき一つの(あるいは複数の)形而上学を背後に隠し持っている。フランス現代思想は、結婚の問題に本質的な解明をもたらし、逆に、結婚は、フランス現代思想の臨界点を明らかにする。

Wednesday, November 10, 2010

BIOLOGIA E METAFISICA : IL FILOSOFO, IL MATEMATICO E IL BABBUINO

FORLÌ, 3 e 4 dicembre 2010

Prima sessione
Venerdì 3 Dicembre ore 9,00 – 13,00
Aula 3.1 - Facoltà Scienze Politichevia G. della Torre 1

Ore 9 Apertura dei lavori Saluto del Prof. Paolo Terenzi – Facoltà di ScienzePolitiche “Roberto Ruffilli”

Presiede : Arnaud François

Ore 9.30 Giuseppe Longo
Dalla psicologia del babbuino alla metafisicadell’infinito, l’unità fra biologia e conoscenza neifondamenti della matematica

Ore 10.30 Elena Gagliasso
Trasversalità nuove nell'alternativa Ambiente/Mondo

Ore 11.30 Paul-Antoine Miquel
Épistémologie non fondationnelle et métaphysique dela nature


Seconda sessione
Venerdì 3 Dicembre ore 15,00 – 18,30
Fabbrica delle Candele – Piazzetta Corbizzi, 9

Ore 15 Apertura dei lavori Saluto del Presidente dell’Associazione “NuovaCiviltà delle Macchine”, Prof. Pantaleo Palmieri

Presiede: Giuseppe Longo

Ore 15.30 Rossella Fabbrichesi
Coralli alberi e pennacchi. I filosofi nel giardino di Darwin

Ore 16.30 Arnaud François
Santé et irréversibilité

Ore 17.30 Federico Leoni
La vita come problema di ordine pubblico

Dibattito


Terza sessione
Sabato 4 Dicembre ore 9,00 – 13,00
Aula Multimediale - Liceo Scientifico“F.P. di Calboli”, via A. Moro 13

Ore 9 Apertura dei lavoriSaluto del Dirigente Scolastico del Liceo “Calboli”Dott.ssa Morena Mazzoni

Presiede: Federico Leoni

Ore 9.30 Frédéric Worms
La vie est polarité

Ore 10.30 Rocco Ronchi
Grammatica e pragmatica del vivente

Ore 11.30 Davide Tarizzo
La vita e l’ambiente. Metafisica, biometria edecologia


Quarta sessione – aperta al pubblico
Sabato 4 Dicembre ore 16,00 – 19,00
Fabbrica delle candele – Piazzetta Corbizzi, 9

Ore 16 Apertura dei lavoriSaluto del Sindaco di Forlì, Prof. Roberto Balzani

Presiede: Rocco Ronchi

Ore 16.30 Florinda Cambria
Metafisca e materia del vivente

Ore 17.30 Carlo Sini
La verità del babbuino

Dibattito

Monday, November 08, 2010

Deleuze et la musique - un séminaire nomade

ソヴァニヤルグからお知らせが来たので転載。

16 novembre 2010
Cdmc (Paris)
18 et 19 janvier 2011 – Paris 8 / INHA (Paris)
7 et 8 février 2011 Université Jean Monnet (Saint-Étienne )
8 et 9 mars 2011 – Paris 4 / ENS (Paris)
17 mai 2011 Université Panthéon-Sorbonne Paris I


Les enjeux d'une pensée-musique
Mardi 16 novembre

Centre de Documentation de la Musique Contemporaine (Cdmc)
16 place de la Fontaine-aux-Lions 75019
Métro Porte de Pantin


Programme - Informations pratiques:
Deleuze s’est intéressé à la musique en philosophe, et, si la musique n’a pas fait l’objet d’un ouvrage spécifique, celle-ci occupe néanmoins une place privilégiée dans sa pensée. Comme il s’est tourné vers le cinéma, la peinture ou la littérature pour élaborer sa philosophie, la musique est pour lui l’occasion d’une rencontre spécifique avec les champs opératoires propres au musical. On en repère les effets dans son œuvre avec, par exemple, les notions de multiplicités spatiales et temporelles, de codage et de transcodage, de pensée par diagrammes ou d’affects. Au cours de ces journées itinérantes, nous proposerons un état des lieux de l’approche du musical par Gilles Deleuze, domaine qui n’a pas encore fait l’objet d’une recherche approfondie en France. En effet, il a très souvent fait référence au corpus de la musique contemporaine, largement convoqué de Berg à Messiaen, de Boulez, Berio, Xenakis à Cage et Steve Reich.
C’est d’ailleurs à l’ensemble des signaux sonores et à leur expression dans l’espace et dans le temps qu’il porte une attention renouvelée.
Nous examinerons, dans un mouvement croisé, l’impact de ces outils de pensée sur la recherche et la création contemporaine en musique. Il s’agit, non seulement de se demander comment Deleuze s’inspire et s’instruit de la pratique musicale qui lui est contemporaine, mais aussi de montrer quelle incidence les lectures de ses textes ont sur la création, la musicologie, l’esthétique musicale, l’ethnomusicologie, les techniques et les technologies...
Le séminaire contribuera à établir le contexte historique, à explorer les références musicales, à élucider les rencontres avec la musique, dans l’œuvre du philosophe, mais aussi à parcourir ces interférences entre musique et philosophie, avec les inflexions et tensions qui s’en dégagent pour la musique aujourd’hui.
Vers le programme général:

Pascale Criton
Jean-Marc Chouvel
Anne Sauvagnargues

Saturday, November 06, 2010

リスク社会におけるベルクソン Bergson dans la société du risque

公開講演会

『危機の社会におけるベルクソン
Bergson dans la société du risque』

(フランス語・入場無料・通訳あり)

