Tuesday, April 29, 2008

条件付きの大学

告知をするのを忘れてましたが、

「条件付きの大学――フランスのエリート教育の光と影」

というタイトルで発表をします。詳細はこちら4月30日(水)18:00‐20:00の予定です(倒れない限り…)。

基本的におフランスな感じにもフランス地域研究みたいな感じにもならないので、そのあたりは誤解のないようにお願い致します。必要な範囲でフランスの紹介もしますし、フランスの哲学をツールとして用いもしますが、考えたいのは今ここにある《私たち》の問題としての「哲学と大学」です。狙っているのは、哲学・思想研究者に《制度》の重要性を説きつつ、高等教育論・教育社会学者に《哲学》ないし《脱構築》の重要性を説くという両面作戦です。よかったらお越しください。hf

Monday, April 28, 2008

野球漬け

自分で自分を追い込んでいる?わざと苦しい方を選んでいる?そうかもしれない。しかし何にせよ信じた道を進むほかないのではないか。静脈注射とレーザー治療の日々。

苦しいからこんなものしかできません、ではなく、
苦しくてもこんなことまでできます、になれるように。

***

岩田稔と原江里菜

 19日のヤクルト戦(神宮)は6回4失点。ローテ落ちの危機を感じた。この登板まで中6日。必死で修正した。調整に遠投を加え、フォームの安定を図った。登板前日に行っていた投球練習は2日前に変更。ベテランの下柳が投げるブルペンに足を運び、投球術を盗むことに没頭した。

 昨年から時間の使い方が変わった。週1回。全体練習の後に通う場所がある。関大時代に汗を流した大阪市内のジムだった。取り組んだのは股関節の可動域を広げるメニュー。けがに強い体を作ることが目的だった。

 先発ローテを任されてからは、ナイターの翌日でも必ず早朝に起床する。“やらされていた練習”は卒業。生活のすべてが野球漬け。自発的に動くことが成長の証だ。



糖尿病と闘いながら初勝利 プロ3年目の阪神岩田
 糖尿病と闘いながらマウンドに上がるプロ野球阪神の岩田稔投手(24)が、29日に京セラドーム大阪で行われた横浜戦で、プロ初勝利を挙げた。プロ3年目の左腕は「めちゃくちゃうれしい」と、お立ち台で笑顔をのぞかせた。
 発病したのは大阪桐蔭高の2年生の冬。病院で糖尿病だと聞いても、最初は何の病気だか分からなかったという。「野球はできないな」と覚悟もした。それでも、糖尿病を抱えながら巨人で活躍したビル・ガリクソン投手の存在を知り、続ける勇気をもらった。
 今でも1日4度の注射は欠かせない。忘れると血糖値が上がり、体がだるくなる。昨季のキャンプでは球数や動きの制限もあったが、地道なトレーニングで克服。この日も6回108球を投げたが、不安はなくなった。
 抑えの藤川投手から受け取ったウイニングボールを「嫁さんに持って帰ります」と言って、ポケットに大事にしまった。多くの人の支えで手にした1勝だった。
2008年03月29日21時27分



今季はここまでトップ10入りもなく「手応えはあるのに成績が出ない」と悩んでいた。そんな中で励みとなったのが、オフに一緒にトレーニングをした阪神・岩田の存在。1型糖尿病を抱える岩田は3月末に初勝利を挙げるなど活躍。「地道に頑張る姿勢に影響を受けていたし、自分にもできると思えた」と気持ちを新たにした。

Sunday, April 13, 2008

オプティミズムの重さ

ベルクソン情報
・2007年4月にトゥールーズで行われた日欧シンポジウムのヴィデオがようやくウェブ上に公開された。


ベルクソン研究。相も変わらず「有限性」概念の周囲をうろうろしている。ベルクソンは「エラン・ヴィタルは有限である」と倦むことなく繰り返すが、その正確な射程はどこまで届くのか。

