Wednesday, March 29, 2006

天使の比較解剖学

インリンさんのコメントにつらつら返事を書いているうちに長くなったので、本文のほうに移します。

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フェヒナーのダンス論やジェイムズの紹介文などが入ったやつですね。フェヒナーの天使論というのは、要はかなり怪しげ(笑)な宇宙人論みたいなもので、人間以上の超高等生物(生きた遊星)を呼ぶのに他にいい名前もないから「天使」でどうだ、と。というか、フェヒナー自身もふざけて書いてるので、戯作といってもいいかも。

Gustave Theodor Fechner, Anatomie comparée des anges, suivi de Sur la danse, postface de William James, éd. de l'Eclat, coll. "Philosophie imaginaire", 1997.

ランブダシズムのせいでダンス論を翻訳しているラバンは、ラバノテーションのRudolf Laban (1879-1958)のことだと思ってました。が、そうではなく、現代の精神分析家・哲学者Claude Rabantだったのですね。今は亡き"imago"(feu imago...)の1995年10月号に榎本譲さん訳の「死の名」という論文が出ているようです

ちなみに、僕が「非人間の心理学」会場に持っていったもう一冊の本は、最近復刻されたコルバンの古典。

Henri Corbin, "Nécessité de l'angélologie" dans Le Paradoxe du monothéisme, éd. de l'Herne, 1981, 2003.

Tuesday, March 28, 2006

疲れた旅人

3月21日 ベルクソン業界の某御大より連絡あり。私の労作カッシーラーを軽くいなしてくれた某大書店にもう一度それとなくとりなしていただけるとのこと。親切な目利きが周りにいてくれてよかった。

3月22日 指導教官からメールあり。カッシーラー論文の仏訳に寄せた長文の解説は評価してもらえたようで、いつも以上のお世辞("parfait", "un beau travail")をかなり割り引いても率直に嬉しい。「君の博論にも何らかの形で絶対組み込めると思うよ」…というわけで、早く博論の全体像が見えるプランを出せ、とのこと。アメとムチねっていう。

恒例のマシュレ・ゼミ。ローゼンバーグについての議論。グリーンバーグやら、ジャッドやら。フランスの標準的な哲学者がマイケル・フリードやロザリンド・クラウスに気づくのは一体いつになることやら。

3月23日 献本の報せ。もちろんすべてお世話になった先生行き。ところで、某出版局の連絡はどうして全部郵便なんだろう?執筆者全員に送っていると手間もコストも馬鹿にならないと思うのだが…。その割りに専門書業界の苦境にご理解賜りたく今回は印税なしでというのは、本格的な財務金融改革に手をつけずに増税する小泉政権のようでなんか納得がいかない。まあ、メールにすると余計に煩瑣になるのかもしれないが。

3月24日 一日中アリストテレス・中世哲学ゼミ。非人間の心理学ということで、動物・ロボット・天使の心理学。圧倒的に知的な発言を聞いていると、なんとも言いようのない精神的高揚を覚える。こうなると学問は舞台芸術に近い。

3月25日 友人を招待。徹夜して翻訳。

3月26日 友人に招待される。徹夜して翻訳。翻訳とは何ぞやてな文章も書きたいのだが、あまりにも疲れていて頭が回らない。普段雑誌を通し読みしたりはしないが、ユリイカ』の「翻訳作法」特集だけは頭から読み続けている。舌津智之(ぜっつ・ともゆき)さんが、柴田元幸訳の同名小説にひっかけて、「憑かれた=疲れた旅人」とは「翻訳家」の別名なりと論じている。
『憑かれた旅人』(1999)Haunted Traveller
バリー・ユアグローの不条理ショート・ショート累積型小説。「呪われた旅人」と訳したくなる原題だが、あえて「憑かれた」とした訳者の柴田元幸は、もちろん「疲れた」との掛け言葉を意識している。ネット上で読める訳者/著者の往復Eメール書簡によると、ユアグロー自身も邦題のダブル・ミーニングを「嬉しい」と気に入っているようだ。本作品でこの拙文を締めることにしたのは、ある意味、「憑かれた旅人」とは、「翻訳者」の別名であるように思われたからである。原作者に憑依された夢遊病者。自由のきかない金縛り状態で疲弊する創作者…。もちろん、どうせ憑かれる/疲れるなら、その結果印税が入るに越したことはないのだが[…]。(112頁)