日時:2010 年 11 月 15 日(月) 18:30 20:00

場所:立教大学池袋キャンパス 5 号館 5301教室

講師:Frédéric Keck フレデリック・ケック氏

司会:澤田直(立教大学文学部教授) 通訳:平林通洋

略歴:フランス国立科学研究所 専任研究員

1974 年生。2003 年リール大学にて哲学博士号取得。

2010 年度 立教大学国際センター招聘研究員。

気 鋭の若手哲学研究者であり、特にレヴィ=ストロース研究を中心に行い、そのプレイアード版編者として世界的に高い評価を得ている。氏はレヴィ=ストロース のみならず、ベルクソン、バタイユ、レヴィ=ブリュールについても精力的に論考を発表。文化人類学、宗教学にも造詣が深く、哲学・思想を人類学や宗教との 関連において読み解く論考を多数発表している。

問い合わせ先:立教大学 文学部文学科仏文専修
澤田直 naosawada@rikkyo.ac.jp

Thursday, October 28, 2010

Francisco NAISHTAT, ACTION ET LANGAGE Des niveaux linguistiques de l'action aux forces illocutionnaires de la protestation

ACTION ET LANGAGE
Des niveaux linguistiques de l'action
aux forces illocutionnaires de la protestation

Francisco NAISHTAT

Collection La Philosophie en commun

24 €- 262 pages/ISBN : 978-2-296-12494-3

Dans cet ouvrage savant, mais parfaitement lisible, Francisco Naishtat explore une question philosophique majeure, qui est aussi l’une des « questions vives» de la pensée politique : celle des conditions de l’action collective et de la formation de ses acteurs, telle que permet de la repenser la pragmatique du discours. Mais il va au-delà d’une application, même créatrice, des catégories de “speech acts” et de « force illocutionnaire», pour déboucher sur un renversement du point de vue dominant quant aux rapports du performatif et de l’institution. Tirant parti de l’expérience des mouvements protestataires et utopiques liés à la « crise argentine » de la dernière décennie, il entreprend de refonder la pragmatique en lui incorporant la thèse (venue de Benjamin et d’Arendt) d’une force illocutionnaire non conventionnelle, qui déjoue les jeux de langage établis et institue l’horizon d’une “violence non violente”. Cette proposition forte et originale ne restera évidemment pas sans effets.

Etienne Balibar

L'AUTEUR

Après une thèse sur l'action et l'intentionnalité, Francisco Naishtat a été élu (2004-2010) directeur de programme au Collège International de Philosophie où il a dirigé des recherches sur la crise du politique dans le cadre de la mondialisation. Chercheur du CONICET, il enseigne la philosophie contemporaine aux Universités de Buenos Aires et de La Plata.

TABLE DES MATIERES


Présentation
Introduction
Première étude
LES APORIES DE L’ACTION ET LA PERSPECTIVE
PRAGMATIQUE
Introduction
Chapitre 1
L’ACTION DANS LA PERSPECTIVE DE LA
PILOSOPHIE MODERNE
1.1. Spectres de Descartes
1.2. La philosophie de l’action de Locke
1.3. La philosophie de l’action de Hume
Chapitre 2
L’ACTION DANS LA PERSPECTIVE DE LA
SÉMANTIQUE NATURELLE. LES IMPASSES DE LA
THÉORIE DAVIDSONIENNE
2.1. Rationalisations et explications causales d’après
Davidson
2.2. Les impasses de la théorie davidsonienne
2.3. L’ouverture pragmatique
Chapitre 3
LE TOURNANT WITTGENSTEINIEN DANS LA
PENSÉE DE L’ACTION ET LA CRITIQUE DE LA
SÉMANTIQUE RÉFÉRENTIELLE
3.1. Action et langage ordinaire
3.2. Wittgenstein Philosophische Untersuchungen
Deuxième étude
L’ACTION COLLECTIVE AU CRIBLE DE LA
PRAGMATIQUE
Introduction
Chapitre 4
SUJETS D’ACTION COLLECTIVE
4.1. Les foules dans la perspective de la
tradition positiviste
4.2. Max Weber : atomisme logique et agnosticisme
ontologique
4.3. Dialectique benjaminienne des collectifs dans les
Passagen-Werk
Chapitre 5
QUAND FAIRE C’EST DIRE ET AGIR. L’AGIR
COLLECTIF COMME FORCE ILLOCUTIONNAIRE

5.1. Performatif-causatif
5.2. Le caractère suspensif de l’agir collectif en tant que
disruption méta-communicationnelle
5.3. L’émergence Illocutionnaire du « nous »
5.4. L’agir collectif comme force illocutionnaire
RÉFÉRENCES BIBLIOGRAPHIQUES
TABLE DES MATIÈRES
NOTES

Saturday, October 23, 2010

制度と運動(ささやかなアイデア)

とあるシンポジウムの開催通知と同時に、若手の「参加者」を募集する告知もあった。

8名ほどの研究者が発表する生命倫理系のシンポに、「医療の現場で起こる倫理的な問題に対して人文学ならではの応答をしてもらいたい」との考えから、若手に対して、コメンテーターとしての発表の希望を募るという。

活躍する研究者の発表に若手がコメントをするという形式はあまり人文系では見ない気がして面白いし、発表者たちのアブストラクト集を公表し、「この人の発表にコメントしたい」という申し出を募るという手続きもいい( もちろん候補者多数の場合はなんらかの方法で選抜)。

さらにいいのは、このシンポは出版が予定されているらしいのだが、その際、若手のコメントについても優良なものを選抜して本に収録するそうだ。「制度」というとおおげさだが、こういった「システム」が一つの選択肢として広まっていけばいいと思う。

今、若手の研究者は、発表の場を必要としており、活字化の機会を欲している。これを単に業績主義だと笑うのはたやすい。だが、彼らの置かれた状況を踏まえつつ、良質なものを育成しようとしていくのなら、査読などの入口を厳格化するだけでは(あるいは逆に、就職前の若手を優先するだけでは)足りず、入口自体を多種多様化していくのでなければならないだろう。