郷原佳以さんの「死体の重さ、あるいはアネット・メサジェの反ベルクソニスム」(2007年12月28日)とは相当近いところで交差している気がする。

郷原さんは、ベルクソンに欠けているのは「死」の問題ではなく、より正確に言えば、《つねにすでに「死んでいる」状態で「生きている」こと》としての「不死」の問題だと指摘する。「不死」が「生き残ってしまった」「死に損った」という感情を抱きつつ生き続けることなのだとすれば、彼女の指摘は、「アウシュヴィッツ以後、ベルクソン哲学は可能か」とも言い換えられるであろう。

「なのだとすれば」――しかし、おそらくそうではない。メサジェにおいて問題となるのは、死んだも同然の(しかし死んではいない)「生者」でもなければ、完全に死にきった生物の「死体」の現実的な重さでもない。鳥の死骸が大量に貼られた作品にあっても、問題となるのは、それが「かつて生きていた」という量的で現実的な存在感ではなく、あくまでも生なきものが眼差してくるという「奇妙なリアリティ」の方に力点がある。メサジェの作品を特徴づけると同時に、ベルクソニスムを「20世紀後半のある種の思想や芸術から決定的に隔ててい」るのは、あたかも活きているかのような「無機物」の亡霊的な息づきなのだ。
《たとえば床の上に無造作に投げ出されて襞を拡げたコートが、時と場合によっては何かきわめて恐ろしいものに見えることがありうる。[…]物体が「不気味なもの」として現われてくるのは、それが道具としての機能を停止させ、それ自体として生気を帯びてくるときではないだろうか。無機物は「死んでいる」ことにおいて生物に似始める。そして幽霊のようになる。》
郷原さんのデリダ=ブランショ的な幽在論(hantologie)とすれ違う形で、ここで考えてみたいのは、ベルクソン的な幽在論の可能性である。伝統的な語彙で言えば、ベルクソンにおける「物質性」概念の可能性である。
《ここ[メサジェの作品]には死の「切迫性」など皆無である。ここに見出されるのは、一瞬先に待ち構えているかもしれない可能性として私たちの「生」をたえず脅かし続け、そのことによって私たちの「生(ヴィ)」を「死活に関わる=生気ある(ヴィタル)」ものにする「死」、つまり「生」を脅かすことによって「生」を活性化させる「死」ではない。あるいは端的に、ベルクソン的観点からすれば、そこには「死」などない、たんに「物質」の支配があるだけだ、ということになるかもしれない。確かにメサジェのオブジェはすべて「物質」であるだろう。》
そのとおりである。ベルクソン的観点からすれば、そこには「死」などない、たんに「物質」の支配があるだけなのだ。問題は、その物質とはどのようなものなのか、を知ることにある。ベルクソン的な物質とは、我々がその抵抗自体を糧として生命活動へと取り込み生きるもの、「生を活性化させる脅威」にすぎないのではないか――この指摘は、私が昨年の日本篇で行なった発表(「生物の丹精=産業」)の限界を衝いている。私の狙いは、物質のしなやかさ(élasticité)、『創造的進化』第二章の産業的次元を強調することにあったのだから。だが、では、物質のもつ「不気味」な影の側面はどうなるのか、と郷原さんは問うている。

この問いには、ベルクソニスムを『物質と記憶』の方へと遡る仕方と、『二源泉』のほうへと下る仕方と、二つの仕方で答えることができるように思われる。6月にブラジルで行なう発表ではもっぱら前者の冒険的なアプローチをとるので、ここではより穏当な後者のアプローチをとることにする。

たしかにベルクソンは、フロイトやハイデガーのように「不気味なもの」の思想家ではない。ベルクソン的宇宙を、メサジェのオブジェ群が構成するような、負のエネルギーに満ちた宇宙として描き出すことも問題にならない。光と影の鮮明なコントラストに一瞥を投げかけた後で、しかしながら、ベルクソン研究者にとって重要なのは、生と歓喜の思想家の微細な陰影を浮き彫りにしていくことであろう。

