Monday, September 10, 2007

場の論理

ある場所を立ち上げる時はいいのだけれど、既存の場所をいかによりよくしていくか、という問題は非常にデリケートだ。すでにatmosphèreがあるからである。

「よりよく」というのは必ずしも「今までが悪かった」ということを意味しはしないのだが、往々にしてそう受け取られてしまう危険性を孕んでいる。

そう受け取られたとき、誰か特定の人(々)を恨んでみても始まらない。それぞれの場の論理というものがあり、言ってみればそれぞれのgenius lociが働いている以上は。

変えること、進むことばかりが重要なのではない。引くこと、擱くことが必要なときもある。

引くこと、擱くことばかりが重要なのではない。変えること、進むことが必要なときもある。

正しい答えなどあるのだろうか?けれどそれを探す真摯な試行錯誤の道のりだけが、唯一信じられるものであるように思える。

*

とはいえ、「善意の押し売りほど有難迷惑なものはない」ということもしっかり胸に刻みつけておかないとね(笑)。

Thursday, August 23, 2007

マンモスの創造的進化

ヤフー・フランスのトップニュースのタイトルの付け方はいつも少しひねってある。例えばこんな感じ(今回はひねりが少ないけれど)。


Le mammouth comme cible
L’Éducation nationale attendait la nouvelle avec anxiété. C’est maintenant officiel : 11 000 postes ne seront pas remplacés en 2008.


日本だとこんなときに用いるのは「象」だろうか。この手のニュース解説を日本語で読みたい方は、penses-bêtesの友人Kiyonobu TedoさんのブログKiyonobumieからたどっていかれるといろいろな発見があることでしょう。

大学にかかわる限り、教育の問題を考えずに避けて通ることはできない。知的興奮を誘う新たな制度的創出によって、事態を少しずつ変えていこうとする努力もまた、真に哲学的な営為に属するとなぜ分からないのだろうか。人を鍛錬系、啓蒙主義者などと揶揄するだけでは一インチたりとも先に進んだことにはならない。



Environ 11.000 postes pas remplacés dans l'Education en 2008
Reuters - Mercredi 22 août, 20h13
PARIS (Reuters) - Environ 11.000 postes ne seront pas remplacés à l'Education nationale en 2008, annonce Xavier Darcos.


Le ministre de l'Education précise dans un entretien à paraître ce jeudi dans Paris Match que seul le second degré connaîtra une baisse de ses effectifs et que les non-enseignants seront, en proportion, les plus concernés.

"L'Education nationale, qui représente à peu près la moitié de la fonction publique, participera pour moitié à l'allègement de 22.700 suppressions d'emplois dans l'Etat l'an prochain."
"Donc environ 11.000 fonctionnaires partant à la retraite ne seront pas remplacés", dit-il.

Dans le premier degré, l'Etat compte créer environ mille postes chaque année.

"Dans le second degré, il y aura des départs à la retraite non remplacés: ce sont, en proportion, les fonctionnaires non enseignants -cadres, agents techniques ou administratifs-, qui représentent 20% des postes, qui seront le plus concernés", précise le ministre de l'Education.

Il attend 25.000 élèves de plus dans le premier degré et 25.000 de moins dans le second, soit au total 6,7 millions d'élèves en maternelle et en primaire et 5,4 millions dans les collèges et lycées.

Xavier Darcos estime qu'"on ne manque pas de professeurs", la France en comptant 83 pour 1.000 élèves dans le secondaire contre 66 en Allemagne et 60 au Royaume Uni.

"L'offre d'options est à revoir", ajoute-t-il, car "on compte sur le territoire 500 professeurs d'allemand sans élèves. Même situation pour le portugais. De même pour certaines options désertées dans certaines sections professionnelles".

Xavier Darcos déclare également qu'alléger les emplois du temps "est d'autant plus nécessaire qu'il n'y a pas de corrélation entre le temps passé et la réussite".

"Comme tous les pays du monde, la France doit rationaliser les études, avec plus de suivi individuel et moins d'options", dit-il.

"Attention, en particulier aux filières sans débouché évident. Je pense à 'ES' (économique et social). Elle attire beaucoup d'élèves qui occupent ensuite de grands amphis mais se retrouvent avec des diplômes de droit, psychologie, sociologie... sans toujours un emploi à la clef", poursuit-il.

Thursday, August 16, 2007

打率

問題というのは本当に思わぬところから起こってくるものだ。自分ではずいぶんいろんなことに注意もし、できるかぎり問題の起こらないよう配慮してやっているつもりだが(それを感じ取ってくれている人々もいることでしょう)、それでもやはり問題は生じてくる。というか、こういうことにきりはないのだ。いつでも、どこにでも問題は突如生じうる。

そして、問題が起こったからといって、研究のほうが待ってくれるわけでもない。プロの世界では結果がすべてだ。

最近、打率ということをよく思う。研究は日々の積み重ねだ。一打席、あるいは一試合、素晴らしい打撃をしたからといって、それが何だろう。コンスタントに打つ、トータルでいい成績を残すこと。それがまずは一軍に定着し、スタメンに名を連ねる条件だろう。

「打率」、日々の積み重ねとは、試合のことだけではない。日々の練習をより効果の高いものにし、より効率よくこなすことも意味している。若いうちは体をいじめ抜け、それが最終的に長くプロ選手をやっていくうえで土台、貴重な財産になる、とスポーツでは言われる。高校野球のスターのうち、何人がプロ野球の一流選手になっただろうか。研究も同じだと思う。

(体をいじめ抜く、とはもちろん、過剰な練習で体を壊すことを意味しない。しかし、自分がこれまで限界としてきたことを超えようとする作業ではある。どのみち、私は、研究のやり過ぎで体を壊すほど真面目な人間ではないので、これはあまり関係ないが。)

日々の練習は、実は、ベテランになっても続く。若手の練習は実力を伸ばすためのものだが、ベテランの練習は、実力を維持するためのものだ。今の体力、それに支えられた技術を維持するために、体をいじめ抜くのである。

*

今、自分は二流選手だと思っている。今まで論文掲載を拒否されたことは一度もないし、奨学金やプロジェクトの申請もまずまず受かっているので、まったく無能、三流だということではないのだろう。

ポカもあるが、要所要所ではそこそこのバッティングをする。けれど、それでは駄目だ。日々の努力が足りない。もっと努力できるし、もっと自分を追いつめることができるはずだ。ところが、それが出来ていない。

一流と二流を分かつ差は、才能ではなく、努力だと思う。いや正確に言えば、できうる限りの努力をできる才能だ。今のところそれが足りない。欠けているとは思わないが、まったく不十分だ。

これはとても歯がゆい。長距離走のときの歯がゆさに似ている。力尽きた、もう駄目だと思って、歩くようなスピードで走っていたのに、ゴール近くで待っている人たちの声援を受けると、自然とラスト・スパートができる。問題はおそらく、経験不足から来るペース配分ミス、そして何より意志の弱さだったのだ。

*

けれど、そこで終わりではない。一軍に定着し、活躍することのさらに上がある。

三割打者はすでに一流の証である。試合に勝てばそれでいい、自分の打率は二の次だ、そういう考えもある。けれど、そこに安住しない選手もいる。

勝とうが勝つまいが、一打席一打席ベストを尽くす。三割に満足しない、試合に勝つことに満足しない、それこそが超一流と呼ばれる選手だろう。そこに到達するには、まだまだ何もかもが足りない。

今は自分をもっともっと伸ばす時期。がむしゃらにやればいいというのではない。若さで押し切る時期は終わってしまった。決然とした意志と、明確な目標を持って日々の練習に取り組むことだ。

いずれは、自分の研究時間を確保し、現在の実力を保つだけで精いっぱいという時期がやってくるのだろう。しかし、それはベテランと呼ばれる選手たちの問題だ…。ベテランにも「打率」の問題はやはりつきまとうのである。

Wednesday, August 08, 2007

ベルクソン『創造的進化』研究HP

ようやく出来上がりました。

http://www.cms.k.hosei.ac.jp/project-Bergson-Japan/

まだ立ち上がったばかりの段階ですが、これから少しずつ充実させていく予定です。ご尽力いただいた(ている)nsさんに深謝。

また、Link欄から、ポスターにアクセスできます。

Thursday, July 19, 2007

頭痛のタネ、友情の種

もうメンバーも内容も会場も決まって、秋のシンポジウムは一段落した、と思われているかもしれないが、とんでもない。ここに来て急に問題が持ち上がっていた。

ここ数日、自分の研究をほっぽり出して(赤ん坊や家事は放置するわけにはいかないので)、純粋に不毛なやりくり算段に埋没していた。

問題を解決しようにも、フランス人は今まさにバカンスに出発する(した)時期である。なんでこんな時期に!

特に頭が痛いのは、近頃ユーロが強すぎるということ。どう処理すれば一番効率的なのか。こちらにもきちんと検討するゆとりが欲しかったが、緊急処置を要する問題でもあり、そういうわけにもいかない。

本当はある程度詳細を書いたほうが後進の人の参考になるだろうとは思うのだが、ちょっとデリケートすぎる。紆余曲折の末、事態はようやく今日になって、収束の方向に向かっている。

一言だけ言えば、誰が相手であれ、いかに耳の痛い真実であれ、言うべきは言う、そういう関係を世界の研究者とこれからも維持していきたいと思っている。

このconsternantな問題の中で唯一嬉しかったのは、アジア人の知的・財政的協力者がおとこ気を見せてくれたことだ。彼とはウマが合いそうな気がしている。長期的な視野に立って、より一層の連携を深めていきたい。


地下鉄初乗り1000円!=英ポンド、対円で高騰
7月18日6時1分配信 時事通信

 【ロンドン17日時事】ロンドン外国為替市場で17日、英ポンドの対円相場が上伸し、一時16年ぶりに1ポンド=250円を突破した。日英両国の金利差が、ポンド相場上昇の背景。ロンドンの地下鉄初乗り料金(4ポンド)は、円換算で1000円を超え、日本人観光客や円を基準に給料を受け取る駐在員からは、日本との価格差の広がりに、悲鳴も上がっている。

2007/07/13-11:44
円、対ユーロで最安値更新=一時、168円95銭

 13日午前の東京外国為替市場の円相場は、内外の金利差に着目した円売りが進み、対ユーロでは一時、1ユーロ=168円95銭を付け、169円台目前に迫るなど、9日に付けた史上最安値168円55銭を更新した。午前11時現在1ユーロ=168円78-79銭と前日比52銭の円安・ユーロ高。

 日銀の金融政策決定会合での政策金利据え置きを受け、改めて内外の金利差が意識され、金利の低い円で資金を調達しユーロなどの高金利通貨で運用する「円キャリー取引」が活発化。円は、英ポンドやオーストラリアドルに対しても売られる全面安の展開となった。

 円は対ドルでも続落。午前11時現在、1ドル=122円46-47銭と前日比41銭の円安・ドル高。ユーロ・ドル相場は、1ユーロ=1.3781-3782ドル(前日1.3785-3786ドル)。

Wednesday, July 18, 2007

現役復帰(学問における)

私自身、若い人だけでなく、少し年を取ってなんとなく元気がない、研究の動機を見失いかけている(ようにも思われる)人たちにも積極的に声をかけていくことで、もう一度奮い立ってもらえればと思っている。願っているだけでなく、実際そのために動いてもいる(そのうち明らかになるだろう)。

もちろん一度失いかけた情熱を取り戻し、その間に蓄積された情報量をキャッチアップすることは簡単なことではない。だが、また、不可能でもない。

また、もちろん一研究者としては、そういうプロモーター的な仕事でなく、自分自身の研究の中身が一番大事なわけだが、それだけに閉じこもりたくはない。どれほど忙しくても。


【HERO'S】船木誠勝「桜庭や田村の試合を見て現役復帰を決意した」
GBR 格闘技WEBマガジン - 2007/7/17 14:19

 7月17日(火)都内ホテルにて、TBS主催『OLYMPIA HERO'S 2007 ミドル級世界王者決定トーナメント開幕戦』の一夜明け記者会見が行われ、大晦日での現役復帰を発表した船木誠勝(ARMS)が心境を語った。

 会見はFEG谷川貞治代表による、復帰までの経緯説明から始まった。「船木さんはHERO'Sの旗揚げ戦から中継の解説の仕事をしてもらっていて、当時はパンクラスを離れてフリーとしてタレント活動されていました。格闘技から離れているということで、私から『また(格闘技を)やりたくないですか?』と軽くお願いしたことはありましたが、正式なオファーをしたことはありませんでした。

 ところが柴田選手の練習を見たり、試合を見ているうちに火が着いたんだと思いますが、半年ほど前に船木さんの方から『格闘技をもう一度やりたい』という話を受けました。そこで(現役復帰が)本気かどうかを確認して『明日の大会で発表してもいいですか?』と聞いたところ了承がありました。ですから前田さんに船木さんの復帰を話したのも大会前日でしたし、細かい話合いはこれからです。

 私も船木さんが練習されているという話を聞いて、ある現役の有名格闘家から『かなり強い』ということや、そういう選手たちも極めてしまうという話も聞きました。それだったら(現役復帰も)大丈夫だろうと。ただし7年間の空白がありますから、調整のためにも大晦日がいいということになりました。

 船木さん、桜庭選手、田村選手は、グレイシーと闘いながら、プロレスファンに夢を与えて、名勝負をやって、総合格闘技を日本でブレイクさせた世代です。そんな船木さんのために最高の舞台、場所や相手を一生懸命用意したいと思っています。

 船木さんたちの世代があり、それから宇野選手たちの世代につながっている。船木さんたちはメインイベンターとしての風格を持っていると思います。そして下の世代の人たちにもいい刺激になると思います。また選手としては大変だと思いますが、総合格闘技の現状に立ち向かって欲しいです」

 谷川代表の言葉を受けて船木が挨拶。復帰を決意した理由を自らの口から語った。「桜庭選手がHERO'Sに参戦することになり、自分は解説席から見ていたのですが、選手としてはもう潮時だとうと思っていました。しかしそれでも桜庭選手は闘っていて、それを見て心が動きました。また今年の頭に柴田がデビューするということになって、柴田を通して現役の選手としてリングを見て、自分もやらきゃいけないと感じました。

 Dynamite!! USAで田村選手と会って、もし桜庭選手が欠場した場合にはホイスと闘うというオファーを受けていたと聞きました。同年代の選手たちが身を削ってやっているのに、それを解説席から批評するにはやりきれなかった。LAから帰ってきて、柴田と一緒に色んな選手たちとスパーリングをしても、まだ力が残っていると感じます。それで上がるリングがあるのであれば、もうやるしかないだろうと。それで現役復帰の話をしました。

 昨日もリングに上がって挨拶をしましたが、自分のことを知らない人もたくさんいると思います。でもリングの中は100%選手のものです。その選手の生活やすべてリングに出ます。ありのままの自分を出せば、損をさせない自信はあります。若い選手たちにも『何であんなヤツが』と思って、牙を向いてくれたらいい活性化にもなるでしょう。

 またアメリカにとられた日本の総合格闘技のいい部分を作り直したい。今は日本が作ったものを、アメリカでお金で持っていった。だったらもう1回自分たちで作り直せばいい。2,3年かかるかもしれませんが、不可能だとは思いません。これからは大晦日に向けて、100%選手としての生活に入りたいと思います」

 そして挨拶を終えた後は記者からの質疑応答に答え、今後の選手活動のビジョンを明かした船木。質疑応答の最後には前田日明HERO\'Sスーパーバイザーが船木の復帰についてコメントし、「色んな意味で期待している。思い入れのある選手なので、協力してやっていきたい」と激励している。

Sunday, July 01, 2007

謝罪

6月27日の本ブログで、「フッサール業界のある若手の人」のことを話した。ご本人から「訂正」を求めるコメントをいただいた(同日分コメント欄参照のこと)。要点は以下のとおりである。

・たしかに自分は「指導を受けたい人がいないので、行く必要は感じない」という趣旨のことを言ったが、続けて「しかし外国語で書いていく必要はある」と言おうとしたのである。

・実際、自分は英語で発表もし、書きつつもあるので、「外国語で書かない」大学院生と同一視されるのは不本意である。
 
おっしゃることは全面的にもっともです。

したがってここで明記しますが(また、同日分のブログに変更と分かる仕方で変更を加えますが)、

・「指導を受けたい人がいないので、行く必要は感じない」と言うことと、「世界に向けて発信する必要はない」「外国語で書く必要はない」と言うこととは必ずしも同じではないこと、

・今、真意を伺い、また英語で書こうと鋭意努力されていることを伺って、上記二項を同じだとしたのはあくまでも私の拙速な判断であったこと

を認め、私の認識・記述を訂正致します。また、せっかく努力されている矢先に、私の不用意な発言で精神的なご不快を被られたことに対しても、ここに深くお詫び申し上げます。

Friday, June 29, 2007

『創造的進化』百周年・日本篇詳細

■「生の哲学の今―ベルクソン『創造的進化』刊行百周年記念国際シンポジウム」
(2007年10月16-20日)

ベルクソン『創造的進化』刊行百周年記念国際シンポジウム実行委員会主催,
在日フランス大使館・関西日仏学館・ベルクソン哲学研究会・法政大学・学習院大学後援

第1日:『創造的進化』の哲学
10月16日(火)学習院大学 創立百周年記念会館小講堂
開会式(10:00-10:30)
セッション1(10:30-12:10)
 フレデリック・ヴォルムス(リール第三大学)+杉山直樹(学習院大学)
セッション2(14:00-15:40)
 ジャン=クリストフ・ゴダール(ポワチエ大学)+藤田尚志(日本学術振興会)
セッション3(16:00-17:40)
 ピエール・モンテベロ(トゥールーズ第二大学)+平井靖史(福岡大学)
全体討議(17:40-18:30)

第2日:哲学史・科学史の中の『創造的進化』
10月17日(水)法政大学 スカイホール(ボアソナードタワー26F)
開会式(10:00-10:30)
セッション1(10:30-12:10)
 ジャン・ガイヨン(パリ第一大学)+安孫子信(法政大学)
セッション2(14:00-15:40)
 ポール=アントワーヌ・ミケル(ニース大学)+金森修(東京大学)
セッション3(16:00-17:40)
 アルノー・フランソワ(リール第三大学)+ミシェル・ダリシエ(パリ中国・日本・チベット文化研究所)
全体討議(17:40-18:30)

第3日:『創造的進化』と現代思想
10月20日(土)京都大学 文学部新館第3講義室
開会式(10:00-10:30)
セッション1(10:30-12:10)
 ジョン・マラーキー(英ダンディー大学)+檜垣立哉(大阪大学)
セッション2(14:00-15:40)
 マイケル・コルクマン&マイケル・ヴォーガン(英ウォーウィック大学)+合田正
人(明治大学)
セッション3(16:00-17:40)
 スザンヌ・ガーラック(米カリフォルニア大学バークレー校)+守永直幹(宇都宮
 大学)
全体討議(17:40-18:30)


■関連企画(東大グローバルCOE「死生学の展開と組織化との共催)
在日フランス大使館・ベルクソン哲学研究会後援
ワークショップ「生の哲学の彼方 ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』再読」
10月18日(木)東京大学 文学部教員談話室

開会式(10:00-10:30)
セッション1(10:30-12:10)
 岩田文昭(大阪教育大学)+杉村靖彦(京都大学)
 [レスポンス]フレデリック・ヴォルムス(リール第三大学)
セッション2(14:00-15:00)
瀧一郎(大阪教育大学)
 [レスポンス]アルノー・フランソワ(リール第三大学)
セッション3(15:20-17:00)
 鶴岡賀雄(東京大学)+中村弓子(お茶の水大学)
 [レスポンス]ジャン=クリストフ・ゴダール(ポワチエ大学)
全体討議(17:00-18:00)

Thursday, June 28, 2007

すしボールの憂鬱(それにもめげず)

何度でも繰り返し言わねばならないのは、それだけ病根が深いからでもある。

フッサール業界のある若手の人が「世界(ドイツ)に出ていく必要を感じない。ついて学びたい人も特にいない」と言っていた。こういう趣旨の発言は、ベルクソン業界でも、ついこの間まで聞かれた。

[以下に読まれることの中で、問題とされている「フッサール業界のある若手の人」に関する記述は、私が6月27日時点で下していた拙速な判断に基づいて書かれており、したがって事実認識の部分に誤りがあると判明した。必ず本項目コメント欄における氏の反論と、6月30日付の私の「謝罪」を併せ読んでいただきたい。重ねて氏にはお詫び申し上げる次第です。]

しかし、重要なのは、その人が世界のフッサール研究をいかに認識しているかではなく、その人を世界のフッサール研究がいかに認識しているか、なのだ。[氏はすでに英語で発表され、英語論文も用意されているとのことである。]

いかに正確な世界のフッサール研究の見取り図を自分の頭の中に描くか、が問題なのではなく(それはそれでまずは素晴らしいことだが)、世界のフッサール研究がその人のことを知らなければ(評価していなければ)、そういう認識・発言はあまり意味を持たないということをもっと痛切に認識したほうがいいのではないか。[繰り返すが、氏はすでに英語で発表され、英語論文も用意されているとのことである。]

そういう評論家的態度は、これまでの日本の西洋哲学研究に相当程度染みついている(例外も、特にドイツ哲学研究には、多いけれど)。《世界水準は知っているがどうせ大したことはない》ので、《マーケットもどうでもいい》、ただ真理を追究できれば、と。そして、その「真理の探究」はもっぱら日本語で行われる。

だが、世界に向けて書くという姿勢が、哲学には根源的に要請されているのではないのか?そういった基本的な哲学的問いを自らに厳しく問いただすという姿勢が日本の平均的な哲学科大学院生には欠如しているように思われる。自分の語学能力の不足などという学問以前的な理由でその問いを回避し続ける。そのくせ、批評家的態度は保持する。自分に甘く、他人に厳しい。

