Sunday, April 24, 2005

ベルゲン学会の報告(二日目)

二日目(4月23日)の午前中は、「現象学、医学、精神医学」「メルロ=ポンティにおける具体・受肉をめぐって」「技術と合理性の問題」「現象学のリミット」の四つに分かれて、一般発表の第二セクションが行なわれた(09.30-12.45)。以下、私の参加したセクションIIaについてのみ報告する。

私は二番手の予定だったのだが、大会直前にプログラムが変わり、一番手になった。①前日のドンチャン騒ぎの後での早朝の発表であること、②私の発表の表題がかなりテクニカルであり、いわゆる「純粋哲学系」ではなく他学問とのインターフェイスを扱う「応用系」部門に入れられてしまったこと、などから予想されたとおり、当然参加者は少ない。おそらく十人弱ではなかったか。どうしても短くならなかったので、あらかじめ断りを入れて、35分喋った。反応はそこそこよかった気がする。しかし、何より嬉しかったのは、Lenが来てくれたことである。人目を引く主題を選んで、話の分からない大勢の聴衆が来てくれるより、テクニカルでも本質を突く主題を選んで、話の分かる聴衆が少数でも来てくれたほうが嬉しい(もちろんベストは、話の分かる聴衆が大勢来てくれることであるが、私のような駆け出しの身ではそれは望外のことである。)

というわけで、私の発表は、ベルクソンとメルロ=ポンティによる「デジャヴ」と「幻影肢」という二つの現象の取り扱いを通じて、彼らの知覚理論の本質的な差異と、それが依拠している時間・空間概念の本質的な差異を浮き彫りにするよう努めた。質疑応答は、一つがメルロ=ポンティにおけるこの現象の両義性(物理的には存在しないが、感覚的には存在する)の取り扱いについて、もう一つは、Lenによるものだが、私の発表の底流にある、ベルクソン・ドゥルーズの「内在哲学」路線とデリダの「超越論哲学」路線とを融合させようとする試みの射程・妥当性に関するものであった。

次のFinn Nordtvedtはノルウェーの外科医で、幻影肢に関する自身の症例研究を元に、哲学の博士論文を準備している。哲学的な概念操作には不安定さが残るものの、医者特有の手際の良さで、見事に切り抜けていた。私にとっては幻影肢に関する具体的なエピソードを聞けたことが何よりの収穫であった。幻影肢には幻影痛が伴う場合も少なからずあるのだが、幻影肢以外の部位に現れる感覚ないし苦痛もまたきわめて幻覚的なものであり、この後者の場合の「局部定位localisation」を哲学的にどう考えるかというのはきわめて興味深い問題である。

(①一人の哲学者の思想体系が世界のあらゆる問題を解決してくれると信じるのがいささかナイーヴにすぎるのと同じように、ひとつの症状ないし現象が肉体の哲学ないし身体論に根本的な解明をもたらしてくれるとする考え、たとえば「幻影痛がすべての苦痛現象の鍵である」という言い方は未だ大雑把すぎる。一般に、ある一つの症状ないし現象が哲学的に興味深いものとなるのは、それが哲学的に何を明らかにしてくれるのかが明確にされたときである。幻影肢の現象はとりわけ局在性を問題とすることから、空間概念の再考を要請する。メルロ=ポンティによる「位置の空間性」と「状況の空間性」の区別は、身体空間の根源的な状況性を明らかにしてくれる。あらゆる苦痛は(少なくともベルクソン的観点からすれば)多かれ少なかれ感覚であり、あらゆる感覚(sensation)は多かれ少なかれ運動感覚(kinaesthetic sensation)なのである(pain as sensation-emotion(mood/modus), pain as impotence of movement(motu)-immobility)。

②幻影肢に随伴し、他の局部に現れる感覚・苦痛のもつ空間性は、果たして幻影肢の持つ空間性と同じ性質のものか?)

