Wednesday, December 27, 2000

海の広さとerrata(k00629)

 「…も近々邦訳がでるそうですね」。しかしこの「近刊」情報が往々にして曲者なのです。例えば、再三再四藤原書店が予告を出し、我々に(私だけ?)今か今かと期待させておきながら、結局今や出版予定からも消えてしまい、「環」1号に第2章(これは私が読書会で最初に取り組んだ章、つまり第3章と共に最も分かりやすく、またさしたる重要性のないフクヤマ批判の章である)の翻訳を残すのみとなったデリダの『マルクスの亡霊たち』を、増田一夫は何故、早く出版しないのか?ymさんによれば、すでに翻訳は出来上がっているという話だが。

 確かに翻訳とは、たとえ小さなちょっとした本を訳すにしても、一つの海を創ることに似ている。そこに偶然的に漂流する異物を見つけ出すこともまた、言うほど簡単なことではないかもしれないが、それにしてもずっと容易い。例えば、イーグルトン「イデオロギーとは何か」の邦訳168頁「なにしろ素朴な経験論は、解釈や意味づけとは独立した形で「現実の生の過程」が存在することを理解できないのだ」は明らかにおかしい(「存在しない」である)、と指摘したり、また例えば、(私は破廉恥にも自分の修論から引用するが)

≪ドゥルーズの『ベルクソンの哲学の』訳者宇波彰は、問題そのものを構成し提起する創造的な力に関する記述を、「≪半ば心的な≫[正直に告白するが、僕もまた修論で変換間違いをした。正しくは≪半ば神的な≫]能力は、偽の問題の開花も、真の問題の創造的な現われも同じように含んでいる」と訳した。彼は「消滅」(evanouissement)と訳すべきところを、「開花」(epanouissement)と訳してしまったのだが、しかしこれはなかなか意義深い[今なら≪創造的な≫と言うところだ]訳し間違いというべきである。何故なら、日常の論理による「変容」に抗して、同じ「言葉」というものを用いて別の新たな「変容」を行なう以上、その変容、すなわち新たなる問題の提起・「発明」が「真なるもの」を産み出すという保証はどこにもないからである。(…)結局、提起される問題とその解決が「効力」を備えたものとなるか否かをあらかじめ決定することは出来ない。最終的で決定的な真偽の判断基準が存在しえない以上、効力の程度においては様々な主張が同時代には常にひしめき合っているのである。≫

と指摘することは、いくらやっても翻訳の大変さに比べれば児戯に等しい。しかし、誤訳指摘もまた当然一つの重要な作業・貢献・業績と見なされてよいので、各学会誌は関係書籍の誤訳指摘一覧(自由投稿等による)をぜひとも作ったらよかろうと思う。

 だが、しかし、それにしても。ドゥルーズやデリダの幾つかの著書の翻訳は遅すぎる。下らぬ論文や著書を書く暇があったら訳せ、というのは酷かもしれないが、もしそれで暇がないと言うなら、はじめから幾つも翻訳を独占するな、と言いたい。

 その点、昔の徒弟制が必ずしも良いわけではないが、例えばクセジュの古典「18世紀フランス文学」は、良き時代の良い例であった、と私は思う。うろ覚えの記憶に頼れば、中川久定(ディドロ読み)・小林善彦(ルソー読み)・他一人(抑圧が働いているのかどうしても思い出せない)による共訳である。当初は(ありがちなことであるが)「桑原武夫」の名のみを冠するはずであった本書は、しかしすでに訳は出来ている、自分の名を冠するのはおかしいという判断で、ただ売れ線に(当時の)するために彼の序文を付し、三名の共訳として公刊された。こういう分業体制にすれば、訳業は大いに捗ると思うのだが。

 現代のデリダ・ドゥルーズ読みの大御所たちは、自分の名を冠することに拘り過ぎているのではあるまいか。大事なことは、きちんとした訳が時機を逸することなく世に出て、それが議論されることであるのに。

 みすず書房は、今でこそ「出版良心の鏡」のような顔ができるのかもしれないが、無論、花輪光のような悪行三昧もあるにはある。あの一連のバルト訳はひどい。フランス語が出来るとはとても思えない。法政ウニベルシタスの一部の翻訳書の質の低さといい勝負だ。

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