《なるほどベルクソンも「死」をたえず視野に入れていただろう。しかしそれが、「生」を活性化させる脅威として、「生」の側から「死」を眺める眼差しであったとすれば、メサジェのオブジェは「死」の側から、「生」を照らし出す。そしてこれが現実なのではないか、と囁くのだ。私たちは大量の死体のうえに、「生きている」のではないか、と。》
そのとおりである。「これが現実なのではないか」「私たちは大量の死体のうえに、《生きている》のではないのか」。『創造的進化』の後、長い沈黙に入ったベルクソンもまた、そう呟き続けたように思われる。一次大戦を目の当たりにし、ナチスの影と近づく二次大戦を予感しつつ、『道徳と宗教の二源泉』を発表するのはようやく1932年のことにすぎない。

ベルクソンが『二源泉』で「生」の側から「死」を眺める眼差しを放棄したというのではない。『二源泉』は、「死」の側から「生」を照らし出す不安の哲学は「理性の不安」の産物にほかならないと説きさえするだろう。だが、重要なのはそこではない。そう説くと同時に、生と死の「彼岸」を垣間見ようとすることが、もはや矛盾とならないような地点、それをこそ『二源泉』のベルクソンは目指すことになる。この幽在論がペシミズムより峻厳なオプティミズムであるのはたしかだとしても、それはまだ哲学であり続けるだろうか。重要なのは、この「哲学とその外部」の問いである。

郷原さんがベルクソンを「20世紀後半のある種の思想や芸術から決定的に隔ててい」るとしたその切断線はまさに「ベルクソニスム」そのもののうちに、すなわち『創造的進化』と『二源泉』の間に、おそらくは哲学とその外部という形で、引かれているのだ。

哲学者は言う。人は死の淵に立つことはあっても、決して死そのもののうちに立つことはできず、死を語ることも、ましてや死の側から生を見ることなどできない、と。文学者は混ぜ返す。ポーのヴァルドマール氏を見よ、と。

――文学的フィクションではないか。――いや、芸術の虚構こそが語りうる生の現実というものがある。――だが、そうだとすれば、その言説形式はもはや哲学ではなく、「死そのもの」や「死から見た生」は単なる哲学の限界内では語りえぬものなのではないか。――いや、「脱構築」ないし「蓋然性の交切線法による哲学の進化/深化」は、まさにそれを可能にするのだ。というよりむしろ哲学とは常にすでにそのような遂行的矛盾を犯す罪深いものではなかったか。

「無限の対話」は続く…

Sunday, April 06, 2008

カミュの「婚礼」

ふたたび走り出そうとした瞬間にまた病がぶり返す、その繰り返し。

今日はようやく以下のエッセイに目を通せただけ。

結婚論 『結婚』(高畠正明訳)と訳されたカミュのエッセイの原題はNoces。1936-37年に書かれ、39年に初版がごく小部数刊行されたというこのエッセイの主題は、しかし、結婚ではなく、アルジェ地方における「人間を世界に結ぶこうした絆」であった。

《雨上がりの夕べ、大地はみな、夏のあいだじゅうその身を太陽に任せたがために、その腹を苦いアマンドの香りのある精液に濡らし、休息している。そしていまふたたび、この匂いが人間と大地との婚礼に捧げられ、ぼくたちのなかに、この世で真に雄々しい唯一の愛をかきたてるのだ。それこそ滅ぶべき、だが高潔な愛だ》(新潮社版『カミュ全集』第1巻、222頁)。

