Friday, October 15, 2004

セリス、「ベルクソンと技術」

先週10月9日土曜未明、ジャック・デリダが死んだ。彼の哲学における生と死の問題、哲学と神学の関係、目的論、技術、動物性、性差の問題。いかなる偉大な哲学者にも言えることだが、同時代より早く、同時代より遅く、同時代から隔絶して、同時代と「斜めの」関係を結んでいた哲学者。

もう一度技術の問題に戻ろう。

Jean-Pierre Séris, « Bergson et la technique », in Bergson. Naissance d’une philosophie, Acte du colloque de Clermont-Ferrand 17 et 18 novembre 1989, PUF, 1990 ; La technique, PUF, 1re éd., repris dans la coll. « Philosopher », 2000.

専門家でないものが時として斬新な視点から大きな帰結をもたらすことがある。「travail労働・仕事」という概念の多様な用法を検討することによって、ベルクソンにおける技術の問題の核心に迫ろうとしている、このジャン=ピエール・セリスの場合はまさにそれである。

セリスは、ベルクソンにおける「仕事・労働」の比喩の重要性を強調するために、まず三つの予備的考察から論を始めている。

1)ベルクソンにおける「労働」の二つの意味。ベルクソンとプロティノスにおける「イマージュ」の様々なカテゴリーを比較したモセ=バスティッドによれば、ベルクソンにおいては、大方の予想に反して、生物学から借りられたイメージよりも、技術techniqueや手仕事métiersから借りられた(また同様に筋肉印象impressions musculairesから借りられた)イメージのほうがはっきりと優勢を占めている。ベルクソンはまた、きわめて頻繁に「仕事travail」や「仕事をするtravailler」 といった語を用いている。しかも、自分の哲学的な活動や自分自身の著作を指すためのみならず、これらの語の実に多様な含意を巧みに駆使しつつ、意義深い形 でこれらの語を用いている。「仕事」は主に、知性の活動を指す否定的な用法と、持続・生・自然・芸術などの創造的発明的練り上げを指す肯定的な用法があ る。後者は、「分かちがたく結びついている前者に、自分のリズムを押し付ける」「成熟ないし創造という内的な作業=仕事」である。

こ こで「しかし結局のところこういった語彙はすべて比喩的に用いられているだけだ。ただの比喩にすぎない」というありうべき誤解を反駁しておかねばならな い。「絶対的に新しいものの持続的な練り上げ」や「作業」といった語彙が、語源学的なつながりといういささか迂遠な関係によって生産的な仕事を喚起すると いうだけではなく、機械論と目的論を擬人主義的だとして同時に退ける態度を超えて、「仕事」という語自体がベルクソン哲学の中心において強く必要とされて いるのである。

仮に隠喩があるとしても、それはむしろ反対の方向にである。すなわち、むしろ道具に関心を寄せる「Homo faber」 の仕事そのもののうちに、分業され、目的論化され、勤勉な、骨折りの多い仕事のうちに、機械の操縦者や設計者の作業のうちに、エネルギーや疲労や怠惰と切 り離しえないある経験が顔をのぞかせているのである。そしてこの経験は、ただ創造のベルクソン的哲学のうちでのみ、その真の意味、その存在論的意味を明か してくれる。

だ が我々は、セリスのように、「仕事」という語彙はただ単に比喩的に用いられているのみではない、もっと重要な意味においても用いられている、というだけで は満足しない。問題になっているのはまさに、ベルクソンにおける「比喩」の哲学的な地位なのである。そして、これはひいてはフランス現代思想における「比 喩」「アナロジー」の地位というきわめて重要な問題へと(ソーカル&ブリックモンは無論のこと、ブーヴレスとも異なる形で)つながっていくのである。

2)ベルクソン哲学はこれまでたびたび創造の哲学une philosophie de la créationとして捉えられてきた。だが、むろん連続性continuité、自発性spontanéité、奔出する跳躍élan jaillissantと いった、ベルクソンが生の進化の主特徴を捉えるために用いた語だけでは、自由な活動、創造的なエネルギーをそのすべての作業において、そのすべての獲得し た広がりにおいて描くには十分ではない。そもそもベルクソンは生のうちに創造の第一原理を見て取るだけで満足するような物活論者ではない。したがって動詞 「生きるvivre」は、「仕事をする、作業するtravailler」へと引き継がれねばならず、「仕事、作業travail」は「生vie」という語と競合関係に入らねばならない。

3)ベルクソンが「仕事・労働」という語を用いていた当時の知的文脈。①スミスやリカルドー以来の経済学の文脈、②H.Milne-Edwards以来の生理学の文脈、③デュルケム社会学の文脈、マルクス以来ジョレスに至るまでの社会主義運動の文脈、④ゾラに代表される文学的表現の文脈などがある。「仕事・労働」に、生産と再生産、

生一般と社会生活一般が交差する地点を見て取ることは、ベルクソンに限らず、当時一般的であった。

少しだけ詳しく見ておくと、経済学から生理学へ輸入された後で、分業概念はまず、デュルケムによって「社会的分業division du travail social」として、すなわち「機械的連帯」から明確に区別される「有機的連帯」として捉えられる。Milne-Edwardsの発見(有機体における仕事の生理学的分担)には、とデュルケムは書いている、

「分業の作用領野を著しく 広げると同時に、無限に遠い過去のうちに分業の起源を求める態度を退ける効果があった。というのも、生理学的分業は、生が世界に到来したのとほぼ同時とい うことになるからである。もはや人間の知性と意志のうちにその根を持つのはただ社会的制度ばかりではない。生物学的現象全般の諸条件を、有機化=組織化さ れた物質の本質的な諸特性のうちに求めねばならないのである(?)。分業はもはやこの一般的なプロセスの一個別形態として現れるにすぎず、諸社会は、この 法則に適合しつつ、はるか以前に生じ、生の世界全体を同じ方向へ連れていくある流れに従属しているように思われる」。

だ が、デュルケムは同時に、社会的分業は、「ある本質的な特徴によって」生理学的分業から区別される、ということを示す。「有機体にあっては、各細胞は決 まった役割を担っており、それを取り替えることはできない。社会にあっては、諸々の仕事は決してそれほど固定的な形で配分されているわけではない[…]。 労働がさらに分担されるにつれて、この柔軟さと自由はますます大きくなる」。無論、この分業というテーマは、ハーバート・スペンサーにあっても進化の事実 という形で見出される。

いずれにせよ、仕事・労働という概念は、ベルクソンにあって、「努力の哲学」のためにかなりの拡張を受けることになる。

以上のような三つの予備的考察を経て、セリスは、順次「労働」概念のきわめて異なる二つの側面を見た後で、その連関を見ていく。

1)労働はまず、その中で用いられ展開される「努力effort」、エネルギーの消費、苦労、骨折り仕事(besoigne)、労働(labeur)を含意する。

  2)労働は次いで「媒介médiation」「迂路détour」という次元で発展する。Comme le dit une locution latine « Labor improbus », le travail maine la ruse.あるいはただ単に「道具outil」。労働は、諸対象(物であれ記号であれ)の配置を修正しそれらを再配置する作用を伴う。この製作的再配置は、あるプランに合致した、ある人工物の骨の折れる実現に到達する。

1)最低限の努力、最低限のエネルギー消費、最低限の辛抱強さ=恒常性(constance)、最低限の覚醒状態=警戒(vigilance)、最低限の注意ないし緊張がなければ、労働はない。この意味で、「努力」は、仕事・労働の最小限の人間学的前提(présupposé anthropologique minimal du travail)である。まさにそれゆえにle travail fatigue.であり、「仕事をする・労働する」とは、絶えずこの疲労を乗り越えていくことに他ならない。労働の核心部分は、ベルクソン哲学にあっては、引き受けられるより前に課されており、選び取られるより前に要請されている。労働とは、必要と結びついた強制の事実なのである。

 ベルクソンは、メーヌ・ド・ビランやラヴェッソンの努力の哲学の遺産継承者である。ベルクソンのより直接的、より明示的な参照先としては、ウィリアム・ジェイムズ(例えば、彼の1880年の論文「努力の感覚」)やデューイ(例えば「努力の心理学」)を挙げることができるであろう。

だが、アンリ・グイエが述べている ように、メーヌ・ド・ビランと違って、「ベルクソンは努力の分析に留まっているわけではない」。いや言いたいのは、ベルクソンの目的が生きられた経験とし ての努力を反省的に描写することよりも、むしろ努力の感情のうちにある肯定的=実証的な力の印を認めることだ、ということである。そのためにこそ、知的労 働と結びついた知的努力は、ベルクソン哲学にあっては、筋肉努力や物理的努力の精髄としてあらわれるのである。これこそ、『物質と記憶』以来、「精神の通 常の仕事」と我々の精神生活の異なる調子を条件づける生への注意とその様々な度合いとして描かれているものである。ベルクソンは、序文の中でこう述べてい る。「これは本書を指導する思想の一つ、我々の労作の出発点の役に立った思想である」。ベルクソンの第一論文集『精神のエネルギー』も、この観点からする と、非常に示唆的なものである。1907年以前に発表された諸論文には「創造」の語は含まれていないが、その着想はすでに準備されていたと言える。1907年 の『創造的進化』以降の諸論文は、言ってみれば前期ベルクソンの「努力の哲学」を完成したのである。これ以後、もっぱら、「生の活動に特徴的な非物質的な ものの増大する物質化」の側面、「物質は努力を喚起し可能にする」という事実、物質的実現、物質なしに努力はありえないという側面が強調されることにな る。したがって、「知的努力」で満足しているわけにはいかない。

Thursday, October 14, 2004

Re: アグレグ

hfさん

ひとまずこの間のアグレグの試験の詳細だけまとめたので、お送りします。

どうもありがとうございます。早速読ませていただきました。完成稿を楽しみにしています。「日本の大学の紀要」云々とありますが、そういう意図なのでしょうか。いくつか気がついたことがあるので書いておきます。

p.1: 「独立行政法人化」とありますが、結局、独立行政法人化の適用は受けず、国立大学だけを対象にした特別法を作ったのです。正式名称は、「国立大学法人」です。制度設計上、中央の管理が強くなり、天下りは増え、大学の自主性はますますなくなるのだから、さすがに「独立」はまずかろうと名前を変えたのです(笑)。

「Q10 国立大学法人制度は、独立行政法人制度とは、どこがどのように違うのですか」: http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/houjin/03052702/010.htm

p.2: 「文部省」は、いわゆる省庁再編のため、科学技術庁と統合して「文部科学省」になっています(平成13年1月6日より)。

それはそうと、デリダが亡くなったのですね。もうずっと前から病気のことは知られていたし、ドゥルーズのときのような感慨はないけれど、漠然と、ひょっとしたら世界的に「哲学者」があれほど影響をもつのは彼が最後じゃないかという気がしています。 ss

Monday, October 11, 2004

哲学のアグレガシオン、アグレガシオンの哲学(序論断片)

 かつて大学教授と言えば、「黄ばんだ昔の大学ノートを誰にも聞こえないような声でぼそぼそ読むだけ」という紋切り型のイメージが流通していた。また、このような授業風景が大学の授業に魅力がないことの理由に挙げられてもいた。だが、このような紋切り型が定着した背景には、個人的な資質よりも――言う までもなく「大学教員になるような人間には社会性が欠如している」といった言辞自体、取り上げるに足りないもう一つの紋切り型である。非常識な会社員などいくらでもいる――、むしろ構造的な要因があるように思われる。それは、日本には「研究者」養成機関はあっても、「大学教員」養成システムは存在しない、ということである。より正確に言えば、実際には大学教員の大半を輩出する機関であるにもかかわらず、日本の大学院は、将来大学に奉職することを念頭においている研究者の研究能力を養成することを目的としているのであって、将来大学で教育に従事するために必要な知識・技術を習得させることを目的としてはいない、ということである。

 大学教員採用試験もまた、説得的に弁じられるという言説能力をさほど重視しておらず、模擬授業などの形で具体的に証明させることも増えてきたとはいえ、まだまだ完全に一般化したとは言えない。大学院で将来の大学教員候補生としての養成教育を受けたわけでもなく、大学教員採用試験で教育に対する一定以上の適性能力を証明させられる機会もない以上、誰が好き好んで教育能力の向上に時間を割くであろうか。その結果が、冒頭に上げた紋切り型である、ということは決してありえないことではない。長引く不況、少子化、独立行政法人(国立大学法人)化などによって、ただでさえ就職が困難であるといわれる現状では、大学教員になりたい者は、あくせくと自分の研究成果を論文で発表することに血道をあげるほかはない。なぜなら大学教員になるための条件は、多くの場合、教育適性能力を持っているか否かではなく、執筆した論文の数だからである。こうして高等教育のまさに中枢で、教育の根幹がないがしろにされている。

 私がここで、アグレガシオン[1]というフランスの高等教育資格国家試験制度の概要を説明し、その歴史を簡単に振り返るのは、このような危機的な状況に際して、ささやかな形であれ、理論的な介入を試みるためである[2]。最初にごく簡単に結論を言っておけば、次のようになる。フランスの高等教育においては、研究者養成機関としては3e cycleがあり、教育者養成機関としてはアグレガシオン準備クラスがあって、この区分は、少なくとも教授能力の適正化および研究者の質の向上には一定の役割を果たしていると言える。まず3e cycleは、主にアグレガシオン(ないしカペス)を取得して基本的な就職先を保障された学生たちが次段階のキャリアアップの過程として選択するもので、日本の大学院生のように常に将来の心配を抱え、同時に自分で現在の生計も立てつつ、現在の勉学を疎かにすることも許されないなどという「三重苦」を背負い込まされることはない。次に、アグレガシオンは、後に詳述するようなハイレベルな筆記・口述試験を課す全国一律の国家試験であることによって、1)大学教員の教授能力のハイレベルでの標準化、2)不透明きわまりない因襲的・地域的な人事の防止、という利点がある。

 むろん、アグレガシオン制度には弊害もいくつか指摘されている。たとえば、1)アグレガシオンの試験で要求される能力は、実際に教育現場で要求される能力と必ずしも一致するわけではないという意見。2)アグレガシオンを取れなかったがために有為の人材がリセでくすぶらざるをえないという意見。3)教師陣がアグレガシオン準備クラスを大学教育の中核と見なすあまり、学部生レベルへの教育が疎かになったり、教育資格は取れなかったが個人的に研究は続けたいという者に対する相対的な冷淡さが見られるという意見。4)同じようにアグレガシオンを取ったとしても、大学教員としての採用はノルマリアンが非ノルマリアンに対して圧倒的に優位であるという事実。しかし、これらの問題点はいずれも本質的なものではない。1に関して言えば、日本の現状との相対的な比較で言えば、問題にならない。2に関して言えば、教師の適正を測る完全な試験や完全な公平さを期す試験などそもそもありえないし、3に関して言えば、これは完全に教師一人一人の個人的な性向に依存するものであって、システム的な問題ではない。4に関して言えば、問題はノルマリアンたちによる過度のギルド的な独占のもたらすものであって、アグレガシオンという制度自体がもたらすものではない。

