Wednesday, November 07, 2007

哲学と大学と…余暇

ドゥルーズ・スピノザ研究者であるIzumiS/Zさんの11月5日付のブログ「大学における哲学教育をめぐる雑感」を読む。

まったくそのとおりである。最後は、自分の哲学する力を高めること、それに尽きる。それには静かな時間、孤独な時間が必要だ。社交からも、ブログからも解き放たれる時間。こうして一方に余暇の問題がある。

他方で、学校で教わること、「学び」の重要性がある。とりわけ現在の若手研究者が高度な研究を遂行していく上で必要な語学力――正確な読解力だけでなく、書き、話す力――を確実に養成する制度的枠組み作りには、大学別といった枠を超えて、日本の西洋哲学研究者全体で取り組む必要があるように思う。

余暇と学び、要するに伝統的な「スコラ」の問題である。

西洋の哲学研究者たちは、長期休暇を利用して思索を深め、研究を進める。学期中は丹念な教育活動とダイナミックな研究活動(学会・研究会)に忙殺されるからである。

私たちの国の大学は、それを許す環境にあるだろうか?

そもそも、長期休暇自体が短く、しかも休暇中にしばしば拘束される(私は「一流大学」の話ばかりをしているわけではない)。これは日本の社会全体が労働過多を容認しているからである。日本は「経済大国」だと思っている人は多いが、日本企業の実に多くの部分は「時間泥棒」をしてはいないか(最近のpenses-bêtesの一連の記事を参照のこと)。
「短絡的な考えがもたらす害の例の一つは、多くの教授たちは週六時間しか働かないという現在の認識である。野球選手が、打者としてバッターボックスに立つ時間によって報酬が決まるとは誰も考えない。

他の選手が走るのに、キャッチャーはしゃがんでいるからといって、報酬が他の人より少なくて当然とは誰も思わない。

スポーツの世界からもう一つ例をとれば、例えば、冬季オリンピックのフィギュア・スケートの相対的人気は、速さを競う他の種目とは違った意味をもっている」(レディングズ、『廃墟のなかの大学』)

膨大な量の事務作業は、大学教員の仕事なのか?サッカーにおける「ホペイロ」の役割を、日本で大学を論じる人々はもっと知るべきだ。
Jリーグ開幕前、僕が日本に戻ってきたとき、日本サッカーには本当に何もなかった。ある程度予想はしていたけど、さすがに少し戸惑った。ブラジルでは、ドクターやマッサージ師はもちろん、ホペイロ(ポルトガル語で「用具係」)や洗濯係まで、選手を支える各ポジションに「プロ」がいたからね。僕が加入した読売クラブ(現・東京ヴェルディ1969)は、当時の日本では、プロフェッショナリズムという点では一番進んでいたと思うけど、それでもクラブハウスはプレハブ小屋の域を出ていなかった。スパイクの手入れもユニフォームの洗濯も、みんな選手が自分でやるのが当然のことだった。(『カズの手紙』第27回、2005年7月7日付)
(日本人ホペイロ・プロ第一号である松浦紀典(まつうら・のりよし)さんに関する基本情報は、こちらこちらなど)


日本の大学の研究・教育環境の整備状況は、Jリーグ開幕以前的である。独創的な研究活動を行なうにも、丹念な教育活動を行なうにも、財政支援だけでなく、何よりも時間が必要である。

そのためにこそ、経団連や財務省の推進する「資本の論理」、その尻馬に乗る文科省の「エクセレンスの論理」「産学共同」ではない道、もう一つのパフォーマティヴを、哲学的に、模索する必要がある。時間泥棒の張本人が時間をもっと有効に使えと説教するとは!

古来から時間が哲学の特権的主題の一つであったこと、哲学が「余暇」との関係抜きに考えられないことを思い起こせば、「哲学と大学」を論じるにあたって、時間と哲学、時間の哲学が問題にならないはずはない。


国立大交付金/地方国立大学を守ろう
(『山陰中央新報』、2007年5月30日付論説)

 国立大学の運営費交付金の配分をめぐり、ホットな論争が続いている。経済財政諮問会議の民間議員からの提案がきっかけだ。成果に応じて配分される競争的研究費だけでなく、日常の人件費などランニングコストにあたる運営費交付金も各大学の成果を反映した配分としたらどうか、というのだ。

 運営費交付金は、国立大収入の約半分近くを占める。教員数など規模に応じて配分され、人件費や日常の教育・研究費など基盤的経費として使われる。大学法人化後は毎年度1%ずつ減額され、一方で競争的研究費の割合が高くなってきた。

 提案は、国際競争力を高めるため、基盤的経費の配分にも競争原理を導入し、資金の選択と集中を促そうというものだ。

 これに対し国立大側は、成果の見えやすい分野ばかりが評価されることになり、基礎研究や自由な発想による研究の芽がつぶされる、と反論。産業基盤の弱い地方大学や教育系大学の経営が困難になると主張している。

 資源の有効活用は必要だが、大学の役割を考えれば、ここは国立大側の方に説得力がある。「努力と成果に応じた配分」と言うが、大学は産業界の下請けではない。企業にすぐ役立つ応用研究ばかりに目が向くような一面的な議論では国の将来を誤りかねない。

 ノーベル賞につながるような問題発掘型の研究には、研究者の自由な発想が不可欠だ。長期に問題に取り組める土壌が必要で、基盤的研究費は欠かせない。

 教育という視点も忘れてはならない。教員養成など人材育成はそもそも競争になじみにくく、すぐに「成果」が見えるようなものでないが、大学の重要な仕事だ。

 財務省の試算によれば、競争的経費である科学研究費補助金の配分実績で運営費交付金を再配分すると、現在より配分が増えるのは東京大など十三大学だけで、七十四大学が減額となる。

