Friday, November 08, 2002

citephilo 2002

hfです。

今年もcitephiloが始まろうとしています。
(ML01054など参照)

今年は明日金曜日から始まり、三四週間続きます。主な参加者は、バディウ、
バリバール、ラクー=ラバルト、ジジェク、ルーディネスコ、などなどです
(完全なリストはHP上)。ブルデュー特集では、パントーやメイヤー、マシュ
レが話します。マシュレの「ブルデューとパスカル」は一読の価値ありです。
どうぞ皆さんおいでください。

Thursday, October 24, 2002

"Le toucher, Jean-Luc Nancy"(2000)

 デリダの350頁近い大著"Le toucher, Jean-Luc Nancy"(2000)は、ナンシー
のほぼ全ての著作を"Le toucher"という言葉で読み解いてみせる。

 "Le toucher"というのは、フランス語の特性を活かした言葉で、leを定冠
詞、toucherを名詞ととれば、the touch(触覚)となるが、leを人称代名詞、
toucherを動詞原形ととれば、touch him/it(彼・それに触れること)となる。

 デリダは、ナンシーの思想における触覚(le toucher)の概念の重要性、と
同時にその危うさ、曖昧さを、彼にそっと触れる(le toucher)ような形で、つ
まり距離をとりすぎるのでも、同一化してしまうのでもない紙一重のところに
留まりつつ、指摘してみせる。

 この微妙な距離どりをどうやって実現するのか。十歳年上のデリダが後輩に
して友人のナンシーに、愛情に満ちた厳しさで、彼の哲学史理解(とりわけア
リストテレスについて)の不十分と、そこから来る彼の哲学の問題点をたしな
めつつ(第一部)、触覚概念の系譜(とりわけ1.メーヌ・ド・ビランからメ
ルロに至るフランス・スピリチュアリスムの流れ、2.ドイツにおけるハイデ
ガー、フッサールの現象学、3.マリオン、マルディネらのフランス現象学
派)を自ら辿りなおしてみせることで、それらの伝統からナンシーの独自性を
切り離そうと試みる(第二部)ことによって、である。

 "Le toucher"は、デリダの他のモノグラフィー同様、Gift(英語で言えば贈
り物、独語で言えば毒)、友人の哲学者への毒入りの贈り物である。 hf

Tuesday, October 22, 2002

ボチュル、『カントの性生活』(6)

 京都朝日シネマ、みなみ会館、懐かしいですね。オールナイト徹夜もう体力的に無理かも(笑)。

***

 理由のないことではない。このテクストを手にした幾人かの大学人たちは驚きと不満を隠さなかったし、ソルボンヌ大学教授にして(今なお)高名なカント研究者たるヴィクトル・デルボー(1862-1916。この没年に注意!)は、「人類が持ちえた最も偉大な天才の名声を汚す」者としてかつての弟子を非難
する絶縁状をボチュルに送り、彼とのすべての関係を断ったのであった。

 実際、当時のフランス新カント派は、ソルボンヌで絶大な権勢を誇っていた(時期が特定されていないことに注意!たとえば二十年代後半、すでに学生の間では、サルトル、ニザンなどが講壇哲学の破産を宣告していた)。未だかつてマルクス主義も、実存主義も、ハイデガーも、精神分析も、このソルボンヌの哲学部に市民権を得たことはない(これは事実である。ただしフッサールの現象学は、現在、かつての新カント派と同じ隆盛を誇っていることを付け加えておこう)。カントだけが、共和主義的・非宗教的合理主義のありとあらゆる流派をまとめあげる収束点の役割を果たしえた(権勢を誇るのにもそれなりの理由があると言うことである。「厳密な学」ぶりたいマリオンのパリIV系(つまり神学系)現象学やバルバラスのパリI系(つまり世俗系)現象学然り)。



 だが、そうであるからこそ、「フランス新カント派」とでも呼ぶべき人々による伝記的事実のまったき無視は、再考される必要があった。「僕は思想の巨人に触れてしまいました。すべてをひっくり返す彼の思想の重みに押しつぶされそうです」と恋人に愚痴をこぼしながらも、ボチュルは、自分の研究の重要
性を確信していた。「僕にとって、カントの性生活は、西洋形而上学の最も重大な問題の一つなのです」。さらに数年後にはこう断言するまでに病気が進行している。「カントのセクシュアリティは、カント哲学の理解に至る王道なのです」(笑)。

 このボチュリスム的アプローチによって、『純粋理性批判』を「自伝的ドラマ」として読むことが可能になるにもかかわらず、カント哲学のありきたりのヴィジョンをことごとく覆そうとするこの新たな読解、まったくもって「徴候的な読解」は、残念ながらアカデミズムでは軽蔑的に黙殺されてしまった、と
パジェスは慨嘆し続ける。私はそこまでボチュリスムに肩入れするつもりはないが、それでもソルボナールたちに問題の真の争点=賭け金が見えていなかったことは確かである。

 以上に見られるとおり、論争の場はカントの性生活。論争に真に賭けられたものは哲学研究と自伝的事実の関係である。

Sunday, October 20, 2002

精神分析における理論と実践

 こんにちは。別に続編が続々登場というわけではないので、ご安心ください(笑)。

***

 人がその影と縁を切ることができないように、いかなる科学もその辺縁に位置する両義的な領域をあますところなく切除してしまうことができない。

 たしかに化学(chimie)は今や、錬金術(alchimie)とは何の関係もない。しかし、たとえば遺伝子工学の領域で現在行われているすべての仕事が将来、嘲笑の種にならないという保証もまたどこにもない。

 精神分析とは何か。医療活動の一種なのか、それとも人文科学なのか。そもそも「科学」と呼ぶべきものなのか、それとも動物磁気説や交霊術のような、いずれは「似非科学」(para-science)と呼ばれるようになるものなのか。こうした一連の問いは、その誕生以来、精神分析につきまとい続け、今なおその影の中に潜んでいる。

 「理論と実践」の問題は、明らかにこれらの問いの中心に位置している。これから数回にわたって紹介するのは、この問題を考えるうえで欠かせないと思われる「思考の素材」である。



 まず最初に全体のプランを示しておく。

1)「理論と実践」という問題構成の一般的な広がりを抑えておくために、カントの有名な論文「理論では正しいかもしれないが実践の役には立たない、という通説について」(1793)、いわゆる「理論と実践」の序論的な部分を要約する。

2)「理論と実践」という問題構成の現代的な射程を抑えておくために、アルチュセールの『マルクスのために』(1965)、とりわけその一章「唯物弁証法について-さまざまな起源の不均等性について」から、「理論的実践」に関する部分を要約する。

(ここで「科学の科学性そのもの」を考えることが実は不可欠なのであるが、科学哲学の文献が手元にない・・・thoery-ladenness of observation.)

3)「精神分析の科学性」という問題構成の一般的な広がりを抑えておくために、著名な女流精神分析史家であるルーディネスコの『なぜ精神分析か?』(1999)、とりわけその第三部第一章「科学と精神分析」を要約する。

4)「精神分析の科学性」という問題構成を「精神分析と人文科学」という観点から考察している、死後出版されたアルチュセールの講演速記録『精神分析と人文諸科学』、とりわけ同題の第一講演を要約する。

5)「精神分析の科学性」という問題構成を最も深く探究したラカンのアプローチを、すでに公刊されているセミネール、とりわけセミネールXI「精神分析の四基本概念」(1964/1973)から該当部分を要約する。

もちろんこれ以外にも読むべきものは多々あります。皆さんからも「これ読まないと」とご提案いただければ幸いです。hf

Friday, October 18, 2002

ボチュル、『カントの性生活』(5)

 カントは哲学の著作を仕事の前や後に、あるいは情熱に焦がれて、あるいは癒しのように書いたのです。彼は大学界のお偉方たちからは長い間、アマチュア哲学者と見なされていました。非常に遅くにではありますが、栄光が訪れた後も、カントは生き字引の役を演じ続けました。

  75歳まで、すなわち力の尽き果てるまで、彼は講義を続けたのです。退職年金がなかったからです。なんという骨折り仕事でしょうか!生きていくのも楽では ありません。平然と謝礼を払わなかった学生もいましたし、払いたくともお金がなく、友達に薦められたからやって来たという者たちは無料で迎え入れられたこ とでしょう。

 農民が一年中畑と作物に縛られているように、カントは長期休暇を取ることができなかったのです。子沢山の一家に生まれた、つましい職人の息子、この知識人の生涯はそれだけでもすでに一つの成功とは言えないでしょうか。

  パリやヴェニスへぶらつきにでも行ければ、それはさぞかし良かったことでしょう。結婚していればさぞ良かったかもしれません。子供たちを養うために講義の 数を増やし、その子供たちが廊下をはしゃいで飛び跳ねている間、講義室ではロシア人客やプロイセン人客やを手放さぬよう努めながら、よく聞き取れないか細 い声で講義を続けるカント…

***

 しばし脱線的考察。ボチュルの講演自体はその真偽を疑わせ る要素はないにしても、フレデリック・パジェス(友の会代表)の解説文を読んでいると、このボチュルなる人物は本当に実在するのか、ヌエヴァ・ケーニヒス ベルクも、カント原理主義者の超越論的共同体も、すべてはボルヘス的欲望に取り憑かれたフレデリック・パジェスの倒錯的創作ではないのかという疑念が、ど うしても頭をかすめてしまう。以下、怪しい点には注意を喚起する。しかしそういった点をすべて考慮に入れたとしても、この小冊子は取り上げるに値する試み を行なっていると思う。



 私は先に「あらゆる危険を承知で」と言った。敗戦直後のドイツ人移 民共同体の前で、フランス人がドイツの哲学者について語るという現実的・政治的な危険だけではない。「カント原理主義者と呼ばれもしたあの奇妙な移民た ち」の前でカントについて語るという思想的・イデオロギー的な危険(笑)だけでもない。その両方をあわせた政治的かつ思想的な危険があった。

  カント哲学の愛好者(専門家も含めて)にとっておそらくは最も触れられたくない、と同時にいくらか誇るべき点でもあるような問題を前面に押し出すボチュル が最も不安に思っていたのは、辺鄙な土地に住み着いたドイツ人移民共同体であるというよりは、フランス本国の思想的=政治的権威、とりわけソル
ボンヌの動向であった(ボチュルの具体的な伝記的事実について何も分からない以上、ソルボンヌが最大の脅威であったと断定することはできないはずだが)。(続く)

Tuesday, October 15, 2002

ボチュル、『カントの性生活』(4)

*カント商店

 これまでほとんど言われたことがありませんけれども、カントがまったくケーニヒスベルクを離れたがらなかったことには、ごく単純な理由があります。彼はそこで「店」を営んでいたのです。

 人々はカントが大学教員 だったからといって、とかく彼のことを、大学から給料をもらい、日々の必要に迫られて汲々とすることのなかった、ほとんど官吏のように思い描きがちです。 これはまったく誤ったパースペクティヴのとり方であり、歴然たる時代錯誤であると言わざるをえません。

 確かにカントは、王立図 書館副司書として俸給を得ていましたが、それは微々たる物でした。大学教員としてのカントは、自営業者として、独立事業者として、この職種の者に科される あらゆる制約に縛られながら生きていたのです。彼の主要な収入源は、講義に出席している学生たちの支払う謝礼でした。客が入らなければ金も入らない、とい うわけです。

 言ってみればカントは、聴衆が大学教員たちに金を払う中世的な古いシステムの支配下に生きていたようなものです。20世紀の我々の近代的な大学や、1830年代にヘーゲル教授の職と生活の安定を保証していたベルリン大学とはまったく違うシステムのもとに。

 カントは、医者や弁護士 のように、自由業者として哲学という商売を営んでいました。客を迎えるには、そのための部屋が必要です。だからこそカントは、その一階に講義室(家の中で 最も広い部屋であり、カントの生活の中心の一つ)を設えるために、絶えず自分の家を持ったのです。まあこの仕事道具は借りるだけでも良かったはずではない かと言われそうですけれども

 カントが隣人たちのたて る音に(とりわけ隣人たちが歌い始めたときには)口喧しかったことをからかう者もいます。隣人の歌と言っても、独房の開け放たれた窓から厭でも聞こえてく る、必ずしも聞いて心地よいとは言えない、囚人たちが大音量で歌うように命じられていた単調な旋律のことですがカントはこのような状況が改善されるよう市庁に手紙を書き送ったのでした、歌う囚人たちについて。

 しかし私たちは、カント にとって自宅が仕事場であったということを思い起こす必要があります。彼はそこで講義を準備し、そこで講義を行なわねばならなかったのです。静寂が求めら れるのは当然のことであり、騒音などとんでもないことです。カントの家は、二人の労働者、すなわちカントと下男のランペ

を抱える零細企業だったのですから。

 客は学生や社会人、プロ グラムには地理、詩、砲術、天文学など、どんな科目でもありましたが、カントは哲学を主に教えていたわけではないということがしばしば忘れられています。 彼を近代的な制度のもとでの初の哲学教授と考えるのは間違いです。カントは近代の最初の哲学者ではなく、旧制度(アンシャン・レジーム)の最後の哲学者 だったのです。(続く)

Monday, October 14, 2002

ボチュル、『カントの性生活』(3)

(今年はじめに書いたもので、ML01075,01081の続きです。)

 皆さん、こんにちは。リールでも(当たり前のことですが)始まりました、ユーロ。まあどうしてもふだんよりは混雑するけれど、思ったほど混乱はなくて、ほっとしています。

 前回から提示しているのは「翻案」であって「翻訳」はありません、念のため。

***閑談の壱(承前)

 カントは時代から、都市生活から離れて、隠遁生活を送ったわけではありません。彼のことを象牙の塔に独り引きこもった、社交的な生活の敵として思い浮かべるなどとはとんでもないことです。