 むしろより現実的な問題点は、1)日本の教育制度がアメリカやドイツのそれに近い、国家試験やエリート主義(グランゼコール)のない、その意味では「民主的」な制度であって、フランスの独創的な制度とは程遠いものだという点にある。また、2)アグレガシオン制度を現在の日本に導入することの問題点を官僚機構の硬直に求めようとする意見もあながち穿ちすぎとは言えない。「仏像造って、魂入れず」ではないが、国家試験をつくってみても、それが共通一次やセンター試験のようなものであっては何の意味もないし、文科省官僚が思想家・作家やテーマの選択に関して随時圧力を掛けたり介入できるようなシステムであってはかえって事態は悪化するばかりだからである。最後に、3)このような事柄を大学人の間で論じようとする際にはお決まりの悲喜劇的な事態であるが、途端に疑問の声、いやむしろ無関心という「沈黙の声」があがる。「高邁な理念は結構だが、アグレガシオンを日本に導入すべきだといわんばかりの物言いは、あまりに理想主義的・非現実的ではないか」と言われるならまだましなほうで、「政治・制度論には疎いので何とも言えない」といった、政治的に去勢された「羊たちの沈黙」が場を支配する。「理念では食っていけない」という現実主義をニヒリスティックに標榜するにせよ、あるいはどんな小さな物音にも怯える草食動物のように非政治主義に徹するにせよ、いずれにせよ文科省に対しては、膨大にして無益な書類作成を押し付けられてただ俯いている。下には強く、上には弱い。

 しかし、意識が制度を規定するのではなく、制度が意識(研究態度、学問的身振り、habitus ou socius académique)を一定程度まで規定する以上、私たちは真の高等教育の蘇生のために、経済効率至上主義に幻惑・威嚇されて偽りの大学改革に消極的に盲従・追随するのではなく、むしろ積極的に内側から大学の教育制度を真に改革していかなければならないのではないか。事態の深刻さを鑑みるならば、いずれにせよ議論くらいは始まるべきではないのか。いかなる学問であろうと固有の制度を持ち、学問とそれを成立せしめている制度は不即不離の関係にある以上、自らを成立せしめている制度そのものに関する理論的考察抜きに根本的な発展はありえない[3]。とりわけ哲学のアグレガシオンは、アグレガシオンの哲学を必然的に呼び求める。哲学教師は、「哲学の授業」という大学における哲学活動の根幹にある営為のうちにも等しく理論的眼差しを注がねばならない[4]。Humanitiesにおける教育の問題は、教育に関するHumanitiesにおける分析を要請する[5]。しかし、事は一般論にのみ係るのではない。繰り返すが、真の問題は、現在の危機的な状況に際して、ささやかな形であれ、いかに理論的な介入を試みることができるか、ということにある。

[1] ここでは以下の章で詳述するアグレグシステムをすべて取り上げることは無論できないので、最低限の情報を提示しておく。

[2] 誤解のないよう念のために言っておけば、1)高等教育について論じることは、いささかも初等・中等教育を蔑ろにすることを意味するものではない。フレネ教育をはじめとする種々の初等・中等教育にまつわる「教育の哲学」についてはいずれ機会を改めて論じることにしたい。フレネに関してはたとえば、Célestin Freinet, Pour l'école du peuple, Librairie François Maspero, Petite collection maspero n°51, 1969. 資本主義社会における「初等教育-職業訓練」と「中等-高等教育」の分裂に関しては、Christian Baudelot et Roger Establet, L'école capitaliste en France, Librairie François Maspero, coll. "Cahiers libres" nos 213-214, 1971. またたとえば「自由としての知育」「与えられるものではなく、自ら選び取るものとしての知育」を柱とするランシエールの知育の哲学に関しては、Cf. Jacques Rancière, Le maître ignorant. Cinq leçons sur l'émancipation intellectuelle, Librairie Arthème Fayard, 1987 ; reprise dans la coll. "Fait et cause", 2004. 2)また、私の論は、日本でよく言われる「エリート主義」でもない。もし「エリート主義」であるとすれば、それはまったく別の意味においてである。 3)2005年は政教分離に関するフェリー法制定から百周年という記念すべき年に当たるが、教育におけるlaïcitéの問題はここではまったく触れることはできない。

[3] Cf. Marie-Claude Blais, Marcel Gauchet et Dominique Ottavi, Pour une philosophie politique de l'éducation. Six questions d'aujourd'hui, éd. Bayard, 2002 ; reprise dans Hachette Littératures, coll. "Pluriel", 2003.

[4] Cf. François Châtelet, La philosophie des professeurs, éd. Bernard Grasset, 1970. 大学における哲学教育との関係から言えば、一方で垂直的には、リセにおける哲学の授業の削除に反対する抵抗運動であったGREPH(Groupe de Recherches sur l'Enseignement PHilosophique)に関しては、Qui a peur de la philosophie ?, éd. Flammarion, 1977. を参照のこと。このムーヴメントの中心にいたデリダは同時にまた他方で、今度はいわば水平的に、大学外に追いやられていた辺境的・学際的な諸分野をinstitutionalisationしようとする動きをCIP(Collège International de Philosophie)によって実現した。CIPに関してはGREPHに関してと同様、Jacques Derrida, Du droit à la philosophie, éd. Galilée, 1990. を参照のこと。脱構築とはさまざまなinstitutionの脱構築に他ならないという点を強調してやまないはずのデリダ読みたちが、日本の哲学教育の現状について語ることかくも少ないのは、日本における哲学の現状を考えた場合、まことに象徴的であり、ほとんど徴候的symptomatiqueというべきではあるまいか。以上すべての点に関して、高橋哲哉の『デリダ』(講談社、1998年。新装版2003年)を見ておこう(33-36頁)。事は羨ましがったり諦めたるする次元の話ではないはずだ。

 フランスではほぼ日本の中学高校を合わせた期間に当たるリセで哲学教育が行われている。これもまたさかのぼればナポレオン一世の学制改革以来の伝統であり、さまざまな曲折を経ながらも、哲学は現代でもリセでの学習の総合的な仕上げとして重視されているのである。高校生にも哲学を学ぶ権利と能力があり、それは自由な批判的思考の能力を養うためにも望ましいことだと思っても、それを現実化する社会的条件がほとんどない日本の哲学教師である私から見ると、まことに羨ましいかぎりだ。ところが、その哲学教育の国フランスでも、教育の「現代化」や「効率化」などの名目で、70年代半ばにリセの哲学教育への抑圧政策が仕掛けられた。時間数を削減し、必修制を自由選択制にし、教員の数を減らして哲学への志願者を減らし、ひいては大学の哲学そのものを弱体化させて、産業界の要請にかなう技術的で実用的な教育に変えようというわけである。デリダはこの動きの中に、あの68年以来リセで増大した異議申し立てと哲学教育そのものに対する権力の圧力を見て取り、74年4月、教員と学生併せて30名ほどで、この問題に対処するための研究グループGREPH(「哲学教育研究グループ」Groupe de Recherches sur l’Enseignement PHilosophique)を結成した。
 翌年、文部大臣による「改革案」が発表されると、GREPHは公然と反対を表明し、学生、生徒だけでなく、父母やその他の関心をもつ人々をも含む反対運動を広範に組織し始める。デリダはこの過程で、過去の大哲学者たちの大学、学校、(哲学)教育にかんする言説を読み直し、そうした制度の問われざる諸前提を解明する一方、哲学教育を削減・廃止するのではなく、哲学教育の伝統的内容を批判的に見直しながら、逆に哲学の時間数を増やし、学習開始年齢を引き下げるという大胆な提言を行なった。「たとえば17歳か18歳以前に哲学を学ぶことは不可能であり、危険であると、プラトン以来信じられてきましたが、これには一体、どんな政治的ないし性的理由があるのでしょう?[…]実験的試みとして、フランスで第六学級・第七学級と呼ばれている児童、10歳や11歳の子供たちに哲学を教えてみましたが、非常に成功しました。若い少年少女たちは哲学に興味をもつだけでなく、哲学を必要とし、それを楽しんでいました。難解なテクストと思えるものにも十分取り組んでいました」(インタビュー「戯れする貴重な自由――脱構築と教育/政治」1986年)。この運動は、79年6月、ソルボンヌで1200名の参加者を集めて開かれた公開討論会「哲学の三部会」に結実する。この討論会の準備委員21名の中には、デリダのほかに、ドゥルーズ、リクール、ジャンケレヴィッチ、シャトレ、ナンシー、ラクー=ラバルトなどが含まれていた。こうした運動は海外でも関心を呼び、ヨーロッパ各国、南北アメリカ、アフリカなどにGREPHに呼応する動きが生まれ、一例を挙げれば、デリダは78年12月、仏語および英語圏アフリカ哲学者連合国際コロキウムに招かれ、「哲学教育の危機」と題する講演をしている(残念ながら日本では、呼応する動きはなかった)。
 この運動は、80年代に入ると大きな副産物を生むことになる。81年に登場した左翼のミッテラン政権は、一転してリセの哲学教育の拡大方針を打ち出しただけでなく、この政権の支援を得て、哲学のかつて例のない研究教育組織「国際哲学コレージュ」(CIP:
Collège International de Philosophie)が創設されたのである。デリダは準備段階で他の三人の哲学者とともに、国内外から集めた750に及ぶ提言を検討して政府に報告書を作成し、83年10月の発足とともに初代の議長に就任した(一年後に、J-F.リオタールに引き継ぐ)。世界の大学や著名な哲学者たちの協力を得て活発に活動しているこの組織の特徴は、既成の学科や文化の領域によって禁止されていたり、周縁化されているような研究テーマを発見し、積極的に取り組むことを奨励するという内容面だけでなく、各国から公募され、たえず更新される講師陣、セミナーへの参加にいかなる資格も問われないことなど多岐にわたるが、デリダはこのカレッジに、哲学の脱構築の制度的可能性を重ねてみているようである。
 GREPHの結成から国際哲学コレージュの創設にいたる過程でデリダが公けにした文書は、大学、学校、哲学教育に関する脱構築的考察のテクストとともに、650頁に及ぶ『哲学への権利について/法から哲学へ』(1990年)にまとめられた。
[5] 近代の西洋的大学制度に占めるHumanitiesの重要な理論的位置と現在の急務に関しては、Jacques Derrida, L'Université sans condition, éd. Galilée, 2001.を参照のこと。

Tuesday, October 05, 2004

ドイツのメディア

Pierre Albert et Ursula E. Koch, Les médias en Allemagne, PUF, coll. « Que sais-je ? », 2000.

あれは早二年前になるが、ドイツ語向上のためミュンヘンへ赴いたとき、持っていったのが、パンテオン-アサッス大学(Université Panthéon-Assas)名誉教授のピエール・アルベールとミュンヘン・ルードヴィッヒ-マクシミリアン大学教授のウルスラ・コッホによる本書『ドイツのメディア』であった。「本書は、ドイツ・メディアの歴史的な変遷と現在の状況を紹介している。繁栄し地方分権化を進めている新聞社の諸特徴や、1986年以前と以後のラジオとテレビの変化を指摘している。1986年は、これを機に商業的な民間メディアが公共視聴サーヴィスと競合するようになった年である」。

目次を見ておこう。

序

第一部:四世紀の歴史

第一章:神聖帝国下で

第二章:神聖帝国の終わりから第二帝国まで

第三章:第二帝国の黄金期(1871-1918年)

第四章:コンツェルンから隷属へ(1919-1945年)

第五章:二つのドイツ(1945-1989年)

第六章:再統合とテレビのうまく制御されなかった拡張(1989-1999年)

第二部:21世紀前夜のメディア風景

第一章:構造と組織

第二章:広告と新聞社の繁栄

第三章:ラジオ・テレビの沸騰

結論

参考文献

Monday, October 04, 2004

ミショー、『アジアの野蛮人』(1933)

Henri Michaux, Un barbare en Asie (1933), édition revue et corrigée, Gallimard, 1967.

アンリ・ミショーがアジアに旅立ったのは1931年、1899年生まれだから、三十二歳であった。インドについての130頁が最も長く、次いで中国の50頁、日本は20頁ほどで、マレーシアの17頁といい勝負である(インドネシアについてのごく短い記述もある)。最後の改訂版(1967年)への「新たな序文」では、日本、中国、インドの順で「昔とは全く変わってしまった」と言われている。高度経済成長による世界的な(むろんまたミショーの中での)日本像の変化だろうか。すでに20世紀初頭に、いや日露戦争以前に、日本に注目していたヴァレリーとは全く異なる「想像のアジア」がここにはある。 « Asie imaginaire » とでも呼ぶべき本が、ガリマールのL’imaginaireという文学系叢書から出るというのは、「まさにこれしかない」という感じがする。

この本を読んでみたいと思ったのは、私なりの日本(の思想)論、「exotismeの脱構築」に使えないかと思ったからだ。

"Philosophie", no 42, juin 1994.

Philosophie, no 42, juin 1994.

今までまともにクレジットを見たことがなかったので知らなかったが、fondateurs : Didier Franck et Pierre Guenancia, rédaction : Claude Romano, conseil de rédaction : J.-L. Chrétien, J.-F. Courtine, J.-L. Marion, J.-F. Spitz. 今回の特集« Théologie et philosophie »は不思議でもなんでもないわけだ。

ルドルフ・ブルトマン「解釈学的方法としての類型学の起源と意味」

ジェローム・ローラン「『アルキビアデス』と『法律』における人間的なものの尺度」

ジャン=ルイ・ヴィエイヤール=バロン「神の似姿としての人間に関する新たな考察」

ジャン=リュック・マリオン「ベルナルドゥスと神の似姿に関する仮説についてのヴィエイヤール=バロンへの返答」

ディディエ・フランク「神の影」

リュイエ、『大文字のユートピアと小文字のユートピアたち』

Raymond Ruyer, L’Utopie et les utopies, PUF, 1950 ; repris dans la coll. « Imago Mundi », Saint-Pierre-de-Salerne éd. Gérard Monfort, 1988 (Reprod. en fac-sim. de l'éd. de Paris, PUF, 1950).

レイモン・リュイエ(1902-1987)は、日本はおろかフランスでも再評価が進んでいるとは言えない著者の一人である(伝記的情報に関しては、La Gnose de Princeton (1977) ; D. Huisman, Dict. des philosophes (1984) ; Le Monde (1987-06-26) ; Les Vosgiens célèbres, sous la dir. de Albert Ronsin, 1990, p. 324)。カンギレム、シモンドンまでは来たが、果たしてリュイエやプラディヌのレベルまで来るだろうか。それはさておき、本書によれば、「ナンシー大学教授、フランス学士院通信会員」。ビブリオ参照のこと。

精神-生物学系の前期(価値哲学系(ナベールとか?)含む)と、いかにも怪しげな後期(ニューエイジ系?)に分類できそうだ。1969年の『消費社会を讃えて』あたりから本格的におかしくなってきていると見ていいだろう。本書はこの奇天烈な軌跡からすれば割りと教科書的なつくり。昔、筑摩叢書からジャン・セルヴィエ著『ユートピアの歴史』というのが出ていたが、まさにあれに理論的な第一部を加えた感じではないか。ちなみに2000年にはBNで『ユートピアの歴史』展なるものが開催されていたようだ。

ルーディネスコ、『現実界のディスクール』

Elisabeth Roudinesco, Un discours au réel. Théorie de l’inconscient et politique de la psychanalyse, Maison Mame, 1973.