世界ではまだまだ日本人の思想研究は知られていない。知られても最初のうちは、「色もの扱い」とは言わないまでも、好奇の目に晒されることは確実である。それほど、海外での日本人に対する愚かな(そう、愚かとしか言いようのない)先入観というのは抜きがたいものなのだ。海外で研究するということは、そういう偏見をはねのけながら戦うということも意味している。

一人や二人活躍したって全く不十分なので、野茂やイチローがあれだけ長期間、並みの大リーガー以上の活躍をし続けても、少し別のところで新たに活躍する選手が出てくれば、そいつは依然として「スシ」なのだ。

私がしばしば取り上げるスポーツの譬えがよく分からないという人に日本で研究している人が多く、いちいちよく分かるという人に海外で研究している人が多いというのは、示唆的である。日本で研究している人は、自分がどのような制度にどれほど守られて(規定されて)生きているのか、おそらくあまり意識したことがないのではないか。


米紙が桑田を特集 カーブは「すしボール」
2007年6月27日 (水) 9:51 共同通信社

 米大リーグ、パイレーツの地元紙、ピッツバーグ・ポスト・ガゼット(電子版)が26日付のスポーツ面のトップで桑田真澄投手の活躍を取り上げた。

 記事では、桑田のカーブを「SUSHI-BALL(すしボール)」と命名。のり巻きの具としてボールが挟まっているイラストも掲載された。のりに巻かれ、中身が分からないすしのように、打者に対して予測が不可能なカーブを投げると説明している。

 桑田のボールを一番多く受けているブルペン捕手のアンドラデさんは「ボールの動きはすごいよ」と驚き、同僚のラローシュ内野手も「僕にはチェンジアップのように見える」と話した。

 これまで6試合に登板し6奪三振。日米通算2000奪三振にもあと「14」と迫っている。中継ぎとして良い結果を残している桑田の存在感は地元でも高まっているようだ。(マイアミ共同)

Tuesday, June 26, 2007

Il naquit, travailla et mourut. 宇井純のために

23日土曜日は、午前中「実存思想協会」の発表を聴きに行き、午後「フランス哲学研究セミナー」に出席した。

そういうわけで、出られなかったのだが、東大安田講堂で、昨年十一月に亡くなられた環境学者の宇井純さんを偲ぶ催しが行われた。以下は、「日本環境会議」のHPから一部抜粋。

≪宇井純さんは、公害と環境の研究と運動において、常に「気になる人」だった。宇井さんの言葉と仕事は、ポジティブに、また人によってはネガティブにも、強いインパクトがあった。宇井さんはよく歩き、多くの人と語り、そして仕事をした。昨年11月に宇井さんは亡くなったが、彼のインパクトは多くの人たちの中に生きている。

「公害に第三者はいない」という科学の客観性と公平性に関わる問題提起、「分からなくなったら現場に出ろ」という現場主義、「矛盾している情報を掘り下げてゆくとそこに真実がある」という論理的思考と実証的データの重視、「複数の研究分野をもて」という学際的研究の実践、「どんな立場にいてもやることはある」という連帯への指向など、宇井さんの遺した言葉を、私たちは自分なりに咀嚼し、あるいは批判して、今後に活かす必要がある。そこで私たちは、学問や大学に対する批判も含めて、宇井さんの言葉と仕事が自分にとってどんな意味を持つのかを、宇井さんを直接知らない若い世代とともに考えるための場を企画した。≫

よく歩き、多くの人と語り、そして仕事をする。歩くといっても営業ではないし、語るといっても自己顕示ではないし、仕事といっても業績づくりではない。理念をもった現実主義者。

Friday, June 22, 2007

無様なautomatisme

これも何度も言っているのだが、日本の新聞のスポーツ欄、スポーツ新聞の記事は一般的に――例外もあることは言うまでもないし、これまでにも積極的に取り上げてきた――きわめてレベルが低い。勝った負けたと一喜一憂し、次のスターを仕立て上げることに血眼、まさに「朝三暮四」を地で行っている感がある。

フリーランスで書いている人のもののほうがはるかに世界を知っていて視野が広く、長期的な展望に立ち、技術論にも精通している(スポーツナビのコラム)。そんな高いレベルの話ではないが、一例だけ挙げよう。今回、相手チームの質・モチベーションに言及した記事が一般紙にどれくらいあっただろうか?毎回素晴しい記事を書いておられる宇都宮徹壱さんの記事はこんな感じである。

 昨今、日本で行われる親善試合(キリンカップを含めて)では、あまりにもモチベーションの低い、それこそ「試合後の秋葉原」が楽しみで仕方がないような、およそ「代表」とは名ばかりのチームも決して珍しくない。そんな中、このモンテネグロ代表は、久々に出会った、実にすがすがしく健全な(言葉は変だが)正真正銘の「代表」であった。

[…] ファイナルスコア「2-0」は、順当な結果だったと思う。かつてはサビチェビッチ、ミヤトビッチといったジェニオ(天才)を輩出してきたモンテネグロだが、少なくとも現時点では、モチベーションばかりが先行する新生国家でしかなかった。(宇都宮徹壱、「当てが外れたモンテネグロ戦」)

試合を客観的に「報道」するに際して、日本代表の他の試合、他の対戦チームと比較し、あるいはそのチームの過去のパフォーマンスと比較するのは「イロハ」である。それがなされない。あらゆる点で事前の勉強が不足している。だから、オシムは「どこまで貪欲に上を目指すのか」だの、高原は「さすがエース」だの、いかに感情的な「色」を付けるかに腐心することになる。

特に即座にやめてもらいたいのが次の三つ。
・精神論:「気合いで勝つ」「意地でも」「なんとしても乗り越える」
・スター主義:「神」「神様」「聖地に降臨」
・非合理的な断定:「~が~すれば~という不敗神話は継続中」

こういう無様なautomatismeを読んでいると、彼らは結局、他に書くことがなくて仕方なくマスを埋めているのだということが分かってくる。なぜなら広い視野も、長期的な展望も、解説するのに必要な技術論も持ち合わせていないからだ。

一般読者のレベルに合わせている?読者の知性を馬鹿にしている。こんなものを数十年読まされ続ければ、誰だってスポーツの鑑賞眼が落ちる。

ところが、mutatis mutandis、案外、こういったautomatismeは、私たちの業界とも無関係ではないのだ。

オシムの言葉(6.1会見抜粋)

■悪かった点を話す方が将来のためになる

勝った試合ではあるが、良かったことより悪かったことについて言葉を費やすことが明日のためになると思う。例えばパスミス、スキルの低さ、パスのタイミングが悪いこと、手間を掛けすぎること、ボールが私物であるかのように長い間キープしようとすること、などなど……。それらを直さないと、もっと良いチームにはならない。「今日は勝った、おめでとう」というのはお世辞にしか聞こえない。

■スター選手だけでは、サッカーは前進しない

――個人プレーということだが、個人でドリブルで勝負するときは、そうすべきだと思うか?

 そうしてもいいのだが、タイミング、時間帯、そして目的がよくなかったのだ。タイミングが選手のプライベートな要因で決められたことがあった。チームとして前進している時間帯に、チームのためでなく個人のためにボールを使う。例えばシュートして得点する、あるいはナイスパスを出す、あるいは競技場の大画面に自分がアップで映りたいとか、あるいは試合後に自分のユニホームを振り回しながら競技場を一周するとか――。それもサッカーの一部ではあるのだが、そういうことはチームのためにならないと選手には伝えてきた。日本はスター選手、個人で目立つ選手が人気を集める国だ。しかし、それではサッカーは前進しない。

■水野の才能が、潜在的な才能で終わってはいけない

――水野を入れたときに、相当長い指示をしていた。どういう指示をしたのか

私は水野だけでなく、交代選手にはかなり細かい指示を与えている。思うに、日本代表のフルメンバーとしては、まだ彼は子供だ。才能には恵まれているし、アイデアも溢れるほどある。ただし、そのアイデアに自分がとらわれてしまう。例えば、ここに牛がいるとしよう。ミルクが100リットル必要だ。そこで乳搾りをすればいいのに、牛にボールをぶつけてしまう。つまり、そんなことをしてもミルクが得られるわけがない。牛を見つける仕事までして、そこで成果を台無しにしてしまう。

彼には、効果的なプレーをしろと言いたい。サッカーのプレーをしているというよりも、ボール遊びが好きな選手だから。そういう選手がプロとして、職業としてサッカーをしている選手と混じって出場するわけだ。何に気をつけるべきか、指示したことについては、これ以上話すことはないだろう。彼の才能を、チームのために使わないのはもったいない。それくらいの才能を持っている。ただしその才能が、潜在的な才能で終わってはいけないと思う。

***

これは私たちの業界では何を意味しうるのだろうか。それを探すことが、私の言う「研究外在的な努力」の一つである。

≪欧州での経験が生きた。1メートル90前後のDFを常に相手にするドイツでプレーする中で、大型選手をいかに攻略するかで頭を悩ませた。そして得た答えが「縦への対応ではかなわないが、横の揺さぶりには弱い」だった。モンテネグロの先発DFラインの平均身長は1メートル85・5センチ。得点シーンは一度、相手DFの死角に入り、ファーからニアに流れる“横の動き”でマークを外したものだった。今季はリーグ30試合で11得点を記録し、欧州での日本人シーズン最多得点記録を樹立。ファン選定のチームMVPに選ばれた実力を発揮した。≫(『スポニチ』6月2日付記事より)

Tuesday, June 19, 2007

石板と踏切板(レヴィナスとベルクソン)

≪自由が現実に食い入ることが可能であるとすれば、それは制度によってだけである。自由は、さまざまな法が書き記された石板に刻み込まれる。自由が現実に存在するのは、制度的存在にはめこまれることによってなのである。自由は書かれたテクストに由来する。

テクストはたしかに破壊されうる。だがテクストは、他方では持続しうるのであって、そこで人間のための自由が人間の外で維持される。暴力と死とに曝された人間の自由が、ベルクソン的な飛躍によって一挙にその目標に到達することはない。人間的自由は、自分自身を裏切って諸制度のうちに逃げ込む。

歴史は一個の終末論ではない。道具をつくる動物が自らの動物的条件から解放されるのは、その飛躍が中断され、断ち切られるかに見える地点においてである。つまり、蹂躙されることのない意志として自ら目標に向かう代わりに、道具を製作し、自分の将来の行動の可能性を受け渡し、受け取ることができるもののうちで固定する場合なのである。

このようにして、政治的・技術的な現実存在によって、意志にその真理が保証される。≫(レヴィナス、『全体性と無限』)

*

≪生命の跳躍は、生命に背く構造に到達する。自由は自由自体が見る影もなく変わり果てるある決定的な選択に到達する。なんと人を食った矛盾であることか。生命は自分自身を余すところなく実現するために知性に頼るのに、知性は生命の期待を裏切るのである。

私たちが「器官-障害の弁証法 dialectique de l'organe-obstacle」と呼んでいたものは、すでに受肉の必要性をしっかりと打ちたてている。物質が足かせであるばかりではなく、生命の不可欠な協力者でもあるということを理解する機会は繰り返し私たちに与えられている。

物質は、生命がそれに対抗して自分を主張しなければならない抵抗を毎瞬間表しているばかりではなく、その起源からして、次第に枝分かれしていく進化の道の上に生命的飛躍を自らたわむことによって放り出した踏み切り台でもある。これは、飛躍ないし飛翔のイメージそのものが表現していることである。

おそらくは、たとえ物質が存在しなくともなお生命は存在するであろうが、生命的飛躍は存在しないであろう。物質が存在しなければ、本来の意味での進化は、自由の価値的優越性を増大させるという自らの存在理由を失うことになろう。≫(ジャンケレヴィッチ、『アンリ・ベルクソン』)

Thursday, June 14, 2007

デジャヴ

別に何王子の話でも構わない。似たことはどの業界でも起こっているのかもしれない。世界を知らずに、日本でしか通用しない言動を繰り返す。その場限りの空虚な「フィーバー」をつくりだそうと躍起になって。

長期的な展望に立った、実のある、持続的な業界の活性化には、そのような喧噪とうまく距離をとることが求められる。

雑誌の特集になると決定することが重要なのではない。どれくらい良質の特集にできるかが重要なのだ。しかし、今の私にはそこまでの実力はない。せいぜい自分の寄与が少しでも見苦しくないものになるよう努力するくらいのことしかできない。


ウッズに「ハニカミ王子知ってる?」

 男子ゴルフの全米オープン選手権を前にした記者会見が12日、米ペンシルベニア州オークモントCCで開かれたが、日本のテレビ局がタイガー・ウッズ、フィル・ミケルソン(ともに米国)に対し、「ハニカミ王子」こと石川遼(東京・杉並学院高)について質問。メジャー大会には全く場違いな問いに、世界中から集まった報道陣のひんしゅくを買った。 ウッズには「彼について知っているか」と聞き、ミケルソンに対しては「石川君にメッセージを」などと発言。大勢の記者であふれ返った会見場のあちこちで失笑が漏れ、質問者には冷たい視線が集まった。 (共同) [ 2007年06月13日 09:27 速報記事 ]


遼クン盗聴工作TBS不誠実に主催者激怒
日刊スポーツ - 2007/6/7 9:51

4番ホール第2打の前にはしゃがみ込み元気のない表情(撮影・小沢裕)

 TBSの不誠実な対応に、アマゴルファーとゴルフ団体が6日、怒りをあらわにした。同局の情報番組「ピンポン!」が、15歳ゴルファー石川遼のラウンド中の盗聴を試みようとした問題などで、同局は非を認めながらも井上弘社長(67)はギャグを交えて謝罪。4、5日と関東アマチュアゴルフ選手権で石川と同組で、TBSの非常識な依頼を断った広田文雄氏(43)に対しては、その名誉を棄損しかねない行為を働いていた。同大会を主催する関東ゴルフ連盟(KGA)は、同局に対する法的手段の検討を始めた。 TBSは表面的に謝罪しながらも、その内容はあいまいなものだった。

 午前8時ごろ、「ピンポン!」を管理する制作局情報センター情報一部長の藤原康延氏と番組チーフディレクターが、関東アマ開催会場の千葉CC梅郷Cを訪れた。同30分からKGA加藤重正事務局長らと話し合った。加藤氏によると、2人は広田氏を通じて石川の盗聴を仕掛けようとした行為については謝罪した。だが、番組ディレクターが広田氏に対して謝礼提供を口にしたことには「本人は『言っていない』と言っている。確認できていない」と主張した。

 ほぼ同時刻、番組プロデューサーは、長野県須坂市在住の広田氏の自宅に電話をかけていた。 広田氏 午前8時30分ごろに、プロデューサーと電話で話しました。最初に謝罪の言葉はありましたが、『本当にディレクターはそんなことを言ったんですか』という感じで、とても誠意ある対応とは思えませんでした。このままでは私がウソを言っていることになる。

 夜になって、広田氏は同プロデューサーからアポなしの訪問を受けた。約1時間話し合ったが「ディレクター本人の記憶があいまいで、事実関係を調査中です」と繰り返されたという。謝礼提供の件など広田氏の指摘を、潔く認める姿勢は感じられず、怒りは静まるはずはなかった。

 午後3時からの定例社長会見では、井上社長はこの問題についての感想を「まあ、一言で言えば、ばっかじゃないのかです。まあ大沢親分風でいえば、喝どころじゃない。喝、喝、喝、喝。それ以前のことですな。非常に腹立たしく、不愉快です」。石川に対しては「そりゃもう、ご迷惑を掛けたの一言です」と笑いながら話した。

 一方でTBSは、番組ディレクターが広田氏以外の同伴競技者2人にも接触を図ろうとしていたことを明かした。しかし、謝礼と石川への質問を用意したことは「今後調査します」と認めなかった。また、同局はゴルフ取材としては前代未聞のヘリコプターによるコース上空の取材を敢行し、石川ら選手に騒音被害をもたらした。その映像を使用した報道番組「イブニング5」は、この日夜までにKGA側に何の謝罪もしなかったという。

 これら一連の対応にKGAの加藤重正事務局長は激怒した。「正直、このままでは広田さんの名誉が棄損される」と、騒動に巻き込まれたアマゴルファーを心配した。そして「ヘリコプターの件も、TBSがこちらに許可を得たことは断じてない。8日の広報委員会であらためて抗議文を書きますが、場合によっては、はっきりするためにTBSに法的手段を取ることもある」と強い口調で話した。


福澤キャスター半泣き!遼ちゃんに謝罪…TBS「ピンポン!」盗聴未遂
スポーツ報知 - 2007/6/7 8:00

 男子プロゴルフで15歳8か月の史上最年少優勝を果たした石川遼選手が出場する関東アマチュアゴルフ選手権で、TBSの情報番組「ピンポン!」が、石川選手の同伴競技者に小型マイクの装着を依頼していたことが6日、明らかになった。同伴者に断られラウンド中の遼ちゃんの「生声」が放送されることはなかったが「非常識な取材」として、この日の番組で司会の福澤朗キャスター(43)が目に涙をためながら謝罪した。写真はコチラ

 いつもはハイテンションの福澤キャスターの目が、みるみるうちに赤くなった。「石川遼選手、同伴者の広田(文雄)選手、あまたいる関係者の皆様、心から、心からおわび申し上げます」。番組による競技そのものをないがしろにした“盗聴未遂”騒動。冒頭から神妙な顔つきで登場し、声を詰まらせながら謝罪した。

 「明らかにルールを逸脱しています。あまりにも非常識。当番組の暴挙」と全面的に非を認める。各メディアがこぞって取り上げる“ハニカミ・フィーバー”。盗聴未遂が発覚する前日の5日の同番組でも、冒頭から遼ちゃんの活躍を大々的に取り上げ、同時にファンのマナーの悪さも声高に指摘していた。

 「あれほどゴルフ場にいらっしゃるキャディーの皆様のマナーを訴えておきながら、このざまです。恥ずかしくて恥ずかしくて仕方ありません。一番信頼していた友人に裏切られた気持ち」と福澤キャスターも立つ瀬がない。「ギャラリー」を「キャディー」と間違えてしまうほどのろうばいぶりだった。

 この日、定例会見を行ったTBSの井上弘社長(67)も「一言でいえば、バカじゃないか。なんでそんなバカなこと考えるのか。大沢親分の『喝(かつ)』なら『喝、喝、喝、喝』ぐらい。腹立たしいし、不愉快です」と激怒。「石川選手には、ご迷惑をおかけしたの一言。足を引っ張っちゃって申し訳ない」と平謝りだった。

 福澤キャスターは「総合司会者は総合責任者。番組としての責任、今後の身の振りようを考えております」と沈痛な表情。最後は「石川遼君は日本ゴルフ界の宝です。皆さんで守らなければいけません。重ね重ね申し訳ありません」としめくくった。

 番組降板を示唆したかのような福澤キャスターの発言についてTBS側は「スタッフへの叱咤(しった)激励ととらえている」と進退や番組の存続については言及しなかったが、度重なるTBSの番組での騒動に、批判の声が上がるのは避けられないところだ。

Saturday, June 02, 2007

近況

今日ようやく『ベルクソン年鑑』第三巻が手元に届いた。カッシーラーの翻訳はすでに三年も前に始めたものだし、序論自体も二年前に書き終わったもので、なんだか遠い過去の出来事のような気さえする。一時期はカッシーラーばかり読んでいたっけ。その後刊行された本がà paraîtreのままになっていたり、時間さえあればもう少し手を入れたい表現も幾つかあるが、まあ出てしまったものは仕方がない。ああ、なんか疲れた。。

今年のpublication(掲載決定済みのもののみ)としては、

1)ベルクソンの人格性概念についての論文(3月既刊)

2)檄文的(笑)エッセイ(5月既刊)

3)上記のカッシーラー翻訳および序論(5月既刊)

4)論文「ベルクソンと目的論の問題」(ロングバージョン、仏語)、トゥールーズでの発表、サイト上で見られます。(5月既刊)

5)同内容の論文(ショートバージョン、日本語)、日仏哲学会誌次号(夏?)。

6)論文「唯心論(スピリチュアリスム)と心霊論(スピリティスム)」(ショートバージョン、日本語)、仏文学会誌次号(夏?)。

7)論文「ベルクソンの手」(英語バージョン)、米の思想雑誌SubStance(冬?)。


今年の発表を含むアカデミックな活動としては、

1)トゥールーズでの日欧シンポジウムの主催、およびそこでの発表。

2)仏文学会での発表(5月20日)は、ハプニングというかサプライズもあったが(来てた人には分かる(笑))、いつもどおり。内容的にも自分の力の平均くらいは出せたのではないかと思う。

3)『創造的進化』百周年日本篇の主催、およびそこでの発表。

4)百周年コレージュ・ド・フランス篇での発表。

5)ハクロン…。

最近の地道な活動。

1)二三日中に『物質と記憶』についてこれまで書いてきたものをまとめ上げる中心的な考えをひとまず完成させたい(ハクロン第2部)。というわけで、ここしばらく関連文献を読み漁っている。いろいろと関連づけはできつつあると思うのだが、なかなか最後のピースがはまらない。

2)その後、6月20日締め切りの紀要論文執筆。三部構成の第二部。前回は「声の射程。呼びかけと人格性」だったが、今回は「火の領分。情動と共同体」。7月上旬にとあるゼミで発表させてもらう予定。

3)ゴーシェの翻訳。というわけで、申し訳ないけれど、今はあまり力を割くことはできそうにありません。

Wednesday, May 30, 2007

恥知らずの天国(池田浩士を讃えて)