 私はカントの伝記作者たちが、彼の生涯のざらつきやシミをぼかしてしまうために「艶出し」し、人柄を「透化」することによって、歴史の中に老いさらばえ強迫観念に取り憑かれたカントというイメージを定着させようとしたのではないか、と疑っています。

 しかしカントにしたところで、有名になるまでは、つまり六十歳になるまでは、人並みの生涯を送ってきたのです。一介のMagisterにすぎなかった頃は、居酒屋に出入りし、ビリヤードをたしなみ、時には深夜に帰宅したのです。

 正教授になり、家を購入し、下男を独り雇うようになると、カントは好んで昼食に人々を招き、この昼食はしばしば午後遅くまで続いたものでした。

 カントはケーニヒスベルクの上流社会からの招きにも自ら好んで応じました。この「感じのいい仲間」について、あるものは次のように証言しています(興味のある方のために申しあげておけば、J.H.L.Meierottoという人物です)。

 「彼は老人たちの中でも最も軽快で、最も愉快な老人であり、言葉の最も高貴な意味でbon vivant(享楽主義者、美食家)です。彼が読むようにと与えてくれる哲学を人々がうまく消化できないのとは見事に対照的に、彼はどんなに重い食事でもぺろりと平らげ消化してしまうのです」。

 青年時代に家庭教師とし て勤めたカイザーリンク伯爵夫妻の晩餐会では、貴賓席が与えられていました。というのも、ある証言によれば、「ほとんどいつも会話の鍵を握っていた」から です。カントは、あらゆる話題について話をすることができました。そして人々も彼に何でも相談したのです。

 例えば1774年、ケーニヒスベルクで最初の避雷針をハーベルベルガー教会の上に設置するよう、市当局から依頼を受けた物理学者は、我らの哲学者に意見を求める手紙を書き送りました。雷カウンセラー・カントというわけです。

(続く)

Wednesday, October 09, 2002

対立の共同体(4)

こんにちは。

例えば、イスラエルの市民運動に関する今回の田中ニュース(最後の民族性に
関するくだりを除けば、素晴らしい!)を次のニュースと併せ読むこと。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20021007-00000069-mai-soci

3*『明かしえぬ』以後

 『無為』刊行後、『明かしえぬ』が現われたのをはじめとして「共同体」のモチーフは徐々に注目を集め、共産主義的ないし共同体主義的ないかなる計画ももはや支えることのできなくなっていたこの領域に新たな地位を与えることが緊急の課題である、と認知された。

 新たな地位を与える、別の呼び名で呼ぶということは、もはやその名では呼ばないということ、共同体が自らの実質となり自らの価値となるというトートロジーから抜け出すこと、さらには使徒たちの原始共同体、教会、修道会、聖体拝領(コミュニオン)などのキリスト教的な含意(バタイユの来歴はこの点
では疑いの余地はない)の拘束から自由になることである。

 こうして『無為』と『明かしえぬ』の刊行後、共同体を主題化し規定しようとする一連の試みが現れてきたわけである(アガンベン、ランシエール、ラクラウとムフ、やや遅れてフェッラーリ、次いでエスポージトらによる、これらの試みは今なお米国を中心として継続されているが、それは新たに鋳直された「共同体主義」が問題となる、まったく異なる文脈においてのことである)。



 だがこれまでのところナンシーは、「共同体」という語と真正面から取り組むどころか、むしろ逆に、徐々に「一緒に-いること」「共同-で-あること」そして最終的には「共に-いること」といった無愛想(disgracieuses)な表現によって「共同体」という語を置き換えようとしてきた。この移動、諦め(一時
的なものにすぎないとしても)無愛想な語には無論、理由があった。

 「共同体」という語を用いることによって様々な危険が惹起されることは目に見えていた。どうしようもなく実質と内面性に満ち満ちた響き、避けることが困難なキリスト教的ニュアンス(精神的、同胞的、霊的な共同体)、あるいはもっと広く宗教的なニュアンス(ユダヤ人共同体、ウンマ)、「民族」を裏付けにしたと称して「共同体」という語を用いる、などなど。必要ではあるが、未だほとんど解明されていないこの概念を強調することは明らかに、共同体主義的な、ファッショ的ですらある衝動を蘇生させてしまう惧れがあった。ナンシーが最終的に「共にavec」の概念に仕事を収束させていくことを選んだ
のは、そのためであった。

 共同体の「共co-」とほとんど識別不可能であるとしても、この「共に」は、近さと親密さの核心において「共」よりはっきりとした隔たりがあることを示している。「共に」は乾いていて(sec)、中立的である。聖体拝領的な融合でもなく、微粒子化的な分裂でもない、ただある場所を共有=分割するだけ、せいぜいのところ接触。ブレンドなしに一緒にいること(この意味で、ハイデガーにおいてペンディングにされている「共存在」の分析をさらに推し進める必要がある)。



 今日(2001年10月という日付を強調しておこう)、荒れ狂う情念のあらゆる特性を備えた出来事が、世界中に、とりわけ西洋世界とその周縁、その内的・外的な境界(まだ外的なほうが残っているとしての話だが)に広がりつつある。全能の神であれ「自由」であれ(こちらも劣らず神憑り的である)、情念
の様々な形象が、対立的な身振りで、現在の世界の動向が示している周知のあらゆる恐喝・搾取・人心操作を覆い隠すと同時に暴露してもいる。だが仮面を剥ぎ取ることはまず必要な作業ではあっても、それだけでは十分ではない。情念的な諸形象がただ偶然に空いた場所を占めに来たわけではないということをも考えねばならない。この空いた場所こそ共同体の真理の場所に他ならない。

 荒れ狂う神への呼びかけと、"In God we trust"といった表明は、「一緒に-いること」の必要・欲望・不安を、対称的な形で道具化している。つまり英雄的な身振り、壮大なスペクタクル、飽くことを知らぬ怪しげな企みに再び利用しているのである。その一方で、どちらも秘密を暴くとしながら、その欠片す
らも隠し通そうとする。実際、どちらも、まさに「神」というあまりに明かしすぎている名のもとに、この秘密を隠しているのである。我々としては、ここから考え始めなければならない。神も支配者もなく、共同的な実体もなしに、共同体の、「共に-あること」の秘密をどう考えるか。

 共同体の無為(ある秘密を洩らすことなく共有=分割する可能性、まさに我々に漏らすことなしに、我々の間である秘密を共有=分割する可能性はそこにある)について、これまでのところさして考えを推し進めてきたとは言えない。だが、権力や利潤といった化け物じみた争点のために相対立している、これまた化け物じみた思想(ないしイデオロギー)に直面して、一つの仕事があることは疑いえない。いかなる実体にも頼ることなく、「共に-あること」という考ええぬもの、定めえぬもの、論じえぬものを敢えて考えること、である。この仕事は、経済的なものでもなければ政治的なものでもなく、いずれは経済的なものと政治的なものとを共に作動させるものである。

 我々が現在目にしているのは、「文明間の戦争」などではない。

(ひとまず完)

Tuesday, October 08, 2002

対立の共同体(3)

ナンシーの『対立の共同体』翻案(ML1076、1197)の続きです。



 では、「我々」は何を共有=分割しているというのか?おそらくは「明かしえぬもの」を、すなわちブランショが『明かしえぬ』の第二部によって、そして『無為』という理論的なテクストに関する考察とデュラスの『死の病』という愛と死の物語に関する考察を合わせて『明かしえぬ』を構成することによって示そうとしているものを共有=分割しているのであろう。

 かつてのナンシーには、ブランショがこの二つのテクストを対照的なものとして区別しているように思われた。『無為』が否定的な考察に、あるいは虚ろな「無為」に留まっているテクストであるのに対して、『死の病』は「有為の」ではないにしても、限界の経験(愛と死の経験、限界において開示される)を共有することで密やかに操作される(明かしえぬ)共同体に道を開くテクストである、と。

 だがおそらくは、「共同体」の本質なき本質に至るこの二つの道はどこかで、『明かしえぬ』の一部と二部の間のどこかで、社会的-政治的な領域と情念的-私的(intime)な領域の間のどこかで出会うはずだ、とブランショは言っているのではないか。複数的な実存(誕生、分離、対立)と単独性(死、愛)を同時に可能にする強度の、奔出の、喪失・放棄の謎をその「どこか」で考え抜かねばならない。たとえ誕生と死、愛と戦争には常に「明かしえぬもの」が含まれているとしても。



 「明かしえぬもの」とは恥ずべき秘密を指す。「明かしえぬもの」が恥ずべきものであるのは、それがsouverainte(主権/至高性)とintimite(親密さ/私生活)という二つの可能な形象のもとで、「明かしえぬもの」一般としてしか開示されえないpassion(情念/受苦)を関与させているからである。「明かしえぬもの」の情念が正体を告げるとすれば、その告白は耐えがたいものとなろうが、同時にそのような告白は、この情念のもつ力をも破壊してしまうことになるであろう。

 「明かしえぬもの」の情念とは、それがなければ私たちはいかなる「一緒に-いること」、つまりは「存在すること」そのものをもすでに断念してしまっていたであろうものである。この情念がなければ、底なしの慎み深さのうちに引きこもった至高性と親密さに従って、我々を世界の中に生み出すものを断念
したであろう。なぜなら我々を世界の中に生み出すものとはまた、我々を分離、有限性、無限の出会い(そこで各々が他者と、したがってまた自己と、他者の世界としての世界と、気の遠くなるような接触を続ける)の極へと一挙に運び去るものでもあるからである。我々を世界の中に生み出すものは、すぐさま世界からあらゆる根本的あるいは最終的な単一性を奪い去って、世界を共有=分割する。

 「明かしえぬもの」とはしたがって、羞恥心のなさと羞恥心とを見分けられなくなるほどまでに混交した語である。羞恥心がないというのは、ある秘密を告げ知らせてしまうからであり羞恥心があるというのは、その秘密は秘密のままに留まるであろうと確言するからである。

 押し黙った者のみが、このような仕方で押し殺されるものを知っている。だがこのような知は、それ自身交通の知であるにもかかわらず、伝えあうべきものではない。交通の知の法とは、互いに伝え合わないということであるに違いない。なぜならこの法は伝達可能なものの領域に属してはいないのだから。しかし、にもかかわらず、交通の知の法は、言葉で言い尽くせぬものではない。それはあらゆる言葉を開く。

Sunday, October 06, 2002

対立の共同体(2)

 これまた今年一月初旬に「翻案」したものですが、共同体の問題を考える時
に、欠かせない本の一つだと思います。
 
***

2*『無為』から『明かしえぬ』へ(pp.36-43.)

 ナンシーが『無為』において、社会の「死刑」としての共同体の「作動」(oeuvre)を明らかにし、それと相関的な仕方で、無限の交通(コミュニケーション)の本質を保存しつつも、作動するのを拒むような共同体、すなわち無為の共同体の必要性=必然性を確立する、と主張していたまさにその地点にこそ、明かしうるものではない秘密、「明かしえぬもの」がある、とブランショは警告しているのではないか。

 「無為」に対抗して置かれた「明かしえぬ」という形容詞が考えるように促しているのは、無為(désoeuvrement)の下になお作動(oeuvre)が、明かしえぬ作動が存在しているということである。無為の共同体、つまり共同体なしに存在する者たちの共同体(我々すべて)は、「共同-で-あること」の秘密をベールを脱いだ姿で曝け出すことは決してなく、したがって(無為の共同体が「共同的なもの」そのものであるにもかかわらず、それだからこそ)交通することもない。 

 無為の共同体はむしろこの秘密を激化させ、秘密へと接近することの不可能性ないしは禁止、さらには制止、羞恥心(これらはすべてブランショのテクストに表れているモチーフである)を強調する。「明かしえぬもの」とは「言語を絶するもの」ではない。まったく逆に、「明かしえぬもの」は、明かすこともできそうでいて決してできない者たちの親密な沈黙のうちに絶えず語られ、自らを語るものである。ブランショは、この沈黙のことを、この沈黙が言わんとするところを告げようとしたのではないか。

 親密さそのものに他ならない交通や共同体の親密さ、いかなる無為よりも深く隠された親密な「作動」のような親密さは、沈黙を可能にし必然的なものにする。と同時に、この親密さが沈黙の中に溶け去ってしまうことは決してない。神秘的な交流の共同体を否定するだけに留まっていたナンシーに、ブランショが再考を促したのは、共同的なものの秘密(共同の秘密ではない)のほうに向かって、この否定性よりさらに先を考えることではなかったか。



 だが、伊語版序文は共同体の問題を考え直す機会をナンシーに与えた。あたかもブランショ自身が「『明かしえぬもの』に用心なさい」「共同体のあらゆる前提に、たとえそれが『無為』という名のものであっても、気をつけなさい」と言っているかのように、あるいは「『無為』という語の示唆するところをもっと深く追究なさい」と言っているかのように、この無為は作動の後に、けれど作動からやってくる。

国民国家や政党国家、普遍的教会(カト+プロ)や自治独立教会(東方正教会)、議会や閣議、人民や会社組織や同胞団体が望むような方向で、社会が自ら作動するのを制止するだけでは十分ではない。常に、常にすでに、共同体の「作動」があるということを同時に考えるのでなくてはならない。個的であれ、種的であれ、あらゆる実存に常に先立っていたということになるであろう共有=分割の操作が常にすでに存在しているということ、それなしにはいかなる現前もいかなる世界も決して存在しえないような交通・伝染が常にすでに存在しているということを考えねばならない。

 というのも「現前」も「世界」も共-存在ないし共-帰属(たとえこの「帰属」が共同-で-あることへの「帰属」にすぎないとしても)という含意を伴っているからである。我々(我々すべて一緒に、そして一緒でありながら区別された)の間にはすでに、ある共同的なものの共有=分割があったのである。共有=分割と言っても、それ以前に共同的なもの自体が存在していたわけではない。共有=分割することによって共同的なものが存在するようになるのであり、実存が自らの固有の限界への開示であるという意味で実存そのものに触れるようになるのである。