ルーディネスコは、日本でもラカンの伝記や、デリダとの対談本で有名。本書は彼女の処女作のはず。裏書を見ると、「パリ3の非常勤講師。EFP会員。Action poétiqueという雑誌の編集委員」と書いてある。表題はUn discours du réelではないので訳しづらい。ともかく副題は「無意識の理論と精神分析の政治」。背表紙「本書は、階級闘争に関する精神分析的イデオロギーを批判すること、無意識の理論に関するマルクス主義的イデオロギーを批判することを目的としている。間主観性と無意識-言 語というラカンの二つの提案を理論的に位置づけようとする本書は、言語科学の歴史的に規定された一時代の所産を参照しつつ、(心理社会学によって再び取り 上げられた)個人/社会を区分する実証主義的公理を批判し、観念論的哲学と心理学と心理療法的知見がその中で手を結ぶ想像的自我からの主体の脱出を可能に する」。マルクス主義と精神分析を同時に批判するというアイデアは、ドゥルーズ=ガタリの側だけでなく、ラカニアンたちの側にもあったわけだ。ちなみに同じコレクション« Repères »の同じsérie « Sciences humaines et idéologies »には、Michel de Certeau, L’Absent de l’histoire.別のsérie « Linguistique »には、Jean-Claude Milner, Arguments linguistiquesが見える。

Tuesday, September 28, 2004

アグレグ

ssさん、早速の赤ペン先生ありがとうございました。

それにしても、フィヒテですか。これまたヘヴィーなものを読み始めましたね。

最近、目的論(finalisme, téléologie)の歴史に取り組んでいて、「使命Bestimmung」という概念は、重要なのではないかと思っているのです。実際、ベルクソンの「destination」との類似は、すでに指摘されてますし、ベルクソンの『人間の使命』講義も出版されてます(これもアグレグ受験生向けの講義だったわけで、「たかが試験」と侮れません)。

近いうちに、フィヒテの学問論はちゃんと読もうと思ってますが。

これまた「使命」ですが、「学者の使命」「学者の本質」ですね。私はたまたま岩波文庫の復刊を持ってきているのですが、これは「所有propriété」というまったく別のテーマのためです。フィヒテは、カントとともに「著作権」概念を哲学的に精錬したはしりですからね。これについては、いろいろ面白い話があるのですが、またの機会に。

agrégation のシステム

これは私も常々興味を持っている事柄で、これを機会に小文をしたためようと思っておりますが、取り急ぎネットで見つけた以下のサイトをご紹介します。ごく簡単な沿革なら
http://fr.wikipedia.org/wiki/Agr%C3%A9gation
 

試験科目の詳細に関して、89年から93年までの分だけなら
http://www.ac-grenoble.fr/PhiloSophie/rapports_jurys/rapports_de_jury.htm

sujets
に関してなら、1949から1999までですが(Ch.ゴダン作だそうで、あれだけ分厚い本を続々出す上に、こんなことまでやってるとは。。)
http://www.edutemps.fr/fr/PHIprogannales2.htm
 

1802
年から1950年までのアグレグの全合格者リストなどというとんでもないものもあります。
http://www.inrp.fr/she/chervel_laureats.htm
 

リールではいろいろお世話になりました。今度はぜひベルリンに遊びにきてください。

連れ合いに言質を取られたことでもあり、ぜひ行かせていただこうと思っております。ssさんは三月末までのご予定でしたっけ?ではでは、長文乱文失礼。hf

ブラノフ、『マルクスにおける貨幣概念』

Suzanne de Brunhoff, La monnaie chez Marx, Editions sociales, Paris, coll. « Problèmes », 1re éd. 1967 ; 2e éd. 1973.

シュザンヌ‐シモーヌ・ド・ブランノフは経済学者で、現在directeur honoraire de recherche au CNRS。ネット上でざっと見た限り、今でもATTACKなどの活動に積極的に関わっているようだ。幾つかの著書を挙げれば、

-Capitalisme financier public (influence économique de l’Etat en France 1948-1958), S.E.D.E.S., 1965.

-L’Offre de monnaie (critique d’un concept), éd. Maspero, 1971.

-La Politique monétaire : un essai d’interprétation marxiste (avec la collaboration de Paul Bruini), PUF, coll. « Sup » série « L’Economiste » no. 30, 1974

マルクス貨幣論研究の歴史における本書の位置づけについては、フィリップ・アンソニー・オハラ(Phillip Anthony O'Hara。2000年現在、オーストラリアPerthにあるCurtin University of Technology の経済学部Associate Professor)が、アニトラ・ネルソンの著書(Anitra Nelson, Marx's Concept of Money: The God of Commodities. London and New York: Routledge, 1999.)に関する書評(Money and Credit in Marx’s Political Economy and Contemporary Capitalism)のなかで簡潔にまとめてくれている。

http://www.cbs.curtin.edu.au/files/cbsstaffpublications/Money_and_credit_in_marx_s_political_ecomony_and_contemporary_capitalism.doc

 それによれば、近年マルクスの貨幣・信用分析に関する良質の論文は何十本と発表されているが、モノグラフィーとしてはわずかに三冊を数えるばかりである。

 1967年に初版、1973年に新たに「あとがき」を付して第二版が公刊されたド・ブランノフの『マルクスにおける貨幣』こそ、まさにその先陣を切った輝かしい書物である。早くも1976年にはDuncan Foleyの序文を付して英訳版"Marx On Money"が出ていることからも、その先見の明並びに分析の確かさが覗える。この小冊子は「はじめて幾千もの学者たちをマルクスの貨幣分析へと誘ったきわめて重宝な研究(serviceable work)」であり、そこでド・ブランノフは、マルクスの貨幣に関する「一般性のある」「完全な」理論を、次いで貨幣資本の循環(circuit of money capital)、信用、そして経済循環(business cycle)を研究している。

ほとんど二十年余り後の1990年、Pichit Likitksomboonは、ケンブリッジ大学において、Bob Rowthorneのもと、Marx's Theory of Money: A Critiqueで博士号を取得した。彼もまた、マルクスの業績における貨幣の中心的役割を認めているが、それがいかに弁証法的方法にもとづいているかを強調している点で、またさらにはマルクスの貨幣分析の不十分さを批判し改良のための研究プログラムを提案している点で、ド・ブランノフとは大きく異なっている。Likitksomboonは、とりわけ資本主義の主要な矛盾、経済恐慌・循環(cycles)の出現、資本の循環(circuit)、非生産的活動(unproductive activities)や財政的不安定性(financial instability)に関して、分析を進めようとしているようである。

そして、最後の三番目の著作が、書評の主要対象であったアニトラ・ネルソンの『マルクスの貨幣概念』である。ネルソンは、初期のいわゆる疎外論的な諸著作から、Grundrisse『経済学批判』を経て、資本論三巻に至るまでのマルクスの分析を概観・批判している。彼女の主要な仮説は、マルクスの貨幣理論は次の二つの理由から疑わしいものだというものである。第一に「money-commodity(金)」 にもとづいているがゆえに、そして第二に唯物論的であるというよりは観念論的である弁証法的方法を採用しているがゆえにである。ここからして、マルクスは おそらく資本主義下における貨幣に関する現実的で実際的な分析を発展させることに失敗したのではないか、という結論が出てくる。しかし、幾人かの近代マル クス主義者たちは、当然のことだが、「commodity-money」理論や過度に弁証法的な方法を避けようと努めつつ、総じてより好意的な見方をとっている。(この後、ネルソンの著作の詳細な要約があるが割愛)

バリバールは、「物心性の仮象を生み出す商品と通貨の流通についての最良の叙述」として、彼の『マルクスの哲学』初版のなかでは、« Le langage des marchandises », in Les rapports d’argent, PUG/Maspero, Paris 1979.とともに、この『マルクスにおける貨幣』を挙げていたが、『マルクスの哲学』第二版では、これを削除し、代わりにアラン・リピエッツのLe monde enchanté. De la valeur à l’envol inflationniste, La Découverte/Maspero, Paris, 1983.を挙げている。

また、ドゥルーズ=ガタリは、『ミル・プラトー』の中で、彼らが「銀行権力pouvoir bancaire」と呼ぶもの(世銀や各国の中央銀行など)の諸相に関して、ド・ブランノフの『貨幣供給L’Offre de monnaie』(surtout pp. 102-131)を参照させつつ、こう言っている。「貨幣-融資の流れ、すなわち貸付金(monnaie de crédit)が取引の総額(masse)を参照させるとして、銀行が管轄するのは、この造り出されたmonnaie de créditを、切片的な=個々の所有されるmonnaie de paiementに変換すること、つまり、それ自体切片化された=個別の財を購入するための金属通貨ないしは国定通貨に変換する作業だということになる(金利の重要性はそこに関係する)。したがって銀行が管轄するのは二つの貨幣の変換、すなわち支払通貨の切片を等質な集合(=monnaie de crédit)に変換すること、また支払通貨を何らかの財に変換することである」(邦訳、259-260頁)。

Monday, September 27, 2004

哲学の「重み」

 加藤周一は、『読書術』(初版光文社1962年、再版岩波同時代ライブラリー1993年)のなかで「抄録」の危険性についてこう言っている。

「絶えず抄録ばかりを読んでいると、物事をはじめから終わりまで考える習慣がなくなるかもしれません。 要領らしきものだけがわかって、全体がわからない。いや、要領がわかればよいほうで、そういうことを繰り返しているうちに、与えられた全体から自分で要領 を取り出すという、おそらく人間の知的な能力のなかで、もっとも大切な能力がにぶくなってくる可能性さえあります」(115頁)。

この「抄録」を、「チャート式思考法」と置き換えたら、どうなるだろうか。「抄録だけで出来上がっている人間の頭」にとって、物事に「浅薄にしか触れないという習いの性となるのを避けがたいでしょう」(同上)。別に浅田彰だけではないし、柄谷行人、東浩紀、山城むつみ、などなどだけではない。日本の思想界全体に蔓延する傾向である。

  チャート式に頼るということが問題なのではない。その意味では、上に挙げた人々は皆、自分で自分なりの要領を取り出すという「人間の知的な能力のなかで最 も大切な能力」を失ってはいない。問題は、思考のなかにはあたかもチャート式しか存在しないかのように見なす、情報量の圧縮と思考の密度を取り違える、「要するにカントというのは」と三言で片づけられることが評価されるべきことであるかのような雰囲気こそが問題なのだ。そして、このチャート式の態度は、実に旧制高校的遺制の生き残りである加藤周一ら旧「岩波文化人」から現在の最も「クール」な現代思想のスターたちに至るまで、見事に一貫している。「物事をはじめから終わりまで考える習慣」、執拗に徹底的に思考する態度こそが「哲学」の根幹を成すものであってみれば、日本の思想界に蔓延するきわめてアメリカ的な、プラグマティスト的な、効率のよい「思考術」と見事な親和性を示して見せた日本の「掘立小屋の思想」(柄谷)こそ、その対極にあるはずのものであり、柄谷が「建築への意志」を語りたいならば、まず彼の論述スタイル=思考スタイルから変えねばならないはずではないか。この意味で、福田和也の指摘はきわめて正鵠を射ている。

「柄谷行人氏の批評の力は、抽象化による徹底性にある。(…)この批評文の魅力は、一つの概念や通念を単純に否定するだけでなく、連鎖的に論理の足場を崩していくスリルと徹底性にある。だが論理の徹底性が、そのまま柄谷氏の批評の魅力となっているわけではない。論理が縦横無尽に活動する様子を、あたかも現在、 眼前で展開されているかのように叙述してみせる文章の仕掛けにこそ魅力がある。(…)この効果を生み出すために柄谷氏は、文章から余計な装飾やエピソードを剥ぎ取って、あたかも裸形の思考がそこにあるかのように装った。(…)その工夫の中核をなすのが、文章の抽象性であることは言うまでもない。(…)柄谷氏の批評文は、観念と概念、一般性と普遍性、単独性と個別性、社会と共同体といった語彙を併置して、その差異を批評意識の立脚点にし、ドラマトゥルギィを作り出している。批評文は、並置された言葉の差異を様々な角度から論じ、またその差異の視点から多様な通念を分析するという形で構成されており、二項対立の内在的エネルギーによって批評文は動いていくために、読者は批評文の「外部」を忘れて、叙述に身を預けることができる。二つの言葉は、単に批評というドラマを作り出すために並べられたのであるから、並置される語に柄谷氏が付与した意味は、批評の文脈を離れればほとんど意味がない。ただ氏の批評文の中での、今一つの語との差異にのみ批評性があり、またその差異にのみ拘ることで柄谷氏の批評は卓越した抽象力を獲得した」(福田和也、「柄谷行人氏と日本の批 評」、『甘美な人生』所収、初版1995年、新潮社。ちくま学芸文庫版、2000年、25-27頁)。

し たがって柄谷を「形而上学的エッセイスト」、あるいは彼自身が望むように「批評家」と称することはできる。しかし、彼を「思想家」、ましてや「哲学者」と呼ぶことはできない。そこには真の思考がもつある種の「重さ」が欠けているからだ。penserはpeserと同じ語源を持つ。彼が過去の自分の議論を否定しながら軽やかに移動するのは、単に、同じ場所に居続けることを可能にする確固とした議論が展開できなかったからにすぎない。

こう言えば、おそらくすぐにニーチェやドゥルーズを持ち出してくるであろう反論が予想される。柄谷の思考は「軽やか」な思考の「舞踏」なのだ。重苦しい「形而上学」とは縁を切った新たな「思考」なのだ、と。しかし、フランス現代思想の精華たる「ドゥルーズ・フーコー・デリダ」と「ヌーヴォー・フィロゾーフ」たちが異なるように、やはり思考の質の違いというものがある。「日本の土俵のなかで考えるならば、相対的に柄谷は優れている」といった言い訳は止めるべきなのだろう。問題は、その土俵そのものの「傾き」なのだから。

Saturday, September 25, 2004

タルド、『メーヌ・ド・ビランと心理学における進化論主義』

Gabriel Tarde, Maine de Biran et l’évolutionnisme en psychologie, avertissement d’Eric Alliez, préface d’Anne Devarieux, Institut d’édition Sanofi-Synthélabo, Paris, collection « Les Empêcheurs de penser en rond », 2000.