私は一度もお会いしたことはないのだが、池田浩士さんに対しては何となく親近感と尊敬の念を抱いている。フランス思想に野沢協先生ありとすれば、ドイツ思想に池田先生あり、という感じである。

池田先生の書かれている文章の若々しさには、故・野村修氏に通じるk大教養ドイツ系の最良の雰囲気(と私には思われるもの)がある。学生と真摯に、できるかぎり対等に向き合おうとするその姿勢。

「京都大学は日本でいちばん汚い大学である。なかでも群を抜いて汚いのが総合人間学部のキャンパスで、これは世界一の汚さを誇っている」という一文で始まる、彼の「恥知らずの天国」という一文を見つけた(『総合人間学部広報』No.33, 2003年2月)。

彼はこの汚さを排除すべきものとも(昨今の大学行政の推進する清潔ファシズム)、賛美すべきもの(単なる懐古趣味の大正教養主義的反動)とも考えない。

「このキャンパスが汚いのは、そこが生きているからだ。汗や糞やニキビや抜け毛や爪の垢やカサブタやフケや絶えざるナマ傷などが、すべて生命の証しであるように、立看板やビラや貼紙や落書や騒音や鍵の破壊は、この世界一のキャンパスが生きている証左である。」

だが、汚さを汚さと自覚し、一抹の恥や慎ましさ、良心の呵責を覚えることが急速になくなりつつある。それは、幼児化した学生社会が、ますます恥知らずになりつつある日本社会――慌ててホリエモンをバッシングし、「ナントカ」還元水を批判し、農相の自殺に驚いてみせたところで、自分たちの「会社=市場経済=資本主義」至上主義を覆い隠せるはずもない――の縮小再生産に他ならないからである。

≪廊下でビラ貼りをしている数人の人物に、「せめてそんなに糊を付けないで貼ってほしい」という感想を述べたところ、「ビラ剥がしをする小母さんたちに仕事を作ってやってるんだ!」という答えが返ってきたのだそうだ。

[…]カール・マルクスは、すべてを商品と化すことによって存立する資本主義の社会がいかに人間を恥知らずにするかを、くりかえし指摘した。ここでいう恥とは、いわゆる世間体を気にする感覚のことではない。人間が自省と自己批判を失うこと、対自的な視線を喪失し、したがって対他的な視線のリアリティを獲得しえないこと、それをマルクスは恥の意識の欠落として批判したのである。

恥知らずというものをマルクスが、すべてを商品と化してしまう社会構造との関連でとらえたことに、注目せざるをえない。商品は、それが自分に買えるものであるかぎり、自分の所有物であり、自分はそれの主人である。

だから、高い授業料を自分の親が支払っており、その親は将来できるだけ高く売るべき商品として自分に投資しているのである以上、商品たる自分も、自分の予定価格にふさわしいアルバイトの収入なり親からの送金なりで、たとえばビラを作るための紙を、どれだけ買い込もうが、どれだけ使おうが、自分の勝手なのだ。自転車整頓の老人たちも清掃の女性たちも、自分が払った授業料で大学が雇ってやっているのだ。

こうして、近ごろは、汚いキャンパスに新種のカサブタがごく普通のものとなった。同一サークルのまったく同一のビラが、同じ壁面のすべてを埋め尽くして、ズラーッと張り巡らされるのである。もちろん、別のビラが貼られる余地はまったくなくなる。エコロジストなら、地球資源をどうしてくれるのだ、と言うところだろう。

[…]わたしのこのたった一枚の表現こそが人びとの心をとらえるのだ、という誇りなど、この恥知らずな大量商品には、カケラもない。あるのは、ビラを見るものの感性にたいする限りない侮蔑であり、紙を大量に買ってやらなければ熱帯雨林だけしか売るものがない某国の人間は生きられないだろう、という恥知らずな驕りでしかない。

世界一汚いキャンパスは、死んではならない。だからこそ、生きかたを考えなければならない。≫

こんな文章を書ける人間がどんどん死滅しつつある。「軽妙」で「洒脱」なエッセイを売れ筋のジャーナリズムに書きまくること、あるいは学内のことにできるかぎり我関せずを決め込んでアカデミックな業績づくりに邁進することが「大人」の学者のスタイルなのだろう。それを悪いとは言わない。私だってそうするかもしれない。ただ、私はこんな痛快な文章を書ける人を敬慕し続ける。

Tuesday, May 29, 2007

製作の地政学

監督するのも大変だけど、製作するのも大事な仕事。ソクーロフの『太陽』の製作には日本の会社が一つも入っていなかった(はず)。製作の地政学というものがあり、その中で戦っているのだ。

我々の業界も同じ。外国人思想家・研究者を招いたシンポジウムや講演会を聴くとき、中身もさることながら、どんな風に「製作」されてるのかといったことにも注目する必要があるのかもしれない。

≪河瀬監督は「これまでカンヌで育てられて、フランスから世界配給してもらっていたから、最初から一緒にフランスと手を組んで映画を作ってみたかった。それで昨年、脚本を持って直談判。そこから、フランスで半分、私が日本で半分資金集めをする、という具合に話が進みました」と、製作の苦労を語ってくれたわ。多々超えてきた苦労が実を結んで、今夜の公式上映。感無量よね~。≫(Masamichi Yoshihiro, 【カンヌ映画祭レポートvol.37】『殯の森』河瀬監督の記者会見で感無量)

ちなみに、「制作」と「製作」の違いについて。演劇畑、アニメ畑から一例ずつ。

Saturday, May 26, 2007

がんばる地方の国立大…しかし基準は金しかないのか

経済の論理に対抗するのに経済の論理をもってせねばならない時代風潮。


<地方国立大>経済効果は400億~700億円 文科省調査
5月24日8時56分配信 毎日新聞

 地方国立大学が地元に及ぼす経済効果は400億~700億円に上ることが文部科学省の調査で分かった。プロ野球・楽天イーグルス(97億円)よりも4~7倍の波及効果があり、同省は「地方国立大は、教育だけでなく、経済的にも地域に貢献している」と指摘している。

 調査は今年3月、地方国立大の役割を経済的な観点から実証するため、財団法人・日本経済研究所に委託して初めて実施した。

 当該県への経済効果は
▽山口大667億円(雇用創出数9007人)
▽群馬大597億円(同9114人)
▽三重大428億円(同6895人)
▽弘前大406億円(同6774人)。

鹿児島県での九州新幹線の部分開業(166億円)や九州地方のJ1チーム(24億円)よりも経済効果があるとしている。

 国立大をめぐっては、収入の約45%を占める運営費交付金の配分ルール見直しが検討され、研究実績に基づき配分した場合、全国87大学のうち74大学で交付金が減少するという財務省試算がある。文科省や国立大は地方国立大の統廃合につながると危機感を募らせており、経済効果をアピールしたとみられる。【高山純二】

がんばる地方の国立大 経済効果670億円 楽天の7倍にも
5月25日8時0分配信 産経新聞

 山口大や弘前大など地方の中堅国立大学が地元経済に与える経済効果は年間400億~700億円に上ることが、文部科学省の試算で分かった。プロ野球楽天イーグルスがもたらす経済効果をはるかにしのぐ数字といい、文科省は「国立大が地方経済に及ぼす影響は極めて大きい」と強調。交付金配分方法の見直しを進める財務省の方針に反発している。

 試算は、生産誘発や雇用創出などについて地方の国立大が地元の県経済に及ぼす影響を検証するもので、文科省が日本経済研究所に委託し、学生数が7000~1万人の弘前大(青森)、群馬大、三重大、山口大の4大学について分析した。

 山口大の県経済への経済効果は年間で総額667億円。内訳は学生らの地元スーパー利用など商業分野が115億円、賃貸アパート契約など不動産分野が90億円など。群馬大は597億円、三重大は428億円、弘前大も406億円の経済効果があった。

 文科省によれば、こうした経済効果は「楽天イーグルスが宮城県に及ぼす97億円の4~7倍、サッカーJ1大分トリニータが大分県に及ぼす24億円の17~28倍に達する計算」という。

Friday, May 25, 2007

信頼関係と完ぺき主義

海外の研究者と「交流」という名の表層的で儀式的、結局のところ非生産的なつきあいをしたくなければ、どうすればいいのか。「信頼関係構築に必要なのは?」(奥田秀樹、「野茂とは違う松坂の目指す道」、2007年5月21日)

≪バリテック自身は、捕手としての豊富な経験から、信頼関係は一朝一夕ではできないと分かっていて、キャンプ終了時点でこう言っていた。「大輔との信頼関係はできたのか?」 と質問したのだが、

「信頼関係は意味のある試合(公式戦)で初めてつくられるもの。キャンプの期間は一緒にいる時間が長いから、互いのことを知り合うチャンスだし、投手について学ぶ貴重な機会だ。でも、キャンプで信頼関係を構築することはできない」

 関係構築のプロセスについてはこう説明した。 「大切なのはAGREE TO DISAGREE(互いに意見が違うことを認め合うこと)なんだ。重要な試合で、どうやって打ち取るかで意見が食い違ったとき、互いの考えを説明し合うことで、より相手を理解できる」

 その上で、メジャーではバッテリーの主導権を握るのは投手だという。 「投手と捕手は違う角度から野球を見ている。意見が食い違うのは当然。私の役割は投手が打者を打ち取る手助けをすること。最終的に何を投げるか決めるのは投手なんだ」≫

「公式戦」とは何に当たるのか、なぜ私は執拗に英・独・仏語でpublicationすることを薦めるのか。

レセプションなどで有名な学者の周りでとにかく気の利いたことを喋ろうとする人がいる。有名人のHPやブログやら何やらに気の利いたことを書き込もうとする人がいる。感激にのぼせてしまった若手ならまだしも。そういったものは「オープン戦」「練習試合」ですらない。キャンプで信頼関係を構築することは出来ない。ましてや、見ず知らずのプロとうまいキャッチボール(会話とは言葉のキャッチボール)をしたからといって、何がどうなるというものでもない。

逆に、いたずらに有名人に噛み付く人がいる。自分の信じるところを述べるのはもちろん構わない。けれど、噛み付くために「信じるところ」を急造・乱造してしまう本末転倒の人も見かける。大切なのは、「重要な試合」で「勝負」に勝つことだ。この場合、勝敗が論戦相手に議論で「勝つ」ことを意味しないのは明らかである。勝つというのは、論戦相手と「AGREE TO DISAGREE」しつつ、議論の本質において共に前進することにほかならない。

*

完璧主義とは、完璧なものが書けるようになるまで発表をしないということではない。その都度、自分の置かれた状況の中で、前回よりもさらに高いパフォーマンスを発揮できるように絶えず工夫する姿勢のことを言うのである。教授や助教授になっても、同じことである。

≪松坂大輔が突如制球を乱し3連続四球などで自滅を繰り返していたとき、レッドソックスの監督、コーチ、捕手などは、「大輔は完ぺき主義過ぎるところがある、ボールに力があるんだから、自信を持ってストライクゾーンに投げ込めばいい」 と言っていた。正直、筆者もそう感じた。

 松坂はちょっと困ったように「別に自分のボールに自信を持てなくなっているわけではないんですけど」と話したものだった。

 そんな中で一人だけ違うことを言う人がいた、エースのカート・シリングである。完ぺき主義者であることがピッチングの妨げになっていないかと尋ねると、こう言い切ったのだ。

「徹底的に完ぺきを求めていくことで、偉大な選手と、普通の選手の違いが出てくる。偉大な選手は完ぺきにできないことにいら立つが、そういう考え方だからこそ、偉大な選手になれる。(松坂は)きょうは悔しくて眠れないだろうけど、次の登板にきっちり合わせてくると思う」≫

Thursday, May 24, 2007

脱構築とは制度の脱構築である

脱構築とは常にすでに制度の脱構築である、と以前述べた。デリダが以下の言葉を一言も語っていなかったとしても、やはり脱構築の本質は、枠組みの、パレルゴンの、限界=極限の脱構築にあるわけだが、ディディモと呼ばれるトマスは世に多くいるので。。

≪そのモデルも、概念も、問題も、空から降ってきたわけではなく、それらは、諸々の様態に従って、ある限定された瞬間に形成されたものである。

哲学の教授資格試験でさえも、一つの歴史と体系を形成している。

幾つかの特定的な中継地点、例えば、フランスにおけるいわゆる哲学教育の中継点、哲学のプログラムの、哲学の試験やコンクールの形態の、哲学の舞台や哲学のレトリックの制度の中における中継点を考慮に入れる必要がある。

ヴィクトル・クザンは、フランスにおける大学と、その哲学に関する制度、そして今も我々がその住人となっている教育の全構築物の構築にあたり、決定的な役割を果たし、少なくともそれを代表する人物となった。私は、ここでは諸々の導きの糸の一本としての固有名詞(クザン)によって、一つの脱構築の必然性を命名するにとどめる。

その脱構築の論理の帰結に従えば、それは、哲学素の、意味論的であると同時に形式的な、内在的構築のみならず、哲学に対し誤ってその外的な住居として割り当てられるであろうもの、哲学の訓練の外在的な諸条件をも攻撃するのである。つまり、哲学の教育の歴史的形態、この教育制度の社会的、経済的、あるいは政治的構造をもである。

脱構築が一つの分析や一個の「批判」と常に区別されるのは、それが言説やシニフィアン表象だけでなく、堅固な構築物、「物質的」な制度に関わるからである。そして、関与的であるために、それは、哲学的なるもののいわゆる「内的」な配列が、教育の制度的形態と条件と、(内的にして、しかも外的な)必然性によって、連接するその場所において、可能な限り厳密な仕方で、作用するのである。

制度の概念そのものが、同じ脱構築的な処理を蒙るところまで。≫(デリダ、『絵画における真理』)

Tuesday, May 15, 2007

熱視線

たぶん日本代表のサッカーを少しでも見ている人なら賛成してくれると思うのだが、監督がジーコからオシムにかわって最大の違いは、いわゆる「国内組」への熱視線だろう。

ジーコは国内組がいくら健闘しようが、海外組の調子が悪かろうが、後者に全幅の信頼を置き、その序列を頑として変えなかった。オシムは、積極的に国内視察を行ない、就任一年目の去年から今年にかけて、長らく一度も海外組を召集せず、国内組のみで代表戦を戦った(今は混合)。

これで、Jリーグ内での代表選抜への競争意識が活性化したことは疑い得ない。頑張れば自分にもチャンスが回ってくるかもしれない。名前ではなくプレーを見ているという基準が明確化すれば、選手の目の色も変わってくる。

研究者も同じである。頑張っている若手にチャンスを与えるとは、「鍛えてやる」というだけではなく、生き残りのために業績作りのチャンスを与えるということである。大学の紀要に書かせるという以上のチャンスを、である。それを見つけてくるのもまた、一定以上の年齢の研究者の任務なのだろう。

例えば、昨年のブランショ国際コロックは、優秀な若手研究者に、海外の研究者の前での発表の機会を与えていた。いずれ(今年はまだ無理だが)、我々の領域でもこういった機会を少しずつ増やしていければと思う。

ただ、「フランス語を勉強しろ」とお題目のように唱えても、駄目なのだ。実際に目の前で示して見せないと。海外リーグの試合が日本で見られるようになったこと、海外の選手と対等に渡り合う日本人選手の姿を見ることが、国内で頑張る若手選手の意識にどれほどの顕在的・潜在的な影響を与えたことか。

業績作りはたしかに目的化、「お仕事」化してはいけない。札束で頬をひっぱたくがごとき、悪弊の師弟関係も復活させるべきではない。だが、綺麗ごとで人は動かないというのもまた厳然たる事実だ。魅力あるチャンス・メイキングと連動させてこそ、「鍛錬系」は真に駆動しうるのではないか。

***

<サッカー日本代表>オシム監督、裾野拡大で近藤らに視線毎日新聞 - 2007/5/14 21:56

 サッカー日本代表候補の合宿が14日夜、千葉県習志野市内で始まった。4月に続き、強化目的の3日間の短期キャンプで、最終日には大学生チームとの練習試合も組まれている。オシム監督は裾野拡大をテーマに挙げ、23歳のDF近藤(柏)、左サイドのスペシャリストである村井(磐田)らに注意深い視線を注いだ。

Monday, May 14, 2007

昨日

昨日の第2回「フランス哲学セミナー」では、十年ぶりにdaさんとお会いすることが出来て、懐かしくも嬉しかった。ちょっとからかいすぎたかも。ごめんなさいね。

内容以外に良かった点。なるべく読み上げでなく、話し言葉でまとめるという方針の採用。私も以前述べた「聴診」ということの重要性が強調されたことはよかった。

8月の第4回、ハクロンの中間発表で手を挙げた。かなり逡巡したのだが、やれるだけのことをやって叩かれたほうがいい、と覚悟を決めた。なんとはなしに漂っている期待が幻想であったと判明するなら、それはそれで仕方がない。今の自分の実力を厳しく冷静に見つめ続けること。

私的な理由のほかに、博士課程以上の人、先生方も発表することが望ましい、といった組織上の理由もある。つまり、叩く人、叩かれる人の役割分担をフレキシブルにしておかないと、すぐに学会・研究会的なヒエラルキーが出来上がってしまうおそれがあるので。。

*

檄文、ちょっと顔をしかめる人もいれば、もっとやれと言ってくれる人もいたり。まあ、バランスに気をつけつつ、でも言うべきことは言う、という今までどおりのスタンスで続けていきたいと思っています。

蓄積疲労に苦しみつつも、来週の学会発表に向けて鋭意努力。

Wednesday, May 09, 2007

反響

このあいだのトゥールーズ篇の反響。きわめて好意的。でも問題点も鋭く指摘してくれてる。そうなんだよね、だから散々フランス側の主催者に言ったんだけど。「日本側が議論に少しでも積極的に参加できるよう、取り計らってくれ」って。何度かは聞いてくれて、フランス人研究者の原稿をコピーしてくれたけれど、そもそも完成原稿を持ってきてない人たちもいたし、こちらも皆多かれ少なかれよそ者としての気兼ねがあったり、長旅で疲れていたりと(トゥールーズは遠かった…)、積極的な攻めは出来なかった。この反省を次回、日本篇では少しでも活かしたい。

Tuesday, May 01, 2007

抵抗の核

近況。

1)MLに檄文的なことを書くのは控えなさい、と少し年上の方にたしなめられる。書き方に気をつけないといけないのは確かなのだが、他方で、不言実行の人と有言実行の人がいるのも事実なので。。私が苛立ち、打破したいと願っている停滞状況自体によって規定されている「抵抗の核」が問題なのであってみれば、私の言動に苛立つ人がいるのはむしろ当然ではないか、という気もするのだが。。

2)日仏哲学会用の論文、およびトゥールーズ篇の発表原稿、それぞれひとまずの完成稿を送る。トゥールーズ篇参加者の論文は随時掲載されているので、興味のある方はどうぞ。

3)あと三週間をきった仏文学会だが、隠喩論文、まだ何も書いていない。一応、骨子は頭にあるので、これを書いていけばいいのだが、早くやらないと。書いているうちにさらにいいアイデアが浮かぶのだが、残念ながら時間切れというのがいつもの悪いパターンなので、改善していかないと。

4)十月・日本篇の準備、着々と進んでいる。海外から9人(10人)、日本から9人のガチンコ対決。お客さんお呼びし、お話を謹聴して「フジヤマ、ゲイシャ、スキヤキ」(スター扱いで接待)はもういいよ。やりたいのは真剣勝負。

5)十一月にコレージュ・ド・フランス主催で行なわれる『創造的進化』シンポジウムのワークショップCFPが出た。関心のある方は、私まで。

6)ハクロンは??これが私にとって一番の「抵抗の核」なのだ。。

Friday, April 27, 2007

「ものすごく真っ当」な方策

トゥールーズにちなんで、というわけでもないが、興味深い記事。スポーツの例は多くを教えてくれる。

出村謙知(でむら・けんじ)さんの「ラグビーの街トゥールーズから起こった旋風」(4月26日)から一部抜粋。

しかも、トゥールーズFCはボー監督を迎えるにあたって、単にトップチームの指揮官に指名するだけではなく、年齢カテゴリー別に4個あるジュニアチームも含めたトゥールーズFC全体のコーチングスタッフを取り仕切るGMとして契約を結んでいる。

 つまり、ボー監督の立場は単純に現在のトップチームの成績を上げればいいというだけではなく、ジュニア強化を含め、長期的視野に立ってクラブを健全に発展させていく責任も負ってもいるのだ。

「まずは選手それぞれの特徴をコーチが受け入れること。こちらから、こういうプレーをしろと押し付けることは指導者の仕事とは対極に位置するものだ。常に各選手の優れている点に着眼しながら、それが集積された時に全体として一番強くなりそうな部分を強調したチーム作りを進める必要がある」

 そんなコーチ哲学を持つボー監督が、就任1年目にして早くもしっかりしたチーム作りに成功しているのは、前述してきた成績が示す通りだ。

「このチームの若い選手は素晴らしいポテンシャルを持っていて、その上しっかり組織プレーが植え付けられている。ただ、2位になるなんて考えもしなかったこと。今でも、まずは今季当初からの目標である20チーム中10位以内を確保することの方が優先であることに変わりはない」

 あくまでも控え目な態度を崩さないポー監督への若い選手たちからの信頼は抜群だ。「ボー監督は、若い自分たちが持っている可能性を最大限に引き出してくれている。彼の存在がなければ、今のチームの成功はなかった」(MFアシル・エマナ)

 現在のトゥールーズFCにチーム一丸となっている一体感があるのは、今季スタジアムに行ったことがあるファンなら間違いなく感じていることだろう。よそ者として、一度だけトゥールーズFCの試合を現地取材した者にも、それは十分に感じられた。

 圧倒的な存在であるメジャースポーツ、ラグビーに常に圧倒され、一時は経営破綻から3部落ちまで経験したトゥールーズFC。そんな苦境を脱するために取られた方策は、ものすごく真っ当なものだった。すなわち、ジュニア強化に力を注ぎ、自分たちに最もふさわしい実績ある指導者を招いてトップチームの指揮を執らせる一方で、ジュニアも含めたクラブ全体のコーチングシステムを整えるということだ。

Thursday, April 26, 2007

『創造的進化』百周年・日本篇正式決定!