憑かれているかはともかく、疲れた旅人であることだけは間違いない。

Tuesday, March 21, 2006

終わり良ければすべて良し

1)長らく刊行予定と聞かされ続けてきた『ベルクソン読本』(法政大学出版局)がようやく4月12日に刊行されるとの報。本当に長かったが、出ると聞くとやはり嬉しい。私のごく短いサーヴェイも載っているので、よかったらご覧ください(というか、買ってください)。

2)昨晩から徹夜し、今日早朝、今週の翻訳予定分を終える。ほぼ予定通りに進んでいる。

3)フランスの雑誌に依頼されて出したはずのエッセイにレフェリーで文句がついていた件。「飛び道具」を出してみた。さて、どうなるか?

4)その後、疲れを癒す暇もなく家事・炊事、その合間に仏文学会誌掲載論文の校閲を終える。添削してくれた親友edは、何度も校閲者の仏語能力に疑問を呈していたが、「まあ、そういうもんだから…」と慰める。仏語能力だけでなく、哲学に関する素養、ベルクソン研究に関する基本的な知識など怪しい点はいくらでもあるし、それはそれで仏文学研究者なのだから責められない点もあるが、いずれにせよ校閲の結果、論文が良くなったのだから、それでいいではないか。理性の狡知というべきか。

Wednesday, March 15, 2006

パプラス

無用の書類のことをフランス語でpaperasse、無用の書類の山のことをpaperasserieという。別に無用とは言わないが、今日は一日中、年度末にあたって、および年始に備えての書類作りに忙殺された。実際、教師生活を始めたらこんなもんじゃないのだろうとは十分承知しているつもりだが、それにしても疲れる。

友人が貸してくれた『ユリイカ』の特集「翻訳作法」を読む。柏倉さんのマラルメ連載ものからヒントを得て短いエッセイが書けそうな気がする。スピノザ・マラルメ・ヴィトゲンシュタインの教科書をめぐる三題噺なんてどうだろう。他にも引用したいエッセイ・論考多数。それはともかく、「自己評価」パプラスに関して、相変わらずの高山宏節炸裂。
見事に2000年、2001年あたりから高山マシーンは油切れのポンコツ状態。自著リストを見ても、そして翻訳リストを眺めても、改めてぞっとするような真空状態に陥っている。大体がこういう自己回顧そのものが、ひたひたと前のめりにのみ走ってきたぼくには相当違和のあることのはずなのだが、三十年間一度もやらされたことのない自己評価、自己査定をくり返し巻き返しやらされたこのたびの大学「改革」のお蔭である。「自己評価」などというウソに決ってるばかばかしい作業を象徴する語にして、この四、五年、ジョークにもならぬ当り前の日常語に化してしまった。なんだか履歴書と業績一覧ばかり書かされている。翻訳家暮しがこう簡単に「自己点検」「自己評価」できてしまうのも、今という残酷なタイミングだからだ。土日も会議、夏休みもずたずたに寸断されるこの三年ほど、五百、六百、七百というページ数のハードな本の翻訳を引き受けてきた高山宏にとって、石原慎太郎の官僚どもと、同じくらい愚鈍な大学機構はかなり決定的なダメージだったことが改めてよくわかった。主客一如、批評と翻訳が完璧に合体できた陶酔境には十五年ほどの時間がいっぱいいっぱいかもしれない。でないと「死んでいたかもしれない」(一息入れさせてくれて石原さん、ありがとう、のバカヤロー)。(2005年1月号、177頁)