1882年にとある学会で発表されて以来、実に一世紀以上入手不可能なものとなっていたガブリエル・タルドの論文「メーヌ・ド・ビランと心理学における進化論主義」が、事実上ほとんど初版のような形で、今回「ガブリエル・タルド著作集」の一環として刊行されることになった。

1876年、すなわちメーヌ・ド・ビラン(1766-1824) の死後ほぼ五十年後に執筆されたこのタルドの論文は、「努力」というビラン哲学の原初的事実に関する最初期の、そして重要な批判的分析の一つである。この 論文はまた、タルドに捧げられたオマージュのなかで用いられたベルクソンの言葉によれば、「哲学者たろうとしてでなく、そのようなことを考えることすらな しに」哲学者であったタルドの思想界へのはじめての正式な参加を示すものでもある。こうしてタルドは「われわれにかくも多くの地平を開いてくれたのであっ た」。

同時代人たちを揺り動かしていたさまざまな議論の光の下でメーヌ・ド・ビランに問いかけることで、この研究は、ある概念の歴史における一つの重要な契機を明らかにしてくれる。その概念とは、19世紀の思想家たちの思想に執り憑いていた「力force」の概念である。このタルドの研究は、「信仰」と「欲望」という彼の二つの原理を介して、ビランの「努力」概念からベルクソンの「動的図式」概念へと導くことによって、「力」概念の歴史の「ミッシング・リンクmaillon manquant」を埋めてくれる。『メーヌ・ド・ビランと心理学における進化論』は、社会学者のなかで最も存在論的な人物[タルド]と、心理学者のなかで最も形而上学的な人物[ビラン]との出会いの証言である。

「なぜ(メーヌ・ド・ビランは)、反作用(réaction)によってしか自我の日付を記入させないのであろうか、すでに印象(impression)がかくも明らかにこのことを前提しているというのに?なぜだろう、この自我をあらゆる異質性の疑いから免れさせるためであるというのでなければ?統一性(unité)という大きな威光がこの深遠な思想家をこれほどまで魅了していたということがまざまざと見て取れるではないか!だが、精神生活に穿たれたなんと多くの差異があることか!」

Eric Alliezについて贅言を費やす必要はなかろう。アンヌ・ドゥヴァリウー(Anne Devarieux)は、「メーヌ・ド・ビランにおける運動と感性の管理」に関する博論を出版している。

Tuesday, September 30, 2003

Fwd: サイード

Subject: [Fwd: サイードのサイト & サイード番組 再放送決定のご連絡]

どうもお久しぶりです。hf@リールです。皆さんお元気でしょうか?
ちょっと遅くなりましたが、とうとうサイードが死んでしまいましたね。
デリダも癌が進行していてかなり危ない、などという噂も飛び交っていますが。。
というわけで、以下の情報を転送します。仏=独のarteのような番組が日本に
ない以上、NHK教育になんとか頑張ってもらわないとね。ではでは。

-------- Message d'origine --------
Sujet: Fw: [aml 35881] (=^o^=)/ 訂正と削除のお願い [aml 35880] サイー
ドのサイト & サイード番組 再放送決定のご連絡
Date: Mon, 29 Sep 2003 08:53:18 +0900

-----Original Message-----
「わたしたち、パレスチナの主張を支持する者たちはサイードの死によって孤
児になったような気持ちです。わたしのようなユダヤ系のイスラエル人にとっ
ては、サイードは灯台のように、シオニスト国家の暗黒と混乱を抜け出て、理
性と道徳と良心という安全な浜辺へたどりつく航路を示してくれていたので
す。」とイスラエルの歴史家イラン・パペは書きました。アラブ、ムスリムだ
けでなく、イスラエルの中にも、また世界中に、サイード
の死によって大きな喪失感を抱いた人々がこんなにたくさんいたのだと、彼へ
の追悼のことばを整理していてあらためて強く感じます。灯台が消えてしまっ
た中で闇の中を進んでいくためには、みずからのなかに彼の遺したものを取り
込んでいくしかないのでしょう。
とりあえず、サイードの追悼の文章を集めたページを作っています → 
http://home.att.ne.jp/sun/RUR55/J/Obituary.htm
ウェッブを検索しても、日本の声はほとんど聞こえてきません。この反応の鈍
さは、なんなのでしょう。
さて、もう一つ重要なお知らせですが以前にお知らせしたサイードの番組の90
分バージョンは、あれほど視聴者からの反響がありながら、なぜかNHK内でス
トップがかかっているようです。視聴者がはっきり放送を望むという意思表示
をしているのに、理由も明確にせず番組を阻止するというのはいったい
どういうことなのでしょう。とりあえず60分番組を再放送してお茶を濁そうと
いうのが丸見えです。
ディレクターの鎌倉さんは、今後も粘り強く働きかけていくとおっしゃってい
ます。今後もご支援ください。

-----Original Message-----
「サイード」の番組についてご支援ご関心をいただきました皆様へ
サイードさんの逝去の痛み・喪失感は、ますます大きくなる気が致します。
パレスチナ、アラブからのメールも届くたびに、その衝撃の大きさを感じま
す。NHKでも、ごく一部に、速やかに「サイードの遺言」的な番組を出しま
しょう、という声があがっていますが、それはいづれもBSまたはハイビジョ
ンのみです。地上波への放送へ向けて、また、僕も局内的に粘ってゆきます。
サイードの番組そのものが、提案を通すのに3ヶ月かかった番組です。
その間、様々なプレッシャーがかかりました。
それを思えば、今、ここにして今一度の踏ん張りなど、苦労にもなりません。
さて、そうした有志の方々の局内での働きかけが実り、
とりあえず、大きな番組を出す前に、今年春に出した
『BSプライムタイム』(49分バージョン)を再放送できることになりまし
た。以下、ご案内いたします。
放送日時: 2003年9月29日(月) 21:00~21:50
放送内容: 柳澤解説委員による1分間の解説 +
       『BSプライムタイム サイード「イラク戦争」を語る』49
分全放送
放送波: NHK衛星第① BS-1
以上、知人の皆様方にご連絡いただければ幸いです。
なにとぞよろしくお願いします。
NHKエンタープライズ21
鎌倉英也

Sunday, August 03, 2003

意志的隷従と怠ける権利

 現在の日本の思想界にとってひょっとして最も重要かつ緊急の課題であるのは、どんな華やかな最先端の西洋現代思想を紹介することでもなく(それも重要だが)、実はある二冊の古典の分かりやすい翻訳、そして廉価な出版ではあるまいかと思うことがある。その二冊とは、エチエンヌ・ド・ラ・ボエシーの『意志的隷従に関する論文』とポール・ラファルグの『怠ける権利』である。

 なぜ、この二冊なのか。それは、この二冊が現代日本の問題を凝縮した形で提示しているように思われるからである。

1)意志的隷従。私は偶然、しばらくの間、日本最大の自動車会社で働く人々を間近に見、話を聞く機会に恵まれた。彼らはまるで新興宗教の信者のように(実際、「僕らはみんなT教信者なんですわ」という人すらいた)、憑かれたように有名な「某システム」の素晴らしさを語ってくれた。「Tは、50年間一度もストしたことがないのが自慢なんですわ」という人もいた。実際、現代日本の多くの人々はストに対して反射的な拒否感、本能的な警戒感、少なくとも違和感をもっている。しかし、日本人が自国政府や経団連の言うことを何でも鵜呑みにするようになったのは安保闘争以後のこと、長年にわたる政治的「去勢」の結果であって、決して「太古の昔から連綿と受け継がれてきた美しい日本人の心」などではない。

 おそらく日本の公共交通機関がストでもしたら、まず真っ先に出てくる反応は「彼らは他人様に迷惑をかけてまで、自分のエゴイスティックな要求を通そうとしている」というものであろう。自分の権利を守るよりも、周囲への配慮が重要、というわけだ。会社の中でも同じである。「賃上げ闘争などとんでもない。会社ににらまれたくないし、第一、会社や同じ部の連中に迷惑がかかる。もし会社が儲かれば、その分を還元してくれる(はずだ)から、俺たちは一生懸命黙々と働けばいいんだよ。考えるなんてまどろっこしい。すべて会社に任せておけば、後は会社が万事よくしてくれる(はずだ)」。こうして社員は我慢に我慢を重ねることだけ上手になっていく。

 これでは、誰も個人の権利を守るために立ち上がることができない。多少周りに迷惑をかけてでも、自分の生活環境を少しでも良くするために政府や企業とかけあう、周りも理解を示して多少の不便を我慢する、といった「連帯」の精神は、残念ながら現代日本では、私たち一人一人の手によって圧殺されてしまった。自分がリストラされてはじめて、事態がどれほど悪化しているかに気づくのであろうが、そのときにはもう遅い。連帯のない社会には、最低限のセーフティネットも用意されていない。年金問題があのような結末に落ち着いたのに、日本のどこからも抗議の声が聞こえてこない。

 なぜか?「忙しいし、そんなこと考えてる暇ないから。あんた暇でしょ。考えてよ」。このような受身的な姿勢(政治的カウチポテト族。ちょっと古い?)を一億総出でとっていたら、個人の生活が改善されるはずもない。そのとおり、意志的隷従の問題は、余暇の問題と分かちがたく結びついているのである。

2)余暇。学校(スクール)という言葉が、スコラ(余暇)という言葉に由来するというのはよく知られた話だが、結局のところ、ものを考えるには時間が要る、ということである。現在の日本のサラリーマンが置かれた状況がいかに企業に都合のいいものであるかは、少し考えてみれば分かることであるが、それにも時間が要る。いろいろなものを見聞=検分するためには、精神的な余裕も必要である。

 「あんたが言ってることはいちいちもっともなのかもしれない。でもさ、もうちょっと現実を見たら。そんなことできるわけないでしょ。我慢するしかないわけ。だいたい、政治とか興味ないし」。なるほど。ちなみに「ノンポリ」というのは、政治的に中立だと思っている人がいまだにいるが、それは間違いである。『告発の行方』という映画の中でジョディ・フォスターが言っていたように、レイプが行われている現場で犯罪に対して「No!」の声をあげない人は「Yes」と言っているのと同じなのである。そう、道は二つに一つである。このまま政治的去勢の刻印を刻まれた羊として(「羊たちの沈黙」)行き着くところまで行くか、それとも別の道を選ぶ勇気を持つか、である。

 別の道を選ぶなどということが可能か?それは一人一人が考えるべき課題であるが、さしあたり選挙という行為を通じて、少なくともオルターナティヴを探す(二大政党制などというまやかしに乗らないように!)ことはできる。少なくとも。

 Etienne de La Boétie, Le discours de la servitude volontaire (1563?), texte établi par Pierre Léonard, Petite Bibliothèque Payot, 2002, 9 euros.

 本書は他にも数種出版されているが、ラ・ボエシーに関する様々なテクスト(Lamennais, P. Leroux, Simone Weil, M. Gauchet, Pierre Clastres, Claude Lefortなど)を一緒に収めている点で、この版がベスト。

 Paul Lafargue, Le droit à la paresse (1883), éd. Mille et une nuits, 1994, 1,52 euros.

 さらに付け加えておけば、éditions Alliaからサミュエル・ジョンソンやロバート・スティーヴンソンから、マレーヴィッチにいたる思想家・作家・芸術家の《怠ける》シリーズが廉価(6ユーロ程度)で出ている。

 一人でも多くの人に手にとってもらうためには、値段は重要な要素である。出版者の中には綺麗な上装丁にこだわる方もいるようだが(実際、思想関係の本には圧倒的に多い)、Mille et une nuits出版社のような戦略をとる可能性は日本にはないのだろうか?日本の人文系出版業界の悩みを綴った文章を読んでいると、日本の映画業界と同じで、嘆き方が少し間違っている気が時々するのだが。。

Sunday, May 18, 2003

ソーカル論争と生活指導

 数年前、「ソーカル論争」というのがあり、分析哲学+社会学といった感じの人々がフランス現代思想一般の自然科学的概念の安易な比喩的濫用を攻撃し、インターネット上でも「魔女狩り」のようなことが行われていた。

 私はそのような是正はなされるべきであると思う。ただし、これが最重要問題だとは考えない。この手の魔女狩りは「間違っている」とは思わないが、「ちゃちい」とは思う。一方で、確
かに「現代思想家」の表現に行き過ぎはある。しかし他方で、比喩やアナロジーには哲学的に重要な意味があり、それは自然科学本来のコンテクストにおける妥当性には還元されえない。この点を踏まえたうえで、自然科学の過去の歴史をひもといて、行き過ぎた実験や思考実験なしに進歩がありえたか、考えてみればよい。錬金術の実験に熱をあげる科学者たちを嘲笑する宗教家たちはたしかにある意味で正しかった。しかし、そのような嘲笑を全的に生産的な行為だと言うことはできない。

 要するに、ドゥブレだの、ロジェポルだの、あるいは後期ボードリヤールや昨今のヴィリリオの比喩濫用をあげつらうのは、街角で人気の香具師(寅さん)の言葉の乱れを嘆く説教臭い自称「文化人」か、生徒たちの言葉の乱れを嘆く生活指導のおっさんの
ように見えるのだ。生活指導は確かに必要だ。確かに道につばを吐くのはみっともないし、スカートの丈が短すぎるのも日本の外から見ると馬鹿っぽく見えるだけだからやめたほうがいい。しかし、「道を誤ろうとしている」(本当に?)生徒にとって真に必要なものは何なのか。物事の本質を見誤ってはいけない。

 問題は、科学絶対主義の立場に立ち、文学主義による安易な(しかも間違った)比喩の濫用を戒めることでも(ソーカル&ブリックモン。ブーヴレスも大枠はこち ら)、文学絶対主義の立場に立ち、科学主義による介入に抗して、「比喩の権利」を守ることでもないのではないか。ドゥルーズの科学的(とりわけ数学的) 「比喩」の哲学的(科学的、でなく)正当性、デリダ的文体の哲学的=政治的正当性を問うことのほうが、もっと生産的かつ緊急の課題だろう。そして、それがなされたとは到底思えない。

Thursday, April 10, 2003

surprise

皆さん、こんにちは。hfです。

生まれてはじめてくらいのひどい風邪(インフルエンザ?)をひいて3,4日寝込んでしまいました。もうだいぶ良くなりましたが。

>ヨーロッパの皆さま

来たる5月7日水曜日17-19時、マシュレゼミの今学期の最終回が行なわれます。マシュレ自身がJudith Butlerの"La vie psychique du pouvoir"について報告する予定です。また、最終回ということで終わった後にsurpriseをやるものと思われます。

アメリカの現代思想家に関する一仏人哲学者の見解に興味がおありの方、フランスの地方で行なわれている若手研究者の交流(飲み会?)の実態を垣間見てみたいという方、この機会にぜひリールに足を運んでみてはいかがでしょうか?私が時間と体力の許すかぎり快適なリール・ライフをケアいたします。

言葉の問題ですが、ドイツ・イギリスの方の場合には、あらかじめマシュレにテクストをもらってお送りするつもりです(彼も許可してくれると思うんですが)。先にざっとでも読んでおいていただければ、ついていけないということはまずないと思います。質疑応答は、英語・ドイツ語でやっていただいてかまいませんし、もし仏語が必要であれば、私がいつでも助太刀いたします。どうぞ気軽にご参加ください。

参加ご希望の方は、お手数ですが、私のほうまでご連絡ください。

では、リールで再会できることを期待しつつ。

p.s.友人ymさん(岩波からサルトル論を出した)も来ます。

Friday, January 17, 2003

Re: Derrida

hfです。

>sさん、お久しぶりです。私はデリダの講演・ゼミを聴いたこともなけれ
ば、本人を直接目にしたこともなく、ただ本を通してしか知らないのですが、
(ysさんはデリダのゼミに出てるという目撃情報を入手しましたけども、最
近のデリダのゼミではどんなことが話題になってるんでしょうか??
[今まさに送ろうとしたら、ysさんからの返信。ロビンソン・クルーソーも
やってるんですって?])