やはり、〈制度〉と〈運動〉の問題である。

Monday, October 18, 2010

11/20国際シンポ「結婚の脱構築―レヴィ=ストロース、ボーヴォワール、クロソフスキー、デリダ」

九州日仏学館のHP上ではすでに告知されておりましたが、

ようやくポスターが出来上がりました。前回(3月27日)同様、伴野亜希子さんの作品。とてもポップな仕上がりで、大変満足しております。意味ありげな赤い糸…(笑)。

なにぶんにも地方でのフランス語の国際シンポ開催。負け戦は重々分かっていますが、やっていくしかない。

宣伝・告知をしていただけますと、大変助かります。
皆様のお手元での印刷用には、こちら(画面下にPDFが添付されているはずです)をお使いください。

なお、関連企画として、フレデリック・ケック氏の東京(立教大学)・京都(立命館大学)での講演、パトリス・マニグリエ氏の大阪(大阪大学)での講演が決定しております。ご関心がおありの方はぜひ足をお運びください。

よろしくお願い致します。

Sunday, October 17, 2010

11/13日仏社会学会シンポ「文化的経験の多角的照射――ライシテの多様性を巡って」

日仏社会学会の大会全体のプログラムはこちらをご覧ください。

14:20~17:20 シンポジウム
   テーマ:「文化的経験の多角的照射――ライシテの多様性を巡って」 
                          司会:菊谷 和宏(和歌山大学)
  1.ライシテの彼岸と此岸――フランス現代思想における宗教の問題  
                            藤田 尚志(九州産業大学)
  2.多面体としてのライシテ――政教関係の国際比較のために  
                            伊達 聖伸(東北福祉大学)
 3.フランス社会におけるムスリムの「脅威」   鳥羽 美鈴(横浜国立大学)

  討論者:長谷川 秀樹(横浜国立大学)、出口 雅敏(東京学芸大学)

場所:東洋英和女学院大学(東京都港区)
 東洋英和女学院大学六本木校地                 
 法人事務局・大学院棟地下1階フロアー                 
 〒106-8507 東京都港区六本木5-14-40


●東京メトロ日比谷線をご利用の場合六本木駅下車。3番出口から徒歩10分。
●東京メトロ南北線をご利用の場合麻布十番駅下車。5a番出口から徒歩7分。
●都営大江戸線をご利用の場合麻布十番駅下車。7番出口から徒歩5分。
http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/index.htmll

Saturday, October 16, 2010

大学教員の「仕事」

silvalibrorumさんのブログにあった記事「日本の研究者、内向きに…海外派遣10年で半減」。先日のノーベル賞受賞者の対談などでも「学生が内向きに…」という話があったが、森本さんのおっしゃる通りである。

それは別に海外への挑戦云々もさることながら、大学が端的にギチギチな体制を敷くようになった──授業が増え、補講を強制し、会議だらけになった──とい うことと相関しているように思うのだけど、違うのだろうか。こんなに業務だらけで夏休みも浸食されてどうやって海外へ行けというのか。文科省も支援策など というのなら、こういう大学の体制自体について考えてもらってほしいものだと思う。正直、「分身の術」でも身につけないともはや教育と研究は両立しないよ うに思う。あるいは「影武者」か。
私の勤める大学では来年から一学期15週になる(ちなみに、補講は絶対に行なわれる)。四月第二週から始めると、七月最終週に授業が終わり、試験が八月第一週に終わる計算だ。採点に一週間程度。そして九月第二週から後期の授業が始まる。

夏休みが一カ月「も」ある、と友人のサラリーマンたちは言うだろう。だが、次の学期の授業準備もある(授業準備というものに相当の時間がかかり、まともな授業準備が学期中にできないことが、あまりにも理解されていない)。そして、大学の雑務は容赦なく一か月の「夏休み」にも食い込んでくる。

そのうえに、今年は前期も後期も8コマ(講義が4つ、ゼミが4つ。語学は一つもない)、来年はさらに増えるであろう授業の内容も充実させて(学期中の微調整)、大学の雑務もできるかぎり引き受けて、学生の履修(勉強)指導からキャリア(就職)指導、果てはメンタルケアまで引き受けて(学生に個別に電話をかけ、悩みを聞く)、さらに研究も発展させて…。

もちろん、ここでカフカの『法の門前』よろしく、こう付け加えておかねばならない。「それでも、わしなどはまだほんの下っ端で、中に入るとそれぞれの地位・役割に応じて、すごいことが待っている。このわしにしても、一つ上の世代の仕事量を見ただけで、すくみあがってしまうほどだ」。

文科省は、ひいては国民は、大学教員にいったい何を求めているのだろうか。

三年前、私は「膨大な量の事務作業は、大学教員の仕事なのか?サッカーにおける「ホペイロ」の役割を、日本で大学を論じる人々はもっと知るべきだ。」と書いた。そして、そこで、レディングズの次のような言葉を引いた。

「短絡的な考えがもたらす害の例の一つは、多くの教授たちは週六時間しか働かないという現在の認識である。

野球選手が、打者としてバッターボックスに立つ時間によって報酬が決まるとは誰も考えない。

他の選手が走るのに、キャッチャーはしゃがんでいるからといって、報酬が他の人より少なくて当然とは誰も思わない。

スポーツの世界からもう一つ例をとれば、例えば、冬季オリンピックのフィギュア・スケートの相対的人気は、速さを競う他の種目とは違った意味をもっている」(レディングズ、『廃墟のなかの大学』)

サッカー選手が自分の道具の最低限の手入れをするのは当たり前のことだし、ファンサービスをするのも当然だろう。だが、ファンは、サッカー選手が、自分でボールやユニフォームの発注作業をやり、事務書類を書き、靴の修繕をやることを望むのだろうか?単純に、試合で勝つことに専念し、ベストを尽くしてほしいと望むのではないだろうか。