ところで、同じブラウザ、同じ文字コードunicode (UTF-8)を使っているはずなのに、なんだか文字がおかしい。友人にギリシャ語フォント・ギリシャ文献CD-ROMを入れてもらったことと関係あるんだろうか?ショートカットの割り当てが勝手に変わっていたり、添付ファイルが送信できなくなったり…。

Tuesday, March 14, 2006

校閲、校閲、校閲…

3月10日(金)

ある本を共訳している友人に私の担当部分の初訳を見てもらう。率直に言って目も当てられない状態。この翻訳は、一般的な教養をもつ日本の社会人が少し頑張れば理解できるようなものでなければならない。友人の優れた言語能力、翻訳に対する真摯な取り組みに改めて感服すると同時に、自分の至らなさを痛感。時間がないのは誰でも同じことで言い訳にはできない。

とあるフランスの雑誌から依頼されていたエッセイがレフェリーで厳しい意見をいただいているとの通知を受け取る。仏語の問題、そして内容的な「薄さ」の問題。書き直す時間はあまりにも限られているが、全力を尽くしたい。


3月13日(月)

rythmesureに関する論文の校閲が届く。二人の先生方の「参考意見」はかなり異なる。一人はほとんどノータッチ。もう一方はかなり親切なのか(あるいは哲学論文に馴染みがないのか)、ずいぶん私の仏文に赤を入れてくださっている。これでも、本を何冊か出しているフランス人の友人とかなり議論して練り上げた仏文なのだが…。

むろん、どの件に関しても、低レベルのルサンチマンなど抱いても仕方がない。こちらとしては最善を尽くして自分にできる限りの日本語と仏語を練り上げるほかない。

Monday, March 06, 2006

ベルクソンをめぐる会合

前にも言っていた3月3日の会合(Wormsという現在の第一人者主催の、ベルクソンに関する博士論文を準備している学生たちのゼミ)は無事終了した。きわめてこじんまりとした集まりで、お誘いした(き)(ふ)さんご夫妻には悪いことをしてしまったかな…。でも、聴きに来ていただいてありがとうございました。

発表者は全部で四人。ベルクソンの精神物理学的二元論をとりわけ「物質」概念に即して見ていこうというフランス人。このブログにも参加していただいている、ベルクソンとピエール・ジャネの比較研究を行っていらっしゃる日本人の方(インリンさん――これは「ハッスル」で活躍したアイドル(?)の名を私に発音させようという、そしてプロレスファンの注目を集めようという、きわめて巧妙な謀略なのでしょうか!?困惑しますね――)。ベルクソンにおいて比喩や文彩がもつ言説戦略的な効果を持続概念に即して見ていこうというロシア人。そして私。

私の発表のタイトルは、"Endroit de durée, lieu de mémoire. Quelques réflexions sur Quid Aristoteles de loco senserit"というもの。

ごく簡単に言うと、持続は空間の中には見つからないとして、ではどこに見つかるのか。いや、より正確に言えば、「純粋持続の中にいる」と言うとき、「の中に」が意味していることは厳密には何であるのか、持続の場所はどこか?という問いに対する答えの断片をアリストテレスの場所論に探る、というもの。全体の構成は、

1)アリストテレス論の紹介
2)とりわけ最終章の奇妙な構成を、先述した仮説に基づいて読み解こうとする
3)持続の場所、記憶の場所についてより広範な仮説の提示

という感じ。言いたいことがすべて伝わったとは思わないが、質問も盛んに出たし、私の研究に関心をもってくれたようなので、ひとまず所期の目的は達せられた(と思う)。

今後の予定。

1)友人から催促を受けている翻訳に取り掛からねばならない。いろいろ制約が課されて閉口気味だが、まあ一応全力と誠意は尽くさねばならない。

2)5月18日についに博論の本格的な概観についての発表を行なう。そのため、三月中旬に指導教官と話し合いを持つ。それまでに、去年書いた「ベルクソンの身体概念」に関する論文を出発点にしつつ、より広汎で、より体系的な見取り図を描かねばならない。これから先は、書かねばならない章に取り組みつつ、すでに書いた論文に手を入れて、章に仕立てていくという作業に取り組んでいこうと思う。