ずいぶん老けたそうですね。あと、タケシのように顔の半分が麻痺していると
聞いたこともあります。

さて、「デリダの映画」、テレビ映画も含めると結構あります。
http://www.hydra.umn.edu/derrida/media.html

浅田「新」と磯崎新になっちゃってるのが残念ですが。
"Echographie de la television"というシュティグレールとの共著のもとに
なった仏独共同経営のハイカルチャーテレビ局ARTEの番組もあるはずですが、
リストには入ってないようですね。

あとは中山元さんがやっているポリロゴス通信
http://nakayama.org/polylogos/chronique/

のchronique00329などをご覧ください。

Sunday, January 12, 2003

Re: Re: HP見ました。(k01232)

なんか「HTML相談室」みたいになって申し訳ありませんが、大事な難問が出て
きました。仏語のアクサンがうまく表示されていないのですが、どうすればい
いのでしょうか?あと、euc-jpで書かないとうまく表示されないというのは、
ヤフー(ジオシティ)の問題なのでしょうか?ブラウザの問題なのでしょう
か?皆さんのブラウザでは日本語・仏語とも正しく表示されていますか?

>mgさん

そうそう『大学人版・地球の歩き方』ね。まあ本にしたって売れないかもしれ
ないけれど、人づてに任せておくといつの間にか失われていったりするから、
こうして電子空間の波間に流しておくのに最も適しているかも。

でも人文系の学者ってものぐさが多いからなあ・・・私もモノを書くのはいい
んですが、HPとか面倒くさくって仕方ないです。でもパリは趣味人が多そうだ
から、そういうのを作ってる人も中にはいるかも。ドイツ(ミュンヘン)版は
mgさんの担当ですよ。作ってくださったら、私のHPに載せましょう。あで
も、そうするとドイツ系の人が見てくれないか。

それから、コイレ京大招聘計画!?なんか本に書いてあるんでしょうか?それ
ともいわゆる「mgシンジケート」経由の極秘情報なんでしょうか?
スパイって言えばこんな話しが。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2002/12/31/20021231000018.html

ちなみにコイレについては、フランスでもコジェーヴに比べて圧倒的に研究さ
れていないので、積極的にフォローアップしていくつもりです。

私のHPの目標は、フランス人たちの最先端の研究動向を紹介しつつ、さらにその先を行く情
報を日本語で提供するという(私なりに)ゴージャス(笑)なものです。ま、
単に自分の情報・知識の再整理と、研究意欲の増進が個人的な目的ですけど。

ドイツ訪問計画あきらめてないです。ミュンヘンにはフランス語ないし英語を
使ってドイツ語を優しく学べる大学などの語学研修センターがありますか?

Saturday, January 11, 2003

Re: 感謝(k01229)

ssさん、isさん、ありがとうございます。この週末に改善します。サイト
は手元では管理してません。ヤフー「ジオシティーズ」にあるのを使ってます。

スコセッシ、個人的には好きではないので、「ギャング・オブ~」の予告編を
観たときは、ああこいつも(リドリー・スコットのような?)批判なのか大政翼賛なのか分からないようにつくる奴に成り下がったかと思っていたのですが、NYテロの影響で公開が遅れたのだという話
を聞き、さらに次のような談話も読み、ひとまず安心。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030110-00000244-reu-ent

それでも、「タクシードライバー」も「NY,NY」も好きになれませんが。何度
観てもホークスの「あかちゃん教育」のキャサリン・ヘップバーンが好きにな
れないのと同じで、デ・ニーロもライザ・ミネリもすごいのかもしれないけど、
耐え難いんですよね、描かれてる人物が。それでも観に行くでしょうけど
(笑)、『ギャング』。

Friday, November 08, 2002

citephilo 2002

hfです。

今年もcitephiloが始まろうとしています。
(ML01054など参照)

今年は明日金曜日から始まり、三四週間続きます。主な参加者は、バディウ、
バリバール、ラクー=ラバルト、ジジェク、ルーディネスコ、などなどです
(完全なリストはHP上)。ブルデュー特集では、パントーやメイヤー、マシュ
レが話します。マシュレの「ブルデューとパスカル」は一読の価値ありです。
どうぞ皆さんおいでください。

Thursday, October 24, 2002

"Le toucher, Jean-Luc Nancy"(2000)

 デリダの350頁近い大著"Le toucher, Jean-Luc Nancy"(2000)は、ナンシー
のほぼ全ての著作を"Le toucher"という言葉で読み解いてみせる。

 "Le toucher"というのは、フランス語の特性を活かした言葉で、leを定冠
詞、toucherを名詞ととれば、the touch(触覚)となるが、leを人称代名詞、
toucherを動詞原形ととれば、touch him/it(彼・それに触れること)となる。

 デリダは、ナンシーの思想における触覚(le toucher)の概念の重要性、と
同時にその危うさ、曖昧さを、彼にそっと触れる(le toucher)ような形で、つ
まり距離をとりすぎるのでも、同一化してしまうのでもない紙一重のところに
留まりつつ、指摘してみせる。

 この微妙な距離どりをどうやって実現するのか。十歳年上のデリダが後輩に
して友人のナンシーに、愛情に満ちた厳しさで、彼の哲学史理解(とりわけア
リストテレスについて)の不十分と、そこから来る彼の哲学の問題点をたしな
めつつ(第一部)、触覚概念の系譜(とりわけ1.メーヌ・ド・ビランからメ
ルロに至るフランス・スピリチュアリスムの流れ、2.ドイツにおけるハイデ
ガー、フッサールの現象学、3.マリオン、マルディネらのフランス現象学
派)を自ら辿りなおしてみせることで、それらの伝統からナンシーの独自性を
切り離そうと試みる(第二部)ことによって、である。

 "Le toucher"は、デリダの他のモノグラフィー同様、Gift(英語で言えば贈
り物、独語で言えば毒)、友人の哲学者への毒入りの贈り物である。 hf

Tuesday, October 22, 2002

ボチュル、『カントの性生活』(6)

 京都朝日シネマ、みなみ会館、懐かしいですね。オールナイト徹夜もう体力的に無理かも(笑)。

***

 理由のないことではない。このテクストを手にした幾人かの大学人たちは驚きと不満を隠さなかったし、ソルボンヌ大学教授にして(今なお)高名なカント研究者たるヴィクトル・デルボー(1862-1916。この没年に注意!)は、「人類が持ちえた最も偉大な天才の名声を汚す」者としてかつての弟子を非難
する絶縁状をボチュルに送り、彼とのすべての関係を断ったのであった。

 実際、当時のフランス新カント派は、ソルボンヌで絶大な権勢を誇っていた(時期が特定されていないことに注意!たとえば二十年代後半、すでに学生の間では、サルトル、ニザンなどが講壇哲学の破産を宣告していた)。未だかつてマルクス主義も、実存主義も、ハイデガーも、精神分析も、このソルボンヌの哲学部に市民権を得たことはない(これは事実である。ただしフッサールの現象学は、現在、かつての新カント派と同じ隆盛を誇っていることを付け加えておこう)。カントだけが、共和主義的・非宗教的合理主義のありとあらゆる流派をまとめあげる収束点の役割を果たしえた(権勢を誇るのにもそれなりの理由があると言うことである。「厳密な学」ぶりたいマリオンのパリIV系(つまり神学系)現象学やバルバラスのパリI系(つまり世俗系)現象学然り)。

*

 だが、そうであるからこそ、「フランス新カント派」とでも呼ぶべき人々による伝記的事実のまったき無視は、再考される必要があった。「僕は思想の巨人に触れてしまいました。すべてをひっくり返す彼の思想の重みに押しつぶされそうです」と恋人に愚痴をこぼしながらも、ボチュルは、自分の研究の重要
性を確信していた。「僕にとって、カントの性生活は、西洋形而上学の最も重大な問題の一つなのです」。さらに数年後にはこう断言するまでに病気が進行している。「カントのセクシュアリティは、カント哲学の理解に至る王道なのです」(笑)。

 このボチュリスム的アプローチによって、『純粋理性批判』を「自伝的ドラマ」として読むことが可能になるにもかかわらず、カント哲学のありきたりのヴィジョンをことごとく覆そうとするこの新たな読解、まったくもって「徴候的な読解」は、残念ながらアカデミズムでは軽蔑的に黙殺されてしまった、と
パジェスは慨嘆し続ける。私はそこまでボチュリスムに肩入れするつもりはないが、それでもソルボナールたちに問題の真の争点=賭け金が見えていなかったことは確かである。

 以上に見られるとおり、論争の場はカントの性生活。論争に真に賭けられたものは哲学研究と自伝的事実の関係である。

Sunday, October 20, 2002

精神分析における理論と実践

 こんにちは。別に続編が続々登場というわけではないので、ご安心ください(笑)。

***

 人がその影と縁を切ることができないように、いかなる科学もその辺縁に位置する両義的な領域をあますところなく切除してしまうことができない。

 たしかに化学(chimie)は今や、錬金術(alchimie)とは何の関係もない。しかし、たとえば遺伝子工学の領域で現在行われているすべての仕事が将来、嘲笑の種にならないという保証もまたどこにもない。

 精神分析とは何か。医療活動の一種なのか、それとも人文科学なのか。そもそも「科学」と呼ぶべきものなのか、それとも動物磁気説や交霊術のような、いずれは「似非科学」(para-science)と呼ばれるようになるものなのか。こうした一連の問いは、その誕生以来、精神分析につきまとい続け、今なおその影の中に潜んでいる。

 「理論と実践」の問題は、明らかにこれらの問いの中心に位置している。これから数回にわたって紹介するのは、この問題を考えるうえで欠かせないと思われる「思考の素材」である。

*

 まず最初に全体のプランを示しておく。

1)「理論と実践」という問題構成の一般的な広がりを抑えておくために、カントの有名な論文「理論では正しいかもしれないが実践の役には立たない、という通説について」(1793)、いわゆる「理論と実践」の序論的な部分を要約する。

2)「理論と実践」という問題構成の現代的な射程を抑えておくために、アルチュセールの『マルクスのために』(1965)、とりわけその一章「唯物弁証法について-さまざまな起源の不均等性について」から、「理論的実践」に関する部分を要約する。

(ここで「科学の科学性そのもの」を考えることが実は不可欠なのであるが、科学哲学の文献が手元にない・・・thoery-ladenness of observation.)

3)「精神分析の科学性」という問題構成の一般的な広がりを抑えておくために、著名な女流精神分析史家であるルーディネスコの『なぜ精神分析か?』(1999)、とりわけその第三部第一章「科学と精神分析」を要約する。

4)「精神分析の科学性」という問題構成を「精神分析と人文科学」という観点から考察している、死後出版されたアルチュセールの講演速記録『精神分析と人文諸科学』、とりわけ同題の第一講演を要約する。

5)「精神分析の科学性」という問題構成を最も深く探究したラカンのアプローチを、すでに公刊されているセミネール、とりわけセミネールXI「精神分析の四基本概念」(1964/1973)から該当部分を要約する。

もちろんこれ以外にも読むべきものは多々あります。皆さんからも「これ読まないと」とご提案いただければ幸いです。hf

Friday, October 18, 2002

ボチュル、『カントの性生活』(5)

 カントは哲学の著作を仕事の前や後に、あるいは情熱に焦がれて、あるいは癒しのように書いたのです。彼は大学界のお偉方たちからは長い間、アマチュア哲学者と見なされていました。非常に遅くにではありますが、栄光が訪れた後も、カントは生き字引の役を演じ続けました。

  75歳まで、すなわち力の尽き果てるまで、彼は講義を続けたのです。退職年金がなかったからです。なんという骨折り仕事でしょうか!生きていくのも楽では ありません。平然と謝礼を払わなかった学生もいましたし、払いたくともお金がなく、友達に薦められたからやって来たという者たちは無料で迎え入れられたこ とでしょう。

 農民が一年中畑と作物に縛られているように、カントは長期休暇を取ることができなかったのです。子沢山の一家に生まれた、つましい職人の息子、この知識人の生涯はそれだけでもすでに一つの成功とは言えないでしょうか。

  パリやヴェニスへぶらつきにでも行ければ、それはさぞかし良かったことでしょう。結婚していればさぞ良かったかもしれません。子供たちを養うために講義の 数を増やし、その子供たちが廊下をはしゃいで飛び跳ねている間、講義室ではロシア人客やプロイセン人客やを手放さぬよう努めながら、よく聞き取れないか細 い声で講義を続けるカント…

***

 しばし脱線的考察。ボチュルの講演自体はその真偽を疑わせ る要素はないにしても、フレデリック・パジェス(友の会代表)の解説文を読んでいると、このボチュルなる人物は本当に実在するのか、ヌエヴァ・ケーニヒス ベルクも、カント原理主義者の超越論的共同体も、すべてはボルヘス的欲望に取り憑かれたフレデリック・パジェスの倒錯的創作ではないのかという疑念が、ど うしても頭をかすめてしまう。以下、怪しい点には注意を喚起する。しかしそういった点をすべて考慮に入れたとしても、この小冊子は取り上げるに値する試み を行なっていると思う。

*

 私は先に「あらゆる危険を承知で」と言った。敗戦直後のドイツ人移 民共同体の前で、フランス人がドイツの哲学者について語るという現実的・政治的な危険だけではない。「カント原理主義者と呼ばれもしたあの奇妙な移民た ち」の前でカントについて語るという思想的・イデオロギー的な危険(笑)だけでもない。その両方をあわせた政治的かつ思想的な危険があった。

  カント哲学の愛好者(専門家も含めて)にとっておそらくは最も触れられたくない、と同時にいくらか誇るべき点でもあるような問題を前面に押し出すボチュル が最も不安に思っていたのは、辺鄙な土地に住み着いたドイツ人移民共同体であるというよりは、フランス本国の思想的=政治的権威、とりわけソル
ボンヌの動向であった(ボチュルの具体的な伝記的事実について何も分からない以上、ソルボンヌが最大の脅威であったと断定することはできないはずだが)。(続く)

Tuesday, October 15, 2002

ボチュル、『カントの性生活』(4)

*カント商店

 これまでほとんど言われたことがありませんけれども、カントがまったくケーニヒスベルクを離れたがらなかったことには、ごく単純な理由があります。彼はそこで「店」を営んでいたのです。

 人々はカントが大学教員 だったからといって、とかく彼のことを、大学から給料をもらい、日々の必要に迫られて汲々とすることのなかった、ほとんど官吏のように思い描きがちです。 これはまったく誤ったパースペクティヴのとり方であり、歴然たる時代錯誤であると言わざるをえません。

 確かにカントは、王立図 書館副司書として俸給を得ていましたが、それは微々たる物でした。大学教員としてのカントは、自営業者として、独立事業者として、この職種の者に科される あらゆる制約に縛られながら生きていたのです。彼の主要な収入源は、講義に出席している学生たちの支払う謝礼でした。客が入らなければ金も入らない、とい うわけです。

 言ってみればカントは、聴衆が大学教員たちに金を払う中世的な古いシステムの支配下に生きていたようなものです。20世紀の我々の近代的な大学や、1830年代にヘーゲル教授の職と生活の安定を保証していたベルリン大学とはまったく違うシステムのもとに。