大学教員の「仕事」とは何だろうか。何であるべきだろうか。それは、デリダの言うような、高貴な「profession」や「profession de foi」だけでは片付かない、日々のtravail、さらにはboulotの問題なのだ。

Friday, October 15, 2010

デリダの教育論

一連のラジオ番組が復活してますね。特に教育論・制度論は私の現在の関心を惹きます。
、mal aimé, mais aiméのあたりとか、日本語で読んだ気もするけれど。

Sunday, October 10, 2010

近況

もちろんこのブログにはまったく現れてこないが、
目に見えないところで自分なりの努力を続けているつもりである。

今日は土曜日、先週の韓国遠征の分、4コマ連続補講…。

土曜日という特別な感じを出すよう工夫しつつ、
しかし授業として妥協しない。

授業のための読書も可能な限り続けている。

ロック、ルソーにおける社会契約論のために、
Jean Terrel, Les théories du pacte social. Droit naturel, souveraineté et contrat de Bodin à Rousseau, éd. Seuil, coll. "Points Essais", février 2001.

デカルトにおける神の存在論証のために、
Emanuela Scribano, L'Existence de Dieu : Histoire de la preuve ontologique de Descartes à Kant, éd. Seuil, coll. "Points Essais", septembre 2002.

卒論指導のために、
東浩紀『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』、講談社現代新書、2001年。
宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』、岩波新書、2010年。

可能な限りレベルを保ちつつ、学生のレベルにも合わせる。
ぎりぎりの努力を続けているつもりだ。哲学の魅力に目覚めてくれたらしい学生も何人かはいる。

研究のほうもいろいろやっているが、労多くして、報われること少なし。まあ、みんなそう思ってやっているんだろうけど…。
ライシテ・シンポのための読書…はネタばらしになるからやめとこ。

Tuesday, September 14, 2010

持続とは遅れである…

・ずいぶん遅れて出した英語論文は、途中から予算がついて仏語でいいことになり(翻訳してもらえる)、
そのため、前半は拙い英語で、後半は書き飛ばした仏語という代物。これからその直し作業。でもいつやるんだ…。

・その他、いろいろ遅れています。すみません…。

開始

今日(月曜)から後期が始まった。9月の13日から、である。「ええっ、もう?」と驚かれる方も、「そうだよね」という方もいらっしゃるでしょう。いずれにしても、また長丁場が始まる。息を整えて、ペースを乱さずに、走りきらないといけない。

Friday, September 10, 2010

サンデル教授の哲学講義は特別でもなんでもない

というタイトルの『ニューズウィーク』関連のコラムを見つけた。たしかに良質な教師、良質な学生であるとしても、あの手の授業、メソッドは、アメリカではありふれたもので、日本も一刻も早く取り入れるべきだ、と。

《ですが、改めて思うのは「世界観」を持ってしまった人間は、価値を共有できていない人間にもおなじ「世界観」を押し付けようとする、すると主張イ コール相手の人格否定になってしまう、その辺の問題が日本語の場合ですと対話にどうしても上下関係のニュアンスが持ち込まれてしまうために、スッと抜けて いけないという悩みがあります。結果的に、ディベートの勝敗イコール人格の優劣のような形になってしまうのです。例えば、キレイな負け方とか、相手を追い 詰めない勝ち方といったコミュニケーション上の様式が、日本語のディベートには余りないのです。学生運動の世代なども「ナンセンス」といった罵声を浴びせ て「自己否定」を強要するなどかなり粗っぽかったわけです。今でも議会のヤジとかにそうした野蛮さは残っていますし、今どきのネットでの炎上なども同じこ とだと思います。

そのあたりに、新しい「共存のコミュニケーション」を模索しつつ、まずはディベートによって価値判断を伴う、動的・相互的な頭の使い方の基礎訓練を行う場を公教育に導入してゆくこと、これは待ったなしであると言えるでしょう。》

まあ、それはそうなんだろうなあ。ただ、哲学の学会ですら、上記の意味でのきちんとした「議論」をするのがいかに難しいかを考えると…。

Thursday, September 09, 2010

『差異と反復』をエピステモロジーとして読む


行きたいなあ。私が書こうとしている論文(「哲学と科学――ドゥルーズか、ベルクソンかIV」)ともろに関係する主題なだけに…。

Tuesday, September 07, 2010

失敗

エピステモロジーの発表は正直に言ってあまり良くなかった。いろいろ言い訳しようと思えばできるかもしれないが、それは言い訳にすぎない。

研究は打率だと思っているので、切り替えて、また次に向かっていくしかない。

Saturday, September 04, 2010

雑務の一日

今日もほぼ一日、大学の業務。くたくた。それでも少しずつ読む。次はエピステモロジーの発表に向けて。

Valentine Moulard-Leonard, Bergson-Deleuze Encounters. Transcendental Experience and the Thought of the Virtual, Albany: State University of New York Press, SUNY Series in Contemporary French Thought, 2008.

Keith Ansell Pearson, Philosophy and the adventure of the virtual. Bergson and the time of life, Routledge, 2002.