 このような共同的なものの共有=分割こそが、我々を分かちつつ、我々を近づけつつ、決定的な未決定のうちにいる「我々の間に」隔たりによって近接性をつくり出しながら、我々を「我々」たらしめたのである。「我々」というこの集団的・複数的な主体は、決して「自分の固有な」声を見出さぬよう宣告されているが、それこそがこの主体の偉大さの証しである。(続く)

Saturday, October 05, 2002

ブルーメンベルク補遺(下)

 ブルーメンベルクの代表作『近代の正統性』については、村上陽一郎の好意的だけれど内容のない書評以外に書評を見かけませんでしたが、まああれだけの大作ですからね・・・

 というわけで、幾つか読んだ中からJean-Claude Dussaultという人の平均的な「否定的」書評を一つだけ紹介しておきます。



 思想の発展というのは、ずいぶんと騒がしい代物である。『近代の正統性』の中で、ハンス・ブルーメンベルクは、哲学的思索の二千年の歴史を取り上げて、ヘーゲルやシュペングラーの壮大な歴史哲学的総括を思わせる一つのテーゼに押し込めてみせる。
 その長い論証過程は確かに恐るべき文献渉猟に裏打ちされてはいるが、配列・構成はどことなく行き当たりばったりに思われ、あたかも本書の最終形態は、著者ではなく他の誰かが決定したかのようである。
 例えば、「理論的好奇心」を扱う第三部は、「西洋人は真理の探究において自己主張を獲得しようとしているのだ」という主要なテーゼから脇に逸れているように見える。
 それにそもそも、本書冒頭では、歴史の時間の流れに沿ってこのテーゼを論証していくと予告されており、読者は当然それを期待するのだが、実際の論証はむしろ幾つかのテーマに沿って展開されていくので、この見かけのズレをきちんと理解しようと思えば、読者には西洋思想史についての百科全書的な知識が要求されることになる。
 なぜ第二部で、デカルトによってなされた理性革命を見届けた後で、第三部で、アウグスティヌスやテルトゥリアヌスやその他の教父たちのあまりに微細な神学論議に戻っていき、場合によっては古代哲学へ乱入していかねばならないのか?
 ブルーメンベルクは、二百頁以上にわたって、幾度もさまざまな形で西洋文化を揺り動かしてきた議論、すなわち好奇心についての議論を検討する。諸対象と外部世界に関する研究は、どこまで推し進めるのが「正当」なのか?科学的探究の限界とは何か?
 本書は、中世の思考から近代の思考への移行を画するエンブレマティックな二人の人物を扱って終わる。ニコラウス・クザーヌスとジョルダーノ・ブルーノである。一方は、スコラ学に新たな思考の可能性を認めることでそれを救おうと試みる最後の人物として、他方は、この移行過程において、神的な内在性をあらゆる存在に広げ、火刑台の上でなおキリスト教的な贖いの神から目を背けることで、すべてを転倒した人物として。
 本書はときにきわめて面白い、しかし多少éreintantな本であり、哲学に対する興味と時間的な余裕をもつ読者にしかお薦めできない。

***

 最後に、ブルーメンベルクで検索しているうちに非常に興味深いサイトに出会ったので、すでにご存知かもしれませんが、ご紹介しておきます(ssさんの本の書評もありましたよ。ちょっと辛辣ですが…)。彼らの掲示板でのやりとりの幾つかも必見。誰が主催してるんでしょうね?
http://members.tripod.co.jp/studia_humanitatis/newbooks.html

 ヴァッティモの『信仰』を取り上げての「最近は、哲学の中に神学の用語や着想を導入する傾向が比較的多く見受けられるようになってきた。」といった発言の的確さや、「ブルーメンベルクは哲学の側よりは神学の側からのほうがアプローチしやすい側面もあるかもしれない。古代・中世・近代という垣根を作ってその枠の中で安閑としているような哲学研究者には、所詮手の出せない相手なのだ。」といった発言に垣間見える主催者の指向には共感を覚えます。

Thursday, October 03, 2002

ブルーメンベルク補遺(中)

『マタイによる受難』(仏訳1996)

 世界の至る所で、かつてなく多様な形で、かつてなく多様な条件のもとで、何万もの人々が、ヨハン=セバスチャン・バッハの「マタイ受難曲」に耳を傾ける時代にあって、ブルーメンベルクは、今日の聴衆がそこに何を聴き取り理解することができるのかを問いかける。

 この傑作がつくられてから250年という時が流れ、その間、世界は決定的な変化を見た。だが、広義の意味での「技術」の変化以外にも、キリストの受難、バッハの「神の受難」、アウグスティヌスやルターの神を理解することには困難が立ちはだかっている。

 今日の聴衆とバッハの属していた共同体を隔てる距離を測るために、ブルーメンベルクは、現象学の方法論に立脚し、精神分析や解釈学を縦横に駆使しつつ、福音書やバッハのリブレット、神学の様々なテクストを読み解いていく。(まあ要は、ノルベルト・エリアスばりの音楽の社会学の一ヴァリアントじゃないかとも言えるでしょうが。)


『トラキアの下女の哄笑』

 「理論」の誕生について「歴史」はその正確な時点を詳らかにはしていないが、「理論」の誕生を物語るある逸話は一つだけ存在し、幾世紀を越えて我々にまで伝えられている。

 それによれば、ある夜、星を観察していたタレスは、井戸に落ち、彼を助けに駆けつけたトラキア出身の下女の哄笑を浴びたという。世界の起源をたった一つの要素すなわち水から説明する理論を打ち立てた偉大な哲学者にして、人類史上初めて日食を予言した天文学者は、下女の笑いを誘った。というのも彼は自分の足元に何があるのかを見ていなかったからである。

 この逸話は実に様々な問題を提起している。トラキアの下婢の哄笑が哲学のイメージに与えた衝撃は、ポリスにおける哲学者の位置、近いもの(井戸、生活)と遠いもの(星、観念)の関係、生の世界と観念の世界の(あるいは理論家の自由と召使の不自由の)関係に関わっているのである。

 ブルーメンベルクは、数世紀にわたるこの逸話の変遷を分析する。あの天文学者は名が知られている場合もあれば名もなき人であったり、彼を馬鹿にした下婢も若かったり年老いていたり、彼が落ちた穴も貯水池だったり堀だったりと様々である。だが、下婢の哄笑だけは、理論の奇妙さに直面したときに日常生活が洩らす無理解の徴として留まり続けたのである。

 ブルーメンベルクは、イソップの寓話からハイデガーまで、この逸話の受容史を跡づけた後で、この逸話の前例のない成功を、哲学が自分に対して抱いている意識の一形態と捉える。

「実際、哲学者を笑えるのは、自分は彼らとは違うと思っている人たちだけであるはずだが、どう見てもこの哲学という領域にいる者たちは、自分だけは例外だと思い込んでいるようである。」
(続く)

Wednesday, October 02, 2002

ブルーメンベルク補遺(上)

 こんにちは。ML01096の続きです。



 今年(2002年)の6月、ようやくハンス・ブルーメンベルクの大著「近代の正統性」(ウニベルシタス)の邦訳が4年がかりで完結した。フランスでは1999年に一巻本で仏訳が出たから、まあほぼ同時期といっていい。

 それにしても、1966年に初版の出たこの本の翻訳がなぜここまで遅れたのか、翻訳が出た今となっては全く理解しがたい現象なのだが、まあ思想の歴史はこういった例に事欠かない。ヘーゲルの『精神現象学』の完訳版がフランス語で出たのは1941年、原書出版(1807)から優に一世紀以上経っているのである。



 フランスにおける受容の遅さについては前回チラッと触れましたが、ブルーメンベルクの『憂い事は川をも渡る』(仏訳1990)についての次のような「書評」(これを書評と呼べるとすればですが)が端的にそれを物語っています。

「密やかさを愛し、意図的に大衆から遠ざかった哲学者、ハンス・ブルーメンベルクは、彼の諸著作を未だ読んだことはないが、彼の名を聞いたことはあるという人々の好感という富をかちえている。「世評」では、彼は現代ドイツの重要な思想家の一人であり、「世評」では、彼の哲学的な思索には彼の慎ましさと共に並々ならぬものがあり、「世評」は彼について様々なことを語っている…だがこの『憂い事は川をも渡る』と共に、「世評」は確信に変わる。」(チエリー・パコ、『キャンゼーヌ・リテレール』誌)

 ドイツ語を読めないに違いない評者の苦心ぶりがうかがわれるこの一文から、90年代当初までのフランスにおける受容の様子を想像することはさほど困難ではないでしょう。

 さて、著者やこの著作自体についての紹介は邦訳を参照していただくことにして、ブルーメンベルクの膨大な著作の中から仏訳されている他の幾つかの著作を紹介しておきましょう。(あらかじめ元ネタをばらしておきますと)
http://www.arche-editeur.com/Catalogue/B/blumenberg2.htm

『観衆のいる難破』(仏訳1994、邦訳)

 驚くべき博識と、それでいて反体系的な意表を突く方法論を用いるハンス・ブルーメンベルクは、すでに数多くの著作を発表している。本書は、ブルーメンベルクの独創的な研究手法の一つである「隠喩学」(メタフォロロジー)、すなわち形象をあらゆる概念的な思考の根として読み解いてみせる手法によって、様々なテクストに登場する「難破」を人間存在とその危機、その限界の比喩として再解釈する。難破は、遠くにいるのであれ、巻き込まれているのであれ、それを見ている者にとってしか意味をもたない。人間という冒険の失敗、歴史の無秩序という見世物に魅せられているのであれ、思いをめぐらせているのであれ、それを見ているものにとってしか意味をもたない。ブルーメンベルクは比類のない鮮やかな手つきで、難破について考察し、意味をずらし、また回帰させた者たちを召喚しつつ、難破の形象の歴史とその豊かさを描き出す。ルクレチウスから、ヴォルテール、ゲーテを経てニーチェに至るまで、ある形象の意味の軌跡へと私たちを誘ってくれる。(この説明だけ読むと、比較文学系なんかに割にありがちなアプローチという気がしますけどね。)
(続く)

対立の共同体(リール版)

 駄乱長文に予めご容赦を願います。

***

 2002年8月12日付の田中ニュースに「パレスチナの検問所に並ぶ」という記
事があった。パレスチナの「自治区」(今や名目化した)とイスラエルの占領
地区との間を隔てる検問所をくぐった体験を記したものである。この記事を読
んだ時、まさかその後自分が同じ体験をしようとは思ってもいなかった。

 2002年9月30日、午前十時半ごろ、軽い気持ちで滞在許可証の更新にリール
の県庁別館へ出かけた。百人ほど並んでいた。ちなみに「並んでいた」という
のは、別館の中ではなく、寒風吹きすさぶ外である。我々は建物の中で待つ権
利すら与えられていないのだ。その後一時間で三メートルほど進んだだけで、
十一時半に入り口は閉ざされた。再開は一時半、大半の人々はそれまで待つ気
であったが、私は諦めて帰ることにした。

 翌10月1日、午前八時、開館の三十分前、この時間なら大丈夫だろうと気合
十分で同じ場所に行ってみると、二百人!ほど並んでいる。昨日より早い時間
なので、本当に寒い。それでも当初私は楽観的であった。

 というのも、一昨年、昨年とリールで滞在許可証を取ったときには、8時20
分にくれば、8時50分には中に入れたからだ(並んでいる人数は30人ほどだっ
た)。しかし甘かった。

 入り口の前には、滞在許可証などを取りにくる外国人用に、仏語・英語・ア
ラビア語で書かれた大きなポスターが張ってある。その一番上に、「内務省・
外国人課」と書かれている。内務省と言えば、今年春先の選挙で右派が大勝し
た後、ラファラン政権が政策の目玉として掲げた「治安強化」を取り仕切る部
署であり、その長たるニコラ・サルコジーが「断固たる姿勢で」望むと大見得
を切って次々と強行策を打ち出しているところである。

 その後、列に並んでいる人々と情報交換をしているうちに分かってきたのだ
が、昨年までは県庁の外国人課だけでやっていた滞在許可証交付作業に、今年
から内務省が加わったのだと言う。何をかいわんやである。我々外国人は、
「断固たる姿勢で」取り締まられるべき対象であるらしい。その証拠に、去年
まで中に入って待つことができたのに、今年は建物の中に入る人数が制限され
ている。30分に10人入ればいいほうである。

 並んでいる間に、色々と「事件」が起きる。列の最前列にいる人などは、朝
5時から並んでいると言う。5時ですよ!好きな歌手のチケットでも取るために
並んでいると言うなら話は分かるが、我々はとらなくていいんならとりたくも
ない滞在許可証のために並んでいるのである。彼らは腰掛椅子・毛布・食糧持
参である。つまり彼らはすでに少なくとも一度は痛い目を見たわけだ。

 彼らは数人で来ているので、何人かが休憩に抜ける。後ろのほうに並んでい
る人たちは事情が分からないから、抜けていた何人かが人々の間を掻き分けて
元の位置に戻ろうとすると、ズルをされたような気がして気に食わない。その
うち、その場で知り合った数人のためにマックに買出しに出かけていた女の子
が帰ってくると、一人の大男が「もう後ろからきた奴を通さない。彼女を通す
んなら、俺だって前に行きたい」と喚き始めた。女の子は泣きそうになり、周
りが文句を言って、女の子を先に行かせたが、彼も数メートル強引に進んできた。

 私も懸命に彼に説明したが、埒があかない。人々が、後ろから割って入って
くる人(たとえばA)を黙って先に行かせるのは、Aが以前、前のほうにいた
のだろうと思うからだ。もちろん直接的な証拠はない。後ろのほうにいる人た
ちはそれを疑うことができる。しかし少なくともAの周りにいた人たち(たと
えばB)は彼がいたことを証言できる。Bの存在はCが、Cの存在はDが証言
してくれる。