 カントは、医者や弁護士 のように、自由業者として哲学という商売を営んでいました。客を迎えるには、そのための部屋が必要です。だからこそカントは、その一階に講義室(家の中で 最も広い部屋であり、カントの生活の中心の一つ)を設えるために、絶えず自分の家を持ったのです。まあこの仕事道具は借りるだけでも良かったはずではない かと言われそうですけれども…。

 カントが隣人たちのたて る音に(とりわけ隣人たちが歌い始めたときには)口喧しかったことをからかう者もいます。隣人の歌と言っても、独房の開け放たれた窓から厭でも聞こえてく る、必ずしも聞いて心地よいとは言えない、囚人たちが大音量で歌うように命じられていた単調な旋律のことですが…カントはこのような状況が改善されるよう市庁に手紙を書き送ったのでした、歌う囚人たちについて。

 しかし私たちは、カント にとって自宅が仕事場であったということを思い起こす必要があります。彼はそこで講義を準備し、そこで講義を行なわねばならなかったのです。静寂が求めら れるのは当然のことであり、騒音などとんでもないことです。カントの家は、二人の労働者、すなわちカントと下男のランペ

を抱える零細企業だったのですから。

 客は学生や社会人、プロ グラムには地理、詩、砲術、天文学など、どんな科目でもありましたが、カントは哲学を主に教えていたわけではないということがしばしば忘れられています。 彼を近代的な制度のもとでの初の哲学教授と考えるのは間違いです。カントは近代の最初の哲学者ではなく、旧制度(アンシャン・レジーム)の最後の哲学者 だったのです。(続く)

Monday, October 14, 2002

ボチュル、『カントの性生活』(3)

(今年はじめに書いたもので、ML01075,01081の続きです。)

 皆さん、こんにちは。リールでも(当たり前のことですが)始まりました、ユーロ。まあどうしてもふだんよりは混雑するけれど、思ったほど混乱はなくて、ほっとしています。

*

 前回から提示しているのは「翻案」であって「翻訳」はありません、念のため。

***閑談の壱(承前)

 カントは時代から、都市生活から離れて、隠遁生活を送ったわけではありません。彼のことを象牙の塔に独り引きこもった、社交的な生活の敵として思い浮かべるなどとはとんでもないことです。

 私はカントの伝記作者たちが、彼の生涯のざらつきやシミをぼかしてしまうために「艶出し」し、人柄を「透化」することによって、歴史の中に老いさらばえ強迫観念に取り憑かれたカントというイメージを定着させようとしたのではないか、と疑っています。

 しかしカントにしたところで、有名になるまでは、つまり六十歳になるまでは、人並みの生涯を送ってきたのです。一介のMagisterにすぎなかった頃は、居酒屋に出入りし、ビリヤードをたしなみ、時には深夜に帰宅したのです。

 正教授になり、家を購入し、下男を独り雇うようになると、カントは好んで昼食に人々を招き、この昼食はしばしば午後遅くまで続いたものでした。

 カントはケーニヒスベルクの上流社会からの招きにも自ら好んで応じました。この「感じのいい仲間」について、あるものは次のように証言しています(興味のある方のために申しあげておけば、J.H.L.Meierottoという人物です)。

 「彼は老人たちの中でも最も軽快で、最も愉快な老人であり、言葉の最も高貴な意味でbon vivant(享楽主義者、美食家)です。彼が読むようにと与えてくれる哲学を人々がうまく消化できないのとは見事に対照的に、彼はどんなに重い食事でもぺろりと平らげ消化してしまうのです」。

 青年時代に家庭教師とし て勤めたカイザーリンク伯爵夫妻の晩餐会では、貴賓席が与えられていました。というのも、ある証言によれば、「ほとんどいつも会話の鍵を握っていた」から です。カントは、あらゆる話題について話をすることができました。そして人々も彼に何でも相談したのです。

 例えば1774年、ケーニヒスベルクで最初の避雷針をハーベルベルガー教会の上に設置するよう、市当局から依頼を受けた物理学者は、我らの哲学者に意見を求める手紙を書き送りました。雷カウンセラー・カントというわけです。

(続く)

Wednesday, October 09, 2002

対立の共同体(4)

こんにちは。

例えば、イスラエルの市民運動に関する今回の田中ニュース(最後の民族性に
関するくだりを除けば、素晴らしい!)を次のニュースと併せ読むこと。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20021007-00000069-mai-soci

3*『明かしえぬ』以後

 『無為』刊行後、『明かしえぬ』が現われたのをはじめとして「共同体」のモチーフは徐々に注目を集め、共産主義的ないし共同体主義的ないかなる計画ももはや支えることのできなくなっていたこの領域に新たな地位を与えることが緊急の課題である、と認知された。

 新たな地位を与える、別の呼び名で呼ぶということは、もはやその名では呼ばないということ、共同体が自らの実質となり自らの価値となるというトートロジーから抜け出すこと、さらには使徒たちの原始共同体、教会、修道会、聖体拝領(コミュニオン)などのキリスト教的な含意(バタイユの来歴はこの点
では疑いの余地はない)の拘束から自由になることである。

 こうして『無為』と『明かしえぬ』の刊行後、共同体を主題化し規定しようとする一連の試みが現れてきたわけである(アガンベン、ランシエール、ラクラウとムフ、やや遅れてフェッラーリ、次いでエスポージトらによる、これらの試みは今なお米国を中心として継続されているが、それは新たに鋳直された「共同体主義」が問題となる、まったく異なる文脈においてのことである)。

*

 だがこれまでのところナンシーは、「共同体」という語と真正面から取り組むどころか、むしろ逆に、徐々に「一緒に-いること」「共同-で-あること」そして最終的には「共に-いること」といった無愛想(disgracieuses)な表現によって「共同体」という語を置き換えようとしてきた。この移動、諦め(一時
的なものにすぎないとしても)無愛想な語には無論、理由があった。

 「共同体」という語を用いることによって様々な危険が惹起されることは目に見えていた。どうしようもなく実質と内面性に満ち満ちた響き、避けることが困難なキリスト教的ニュアンス(精神的、同胞的、霊的な共同体)、あるいはもっと広く宗教的なニュアンス(ユダヤ人共同体、ウンマ)、「民族」を裏付けにしたと称して「共同体」という語を用いる、などなど。必要ではあるが、未だほとんど解明されていないこの概念を強調することは明らかに、共同体主義的な、ファッショ的ですらある衝動を蘇生させてしまう惧れがあった。ナンシーが最終的に「共にavec」の概念に仕事を収束させていくことを選んだ
のは、そのためであった。

 共同体の「共co-」とほとんど識別不可能であるとしても、この「共に」は、近さと親密さの核心において「共」よりはっきりとした隔たりがあることを示している。「共に」は乾いていて(sec)、中立的である。聖体拝領的な融合でもなく、微粒子化的な分裂でもない、ただある場所を共有=分割するだけ、せいぜいのところ接触。ブレンドなしに一緒にいること(この意味で、ハイデガーにおいてペンディングにされている「共存在」の分析をさらに推し進める必要がある)。

*

 今日(2001年10月という日付を強調しておこう)、荒れ狂う情念のあらゆる特性を備えた出来事が、世界中に、とりわけ西洋世界とその周縁、その内的・外的な境界(まだ外的なほうが残っているとしての話だが)に広がりつつある。全能の神であれ「自由」であれ(こちらも劣らず神憑り的である)、情念
の様々な形象が、対立的な身振りで、現在の世界の動向が示している周知のあらゆる恐喝・搾取・人心操作を覆い隠すと同時に暴露してもいる。だが仮面を剥ぎ取ることはまず必要な作業ではあっても、それだけでは十分ではない。情念的な諸形象がただ偶然に空いた場所を占めに来たわけではないということをも考えねばならない。この空いた場所こそ共同体の真理の場所に他ならない。

 荒れ狂う神への呼びかけと、"In God we trust"といった表明は、「一緒に-いること」の必要・欲望・不安を、対称的な形で道具化している。つまり英雄的な身振り、壮大なスペクタクル、飽くことを知らぬ怪しげな企みに再び利用しているのである。その一方で、どちらも秘密を暴くとしながら、その欠片す
らも隠し通そうとする。実際、どちらも、まさに「神」というあまりに明かしすぎている名のもとに、この秘密を隠しているのである。我々としては、ここから考え始めなければならない。神も支配者もなく、共同的な実体もなしに、共同体の、「共に-あること」の秘密をどう考えるか。

 共同体の無為(ある秘密を洩らすことなく共有=分割する可能性、まさに我々に漏らすことなしに、我々の間である秘密を共有=分割する可能性はそこにある)について、これまでのところさして考えを推し進めてきたとは言えない。だが、権力や利潤といった化け物じみた争点のために相対立している、これまた化け物じみた思想(ないしイデオロギー)に直面して、一つの仕事があることは疑いえない。いかなる実体にも頼ることなく、「共に-あること」という考ええぬもの、定めえぬもの、論じえぬものを敢えて考えること、である。この仕事は、経済的なものでもなければ政治的なものでもなく、いずれは経済的なものと政治的なものとを共に作動させるものである。

 我々が現在目にしているのは、「文明間の戦争」などではない。

(ひとまず完)

Tuesday, October 08, 2002

対立の共同体(3)

ナンシーの『対立の共同体』翻案(ML1076、1197)の続きです。

*

 では、「我々」は何を共有=分割しているというのか?おそらくは「明かしえぬもの」を、すなわちブランショが『明かしえぬ』の第二部によって、そして『無為』という理論的なテクストに関する考察とデュラスの『死の病』という愛と死の物語に関する考察を合わせて『明かしえぬ』を構成することによって示そうとしているものを共有=分割しているのであろう。

 かつてのナンシーには、ブランショがこの二つのテクストを対照的なものとして区別しているように思われた。『無為』が否定的な考察に、あるいは虚ろな「無為」に留まっているテクストであるのに対して、『死の病』は「有為の」ではないにしても、限界の経験(愛と死の経験、限界において開示される)を共有することで密やかに操作される(明かしえぬ)共同体に道を開くテクストである、と。

 だがおそらくは、「共同体」の本質なき本質に至るこの二つの道はどこかで、『明かしえぬ』の一部と二部の間のどこかで、社会的-政治的な領域と情念的-私的(intime)な領域の間のどこかで出会うはずだ、とブランショは言っているのではないか。複数的な実存(誕生、分離、対立)と単独性(死、愛)を同時に可能にする強度の、奔出の、喪失・放棄の謎をその「どこか」で考え抜かねばならない。たとえ誕生と死、愛と戦争には常に「明かしえぬもの」が含まれているとしても。

*

 「明かしえぬもの」とは恥ずべき秘密を指す。「明かしえぬもの」が恥ずべきものであるのは、それがsouverainte(主権/至高性)とintimite(親密さ/私生活)という二つの可能な形象のもとで、「明かしえぬもの」一般としてしか開示されえないpassion(情念/受苦)を関与させているからである。「明かしえぬもの」の情念が正体を告げるとすれば、その告白は耐えがたいものとなろうが、同時にそのような告白は、この情念のもつ力をも破壊してしまうことになるであろう。

 「明かしえぬもの」の情念とは、それがなければ私たちはいかなる「一緒に-いること」、つまりは「存在すること」そのものをもすでに断念してしまっていたであろうものである。この情念がなければ、底なしの慎み深さのうちに引きこもった至高性と親密さに従って、我々を世界の中に生み出すものを断念
したであろう。なぜなら我々を世界の中に生み出すものとはまた、我々を分離、有限性、無限の出会い(そこで各々が他者と、したがってまた自己と、他者の世界としての世界と、気の遠くなるような接触を続ける)の極へと一挙に運び去るものでもあるからである。我々を世界の中に生み出すものは、すぐさま世界からあらゆる根本的あるいは最終的な単一性を奪い去って、世界を共有=分割する。

 「明かしえぬもの」とはしたがって、羞恥心のなさと羞恥心とを見分けられなくなるほどまでに混交した語である。羞恥心がないというのは、ある秘密を告げ知らせてしまうからであり羞恥心があるというのは、その秘密は秘密のままに留まるであろうと確言するからである。

 押し黙った者のみが、このような仕方で押し殺されるものを知っている。だがこのような知は、それ自身交通の知であるにもかかわらず、伝えあうべきものではない。交通の知の法とは、互いに伝え合わないということであるに違いない。なぜならこの法は伝達可能なものの領域に属してはいないのだから。しかし、にもかかわらず、交通の知の法は、言葉で言い尽くせぬものではない。それはあらゆる言葉を開く。

Sunday, October 06, 2002

対立の共同体(2)

 これまた今年一月初旬に「翻案」したものですが、共同体の問題を考える時
に、欠かせない本の一つだと思います。
 
***

2*『無為』から『明かしえぬ』へ(pp.36-43.)

 ナンシーが『無為』において、社会の「死刑」としての共同体の「作動」(oeuvre)を明らかにし、それと相関的な仕方で、無限の交通(コミュニケーション)の本質を保存しつつも、作動するのを拒むような共同体、すなわち無為の共同体の必要性=必然性を確立する、と主張していたまさにその地点にこそ、明かしうるものではない秘密、「明かしえぬもの」がある、とブランショは警告しているのではないか。

 「無為」に対抗して置かれた「明かしえぬ」という形容詞が考えるように促しているのは、無為(désoeuvrement)の下になお作動(oeuvre)が、明かしえぬ作動が存在しているということである。無為の共同体、つまり共同体なしに存在する者たちの共同体(我々すべて)は、「共同-で-あること」の秘密をベールを脱いだ姿で曝け出すことは決してなく、したがって(無為の共同体が「共同的なもの」そのものであるにもかかわらず、それだからこそ)交通することもない。 

 無為の共同体はむしろこの秘密を激化させ、秘密へと接近することの不可能性ないしは禁止、さらには制止、羞恥心(これらはすべてブランショのテクストに表れているモチーフである)を強調する。「明かしえぬもの」とは「言語を絶するもの」ではない。まったく逆に、「明かしえぬもの」は、明かすこともできそうでいて決してできない者たちの親密な沈黙のうちに絶えず語られ、自らを語るものである。ブランショは、この沈黙のことを、この沈黙が言わんとするところを告げようとしたのではないか。

 親密さそのものに他ならない交通や共同体の親密さ、いかなる無為よりも深く隠された親密な「作動」のような親密さは、沈黙を可能にし必然的なものにする。と同時に、この親密さが沈黙の中に溶け去ってしまうことは決してない。神秘的な交流の共同体を否定するだけに留まっていたナンシーに、ブランショが再考を促したのは、共同的なものの秘密(共同の秘密ではない)のほうに向かって、この否定性よりさらに先を考えることではなかったか。

*

 だが、伊語版序文は共同体の問題を考え直す機会をナンシーに与えた。あたかもブランショ自身が「『明かしえぬもの』に用心なさい」「共同体のあらゆる前提に、たとえそれが『無為』という名のものであっても、気をつけなさい」と言っているかのように、あるいは「『無為』という語の示唆するところをもっと深く追究なさい」と言っているかのように、この無為は作動の後に、けれど作動からやってくる。