Thursday, September 02, 2010

デカルトとパスカルの間で

哲学と社会学の覇権争いと書いたが、もちろん私の主観ではない――さらに断っておくが、この争いのどちらか一方に与する形で書こうというのでもない。私は両者の良いところを取りたいと考える。当事者の一人、ブルデューの『パスカル的省察』を引いておこう。

《同時代の社会科学に対する戦いでハイデガーが展開したこうした戦略、とりわけ社会科学の成果を社会科学と戦う武器にするという戦略は、1960年代のフランス哲学の「前衛」によって再び採用された。あるいは再び作り出された。

フランスの社会科学は、哲学の覇権主義的野心に対して自律性と固有性を確立するために、ときには哲学の地盤で、哲学と対決する必要があったために、デュルケム以来、哲学の伝統の中に深く根を下ろしていたが、60年代には、大学界において、また、知識界においてさえ、支配的な位置を占めるに至っていた。レヴィ=ストロース、デュメジル、ブローデル、あるいはラカンも含めて、「構造主義」というジャーナリスティックなレッテルで大雑把にくくられた人々の仕事がそのことを証している。

当時のすべての哲学者は併合主義的な敵対関係の中で社会科学との関連で自己定義を行なわなければならない状況に置かれた。彼らは意識的あるいは無意識的に二面作戦を取り、ときには二股をかける者もいた(「アルケオロジー」「グラマトロジー」などのような「―ロジー」効果や、その他の科学めかした手管に頼って)。こうして彼らは、それでハイデガーの弟子になったわけでもなく、その必要もなかったのだが、社会科学に対してハイデガーが使ったのとよく似た乗り越え戦略を見つけたのである。》(邦訳50-51頁)

もちろん、このようなブルデューのポストモダン批判をルノーやフェリー――「80年代の小論争家たち」――の粗雑なそれと混同してはならない。

《社会科学に対して距離を保とう、明確に画そうとする姿勢(これは社会科学が彼らのヘゲモニーを脅かしつつあっただけに、また、彼らが目立たない形で社会科学の成果を取りこんでいただけにより強く表明されたのだが)はおそらく、70年代の哲学者が進めつつあった、素朴でお人好しな人格主義ヒューマニズムとの断絶が、(デュルケム派)社会科学がすでに世紀初頭から提唱していた「主体なき哲学」に彼らを送り返したにすぎないことを、彼らと彼らの読者に見てとれなくする役割を果たした。

その結果、人間諸科学の客観主義的哲学の「全体主義的」派遣に対して30年代から戦後初期にかけて立ち上がった「実存主義者たち」(サルトルや『歴史哲学序説』の初期アロンのような)に対抗して、60年代に「主体なき哲学」を提唱した彼ら自身に対して、80年代の小論争家たちが「主体の回帰」を説いて流行の振り子を振り戻そうとするに至った、という次第である。》(68-69頁)

こうしてブルデューは、60年代の「主体なき哲学」と、「制度化した余暇(スコレー)」としての「エコール・ノルマル(と準備学級)」との関係について、制度論的な分析を行なうことになるのだが、ここまでは、私はブルデューに賛成である。

しかし、彼が「パスカル的」と呼ぶ次のような姿勢――「象徴権力」への眼差し、根拠づけの野心の拒否――に留まることは出来ないと感じる。

《「モダン派」にせよ「ポストモダン派」にせよ、わが哲学者たちがさまざまな対立を越えて共有しているものがあるとすれば、それはまさに言説の力に対する過度の信頼である。レクトールに典型的な幻想である。レクトールというのは、アカデミックな注釈を政治的な行為と、あるいはテクスト批判を抵抗の行動と取り違える、そしてコトバの次元の革命をモノの次元の革命として生きる輩である。

偉大な英雄的役割への恍惚とした自己同一化の衝動を掻き立てるこの全能という夢に陥らないようにするには、どうすればよいのだろうか。私は何よりまず、思考と思考の力の限界だけでなく、思考を行使する際の諸条件について考えをめぐらすことが大切だと思う。社会的経験は地理的にも社会的にも必然的に部分的かつローカルで、社会世界のいつも同じ小さな区域に局限された経験である。にもかかわらず、多くの思想家にそうした経験の限界を逸脱させてしまう諸条件について考えをめぐらすことが大切である。世界の流れを注意深く観察すれば、思想家はより謙虚になるはずである。》(10-11頁)

デリダとブルデューは、思われているほど遠くはない。超越論的な「可能性の条件」「枠」「パレルゴン」に執り憑かれた思想家たちである。経験の限界――「経験の転回点」(ベルクソン)――を逸脱させてしまう諸条件について考えをめぐらすことが、それらの諸条件そのものを変えることに役立つのか否か。役立つと信じるか否か。言葉の力を信じるか否か。どこまで信じるのか。どれ以上信じれば過度と見なされるのか。

これは実は、デカルトとパスカルの間にも見られる対立ではあるまいか。デリダとブルデューの対立とは、デカルト対パスカルの反復であろうか、それとも『パンセ』のパスカル対『プロヴァンシアル』のパスカルの反復だろうか。そうだとして、どちらがどちらなのだろうか。そのどちらかにつくのではなく、両者の緊張関係の中でものを考えることは可能だろうか。それは単なる2010年代の小論争家の一人の矮小な折衷主義にすぎないだろうか。

Wednesday, September 01, 2010

サイト・スペシフィックな哲学教育

大変なときに励ましてくれる友人たちがいるということは本当にありがたいことだ。
少しずつでも前に進まねば。

さて、ynさんからGREPhの精神を継ぐ、ACIREPhの情報をいただきました。彼らは「高校における哲学教育をどうするか」という問題関心からさまざまな提言を行なっている団体のようで、私のように、地方の小さな私立大学で哲学を教える者にとっては、なかなか興味深いものがあります。

再来月(10月23,24日)に研究会をやるようですが、そのテーマが「理科系(技術系)における哲学教育」です。要旨の一部を翻訳しておきましょう。

《問題は、技術系の生徒たちが哲学を「できる」かどうかというよりは、「なぜ」彼らが哲学せねばならず、「いかなる条件のもとでならば」哲学できるようになるのかを知ることである。

今日、哲学教育の目標は、文科系・理科系を問わず(時間数の違いにかかわらず)あらゆる系で同じ文言が用いられている。「判断の反省的な行使」である。だが、この文言は曖昧であり、生徒たちが何を学ばねばならないのか、一年間哲学を学んだ後でいったい彼らは何が出来るようにならねばならないのかを正確に把握させてはくれない。したがって問いを組み立て直す必要がある。