 むろんミニマルに見れば、隣同士で少しでも前に行こうという小競り合いな
どはあるわけで、「人類愛に満ちたタイトな共同体」などは望むべくもない
が、巨視的に見れば、こうして我々は間接的な信頼によってルースな秩序を保
ちつつ、一つの「共同体」を構成しているわけだ。

 カントの永遠平和の理論を思い出させる状況だ。我々は麗しい人類愛によっ
て、戦争のない永遠平和を達成するのではない。幾度も際限なく続く戦争に徐
々にうんざりして、ルースながら大波乱のない無戦争状態へと巨視的に見れば
至るはずだ、と。

 さらに快い驚きだったのは、大男が突然、それまで口論していた人々に謝っ
てその人々を前に行かせ、自分は後ろへ下がったことだった。統制的理念の勝
利だね、と件の女の子に言いたかったけれど、「うまく片がついてよかった
ね」とだけ言っておいた。

 こうしてカメルーン人、インド人、中国人、あらゆる国のアラブ人、スロ
ヴァキア人などと喋りまくって、4時まで待つ間に、へとへとになってしま
う。ようやく扉まで数メートル、僕の前には三十人、入れるか入れないか微妙
なところだ。

 ようやく中の様子が見えてくる、と思いきや何も見えない。ガラス扉の中に
もうひとつ鉄の扉があって、ぴったり閉められている。カフカの「法の門番」
を思わせるな、と思っていると、本当に数人の警官が数十分に一度出てくる。

 威圧的な態度と、いかなる懇願も受け付けない冷酷無比もそっくりだ。入り
口までもうすぐのところにいるというのに、時間は無慈悲に過ぎて行く。我々
はますます焦り、後ろの人々はますます強く我々を押してくる。扉を開けるた
めに、警官は人々に「下がれ」と怒号するが、人々はわずかに開いた隙間から
中に飛び込もうとする。扉をはさんで奇妙なおしくら饅頭が続く。人々も警官
も考えていることは同じなはずなのに、やっていることはそれぞれ正反対なのだ。

 そのうち、キレた警官の一人が警棒を振りかざし、扉はまた閉じられた。ま
だ4時10分。あと二十分ある。かなりの人々が諦めて帰り始めたおかげで、4時
20分には私は列の先頭、扉の真ん前にいた。扉の前には諦め切れずに残ったニ
十数人。すぐ後ろの人なつっこそうなアジア人のおばさんが「あんた、ラオス
語喋れる?」と聞いてくる。私はアジア人だけど、残念ながらラオス語は喋れ
ない、とフランス語で答える。

 彼女がなおも私の隣にいる巨漢太っちょアラブ人を指して「リアン、リア
ン」と言うので、「困ったな、ラオス語分からないんだけど。rien(何に
もない)って言いたいのかな」と太っちょに言うと、太っちょが「彼女は、僕
の髭を指してlion(ライオン)って言ってるんだよ。僕はアジア人じゃないの
に、君よりラオス語が分かるよ、きっと」と皆を笑わせる。

 あと五分というところで、また別の思いがけない青年と出会う。去年の年末
の火事のとき僕たちを助けてくれた同じアパートの住人だった男だ。彼も私た
ちも、その後、神経症的につらくあたるようになった大家さんにうんざりして
アパートを出たのだった。「お互い大変だったね」「今もね」と慰めあってい
ると、4時半になる。

 県庁に書類を取りにきたのに、したことと言えば見知らぬ異国の友たちとの
おしくら饅頭だけであり、見たものといえば紅潮した警官たちの怒りの形相だ
けだ。書類には指一本触れることもなく、役人の顔すら見ていない。

 こうして人々は肩をすくめて散り散りに散っていく。数時間だけの名もなき
共同体は、跡形もなく掻き消えていく。そして明日も同じ事が繰り返される。

 共同体とはそもそも本質的に、このような形であるものではないか。
 ちなみにブルシエやら交換留学できている人たちには優遇措置があるよう
で、彼らはこの貧しい共同体には参画していない。Tant mieux pour eux !
 私は明日、5時に家を出る。そういうわけでこのメールが皆さんのもとに今
届くわけです。

Tuesday, October 01, 2002

Communitas (2)

isさん、

 エスポージト、ご指摘どうもありがとうございました。生年は、参照したサイト(末尾に付記)に書いてあったので信じてしまったのですが、おそらくおっしゃる通りなのでしょう。やっぱりもっとちゃんと確認しないといけませんでしたね。

 名前の問題(より正確に言えばカタカナ表記)はいつも厄介です。実はついさっきまで、とあるsoutenanceを見物するためにパスカルの生地、ベルクソンの第二の故郷、クレルモン・フェランに行ってたんですが、主査である気鋭の現象学者Renaut Barbarasの名前なんか、「バルバラ」「バルバラス」(こっちが主流)と審査員たちの間ですら呼び方が違ってたくらいですからね。


(ちなみにこのバルバラス、要チェック人物です。)

 日本語でも「コージン」なのか「ユキヒト」なのか分からないことはありますが、最近の本は著者紹介や奥付などでほとんどの場合発音は確認できますからねえ。

 アガンベン、来年12月にパリのEPHEで、宗教と政治に関するセミナーを開くそうですから、よろしかったらどうぞ。

***

 ところで、まさにこの接触・「汚染」の危険に対して、近代哲学は防衛的な免疫機制(immunity)を作動させてきた。

 immunityは現在ではまず医学用語として定着しているが、その語源Immunitasは、「munusを免れた」という意味で、元々は、貴族や聖職者などの免責特権・義務免除などに用いられた法律用語であったのであり、それが後に医学用語に転用されたのである。

 immunityは、 例えば我々が他者と予期せぬ接触をしたとき、見知らぬものから突然触られた時に覚える動揺のようなものかもしれない。我々の個人としての同一性を確保する ことで我々を守っている、他者に免疫をつける境界線が危険な形で踏み越えられた、と感じるからだろうか。核削減の後、移民問題が我々の社会にとって最大の 危険の一つとみなされているという事実は、我々が「共同体」のもともとの考えからいかに隔たったところにいるかということをよく示している。

  このような漠然とした 「免疫」感覚は、さらに、最新の医学的な知識で身を固めることで、強固な似非科学的イデオロギーに変貌する。免疫学が医学的にのみならず、社会的・法的・ 倫理的果たしている役割を考えてみるとよい。延命をめぐる近代の戦いはすべて、「免疫」というこの象徴的かつ現実的な最前線で交わされているのである。

 communityが同一性の防護的な障壁の破断であるとすれば、immunityは、危険をもたらしうるあらゆる外的要素に抗する防御的かつ攻撃的な形で、それらの障壁をたえず再建しようとする試みである。我々が住んでいる社会を

communityと呼ぶのであれば、immunized communityとでも呼ばねばならないだろう。現在政治哲学における最大の課題は、あらゆる領域で進行しているこのimmunizationに抗して、いかにcommunityを考えるかにある。

(最後に、やはりこの似非語源学的手法の致命的欠陥を簡単に確認しておく。まず、この議論は、印欧語族系以外には通用しない。次に、印欧語族系でも、旧来持っていたcum munusという意味が「なぜ」回復されるべきなのかは、必ずしも自明ではない。)

 以上、"Communitas"序論を要約したエスポジートの講演

http://www.geocities.com/joaojosefonseca/filosofia.htmを、大雑把に要約してみました。いずれ、バタイユとハイデガーを論じた本書最終章などを別個に取り上げて、ご紹介するつもりです。

Saturday, September 28, 2002

Communitas (1)

 またまた待っている間に。

***

 ロベルト・エスポージトの"Communitas"(伊版1998年、仏訳2000)を紹介してみたい。

 Roberto Esposito (1960-)は、イタリアの政治哲学者。ナポリの東洋研究所の政治学部で政治哲学を、同じくナポリのスオル・オルスラ・ベニンカーサ研究所で道徳哲学を教えている。とりわけ数多くの雑誌や叢書の編集で活躍中。著書に『政治(学)の起源』(1996年)、『政治(学)を超えて。非政治学的思想アンソロジー』(1996年)など。


 位置的にはアガンベンにきわめて近いように思われる。つまり、デリダ 派、とりわけナンシーから着想を得て、政治哲学の古典的なテクストを読み直すというスタイル。アガンベンが隠れハイデゲリアンだとすると、エスポジート は、彼の提唱する「非政治学」の頂点に位置するのがバタイユであることからも分かるように、はっきりとバタイイアン。

 しかし、今回導入部としてご紹介する本書の序論「共通のものは何もない」は、手法的にはハイデガー的。つまり、表題"Communitas"が ラテン語であることからも予想されるように、似非語源学を駆使して、現在用いられている語にこびりついた近代的偏見を削ぎ落とし、その語本来の輝きを取り 戻すというものである(この手法にはある致命的な欠陥があるのであるが、それは以前指摘したと思うので、措くとしよう)。具体的にはどういうことか。

 「共同体community」という言葉から連想されるのはふつう、「複数の個人によって共有される所有物property」(それが土地であれ、宗教であれ、民族であれ)といったものである。この観点からすると、「共通common」とは、「あるグループに固有のものであって、別のグループに属するのではない」ということであって、共同体は、所属・同一性・集団所有物というタームで考えられている。

 ところで、辞書を調べてみると分かるが、「共通common」とはまさに「固有proper」とは正反対のものである。共通のものとは、みなの(あるいは大多数の)ものである以上、誰かに固有のものではない。私的で個別のものではなく、公的で一般的なものなのである。したがって共通は、同一性ではなく、他性と関係するのである。

 語源的に見るともっとはっきりする。Communitasは、cum (=with) + munusである。munusと は、あるものが他者のために遂行せねばならない「贈与」「義務」「ミサ」などを意味する。つまり、共同体という考えの起源には、共通の所有や所属などと いったものがあるのではなく、我々を他者に対して拘束する何かがあるのである。所有するというよりは、収用されるのである。所有でなく負債。同一性でなく 変質。我々が自分というものの中に閉じこもるのでなく、自分固有の利益から抜け出すよう、我々を促すもの。したがって、共同体とは、諸個人が(国・宗教・ 民族といった)より大きくより強力な「個」へと溶け込んで出来上がるようなものとして考えられるべきではない。

  「共同である」ということは、「我々に似ている、我々に属している」ということよりもむしろ「我々とは異なっている」ということと関係している。すぐにそ れと識別可能なものとではなく、最初は我々にとって外的で異邦人的なものと関係している。共同体とは本来的に、似通わぬものたちの共同体であるはずなので あり、「我々」とは異なる者との接触、それによる差異・変質を体験できるという可能性と危険に開かれた共同体であるはずなのである。

(続く)

Thursday, September 26, 2002

東浩紀と大学教育

2005年の註:いくら内輪でしゃべっていた軽い調子のメールであるとは言え(その事は冒頭の部分から十分に窺われる)、今ならもうこんな論の立て方はしないだろう。そもそも、人にない物ねだりをするより、自分にない物ねだりをすべきだと思うからだ。しかし、彼の状況論とそれに対する処方箋への不満、「エリート養成機関」に関する考えは今も変わっていない。

***

kさん、どうもありがとうございます!

 kさんのお話にはきっと他の方々からもいろいろなレスポンスがあるでしょうから、それを待ちつつ、少し前に出た東浩紀さんの話をもう少し。



 東さんは「オタク」「批評家」の他に「哲学者」とも名乗ってますが、彼がそう名乗っていいんなら、私は「精神分析家」とでも名乗ろうかと思ってしまいます(笑)。「哲学者は教養ではない」と仰る方もいらっしゃるでしょう。たしかにピアニストであるためにコンセルヴァトワール出である必要は少しもありません。が、少なくとも(ジャズでもクラシックでも構いませんが、その領域の)レパートリー・奏法を一通り知っている必要はあります。

 駒場・表象の教官たちは、もっと哲学の勉強をするように東浩紀を真剣に引き止めるべきでしたよね。ほんと、エネルギーがあるだけにもったいない。ああいう逸材をまともな哲学者に育て上げられないのは、大学教育の怠慢であり、哲学界の損失ではないでしょうか。

 東さんが反逆者を気取りたいなら気取らせとけばいいんで、彼を「立派な」反逆者に育て上げるためにあらゆる策を講じて東大内に留めおいて学問的に鍛え抜く、という寛大な措置を取れる度量の広い人物が駒場にいなかったのかな。今の彼は、悪い意味で自由に逃げられる位置から好き放題を言っているにすぎない。

 私はこの点、「国家のイデオロギー装置」としてのエリート養成機関に多くを期待し要求しています。(詳しくはまた別の機会に)

 ここでは、とりわけ彼の状況認識を取り上げてみます。

 彼の書き方が十分に哲学的・コンスタティヴでない、と言われれば、東さんは「ジャーナリズムとの俗情の結託を怖れず、パフォーマティヴにやらねばならない」と言うでしょう。逆もしかり。しかしジャーナリスティックな書き方でもコンスタティヴでありうるはずだし、アカデミックな書き方をしていても(仲間内への目配せ程度の)パフォーマティヴな効果しかない、ということもある。

 結局、「面白いテクスト」が多く流通していかない日本(あるいはポストモダン社会)に特有の条件を探るための分析手段として、ジャーナリズム/アカデミズム、コンスタティヴ/パフォーマティヴといった二項対立は必要十分なのか、という当然吟味されるべき諸前提自体への懐疑が東さんには欠落しているように思えるのです。

 それだけではない。きわめて疑わしいそのような二項対立の設定自体に対して向けられるべき懐疑が欠如しているうえに、そのような二項対立を乗り越えて見せる(あるいは両方を駆使する)という仕草自体がきわめてパフォーマンスに乏しい。そんなことは「現代思想」関係者の誰もが言い、やっていることではないか。東さんの状況論は、コンスタティヴにもパフォーマティヴにも失敗しているのではないか、自分の事は棚に上げておいて言うならば、そんな風にすら思われます。