国民国家や政党国家、普遍的教会(カト+プロ)や自治独立教会(東方正教会)、議会や閣議、人民や会社組織や同胞団体が望むような方向で、社会が自ら作動するのを制止するだけでは十分ではない。常に、常にすでに、共同体の「作動」があるということを同時に考えるのでなくてはならない。個的であれ、種的であれ、あらゆる実存に常に先立っていたということになるであろう共有=分割の操作が常にすでに存在しているということ、それなしにはいかなる現前もいかなる世界も決して存在しえないような交通・伝染が常にすでに存在しているということを考えねばならない。

 というのも「現前」も「世界」も共-存在ないし共-帰属(たとえこの「帰属」が共同-で-あることへの「帰属」にすぎないとしても)という含意を伴っているからである。我々(我々すべて一緒に、そして一緒でありながら区別された)の間にはすでに、ある共同的なものの共有=分割があったのである。共有=分割と言っても、それ以前に共同的なもの自体が存在していたわけではない。共有=分割することによって共同的なものが存在するようになるのであり、実存が自らの固有の限界への開示であるという意味で実存そのものに触れるようになるのである。

 このような共同的なものの共有=分割こそが、我々を分かちつつ、我々を近づけつつ、決定的な未決定のうちにいる「我々の間に」隔たりによって近接性をつくり出しながら、我々を「我々」たらしめたのである。「我々」というこの集団的・複数的な主体は、決して「自分の固有な」声を見出さぬよう宣告されているが、それこそがこの主体の偉大さの証しである。(続く)

Saturday, October 05, 2002

ブルーメンベルク補遺(下)

 ブルーメンベルクの代表作『近代の正統性』については、村上陽一郎の好意的だけれど内容のない書評以外に書評を見かけませんでしたが、まああれだけの大作ですからね・・・

 というわけで、幾つか読んだ中からJean-Claude Dussaultという人の平均的な「否定的」書評を一つだけ紹介しておきます。

*

 思想の発展というのは、ずいぶんと騒がしい代物である。『近代の正統性』の中で、ハンス・ブルーメンベルクは、哲学的思索の二千年の歴史を取り上げて、ヘーゲルやシュペングラーの壮大な歴史哲学的総括を思わせる一つのテーゼに押し込めてみせる。
 その長い論証過程は確かに恐るべき文献渉猟に裏打ちされてはいるが、配列・構成はどことなく行き当たりばったりに思われ、あたかも本書の最終形態は、著者ではなく他の誰かが決定したかのようである。
 例えば、「理論的好奇心」を扱う第三部は、「西洋人は真理の探究において自己主張を獲得しようとしているのだ」という主要なテーゼから脇に逸れているように見える。
 それにそもそも、本書冒頭では、歴史の時間の流れに沿ってこのテーゼを論証していくと予告されており、読者は当然それを期待するのだが、実際の論証はむしろ幾つかのテーマに沿って展開されていくので、この見かけのズレをきちんと理解しようと思えば、読者には西洋思想史についての百科全書的な知識が要求されることになる。
 なぜ第二部で、デカルトによってなされた理性革命を見届けた後で、第三部で、アウグスティヌスやテルトゥリアヌスやその他の教父たちのあまりに微細な神学論議に戻っていき、場合によっては古代哲学へ乱入していかねばならないのか?
 ブルーメンベルクは、二百頁以上にわたって、幾度もさまざまな形で西洋文化を揺り動かしてきた議論、すなわち好奇心についての議論を検討する。諸対象と外部世界に関する研究は、どこまで推し進めるのが「正当」なのか?科学的探究の限界とは何か?
 本書は、中世の思考から近代の思考への移行を画するエンブレマティックな二人の人物を扱って終わる。ニコラウス・クザーヌスとジョルダーノ・ブルーノである。一方は、スコラ学に新たな思考の可能性を認めることでそれを救おうと試みる最後の人物として、他方は、この移行過程において、神的な内在性をあらゆる存在に広げ、火刑台の上でなおキリスト教的な贖いの神から目を背けることで、すべてを転倒した人物として。
 本書はときにきわめて面白い、しかし多少éreintantな本であり、哲学に対する興味と時間的な余裕をもつ読者にしかお薦めできない。

***

 最後に、ブルーメンベルクで検索しているうちに非常に興味深いサイトに出会ったので、すでにご存知かもしれませんが、ご紹介しておきます(ssさんの本の書評もありましたよ。ちょっと辛辣ですが…)。彼らの掲示板でのやりとりの幾つかも必見。誰が主催してるんでしょうね?
http://members.tripod.co.jp/studia_humanitatis/newbooks.html

 ヴァッティモの『信仰』を取り上げての「最近は、哲学の中に神学の用語や着想を導入する傾向が比較的多く見受けられるようになってきた。」といった発言の的確さや、「ブルーメンベルクは哲学の側よりは神学の側からのほうがアプローチしやすい側面もあるかもしれない。古代・中世・近代という垣根を作ってその枠の中で安閑としているような哲学研究者には、所詮手の出せない相手なのだ。」といった発言に垣間見える主催者の指向には共感を覚えます。

Thursday, October 03, 2002

ブルーメンベルク補遺(中)

『マタイによる受難』(仏訳1996)

 世界の至る所で、かつてなく多様な形で、かつてなく多様な条件のもとで、何万もの人々が、ヨハン=セバスチャン・バッハの「マタイ受難曲」に耳を傾ける時代にあって、ブルーメンベルクは、今日の聴衆がそこに何を聴き取り理解することができるのかを問いかける。

 この傑作がつくられてから250年という時が流れ、その間、世界は決定的な変化を見た。だが、広義の意味での「技術」の変化以外にも、キリストの受難、バッハの「神の受難」、アウグスティヌスやルターの神を理解することには困難が立ちはだかっている。

 今日の聴衆とバッハの属していた共同体を隔てる距離を測るために、ブルーメンベルクは、現象学の方法論に立脚し、精神分析や解釈学を縦横に駆使しつつ、福音書やバッハのリブレット、神学の様々なテクストを読み解いていく。(まあ要は、ノルベルト・エリアスばりの音楽の社会学の一ヴァリアントじゃないかとも言えるでしょうが。)


『トラキアの下女の哄笑』

 「理論」の誕生について「歴史」はその正確な時点を詳らかにはしていないが、「理論」の誕生を物語るある逸話は一つだけ存在し、幾世紀を越えて我々にまで伝えられている。

 それによれば、ある夜、星を観察していたタレスは、井戸に落ち、彼を助けに駆けつけたトラキア出身の下女の哄笑を浴びたという。世界の起源をたった一つの要素すなわち水から説明する理論を打ち立てた偉大な哲学者にして、人類史上初めて日食を予言した天文学者は、下女の笑いを誘った。というのも彼は自分の足元に何があるのかを見ていなかったからである。

 この逸話は実に様々な問題を提起している。トラキアの下婢の哄笑が哲学のイメージに与えた衝撃は、ポリスにおける哲学者の位置、近いもの(井戸、生活)と遠いもの(星、観念)の関係、生の世界と観念の世界の(あるいは理論家の自由と召使の不自由の)関係に関わっているのである。

 ブルーメンベルクは、数世紀にわたるこの逸話の変遷を分析する。あの天文学者は名が知られている場合もあれば名もなき人であったり、彼を馬鹿にした下婢も若かったり年老いていたり、彼が落ちた穴も貯水池だったり堀だったりと様々である。だが、下婢の哄笑だけは、理論の奇妙さに直面したときに日常生活が洩らす無理解の徴として留まり続けたのである。

 ブルーメンベルクは、イソップの寓話からハイデガーまで、この逸話の受容史を跡づけた後で、この逸話の前例のない成功を、哲学が自分に対して抱いている意識の一形態と捉える。

「実際、哲学者を笑えるのは、自分は彼らとは違うと思っている人たちだけであるはずだが、どう見てもこの哲学という領域にいる者たちは、自分だけは例外だと思い込んでいるようである。」
(続く)

Wednesday, October 02, 2002

ブルーメンベルク補遺(上)

 こんにちは。ML01096の続きです。

*

 今年(2002年)の6月、ようやくハンス・ブルーメンベルクの大著「近代の正統性」(ウニベルシタス)の邦訳が4年がかりで完結した。フランスでは1999年に一巻本で仏訳が出たから、まあほぼ同時期といっていい。

 それにしても、1966年に初版の出たこの本の翻訳がなぜここまで遅れたのか、翻訳が出た今となっては全く理解しがたい現象なのだが、まあ思想の歴史はこういった例に事欠かない。ヘーゲルの『精神現象学』の完訳版がフランス語で出たのは1941年、原書出版(1807)から優に一世紀以上経っているのである。

*

 フランスにおける受容の遅さについては前回チラッと触れましたが、ブルーメンベルクの『憂い事は川をも渡る』(仏訳1990)についての次のような「書評」(これを書評と呼べるとすればですが)が端的にそれを物語っています。

「密やかさを愛し、意図的に大衆から遠ざかった哲学者、ハンス・ブルーメンベルクは、彼の諸著作を未だ読んだことはないが、彼の名を聞いたことはあるという人々の好感という富をかちえている。「世評」では、彼は現代ドイツの重要な思想家の一人であり、「世評」では、彼の哲学的な思索には彼の慎ましさと共に並々ならぬものがあり、「世評」は彼について様々なことを語っている…だがこの『憂い事は川をも渡る』と共に、「世評」は確信に変わる。」(チエリー・パコ、『キャンゼーヌ・リテレール』誌)

 ドイツ語を読めないに違いない評者の苦心ぶりがうかがわれるこの一文から、90年代当初までのフランスにおける受容の様子を想像することはさほど困難ではないでしょう。

 さて、著者やこの著作自体についての紹介は邦訳を参照していただくことにして、ブルーメンベルクの膨大な著作の中から仏訳されている他の幾つかの著作を紹介しておきましょう。(あらかじめ元ネタをばらしておきますと)
http://www.arche-editeur.com/Catalogue/B/blumenberg2.htm

『観衆のいる難破』(仏訳1994、邦訳)

 驚くべき博識と、それでいて反体系的な意表を突く方法論を用いるハンス・ブルーメンベルクは、すでに数多くの著作を発表している。本書は、ブルーメンベルクの独創的な研究手法の一つである「隠喩学」(メタフォロロジー)、すなわち形象をあらゆる概念的な思考の根として読み解いてみせる手法によって、様々なテクストに登場する「難破」を人間存在とその危機、その限界の比喩として再解釈する。難破は、遠くにいるのであれ、巻き込まれているのであれ、それを見ている者にとってしか意味をもたない。人間という冒険の失敗、歴史の無秩序という見世物に魅せられているのであれ、思いをめぐらせているのであれ、それを見ているものにとってしか意味をもたない。ブルーメンベルクは比類のない鮮やかな手つきで、難破について考察し、意味をずらし、また回帰させた者たちを召喚しつつ、難破の形象の歴史とその豊かさを描き出す。ルクレチウスから、ヴォルテール、ゲーテを経てニーチェに至るまで、ある形象の意味の軌跡へと私たちを誘ってくれる。(この説明だけ読むと、比較文学系なんかに割にありがちなアプローチという気がしますけどね。)
(続く)

対立の共同体(リール版)

 駄乱長文に予めご容赦を願います。

***

 2002年8月12日付の田中ニュースに「パレスチナの検問所に並ぶ」という記
事があった。パレスチナの「自治区」(今や名目化した)とイスラエルの占領
地区との間を隔てる検問所をくぐった体験を記したものである。この記事を読
んだ時、まさかその後自分が同じ体験をしようとは思ってもいなかった。

 2002年9月30日、午前十時半ごろ、軽い気持ちで滞在許可証の更新にリール
の県庁別館へ出かけた。百人ほど並んでいた。ちなみに「並んでいた」という
のは、別館の中ではなく、寒風吹きすさぶ外である。我々は建物の中で待つ権
利すら与えられていないのだ。その後一時間で三メートルほど進んだだけで、
十一時半に入り口は閉ざされた。再開は一時半、大半の人々はそれまで待つ気
であったが、私は諦めて帰ることにした。

 翌10月1日、午前八時、開館の三十分前、この時間なら大丈夫だろうと気合
十分で同じ場所に行ってみると、二百人!ほど並んでいる。昨日より早い時間
なので、本当に寒い。それでも当初私は楽観的であった。

 というのも、一昨年、昨年とリールで滞在許可証を取ったときには、8時20
分にくれば、8時50分には中に入れたからだ(並んでいる人数は30人ほどだっ
た)。しかし甘かった。

 入り口の前には、滞在許可証などを取りにくる外国人用に、仏語・英語・ア
ラビア語で書かれた大きなポスターが張ってある。その一番上に、「内務省・
外国人課」と書かれている。内務省と言えば、今年春先の選挙で右派が大勝し
た後、ラファラン政権が政策の目玉として掲げた「治安強化」を取り仕切る部
署であり、その長たるニコラ・サルコジーが「断固たる姿勢で」望むと大見得
を切って次々と強行策を打ち出しているところである。

 その後、列に並んでいる人々と情報交換をしているうちに分かってきたのだ
が、昨年までは県庁の外国人課だけでやっていた滞在許可証交付作業に、今年
から内務省が加わったのだと言う。何をかいわんやである。我々外国人は、
「断固たる姿勢で」取り締まられるべき対象であるらしい。その証拠に、去年
まで中に入って待つことができたのに、今年は建物の中に入る人数が制限され
ている。30分に10人入ればいいほうである。

 並んでいる間に、色々と「事件」が起きる。列の最前列にいる人などは、朝
5時から並んでいると言う。5時ですよ!好きな歌手のチケットでも取るために
並んでいると言うなら話は分かるが、我々はとらなくていいんならとりたくも
ない滞在許可証のために並んでいるのである。彼らは腰掛椅子・毛布・食糧持
参である。つまり彼らはすでに少なくとも一度は痛い目を見たわけだ。

 彼らは数人で来ているので、何人かが休憩に抜ける。後ろのほうに並んでい
る人たちは事情が分からないから、抜けていた何人かが人々の間を掻き分けて
元の位置に戻ろうとすると、ズルをされたような気がして気に食わない。その
うち、その場で知り合った数人のためにマックに買出しに出かけていた女の子
が帰ってくると、一人の大男が「もう後ろからきた奴を通さない。彼女を通す
んなら、俺だって前に行きたい」と喚き始めた。女の子は泣きそうになり、周
りが文句を言って、女の子を先に行かせたが、彼も数メートル強引に進んできた。

 私も懸命に彼に説明したが、埒があかない。人々が、後ろから割って入って
くる人(たとえばA)を黙って先に行かせるのは、Aが以前、前のほうにいた
のだろうと思うからだ。もちろん直接的な証拠はない。後ろのほうにいる人た
ちはそれを疑うことができる。しかし少なくともAの周りにいた人たち(たと
えばB)は彼がいたことを証言できる。Bの存在はCが、Cの存在はDが証言
してくれる。

 むろんミニマルに見れば、隣同士で少しでも前に行こうという小競り合いな
どはあるわけで、「人類愛に満ちたタイトな共同体」などは望むべくもない
が、巨視的に見れば、こうして我々は間接的な信頼によってルースな秩序を保
ちつつ、一つの「共同体」を構成しているわけだ。

 カントの永遠平和の理論を思い出させる状況だ。我々は麗しい人類愛によっ
て、戦争のない永遠平和を達成するのではない。幾度も際限なく続く戦争に徐
々にうんざりして、ルースながら大波乱のない無戦争状態へと巨視的に見れば
至るはずだ、と。