私たちが提案するのは、大文字の哲学(哲学「というもの」)から出発する代わりに、生徒たちから出発することである。彼らはいったいどういった存在なのか。彼らが教育に要求しているのは何なのか?どれほど、どのような点で、哲学は、他の分野とともに、それら以上でもそれら以下でもなく、生徒たちの職業的かつ個人的な生活のために、彼らを知的に武装させることに寄与しうるのか?2500年の哲学の遺産と同時に現代に生きる哲学の中で、彼らの教育にとって有益(bénéfique)なものとは何か?私たち哲学教師は、いかなる道具(いかなる概念や概念的区別、いかなる知と文化の要素)を彼らに伝えていると言えるのか?私たちの助けによって、彼らはいかなる知的な姿勢を我が物にすることを望みうるのか?彼らが何を理解し、何を出来るように助けてあげられるのか?》

重要であり、かつ非常に危うい問題提起だ。サイト・スペシフィックな哲学教育の必要性。高みからの一般論でなく、具体的な提案の模索。

Tuesday, August 31, 2010

新たなる旅立ち

数日後に福岡を発つという2歳年下の後輩とランチを食べた。
いろいろな事情が折り重なって、研究者の道を断念するのだという。
新たな道でのご成功を心から願っています。

これから研究者を目指すという学生の方々には、
あなたが進もうとしている途はとても険しいものだと
再度念を押しておきたい。

私だって決して他人事でない。気付けば息苦しいことばかり。
数年後、いや一年後どうなっているか。

昨日着いた本のうち、幾つかを「デカルトとパスカル」「哲学と哲学教育」執筆のために、ぱらぱらめくる(もちろんこれまでにもいろいろ読んでましたよ)。
Victor Cousin, Cours de philosophie. Introduction à l'histoire de la philosophie (1828), Fayard, coll. "Corpus des oeuvres de philosophie en langue française", 1991.

Bernard Bourgeois (éd.), La philosophie et la révolution française, Vrin, coll. "Bibliothèque d'histoire de la philosophie", 1993.

Jean-Marc Levent, Les ânes rouges. Généalogie des figures critiques de l'institution philosophique en France, L'Harmattan, coll. "Philosophie en commun", 2003.

最後の本は、19-20世紀に講壇哲学が確立してきた様子と、それを批判する思想家たち(表題の「赤いロバたち」とはアランの言葉である)が誕生してきた様子を同時発生的・構造的なものとして描き出していて興味深い。

さて、そろそろ今まで書き散らしたものを一気にまとめて、原稿に仕上げていかないといけない。

Monday, August 30, 2010

デカルトとパスカル

今日は引き続き大学の仕事で半日つぶれる。その他の時間にいろいろ少しずつ読む。
夜、amazon.frから配達。

Jean-Claude Brisville, L'entretien de M. Descartes avec M. Pascal le jeune, éd. Actes Sud, 1986.

これは1985年に初演された戯曲でつい2年ほど前にCD化もされたので、それも一緒に買ってみた(Le Livre Qui Parle, JC980)。

ごく短い文章なのだが、とある文化辞典に「デカルトとパスカル」という項目を書かないといけない。その一環である。CDも、戯曲自体も、二人のごく基本的な違いを分かりやすく見せてくれており、17世紀の思想家に対する現代人の今なお尽きせぬ関心を示している点で貴重である。

文化辞典なので、思想的な事柄に深入りするつもりはまったくない。二人のフランスにおける文化的受容をごく簡単に描き出せればと思っているのだが、それにしても字数が短い。

『デカルトとフランス』についてはアズーヴィの本があるのだが、あと問題は、「パスカルとフランス」である。こちらはどちらかというと伏流なので、ちょっと厄介。

Saturday, August 28, 2010

哲学教師の肖像(カニヴェ、パントー)

André Canivez, Jules Lagneau professeur de philosophie. Essai sur la condition du professeur de philosophie jusqu'à la fin du XIXe siècle, tome I : Les professeurs de philosophie d'autrefois, Publications de la Faculté des Lettres de l'Université de Strasbourg, 1965.

この本は、フランスの哲学教育論や哲学制度論、哲学教師論をやるときには必ず引かれる古典中の古典である。

それと現代の哲学教師像についての社会学を併せ読む。

Louis Pinto, La vocation et le métier de philosophie. Pour une sociologie de la philosophie dans la France contemporaine, éd. Seuil, coll. "Liber", octobre 2007.

まあ正直な感想を言うと、ここまで来ると、徴候的だと思う。哲学は純粋な観念からなる天上の王国から降ってきたわけではない、哲学者もまた、個人的な利害関心を持ち、ある理論的な場(業界)の中に位置を占めることで理論的生産を行なうのだという、それは別にいい。問題はその後だ。

パントーは、ブルデューの『パスカル的省察』の次のような一文を引いて、「哲学の社会学」の正当性を訴えるのだが…。

《哲学的な場に固有の論理と、その場の中で生み出され遂行される傾向や信仰が社会的に「哲学的」と認められるその論理を分析することほど[…]哲学的な行為はない》

まあ、そのとおりなのだが、ならば、哲学の社会学はやはり哲学に属するのであり、ことさら学問分野としての「社会学」と「哲学」を対立させる必要はない。

これは実は(少なくともフランスにおける)哲学と社会学の覇権争いの伝統を忠実に(不毛に)継いでいるのである。

Saturday, August 21, 2010

近況

まあ、いろいろと大変である。

8月23日まで、重要な雑務。
8月22日、大学論読書会。
8月末日まで、辞書項目執筆。
8月末日、ギリシャ語勉強会。
9月6日まで、エピステモロジ―発表の準備。
9月6日以降、後期授業準備。
9月17日まで、韓国遠征、発表原稿の準備。

Sunday, August 01, 2010

「計測」しえないものを「計測」すること――テストの採点にまつわる感慨

テストの採点の季節である。具体的な採点に関する感慨はさておいて、しかし、採点とは一体何をどのように計るものであるべきなのか?

