Tuesday, January 09, 2001

フランス現代思想の指標としてのギリシャ三大悲劇

「王女メディア」を読むために(2)

 今は全くの与太話として聞いていただいて構わないのだが、私の主観的な印象では、一般に「古代ギリシャ三大悲劇」として知られる作品は、また同時にフランス現代思想の幾つかの時代を画す形象ないし指標としてみることもできるものである。

 まず、三つの作品のうち最もよく知られているのは、言うまでもなくソフォクレスの「オイディプス王」である。父殺しと母との姦通を通じての自我の形成という三項関係にまで還元された単純な図式は、おそらくは(ヘーゲル的であれ、マルクス主義的であれ)弁証法的思考の隆盛と相俟って、70年代半ば辺りまで広汎な影響力をもつ。この影響力が失速したのは、「アンチ・オイディプス」のせいなのかどうかは今のところよく分からない。

 70年代半ばあたりから、ラクー=ラバルトの(ナンシーとの共同作業の成果である)、相対的に見れば規模は小さいが、やはり重要であることには変わりない、ドイツ思想(初期ニーチェ)・文学(ドイツロマン派)の翻訳紹介の一環として、ソフォクレスの(ヘルダーリンの、ブレヒトの)「アンチゴーヌ」の翻訳・上演が始まる。彼の特徴でもある、限られた対象への執着、一貫した関心は、現在まで続いている。「アンチゴーヌ」において問題となっているのは、「神の掟・法に従うために人の掟・法に反逆しつつ、共同体の枠内に留まること」である。ここで、第一段階の精神分析=政治的アプローチから、第二段階の美学=政治的アプローチへと移行したと要約できるかもしれない。

 次の第三段階はまだ始まってもいない。僕が勝手に夢想しているだけのことにすぎない。しかし、「精神現象学」第6章「精神」で個人主義的精神から人倫的精神への移行を、オイディプスからアンチゴーヌへと説明したヘーゲルが何故、メディアに言及できなかったのか(しなかったか、ではない)、考える価値はあると思うのである(例えば、『詩学』第14章においてアリストテレスは、同様の比較をオイディプスとメディアで行なっている)。

 ちなみにアリストテレスは、「メディア」に言及する際には(14、15、25章)必ず批判しているが、アリストテレスに批判されるというのはそう悪いことではない(批判されている点は以下の点ではない、念のため)。松本仁助(にすけ)・岡道男の感動的に懇切丁寧な訳注によれば、「詩学」が重要視している憐れみ(eleos)と怖れ(phobos)の感情は、「抑制できないような激しい感情ではなく、緊密な因果関係にもとづいて組み立てられた(悲劇作品の中の)出来事を正しく理解するところから生じる感情である。(…)私たちは、あまりにも大きな恐怖に襲われるとき、もはや憐れみの感情をもつことはできない。現存の悲劇作品を見ても、自殺、殺人など、大きな恐怖を呼び起こす可能性のある出来事は、舞台の裏で起こるように(観客には見えないように)仕組まれており、憐れみと怖れの感情は、主として観客が出来事の組み立てと経過を正しく理解することによって生じる」(岩波文庫、137-138頁)。メディアのすべてに過度な振る舞いは、アリストテレスの「中庸」と「模倣」によるカタルシスの美学とは全く相容れないのである。

 うまくは言えないが、オイディプスを欲望と、アンチゴーヌを倫理と一言で形容するとすれば、メディアは(…)

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