Saturday, April 05, 2008

的確な挑戦

6月にブラジルで行われるベルクソン・シンポジウムに正式に招待されることになった。9月にパリで行われる生命倫理のシンポジウムは迷った末、辞退することにした。

前者は、自分の研究スタイルが国際的に認められるよう引き続き挑戦を続けていくため、承諾した。後者は、錚々たるビッグネームが並ぶ日本人参加者に混じって挑戦してみたいという願望もなくはなかったのだが、いろいろ考えてやめることにした。

当たり前の話だが、何でも挑戦してみればいいというものでもない。今年はすでに発表を6本(日本語3つ、フランス語3つ)抱えている。そのうち、本来の専門であるベルクソン研究から恐る恐る足を踏み出した発表が3つ(大学論2つ、結婚論1つ)もある。生命倫理についても発表のネタはあったのだが、それを満足いくほど熟成させる時間がない、と判断したのである。

挑戦するなら、的確な挑戦をしなければならない――すでにしてオーバーワークという声もあるけれど…。大切なのは、自分の置かれた状況を考え、今の自分に必要な挑戦を課していくこと。



転機の浅野忠信、とは4月3日朝日新聞夕刊の記事。主演の『モンゴル』は、ロシア人監督のもとに13カ国のスタッフとキャストが結集した、ドイツ・ロシア・カザフスタン・モンゴル合作であるらしい。

《セリフはすべてモンゴル語。激しい乗馬アクションもある。「今までの自分だったら断っていた」

ちょうど30代に入り、新たな方向性を模索する時期だった。「自分がいた場所に、別の若い人たちがいる。これまでのやり方は通用しない。ここは挑戦すべきだろう、と」

多言語が飛び交う現場は想像以上に過酷だった。生傷は絶えず、宿では水の出の悪いシャワーに泣かされた。モンゴル人スタッフから「お前がハーン?イメージが違う」ときついダメ出しも受けた。

「外国人が戦国武将をやるようなものだから、文句が出るのは覚悟の上。できないことより、何ができるかを考えていた。不安を乗り越え、自信をもらえた現場でした」》

Friday, April 04, 2008

メデアにおける感情の振動

最近岩波が出している幾つかの哲学系の双書・叢書にはまったく興味が持てないのだが、神崎繁(かんざき・しげる)さんの『魂(アニマ)への態度―古代から現代まで』(岩波書店、双書《哲学塾》、2008年3月)には興味を惹かれた。

「ギリシャ悲劇からキリシタン版まで、創造的な誤読の歴史を追って」という帯の文句にも惹かれたが、何といっても七日間の集中講義の形式をとった本書の第四日目《メデアは理性のゆえに狂った―「葛藤」と「振動」》が読みたかったのである。

もう誰も覚えていないだろうが、実は若かりし頃からメデアには興味を持っていた(2000年11月28日2001年1月8日のポストを参照。MLに書いていた気安さもあって実に恥ずかしい文体だが、過去を消去することはできないのだからしょうがない)。

今回再びメデアのことを考えているのは、結婚論のためである。アンチゴネーとともに、家族の問題を考えるうえで外せない神話的形象であろう。

で、さっそく神崎さんのこの章を貪るように読んでみた…のだが、少なくとも結婚論や家族論には役立たない。むろん神崎さんにとってのポイントはそこにはないわけで、「役立たない」などと言われても困るだろうが。

彼にとってのポイントは、意味が正反対になっている1960年と1990年の日本語訳の比較を通じて、メデアの内面的葛藤は、感情と理性の二項対立(すなわち〈夫に対する怒りから来る子供への殺意〉と〈子供への慈愛〉の対立)ではなく、一つの魂の揺れ動きとして捉えられるべきものになるということ、彼の言葉を借りれば、魂の複数部分の「葛藤」ではなく、一つの魂の「振動」が――葛藤という言葉を用い続けるなら、「共時的葛藤」ではなく「通時的葛藤」が――問題となっているということだ。

神崎さんはこの「振動」がエウリピデス版とセネカ版の両方に見られるものであるとし、したがってセネカにあって問題となるストア派的な感情排除と悲劇作家としての感情過多の矛盾(に見えるもの)は解消されると主張する。