Saturday, September 07, 2002

feu Imago

 こんにちは。hf@リールです。

 湾岸戦争以降、イラク南部に引かれた「飛行禁止空域」というのは、私にはずっと理解できないままです。

ssさん、

 ご丁寧にありがとうございました。今後もよろしくお願いします。

おっしゃってる雑誌は [Der] Morgen でしょうか。

 私もそう思いたいところなんですが、私の指導教官が書いたベルクソンの自伝には、"Die" Morgenと書いてあるんですよね。まあ彼、自称ドイツ語できることになってるんで聞きにくいんですけど(笑)、今度聞いてみます。

mgさん、

 iさんのサイト見ました(笑)。哲学的なパースペクティヴが致命的におかしいということですね。でも、私は大学教員と学振生に厳しく、塾・予備校講師に甘いです、党派的に(笑)。

***

 この間は偉そうに要約紹介なんぞしてしまいましたが、実は邦訳があったということに後から気づきました。

「地球精神分析(ジェオプシカナリーズ)」

吉田可南子訳、『imago(イマーゴ)』5月号 第5巻第6号,頁 p.214-236.青土社:19945

 今は亡き(ですよね?)イマーゴ・・・

 この情報の元ネタである以下のラカン派書誌も、よかったらどうぞ。

http://www1.ocn.ne.jp/~lsj/biblio/article/article6.htm

 最後に次回のためにさりげなく前フリを。

フランス精神分析主要人物小事典

http://pages.globetrotter.net/desgros/auteurs/galerief.html

(ケベックの分析家が作成したらしいこの事典、仏分析史の主要人物をほぼ網羅していて、なかなか便利です。特に写真は貴重かも。

 ミレールの正統ラカン派からも距離をとっているようで、その意味では「中立」と言えます。

 最低限の仏語の知識でも、辞書と首っぴきで頑張れば読めます。)

Saturday, August 31, 2002

Geopsychanalyse (3)

 さて、表題の一部にもなっている「世界の残りの部分」。これは、IPA規約草案のなかの「(当協会の主な地理的活動エリアは、目下のところ、合衆国-メキシコ境界線以北の北米、同境界線以南の全南米、そして世界の残りの部分、と規定される。)」と括弧書きされた一文からとられたものです。

 お分かりのように、そこでは精神分析発祥の地であるはずのヨーロッパ(と「分析的入植が強固に行なわれたあらゆる地域」)と、精神分析がいまだ本格的に足を踏み入れたことのない諸地域が、一緒くたにされている。

 そこでデリダは、このIPAの(実質的には)四区分に対して、自分なりの四区分を提案します。まず「精神分析の処女地」がある(81年のデリダによれば、「ほぼ全中国、アフリカのかなりの部分、非ユダヤ・キリスト教世界のすべて、しかしまた幾千もの欧米の奴隷たち」)。この第一の地域は、1)精神分析も人権観念も未発達の社会主義東欧諸国と、2)それ以外の地域の二つに下位区分されます。

 次に、精神分析は強固に根付いている、人権はそれほど守られているわけでもないけれど、ラテン・アメリカの多くの国ほどにひどいものではないという地域(3)西欧+北米)。

 そして最後に、4)「精神分析装置と政治暴力の展開が[3)とは異なる形で]共存するもう一つのタイプ」、精神分析が隆盛する一方で、人権は尊重されず、「現代的軍事-政 治暴力」が前代未聞の形で横行し続ける社会、「隆盛を極める精神分析的社会と、もはや古典的で粗暴な、簡単にそれと分かる形で行われるのではない拷問が大 規模に行われる(市民的であれ、国家的であれ)社会とが(対立しつつであれそうでなかれ)共存している、世界でただ一つの地域」を、デリダは「精神分析の ラテン・アメリカ」と呼ぶわけです。

 精 神分析の制度と歴史的運動の観点から見て、ラテン・アメリカで起こっていることは、精神分析が生じなかった、あるいはまだ場を占めるに至っていない世界の あらゆる部分、「世界の残りの部分」[デリダの区分で言えば1+2]で起こっていることとは比べものにならないし、精神分析が根を張っていて、人権は少し 前からもはや、あるいは未だあれほど大規模な、見世物的な、恒常的な形で侵されていないほうの「世界の残りの部分」[デリダの区分では3]とも比べものに ならない。

 で、この「今日、精神分析にとってラテン・アメリカという名が意味するように思われるもの」を名指すこと、「ラテン・アメリカと名指すこと」が重要なのだ、と言って締めくくるわけです。

 ま、面白そうな観点もないではありません(例えばデリダは、明らかに『郵便葉書』を意識しつつ、規約の採択方法をめぐるIPAの議論(会議出席者の直接投票が後日送られる欠席者の郵便投票に影響を及ぼしうる以上、両者の比重をどう考えるべきか)を問題にしている)。

 が、しかし正直言って、デリダのこの講演が成功していないと私が感じる最大の理由は、デリダがここで読むことを提案している二つの資料(一つは、NY大会の議事を再録したIPA会報144号であり、もう一つはエルサレム大会で提案された(ヘルシンキ大会で採決されるべき)新たなIPA規約の一部)が面白くないということに尽きます。

 脱構築されようのない、重層性の全くないテクストが相手では、いかにデリダでも、純然たる政治的言説にならざるをえないという好例でしょう。

 では、日本に精神分析は根付いたと言えるのか(あるいは、適応するための問題点は何か)という非常にシヴィアな問いは残っていると思いますけれども。これもkさんにフランクに伺ってみたい問いではあります。

Geopsychanalyse (2)

(ML01133の続きです)

 もちろん、文学・芸術的なテクストへの応用は駄目で、社会・経済・政治的な運動への応用はいい、といった単純な話でもないだろう、と。この点(治癒=効果をもたらす理論=実践)を明らかにしてくれるのではないかと柄谷の「日本精神分析」に期待しているのですが。

 デリダは初期から現在に至るまで、実にさまざまな仕方で精神分析を扱っていますが、『Psyche 他者の発明』(初版1988年、増補21997年)という論文集に収められたテクスト「地精神分析 と世界の残りの部分」(初出1981年)は、彼が精神分析を具体的な地政学的文脈で取り上げ始めた最初のテクストではないかと思います。

 しかし、内容はがっかりするようなもので(むろんデリダ本人に言われるまでもなく、癒し系人文諸科学に喜ばれそうなバシュラール風の「大地の精神分析」「大地と憩いの夢想」の焼き直しにならないのは当然として)、後年例えば、『マルクスの亡霊たち』(1993年)にちらりと出てくるような「喪の作業」の地政学的応用といったものとは何の関係もありません。

 それでも興味のある方のために(以下、興味のある方向けです)、一応要約・再構成しておくと――

 「地精神分析 と世界の残りの部分」は、ルネ・マジョールが提案して19812月にパリで行なわれたフランス=ラテン・アメリカ会議の開会講演です。デリダの他のすべての講演と同様に、いつ・どこで・誰を対象に行われたかということは、講演の内容と密接に関わっています。

 どこで・誰に。ルネ・マ ジョールが発案者であること(著書『ラカンとデリダ』はご存知かと思います)、「今日の精神分析の諸制度・政治」を主題とする会議であること、フランスと ラテン・アメリカの分析家たちが主な参加者であること(南米ではクライン派やラカン派が絶大な勢力を誇っているらしい)は、この講演が必然的に反主流的、 すなわち流派的に言えば反アメリカ的、制度的に言えば反IPA(国際精神分析協会)的なものになるであろうこと、しかし同時に講演者がデリダである以上、むろんフランスとラテン・アメリカの精神分析の現状を無批判に称揚することはないであろうことを示唆しています。

 いつ。19812月は、1977年のIPA30回エルサレム大会、1979年の第31NY大会を経て、数ヵ月後にIPAの総会である第32回ヘルシンキ大会を控えた時期であり、デリダはこの講演によって、「ささやかな、無責任な、きわめて非合法的な」形ではあれ、大会で票決されるはずのある議題(新たなIPA規約の採択)に介入しようとしています。

 ま、あとは大雑把にまとめてしまいますが、IPAの前二大会で、「アルゼンチンをはじめとしてラテンアメリカ諸国で、精神療法を流用した新たな拷問がかなりの規模で行なわれているらしい」という噂が駆け巡ったので、IPAは報告書を出さねばならなくなったが、予想通り「こういう問題は他でも起こっているから」ということで名指しを止め、「こういうことは起こってはならない」という穏健な、といえば聞こえはいいけれど、毒にも薬にもならないものになった、と。

 こうしてIPAは、 「人権」を擁護する、世界的に認められた精神衛生機関になろうとしているわけだけれど、はたしてそれでいいのか、精神分析とはそもそも直面したくないもの を表面に曝け出すことを使命とした、その意味で他の微温的な精神衛生機関とは根本的に断絶したところに成り立つきわめて現代的な、ラディカルな機関である べきではないのか、と。これはIPAの問題。

(続く)

Friday, August 30, 2002

animalité (3)

(以下、ssさんのML01135-01136に対する返信です。)

1*デリダの動物論

 私は『自伝的動物』所収のデリダの"L'animal que je suis"を読んでないので(リールのいかなる図書館にも存在しない!!)、現時点でのデリダの動物論の核心部分については今のところ何とも言えません。

(ちなみに"Fichus"というデリダのアドルノ賞受賞記念講演は、浅田さんの要約も原文邦訳もネット上で読めますが、アドルノが動物を論じた断片の将来なされるべき読解を予告しています。興味のある方は、アドルノ『啓蒙の弁証法』『ベートーベン、音楽の哲学』をどうぞ。)

そこでさしあたり、「なぜ動物性なのか」という放置しておいた「原理的な問い」にデリダはどう答えているかを見るだけにとどめます。



 デリダは、女流精神分析史家のルーディネスコと昨年出した対談本De quoi demain...(ユゴーからの引用ですが、『明日は何が・・・』と訳せるかな?)の中の一章(「動物に対する暴力」)で、なぜ動物性の問題が重要なのかを解説しています。「暴力的に要約」すると――

 動物性の問題というのは、他の重要な哲学的問題のなかのひとつというのではなく、それらすべての前提をなしている隠然たるヒューマニズム(『ヒューマニズム書簡』(1947)の言葉を借りて言えば、「形而上学的な意味におけるヒューマニズムでない人間性Humanitas」を模索し、「従来のあらゆるヒューマニズムに反対するが、しかしそれにもかかわらず、非人間的なものの弁護者にはおよそ決してならない」と宣言するハイデガー的な「ヒューマニズム」も含めて)を明らかにするという意味で、最も重要な問題である、と。

 「人間的」ということが「動物的」「獣のような」ということと対になり、この二項対立だけが特権化されている状態からの脱皮を目指す、という意味で、およそ可能な限り「人間的」でない哲学を目指す、と言えばいいでしょうか。

 「動物なるものL'Animal」は存在しない、「人間」と「それ以外の動物」の境界線だけでなく、様々な異なる動物たちのあらゆる境界線の複数性が強調されねばならないのだ、と。

ドゥルーズの「動物に生成変化すること」もこの点において接続するのが妥当かもしれません。cf.『ミル・プラトー』第10章。けっこう馬鹿馬鹿しいくだりもあって面白いですよ。)



(動物性の議論は実は初期の時代から一貫して自分が持っていた問題意識だとデリダは主張するんですけれども、そしてそれはそのとおりなんですけれども、裏を返せば、またもや「音声=ロゴス中心主義」「プラトン以来の西洋形而上学の伝統を覆す云々」といった大風呂敷になってきてるということなんですよね。それをミクロの視点から具体的なテクストに即してやっているうちはいいんですけれども。

 敢えて柄谷との無謀な比較をしてみるならば、長らく大文字の「セオリー」を立てず、批評的な軽快なフットワークで個々の作品読解に即した小さなセオリーだけを積み重ねてきたデリダがとうとう、また「大理論」に回帰しつつあるのか、と。)



 で、ここでデカルトが重要になってきます。デカルトの「私」=自我=主体は、近代哲学のみならず、近代の法体系の基礎になっている、と。一方で、デカルトの主体は自己を理性的・意識的な主体と認識することによって基礎づける。他方で、法体系の中で重要な概念は「責任ある主体」というものです。
「責任=義務を果たせる者にだけ権利も与えられる」という考えがあるからこそ、「理性」や「意識」を(部分的にであれ)欠いているとみなされる者(精神障害者、幼児)には一部の権利が制限されたわけで、哲学は政治と関係のないように見えてもやはり根底で政治的な諸概念を規定しているのです。

 お気づきでしょうが、動物は既存の法体系の中で位置を、したがって権利を与えられえない。「動物は確かに理性を持たないかもしれない、しかし動物は苦しむことができる」というベンサムの言葉を引いて、デリダが言いたいのは、「動物の権利を考え直すことは、既成の法概念そのものの根底にある哲学概念を見直すことでなければならない」ということです。

(例えば、「ユダヤ人は獣が屠殺場に連れて行かれるように収容所に連行された」という表現は二重に問題含みだということです。「ユダヤ人=獣」という比喩だけでなく、獣が屠殺場に連れて行かれることにはなんの問題もないかのような考えが根底にあることも。)

 ただ、デリダも具体的にどう見直すべきかを言っているわけではなく、「歓待」という言葉をちらりと垣間見せているくらいで、後は憶測の域を出ません。というより、これは同時代的な哲学問題であって、我々自身がそれぞれなりの仕方で「哲学する」ことを通じて答えを模索すべき問題なのでしょう。Hic Rhodus, hic saltus !