疲れた。昨日帰ってきたのだが、トゥールーズ篇の前後一週間は毎日熱があり、体調が悪かった。しかし、いろんな人と喋り、飲み、食うのが「お仕事」だから強行軍。ほんと、コロックに出るたび思うのだが、ほとんどビジネスだよね。それをいかに生産的な思考のために用いるか。理想を持った現実主義者たれ、と自分に言い聞かせている。

まず、ビッグ・ニュース。実は前々から企画していた『創造的進化』日本篇が、この度本格的に始動することになった。様々な人にあたりをつけ、調整し、企画書を書き、とグランド・デザインを殆ど一人で行なったので、感慨もひとしお。10月15~20日に東京・京都にて(もう一つの地方は却下された。地元人士を恨むべし)。

次に、個人的なこと。

1)『現代思想』5月号のとある欄を執筆。フランス哲学研究の内弁慶的現状をちくり。

2)カッシーラー仏訳と序論、最終確認。三週間ほど遅れて、Annalesの第三巻が出る予定。

3)SubStanceというアメリカの雑誌の『創造的進化』特集に応募していた論文が通った。アングロ=サクソン系には受けるだろうという見通しを持っていたので(彼ら向けに書いたわけではないが)、気に入ってくれたそうで何より。

最後に、友人・知人からメールで報せを受けた新刊・雑誌を幾つか。

・ウェブ上の哲学雑誌としては小柄ながら本格的な部類に入る、P.-F. MoreauのKlêsis。最新号は、ズラヴィシュヴィリ追悼特集。ドゥルーズ解釈では必ずしも彼と一致を見たわけではないが、期待の若手だった。Autour de François Zourabichvili。この手の企画も日本の哲学界では見かけない。お互いを真剣に読み合い、議論し合い、尊敬し合うという当たり前の関係。

・éd. Beauschesneの雑誌 Revue Présentaineの新刊案内。
n°18/19 : Musique, Phénoménologies - Ontologies - interprétations

・Abécédaire de Jacques Derrida, sous la direction de Manola Antonioli. Collection Abécédaire, n°3. Éditions Sils Maria/Éditions Vrin, coédition. マノラは最近、『ドゥルーズと政治』というデカイ論文集(actes)も出しましたね。

・François Azouvi, La Gloire de Bergson. Essai sur le magistère philosophique, Gallimard, coll. "nrf essais", avril 2007. 『デカルトとフランス』が出たときから、次はベルクソンだろうと思ってました。彼は完全にコレージュ狙いですね。

Thursday, April 12, 2007

大学の幼児、幼児の大学

正直、どこまで幼稚化すれば気が済むのかとも思う。「がんちゃん」(岩手大学)、「しずっぴー」(静岡大学)、「ビビット」(島根大学)、「ひょうちゃん」(兵庫教育大学)…。時勢に乗り遅れないため、ポピュリズムに迎合するため。

民間企業のように、「私大と同様に」(このことの帰結をじっくり考え抜いた者が果たしていたのか)、親しみやすく、学生に優しく、限りなく優しく、「学生さんはお客様で、お客様は神様です」…。目を開けて見よ、これが独法化の指し示す方向である。

≪戦前の日本の「大学の自治」対国家の闘争は、帝国大学の特権的基盤のうえに立ってはじめて可能であったのであり、それは帝大が日本においては例外的な、本当の意味の、保守主義の砦であったからである。早くから「大衆化」し、「国民化」した私大は、大衆を背景にしたファシズム反動の前に、帝国大学よりもはるかにもろかったし、むしろ便乗しさえした。≫(丸山真男、『自己内対話』、223頁)

一方で、望ましい改善の動きも見落としてはならないだろう。認識においては悲観主義者、意志においては楽観主義者たれ、とはルカーチ経由のロマン・ロランの言葉であっただろうか。


東大キャンパスに保育園オープン、女性研究者ら支援
4月4日11時31分配信 読売新聞

東大・本郷キャンパスにオープンした「東大病院いちょう保育園」で遊ぶ子どもたちを見守る小宮山東大総長(左)

 子供のいる教職員をサポートするため、東京大学の本郷キャンパス(東京都文京区)内に今月から開かれた「東大病院いちょう保育園」の開園式が4日行われた。

 東大の教員に占める女性の割合は9・3%(昨年5月1日現在)にとどまる。女性研究者を育成するには、女性が働きやすい環境整備が欠かせないとして、大学が直接運営する保育所を各キャンパスに設立することにした。

 いちょう保育園はその第1号。計6人のスタッフで運営され、一時保育も含めた定員は32人。当面は看護師ら病院職員を対象に小学校就学前までの子供を受け入れ、現在7人が入園している。将来は、本郷キャンパス内にもう1園を開設するなど3園を作り、教職員や大学院生や学部生の子供を受け入れる方針だ。


<広報合戦>10大学が広告代理店などと業務提携
4月4日3時3分配信 毎日新聞

 国立の全87大学のうち8大学が学外から広報担当者を受け入れ、10大学が広告代理店などと業務提携をしていることが、文部科学省の初の調査で分かった。07年は大学・短大への全志願者数と全入学者数が同じになる「大学全入時代」といわれる。中には「マスコット」を作成する大学も現れ、国立大の広報合戦が過熱している。

 文科省は06年3月以降、国立の87大学を対象に、広報活動の状況を聞いた。 外部から広報担当者を受け入れていたのは▽東京大▽東京外国語大▽東京海洋大▽静岡大▽神戸大▽熊本大▽北陸先端科学技術大学院大▽奈良先端科学技術大学院大の8大学で、広告代理店や私立大学、大手予備校などから招いた。

 また、北海道大や東北大、一橋大など10大学は広告代理店や情報誌、新聞社などと業務提携。大手広告代理店と提携した九州大は「大学のブランド戦略を検討するうえでのアドバイス、資料提供」を目的に挙げている。

 このほか▽岩手大▽静岡大▽兵庫教育大▽島根大は、大学独自のマスコットを作り、「がんちゃん」(岩手大)などの愛称をつけてPRしている。

 河合塾と旺文社から計2人の広報担当者を招いた静岡大は「(04年の)国立大法人化と大学全入時代を前に、入試や広報でさまざまな取り組みが必要になったが、今までの教職員は何をすべきか具体的なイメージが描けなかった。入試改革もマスコット作成も、大学のイメージアップ戦略の一つ」と話した。

 文科省は「これまで国立大は入学試験の広報が中心だった。しかし、法人化以後、私大と同様に大学全体の広報活動をするようになっている。イメージアップは、優秀な学生確保や産学官連携などの際のベースになる」と分析。文科省は各大学の参考となるよう、3月末に調査結果を各大学へ送付した。【高山純二】


<社会意識調査>「悪い方向に」教育がトップ 内閣府発表
3月31日19時31分配信 毎日新聞

 内閣府は3月31日、社会意識に関する世論調査結果を発表した。現在の日本の状況について「悪い方向に向かっている」と思う分野を複数回答で聞いたところ、教育が前回(06年)から12.3ポイント増え36.1%となり、98年にこの質問を盛り込んで以来最高で、初のトップとなった。高校の履修不足問題や、相次ぐいじめ自殺などが影響したとみられる。医療・福祉31.9%、地域格差26.5%も10ポイント以上の増加で過去最高を記録した。

 「政治や社会情勢の影響を受けやすい調査」(内閣府)だけに、安倍政権の課題を浮き彫りにした形だ。 調査は1~2月、全国の成人男女1万人を対象に面接方式で実施。5585人(回収率55.9%)から回答を得た。

 教育と答えた人を男女別にみると、男性36.7%、女性35.6%。年代別では男女とも30代がトップ(男性47%、女性47.8%)で、20~40代の男女がいずれも4割を超えるなど、子育て世代の教育不安を裏付けた。

 教育に、前回トップの治安35.6%(前回比2.7ポイント減)、雇用・労働条件33.5%(同4.6ポイント増)が続いた。急増した医療・福祉(31.9%)と地域格差(26.5%)はそれぞれ、5位と8位だった。

 小泉政権で増加の一途だった外交は前回比8.9ポイント減の22.4%で、日中、日韓首脳会談の再開といった安倍外交を国民が評価していることをうかがわせた。

 一方、「良い方向」(複数回答)は(1)科学技術19.7%(2)通信・運輸18.9%(3)医療・福祉16.5%――の順だった。【渡辺創】

Wednesday, April 11, 2007

基礎練と営業

こういう記事を精神主義的に読むなら(ひたすらシゴキ練習、みたいな)、大した価値はない。だが、細部・具体にこだわって読むなら、そこから何らかの示唆が得られる。

1)世界標準レベルにまだ達していないという冷静な自己認識(Jリーグの一流選手でも、世界で通用するかどうかは不明、という冷静な状況認識)。

2)追いつくために何かをしなければならないという意志(遅れていますがそれが何か?という意味不明の開き直りは、日本の人文科学でも、思想業界にしか存在しない。日本語で書き続ける自然科学者などありえないという自明の事実)。

3)個人の努力ではなく、集団で、制度的な対策を講じる必要性の認識。何を、どのように、具体的にアップさせるべきなのか、についての議論。体力と技術力。語学力、議論する力、哲学史の知識。

4)スター(「神様」ジーコ…)を呼ぶことの意義もあるが、もっと大事なのは自分のレベルをアップさせてくれる教育的資質を持った人材を呼ぶこと。日本のフランス哲学研究者は、観客なのか、批評家なのか、それとも、いかに「ヘタレ」であろうとも、同じ舞台に立つ役者たろうとしているのか。

5)営業ばかりでは困る、そんなのは当たり前のことだ。誰もまともな(自分本位の、営利目的でない)、教育的な営業をやっていない現状において、何もしていない人にしたり顔で指摘されても困るのだ。

6)思想はけっきょく孤独な営み、と自分に呟きつつ、けれど、自分一人で思想を始めたわけでもなければ、また、自分が育てられた教育環境を必ずしも瑕疵なきものと見ているわけでもないことは明白である以上、介入の必要と責務が生じるのではないか。


「いままでにない!」桜戦士初体験…これが世界基準トレ
サンケイスポーツ - 2007/4/10 8:01

 ラグビー日本代表強化合宿(9日、千葉・日本エアロビクスセンター)9月開幕のフランスW杯へ向け、日本代表が練習を開始した。ジョン・カーワン・ヘッドコーチ(42)は、自ら指名した豪州協会所属のマーチン・ヒューメ・フィットネスコンサルタント(50)と、ニュージーランド(NZ)協会から出向するマイケル・バーン・技術コーチ(45)が主導する練習メニューを導入。豪州、NZ両代表の強化メニューを桜の戦士に初日から課し、世界基準を体感させた。

 いきなりカーワン流が炸裂だ。世界に勝つために、世界を知れ。カーワン・ヘッドが日本代表に世界基準を体感させた。

 合宿練習初日。午前練習を指揮したのは、トレーニングのエキスパート、ヒューメ氏だ。NZやイングランドのプロチームなどでコーチ歴があり、03年W杯では日本を破ったスコットランド代表を指導した男。現在は豪州協会と契約し同国代表の体力強化にも携わる敏腕コーチは、豪州代表でも取り入れている7分間のインターバル・テスト(ダッシュとウオーキングと静止をおり交ぜた走力テスト)を課した。 結果は、世界との差を痛感させられることになった。トップは14.7という数値を記録したSH大東功一(NEC)。だが、ヒューメ氏によると「スコットランド代表のトップは16、17台」だという。走力が自慢の日本のBK陣の平均的数値は13前後で、世界の強豪チームのFW第1列と同程度という厳しすぎる現状を突き付けられた。

 午後練習に登場したのは、バーン氏。ヒューメ氏と同様にスコットランド代表を指導し、現在はスキル(技術)コーチとしてNZ協会と長期契約を結ぶ世界的指導者だ、ボールを蹴る時にひざをしっかり伸ばす技術をBK全員に指導し、「苦戦していたが、これを克服すればレベルは必ず上がる」。主将のNO・8箕内拓郎(NEC)は「いままで経験のないメニュー。いい刺激になる」と練習の手応えを語った。

 世界屈指の強豪国と契約を結ぶ2人の指導者を招いたのは、カーワン・ヘッドだ。NZの13人制ラグビーチームに所属していた時にコーチだったのがヒューメ氏。イタリア代表監督時に対戦したスコットランド代表のキック精度を高めた指導者がバーン氏。ツテをたどって招へいした指導者によって体力と技術の向上を目指すカーワン・ヘッドは「フィットネスの向上、そしてキックを使ってトライを取ることは日本にとって重要だから」と意義を説明した。

 肉体強化を託されたヒューメ氏は「初めて体験するメニューで、この結果は悪くない」とフォローした上で、「9月までには、世界レベルの数値にいくこともできる」と太鼓判を押した。W杯へ向けた初練習の場で世界基準を体感したカーワン・ジャパンは、世界を打倒するための一歩を踏み出した。


“走る営業部長”為末、人気回復目指しイベントを企画
サンケイスポーツ - 2007/4/10 8:01

 8月開幕の世界選手権大阪大会の前哨戦『国際グランプリ大阪大会』(5月5日、長居陸)に参戦する為末大(28)が9日、陸上競技の“走る営業部長”に名乗りを上げた。“ミリオネア資金”を元手に陸上イベントを企画するなど、世界陸上銅メダリストが人気回復にひと役買う。

 陸上をマイナーにはさせない。国際グランプリ出場選手の記者会見に出席した為末が「今年は陸上の浮沈が懸かっている。陸上がメジャーになるような仕掛けをしていきたいと思っています。今年はセ・リーグでもパ・リーグでもなくて、陸上界です」と宣言した。

 01年エドモントン、05年ヘルシンキと世界選手権で2枚の銅メダルを持つ男の訴えだ。女子マラソンを除けば、陸上の話題が取り上げられるのはわずか。人気低下が競技人口を減少させ、弱体化につながる。株のトレーダーとしても知られる為末にとって、将来が心配でならない。

 そこで、昨秋に人気テレビ番組「クイズ・ミリオネア」で獲得した1000万円を元手に、繁華街での陸上イベントを企画。8月の世界陸上までの実現を目指して調整している。100メートルの末続慎吾や走り幅跳びの池田久美子ら親しい仲間からもアイデアを募り、サプライズを演出していく。

 昨年は走る速さを高めるため、ハードル競技には出場せず脚力を鍛えた。今大会では、1年9カ月ぶりにハードルを“解禁”する。「スピードは速くなった」。16年ぶりに国内で世界選手権が開催される陸上イヤー。走る宣伝マンが、ファンの視線をトラックへ向けさせる。

Tuesday, April 10, 2007

ソフトからハードを動かす。

最近数ヶ月間にいただいた日本の本・論文をまとめて。

nsさん、三宅剛一の講義ノート、『ドイツ観念論に於ける人間存在の把握』(学習院大学、2006年)、ありがとうございました。「およそ哲学史研究というものが、テクストの厳密な読解や、論理の飛躍をそれと見抜くだけの批評眼を必要とすることは言うまでもない。しかしそのうえで、哲学史研究がわれわれの実存に対して開き示してくれる哲学そのものの『何のために』」こそ示唆に富むのだという解題に記された(kkさんの)言葉、そのとおりだと思います。

hhさん、『現象学を超えて』(Didier Franck, Dramatique des phénomènes, PUF, 2001.)、萌書房、2003年、どうもありがとうございました。フランクといえば有名な『肉と身体』『ハイデガーと空間の問題』くらいしか、しかもざっとしか読んだことがありませんでした。これを機会に勉強させていただきます。

mnさん、デリダ論ありがとうございます。読んで勉強させていただきます。

tmさん、ベルクソンの超レアもの、「アリストテレスの場所論」ラテン語版のコピー、どうもありがとうございます。いつか、ラテン語の辞書と首っ引きで読書会しましょう。

***

 辛仁夏(Yinha Synn)さんのルポ 「フィギュア強国ニッポンの土台が揺らぐ?(2)爆発的ブームの中で何をすべきか」(スポーツナビ、2007年4月2日)は、言うべきことを言っている。一部抜粋させていただく。

人気が出てきた今こそ環境の整備を

注目が集まり、人気が出てきた今こそ、戦略的にフィギュアスケートを世間にアピールしていく必要がある。潤沢ではない強化費用や運営資金など、恵まれていない環境を整備する絶好の機会となるはずだからだ。[…]

伊東秀仁強化部長も「五輪後のこの人気の中で開催できることはタイミングとしてはすごく良かった。この大会でフィギュアスケートを始めたという選手が後に出てくると思う。これをブームに終わらせたくないし、ずっと人気を続けていくことが大事。今後の動きとしては、専用リンクを作ってほしいということが大きい。ナショナルトレーニングセンターにリンクが出来ればいい。将来につなげていくには必要。競技人口が増える中、ソフトからハードを動かしていきたい」と語った。今後はこの人気を活用してリンク減少を食い止め、イモ洗い状態に陥っている現在のリンク不足を一気に解消する動きが出てくればいいが……。


強化体制の練り直し、ジュニア勢の強化が課題

 日本には、海外のフィギュア関係者も注視している、毎夏に野辺山で行われる全国有望新人発掘合宿がある。これは豊富なタレントを輩出する「選手製造工場」だが、昨年新体制になったフィギュア部の強化方針がいまだ明確に定まっていないだけに、今後もきちんと稼動するかが心配される。今季はシニアの世界選手権で手放しの成績を残せたが、その一方でジュニア世界選手権では02年から男女を通じて続いていたメダル獲得ができず、女子の5位が最高だった。

 この1、2年の上げ潮の中で、いかに地道な強化体制を練り直すかに、今後の日本フィギュア界の行く末が懸かっているように思えてならない。来季、新採点システムで育ってくるジュニア勢の強化に本腰を入れないと、フィギュア強国ニッポンの土台が揺らぐことになりそうだ。

***


フィギュアも一極集中 みんな名古屋出身の秘密
3月30日10時0分配信 日刊ゲンダイ

●「世界選手権」視聴率東海地区は最高56% 世界選手権で金・銀メダルを獲得した女子フィギュアの安藤美姫(19)と浅田真央(16)の共通項はズバリ、名古屋出身であること。中野友加里(21)、恩田美栄(24)など日本代表クラスの女子選手はみ~んな、名古屋育ちだ。

 世界選手権の平均視聴率も、名古屋地区は43.0%(ビデオリサーチ調べ)と関東38.1%、関西34.8と比べてダントツ。瞬間最高は56.6%にも達したというからオドロキだ。どうして名古屋人のフィギュア熱は、どえりゃあ高いのか。「名古屋は、お稽古事が盛んで子供より母親の方が熱心なくらい。フィギュアの教室でも、いつも最初から最後まで練習を見つめ、子供もサボれません」(愛知県スケート連盟フィギュア委員長・久野千嘉子氏)

 見た目にも華やかで、嫁入り道具に大金をかけたがる見えっ張りな名古屋人気質にもマッチしている。

 だが、とにかくフィギュアはカネがかかる。エッジを含めたスケート靴の相場は1足12万円!

