Thursday, January 03, 2002

ボチュル『カントの性生活』(1)

皆様、あけましておめでとうございます。

 旧年中は数々のご迷惑をおかけ致しました。今年は冷静な文章を書くことを目標に精進を続けていく所存です。願わくは、どうか本年も温かいご批判のほどをよろしくお願い致します。



 甘酒でほろ酔い、コタツでごろごろ、何とはなしにTV、のお正月にふさわしい和やかな話題を探してみました(私なりにですが)。

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二つのボチュリスム

  サンタが水着でサーフィンをやる南半球のことだ、1946年5月のパラグアイには、2002年1月1日のリールのように冷たい小雨が降っていたかもしれな い。一人のフランス人が、カントについての講演を行なうために、今一度、ラテンアメリカの大地を踏む。これが最後になろうとは夢にも思っていなかっただろ う、彼はまだ50歳の若さだったのだから。翌1947年8月15日に51歳の若さでこの世を去ることになろうとは。

 不幸な名前というものは存在するのだろうか。マルクス、マルクシズム、何の問題もない。我々のジャン=バティスト・ボチュル(Jean-Baptiste Botul)の場合はどうだろう。ボチュル、ボチュリスム(Botulisme)。不幸かもしれない。

≪ ボチュリスム(哲学的な意味での)は、長い間、もう一つのボチュリスム(医学的な意味での)という同形異義語に悩まされてきた≫と、「ジャン=バティス ト・ボチュル友の会」代表のフレデリック・パジェスは慨嘆する。私hfは、不幸にしてこれまで「この不当に忘却された哲学者」の存在を知らなかったのであるが、それは、傷んだ豚肉加工食品などに潜むボツルスという病原菌が引き起こす深刻な症状、日本人の間ではボツリヌス菌という呼称が定着してもいるあの医学 的ボチュリスムが、我らの哲学的ボチュリスムの浸透を阻んできたためではなかろうか。そんな妄想にとり憑かれたくなるほどに、おかしくも哀しい生涯を生きた男なのである、ボチュルは。

カントのように…?

 フリギアのミダス王の触れる物はすべて黄金に変わってしまったという。ボチュルに関わる物も同様だ。すべておかしく哀しい物に変わってしまう。

  ボチュルがこの町にやってくる前年の1945年5月、後にカリーニングラードと称されることになる旧東プロイセンの首都からソ連軍の銃火を逃れて、百組ほどの家族が奇想天外の大航海の果てにパラグアイにたどり着く。郷里への断ち切りがたい思慕の念から入植地につけた名前がヌエヴァ・ケーニヒスベルク。ヨーク、ニューヨーク、あるいはオルレアン、ニューオーリンズ。何の問題もない。だが、ここヌエヴァ・ケーニヒスベルクは何かが違う。

 一と半世紀ほど前に逝去した「おらが町の」偉大な哲学者へのいや増す敬愛だけが支えである彼らは、この地を訪れた数少ない旅行者の証言によれば、カントのような服装で、カントのように飲み食いし、カントのように寝起きしていたということである。懐かしの故郷そのままに再現された街路で、毎午後、定刻に始まるあの伝説の散歩!

 …しかし、これではまるで狂信者のセクト、いやいや結論をつけるのはまだ早すぎる。カントのように生きたいと思う者たちが構成する「超越論的な共同体」が抱える究極の問題は何か?それこそ、ボチュルがあらゆる危険を承知で敢えて挑んだ論題「イマヌエル・カントの性生活」 であった。

Jean-Baptiste Botul, La Vie sexuelle d'Emmanuel Kant, présentation, traduction et notes de Frédéric Pagès, éd. Mille et une nuits, 2000.

無為の共同体…

 カントが穢れなき純潔のうちに生きたのだとすれば、この節制の原則を自らに課すことを選んだあらゆる新カント派的(?)共同体は、自然の導きに従って消滅への道を歩むことになる。これこそ語の最も正確な意味で「無為の共同体」と呼ぶにふさわしい共同体ではあるが(笑)。

  だが他方で、はるばるフランスから来るという講演者が、万が一にも「カントにも性生活は存在していた」などと暴露でもしようものなら、無礼な伊達者の「修正主義」に天誅を加える以外に、「尊師」の輝かしい伝説をスキャンダルから守る術はない。ボチュルが果敢に立ち向かっていったのは、このようなどことなくおとぎ話めいた、おかしくも真面目なジレンマであった。では、彼はこのアポリアにどう立ち向かっていったのであろうか?(続く)

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