例えば、答案の記述の中で、ソフィストについて「感情的に言葉を用いていた」という表現が用いられていたとする。この表現は間違っており、「感情に訴えるように言葉を用いていた」という表現が正しいとする。

このような文章表現能力は、ほとんどの場合、講義内で得られたものではない。それまでの蓄積であり、言ってみればどれだけの教育資本がその学生に投下されてきたかということを示している場合が多いのであろう。これで点数をつけることは、究極的には学生のそれまでの勉強歴全体を「採点」することではあっても、当該講義の理解度・習熟度だけを適正に計ることになりはしないのではないか?そんな疑念が頭をよぎらなくもない。

そこで、当該講義内で、このような文章表現の繊細さ、そして概念的区別に意識的に目を向けさせたとする。「感情的に言葉を用いる」のと「感情に訴えるように言葉を用いる」のは二つのかなり異なる事態なのだ、と。すると、今度は、この記述は、知識を問う問題になってしまう。要は聞いていたかどうか、知識としてこの区別を習得したかどうかになってしまう。すると、自分で考えて答案を練り上げてくるという、哲学の試験にとって本質的な作業に結びつかなくなってしまわないか。

つまり、講義内で試験対策をしなければ、講義以前の学生の「実力(テスト力)」が計られることになり、試験対策をすれば、講義の目的(自分で考えを練り上げてくること)が破壊されるような気がするのである。

ある講義の中で学生がどれだけ学び、どれだけ努力したかを正当に計るには、私たちはいったい何を測るべきなのか?「計測」しえないものを「計測」するにはどうすればいいのだろうか?

Tuesday, July 20, 2010

リストの思想

偶然聞いたのだが、現在、リール第三大学教授(美学・芸術哲学)である――知らなかった。ということは、カトリーヌ・キンズレールの後任ということになろうか――ベルナール・セーヴが、《さまざまなリスト:哲学・合理性・倫理》というタイトルで、「リストの哲学」について、ホスト(ホステス?)のモニック・カント=スペルベールと語っていた。リストと言っても、音楽家のリストではなく、一覧表の意味のリストである。

Bernard Sève, De haut en bas: philosophie des listes, éd. Seuil, coll. "Ordre philosophique", janvier 2010.

リスト以上に単純なものがあるだろうか?にもかかわらず、なんというパラドックスだろう。リストは散文的なものだが、詩人はリストを歌わせる術を知っていると見える(フロベールの『ブヴァールとペキュシェ』、サルトルの『嘔吐』)。リストは閉じたものであるかと思えば、開かれており、静的であるかと思えば動的であり、有限であると同時に無限であり、秩序立っていると同時に無秩序であり、それらすべてであると同時に、一瞬たりともリストであることをやめないのだ。ドン・ジュアンの収穫リストと、科学的ないし法的な用語リストとの間に何か共通のものがあるのだろうか?

リストは、何気ない買い物リストから厳かに読み上げられる死者のリストまで、人間の根本的な実践の一つであるにもかかわらず、それ自体が思考の対象とされることはほとんどない。誰かが、あるいは何かがリストの中で、リストの背後で語っているのだろうか?もしそのようなものがあるとして、どのような「リストの思想」がそこで語られていることになるのか?「リストで」行動し、思考するとは何を意味するのか?リストは美学的な価値を持つのか?それは何かを証しているのか?

『上から下まで――リストの哲学』は、リストという日常的なものを真剣に受け取る。作家や詩人、哲学者だけでなく、芸術や社会的な活動の中にも、リストの概念と用法を分析する。誰もが、必ずしもなぜ作るのか分からないままに、リストを作る。リストは、その多様な現れから見て、人間精神の機能の様々なる徴候として読まれうるのではないか。

Tuesday, June 29, 2010

7/3人文社会科学系若手研究者セミナー@日仏会館(恵比寿)

日時 2010年7月3日(土)13時30分

場所 日仏会館501会議室
参加費 無料

講師 伊達聖伸 (東北福祉大学)、藤田尚志(九州産業大学)、伊藤綾 (早稲田大学)

今回の若手研究者セミナーは、マルセル・ゴーシェの『民主主義と宗教』(トランス ビュー、2010年)を共訳されたライシテ研究者の伊達聖伸さんとベルグソン研究者の藤田尚志さん、フランソワ・アルトークの『「歴史」の体制:現在主義 と時間経験』(藤原書店、2009年)を訳されたボードレール研究者の伊藤綾さんに報告していただき、宗教学・政治思想・哲学・歴史・文学を横断する自由 な相互啓発の会にしたいと思います。ふるってご参加ください。それぞれの論者は発表が45分、討論15分を予定しています。

13:30 開会 三浦信孝・廣田功
13:45 伊達聖伸 (東北福祉大学)「ライシテ研究の現在:ジャン・ボベロ、マルセル・ゴーシェ、ルネ・レモンの著作の翻訳を通して」
14:45 休憩
15:00 藤田尚志(九州産業大学)「ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』を今どう読み直すか」
16:00 休憩

16:15 伊藤綾 (早稲田大学)「多文化世界における「いき」の用法:九鬼周造『いきの構造』再読」

詳細・アクセスはこちら

Tuesday, May 25, 2010

5/29『哲学への権利』をめぐる仏文学会ワークショップ@早稲田大学

西山雄二さんと水林章先生――ルソーの結婚論では『幸福への意志』(みすず書房、1994年)を勉強させていただきました――とご一緒させていただきます。私自身は大したことは言えないと思いますが、あとのお二人のお話を楽しみにお越しいただければ幸いです。