 これを選手は年4、5足も履き潰し、衣装代やレッスン料だってバカにならない。誰でも手軽にできるスポーツではないが、名古屋の家庭事情にはこんな秘密があった。「都市部の核家族化が進む中、名古屋は大都市ながら3世代同居の世帯数が全国トップ。東京や大阪の倍近い数です。家族の絆を大事にする土地柄で、孫に使う金額もケタ違い。名古屋のフィギュア熱は、祖父母の支援があってこそです」(三菱UFJリサーチ&コンサルティングのエコノミスト・内田俊宏氏)

 スケートの練習にはリンクが不可欠。ほかの地域は夏はプール、冬だけ氷を張るところが多いが、名古屋は3つの通年営業リンクが稼働中だ。通年営業は全国23カ所のみ。うち3カ所ある自治体は名古屋と横浜だけだ。ミキティや真央ちゃんも練習に使う「名古屋スポーツセンター」の黒柳一男社長が言う。「アルベールビル五輪の銀メダリスト・伊藤みどりさんもウチのリンクで練習しました。一般客に交じって滑ることもあり、世界技術に間近で触れる機会が多かったのも人気の要因です。伊藤や浅田を育てた山田満知子コーチなど優秀な指導者も多く、ジュニア教室も活発。今回の金銀独占は底辺拡大の成果です」

 真央ちゃんやミキティの活躍でフィギュア教室はさらに活況――。王国は今後も安泰だ。

Friday, April 06, 2007

「戯作者文学論」について(3)切ない鼻息

こういうところで私の仕事の進展とか、外国人研究者との付き合いなどを報告していると、自分にも他人にも必ず幻想、幻覚が生じるので、それには気をつけている。

あまりグループを作りたくない。特にグルーピーとかファンとか弟子とかを持ちたくない。そんなレベルではないのだから。後輩にもなるべくくだけた調子で近づき、あるいは突き放し、脱神話化するよう努めている。

***

安吾は大言壮語の人と思い込んでいる人がいるとすれば、その人は真実の半分しか見ていない。7月14日の項。

≪親類の人の紹介状をもって、浅草向きの軽喜劇の脚本を書きたいから世話をしてくれ、という人が来た。北支から引き揚げてきた人だ。全然素人で、浅草の芝居を見て、こんなものなら自分も作れると思ったというのだが、自分で書きたいという脚本の筋をきくと、愚劣千万なもので話にならない。こういう素人は、自分で見てつまらないと思うことと、自分で書くことは別物だということを知らない。つまらないと思ったって、それ以上のものが書ける証拠ではないのだが、恐れを知らない。自分を知らない。

 夏目漱石を大いにケナして小説を書いている私は、我が身のことに思い至って、まことに暗澹とした。まったく、人を笑うわけに行かないよ。それでも、この人よりマシなのは、私は人の作品を学び、争い、格闘することを多少知っていたが、この人は、そういうことも知らない。何を読んだか、誰の作品に感心したかと訊くと、まだ感心したものはないという。

 名前すら知らない。無茶なんだ。いつまで経っても帰らず、自分の脚本を朗読と同じように精密に語る。私はまったく疲れてしまった。私はまったく、泣きたいような気持ちになってしまった。それは我が身の愚かさ、なんだか常に身の程を省みぬような私の鼻息が、せつなくなったせいでもあった≫(全集第15巻、20-21頁)。

私も学部生や院生と話していると、ときどき自分の「鼻息」が切なくなる。他人との共闘が意味を持つのは、まず自分がいっぱしの仕事をしてからのことである。幾重にも自戒を。

Thursday, April 05, 2007

戯作者文学論(2)心情的共感に抗する

ynさんより、都知事選に関する情報をいただいた。ぜひご覧いただきたい。私たち一人一人は微力であっても無力ではない。

***

安吾は「戯作者文学論」という創作日記の第一日目、1946年7月8日に「女体」という小説の執筆動機をこう記している。

 私はこの春、漱石の長篇を一通り読んだ。ちょうど、同居している人が漱石全集を持っていたからである。私は漱石の作品が全然肉体を生活していないので驚いた。

すべてが男女の人間関係でありながら、肉体というものが全くない。痒いところへ手が届くとは漱石の知と理のことで、人間関係のあらゆる外部の枝葉末節に実にまんべんなく思惟が行き届いているのだが、肉体というものだけがないのである。

 そして、人間関係を人間関係自体において解決しようとせずに、自殺をしたり、宗教の門をたたいたりする。そして、宗教の門をたたいても別に悟りらしいものもなかったというので、人間関係自体をそれでうやむやにしている。漱石は、自殺だの、宗教の門をたたくことが、苦悩の誠実なる姿だと思い込んでいるのだ。

 私はこういう軽薄な知性のイミテーションが深きもの誠実なるものと信ぜられ、第一級の文学と目されて怪しまれぬことに、非常なる憤りをもった。しかし、怒ってみても始まらぬ。私自身が書くよりほかに仕方がない。漱石が軽薄な知性のイミテーションにすぎないことを、私自身の作品全体によって証し得ることができなければ、私は駄目な人間なのだ。それで私はある一組の夫婦の心のつながりを、心と肉体とその当然あるべき姿において歩ませるような小説を書いてみたいと考えた。

私は自分がベルクソンという唯心論者(通常、精神とか魂とか生命というものを重要視しているとされる潮流)の身体「概念」、というよりベルクソン哲学を通じて身体をめぐって漠然と形成されていくある「論理」の生成と構造を目下の中心的な研究対象としているので、この一文に何か非常に近いものを感じる。

おそらく常識的な知識人はこのような粗雑な漱石批判には眉を顰めるに違いない。漱石はなんと言っても日本近代文学の「天皇」である。漱石が好きだと言っておけばひとまず間違いはない。しかし、眉を顰めるということは常識以上の何物も示すものではない。

だが、他方で、安吾のこの一文に心情的な共感を示して興奮する人々に過度の期待をもってもならない。すべからく――68年の大学紛争における「心情三派」同様――心情的な共感などをあてにしてはならない。そういう人々は結局、風向きが変われば、昨日までとは逆のことに今度は「共感」を示し始めるのだから。

研究も同じである。盲目的に誰かや何かを崇拝してみても、嗤ってみても、怒ってみても始まらない。私自身が書くよりほかに仕方がない。私自身の作品全体によって証し得ることができなければ、私は駄目な人間なのだ、と呟き続ける必要がある。「自己内対話」を言うのは、自戒としてである。

Wednesday, April 04, 2007

「戯作者文学論」について(1)日記に抗する日記

ウェブ上には、ときどき「本当にすごいなあ」と手放しで賞賛したくなる偉業がある。

「聖書と木材」というページがあり、聖書に登場する木や植物の種類、出典箇所が網羅されている。しかも作られているのはどうやら、大阪堺市の木材屋さん?凄すぎる!

***

あまりにも低次元の話なので、ここで取り上げることもないのだが、最近自分のブログ観やら日記観を一応表明しておかざるをえないと感じるのは、結局どこかで心理的なプレッシャーがかかっているのかもと思うと、あながち無関係でもないのだろう。

≪自分の日記にあしあとやコメントが付くと、周囲から認められたという「認知欲求」、自分を受け入れて欲しいという「親和欲求」が満たされ、それが快感になるという。好意を持っていたり、尊敬している相手からあしあとやコメントが付くと、さらに高い快感が得られるため、快感を求めて日記を更新し続けるという“中毒”症状につながる。(…)

 友人同士をリンクで結ぶ機能「マイミクシィ」(マイミク)が、この応酬をさらにヒートアップさせる。ユーザーは、別のユーザーにリンク申請して承認されると、自分の「マイミクシィ一覧」上に相手が表示される。マイミクはいわば、友人である証だ。

 山崎さんは「マイミクは、社章のようなもの」と言う。社章を付けた人は、その会社の社員であることを強く意識し、社員としてのふるまいを強化する傾向があると考えられている。A社の社章を付けた人は、より「A社の社員らしくふるまおう」と意識するといい、社会心理学で言う「役割効果」が発揮される。≫(IT media News、≪「mixi疲れ」を心理学から考える≫、2006年7月21日より一部引用)

幼稚な心理である。ブログやHPというのは、murakamiさんのように淡々と、あるいは私のように「くどい」のでもいいが、ともかくクールにやるに限る(上方落語は、志ん朝同様、くどいがクールなのである)。

Cf. IT media News、≪「mixi読み逃げ」ってダメなの?≫、2007年3月20日より一部抜粋

≪読み逃げを気にするユーザーの日記などを詳細に読んでみると、リアルで会ったことがないマイミクとの関係に気を遣っているケースが多いことが見えてきた。

 見知らぬ人とマイミクとしてつながった場合、人間関係を保障してくれるのは、mixi日記へのコメントやメッセージ、足あとだけ。だから自分のページに足あとが付けば、必ず訪問してコメントやメッセージを残し、「あなたのことをマイミクと認めていますよ」とアピールするし、相手も同じようにコメントやメッセージを返してくれ、自分を認めてくれることを期待する。読み逃げされると「嫌われたのかな?」「マイミクと認めてくれてないのかな?」などと落胆するようだ。≫

*

坂口安吾に「戯作者文学論」というエッセイがある。「文学論」と題され、私も仕方なく「エッセイ」と呼んだが、「女体」という小説を書き上げる行程を綴った二十日間ほどの創作日記――「私の小説がどういう風につくられていくかを意識的にしるした日録」――である。1947年の作品だから安吾は41歳ごろ。

なぜ創作日記を「文学論」と名づけるのか。あるいは、なぜ文学論の表題の下に創作日記を綴るのか。おそらく二つの理由がある。一つには、自らの文学を語るのに通常の文学論の形態で語ることに嫌悪感を覚えたということがあるだろう。自ら戯作者をもって任ずる彼に「戯作者文学論」を執筆するよう求めた平野謙に対して、安吾はこう答える。

≪私が自ら戯作者と称する戯作者は私自身のみの言葉であって、いわゆる戯作者とはいくらか意味が違うかもしれない。しかし、そう大して違わない。私はただの戯作者でも構わない。私はただの戯作者、物語作者にすぎないのだ。ただ、その戯作に私の生存が賭けられているだけのことで、そういう賭けの上で、私は戯作しているだけなのだ。

生存を賭ける、ということも、別段大したことではない。ただ、生きているだけだ。それだけのことだ。私はそれ以上の説明を好まない。それで私は、私の小説がどんな風にして出来上がるか、事実をお目にかける方が簡単だと思った≫(ちくま文庫版『坂口安吾全集』第15巻、14頁)。

かといって、日記を書くことで、真実の「作者の意図」が記されうると考えるほど、安吾はナイーヴではない。「それに私は、この日記に、必ずしも本当のことを語っているとは考えていない」(同上、15頁)という言葉から、では、安吾は嘘をついているのか、と早合点する人はよもやいまい。それによっては真実を描こうとしても描きえぬ方法というものがあるのである。これが「文学論」と名づけたもう一つの理由である。

≪私は今まで日記をつけたことがなく、この二十日間ほどの日記の後は再び日記をつけていない。私のようにその日その日でたとこまかせ、気まぐれに、まったく無計画に生きている人間は、特別の理由がなければ、とても日記をつける気持ちにならない。

日記などはずいぶん不自由なもので、自分の発見でなしに、自分の解説なのだから、解説というものは、絶対のものではないのだから。


小説家はその作品以外に自己を語りうるものではない。だから私は、この日記が、必ずしも作品でないということを、だからまた、作品であるかもしれぬということを、一言お断り致しておきます≫(同上、13、15頁)。

私のこの「創作日記」もまた、安吾に比べて思想的にいかに惰弱で貧相であろうとも、ささやかな「哲学論」「思想研究論」たろうとしており、それ以外にこのようなものを書く意味もない。思想研究者はその作品以外に自己を語りうるものではない。だから私は、このブログが、必ずしも作品でないということを、だからまた…。

Tuesday, April 03, 2007

フランス哲学セミナー

3月31日(デカルトの誕生日?)、murakamiさんとisさんが発起人になって立ち上げられたフランス哲学セミナーに参加してきた。これからますます面白くなっていくといいと思う。 そのための提案。

1・explication de texteだけでなく、さまざまな点でフランス風を取り入れてみても面白いと思う。レジュメの作り方、読み方など。これについては「テクストの聴診」 (2006年11月12日の項)参照のこと。

2・大きな学会でも、個別の研究会でも出来ないことの一つに、「玄人好みの研究者紹介」というのがある。研究者であれば、誰しもマイ・フェイヴァリットというのがあるはずで、私で言えば、D. Janicaud, J.-P. Séris, G. Lebrun, J.-F. Marquetなど、個別の思想家研究を軽くはみ出てしまう個性的な人たちをいずれ紹介してみたい。それはともかく、「ここでしか出来なさそうなこと」をもう少し追求してみるといいのではないか。

3・コレギウム・プロジェクトと何らかの接続を徐々に模索していければ。

最後に、京都からお呼びたてしてしまったmnさん、もし期待しておられたものと違っていたとしたら、ごめんなさいね。でも、研究者同士のつながり、特に直接会って話すことはとても重要だと思っているので。

Friday, March 23, 2007

プルーストとサント=ブーヴ(2)創造という虹

前回、「けれど、プルーストがあそこまで執拗にサント=ブーヴを批判せずにいられなかった理由を訊ねていくと、二人の距離は必ずしも遠くはない」と思わせぶりなことを言った。このネタで論文を書くつもりはないので(いつか業績作りに困ったら別だが)、ここで簡単に骨子だけ述べておく。

プルーストは『サント=ブーヴに反論する』の中の「サント=ブーヴの方法」という中心的な章の一つをこう始めている。

≪この世で一番言いたく思ってきたことを、突然二度と言えなくなってしまうのでは、と危惧するような時期に、なんなら状況にといってもいいが、私は立ち至っている。感受性の衰弱と才能の破産のせいで、一番言いたかったことというのはもう無理だとしても、その次ぐらいの、きわめて高くきわめて内密な理想と比べれば評価はおのずと低いが、これまでどこでも読んだ憶えはないし、今言わなければ言わずじまいになってしまいそうな、いずれにせよ私たちの精神のさして深からぬ部分に関わると知れた事柄、それをしも言えなくなってしまうのでは、と恐れるわけだ。[…]ここで習い性となった怠惰にとどめを刺し、「光あるうちに仕事をせよ」というヨハネ伝のキリストの良き戒めに従いたいと考える≫(前掲、25頁)。

ここで怠惰と訣別してプルーストが言おうとしているのは、「この世で一番言いたく思ってきたこと」ではなく、少なくとも最低限言っておかねばならないことである。「サント=ブーヴについて、それなりに重要な事柄」(同上)を言おうと決心しているのは、サント=ブーヴの才能の浪費を嘆きもし、また浪費されるほかない才能のあり方というものがあると喝破してみせたプルーストその人である。プルーストはこの並行性に――少なくとも方法論のレベルでは――意識的である。「サント=ブーヴを話題に上せつつ、彼自身がよく使った手だけれども、私はこの人物を、生のさまざまな様相を語るための良き手がかりにしてみたいのだ」。

≪おそらく、『月曜閑談』以後、サント=ブーヴは、単に生活態度を変えただけではなく、強いられてやむなく仕事をする今の生活のほうが、生来、無為に流れやすくて、強制されないと自分の持つ富を放出できないたちの人間には、結局のところずっと多産でもあるし、またぜひ必要なものでもあるという思想に登りつめる――と言えるほど高次な思想ではなさそうだ――辿りつくことになる≫(前掲、36頁)。

才能はまったく発揮しないより浪費されたほうがマシだ、というあまり高尚とは言えない思想――林達夫や浅田彰や、多くのスマートで博覧強記の知識人を想起させる思想――と縁を切り、孤独のうちに籠もり、自分自身と真摯に向き合って文学の仕事に邁進せねばならない。あたかも反面教師に対するように、あたかも自分自身に言い聞かせるように、プルーストは言う。サント=ブーヴは、一度たりとも、詩的感興や文学上の作業には特殊性があり、文学の仕事は、一般の人たちのさまざまな仕事とも、作家自身の、文学以外の仕事とも、まるで違うものだということが分からなかったとおぼしい、と。

≪孤独に浸りつつ、自分のものでもあれば、他人のものでもあるような言葉には、沈黙を命ずる。たとえひとりきりでいようと、自分になりきらないまま物事を判断しているようなとき、私たちが使っている言葉は黙らせてしまう。そして自分自身にあらためて面と向かい合い、おのが心の真の響きを聞き取ってそのまま表現しようとする。それが文学の仕事というものだろうが、サント=ブーヴは、この仕事と会話とのあいだに、どんな境界線も引こうとしなかった。「書くこと…」

実際には、作家が一般読者に提示するのは、ひとりきりで、ひたすら自分のために書いたものであって、それこそが彼自身の作品なのである≫(前掲、34-35頁)。

著者・作家に対するこのような視点は、当然読者との関係、ひいては作品概念をも規定している。

≪…こうして彼[サント=ブーヴ]には、自分の紙上批評が、何かアーチのようなものに思えてくる。起点はたしかに自分の思索や文章の中にあるのだが、終点は読者の心の中にまで延び、讃嘆の念にまで届いていて、そこでようやく虹の円弧も完成するし、色彩も最終的に仕上がるというわけだ。[…]

新聞記事の美は、あげて書かれた記事にあるというわけにはいかない。総仕上げをしてくれる読者の胸裡から切り離されてしまえば、ただの毀れたヴィーナス像にすぎない。そして新聞記事の美は、読者大衆からこそ最終的な表現を汲むものである以上(選りすぐりの大衆であったとしても同じことだ)、その表現にはいつも幾分か通俗的なところがある。あれこれの読者の、声なき賛同を思い描きつつ、新聞寄稿家は自分の言葉の重みを量り、言葉と思索の釣り合いを取ろうとする。したがって彼の作品は、意識的にではないにせよ、他人の協力を得つつ書かれていて、その分だけ、彼独自のものとは言いにくくなっている≫(41-42頁)。


サント=ブーヴを批判しつつ、彼の手法に依拠するとはどういうことか。批評という文学活動の「余技」「灰汁(あく)」のようなものがもつ読者との根本的な対話があるのである。そしてその批評はプルーストが「この世で一番言いたく思ってきたこと」、文学的営為の結晶とすら無関係ではない。このテーゼの論証はしない。これは論文ではないからだ。

最後に、ブーレーズの言葉を引いておく。思えば、ドゥルーズが「より深いというのではないが、別種の、暗黙裡の、(彼は自分の著作の中でしばしばプルーストを引用しているが)言外の関係」をブーレーズと結んでいるものとして指名したのは、マラルメでも、ミショーでもシャールでもなく、プルーストであった(『エクラ/ブーレーズ 響き合う言葉と音楽』、笠羽映子訳、青土社、2006年、299頁)。

≪PB:けれども、小説が進行していくにつれ、形式的な進展がいっそう目立ってきます。それで、『失われた時を求めて』は物語自体についての省察となり、内省は鋭さを増し、芸術創造の核心に触れる問題が扱われていきます。章が進むにつれ、小説としての小説は重要性を失うことが分かります。[…]

彼の結論?文学作品はそれを読む人によって作られるということです。当時としては、そうした記念碑的な作品と向き合う際、人々を面食らわせる結論でした。結局、創造家は、読者を証人とするんです。

――いささか過小評価的な理屈ですね…

PB:そんなことはありません。逆に素晴らしく実り豊かです。プルーストは「作品は、私がそれに与えた意味だけではなく、読者であるあなたが、読むたびに与える意味をも持つ」と指摘していますからね。それは、作者の占有物としての作品を否認することになりますが[言うまでもなく所有の問題系である]、それを読んだり、眺めたり、聴いたりする人のために、作品を昇華することになるのです。

この機会に指摘しておくなら、未完の作品や構想中の仕事はしばしば人々の想像力を豊かにする可能性をもっています。[…]未完の絵をまず嘆賞すべしと言っているのではありません。私が問題にしているのは、示唆に富んだ、意味深いアプローチです。というのも、『失われた時を求めて』の最後の巻は、大急ぎで仕上げられていて、デコボコや矛盾を免れていないのですが、その代わり、文学創造の方法に関する新たな世界を私たちに示してくれているのです≫(上掲、322-323頁)。

Thursday, March 22, 2007

大局観(2)日本と世界

友人たちが最近数ヶ月に刊行した本をまとめて紹介しておく。

Gilles Deleuze, Georges Canguilhem, Il significato della vita, a cura di Giuseppe Bianco, Mimesis Edizioni, nov. 2006.

(友人とはもちろん御大二人ではなく、ビアンコである。なかなか面白い奴なので、トゥールーズに呼ぶようゴダールに提案したら、彼ものってくれた。ゴダールはレン同様、「大局観」ということを本当に理解している数少ない友人だ。大局観を持つのに、年齢も地位も関係ない。)

Arnaud Bouaniche, Deleuze, une introduction, Presse Pocket, jan. 2007.

Philippe Sabot, Lire Les mots et les choses de Michel Foucault, PUF, coll. "Quadrige/Manuels", nov. 2006.