これはこれでストア派理解に役立つのかもしれない。しかし、残念ながら、メデアという女性や『メデア』という作品の理解が深まるようには、少なくとも私には、思われない。

ただ、問題の『メデア』のたった二行をめぐるニーチェとヴィラモーヴィッツの論争(一方的反駁)が「近代の西洋古典学自身の揺籃期」の核心近くに位置することになった経緯を含め、興味深いディティールに満ちているので、読んで損はないだろう。

ヴィラモーヴィッツの名前を覚えたのは、二十世紀に主に政治(学)的な文脈で提出された実に多様なプラトン像を紹介した佐々木毅さんの『プラトンの呪縛―二十世紀の哲学と政治』(1998年初版。講談社学術文庫版、2000年)であった。

Tuesday, April 01, 2008

ロンドン・ワークショップ2008

ベルクソン研究の日。「有限性」概念について、ありがちな死の側からではなく、もう一方の端である誕生の側から探るため、ダスチュールが挙げていたアレントの『人間の条件』をざっと読んでみたのだが、これといった発見はなし。ベルクソンに何度か言及している。ドイツの思想家がベルクソンに言及する際、彼の思想の政治的・社会的影響に目を向けていることがきわめて多い。春の発表では、この点を一度まとめておくつもり。

***

以下、最近のベルクソン・ニュース。

・合田さんと松本さんによるちくま学芸文庫版『物質と記憶』の第二版が出るようです。

・昨年初来日したピエール・モンテベロの『創造的進化』についての講義がネット上で読めます。きちんとしている。

・『二源泉』については、2006年12月にジュネーヴでコロック「ベルクソンと宗教 『道徳と宗教の二源泉』についての新たなパースペクティヴがありました(プログラムpdf)。今年刊行されるはず。

・今週末に迫ったロンドンでのワークショップ。人物解説をしながら、見ていくことにしましょう。

Bergson and Bergsonism Workshop
- London, French Institute 4-6 April 2008

Friday 4th April

Morning: “Historical and Thematic Perspectives”
9:00 Registration
9:30 Miguel de Beistegui (University of Warwick) : Introduction
10:15 Giuseppe Bianco (Université de Lille III/Trieste) 'Bergson as a PH paper. 'Bergsonism' in French Philosophy's Solution'.
11:00 Break
11:15 Frédéric Worms (Université de Lille III/Ecole Normale Supérieure) 'Les moments de la pensée bergsonienne'
12:00 Respondent : Federico Leoni (Università degli Studi di Milano)
12:20 Discussion
13:00 Lunch

ミゲル・デ・バイステーギ――少なくとも私が会った時、周りの人はこう発音していたように記憶しています――には、数年前のCollegiumで会ったことがあります。彼については、2005年3月7日のauf deutschのポストに印象や評判を記しました。今は英国にいるのですね。

ジュゼッペ・ビアンコ、親しい友人です。昨年、ドゥルーズとカンギレムのベルクソン講義をイタリア語訳しました。2007年3月21日のポストを参照のこと。

ヴォルムスについて説明の必要はないでしょう。

フェデリコ・レオーニは、Carlo Siniの弟子。下のロンキと共にベルクソンの1904年コレージュでの記憶概念の哲学史をイタリア語訳した人。昨年のコレージュ・シンポでは、ケメックスの第三アトリエで発表この人と同一人物だとすれば我々と同世代の若手。現象学雑誌Chiasmiのeditorial assistantsも務めているようです
Senso e crisi : Del corpo, del mondo, del ritmo, Pisa : edizioni ETS, 2005.
とあるのは博論でしょうか(詳細目次はこちら。Siniの序文や著作抜粋もあり)。他にも、
-Follia come scrittura di mondo. Saggi su Minkowski, Straus, Kuhn (Milano 2001).
-L’inappropriabile. Figure del limite in Kant (Milano 2004), Senso e crisi.
などの著書あり