Thursday, August 29, 2002

animalité (2)

 なぜ動物性が問題なのか、という原理的な問いにはさしあたり答えることはできません。

(「動物性」の問題は、「供犠」を通して「宗教的なもの(の世俗化と聖なるもの)」「共同体」の問題から派生したのではないか、したがってハイデガーと共にバタイユを読むというナンシーの戦略はきわめて正しいのではないか、というのが私の仮説なのですが、まあそれはいいことにしましょう。) 

 そこで、フランスではいつ、どのような形で問題になってきたのかだけをお答えします。見通しがいいのでド・フォントネーのまとめを拝借すると、「ハイデガーの1929-30年講義録の仏訳が出版された(1992年)のと相前後する時期に、ハイデガーに関する、ハイデガーとの議論の場における決定的な基準として、動物の問いが現われてきた」ということで、にわかにこの問題が仏現象学派(フッサールも動物を子供などと共に例として取り上げていますから)、仏ハイデゲリアンの間でクローズアップされてきたわけです。

 ではなぜ、1929-30年の講義録『形而上学の根本問題-世界・有限性・孤独』なのか?それは、ハイデガーの動物に関する有名な定義「石は世界を持たない(weltlos)、動物は世界が貧困である(weltarm)、人間は世界形成的(weltbildend)である」がここではじめてかなりの規模で展開されるからです。

(これについては、ジジェク『脆弱なる絶対』(原書2000年)第8章「石とトカゲと人間について」で取り上げていて、さすが見事な「知の行商人」の勘と言いたいところですが、内容はかなり今一つで、むしろ意外に木田元あたりがいいんですよ。『ハイデガー』(初版1983年)『ハイデガー『存在と時間』の構築』(岩波現代文庫、2000年)を読み比べると木田元の「進化」が窺えますが、そんなくだらないことはしなくてもいいんで(笑)、後者だけをお読みください。読みやすくてそこそこのレベルはある、哲学専門でない人にもお薦め本です。

 後者の第一章で、木田元は「<世界内存在>は相当程度生物学由来の概念である」とか「ハイデガーの<世界内存在>という概念の形成に、ユクスキュル[環界繁縛性]やシェーラー[世界開在性]のこうした着想が大きな影響を与えたに違いない」と言っているけれど、「人間の根本構造としての世界内存在に関する『存在と時間』の中心的なテーゼは言ってみれば、今世紀初頭にあって生物とそれを取り巻く世界との伝統的な関係を本質的に修正したこの[ユクスキュルらの]問題構成全体に対する一つの答えのようなものとして読める、ということも考えられないわけではない」というアガンベンの言葉を聞けばさぞ喜ぶでしょう。ssさんが現存在と結びつけたのも「ご明察!」です。)

 さて、この動物性の問題に関するデリダの本格的な出発地点も、またもやssさんのご指摘どおり、ハイデガー、とりわけ『精神について-ハイデガーと問い』(1987年)だと思います。デリダの動物論について、詳しい話は必ずや近いうちにご紹介するとして、ご興味がおありの方は、ひとまず批評空間アーカイヴの王寺さんの紹介文を参照してください。王寺さん、例によって、得意分野じゃない場合の逃げ方も見事なものですよ。

animalité (1)

hf@リールです。

 今週末から、「北ヨーロッパ最大の」(リールで何にでも冠せられる名称)braderie が始まります。要するに大蚤の市で、名物はmoule friteというどうしようもない代物です。私の家の目の前がメイン会場になるので、とんでもない乱痴気騒ぎが繰り広げられるものと予想されます。



 ssさん、本当にお久しぶりですね、お元気ですか?私、来年の2~3月あたりにミュンヘンのmg家を襲撃しようかと密かに計画してるんですけど(笑)、ご一緒にどうですか?


批評空間社の解散と、hfさんが 01129 で言及していたNAMのことについても、ちょっと書くつもりでいたのですが、また今度気が向いたらということで。

キツーいお叱りを覚悟いたしております、とは言いませんが、気が向いたら本当にぜひお願いします。私が何かを書くのは、他人に目を覚ましてもらうためなのですから。



(ssさんのメール01136が入っているのを見たんですけど、修正なしで出したほうが、すれ違いがあって面白いかもしれないので、すでに書いたモノをそのまま出します。)

 さて、「動物性」です。引用ありがとうございました。これやっていただけると非常に助かります。おかげで買わずに済みました(こっちで買おうとすると高いんですよね)。

 というわけで、東さんのはちょっと期待はずれ、というかコジェーヴを予想すべきでした。要するにコジェーヴの「動物」は比喩ですよね。「『動物的』ってじゃあどういう意味?」と問い返されると詰まってしまうという類いの。

 私の言う「動物性」は実際の動物のそれで、この問いはすでに10年以上フランスで問われ続け、昨今ようやく本格的に「国際的」になり始めている問いといっていいかと思います。

(「国際的」と括弧をつけたのは、アガンベンが今年、『開かれたもの-人間と動物』という著作を出し、ほぼ同時に仏訳も出たという事実を指しているにすぎないからです。アメリカやイギリスの文脈はmtさんが報告してくださるまで待たねばなりませんし、ドイツの文脈はmgさんや、何よりssさんが教えてくださらなければなりません。

 ちなみのこのL'ouvert. De l'homme et de l'animal(この仏訳題のほうがちょっといいですね)はネタ帳としては、Elisabeth de FontenayLe silence des betes1998)の小型簡略版(パースペクティヴのとり方が完璧に現代思想に偏ってるけど)とも言うべき重宝な本で、13世紀のユダヤ聖書の挿絵から始まってティツィアーノの『ニンフと羊飼い』まで絵画を読み解いて見せたかと思えば、哲学的に言えばアリストテレスからドゥルーズまで、神学的に言えばアクィナス、パリのギヨームからベンヤミン、バタイユまで、生物学的に言えばリンネ、ビシャからユクスキュルまで、お約束の「レフェランス」を多少超え出る予想外の参照先の、しかも一番おいしいところだけをコンパクトにまとめて見せてくれます。

 がしかし、アイデア・ボックスの域を越えるものではなく、Homo sacerほどの理論的インパクトを備えた話題作ではない。例えば、アガンベンもこの本でコジェーヴについて一章を割いて(「スノッブ」)いますが、話の本筋と何の関係もない。というかこの本は、見所はあるが本筋のない本なんです。

 では見所は何か?隠れハイデゲリアンであるアガンベンによる本書の見所は、なんといっても彼の5章にわたるハイデガー読解です。というわけで括弧を終わって、本文と合流します。)(続く)

Monday, August 26, 2002

Geopsychanalyse(1)

 こんにちは。

 ところで、どなたか、東さんの近刊「動物化するポストモダン」読んだ人はいらっしゃいますか?ちょっと必要があって、動物性の問題を調べているのですが、デリダの動物論とか使ってるんでしょうか?ご存知の方ぜひお知らせください。

 柄谷の「日本精神分析」への私の興味のありかを明確にしておきたいと思います。(まだ読んでないということです)

 私が最も興味を抱いていること、それは、彼の「(精神)分析

というのは、治癒に貢献しなければ何の意味もないはずだ」という観点がNAMの理論・実践との関わりで、また大正期の文学テクストの分析などによってどう具体化されているのか、ということです。

 私は、この「治療=効果」という観点はきわめて重要だと思っています。周囲に文学や芸術領域への精神分析の単純な「応用」が蔓延しやすい人文系にいるだけにいっそうそう思います。

(学部生時代、「精神分析 学自主ゼミナール」という怪しげな団体を主宰していた頃、私が一貫して言っていたのは、私たちがフロイトたちの本を読んで学べるのは所詮、理論としての精 神分析「学」にすぎないので、決してそれを具体的な他者の治癒を目指す理論=実践としての精神分析と勘違いすべきではない、ということでした(例えば、ラ カンについての簡単な参照先は、webcritique、アルチュセールとラカンの差異に触れた浅田さんの「デリダを巡るメモランダム」)。)

 文学や芸術領域への精神 分析の単純な「応用」に私が違和感を覚えるのは何故か。それは、そのような応用が何らの治癒=効果、「処方箋」ももたらさないことが圧倒的に多いからで す。応用することがまずいと言うのではない、精神分析にとって行為遂行的解釈が本質的なものであるなら、そのような解釈を与えない単純な応用はすべて本質 的に(仮に精神分析「学」から借りた概念装置を用いていたとしても)精神分析とは何の関係もないはずだ、と言いたいのです。(続く)

Friday, May 24, 2002

AMN, AMS

みなさん、こんにちは。

 しばらくご無沙汰していたのは、5月17日リールで開催された「ベルクソンをめぐって」という小さなコロックでの発表を準備するためでありました。

 コロックと言っても、「研究発表会」のようなもので聴講者も多くて20人程度、発表者も私ともう一人の博士課程の学生K(といっても彼はAMNというお偉い肩書きがあるので、私と同列に並べるわけには行きませんが)を除けば、DEAの学生ばかり。

 当たり前の話だけれど、やっぱりフランスの「制度」の外にいるんだなという疎外感を感じますね。例えば、Kとは普段けっこう親しくしていて、ほとんど毎週のように一緒に飲みに行ったりもする仲なのだけれど、彼などはアグレジェ(大学教員資格保持者)で、AMN(Assistant Moniteur Normalien「高等師範学院研修奨学生」とでも言えばいいのかな)。要するにフランスのエリート中のエリート。コロックでも期待を集めているのがよく分かる。

 私なんて片言のフランス語で30分程度の発表を準備するのに息絶え絶え。自分でも拙い物言いしかできていないと言うことが分かるだけに、会う人皆「発表よかったよ」などと言ってくれるのがPCのようでよけいにつらい…。後から聞いてみると、Kの発表は私の指導教官が今秋刊行する予定の『二源泉』に関する論文集[2005年の註:Les Annales bergsoniennes, volume I]への掲載を打診されていると聞いて、なおさらがっかり。

 まあでもそういう「利害関係」ないし「羨望」を抜きにすれば、エリート候補生の生態を間近から眺めているのは面白い。僕の知っている数人はいずれも、仕事ぶりは凄まじい。授業を行ない、授業を受け、博論を執筆する徹底して合理的な生活運営(とりわけ博論執筆を進める腕力、確立されたメソッドに則って着実に博論を前に進めていく手腕)。それでいて生活に優雅さが欠けているわけではない。フランス人である彼らはむろんバカンスをこよなく愛している。こういう奴らがゆくゆくは大学教授になっていくのかと思いますね。

***

 さて、コロックを終えて、アムステルダムへ行ってきました。そうです、極右党首が選挙の数日前に暗殺され、その後その極右政党が第二党に躍進したというあのオランダです(ちなみに途中で乗り換えた駅はこれまた住民の30%が極右支持というとんでもない町、アントワープでした)。。。

 ハーグでも途中下車し、マウリッツハイスへ。フェルメールの「真珠の少女」「デルフトの眺望」、レンブラントの「老自画像」、ヴェイデンの「ピエタ」、ホルバインもなかなかいいです。sさんもヨーロッパへお立ち寄りの際には、オランダも良いかもしれませんよ。

 翌日は、ハーレムと言うアムス近郊の町で自転車を借りてサイクリング。十年に一度とかいう「フロリアーデ」という日本でいう「花博」のようなものを見物してきました。ああいうのはパビリオンより屋外に力を入れたほうが良いですね。とても気持ちのいい一日でした。

 そしてアムスでは、話題の「ゴッホ&ゴーギャン展」。タヒチ以前のゴーギャンをまとめて見られたのはよかった。かなりゴッホ偏重な解説だけれど、ゴッホ美術館なので仕方ない。

 あと、アムスAMSでよかったのは本屋。英・独の原書がけっこうあって(オランダ語と半々くらい)、リールで英語の本欠乏症の私は、思わずジジェクのイデオロギーアンソロジーを買ってしまいました。そこで知ったんですが、ジュディス・バトラーって、ガダマーのもとでヘーゲルの欲望概念についての博論を書いたようですね。[2005年の註:より正確に言えば、"Subjects of Desire is my 1984 dissertation, revised in 1985-86. I wrote on the concept of desire, concentrating on Hegel's Phenomenology of Spirit and some of the central appropriations of that theme in twentieth-century French philosophy. Prior to my graduate studies, I was a Fulbright Scholar studying Hegel and German Idealism at the Heidelberg Universität, attending the seminars and lectures of Dieter Henrich and Hans-Georg Gadamer. (...) I wrote the dissertation under Maurice Natanson, a phenomenologist (...)" (Judith Butler, Subjects of Desire, Hegelian Reflections in Twentieth-Century France (1987), Paperback Edition with a new Preface, New York: Columbia University Press, 1999, p. vii).]

Wednesday, April 03, 2002

ブルーメンベルク

mgさん、ssさん(あるいはmtさん?あるいはisさん?)

 ハンス・ブルーメンベルクという人の大著「近代の正統性」(邦訳はウニベルシタス)がありますね。近代性の問題を考える時、クーン、フーコーと並んで、欠かせない三大名著の一つだそうですが、とりわけ神学の桎梏を考える時には欠かせないようです。

 他にも邦訳で「光の形而上学」「難破船」といった著作が昔出ていたようですが、これまで迂闊にもあまり名前を聞いたことがなかったように思います。やはりドイツでは知られた人なんでしょうか?どんな評価なんでしょう?

 フランスでも「近代~」が1999年に翻訳されたばかり、他の著作の翻訳も90年代に出始めたばかりで、名前はそれほど知られてはいないようです。

Sunday, March 24, 2002

英霊?

