今度11月中旬にポワティエである国際コロック「フィヒテと1804年の知識学」に参加する(もちろん物見遊山ですが)ことが本決まりになったので、この機会にフィヒテ研究を少しだけ本格化させようと思っています。マルケの要約は、途中までになってしまいましたが。。
(…)大雑把に言いますと、この哲学像の希薄化は、私個人の資質の問題である以上に、哲学そのものの歴史的状況に由来するように思うのです。つまり、私にとって哲学がはっきりしなくなっているだけでなく、哲学自体がその輪郭を失いつつあって、しかも、そのことがほぼ歴史的・構造的に宿命づけられているのではないだろうか、と。
しかし、世界中で通用する一般的な哲学像などはなく、あるのは常にローカルな個々の国ないし地域の哲学像なのだとすれば、私の描いた哲学像がきわめて「フランス的例外」であるのと同様に、ssさんの持つ哲学像もまたアングロ=サクソン的(=日本的)なものではないでしょうか。これは制度としての哲学ないし人文科学がそれぞれの場所で置かれた位置に由来する差異だと思います。
フランスではアグレグで(bacでも)常に筆頭に上げられるといったミニマルなことだけではなく、哲学は公共空間・知識人社会において特権的な地位を有している。これに対して、アメリカや日本において明らかなのは、哲学の社会的地位の低さ、そしてそれと呼応したある種のプラグマティスム、究極的な即物主義(ノイエ・ノイエ・ザッハリヒカイト?)、あるいは似非現実主義の動かしがたい優位です。そして我々に必要なのは、まさにこのような地政学的分析に基づいた個別的な戦略というわけで、ssさんのおっしゃるように日本国内での思想の活性化は絶対に必要なことです。
他方で、少なくとも日本における知的言説の驚くべき衰退があります。(…)むしろ、私にとっては、輸入/輸出の関係より、いわば「内需拡大」のような形で、国内に向けての発信、国内での知的流通の活性化のほうが、より優先されるべき課題に思える。
もちろん私が唱えていたのは、内と外の両面作戦です。アグレグ論文はまさに「国内的な知的レベルの再活性化」という目的に向けられたものにほかなりません。しかし、それと同時に、――困難なのは分かっていますが、どちらが先というのではなく――国際的にも我々の知的営為(知的創造とまではいかないとしても)を訴えていかなければならない。もちろん創造的な思考の運動は、ほぼ必然的に国境を越えていくものでしょう。けれど伝播に要する「時差」というものは拭いがたくある。独・仏・英語で哲学すれば、偉大な思想は放っておいても必ず早急に世界に波及するのですから、ドゥルーズやデリダやバリバールは淡々と自国語で(ないし英語で)やっていけばいいわけだけれど、特殊日本的にみれば、我々は同じ形では戦いえない。
ルターの映画?知らなかったな。ブルーノ・ガンツのヒトラーの噂はかねがね聞いてますが、まだ観てません。ぜひ観たいですね。
ところで、今年私が見た超マニアックな映画といえば、ヒトラーとも結構関係するのですが、ハイデガーの『ヘルダーリン「イスター」講義』に関するスティグレール&ナンシー&ラクー&ジーバーベルク(!)へのインタヴュー・ドキュメンタリーです。ヘルダーリンの有名な詩を想起させた後にドナウ沿いの土産物屋を写して"Andenken"とか、重度のニコチン&アルコール中毒患者として有名なラクーが西洋世界の衰退を「息吹souffle=esprit=Geistの途絶」として解釈した後に彼の山盛りになった灰皿がクローズアップされたりと、笑いどころ満載。
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