 さらに快い驚きだったのは、大男が突然、それまで口論していた人々に謝っ
てその人々を前に行かせ、自分は後ろへ下がったことだった。統制的理念の勝
利だね、と件の女の子に言いたかったけれど、「うまく片がついてよかった
ね」とだけ言っておいた。

 こうしてカメルーン人、インド人、中国人、あらゆる国のアラブ人、スロ
ヴァキア人などと喋りまくって、4時まで待つ間に、へとへとになってしま
う。ようやく扉まで数メートル、僕の前には三十人、入れるか入れないか微妙
なところだ。

 ようやく中の様子が見えてくる、と思いきや何も見えない。ガラス扉の中に
もうひとつ鉄の扉があって、ぴったり閉められている。カフカの「法の門番」
を思わせるな、と思っていると、本当に数人の警官が数十分に一度出てくる。

 威圧的な態度と、いかなる懇願も受け付けない冷酷無比もそっくりだ。入り
口までもうすぐのところにいるというのに、時間は無慈悲に過ぎて行く。我々
はますます焦り、後ろの人々はますます強く我々を押してくる。扉を開けるた
めに、警官は人々に「下がれ」と怒号するが、人々はわずかに開いた隙間から
中に飛び込もうとする。扉をはさんで奇妙なおしくら饅頭が続く。人々も警官
も考えていることは同じなはずなのに、やっていることはそれぞれ正反対なのだ。

 そのうち、キレた警官の一人が警棒を振りかざし、扉はまた閉じられた。ま
だ4時10分。あと二十分ある。かなりの人々が諦めて帰り始めたおかげで、4時
20分には私は列の先頭、扉の真ん前にいた。扉の前には諦め切れずに残ったニ
十数人。すぐ後ろの人なつっこそうなアジア人のおばさんが「あんた、ラオス
語喋れる?」と聞いてくる。私はアジア人だけど、残念ながらラオス語は喋れ
ない、とフランス語で答える。

 彼女がなおも私の隣にいる巨漢太っちょアラブ人を指して「リアン、リア
ン」と言うので、「困ったな、ラオス語分からないんだけど。rien(何に
もない)って言いたいのかな」と太っちょに言うと、太っちょが「彼女は、僕
の髭を指してlion(ライオン)って言ってるんだよ。僕はアジア人じゃないの
に、君よりラオス語が分かるよ、きっと」と皆を笑わせる。

 あと五分というところで、また別の思いがけない青年と出会う。去年の年末
の火事のとき僕たちを助けてくれた同じアパートの住人だった男だ。彼も私た
ちも、その後、神経症的につらくあたるようになった大家さんにうんざりして
アパートを出たのだった。「お互い大変だったね」「今もね」と慰めあってい
ると、4時半になる。

 県庁に書類を取りにきたのに、したことと言えば見知らぬ異国の友たちとの
おしくら饅頭だけであり、見たものといえば紅潮した警官たちの怒りの形相だ
けだ。書類には指一本触れることもなく、役人の顔すら見ていない。

 こうして人々は肩をすくめて散り散りに散っていく。数時間だけの名もなき
共同体は、跡形もなく掻き消えていく。そして明日も同じ事が繰り返される。

 共同体とはそもそも本質的に、このような形であるものではないか。
 ちなみにブルシエやら交換留学できている人たちには優遇措置があるよう
で、彼らはこの貧しい共同体には参画していない。Tant mieux pour eux !
 私は明日、5時に家を出る。そういうわけでこのメールが皆さんのもとに今
届くわけです。

Tuesday, October 01, 2002

Communitas (2)

>isさん、

 エスポージト、ご指摘どうもありがとうございました。生年は、参照したサイト(末尾に付記)に書いてあったので信じてしまったのですが、おそらくおっしゃる通りなのでしょう。やっぱりもっとちゃんと確認しないといけませんでしたね。

 名前の問題(より正確に言えばカタカナ表記)はいつも厄介です。実はついさっきまで、とあるsoutenanceを見物するためにパスカルの生地、ベルクソンの第二の故郷、クレルモン・フェランに行ってたんですが、主査である気鋭の現象学者Renaut Barbarasの名前なんか、「バルバラ」「バルバラス」(こっちが主流)と審査員たちの間ですら呼び方が違ってたくらいですからね。


(ちなみにこのバルバラス、要チェック人物です。)

 日本語でも「コージン」なのか「ユキヒト」なのか分からないことはありますが、最近の本は著者紹介や奥付などでほとんどの場合発音は確認できますからねえ。

 アガンベン、来年1、2月にパリのEPHEで、宗教と政治に関するセミナーを開くそうですから、よろしかったらどうぞ。

***

 ところで、まさにこの接触・「汚染」の危険に対して、近代哲学は防衛的な免疫機制(immunity)を作動させてきた。

 immunityは現在ではまず医学用語として定着しているが、その語源Immunitasは、「munusを免れた」という意味で、元々は、貴族や聖職者などの免責特権・義務免除などに用いられた法律用語であったのであり、それが後に医学用語に転用されたのである。

 immunityは、 例えば我々が他者と予期せぬ接触をしたとき、見知らぬものから突然触られた時に覚える動揺のようなものかもしれない。我々の個人としての同一性を確保する ことで我々を守っている、他者に免疫をつける境界線が危険な形で踏み越えられた、と感じるからだろうか。核削減の後、移民問題が我々の社会にとって最大の 危険の一つとみなされているという事実は、我々が「共同体」のもともとの考えからいかに隔たったところにいるかということをよく示している。

  このような漠然とした 「免疫」感覚は、さらに、最新の医学的な知識で身を固めることで、強固な似非科学的イデオロギーに変貌する。免疫学が医学的にのみならず、社会的・法的・ 倫理的果たしている役割を考えてみるとよい。延命をめぐる近代の戦いはすべて、「免疫」というこの象徴的かつ現実的な最前線で交わされているのである。

 communityが同一性の防護的な障壁の破断であるとすれば、immunityは、危険をもたらしうるあらゆる外的要素に抗する防御的かつ攻撃的な形で、それらの障壁をたえず再建しようとする試みである。我々が住んでいる社会を

communityと呼ぶのであれば、immunized communityとでも呼ばねばならないだろう。現在政治哲学における最大の課題は、あらゆる領域で進行しているこのimmunizationに抗して、いかにcommunityを考えるかにある。

(最後に、やはりこの似非語源学的手法の致命的欠陥を簡単に確認しておく。まず、この議論は、印欧語族系以外には通用しない。次に、印欧語族系でも、旧来持っていたcum munusという意味が「なぜ」回復されるべきなのかは、必ずしも自明ではない。)

*

 以上、"Communitas"序論を要約したエスポジートの講演

http://www.geocities.com/joaojosefonseca/filosofia.htmを、大雑把に要約してみました。いずれ、バタイユとハイデガーを論じた本書最終章などを別個に取り上げて、ご紹介するつもりです。

Saturday, September 28, 2002

Communitas (1)

 またまた待っている間に。

***

 ロベルト・エスポージトの"Communitas"(伊版1998年、仏訳2000年)を紹介してみたい。

 Roberto Esposito (1960-)は、イタリアの政治哲学者。ナポリの東洋研究所の政治学部で政治哲学を、同じくナポリのスオル・オルスラ・ベニンカーサ研究所で道徳哲学を教えている。とりわけ数多くの雑誌や叢書の編集で活躍中。著書に『政治(学)の起源』(1996年)、『政治(学)を超えて。非政治学的思想アンソロジー』(1996年)など。


 位置的にはアガンベンにきわめて近いように思われる。つまり、デリダ 派、とりわけナンシーから着想を得て、政治哲学の古典的なテクストを読み直すというスタイル。アガンベンが隠れハイデゲリアンだとすると、エスポジート は、彼の提唱する「非政治学」の頂点に位置するのがバタイユであることからも分かるように、はっきりとバタイイアン。

 しかし、今回導入部としてご紹介する本書の序論「共通のものは何もない」は、手法的にはハイデガー的。つまり、表題"Communitas"が ラテン語であることからも予想されるように、似非語源学を駆使して、現在用いられている語にこびりついた近代的偏見を削ぎ落とし、その語本来の輝きを取り 戻すというものである(この手法にはある致命的な欠陥があるのであるが、それは以前指摘したと思うので、措くとしよう)。具体的にはどういうことか。

 「共同体community」という言葉から連想されるのはふつう、「複数の個人によって共有される所有物property」(それが土地であれ、宗教であれ、民族であれ)といったものである。この観点からすると、「共通common」とは、「あるグループに固有のものであって、別のグループに属するのではない」ということであって、共同体は、所属・同一性・集団所有物というタームで考えられている。

 ところで、辞書を調べてみると分かるが、「共通common」とはまさに「固有proper」とは正反対のものである。共通のものとは、みなの(あるいは大多数の)ものである以上、誰かに固有のものではない。私的で個別のものではなく、公的で一般的なものなのである。したがって共通は、同一性ではなく、他性と関係するのである。

 語源的に見るともっとはっきりする。Communitasは、cum (=with) + munusである。munusと は、あるものが他者のために遂行せねばならない「贈与」「義務」「ミサ」などを意味する。つまり、共同体という考えの起源には、共通の所有や所属などと いったものがあるのではなく、我々を他者に対して拘束する何かがあるのである。所有するというよりは、収用されるのである。所有でなく負債。同一性でなく 変質。我々が自分というものの中に閉じこもるのでなく、自分固有の利益から抜け出すよう、我々を促すもの。したがって、共同体とは、諸個人が(国・宗教・ 民族といった)より大きくより強力な「個」へと溶け込んで出来上がるようなものとして考えられるべきではない。

  「共同である」ということは、「我々に似ている、我々に属している」ということよりもむしろ「我々とは異なっている」ということと関係している。すぐにそ れと識別可能なものとではなく、最初は我々にとって外的で異邦人的なものと関係している。共同体とは本来的に、似通わぬものたちの共同体であるはずなので あり、「我々」とは異なる者との接触、それによる差異・変質を体験できるという可能性と危険に開かれた共同体であるはずなのである。

(続く)

Thursday, September 26, 2002

東浩紀と大学教育

2005年の註:いくら内輪でしゃべっていた軽い調子のメールであるとは言え(その事は冒頭の部分から十分に窺われる)、今ならもうこんな論の立て方はしないだろう。そもそも、人にない物ねだりをするより、自分にない物ねだりをすべきだと思うからだ。しかし、彼の状況論とそれに対する処方箋への不満、「エリート養成機関」に関する考えは今も変わっていない。

***

kさん、どうもありがとうございます!

 kさんのお話にはきっと他の方々からもいろいろなレスポンスがあるでしょうから、それを待ちつつ、少し前に出た東浩紀さんの話をもう少し。

*

 東さんは「オタク」「批評家」の他に「哲学者」とも名乗ってますが、彼がそう名乗っていいんなら、私は「精神分析家」とでも名乗ろうかと思ってしまいます(笑)。「哲学者は教養ではない」と仰る方もいらっしゃるでしょう。たしかにピアニストであるためにコンセルヴァトワール出である必要は少しもありません。が、少なくとも(ジャズでもクラシックでも構いませんが、その領域の)レパートリー・奏法を一通り知っている必要はあります。

 駒場・表象の教官たちは、もっと哲学の勉強をするように東浩紀を真剣に引き止めるべきでしたよね。ほんと、エネルギーがあるだけにもったいない。ああいう逸材をまともな哲学者に育て上げられないのは、大学教育の怠慢であり、哲学界の損失ではないでしょうか。

 東さんが反逆者を気取りたいなら気取らせとけばいいんで、彼を「立派な」反逆者に育て上げるためにあらゆる策を講じて東大内に留めおいて学問的に鍛え抜く、という寛大な措置を取れる度量の広い人物が駒場にいなかったのかな。今の彼は、悪い意味で自由に逃げられる位置から好き放題を言っているにすぎない。

 私はこの点、「国家のイデオロギー装置」としてのエリート養成機関に多くを期待し要求しています。(詳しくはまた別の機会に)

 ここでは、とりわけ彼の状況認識を取り上げてみます。

 彼の書き方が十分に哲学的・コンスタティヴでない、と言われれば、東さんは「ジャーナリズムとの俗情の結託を怖れず、パフォーマティヴにやらねばならない」と言うでしょう。逆もしかり。しかしジャーナリスティックな書き方でもコンスタティヴでありうるはずだし、アカデミックな書き方をしていても(仲間内への目配せ程度の)パフォーマティヴな効果しかない、ということもある。

 結局、「面白いテクスト」が多く流通していかない日本(あるいはポストモダン社会)に特有の条件を探るための分析手段として、ジャーナリズム/アカデミズム、コンスタティヴ/パフォーマティヴといった二項対立は必要十分なのか、という当然吟味されるべき諸前提自体への懐疑が東さんには欠落しているように思えるのです。

 それだけではない。きわめて疑わしいそのような二項対立の設定自体に対して向けられるべき懐疑が欠如しているうえに、そのような二項対立を乗り越えて見せる(あるいは両方を駆使する)という仕草自体がきわめてパフォーマンスに乏しい。そんなことは「現代思想」関係者の誰もが言い、やっていることではないか。東さんの状況論は、コンスタティヴにもパフォーマティヴにも失敗しているのではないか、自分の事は棚に上げておいて言うならば、そんな風にすら思われます。

Saturday, September 07, 2002

feu Imago

 こんにちは。hf@リールです。

 湾岸戦争以降、イラク南部に引かれた「飛行禁止空域」というのは、私にはずっと理解できないままです。

ssさん、

 ご丁寧にありがとうございました。今後もよろしくお願いします。

おっしゃってる雑誌は [Der] Morgen でしょうか。

 私もそう思いたいところなんですが、私の指導教官が書いたベルクソンの自伝には、"Die" Morgenと書いてあるんですよね。まあ彼、自称ドイツ語できることになってるんで聞きにくいんですけど(笑)、今度聞いてみます。

mgさん、

 iさんのサイト見ました(笑)。哲学的なパースペクティヴが致命的におかしいということですね。でも、私は大学教員と学振生に厳しく、塾・予備校講師に甘いです、党派的に(笑)。

***

 この間は偉そうに要約紹介なんぞしてしまいましたが、実は邦訳があったということに後から気づきました。

「地球精神分析(ジェオプシカナリーズ)」

吉田可南子訳、『imago(イマーゴ)』5月号 第5巻第6号,頁 p.214-236.青土社:1994年5月

 今は亡き(ですよね?)イマーゴ・・・

 この情報の元ネタである以下のラカン派書誌も、よかったらどうぞ。

http://www1.ocn.ne.jp/~lsj/biblio/article/article6.htm

*

 最後に次回のためにさりげなく前フリを。

フランス精神分析主要人物小事典

http://pages.globetrotter.net/desgros/auteurs/galerief.html

(ケベックの分析家が作成したらしいこの事典、仏分析史の主要人物をほぼ網羅していて、なかなか便利です。特に写真は貴重かも。

 ミレールの正統ラカン派からも距離をとっているようで、その意味では「中立」と言えます。

 最低限の仏語の知識でも、辞書と首っぴきで頑張れば読めます。)