お久しぶりです。皆様お元気でしょうか?hfです。

こちらは普通の意見です。
http://business.nifty.com/anke/back/27.html

中村生雄という人の切り口はなかなか面白いと思います(最終的な結論はともかくとして)。有名な人なんでしょうか?
http://bun110.let.osaka-u.ac.jp/member/nakamura/sindarahotoke.htm

Monday, February 04, 2002

怒りの後で(3)

 みなさん、こんにちは。

 電子インタヴューのために書きかけで放置していたラカン筋ゴシップ記事、とうとう「モノ」が出てしまったので、情報としての価値が完全に消え去らないうちに後編を投稿します。理論的にはほとんど見るべきものがないままですが…

カッサンドラのために

≪ファシズムはフランスで生まれたものじゃないんだよ。1936年以前、我がフランスにはいかなるファシスト政党も存在しなかった。1936年以降、唯一その名に値するジャック・ドリオの運動もあるにはあったけれど、でもほんの些細な取るに足りないものだった。1940年から1944年まで権力を握っていたのは似非ボナパルティズムで、もしファシズムがあったとしても、それはよそから来たものだったんだ。

(…)国民戦線[現代フランスの極右]について言えば、幾つかの面で極右と結びついているからといって、それでファシストということになるのか?まあ、安心しろよ。フランスじゃ、ムッソリーニのイタリア、フランコのスペイン、サラザールのポルトガル、将軍達のギリシャほどに事態が深刻だったことはないし、これからもないよ。≫(p.13)

 最悪の事態がやってくるまで、人はそれを信じようとはしない。けれど、最悪の事態がやってきても、やはり人はそれが最悪の事態であることを信じようとはしない。ひどいときには、それが去った後ですら最悪の事態であったことを認めようとはしない。「あたかもペタンの国民革命が夢遊病者たちの間で行なわれた独裁であったかのように」(pp.13-14)。

(註:「ペタン元帥」ことフィリップ・ペタンは、一次大戦最大の山場(とフランス人は思い込んでいる)である「ヴェルダンの攻防」で陣頭指揮をとってドイツの猛攻をしのぎ、祖国を守りきった功労者として一躍名を揚げた。34年に「戦争相」、39年にマドリッド大使と着実にキャリアアップを続け、40年6月、遂に政府の首班となって休戦協定を締結。元来は保養地として有名であったヴィシーに政府を置いて、ドイツ占領下で親独的な政策を取り続けたので、45年の「解放」後、アカデミー・フランセーズ会員の地位を剥奪され死刑判決を受けるが(蓮実の『凡庸な芸術家』の冒頭にも出てくるけれど、アカデミー会員は別名「不死の人」とも言われるから、筋は通ってる)、ユー島での終身禁固刑に減刑された。1951年死去。

 「国民革命」とは、中華民国国民政府のそれでもなければ、ナチ党のそれでもなく、ペタンが唱えたスローガンで、標語は「労働、家族、祖国」であった。)

 トロイア王プリアモスと妻ヘカベの娘カッサンドラを見初めたアポロンは、好意という見返りを期待して彼女に予見の術を教えるが、あえなくふられてしまう。怒ったアポロンはこう付け加える。カッサンドラはすべてを正しく予見するだろう、ただし誰も彼女の言うことを信じようとはしないだろう、と。

 カッサンドラは神託を告げるようになった。が、告げる前に必ずトランス状態に陥ったので、家族の者は、彼女が紡ぎ出すすべての言葉は無意味な戯言で、彼女は気が触れたのだと考えた。トロイアの滅亡を予言した彼女の言葉は、誰にも聞き入れられなかった。そしてトロイアは滅亡した。

マオイスト的ラカン

 「まえがき」に続いて『怒りの後で』の導入的な役割を果たす短編「あたかもすべての道がヴィシーに通じていたかのように」では、ペタン主義に加担した技術者、実業家、公務員たちは決して罪を問われることなく、警官は警察署に残り、司法官たちは裁判所に残ったこと、すなわち1945年に国を挙げて否定されたのは表面的なファシズムであって、その本質をなすペタン主義は生き延びたこと(「昨日のペタン主義、今日のル・ペン主義」[ル・ペンは国民戦線の党首])が強調される。

 続くほぼ同じ長さの長篇エッセイ2本「フランス的なおぞましさ」「"Minute"があった」では、このペタン主義、すなわち「国民革命というフランス風独裁」(p.20)について、「戦中と戦後の間」(丸山真男)で個別例が研究される。すなわち前者においては「ヴィシー体制を支えた諸制度のうちで最も特徴的なもの、ペタン主義の特性と同時にその一貫性を最もよく理解させてくれるもの」としてCGQJ(ユダヤ人問題最高委員会)が、後者においてはペタン主義を戦後において支えてきた「何の苦もなく極右と識別しうるシンボルの一つ」(p.9.)である週刊誌”Minute”が取り上げられ、それらの歴史が素描される。

(註:一つだけ例をあげておこう。ユダヤ人虐殺といえば、すべてドイツ人がやったかのような幻想だけは少なくとも持たなくてよいように。

 1940年9月27日にドイツの行政命令として占領下のフランスに与えられたユダヤ人の定義は、ただ宗教的告白にのみ基づくものであったが、10月3日、フランスの司法大臣アリベールが発案し、1941年6月にCGQJ委員長のヴァラによって強化されたユダヤ人の社会的地位は人種の概念を導入するものであった。ナチのそれよりもはるかに広いユダヤ人の定義を提案したのはフランス側なのである。そして、1942年の大規模な一斉検挙が始まった頃、より大勢の犠牲者を死へと追いやるために、誰を強制収容所へ送り込むかを決定するに際して、ナチスは自分たちの行政命令の文面を放棄し、フランス人たちのそれを採択したのであった。)

 長短3本のエッセイからなるこの『怒りの後で』において、GMが目指しているのは、「老元帥の亡霊を地下牢から引き立ててくることで、幾つかの事実を思い起こさせること」である。隠蔽され抑圧された過去の真実を甦らせるのは、現在の現実そのものの隠蔽と抑圧を明らかにするためにほかならない。ここで「精神分析と政治」というテーマが浮上してくる。

≪最後に一言だけ、この「まえがき」に付け加えておきたい。僕が精神分析家だと知って、僕のアンガージュマンに驚く人がいる。まるでフロイトの発見が死んだ魚みたいにしてなきゃいけないみたいだ。けれどはっきりしているのは、世間で思われているのとは違って、どんなに些細な棘も取っ払って丸くおさめ、健忘症者たちの織り成す調和の中で皆が共存していけるようにする、なんてのは精神分析の役目でも何でもないということだ。精神分析は、それとはまったく逆に、リアルの次元を活性化させ、「記憶」と「真実」という言葉に力を与えるのだ≫(pp.14-15.)

 むろん、ここにラカンの精神分析理論の先鋭な解釈がある、などとは間違っても言うまい。私が言いたいのはまったく逆である。ここにはジジェクが言っているのよりももっと素朴な意味で「ドグマティック」な、精神分析の歴史学の領域への応用がある。『怒りの後で』は、ラカン精神分析を最も粗暴な形で政治的に応用したプロパガンダ用のパンフレットである。あるいはこう言ってもいいだろう、ジジェクが英米の左翼的言論界においてラカンのスターリニズム的用法を大規模に展開したのだとすれば、GMはフランスのメディアの海を巧みに泳ぎきって、ラカンのマオイスト的用法をゲリラ的に展開して見せたのだ、と。GMもJAMも出自はマオイストなのである。



 以上に見てきたGMの自由奔放な芸能活動と、JAMの地味な「セミネール」出版活動の何たる好対照、と人は言うかもしれない。だが、そう見るべきではない、と私は今思っている。両者の底には同じ「怒り」が渦巻いている。彼らの時間は68年で止まったままだ。そして、私がそう思わずにいられなくなったのは、ある小冊子のおかげなのである。(後編へ続く)

Sunday, January 13, 2002

ボチュル『カントの性生活』(2)

 mgさん、私も有福さんの授業でレポート書くのに、ウニベルのヘッフェを使った記憶があります。彼の著作はフランスでも四、五冊訳されてるはずです。

 彼の『カント実践哲学序論―道徳、法、宗教』(仏語版初版1985年、増補二版1993年)は、著者の言葉を信じるなら仏語訳のために書かれたものだそうですが、きっとすでにドイツ語版も出てるんでしょうね。

***

  定番クラシックにスキャンダラスなクラシックを紛れ込ませて、すべて10F(フランももうじきなくなってしまうけれど。150~200円くらい)という恐 るべき安値で叩き売ってしまう、その名も「千一夜出版」(éd. Mille et une nuits)から2000年に刊行された『イマヌエル・カントの性生活』を再びのんびりと辿って行くことにします。

 まどろっこしい背景説明は後回しにして、いきなり講義の中身に入ります。

  mgさん、ssさん、他の皆さんにもにお願いなのですが、個々の事例に関するボチュルの解釈について、また事実誤認など、問題があると思われたときは遠慮 なく指摘してください。Kavaliertourや中世の大学教員の収入源(次回)についてなど、関連事項なども教えていただけると幸いです。お忙しいと は思いますが、どうかよろしくお願いします。

閑談の壱:ケーニヒスベルクを愛すること

 みなさん、こんにちは。
  ボロウスキー博士がこの皆さんのコミュニティに招いていただくという栄誉を私に与えてくださったとき、実はかなり長い間ためらいました。私はカントの専門 家ではありません。カントの巨大な著作群は、人を怖気づかせ、奥深く入り込んでいくのに二の足を踏ませるジャングルです。果敢に挑戦していった冒険者たち の中には二度と再び戻ってこなかった者もいるくらいです。

 イマヌエル・カントの性生活についてお話しするのをお引き受けすることによっ て冒涜を冒しているような気になっただけに、私のためらいはいっそう大きくなりました。なんたる無作法!哲学者のintime(内面的、プライヴェートナ ンシーの『無為』『対立』の鍵語でもある)な生活について語るとは!

 こういった伝記に関する諸問題は、ほとんど好意的な評価を受けてお りません。そして、そういった問題を扱う者たちの大半があまりにもしばしば、ある哲学者の著作をその生涯から説明するなどと軽率に請け負って見せる以上、 否定的な評価はむしろ当然のことであります。私の講演の目的はそのようなものではありません。

 私としては皆さんにこう尋ねたいのです。 哲学者の生涯は、彼の哲学を理解するにあたっていささかたりとも資するところがないのでしょうか、と。ソルボンヌの先生方は満場一致で「ない!」とおっ しゃることでしょう。私自身、そのような教育を受けてまいりましたので、この講演を準備するあいだ、非難の調子をこめて私に語りかけてくるある声が、心の 奥底から幾度も聞こえてきたものでした。「どうしてわざわざイマヌエル・カントの性生活について語らなきゃならないんだ、そんなに労力を払ってまでし て?」

 にもかかわらず、得体の知れない力に衝き動かされて、私は皆さんのお招きに応じることにし、ケーニヒスベルクの賢者の生涯に関す るあらゆる著作を(とはいってもごくわずかな数しかありませんが)読み始めたのでした。そうしてただいまから皆様と共に少しずつ明らかにしていこうと思っ ている驚くべき結論にたどり着いたのです。しかし本題に入っていく前にくれぐれも注意を促しておきたいのですが、私のたどり着いた結論がいかに衝撃的で苦 痛に満ちたものであるとしても、私がカントに対して抱いている尊敬、いや崇拝の念はいささかたりとも減じるものではありません。カントは私にとっては、い つまでも哲学者の並ぶもののないモデルです。

 カントのセクシュアリティは、挿話的なあるいは猥褻な主題をなすどころか、私たちをカント 哲学の真の理解へと至らしめてくれる王道なのです。では早速、問題の核心へと入っていくことに致しましょう。詩人も言うように、「夜が更けて、大きな白い ジャガーが僕たちの夢の中に忍び込んでくる」その前に。

定住の人カント? 

 多くの 人々にとって、カントのイメージは、哲学のpère tranquille(物静かな男)というものでしょう。日課の規則正しさやほとんど旅をすることのなかった生涯はみなさんよくご存知のとおりです。歴代 のプロイセン国王が戴冠式を執り行う町ケーニヒスベルクから、カントはほとんど離れたことがありませんでした。これは、ヴォルテール、ルソー、ディドロ、 ヒュームなどありとあらゆる哲学者がまた好奇心旺盛な旅行家でもあった時代にあっては信じがたいことです。

 啓蒙の世紀にあって、フラン ス革命に沸き返るヨーロッパにいて、そして彼自身革命に夢中になっていたにもかかわらず、カントはあのバルト海沿岸の町ケーニヒスベルクに深く腰を落ち着 けたままでした。イタリアに滞在したことも全くありません。カントの同時代人であり、同じプロイセン人たるヴィンケルマンによって一躍有名になり、一世代 後の大ゲーテもそのひそみに倣うことになるあの「イタリア詣で」(グランドツアー、Kavaliertour)という伝統が存在していたにもかかわらず、 です。カントお気に入りのツアーはpetit tour、家から鐘楼までの散歩でした(ミシェル・デルペッシュの往年のヒットソング「青春に乾杯Pour un flirt」を参照されたし)。

無性の人カント?

  カントはケーニヒスベルクに留まっていました。そこに生まれ、死に、そこで働きつづけたのでした。ハレ、イエナ、エルランゲン、ミッタウなど当時のドイツ の名だたる大学が教授職を提示しましたが、カントは辞退し続けました。この一見したところ起伏のない、ドラマのない、危機のない生涯は、人間カントの最も intimeな部分に関わっているのです。彼は公然と恋人関係にあったこともなければ、妻を娶ったこともなく、愛人をもったこともありません。生涯を独身 で通しました。カントは、ニュートンやロベスピエールと同じく、常に変わらず女性の肉を大理石として残したあの偉大な男性たちの列に属していたのです。清 廉の士ということでしょうか?無性の人なのでしょうか?