映画『哲学への権利』15.45-17.15
討論17.15-18.15

大会のプログラムに掲載された告知文

映画『哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡』は、1983年にジャック・デリダやフランソワ・シャトレらがパリに創設した半官半民の研究教育機関「国際哲学コレージュ」をめぐる初のドキュメンタリー映画である。映画は、歴代議長ミシェル・ドゥギー、フランソワ・ヌーデルマン、ブリュノ・クレマン、現副議長ボヤン・マンチェフ、新旧のプログラム・ディレクターであるカトリーヌ・マラブー、フランシスコ・ナイシュタット、ジゼル・ベルクマンへのインタヴューから構成される。この研究教育機関の独創性を例として、本作品では、収益性や効率性が追求される現在のグローバル資本主義下において、哲学や文学、芸術などの人文学的なものの可能性をいかなる現場として構想し実践すればよいのかが問われる。本作で提示されるのは、大学の余白に研究教育制度を創設することの可能性、知の無償性の原理、教員の民主的で平等な関係、カリキュラムやプログラムの理念、学際性と哲学の関係の問い、経済的価値観と人文学の関係、研究教育の場所の問い、デリダの脱構築思想と教育の関係といった多様な論点である。関係者7名へのインタヴューを通じて描き出され、問われるのは、大学、人文学、哲学の現在形と未来形である。上映後の討論は、上述した主題から出発して、フランスの共和制理念と教育の関係、人文学的教養の新たな形、哲学と制度の問いなどの討議に当てられる。哲学者デリダがパリに創設した国際哲学コレージュを主題とした映画上映ではあるが、しかし、本ワークショップの趣旨はあくまでも、現在の日本において大学や人文学の現状を診断し、討議を通じてその展望を切り開くことである。

Sunday, May 16, 2010

二丁拳銃

学内で講演を二つ。4月28日(水)に「異文化体験」ということで、北フランスでの生活体験を話し、大ヒット映画『ようこそ北国へ』を見せた(人口6000万のフランスで観客動員2000万以上というのだから、凄さが分かってもらえるだろう)。

昨日、5月15日(土)、今度は「留学体験」ということで、留学にまつわる話に中心を移して話した。同じ話にしようかとも思ったし、DVDを使うかどうかも最後まで迷った。というのも、半年留学してきた(しに行く)学生に話すのだが、同じ留学体験といっても、博士論文を執筆しに行くとのはもちろん相当異なるので、「重い」というか説教臭くなりすぎてはいけない、ということを懸念していたのである。

しかし、たとえ半年でも留学は留学であり、私がやってきたことをなるべくそのまま伝えることで、何か伝わることもあるだろう、と最終的に考え、留学中の勉強方法などを紹介した。当時メモ魔だった(小さな辞書とメモを二丁拳銃のように必ず携帯していた)ことを紹介し、実物を見せたりした。

「ショボそうなこの人はこの人なりに闘ってきたんだなあ」と何か感じてもらえればと。

Wednesday, May 05, 2010

オフの過ごし方

昨日は独仏勉強会。ドイツが専門のgさんとフランス系の私が、お互いに「今読みたい独仏語の哲学テクスト」を訳してきて、相手に正してもらうというもの。y君の勉強会も組み合わせて、全部で5時間の長丁場。切磋琢磨とはまさにこのこと。

事情なんて誰にでもある。大切なのは、いかに勉強の場を確保し続けられるか。
言い訳はいい。目指す場所がある。



とうとう阪神・金本選手の連続試合フルイニング出場がストップした。
チームのことを考えれば、もっと早くにストップさせるべきだったと思うが、
個人の成績としては本当に凄いことだ。

■マイナスのイメージを消して試合に臨む

豊富な練習量が金本の連続試合フルイニング出場を支えている
豊富な練習量が金本の連続試合フルイニング出場を支えている【写真は共同】

――連続試合フルイニング出場を続けられるのはなぜでしょうか

 見ていて思うのは、イチローも同じなんですけどルーティン(毎日繰り返す練習)を大事にしていますね。金本の場合は試合前にストレッチをしないんですよ。野球選手は体に不安があると試合前にトレーナーにマッサージをしてもらったり、ストレッチを入念にしたりするんですが、金本はどこかに不安がある状態で練習と試合に臨みたくないから、準備運動はしますけど、特別なことはしないんです。
 また、ベテランは試合前の練習を軽めにすることが多いんですが、そこでも金本はしっかり練習します。「不安があるから練習しない」ということがイヤなんです。とにかくマイナスのイメージを消して試合に臨む姿が印象的ですね。

 野球選手としては本当に独特だと思います。自分が決めて信じたことを、とことん頑張れる選手なんです。トレーニングでいい方法があると聞けば積極的に試しますし、ほかの人の意見も聞きますが、自分に合わないと思えばすぐにやめます。
 シーズンオフもほとんどの野球選手はリラックスして、心と体を休めるんですが、金本はトレーニング中心に日程を組みますからね。ゴルフもしませんし、自宅にいながらダラダラすることがないんですよ。休むと決めたら海外や温泉に行って、しっかり療養することに集中するんですけど、オフをなんとなく過ごして、誘われたからお酒を飲んで……という生活はしていないですね。

■努力を続ける精神力と、厳しい練習に耐えられる体力があった

――東北福祉大時代からの付き合いになりますが、当時の印象は

 大学に入ってきたときは線が細い選手でしたね。スピードやリストの強さは感じましたけど、特別なセンスがある選手ではありませんでした。
 僕は金本の2年先輩で同部屋だったんですけど、金本は当時からホームランにこだわりがあったので、そこに向けて一生懸命練習をしたり、ウェートトレーニ ングをしていましたね。下級生はいろいろ雑用もあるんですが、毎晩部屋でも筋トレをして、時間があると屋上で素振りをしていました。目標に向かって努力を続ける精神力と、厳しい練習に耐えられる体力がありましたね。

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