Thursday, March 22, 2007

大局観(2)日本と世界

友人たちが最近数ヶ月に刊行した本をまとめて紹介しておく。

Gilles Deleuze, Georges Canguilhem, Il significato della vita, a cura di Giuseppe Bianco, Mimesis Edizioni, nov. 2006.

(友人とはもちろん御大二人ではなく、ビアンコである。なかなか面白い奴なので、トゥールーズに呼ぶようゴダールに提案したら、彼ものってくれた。ゴダールはレン同様、「大局観」ということを本当に理解している数少ない友人だ。大局観を持つのに、年齢も地位も関係ない。)

Arnaud Bouaniche, Deleuze, une introduction, Presse Pocket, jan. 2007.

Philippe Sabot, Lire Les mots et les choses de Michel Foucault, PUF, coll. "Quadrige/Manuels", nov. 2006.


「コレギウムとは何か?」の項に、CPの公式サイトのアドレスを追加しておいたので、興味のある方はどうぞ。去年はデリダ追悼ということで、サリス、ベニントン、ローラー。今年は、解釈学系らしい。テーマは「解釈、言語、イメージ」。

来年2008年のディレクターは、今年のセッション終了直前に公にされる。具体的な募集は来年からになるだろう。

重要なのはここに大挙して日本人の院生が押しかけることではない。それではパリのブランドショップと同じ現象が起きてしまう。

なぜブランド品を買うのか?目に見えない「雰囲気」を身につけるためでなくて、他にあさましい所有欲以外の何があろうか?雰囲気を感じとることが最も大事なのに、集団で、彼らの「地」のスタイル(服装ではなく)で行くことで、まさに求めるべき「何か」を壊してしまう。挙句の果てに、金を払って動物並みに扱われ、見下されて「オトクな買い物」と満足する――こんなことでエレガンスが得られるはずもない。

同様に、むやみに学生を送り込んでも、学生にも向こうにも大したメリットはなく、所期の目的を達成することはできまい。むしろ教官の側が優秀な学生を精選して送り込んだほうがいい。

学生の側にもというのは、悪平等では、実効的な研究者養成は達成できないからである。ここでもまた、大局観が必要なのだ。偽のエリート主義ではない、本物のエリート教育が必要なのである。
(エリート教育という言葉がきわめて評判が悪いことは十分に承知している。そして、呆れる前に、なぜ自分がそれほど毛嫌いするのかを考え抜いてほしいと思っている。誤解を防ぐために言っておくが、私はエリートではなかったし、今でもエリートではない。だからこそ、制度が存在しなかったことを人一倍嘆き、また、そのような制度の確立が研究レベルの向上、独創性の発現のために必須事項であると思っている。
制度がなかったというのは言いすぎだろう。私は私なりの理想の場所、私の分野ではそれでも最も堅固な教育を施してくれる場所を見つけえたのだから。私は大学院を選ぶ際の基準の一つとして、自分のやりたいことを教えてくれる場所ではなく、やりたくないので、一人だと決してやらないであろうことをみっちり仕込んでくれる場所を選んだ。もちろんこういう考えをすべての人に勧めているわけではない。
いずれにせよ、デカルトはラフレーシ学院なしでは育ち得なかったし、デリダやドゥルーズはノルマルに代表されるフランスの堅固な教育・研究制度の「成果」であると私は確信している。堅固な教育・研究制度のないところに稀代の反逆児など現れようもないのである。)

向こうにもというのは、アメリカがせっかく長年かけて作り上げてきたシステムを体験させてもらうのだから、やはり遠慮は必要だということである(アメリカ側の参加学生のレベルはたぶん日本の平均とそう変わらない。それでいい。私たちとは目的が異なるのだから)。

体験は、それがどんな体験でも、貴重なものにしてあげるべきだと思う。コレギウムの体験は彼らにとって生涯忘れられないものとなるだろう。私もまた、サイトの写真を見ると、あの夏を思い出し――2003年、ヨーロッパ中が記録的な猛暑に苛まれていた――、しばし感傷に耽る。

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