*

「コレギウムとは何か?」の項に、CPの公式サイトのアドレスを追加しておいたので、興味のある方はどうぞ。去年はデリダ追悼ということで、サリス、ベニントン、ローラー。今年は、解釈学系らしい。テーマは「解釈、言語、イメージ」。

来年2008年のディレクターは、今年のセッション終了直前に公にされる。具体的な募集は来年からになるだろう。

重要なのはここに大挙して日本人の院生が押しかけることではない。それではパリのブランドショップと同じ現象が起きてしまう。

なぜブランド品を買うのか?目に見えない「雰囲気」を身につけるためでなくて、他にあさましい所有欲以外の何があろうか?雰囲気を感じとることが最も大事なのに、集団で、彼らの「地」のスタイル(服装ではなく)で行くことで、まさに求めるべき「何か」を壊してしまう。挙句の果てに、金を払って動物並みに扱われ、見下されて「オトクな買い物」と満足する――こんなことでエレガンスが得られるはずもない。

同様に、むやみに学生を送り込んでも、学生にも向こうにも大したメリットはなく、所期の目的を達成することはできまい。むしろ教官の側が優秀な学生を精選して送り込んだほうがいい。

学生の側にもというのは、悪平等では、実効的な研究者養成は達成できないからである。ここでもまた、大局観が必要なのだ。偽のエリート主義ではない、本物のエリート教育が必要なのである。
(エリート教育という言葉がきわめて評判が悪いことは十分に承知している。そして、呆れる前に、なぜ自分がそれほど毛嫌いするのかを考え抜いてほしいと思っている。誤解を防ぐために言っておくが、私はエリートではなかったし、今でもエリートではない。だからこそ、制度が存在しなかったことを人一倍嘆き、また、そのような制度の確立が研究レベルの向上、独創性の発現のために必須事項であると思っている。
制度がなかったというのは言いすぎだろう。私は私なりの理想の場所、私の分野ではそれでも最も堅固な教育を施してくれる場所を見つけえたのだから。私は大学院を選ぶ際の基準の一つとして、自分のやりたいことを教えてくれる場所ではなく、やりたくないので、一人だと決してやらないであろうことをみっちり仕込んでくれる場所を選んだ。もちろんこういう考えをすべての人に勧めているわけではない。
いずれにせよ、デカルトはラフレーシ学院なしでは育ち得なかったし、デリダやドゥルーズはノルマルに代表されるフランスの堅固な教育・研究制度の「成果」であると私は確信している。堅固な教育・研究制度のないところに稀代の反逆児など現れようもないのである。)

向こうにもというのは、アメリカがせっかく長年かけて作り上げてきたシステムを体験させてもらうのだから、やはり遠慮は必要だということである(アメリカ側の参加学生のレベルはたぶん日本の平均とそう変わらない。それでいい。私たちとは目的が異なるのだから)。

体験は、それがどんな体験でも、貴重なものにしてあげるべきだと思う。コレギウムの体験は彼らにとって生涯忘れられないものとなるだろう。私もまた、サイトの写真を見ると、あの夏を思い出し――2003年、ヨーロッパ中が記録的な猛暑に苛まれていた――、しばし感傷に耽る。

Wednesday, March 21, 2007

大局観(1)地方と中央

今年の業績報告書作成。掲載予定も含めて論文9本(フランス語4本、独語から仏語への翻訳1本、日本語3本、英語1本)、発表は今度のトゥールーズを入れずに5つ(フランス語2つ、日本語3つ)。我ながらよく仕事をした。あとは二三ヶ月に一本のペースで、いかに個々の仕事のレベルを上げていけるか。

***

歳を重ねるほど、失望は深くなる。フランス哲学・思想研究の置かれた現状に関して、大局観を持たない無邪気な人々は四十代だろうが、五十、六十代だろうが、いる。年齢、地位、風評など本当に当てにならないものだ(強調しておくが、研究者としての能力とも直接関係はない)。

むろん、嘆けばいいというものではない。「今、ほんと何もかも駄目だよね」。日本を知的砂漠と評したければそれも結構だが、問題はどこにあるのかという具体的な現状分析、具体的な処方箋の模索がなければ、そんな言葉には何の意味もない。

地方の――といっても、日本有数の大都市なのであるが――学生にも普段聞く機会のない世界標準レベルの哲学的議論、それも代表的なフランス人哲学者とフランス語で行なわれる議論を肌で感じてもらおうと私が提案したことがあった、としよう。

「東京でやったほうがいい。」
「東京でやることは既に決まってるんです。その上で、地方でもやろうということなんです。」
「東京で二回やったほうがいい。私も呼んでくれ。」
「…」

私は地方大学の実態・今どきの学生の平均レベルを知らないわけではない。地方の大学教員の「悲哀」を直接間接に聞いてもいる。けれど、だからといって、希望を失って(あるいは自分本位の希望を胸に)、自分の学生たちの未来の可能性までも奪っていいのか。もしかしたら、気まぐれからシンポジウムに顔を出し、それがきっかけ(ショック療法?)となって真剣な勉強を始めるかもしれないではないか。

戦にはグローバルに勝てばよいのであって、将来への先行投資として「覚悟の負け戦」が一部あってもいい。大局観とはそういうものだ。

人は往々にして理念の力をもはや信じられなくなった者に「枯淡の風」や「泰然自若」を見て取ってしまい、理念の力を信じ続けようと努める者を「幼い」「若い」と評する。だが、私に言わせれば逆である。大局観を持たない者は、精神年齢において、永遠に「幼く」「若い」ままなのだ。

*

今度のトゥールーズ篇のヴィデオ撮影とは、これのことを言っているらしい。フランス南西部の大学が共同してやっているらしい哲学科修士課程のワークショップの模様を見ることができる(『アンチ・オイディプス』について)。今度のメンバーとずいぶん重なっている。

この地方大学(連合)の健闘、いや奮闘をどう見るべきか。「できない」「無理だ」「意味がない」と言う前に、やるべきことがあるのではないか?やれることがあるのではないか?

私たちは、どこから始めるべきか。何から始めるべきか。人を年齢や地位や風評でしか判断できず、現状を打算や政治的力学、人間関係のしがらみでしか判断できない者たちよ、何度でも繰り返す、哲学の歌を聴け。

Tuesday, March 20, 2007

プルーストとサント=ブーヴ(1)月曜閑談

15日、無事要旨提出。18日、26日の会合に向けて原稿を用意。この二三日は三つの仕事を一挙に片付ける効率のいい仕事の仕方を考え、また少しだけ実践できた気がする。

*

恋は盲目というが、ファン心理はごく当然の真理までも見えなくさせてしまう。中途半端にアカデミックな「常識」では、ドゥルーズは「当然」ベルクソンより「深く」、マラルメは「当然」ヴェルレーヌより「深く」、プルーストは「当然」サント=ブーヴより「深い」。しかし、問題はむしろその「深さ」が、異なる尺度で測られるべきものに対して強引にただ一つの尺度が押し付けられた結果ではないのか、つまり蜃気楼の産物ではないのかどうかを知ることなのである。

プルースト(Marcel Proust, 1871-1922)の「サント=ブーヴに反論する」(Contre Sainte-Beuve)はいつ読んでもぎくりとさせられる。とりわけこのブログに書き込んでいるときには。それが月曜であったりするとなおさら。

念のために言っておけば、サント=ブーヴ(Charles Augustin de Sainte-Beuve, 1804-1869)とは、近代批評の父であり、代表作に『月曜閑談』(Causeries du lundi)がある(例のごとくGallicaで原本を見られる。この第15巻にはルソーやヴォルテールなどのほかに、ド・メーストルやトクヴィル、サン=シモンらの名前が見える)。

≪友人のために、自分のために、また、おそらくは書かれずじまいになったはずの、長いこと想を練ってきた作品のために、彼としては大事に取っておくつもりだったものが、十年間にわたってことごとく形を成し、次々に世に出ることになってしまった。

貴重な思索をぎっしり収めた貯蔵庫があって、一篇の小説をまわりに結晶させるべき核も、いずれは詩に発展したかもしれない材料も、かつて美しさに感じ入ったことのある事物も容れたまま、書評すべき本を読んでいるサント=ブーヴの思考の奥底からせりあがってくる。


すると彼は、律儀にも、より美しい捧げ物をするためとばかり、最愛のイサク、至高のイフィゲネイアのほうを生贄にしてしまうのである。

十年の間、月曜ごとに打ち上げたあの類なく華やかな花火を作るのに、もっと長続きする書物の原料となるべきものをぶちこんでしまったので、原料は、以後、底をついてしまったのだとも言えよう。≫(『プルースト評論選』第I巻「文学篇」、保苅瑞穂(ほかり・みずほ)編、ちくま文庫、2002年、38頁)。

プルーストとサント=ブーヴの距離が明らかに遠い箇所は論ずるに及ばない――「サント=ブーヴは文学を総体として『月曜閑談』の類と見なしていた」「彼は文学を時間の相の下に眺めていた」「彼の書物は、さまざまな対談相手を招いた一連の社交場といった趣がある」など。プルーストは安心しきって攻撃している。

けれど、プルーストがあそこまで執拗にサント=ブーヴを批判せずにいられなかった理由を訊ねていくと、二人の距離は必ずしも遠くはない。

しかし、それはまた次の機会にしよう。私のプルーストの声が聞こえてきそうだ。まだ大したこともしていないのだから「自己内対話」が大事だというのはそのとおりだが、対話を「作品」に結実させるなおいっそうの努力を、という声が…。お前なりに精一杯のopus magnumを書け、と。

Friday, March 16, 2007

老いたり、ゴト師(晩年の林達夫を聴く)

ネット上で哲学オリンピアードという代物にぶつかる。
国際哲学オリンピアード(International Philosophy Olympiad,
略称:IPO)は、元々1993年にブルガリアで始まったグローバルな哲学教育運動です。次代を背負う若者たちの物の考え方を哲学的に涵養し、訓練することを目的として、参加国の高校生に外国語(英独仏)によるエッセイ・コンテストを毎年一回(通例五月)に実施してきました。日本は、2001年5月に、米国のフィラデルフィアで開催された第九回IPOに初めて参加しました。
実態を知らないので何とも言えないが(というのも往々にして哲学という名称はさまざまなイデオロギーに利用されるから)、理念には興味を惹かれる。しかし、現代の日本の高校生に可能なのだろうか?

*

やはり一月半ほど前に書いたもの。

***




近くに図書館があるというのはとても幸せだ。かなり定期的に利用している。私は一時期古本屋に精通していたが、この「カセットできく学芸諸家シリーズ」など、図書館でないとお目にかからない気がする。

で、期待して聞いた。なにしろ日本の誇るエンシクロペディストにして軽妙洒脱なエッセイスト林達夫である。

が、失望した。なにしろ話が長いうえに、下手だ。彼の喋り方はいかにもインテリくさい節回しの訥々としたものだが、問題はそこではない。私はそういう喋り方は嫌いではない。肝心の「三つのドン・ファン」の中身がぜんぜん貧相なのである。

まず、前置きに三十分。自分と岩波書店の関わりについて(和辻より年上、とか)。そのうちになんとなくドンジュアンの翻訳の話になるが、これも「前ふり」ではなく、エディションがどうだの、こんな訳もある(鈴木力衛より年上、とか)、あんな訳もある(石川淳も訳していた、とか)、といった話で、ちっとも「三つのドン・ファン」にいかない。それなら「日本のドン・ファン翻訳百面相」とでも題して話せばいいのに。

モリエールの生誕三百周年だから、彼の『ドン・ジュアン』が他の二つ(ティルソ・デ・モリナとモーツァルト)に比してクローズアップされるのは当然だが、そうなるのかと思ったらそうでもない。延々と『タルチュフ』や『守銭奴』の話をやってA面が終わる。つまり、四十五分間、比較にほとんど入らなかったわけだ。それなのに、「僕に言わせりゃ時間が短くって」などとのたまわっている。このテープだけから判断すると、悪しきペダンティストという印象を免れない。以って他山の石とすべし。。

面白かった点。

・ファウストは実在の人物からとられているのに対し、ドン・ファンはティルソ・デ・モリナの完全な創作らしいこと。ただし、ファン(フアン、ホアン)はありふれた名である。

・ティルソ・デ・モリナの『ドン・ファン』は基本的に説教劇で、直前の作『不信堕地獄』と並べてみるとその意味がよく分かる(らしい)ということ。『不信堕地獄』では、道徳心を持たないが神を信じきっている大悪党が死の淵でも神への絶対的な信頼を保ち、道徳心を持ってはいるがどこか神を信じきれていない僧侶を動揺させる。その隙に付け込んだ悪魔は、大悪党が天国へ行く姿を僧侶に見せ、彼の信仰を打ち破る…。このスキャンダラスな演劇に宗教界は騒然となり、自作の援護のために、ティルソ・デ・モリナは、今度は『ドン・ファン』で徹底的な悪党が地獄に堕ちる、という劇を書いた、というわけである。

それ以外は知っていたことばかりだ。つまりモリエールについては昔勉強したこと以上の何も得るものがなかった。

林の結論:モリエールの『ドン・ジュアン』はさまざまに解釈でき、この意味のバロック的多義性、多層性こそが重要だ。

モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』は「薄っぺら」の一言で片付けられて、ダ・ポンティの寄与とか、キェルケゴールの解釈とか、まるで切り捨てられている。おいおい。

唯一考えつく弁護は、77歳だから仕方がない、ということかしら。もっと若い頃は、もっと話が上手かったのか。ともかくこのテープはお奨めできない。

Thursday, March 15, 2007

ゴト師、林達夫(下)…と資本主義

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この頃の林達夫は冴えていた。三木の「剽窃」騒動を、彼は「学問の共有と私有」の問題構成と結びつける。剽窃、広く盗みの問題は、プルードンを引くまでもなく所有権の問題であり、私有財産の問題なのである。

≪資本家的大盗人から同輩的コソ泥に至る一連の、学問を金にしようとする泥棒…金、金、金…学説所有権の擁護の叫びは、だからとりもなおさずこれらの学問泥棒に対する学者の生活権擁護の叫びにほかならないのだ。学問が社会の共有財産であらねばならぬのに、しかもこれをあくまでも神聖なる私有財産視しなければならぬのは、実にここにその根拠をもっているのである。

かくて資本主義社会では「剽窃」も多くこの角度から取り上げられる面を有し、それが「不労所得」を意味し、「窃盗罪」を構成する場合も少なくないのだ。

では、人は何とかしてこの学問的共有と私有との深い矛盾を取り除くことができるであろうか。我々にとって明らかな一事は、かかる矛盾の克服は現在のままでは資本主義的体制の埒内では決してできないということである。

かくて「剽窃」の問題も資本主義の存続する限り、唾棄すべき財産的犯罪の問題として提起せられる一面を常に保持し続けるであろう≫(『林達夫著作集』、第4巻「批評の弁証法」、平凡社、1971年、158-159頁)。

知的所有権以上に哲学的に問題になりうるのが、固有身体の所有ではないだろうか。いずれ「愛と所有:結婚の形而上学とその脱構築」という研究に取り掛かりたいと思っている。

*

林達夫は、日本の思想界において一流の「ゴト師」であった。例えば、彼の西田論「思想の文学的形態」を見よ。「随筆」と「随想」の区別から始まって、西田哲学を常に生成途上にある哲学行為の「随筆」と規定する手つきの鮮やかさ。

ただ、惜しむらくは、西田論の第二部「思想、文学、教育のフランス的三位一体について」が、単なるフランス論に終わり、この三位一体は我が国でどのように考えられ、とりわけ西田の哲学においてどのように考えられていたのかについて、突っ込んだ考察がなかったことだ。

林達夫の思考には――浅田彰にも言えることだが――ほぼ常に深さ、粘り強さが欠けている。西田は随筆的だがやはり哲学であり、林は哲学的だがやはり随筆なのである。パチプロとゴト師の違いと言えば、冗談にも程があると言われるだろうか。ならば、天才と秀才の違いと言おう。

≪鴎外→あらゆるものを内面的に理解しながらそのどれとも自己をidentifyしようとしない冷たさ、それは「秀才」の悲劇である。捨て身にならない。捨て身にならないですむから、――なぜなら、理解力を示すだけで常人よりはるかにすぐれた業績を残しうるから、「理解力に頼りすぎる」≫(丸山真男、『自己内対話』、みすず書房、1998年、5頁)。

天才とは自分の道において呆れるほど馬鹿になれる人のこと、極道になれる人のことを言う。道を極めると書いて、極道と読む。

Wednesday, March 14, 2007

ゴト師(壮年の林達夫を読む)(上)剽窃…

15日の締め切りが近づいてきた。5月下旬の仏文学会用の発表要旨提出期限である。メタファー論は今のところこれ以上進められない。アナロジーの問題を入れたい。この間の発表でも「メタファー論だけだと、きれいにまとまりすぎてる」と指摘を受けた。そのとおりだ。

rythmeとmesureを組み合わせたときのように、見掛けは似ているけれど実は異質で、しかし緊張関係にあるという二つの項を衝突させることで何かが見えてくる、という手法はスリリングで好きだ。メタファーとアナロジーがそうなるかどうかはまだ分からないが。

*

2月上旬に書いたもの。

***

さまざまな器具等を使用し、パチンコ店等で不正に出玉を獲得する人を「ゴト師」という。まあ要するに、いかさまをやる人のことと思ってもらえばいいだろう。ここでは、「ゴト師」という言葉をもちろん犯罪的な意味においてではなく、広義の意味で用いる。

*

林達夫は、広義の意味での「ゴト師」の側に自分を置き入れた。板垣直子の三木清に対する「剽窃」告発騒動のさなか、「いわゆる剽窃」(1933年)という文章で三木を擁護したときのことである。

「もっとも仮借なき《職業的》廓清家(レーニンのいわゆる職業的革命家と同じような尊敬的意味で)」たる板垣直子の「秋霜烈日の如き断罪的方法」に、林達夫は「多少ともかの中世的スコラ的宗教裁判方法に似通う形式主義、機械主義、末梢主義への危険」を嗅ぎ取る。

いわゆる剽窃は日本の今日の現象であるばかりでない。シェークスピアやモリエールやスタンダール。プラトンやデカルト。古来その独創性を以って鳴る西洋の大文豪や大学者のうちにさえ、証拠歴然たる剽窃行為が見出される(しかも当の張本人たちがその正当性を主張している)。

人類社会の共通現象であるとも言えそうで、となると、他人の思想や文句のドロボウ、インチキ師、ゴト師は、無数に世界を横行していることになる。何という恥ずべき、嘆かわしい犯罪的世界!

むろん林達夫はありとあらゆる剽窃を擁護しているのではない。「私がこんなことをいいだしたのは、いわゆる剽窃にはピンからキリまであるということがいいたかったからだ」。そこで林は、板垣夫人とはまったく異なる見解をもつ知識人を引く。アナトール・フランスである。

かつてドーデが剽窃のかどで攻撃されたとき、彼はドーデの擁護者として立ち、有名な「剽窃の擁護」を書いた。詳しく知りたい人のために原典を挙げておく。

Anatole France, "Apologie pour le plagiat", Le Temps, 4 janvier 1891, reprise dans La Vie littéraire, quatrième série, Paris, Calmann-Lévy, 1924, pp. 157-167.

BNFでは原本をウェブ上で読むことすらできる。日本の知識人の端くれとしては羨ましいというほかない。「フランスを羨ましがってばかりいないで、日本の厳しい現実を見たほうがいい」としたり顔で忠告してくれる人もいる。だが、まず夢見るところから始めなくて、この国に何が残されているのか。

アナトール・フランスによれば、剽窃家とは、何でもかでも、他の家から家財でも雑巾でもゴミ箱でも滅茶苦茶に盗んでくる人間のことであって、かかる輩は思想の殿堂に住むに値しない。

「だが、他人から自分に適したもの、得になるものだけを取る作家、選択することを心得ている作家について言うならば、それは立派な人間である」。

また、アナトール・フランスによれば、それは「節度の問題」でもある。「人はミツバチのように他に迷惑をかけずに盗むことができる。だが、穀粒をまるごと略奪するアリの盗みは決して真似してはならぬ」。
つまり剽窃には二つあるのだ。法のレベルに納まるものと、法の概念そのものを揺るがし、ひそかにその根本的刷新を促すものと(アンチゴネーを剽窃の問題から考えることも出来るかもしれない)。

Tuesday, March 13, 2007

自己内対話(ブログに抗するブログ)

murakamiさんからまたまた重要な指摘をいただく。さらに追加情報もいただいた。
http://philosophy.cognitom.com/exec/page/page20050703222358/

他の人に誤解のないように言っておけば、私がmurakamiさんに敬愛の情を抱くのは、彼が彼のフィールドで精力的に活躍されているからであって、彼が私のブログを読んでくれる、あるいはそこに書き込んでくれるからではもちろんない。

思想における友情あるいは愛は、ブログへの書き込みからは生じない。なぜならブログも書き込みも所詮その程度のものでしかないからだ(これは日常会話でも同じである。社交的に振舞うことはどんな場合にも望ましいことだが、そこに過剰な意味を見出すべきではない)。

少なくとも思想の世界では――いや、おそらくありとあらゆるプロフェッショナルの世界でも同様だろう――逆なのだ。大事なのは「人」ではない、「アイデア」だ。あらゆる意味におけるideaである。

したがって思想的ブログにおいて大事なのは、思考の断片的なアイデアが流通すること、最低限、貴重な情報が流通すること、そしてそれらが電脳空間の外で現実化・具体化することだ。実際の「出会い」が、効果的な「出来事」がそこを通じて(そこから、ではないとしても)生じること、それがすべてである。

この「外部」はまた、思想の「外部」でもなければならない。私が、この思想系ブログ以外のブログ(政治・社会系、語学系…)を、区別しつつも、連動させているのはそのためである。ドゥルーズの言うとおりなのだ。

≪ある一つの分野はみな、それぞれの仕方で非なるものと関係している。

芸術は、芸術家でないこの私たちを育成し、覚醒させ、私たちに感覚する仕方を教え、哲学は概念的に理解する仕方を教え、科学は認識する仕方を教える――それだけのことを言っているのではない。そのような教育法が可能になるのは、それぞれの分野に関わっている〈非〉に対して、その分野がそれ自身の側で本質的に関係している場合だけである。

芸術が非芸術を必要とし、科学が非科学を必要としているように、哲学は、哲学を理解している或る非哲学を必要とし、非哲学的理解を必要としているのだ≫(『哲学とは何か』結論)

ここに丸山真男の言葉が反響する。

≪若いうちに、感受の弾力性があるうちに、異質的なものと対決せよ。Stirb und werde ! ≫(『自己内対話』)

私のブログはブログ的ではない。ブログは、私が研究論文としてでなくエッセイという形で言いたいことを載せる最良の形態ではないのだろう。別にそれで結構だ。私にとって、ブログとは「井戸端会議と投瓶通信のあいだ」(penses-bêtes japonais, 2007年2月4日の項)にある何かなのである。

さらに、こうも付け加えよう。時流に抗して、私が思想的ブログでまず突き詰めたいと思っているのは、自己内対話のほうなのだ、と。

≪国際交流よりも国内交流を、国内交流よりも、人格内交流を!自己自身の中で対話をもたぬ者がどうしてコミュニケーションによる進歩を信じられるのか。

論争がしばしば無意味で不毛なのは、論争者がただもっともらしいレトリックで自己の嗜好を相互にぶつけ合っているからである。自己内対話は、自分の嫌いなものを自分の精神の中に位置づけ、あたかもそれが好きであるかのような自分を想定し、その立場に立って自然的自我と対話することである。他在において認識するとはそういうことだ。≫(丸山真男、『自己内対話』。1967年3月の最終講義メモ)

「まず」とわざわざ強調したのは、英語で『日本政治思想史』や『日本の思想』を発表し、座談の名手であった丸山のこの文章内に、不可視の、しかし確固たる「まず」を読み取れない読者のことを慮ってである。私は常に「両面作戦」(pratiques théoriques, 2004年11月1日の項)の支持者である。

Friday, March 09, 2007

制度の唯物論(脱構築の前に構築を!)