 中でも、教員養成が目的の教育系大学の減額幅は大きく、現状の一割以下になるところもある。まさに「技術開発に取り組める人たちが申請した件数だけでお金を配分したら、将来の人材を養う基礎にお金が回らなくなる」(伊吹文明文部科学相)。

 試算では、交付金が半分以下になる大学が五十大学。鳥取大が60%、島根大に至っては70%以上の減額となる。文部科学省によると、半分以下となれば経営破たんは免れないという。民間議員からは「努力しない大学がつぶれるのは仕方がない」「全都道府県に国立大が必ず一つ必要なのか」との声もあるが乱暴すぎる。

 私大の多い大都市圏と違い、地方国立大の地域への貢献度は大きいものがある。医師や教員など地域を担う人材育成で重要な役割を担っている。都市と地域の格差が広がる中で、地域と密着した地場産業支援の役割を担えるところがほかにあるだろうか。

 授業料設定などに自由競争を持ち込む動きもある。だが「効率」だけでこの問題を切り取るのはあまりに短絡ではないか。研究面での独創をどう生かすか、人材育成や地域の主体性をどう支えるのか、地方分権への展望も含めた複眼的論議が絶対に必要だ。



地域格差を誘導する恐れ/国立大交付金減額

 財務省は国立大学法人(全国八十七大学)の運営資金として国が支出している「運営費交付金」について、競争原理に基づき再配分する試算を公表した。

 科学研究の成果等という一面で評価した試算で、全国の85%の七十四大学で交付金が減額されるという内容だ。そして50%以上の減額が弘前大学の68.7%など五十大学、50%未満が二十四大学になるとされた。教育系大学は悲惨な内容だ。

 国の財政改革という命題の中で、歳出削減が検討されたものという。一つの試算とはいえ、直線的な評価であり、大学間格差を助長し、ひいては地域格差を誘導する恐れのある机上の財政理論といわざるを得ない。

 国立大学法人が歳出削減の聖域とはいかない。しかし、財務省が示した試算が科学研究費の配分実績を尺度にしたことには、異論がある。わずかに東大、京大、東京工業大、東北大、北大など十三大学が増額されるだけ。これに対し、地方大学は脅かされる内容だ。

 こうした財務省の成果主義に対抗し、文部科学省は大学の地域経済に与える影響を検証し、弘前大学の四百六億円、雇用創出六千七百七十四人をはじめ、中堅大学が生み出す経済効果を試算。「大学の地域貢献を無視した(今回の)議論は、あまりに乱暴」と、財務省試算に反発した。国が教育再生を叫ぶ中で、多くの大学も同様だろう。

 科学研究とはいっても、地方の経済基盤は脆弱(ぜいじゃく)で、大学の産業振興研究(シーズ)への企業参加は極めて少ない。そもそも中央との格差は、歴然としている。

 一方で、大学の役割には教育、研究、地域貢献がある。科研費のみを指標に大学を測り、地方切り捨てにつながるシミュレーションに、真に合理性や総合的見地があるのだろうか。

 弘前大学の二〇〇七年度予算をみると、予算総額はざっと三百六十億五百万円。約半分は総人件費に充てられる。歳入は付属病院収入百数十億円を見込み、国からの運営費交付金が約百二十億円。これに授業料、検定料、入学金などが加わる。大学の経営に、運営費交付金がいかに寄与しているかがわかる。

 時期は示されていないが、仮に試算通り68.7%、約八十億円もの減額なら総合大学の維持、経営は死活問題となる。

 いま、日本社会を少子化の大波が襲う。「大学全入時代」に突入するともいわれる。さらに、国は未曾有の財政赤字に苦しんでいる。大学間に競争原理を導入した独立法人化の狙いのその深奥には、こうした時代背景を基にした大学の再編・統合があるといわれる。もちろん、各大学は改革を積極的に進め、一層の努力をする必要がある。

 運営費交付金については経済財政諮問会議等でも、一部から見直し論や意見書が出された。弘大は二十五日夜、政府諸会議に対し遠藤正彦学長名で緊急声明を出し「人を育むための百年の計に真に耐えるものか疑いを持たざるを得ない」と批判した。

 試算について財務省主計局は「大学改革の一つの論議の中で、交付金配分ルールも論議への一つの材料」としたが、地方をよく見つめる必要がある。

2 comments:

Anonymous said...

初めてコメントいたします。哲学にも大学にも教育にも縁のない民間会社のいち被用者であるわたし(ああ!もう27歳になってしまいました)が、哲学・大学・教育をめぐる議論に言及する資格をもたない素人であることは明らかですが、それにもかかわらず(いや、それゆえにこそ?)、有資格者たちの環の外から野蛮な雑音を投げ入れることによって、いくばくかの貢献(そのPositivitaetは大いに請け負いがたいですが)をなしたいと願います。
さて、このたびは、本の紹介をいたします。すでにご参看済みであることを恐れますが、『日本の大学どこがダメか』(メタローグ、1994)所収の一連のエセーは一読(ならず再読)するに値すると信じます。吉田城氏、川端香男里氏、里見達郎氏、usw.――なかんずく若桑みどり氏のエセーは、わたしのような部外者に対しても、制度改革の喫緊の必要を強く印象づけます。ドン・キホーテ流の仕方でエリート主義をdurchsetzenすることの意義、usw.については、いずれまた。

hf said...

anonymousさん、コメントどうもありがとうございます。

見ず知らずの人との交流はきわめて苦手ですので、返事が遅かったり、なかったりしても、どうぞご勘弁ください。しかし、今回のように有益なコメントには必ず目を通しますので。

『日本の大学どこがダメか』読ませていただきます。

共に、離れ離れに、この問題について考えていただければ幸いです。