三番手のFrederik Svennaeusは、「ハイデガーにおける欝の問題。調律・疎外・世界内存在」と題して、もっぱら前期ハイデガーにおけるmoodの問題(1927年の『存在と時間』における不安、1929-30年冬学期の『根本概念』講義における孤独など)を基礎存在論・時間論との関係から検討した。質疑応答では、Heimwehに関するヤスパースの博論やフロイトのUnheimlichとの関連を問う質問、moodと時間・空間概念との関係(むろんDidier Franckが『ハイデガーと空間の問題』で示したように『存在と時間』以来潜在はしていたわけだが、後期に至ると空間概念が前面に出てくる。もう一方で、不安や孤独といった存在様態の分析はまったく影を潜めてしまうが、この二つの現象には何らかの関連があるのか)といった質問が出た。

四番手のMarja-Liisa Honkasalo(University of Linköpping and Helsinki)は、人類学者。彼女の発表"Agency and human suffering as phenomenological problems"は全体の構成がいささか混乱しており、その趣旨をすべて理解できたとは言いがたいが、ポイントはおそらく≪「現象」が文化・歴史・階級・性差などによって異なって現れるものならば、現象学は人類学と協力して研究を推し進めることができる≫という点にある。彼女は苦痛や惨めさなどの現象の文化的多様性に着目し、英語などの言語におけるsuffering, enduringなどのingをagentと捉えて、この苦痛理解をキリスト教文化に固有のものと理解しようとしている(?)。これを論証しようとして、イタリアの人類学者Ernest de Matino(1908-1965)の"La crisi della presenza"分析に依拠していた。なかなか面白そうなのだが、いかんせんまとまっていないのと、基本的な現象学理解に不十分な点があったのが惜しい(たとえば、質疑応答で突っ込まれていたが、ハイデガーの世界内存在をGeworfenheitと対立させるといった点は明らかに初歩的なミスである。ただし、これは私が擁護したのだが、ハイデガーの被投企性をサルトル的な理解と対立させて、前者が未だ十分に実存論的・人類学的でないとすることは可能であろう。もちろん、ハイデガーは望んでそうしたのであり、サルトルのハイデガー理解が一面的にすぎたというだけの話なのではあるが)。

昼食は、Rudolf Bernetと一緒に食べる。彼とも、一昨年のCollegiumですでに知り合っていたのである。雑談ばかりして、彼の最近の関心や肝心の私の仕事の話をしなかったのが今となっては悔やまれる。アドヴァイスをもらういいチャンスだったのだが。

午後はまず、「自己性のアノマリー」「現象学と性差」「情動と傷つきやすさ」の三つに分かれて、一般発表の第三セクションが行なわれた(13.45-16.00)。以下、私の参加したセクションIIIaとIIIbについてのみ報告する。

一つ目は、IIIaのEgil Olsvik(PhD.Student, Univ. of Bergen)の発表を聞いた。精神病者の「非了解性」への現象学的アプローチに関するものであったが、質問はpassive synthesisと区別されるpassive symptomに集中していた。

二つ目は、IIIbで発表した知人のLinda Fisher(カナダ人で、現在はブダペストで教えている)を聞きにいった。Phenomenology of Genderと区別されるGendered Phenomenologyに関する発表であった。私は、ジェンダー的現象学の困難について質問したのだが、あまり理解されなかった。

三つ目は、再びIIIaに戻って、Lisa Källの発表を聞いたはずなのだが、疲れのせいか、残念ながらほとんど何も覚えていない。

コーヒーブレイクをはさんで、Theodore Kisiel(Northern Illinois University)の、ある意味できわめて「アメリカ的」な発表を聞いた(16.15-17.30)。彼の発表がアメリカ人の典型だというのではない。しかし、アメリカ人以外にできない芸風であることはたしかであり、アメリカ人哲学者の一つの「型」ではある。言ってみれば、スパイダーマンとバットマンが、ジェイソンとフレディーの連合と戦うような生き生きとした哲学である。ベルゲン大学哲学科の秘書の方も聞いておられて、「この発表は楽しかった」とおっしゃっていたが、うなずける。ハリウッド映画をいたずらに敵視すべきではない。

こうして二日目の日程を終了した後、7時半からレストランPa Hoydenでディナー。私と連れ合いは、finnophileないしlaponophileなので、フィンランド人哲学者たちと同席する。JussiやJoona、デリダにおける悪や神学の問題を研究しているJari Kauppinen、そして前述の秘書の方と楽しく団らんのひととき。秘書の方(お名前を聞かなかった)はアメリカ人で、スウェーデンにいた頃、ノルウェー人のご主人と知り合われたとか。その後、ドイツ・リューベック出身(ここもハンザ同盟ね)で現在ハンブルク大学で勉強しているという学部生の女性も加えて、ドイツ話。大部分はまだまだ宵の口という感じで残っていたが、我々は翌日のこともあり、結局、十二時半くらいまでいて退席。結局、十二時半くらいまでいて退席。

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