まだまだ先だと思っていたら、仏文学会用の論文の締め切りが迫っていた。この数日、慌てて見直し。日仏哲学会よりは紙数に余裕があるので、割と細部まで盛り込める。というわけで、「催眠」論文脱稿。後は結果を待つのみ。

*

「コレギウムとは何か」の項に、尊敬するmurakamiさんからコメントをいただいた。

そうですね、私にもどうすればいいのか分かりませんが、おそらく劇的な治療法はないのでしょうね。

ただ、解決策はないとしても、地道な対処法はあります。例えば、学術雑誌の作り方です。

仏文学会の雑誌『フランス語フランス文学研究』は、学会発表を行なった者の中で選抜を行ない、研究論文を書く権利を与えるのですが、その際、フランス語論文8本、日本語論文4本と定められています。

つまり、日本語論文の数を少なく限定しているのです。仏文学会が本当のところ、どういう「意図」でこの比率を決定しているのかは知りませんが、執筆者に与える「効果」は明白です。掲載されたければ、フランス語で執筆したほうが圧倒的に可能性が上がるのです。

こうして制度が意識を少しずつ変えていき、仏語能力の地道な向上につながっていく、という「制度の唯物論」(笑)があるわけです。

翻って、例えば日仏哲学会の雑誌『フランス哲学・思想研究』はどうでしょうか?

(他の人にも誤解のないように言っておくと、もちろん両雑誌の内容や質を云々しているわけではありません。言語の問題を論じているのです。)

まず言語による「枠」がありません。そうなると、結果は火を見るより明らかです。最新号である第11号を見てみると、仏語論文は公募論文7本中2本。一本はフランス人(前述の西田研究者のDalissierさん)、もう一本は私です。

むろん、これは学会の規模、それぞれのmilieuがもつ雰囲気というものも大きく関係しています。仏文学会は日本のフランス系の学会でおそらく最も規模が大きく、最も国際的に活躍している学会であり(現在の国際仏文学会の会長は、日本の仏文学会の会長である塩川徹也先生です)、フランス語で書くことが半ば自明視されているmilieuです。もともと仏語で書ける人が一定数以上いないと、せっかくの理想的な制度も成り立たないということはあります。

しかし、いずれにせよ、制度の善用とは言わないまでも、制度というものの持つ力をもっと積極的に活用すべきではないか、少なくとももっと意識的になるべきではないだろうか、と私は思っています。日本版アグレグを夢見るのも、そういうところから来ています(これについては、これまで断片的にこのブログに書いてきました)。

哲学科(フランス系)の人は仏文科の人から、仏文科は哲学科から、もっといろんなことを学べるのではないかと私は思っているのですが、なかなかどちらにも聞いてもらえません。ドイツ哲学と独文より親密な関係を築く可能性があるようにも思われるだけに、残念なことです。

コレギウムの話、ご一緒に進めていければこんなに嬉しいことはありません。実はもう若干進めつつあります。今度お会いしたときにでもお話しできれば。 hf

Thursday, March 08, 2007

制度と脱構築(Jean-Luc Amalric情報)

一月ほど前に書いたもの。デリダ・リクール論争についてまとめている途中での副産物。小ネタはすぐにあがるが、大ネタは。いずれまた。

***

さて、ジャン=リュック・アマルリックである。

『リクール、デリダ。隠喩の争点』という本を出した叢書"Philosophies"は、きわめて優れた叢書で、私のお気に入りの一つである。例外もあるが、もっぱら若手にある哲学者のあるトピックに絞って書かせることで有名だ。

(日本のように、すでに功なり名を遂げた研究者が入門書的な軽い本ばかり書くのは何重にも無駄だと思う。たまに息抜きに、というのならいいが、そればっかりのような気がするのだ。だいたい大家に限らず、著書でも翻訳書でも、アメリカ同様、入門書が多すぎる。もういいよ、そういうのは。短くてもいいから、一つのテーマに絞って力作を書いてほしい。

誰か、〈ベルクソン研究叢書〉をつくってほしい!グイエのは翻訳が進行中とのことだが、イポリットとかユッソンとかミレーとかアイドジックとか、良書を精選して。『年鑑』とか、良質論文を精選して。)

アマルリックを、「モンペリエ大教授」とおっしゃっている方がいるが、私の知る限りでは、彼は職業としては高校(Lycée Joffre)で教え、研究としてはCFPE(Crises et Frontières de la Pensée Européenne, EA738)という研究グループに間接的に所属して、博論執筆に励んでいる若手研究者である。

ネットというのは本当に恐ろしいもので、Jean-Luc Amalricの家計図まで調べられてしまう。それによると、父はJean-Claude Amalricという英米文学者であるようだとか、どうでもいいことまで分かってしまう。政治的な発言を行なっているな、とか。

アマルリックの関係しているCFPEには、私の知っているだけでも、エピステモ系のアナスタシオス・ブレンネール、コント研究のアニー・プチ、ハイデガー研究のマルレーヌ・ザラデールなどがいる。昨年惜しくも夭折してしまったフランソワ・ズラヴィシュヴィリもこのグループに属していたようだ。

*

ちなみに、フランスの研究機関でよくUMRとか見かけて、「あれは何だ」と思われている方があると思うが、研究単位のことである。私が様々な形でお世話になっているSavoirs, Textes, LangageはUMRだが、これはUnité Mixte de Recherche、上述のCFPEはEAだが、これはéquipe d'accueilの略である。大体、JE→EA→UMRという形で大きくなっていく。例えばこんな感じだ。略称についてはリンクのところにリストを挙げておいたので、参考にしていただきたい。

フランス現代思想やフランス哲学、フランス文学の研究者で、(フランスの)学問制度のことを知らない人がけっこういる。むろん、EAが何を意味するかを知らなければデリダの思想は分からないなどと言っているのではない。だが、それにしてもあまりにも制度ということに鈍感であり、無邪気すぎはしないか。

一方でデリダや脱構築に興味を持っていると言いつつ、他方で制度的なことを知ろうとしないのは矛盾している。デリダほど制度との距離どりを考えた人はいない。

-Peter Trifonas, The Ethics of Writing : Derrida, Deconstruction, and Pedagogy, 2000. プロフィールはこちら。
-Tom Cohen, Jacques Derrida and the Humanities: A Critical Reader (Cambridge University Press, 2002).
-Peter Trifonas and Michael A. Peters, Derrida, Deconstruction and Education: Ethics of Pedagogy and Research, Blackwell Publishing, 2004.
-Simon Morgan Wortham, Counter-Institutions: Jacques Derrida And the Question of the University, Fordham University Press, 2006. プロフィールはこちら。

彼がどうGREPHに関わったか、どうしてCIPhを創ろうとしたのか、もっと日本でも知られていいはずだ。デリダの訳者たちよ、うすっぺらい本を訳すほうが楽なのは分かるが(薄い本だってすでに大変というのもよく分かるが)、この「暗い時代」にあってデリダの大部の大学論・教育論であるDu droit à la philosophieが本の形でまず訳されるべきではないのか。

脱構築とは何よりもまず諸々の制度の脱構築である。学問とは研究者の頭の中だけで抽象的に構築されていくものではなく、それ自体歴史的に形成されてきた具体的な制度の上で、ほとんど唯物論的に形成されていくものなのだ。博論一つ取ったってそうだ(笑)。その自覚なしに、その自覚を実際に示す実践なしに、脱構築とは笑わせる。

Wednesday, March 07, 2007

サクラサク(Master Mundusの結果)

Master Mundus、どうやら日本人が複数名(主要リストに2名、補欠リストに1名)、通ったようです。告知・宣伝にご協力いただいた皆様、本当にありがとうございました。

受かられた皆様、栄えある第一号として思う存分、そして思い残すことのないよう、研鑽を積んできてくださいね。プロになりたいなら、本物のプロになりたいなら、二年間くらい猛烈に勉強する時期があってもいいと思います。

残念ながら届かなかった方、気を落とさずに。来年またチャレンジするつもりで、お励みください。

*

今回の結果(暫定的な合格発表)がウェブ上で公開されています。主要候補全15名のうち、南米が5名(ブラジル3、アルゼンチン2)、アジアが5名(中国3、日本2)、ロシア2名、カナダ・レバノン・ゲオルギア各1名という結果でした。南米・アジアはほぼ予測どおりでしたが、中東が1、合衆国がゼロというのは少し驚きました。

おそらく何らかの方針なり、各地域のinvisible quotaがあるのでしょうが、来年度以降徐々に「枠」を増やしていけるように、日本のフランス哲学研究者が共同で何かアクションを起こせればいいですね。

いつか、仏独英語で世界標準レベルの哲学的な議論をできるのが、当たり前とは言わずとも、珍しくはなくなる、もう語学力か哲学力かなどという議論がナンセンスでしかなくなる、そしてその結果、このMaster Mundusの有り難味が徐々に薄れていく、そんな日を夢見て。 hf

Tuesday, March 06, 2007

コレギウムとは何か?

3月2-3日、学習院大学人文科学研究所で行なわれたMichel Dalissier氏の「ベルクソンの読者としての西田」講演会を拝聴。すでにメールではやりとりしていたtm氏やys氏と初めて対面。年来のCollegium Japan構想を実現すべく、少しずつ動いていきたい。

***

まず、コレギウムのことを説明しておかねばならないだろう。正式名称はCollegium Phaenomenologicumである(公式サイトはこちら)。ジョン・サリスやジャック・タミノーがほぼ三十年前に創設したものだ。

アメリカの大陸系哲学研究者たちの夏のささやかな祭典と言っていいと思う。毎年7月中旬から8月上旬の三週間、イタリアのチッタ・ディ・カステッロ――ペルージャからそれほど遠くないところにある何もない田舎町だ。強いて言えば、モニカ・ベルッチを輩出した(笑)――で、行なわれるバカンスを兼ねた合宿である。

参加はアメリカ全土の教授レベル数人、助教授・講師・ポスドクレベル十数人、院生四十人程度。主催者・参加者は毎回かなり変わる。ベースはアメリカ人だが、院生には何割かヨーロッパ中の学生が混じる。私は2003,2004年の二年続けて参加したが、アジア人は私一人だった。

三週間で三人の哲学者の幾つかのテクストを読み、レクチャーコースを聴き、議論する。大体フランス(現代思想)系とドイツ系(ハイデガー)が一年ごとに来ている(ようにも思われる)。例えば2003年はベルクソン、レヴィナス、ドゥルーズ。2004年は、カント、シェリング、ハイデガーという感じである。

何がいいかというと、プログラムの仕方がいい。

月・午前:レクチャーコース(1)、午後:午前中の議論を踏まえて、ディスカッション
火・中堅による発表数本
水・午前:レクチャーコース(2)、午後:午前中の議論を踏まえて、ディスカッション
木・中堅による発表数本
金・午前:レクチャーコース(3)、午後:午前中の議論を踏まえて、ディスカッション
土:遠足
日:オーバーホール

朝は10時開始。レクチャーコースは、午前中まるまる2時間超、一人の哲学者のあるテーマについて一人の大物(ないし有望な中堅)がじっくりと話す。三日間あるからいろんな細部を扱える。いろんな人を呼ぶと幕の内弁当的にカラフルだが、「食い足りない」という現象が往々にして起きるものだが、それを回避できる。

午後は、その人の提示したテーゼについて、あるいは扱われたテクストについてディスカッションする。その際、ポイントは二つある。1)院生を数人程度のグループに分ける。皆で議論というのは効率が悪い。2)各グループに一人、若手研究者(講師、ポスドクレベル)をチューターにつけて、議論の進行役、まとめ役をさせる。議論は往々にして迷走しがちだからだ。

だらだら長くやればいいというものではない。集中してやって、午後は4時で終わり。あとはフリー。院生でサッカーしたりね、イタリアだけに。腰痛めたりとか(笑)。地元のイタリア人も飛び込み参加で、英語のできないイタリア人と、イタリア語のできないアメリカ人の間で、似非英語とインチキ伊語を操って通訳したり。楽しかったな。

しかし、同時に、こんな重量級の議論・濃密なディスカッションが連日立て続けでは、やる方もやられる方も身が持たない。そこで、飛び石にして、間に中堅どころの短い発表ばかりやる日を入れる。こうすることで、中堅も実力を発揮できる場が設けられる。聞くほうも目先が変わって気分転換になる。

こんな濃い一週間の後にはリフレッシュが必要だ。土曜日にはフィレンツェやアッシジなどに出かける。日曜日はゆっくり骨休め。とかいいながら、翌週の予習をしてたけど。

院生にも発表の場が与えられる。この三週間が始まる前日・前々日にPre-Conferenceというのがあり、そこで一人20分程度話すのである。

こういうのが三週間繰り返されるわけだ。大学の枠を超えて、研究者と学生の枠も超えて、ダイナミズムとリラックスの同居した合宿。むろん悪い点は幾らも挙げられるだろうが、私のような何もしていない日本人にそんなことを言う資格も権利もない。

ちなみに、参加費用は教授も院生もすべて自己負担で、報酬なし。自己負担といっても、欧米の場合は大学が負担してくれるわけですが(日本の場合はどうか分かりません)。

*

特に私が注目したいのは、2004年に参加したときのこと。ディスカッションには一グループだけ、ドイツ語オンリーのグループがあった。日本人同様に外国語のできないアメリカ人だが、ヨーロッパ人に混じって、頑張ってドイツ語を話している人もいた。

これを日本のフランス哲学業界でやりたいのである。規模はもちろんもっと小さくなる。期間もずっと短くなる。けれど、コンセプトとしてはこんな感じのことを、日本で、基本的にフランス語ないし英語で、やりたい。

日本人とフランス人(英米系も)の大物若干、中堅・若手数名、院生二十数名くらいで、例えば夏の一週間、軽井沢あたりに合宿する。連日、フランス語ないし英語で哲学的な議論をする環境を作り出す。これが私の構想するCollegium Japanプロジェクトです。

むろんすぐ始めることはできない。十分な下準備が必要である。まずは、本場のコレギウムを日本人の有望な中堅・若手研究者・院生に発表者・チューター・聴講者として「体験」してきていただくプランを考えている。参加にはアメリカないしヨーロッパの教授二名の推薦書が必要です。そういうわけで、興味のある方は、私までご連絡ください。

文句ばかり言っていても始まらない。具体的に変えていくこと、ほんの少しずつでも。

Friday, March 02, 2007

近況

23日、最近韓国で発表してこられたojamoさんに韓国のベルクソニアンを紹介していただく。どうもありがとうございました。

24日、SAB(Société des Amis de Bergson)、要するに国際ベルクソン学会のcorrespondant étrangerになってくれないかとの打診。もちろん喜んでお引き受けする。

27日、ynさんより、ラクー=ラバルト逝去の報受ける。リールで一度一緒にご飯を食べたことがあったっけ。今はただ、ご冥福をお祈りします。


Les vendredis de la philosophie
vendredi 2 mars 2007 La grammaire politique d'Antonio Negri, avec lui-meme
vendredi 16 mars 2007 Philippe Lacoue-Labarthe
となっています。放送後、一週間はネット上で聞けますし、Podcastも可能です。 念のため、リベラシオン紙掲載のナンシーの追悼文も転送しておきます。では失礼します。

もう一本、深く静かに進行中の企画について、あまり良くないメールをいただく。院生を適当に並べてお茶を濁す、だって!?どうすれば志は理解されるのか?粘り強く、粘り強く。

28日、ようやく「呼びかけ」論文校正提出。できるかぎりレベルを上げようと悪戦苦闘。限られた時間の中でやれることはかなりやったと思うが、あまり満足していない。

遅れに遅れて、今日から「ベルクソンの手」改稿に本格的に取り掛かる。しばらく前から技術論関係の本を読んでいるのだが、まだ新しいアイデアを思いつくまでには至っていない。

例のトゥールーズ遠征、なんとヴィデオ撮影されるらしい。カナル・フィロでオンライン化されるかも、という話。乗り気ではないが、許可した。日本の哲学者がフランスでどんな風に戦っているか、日本でも見られるようになる。少しでも〈時代状況の閉塞〉を変えていければと思ってのこと。笑いたい奴は笑え。

語学能力か哲学能力か、などとありもしない不毛な二者択一で自分の怠惰を誤魔化すのは、いい加減やめるべきだ。両方必要に決まってるじゃないか。

Friday, February 23, 2007

近況(ゼミでやるべき三つのこと)

2月17-18日 合宿飛び込み参加。しゃべりまくって疲れる。自分としては一応「恩返し」のつもりなのだが、理解されているかどうか。まあ、「呼びかけ」はなされた。あとは、呼びかけられた人が気づくかどうかだが、こればかりはね。

ちなみに、その場で言ったことだが、ゼミなどでやるべきこと、ゼミの効用は三つある。一つは、発表そのものに関わることで、自分の考えを整理して発表をし、他人のコメントをもらうこと、あるいは他人の発表を聞くことだ。そのとき、ただ漫然と聴かずに、自分だったらどうするか、どこをどう直してあげるとさらにいい発表になるのかを考えながら聴くといい。

二つ目は、先生(方)、他の学生たちのコメントの仕方を観察すること。発表に対してコメントをするというのも一つの重要な技術であり、立派な教育だ。彼らはその発表をどんな風に良くしてあげようとしているのか、に注意しながら聴く。全体の構造をきちんと把握できている的確なコメントは、偉大な指揮者のinterprétationに似て心地よい。うまいinterventionをできる人を観察して「技を盗む」こと。

三つ目は、その盗んだ技を自分自身試してみること、つまり失敗を恐れず積極果敢に質問してみることだ。むろん、質問したいこともないのに質問するのは、百害あって一利なし。奮うべき蛮勇と、単なる野蛮の違いを知るべし。


2月19日 大学紀要論文校正。28日最終締め切りだそうなので、もう少しだけ手を入れるつもり。

2月21日 友人宅で集まって発表三本、そのうち一人が私。「隠喩」論文を二十分程度、レジュメのみ原稿なしで喋った。評判は上々だが、「ベルクソンの隠喩論はデリダの先駆者」という言葉に困ってしまう。それを乗り越えないと凡百の研究と同じになる。なぜならベルクソンにデリダを見てしまうのは、私の凡庸な隠喩理解のしからしめるところだからだ。終わった後は楽しく鍋パーティ。詩の暗誦大会、続けたいな。

したがって、この十日間でやるべきこと。
大・「ベルクソンの手」英語論文バージョンアップ(三月上旬まで)。技術論関係読み直し。
中・身体論進める。
中・「呼びかけ」論文最終直し(28日提出)。
小・「隠喩」論文準備進める。

Wednesday, February 14, 2007

正和ではなく不和を!(中教審新会長選任)

《哲学は誰も救済せず、誰も哲学に救済を求めない。たとえ政治家、法律家、医者、その他あらゆる職能集団が審議会を開く際に、考えること一般の専門家として哲学者を招聘する習慣が、社会的要求に合わせた諸規則によって制度化されているとしても。この招聘が、何らかの思想的成果を挙げるためには、この出会いによって不和(mésentente)の点が特定されなければならない。》(ジャック・ランシエール、『不和あるいは了解なき了解 政治の哲学は可能か』、松葉祥一+大森秀臣+藤江成夫訳、インスクリプト、2005年)

わが国に哲学教授ではなく哲学者はいるのか?哲学科ではなく哲学はあるのか?もっとはっきり響く哲学の声を!

中教審総会 評論家の山崎正和氏を会長に選任
2月7日9時50分配信 毎日新聞

 1日付で任命された第4期中央教育審議会の総会が6日、東京都内のホテルで開かれ、委員の互選により、評論家の山崎正和氏(72)が会長に選任された。中教審は山崎新会長のもと、安倍晋三首相が今国会の成立を目指している学校教育法、地方教育行政法など教育関連3法に関する審議を行う。

 伊吹文明文部科学相は教育関連3法の改正に向け、「国会の都合を申しあげると恐縮だが、できれば2月中か3月早々にまとめていただきたい」とスピード審議を求めた。これを受け、山崎会長は「大臣のみならず内閣からの諮問なので、精力的に間に合うように議論していきたい」とあいさつした。

 各委員のあいさつでは、教育再生会議の教育委員会改革の方向性について、石井正弘・岡山県知事が「(地方が)独自性を発揮できる改革にしてもらいたい」などと批判した。【高山純二】

◇「改正」から制度設計へ=解説

 中央教育審議会の会長が6年ぶりに交代し、評論家の山崎正和氏が就任した。前会長の鳥居泰彦・文科省顧問の3期6年は教育基本法の「改正シフト」とも呼ばれ、与党・自民党の悲願とされた同法改正を受けて役割を終えた。第4期中教審をリードする山崎氏は、同法改正後の具体的な制度設計を担う。

 安倍晋三首相は教育再生を最重要課題に掲げ、今国会で学校教育法など教育関連3法案の成立を目指している。しかし国会優先の強行日程に、文科省からも「改正案の提出はできる。ただし中身は保証できない」との声が漏れる。

 政治主導の教育改革が進む中、山崎新会長と第4期委員はどのような姿勢で臨むのか。1月30日の第3期最後の総会で、委員から「中教審の役割は教育の政治的な中立性を確保することだ」と指摘する声が挙がった。審議の継続性を求める意見も出ている。

 中教審は今、存在意義と位置づけが問われている。文部科学省組織令では中教審の役割として、「文部科学大臣または関係行政機関の長に意見を述べること」と明記されている。

 まず政府や国会審議、教育再生会議と一定の距離を保ち、文科相らと対等の立場に立って、大所高所からの意見が求められる。また、各委員は、教育現場の主役である子どもや保護者、教員の声に耳を傾けてほしい。永田町だけに目を向けて、間違っても「拙速」に加担してはならない。【高山純二】

Tuesday, February 13, 2007

カタカナコトバ(思想書翻訳における)

大したことではないのだが折にふれて思うことというのがあって、その一つに、

「思想系の翻訳書でカタカナ表記をするというのは一体どういうことなのか」

というのがある。話を分かりやすくするために、私の知る限り最も過剰な例を挙げておこう。渡邊二郎氏の手になるハイデッガー『「ヒューマニズム」について』(ちくま学芸文庫、1997年)である。

すぐに言い添えておくが、この「非難」は訳文に関するものではないし、個人攻撃が目的でもない。さらに言っておけば、翻訳能力とは一切関係ない。この例を挙げるのは、ひとえにその過剰さが問題の本質をはっきりと浮き立たせてくれるものであるからに他ならない。
《サルトルは次のように言明している。すなわち、プレシゼマン・ヌー・ソンム・シュール・アン・プラン・ウー・イリヤ・スルマン・デ・ゾンム〔正確ニハ、私タチハ、タダ人間タチノミガイルヨウナ平面ノ上ニイル〕、と(『実存主義ハヒューマニズムデアル』三六頁)。右の命題に代えて、『存在と時間』のほうから思索されるならば、次のように言い述べられねばならないであろう。すなわち、プレシゼマン・ヌー・ソンム・シュール・アン・プラン・ウー・イリヤ・プランシパルマン・レートル〔正確ニハ、私タチハ、原理的ニハ存在ガ与エラレテイルヨウナ平面ノ上ニイル〕、と。》(66頁)

「il y aは、《es gibt》を不正確にしか翻訳していない」という一節がこの後に続く重要な箇所であるが、率直に言って私にはフランス語の部分がカタカナ表記される意味が理解できない。

非フランス語使用者にとって、この部分はアルファベットで記されようが、カタカナで記されようが、同じように目障りである。フランス語使用者にとって、カタカナでフランス語を読むことに肯定的な意味があるとも思えない。したがって、訳文だけを記すか、アルファベット表記するか、のいずれかが望ましいと思われる。

*

以上は文章に関する、しかも極端な例なので、異論はそれほどないと思うが、概念や固有名の場合はどうであろうか?