 カントの家には一人の女性も、下女すらいませんでした。忠実な下僕たるラムペが いただけです。そのランペに結婚話が持ち上がったとき、カントは彼を解雇しようとしたという噂があるほどです…カントは孤独な電子のように、カント家の大 家族の兄弟姉妹とも付き合いませんでした。伝説によれば二十の生涯を生きたというピタゴラスとは違って、カントはどうにかこうにかたった一つの生涯を生き 抜いただけ。率直に言って、伝記作者や色恋沙汰の愛好家たちの良い取引先とは言えません。

 しかしながら私は、この哲学者の単調な生き方 のうちに偏狭さを見ようとする見解には賛成しかねるのです。私が皆さんに示したいと願っているのは、この進んで取り入れられ、大事に育まれた凡庸さのうち には、何かしらカント哲学と不可分のものがあるのではないか、ということなのです。したがって、カントの性生活について私が皆さんにぜひともお願いしてお きたいのは、すべての先入観を捨て、性急な判断を控えていただきたいということ、既成の判断基準で判断されるくらいならいっそ判断なさらないでいただきた いということです。スピノザ『国家論』第一章第4節で奨励しているように「泣かず、笑わず、理解する」という態度をお願いしたいのです。(続く)

Friday, January 11, 2002

投瓶通信(mg・kへのメール)

mgさん

hfさんの重厚なエッセイの途中で、何かもうしわけないのですが、

 こちらこそ毎度ご迷惑をおかけして申し訳ありません。どうか私の文章との関連は気になさらず投稿して下さい。私は投瓶通信のようなつもりでドボンドボンと投げ込んでいるだけですので(しかし、重すぎると沈んでいくだけのようです…)。何か面白いことが書ければいいなあとそればかり考えているのですが…

 最近アップされ始めた王寺さんのエッセイなんか、個々の点には色々あるとしても、全体としてやっぱりいいなあと思います。浅田さんの影響を強く受けた軽くてしなやかなトーン、集積された知識の重みに押しつぶされない簡潔な論理展開。彼のフランス語の著作(クッシーとの共著)『普遍的なものを経験すること』もなかなか面白いです。

 ところで、またまたmgさん、ssさんに質問なのですが(ヨーベルについては補足をいずれ送ります)、オットフリート・ヘッフェってドイツではどんな受け止められ方ですか?チュービンゲン大学教授というのは、日本で言うとどんな感じになるんでしょう?

 ysさん、isさん、ご存知かとは思いますが、今週はFrance Cultureでフーコー特集を組んでいて、特に週末はコレージュでの講義を放送するようです。

p.s. フランス以外でもフランスのラジオを聞けるということをすっかり忘れておりました(日本でも、パソコン上で聞けますね)。France Culture のフーコー特集、土日、日月の夜の放送は一挙5時間、ぜひお聞き逃しなく。詳しい番組紹介は以下をご覧下さい。

http://www.radio-france.fr/chaines/france-culture2/speciale/speciale_foucault/prog.php

 生中継しか駄目なのか、録音をいつでも聞けるのか、詳しいところまでは分かりませんが、まあものは試し、一度お試しください。

 ちなみに以前ご紹介したマシュレのゼミで、ステファン・ルグランという切れ者が『主体の解釈学』を紹介しておりますので、興味のある方はどうぞ。マシュレのと同じアドレスからアクセスできます。

Wednesday, January 09, 2002

ナンシー『対立の共同体』

 ジャン=リュック・ナンシーの近著『対立の共同体』(2001年)は、彼の共同体の理論に本質的な変化をもたらすものではない、と私は言った。この評価を撤回する理由は見当たらない。また、「インドや中国」についての大雑把な注記に対する不満も変わるところはない。

 しかし、いささか手早く通り過ぎてしまった感もなくはないので、ここであらためて『対立』の内容を丁寧に辿って紹介しておこう。



 『対立の共同体』は、モーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』の伊語改訳版への序文を本体とし、それに数頁の前文を加えてなった著作である。『明かしえぬ』が執筆・刊行された当時の状況説明を、という出版社の求めに応じて、ナンシーは、これまでその意味を厳密に考え抜くことなしに放置してきたあるエピソードに立ち戻る。

 1980年代に書かれた「共同体」に関する諸々の哲学的なテクスト(当時のヨーロッパの思想を深く規定していたものでもある)の歴史、より厳密に言えばその出発点となった『無為の共同体』(初版1986年、二版1990年、三版1999年)の歴史が、それである。したがって『対立』の狙いは、『無為』執筆に至った経緯と刊行後の反響、とりわけブランショの反応を素描することである。

 また、そもそもブランショの『明かしえぬ共同体』(1983年末)自体、『無為の共同体』(初版1986年)の元になった同名の論文への応答(1983年春)として書かれたものであることを考え合わせても、『対立』は『明かしえぬ』の序文というよりも、『無為』への15年後の後記であると言ったほうがより正確であるかもしれない。

(むろん、「無為」というモチーフ自体がブランショから、したがってバタイユにごく近い場所から、より正確に言えば、この両者の間の「友愛」あるいは「無限の対話」という名の共同体(コミュニティ)から、この非常に特異な、沈黙に満ちた、ある意味で密やかな交通(コミュニケーション)から、取られた概念であることを考慮に入れるなら、事態はさらに複雑になるのだが…。)

 ブランショは「共同体」のモチーフに、共産主義が強力に遮蔽もし、同じように強力に生ぜしめてもいたもの、すなわち「共同的なもの」の審級、のみならずその謎ないしアポリア、その定かならず統御しがたい性格にふたたび取り組むべき絶対的な、暴力的ですらある必要性を認めていたが、『明かしえぬ』における彼の応答は木霊であり、反響であるにとどまらず、同時に留保であり、そしてある意味では非難であった。

 この留保ないし非難の意味を正確に捉えること、ブランショが『明かしえぬ共同体』という表題によってはっきりと指示している(テクストの終わりの部分にも表れている)秘密、すなわち愛によって与えられる死の中の「明かしえぬもの」、死において与えられる愛の中の「明かしえぬもの」の解明に、十八年の時を経て今ようやく着手する(少なくともその決意を宣言する)こと、これが『対立』の中心的な課題である。

(以下いちいち断らないが、ほぼすべての文章の前に「ナンシーによれば」が付くと思っていただきたい。私の見解を述べる場合には明示する)。



1.バタイユ講義から『無為の共同体』へ(pp.30-36)

 1982-1983年度、ナンシーはストラスブール大学で、政治的な角度から見たバタイユについての講義を行なっていた。ファシズムや共産主義ばかりではなく、民主主義的ないし共和主義的な個人主義の論理からも逃れる未知の方途の可能性を探ることが目的であった。

(当時はまだ「市民」は論じられてはいなかった。いずれにせよこの概念は、ナンシーによれば、上述の議論をさほど進ませるものではない。)

このような目的のためにバタイユをとりあげたのは、彼の著作の至る所に「共同体」という語・モチーフが現れているからであったが、バタイユという選択は同時に、問題が単に政治的なものにはとどまらないこと、言い換えれば、政治的なものの手前あるいは背後に、「共通なるもの」「一緒のもの」「数多いもの」があるということをも示していた。と同時に、どのように現実的なものの領域を考えればよいのか、もはや全く分からなくなっていたということをも。

 だが研究の結果、バタイユは未知の政治学に接近する可能性を与えてはくれないことが明らかになった。彼の戦後のテクストでは、むしろ幾つもの点で、固有の意味での政治的な可能性はすでに消去されていた。自身の戦前の思考が持っていた政治的な雰囲気を退け、「科学」としての社会学への対抗心を失い、社会学コレージュを本格的に創設するという試みを放棄していた。バタイユがファシズムの原動力と見ていた行動主義的な欲動のエネルギーを、「聖なる社会学」がファシズムから取り上げる、などということはもはや問題にはならなかった。ヘテロロジックなアジテーションは失敗し、戦争はエクスタティックな力をまざまざと剥き出しにしてみせるどころか、民主主義の勝利によって終わり、バタイユの政治的な計画はうやむやのままに残されたのである。

 しかし固有の意味での政治的な可能性を与えてくれなかったということは、別の角度から政治的なものを考え直す可能性を与えてくれたということである。バタイユは、"souveraineté'"を「主権、統治権」という政治的な意味ではなく、「至高性、絶対的な力」という存在論的・美学的・倫理的な意味で捉え、共同体の強い(情熱的な、聖なる、親密な)結びつきの本質を「恋人たちの共同体」のうちに見出すに至った。

 「恋人たちの共同体」というものがあるとすれば、それはいわゆる社会的な絆といったものとはまったく対照的な、そのcontrevérité(反語・逆説)として現れるほかないものである。生と死の間を繋ぐあらゆる通路が社会的な絆による拘束を受けているとしても、恋だけはそこから派生してくるものではない。社会を構造化する(たとえ侵犯によって社会に裂け目を生じさせることによってであるにせよ)契機として、バタイユによって想定された「恋人たちの共同体」は、社会の外に、と同時に内に、政治の全く関与しない親密さ=私生活(intimité)の中に託される(déposé)。

 政治と「共同-で-あること」の分離、漠然とではあるが当時次第に姿を現わしつつあったこの現象にバタイユは気づいていた。だが、強い親密さの共同体について語るにせよ、均質的で外延的な絆の社会について語るにせよ、バタイユは、内面性における引き受け(assomption en intéroirité)としての、実現されたユニットの自己現前としての共同体という望ましい場所(恋においてそこに到達するのであれ、社会においてそれを断念するのであれ)を基準点に据えている。しかし、この基準点、共同体のこの前提こそが(たとえ、はっきりと不可能なものとして示され、それによって「共同体なき者たちの共同体」へと反転しているにしても)分析されねばならないのではないのか。

 ナンシー自身は、共同体という表象が、哲学の伝統を通じて、マルクスとバタイユによるこの伝統の超克ないしそこからの横溢に至るまで、維持され続けてきたことを再認識し、80年代初頭のありとあらゆる思考に刻印を押していた「全体主義」に関する考察を通じて、共同体の本質的な性格を「自身の営み(œuvre)として自己実現する」ことであると認識するに至っていたわけであるが、バタイユの難解な、絶えず揺れ動く、苦しげな(malheureuse)部分もないではない思考は、それとは異なる共同体の可能性を考えるように仕向けてくれた(たとえバタイユ自身の思想を越えて進むことによってであるにしても)。それが「無為の共同体」である。(続く)

Thursday, January 03, 2002

ボチュル『カントの性生活』(1)

皆様、あけましておめでとうございます。

 旧年中は数々のご迷惑をおかけ致しました。今年は冷静な文章を書くことを目標に精進を続けていく所存です。願わくは、どうか本年も温かいご批判のほどをよろしくお願い致します。



 甘酒でほろ酔い、コタツでごろごろ、何とはなしにTV、のお正月にふさわしい和やかな話題を探してみました(私なりにですが)。

***

二つのボチュリスム

  サンタが水着でサーフィンをやる南半球のことだ、1946年5月のパラグアイには、2002年1月1日のリールのように冷たい小雨が降っていたかもしれな い。一人のフランス人が、カントについての講演を行なうために、今一度、ラテンアメリカの大地を踏む。これが最後になろうとは夢にも思っていなかっただろ う、彼はまだ50歳の若さだったのだから。翌1947年8月15日に51歳の若さでこの世を去ることになろうとは。

 不幸な名前というものは存在するのだろうか。マルクス、マルクシズム、何の問題もない。我々のジャン=バティスト・ボチュル(Jean-Baptiste Botul)の場合はどうだろう。ボチュル、ボチュリスム(Botulisme)。不幸かもしれない。

≪ ボチュリスム(哲学的な意味での)は、長い間、もう一つのボチュリスム(医学的な意味での)という同形異義語に悩まされてきた≫と、「ジャン=バティス ト・ボチュル友の会」代表のフレデリック・パジェスは慨嘆する。私hfは、不幸にしてこれまで「この不当に忘却された哲学者」の存在を知らなかったのであるが、それは、傷んだ豚肉加工食品などに潜むボツルスという病原菌が引き起こす深刻な症状、日本人の間ではボツリヌス菌という呼称が定着してもいるあの医学 的ボチュリスムが、我らの哲学的ボチュリスムの浸透を阻んできたためではなかろうか。そんな妄想にとり憑かれたくなるほどに、おかしくも哀しい生涯を生きた男なのである、ボチュルは。

カントのように…?

 フリギアのミダス王の触れる物はすべて黄金に変わってしまったという。ボチュルに関わる物も同様だ。すべておかしく哀しい物に変わってしまう。

  ボチュルがこの町にやってくる前年の1945年5月、後にカリーニングラードと称されることになる旧東プロイセンの首都からソ連軍の銃火を逃れて、百組ほどの家族が奇想天外の大航海の果てにパラグアイにたどり着く。郷里への断ち切りがたい思慕の念から入植地につけた名前がヌエヴァ・ケーニヒスベルク。ヨーク、ニューヨーク、あるいはオルレアン、ニューオーリンズ。何の問題もない。だが、ここヌエヴァ・ケーニヒスベルクは何かが違う。

 一と半世紀ほど前に逝去した「おらが町の」偉大な哲学者へのいや増す敬愛だけが支えである彼らは、この地を訪れた数少ない旅行者の証言によれば、カントのような服装で、カントのように飲み食いし、カントのように寝起きしていたということである。懐かしの故郷そのままに再現された街路で、毎午後、定刻に始まるあの伝説の散歩!

 …しかし、これではまるで狂信者のセクト、いやいや結論をつけるのはまだ早すぎる。カントのように生きたいと思う者たちが構成する「超越論的な共同体」が抱える究極の問題は何か?それこそ、ボチュルがあらゆる危険を承知で敢えて挑んだ論題「イマヌエル・カントの性生活」 であった。

Jean-Baptiste Botul, La Vie sexuelle d'Emmanuel Kant, présentation, traduction et notes de Frédéric Pagès, éd. Mille et une nuits, 2000.

無為の共同体…

 カントが穢れなき純潔のうちに生きたのだとすれば、この節制の原則を自らに課すことを選んだあらゆる新カント派的(?)共同体は、自然の導きに従って消滅への道を歩むことになる。これこそ語の最も正確な意味で「無為の共同体」と呼ぶにふさわしい共同体ではあるが(笑)。

  だが他方で、はるばるフランスから来るという講演者が、万が一にも「カントにも性生活は存在していた」などと暴露でもしようものなら、無礼な伊達者の「修正主義」に天誅を加える以外に、「尊師」の輝かしい伝説をスキャンダルから守る術はない。ボチュルが果敢に立ち向かっていったのは、このようなどことなくおとぎ話めいた、おかしくも真面目なジレンマであった。では、彼はこのアポリアにどう立ち向かっていったのであろうか?(続く)