Afternoon: “Being”
14:30 Pierre Montebello (Université de Toulouse-Le Mirail) 'Deleuze, lecteur de Bergson: monisme et naturalisme'
15:15 Rudolf Bernet (Katholieke Universiteit Leuven) 'The Driven Force of Consciousness and Life'
16:00 Break
16:15 Débora Morato-Pinto (Universidade Federal de São-Carlos) 'De la critique du Néant à l'expérience de l'Etre-Bergson et l'empirisme purifié'
17:00 Respondent: Florence Caeymaex (Université de Liège)
17:20-18:00: Discussion

モンテベロも来日したので説明はしません。ルドルフ・バーネットにはcollegiumでも北欧現象学会でも会ったことあり(2005年4月23日のポスト)。向こうは覚えてないだろうけど。。
デボラは昨年末に私をブラジルに迎えてくれた人。その顛末はこちら。ベルギーの才媛ケメックスについてはいずれまた。

Saturday 5th April

Morning: “Life”
9:00 Registration
9:30 Jean-Christophe Goddard ( Université de Toulouse-Le Mirail) 'Vie et survivance. Le spectre de l'élan vital dans les Deux sources de la morale et de la religion'
10:15 John Mullarkey (University of Dundee) ‘The Impossibility of Bergsonism’
11:00 Break
11:15 David Morris (Trent University) 'Embryos and the Virtual: Organisms as Living Concepts at the Turn of Experience'
12:00 Respondent : Paul-Antoine Miquel (Université de Nice-Sophia Antipolis)
12:20-13:00 Discussion
13:00 Lunch
ゴダール大局観というものをもった人)、マラーキーHP)、ミケルも説明の必要なし。デヴィッド・モリスについてはこちら。彼を見習って(?)少しずつ英語の業績を増やしていこう。

Afternoon: “The Concept”
14:30 Patrice Maniglier (Essex University) ‘Bergson structuralist? Beyond the Foucaldian opposition between life and concept’
15 :15 Rocco Ronchi (Università degli Studi dell’Aquila) 'Acte, concept, infini: ce qu'il n'y avait pas sur le tableau noir de Bergson'
16 :00 Break
16 :15 Respondent: Ray Brassier ( University of Middlesex)
16:35 Discussion
17:00-18:00 Concluding General Discussion, animated by Mauro Carbone (Università degli Studi di Milano) and Arnold Davidson (Università di Pisa).

マニグリエは、ケックやデューリング、私と同世代。ロンキは既述レオーニを参照。イタリアにもろアングロ=サクソンな名前が。。そういう趨勢なのだろうか?

Sunday 6th April
9:30-12:30 PhD students working on Bergson and Bergsonism to present their current research:
Caterina Zanfi (Università di Bologna) 'Max Scheler face à l'anthropologie bergsonienne'
Michael Kolkman (University of Warwick-Université de Toulouse le Mirail) 'Bergson and Fichte, Qualitative and quantitative difference'
Michael Vaughan (University of Warwick). 'Creative revolution: Bergson's social thought'
All welcome.

コルクマン&ヴォーガンも説明の必要なし。カテリーナは、彼ら同様かなり若い。このあいだのコレージュ・シンポで初めて話した。これからが楽しみな一人。

若手にもチャンスを与えている点、見逃せません。ただ、こういった組み方で難しいのは、日曜日は聴衆が激減するだろう、ということです。他のスピーカーと同一線上に並べることはできない。けれど、少しでも多くの聴衆の前でやらせてあげたい。きちんと努力している若手に、その努力に見合う場をどのように用意するか。チャンスを垣間見せることでモチベーションを与える。それなしにただ「頑張れ」というのは――実によく見かける光景ですが――、励ましていないのと同じです。そんなものは「研究者養成」でも何でもない。