これはケース・バイ・ケースだろう。例えば、「エンテレケイア」「コナトゥス」「エラン・ヴィタル」ならカタカナ表記でもいい気がするし、「プラトン」「デカルト」「カント」を必ずアルファベット表記せよ、というのもたしかに馬鹿げている。よく知られたものに関しては従来どおりカタカナ表記でよいと思う。

しかし、新造語、のみならず、あまり知られていない固有名(人物名・地名)、従来とは異なる用法で強調して用いられている語などに関しては、それらがアカデミックな文脈において有用であると判断される限りにおいて、訳語とともにカタカナでなくアルファベット表記されるべきであると考える。

これに関しては、折衷的な解決策もありうる。訳語の横にカタカナ表記のルビを振る、という手である。たしかに、翻訳書の種類、読者層によっては、この解決策のほうがより効果的である場合もあろうことは否定しない。

*

なぜこんな些細な問題をつらつら考えるかというと、まずは自分自身の実感から来ている。

私自身、ドイツ語にそれほど習熟していないので、カタカナ表記されたドイツ語の語彙・概念をよりよく知ろうとして辞書を引いても、すぐにその言葉にたどり着けないことがある。そんなとき、「ああ、アルファベットで書いていてくれたら」と思ってしまうのである。

このことを友人に話すと、「そんな奇特な人間はほとんどいないのだから、そんな人のことを考慮に入れて翻訳などしていられない」と言われてしまう。それも分からないではない。原文挿入ならアルファベット、原語挿入ならカタカナルビ、啓蒙書ならそもそも挿入なし、という原則でも良さそうな気もする。

しかしまた、翻訳はアマからプロになろうとする者の熱意を拒むものであってはならないのではないか、とも思う。カタカナ表記とは、アルファベットの異質さを隠蔽する似非民主主義的な折衷主義にすぎないのではないか、とも。

ハイデガーやデリダの文章のように、明らかに原文・原語で読むことを強いる文章というものがある。その場合、カタカナ表記で表層的に「読める」ものにしてしまうことは、本来その哲学が目指しているもの自体を損なっていはしないか。

結局、「学術書の翻訳はいったい誰のためのものか」、あるいは「アカデミックな学術書として翻訳する(あるいはしない)とはどういうことか」ということを考えてしまう。

一般に翻訳は「非専門家」ないし「非学者」のためのものであるが、しかしまた、学者が時間の節約のために翻訳書で済ますということも往々にしてある。学術書の翻訳はまさに学者のためと言えそうだが、しかしまた学術書を(啓蒙書とのグレーゾーンにある著作ならなおさら)いかにアカデミックに訳さないか、平明に砕いて訳すか、なるべくアルファベットを登場させず読者を萎縮・倦怠させないか、ということもまた、一つのポリティクスでありうる。

*

いずれにしても常に立ち戻るべきは、はじめて補助輪なしの自転車に乗れたときの喜び、かな。翻訳は、その喜びに至る手助けでなくてはならないのでしょう。

Friday, February 09, 2007

隠喩の退引(原語挿入、誤訳情報ページ)

締め切りが十日延びたので、思い切って「人格性」論文を解体し、本格的に組み立てなおすことにした。

焦眉の点は、長い序論―25頁中14頁。三回分載計75頁の序論だから、実はこれまでの私の基準からすると、それほど長くはないつもりだったのだが―をどの程度「隠喩」論文にもっていくか。しかしそうすると、逆に、「隠喩」論文の全体が見えないと「手術」にかかれない。

というわけで、以前からちらちら目を通していた隠喩論関係の本をふたたび読み始める。

『現代思想』1987年5月号「特集 メタファーの修辞学、意味の規則」。デリダとデイヴィッドソン、ある意味で二つの極を代表する隠喩論が日本語で読めるのは貴重である。デイヴィッドソンに関しては、畏友ssさんの文献解説もどうぞ。

それにしても、デリダの「隠喩の退-引」の翻訳(前半のみ。後半は翌月号に分載)は問題だ。翻訳の質が問題なのではなく、原語の挿入が甚だしいのである。

フランス現代思想を読んで思想形成を行なったので、私は原語の挿入には相当寛大なつもりだ。その私が言うのだから、かなりのものである。デリダの最終頁とデイヴィッドソンの冒頭を比較してみよう。緑の部分が原語挿入である(下の写真をクリックすると、拡大して読めるはずだ)。



デリダのほうの下段は、訳者付記なので、原語挿入はまだ他の頁より少ないくらいである。たしかに、難解な文を書き、複雑なレトリックを駆使することで有名なデリダのほかならぬレトリック論、隠喩論なので、デリダの「言葉遊び」がひどくなるであろうことは予想がつくし、訳者の苦労もひとかたならぬものがあろうとは思う。

だが、ハイデガーの反響を読み取ろうとして、デリダの原テクストにはないドイツ語を挿入するに至っては明らかにやりすぎであろう。しかも、訳注やルビを用いず原語挿入を選ぶという訳し方について説明するはずの「訳者付記その1」の書き方が、何と言えばいいのか、中途半端に思わせぶりで、いい加減にペダンティックなのである。要するに、ありもしない深みを匂わせようとして、こけている感じなのだ。「訳注」や「ルビ」について思うところがあるのなら、単純明快にそれを論じればいいではないか。
蛇足とは思うが訳者の理解した限りで以下に、議論の展開の跡を追い、あるいは通読に困難を感じられる読者の一助としていただくことで訳者としての務めを果たしたいと考える。(「デイビッドソン・メタファー論への註解」、上掲、68頁)
デイヴィッドソンの訳者・高藤(たかとう)直樹さんのこのような姿勢のほうがよほど「健全」に知的だと思うが、如何?

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ちなみに、上のデリダの件とは無関係だが、私があれやこれやの翻訳に注文を付けると「大した翻訳力もないくせに」という人がいる。しかし、それはちょっと筋が違うのではないか。

私に翻訳力があるかないかということと、いい翻訳を見分ける力があるかないかということは別である。問題が的確に指摘されているなら、それは批判であって非難ではない。

たしかに一般的に、文句をつけるのは容易い。それは、すでに数年前に「海の広さとerrata」(2000年12月26日の項)で述べたとおりである。また、たしかに誤訳をあげつらうのはいい趣味とは言えない。

が、また同時に、現在の学術出版の苦境に(少なくとも部分的には)由来する《誤訳の放置》という由々しい現状はどうするつもりなのか?

「出版社に誤訳を指摘した手紙を送ればいいんです。再版のときに直すでしょう」。なるほど、しかしそれは、もし再版されればの話である。それまで、読者はどうすればいいのか?出版社や訳者のproduct liabilityはないのか?

せっかく各出版社がHPを持つようになったのだから、それぞれの翻訳出版物に関して、誤訳情報ページを作ればいいのではないか。スレッド&チャート方式で、頁・行・誤訳のポイント(簡潔に)を読者に書き込んでもらうのである。これなら、忙しい編集者の手を煩わせない。もちろん定期的に訳者がチェックし(忙しいというなら、年に一回でもいい)、「たしかにこれは直したほうがいい」という指摘だけを「確定事項」にして、ページに残していく。

こうすれば、出版社としては、自社のPL精神をアピールできる。読者は、いつ来るか分からない再版を待たずとも、小規模の「バージョンアップ」を行なえる。パソコンのソフトであれば、小規模の(限定的)バージョンアップは無料で、大規模な(本格的)グレードアップは有料で、といった考え方が一定程度理解されていると思うのだが。要は、多少の誤訳は「セキュリティ・ホール」と考えて、無償で、早急に、対策を講じる、というスタンスだ。

これまで誤訳というもののあり方についてきちんと考えた人はいるのだろうか?どなたか面白い「誤訳論」をご存知の方はお教えください。

Thursday, February 08, 2007

百年の大計ではないのか(教育再生会議第一次報告)

今日は一日中「人格性」論文の直し。少しでも深く。苦手中の苦手なのだが、適切に深く。締め切りが十日ほど延びた。嬉しいやら、不安やら。

春のベル哲研(第21回)のお知らせ、hmさんどうもありがとう。困った、重なってる。他の人もいろんな情報お待ちしてます。

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私がゆとり教育の反対者のように見えたとすれば、それは誤解である。「ゆとり教育」は必要な改革過程であったと思っている。ただ、親にも、何よりもまず親にこそ、ゆとりが与えられるべきであり、親が自覚的にゆとりを求めて闘うべきであったと思っているのである。

「ゆとり教育」の“戦犯”(Web現代、2003年10月22日)
論旨が読み取りづらいが、
マニュアル世代が多数を占めるようになってきた官僚・教員たちにこそ小・中学時代に「ゆとり教育」が必要だったのである。

そのとおりである。しかし、付け加えさせてもらおう。 数十年来の「会社至上主義」「仕事人間大量生産」によって、家庭で子供を育てていく力が衰えてはいないか。土日が休みとなると、親たちは子供を塾や習い事に通わせることで安心しようとしてはいないか。家庭が教育を学校に任せすぎるようになったとすれば、それはなぜか。マニュアル世代が多数を占めるようになってきた子どもの親世代にもまた、小・中学時代に「ゆとり教育」が、ただし親や地域共同体自身がゆとりをもって子どもの教育に参加できるような「ゆとり教育」が必要だったのである。たしかに、子どもは教師に教えられて育つものだ。しかしまた、子どもは親の背中を見て育つものでもある。


[教育再生報告] 百年の大計でないのか
『南日本新聞』、2007年1月27日付社説

 政府の教育再生会議が第1次報告を決定した。これを受け、安倍晋三首相は通常国会に教員免許法改正案など関連3法案を提出する方針を示すとともに「教育再生国会にしていきたい」と表明した。
 報告には、ゆとり教育見直しに伴う授業時間数増、教員免許更新制、教育委員会改革などさまざまな処方せんが並ぶ。だが、これまでの教育のどこがどう問題だったのかが見えてこない。
 肝心の現状分析が欠落したまま処方せんを並べても、説得力に欠ける。
「50年先、100年先を見据えた議論もしてまいりたい」(首相)というなら、腰を据えて取り組むべきだ。急ぐ背景には教育再生で政権浮揚のきっかけをつかもうという思惑が見え隠れする。夏の参院選に備える動きととられても仕方あるまい。
 問題はまず、ゆとり教育見直しとして掲げた授業時間数の10%増だ。「すべての子どもに高い学力を」という首相の意向をくんで盛り込まれたに違いない。だが、子どもたちの学力のどこにどんな問題があり、授業時間数という処方せんにたどりついたのか、判然としない。
 ゆとり教育については、文部科学省や中央教育審議会は「趣旨は間違っていないが、手だてに問題があった」として、学習指導要領の見直し作業を積み上げているところだ。どんな学力を目指すのか、十分な論議もないまま、政治の力で横やりを入れるやり方は乱暴すぎる。
 授業時間数を増やすことと学力との相関関係が実証されていないことは、文科省も認めている。それどころか、学力世界一といわれるフィンランドの授業時間数は、日本よりはるかに少ない。
 2003年の公立小中学校授業時間数は、日本の9歳から11歳が年間709時間に対してフィンランドは654時間、12歳から14歳が817時間に対し796時間となっている。
 また、報告は基礎・基本の反復・徹底など指導方法にまで言及しているが、これらは学校が子どもの状況に応じて判断すべき事柄であり、官邸が口を出す問題ではない。
かつての画一教育に戻そうというつもりなのか。
 ゆとり教育見直しなどいったん消えかかったテーマが、報告に次々と復活したのは「先送り、先送りでは首相の指導力が見えないということになる」という官邸の意向だったという。教育は政治の道具でなく、子どもや国民のためにあることを忘れてはならない。

Wednesday, February 07, 2007

近況

とうとう『物質と記憶』の新訳が出た。合田正人さんと松本力さんの訳。『試論』の新訳が出たのが2002年だから五年ぶりになる。どんな仕上がりになっているか楽しみだ。


文庫化されるというのは本当に大切なことだ。

最近の仕事。十二月末に目的論に関する論文を学会誌に投稿した。結果待ち。同じく十二月末、カッシーラー論文の校正現状報告受ける。『ベルクソン年鑑』第三巻は、今年春刊行予定とのこと。「時間がないので校正刷りを送らない」って。。『二源泉』における呼びかけと人格性に関する大学紀要論文の査読結果を受け取る。受諾とのこと。
今後の予定。
1)二月上旬、某ゼミにて博論の『試論』に関する部分の構成について発表させてもらう。昨日終わったが、まだまだ全然駄目だ。
2)二月中旬、大学紀要論文の直し。まだまだレベルアップの必要あり。および、某合宿飛び込み参加で『物質と記憶』について発表させてもらう。
3)二月下旬、「ベルクソンの手」を全面改稿し、英訳する。例の英語雑誌への投稿のため。
4)三月上旬、昨秋の仏文学会で発表した「催眠」論文の提出。
5)三月中旬、今春の仏文学会の要約締め切り。全体のプランだけでもまとめないと。
6)三月下旬、トゥールーズ篇の発表、すでに出来上がっているので、練り直しに取り掛かる。
「研究のストックを総ざらいしたいという気持ちはわかるが、論文のエレガンス(文章美学)にとっては、いかに言わずに我慢するかも重要なポイント」という指摘は、今の私にとって最も重要なもの。単なる書誌情報マニアにならず、散漫なエッセイ風にもならず、といって手堅いだけが売りの論文でもなく。面白い思いつきにとどまらず、それをどこまで具体化し、不要な部分を容赦なく切り捨てていけるか。自分のレベルをどれだけ上げていけるか、「鳴り渡る今この時が重大なのである」。

Tuesday, February 06, 2007

蛍雪(マラルメ斜め読み・2)

博論を書く傍ら、マラルメを読み、ドゥルーズを読む。友人との読書会や知り合いの先生のゼミに顔を出していたらお鉢が回ってきてしまったのである。しかし、これも何かの縁だろう。一人だとまず読まないものを読み、斜め読みしかしてこなかったものを多少詳しく読み直す機会を与えられたのだから、感謝している。

しかし、赤ん坊が泣くと思考が妨げられる。泣いても読める本を読み(柏倉康夫、『マラルメ探し』、青土社、1992年。読みやすい)、暇つぶしにブログを書く。これじゃ以前と変わらない。

*

難解、晦渋、孤高の詩人、特異な言語観、『骰子一擲』において到達した独自の《書物》概念、などのイメージがあるマラルメ。先に読んでもらった「芸術の異端、萬人のための芸術」は、若者の傲慢で実態のない単なる強がりと嗤うこともできる。ロマン主義から派生した高踏派の典型、そう文学史的にくくることもできるかもしれない。

五歳で母を失い、妹とともに外祖父母のもとで育てられたが、十五歳でその妹も失い、父は時を同じくして脳を患って病床についた。三年後、大学入学試験に通ったものの、進学を諦め、公証人事務所の臨時雇いとして働き始める。二十歳のことである。彼には詩があった。詩しかなかったというべきか。

『悪の華』に深く感動し、ボードレールを介してポーの虜となったマラルメにとって、ポーをよりよく理解し訳したい、英語に磨きをかけ、将来英語教師となって、その傍らに文学をやりたい、という気持ちは半端なものではなかった。

登記所管理官を長く務めた祖父の意見も頷けるものである。せっかく得た安定した仕事を捨てて、なぜ不安定な道を好んで選ぶのか。英語教師となるにはマラルメの英語の知識は初歩のものでしかないこと、「リセにおける現代語の授業は、お前が考えるほど魅力のあるものではなく、ごく初歩的なものだ。文法の域を出ず、文学的な意義などありはしない」こと、そのうえ収入も低く、のべつ話していなければならず大変疲れるので、丈夫とはいえないマラルメには向かない、というのが反対理由であった。

だが、マラルメの決意もまた固かった。祖父母の同意を得られないまま、1862年2月、二十歳のマラルメは個人教授について英語の勉強を開始する。

「週に五日、木曜日を除いて一日一時間の授業で、作文、仏文への翻訳、文法、会話を習い、宿題も多かった。公証人事務所での仕事は、もちろんそのまま続けていた。その上で、これらの個人授業も受けたのである。」(柏倉、上掲、78頁)

そして1862年11月、すなわち勉強開始の9ヵ月後、職業からの逃避、恋の逃避行をも兼ねたロンドン行きを決行する。後年、俗に「自叙伝」と呼ばれるヴェルレーヌ宛書簡で、当時を回顧してマラルメは次のように述べる。

「単にポーをもっとよく読もうとして英語を学んだ私は、二十歳のときイギリスへ旅立ちました。主として遁れ去るためでしたが、その一方、この国語を話せるようになって、これを学校で教えて世の片隅で生活し、他の糊口の手段を強いられるのを免れるためでもありました。私は結婚していたので、それは差し迫っていました。」

二十歳のマラルメが1862年9月に発表した「芸術の異端、萬人のための芸術」を読むとき、例えば以上のような状況を頭に入れて読むのと読まないのとでは、意味がぜんぜん違ってくる。

繰り返せば、若者の傲慢で内実の伴わない単なる強がりかもしれない。ロマン主義から派生した高踏派の典型、そう文学史的にくくることも間違いではないだろう。だが同時に、詩しかなかった八方破れの青年にとって、平凡ながらも幸せを手に入れた人々が「ついでに」「ちょっとした(偽善的な)好奇心で」詩集を購入し、気晴らしに詩を口ずさんだり批評家を気取ってくさしたりするのを見るのは憤懣やるかたないことだったに違いない。

現在、私たちはルサンチマンを胸に腐るマラルメも、努力するマラルメすらも、思い浮かべない。志ん生と精進もそうだが、マラルメと努力という言葉ほど一見懸け離れたものはない。そして、それは彼らの栄誉である。

*

言うまでもなく、私は自分の怠惰を弁護しているのである(笑)。

Saturday, February 03, 2007

「偽善的な好奇心…」(マラルメ斜め読み・1)

例えばこんな文章を読むと、どんな感想を持つだろうか。読後感をしばし省察しておいてもらいたい。マラルメ二十歳の詩論である。

《すべて聖なるもの、聖たらんと欲するものは、うちに神秘を含んでいる。宗教は選ばれた者にだけ神秘をあらわす。音楽がその一例を我々に提供する。

…こうした不可欠の性質が、なぜ唯一つの芸術、しかも最も偉大な芸術には拒まれているのかと私はしばしば自問した。それは偽善的な好奇心をもつ人々に対し、何らの神秘も持たず、無信仰な人々に何の恐怖をも抱かせない。何らなすところなく、無知な者、敵対する者の微笑や渋面のもとに晒されている。私は詩のことを言っているのだ。

…ずぶの初心者が土足でずかずかと傑作の中に入り込んでくる。そして、この闖入者たちといえば、覚えたばかりのアルファベットの一頁を、まるで入場券よろしく手にしているのだ!ああ、もの古りし祈祷書の黄金の留め金よ、パピルスの巻物の神聖な形象文字よ!

…ひとは民主主義者となりうる。だが、芸術家は二重人格なのであり、貴族としてとどまらねばならぬ。しかし、我々の眼に映るのは、およそ正反対のことだ。人々は詩人の著作の廉価版をつくって増刷する。しかも、それが詩人の同意と満足を得て行われるのだ。だが、貴方はそれで栄光を得られると信じているのか、夢見る人よ、抒情の人よ。大衆が安売りで貴方の本を買ったとして、彼らはそれを理解するだろうか。

…鳴り渡る今この時が重大なのである。教育は人々のあいだで行われ、さまざまの偉大な教義は普及していくだろう。それは一つの大衆化だが、あくまで富の大衆化ではあっても、芸術のそれではない。

…大衆が教訓譚は読んでも、後生だから、彼らに我々の詩を味わわせてはならない。詩人たちよ、貴方がたはこれまで常に誇り高くあった。そしてこれからもさらに尊大であれ!》(「芸術の異端、萬人のための芸術」)