12月4日夜、そういうわけで、コンピュータをはじめ、電子機器ほぼすべて、各種資料を盗られてしまった。電話番号さえも。。友人に緊急のヘルプ・コールをかけるの一苦労。安ホテルを選んだのが災いし、電話が故障中。テレホンカードを買っても、かけ方を教えてくれる人がいない。人々は親切で、我慢強く私の言葉に耳を傾けてくれるのだが、帰ってくる言葉は(ブラジル訛りの)ポルトガル語。読めばおおよそ分かる言葉でも、聞くと本当に分からない。初めてのブラジルの夜は、言葉がまったく通じない(英語もフランス語も似非イタリア語も)絶望的な状況の中、過ぎていった。。しかし、最終的に友人に電話をかけ、警察やタクシー会社に盗難手続きを頼む。かなりへこんで床に就く。
12月5日、ようやくサン・カルロスのデボラ・モラート教授に電話することができた。タクシーをサン・パウロまでよこしてくれる。タクシーで片道三時間。バスより多少割高だそうだが、ハイウェイ強盗にでも会わない限り、盗難の可能性はない。妻子と大量の荷物が一緒ではこれがベストの選択だろう。タクシーを待つ間、市内観光。Sujinho(スジーニョ、「汚い奴」くらいか?)というレストランで、feijoada paulistaなどを食べる。正直、平均的日本人のお腹には重すぎると思う。ブラジル料理には一撃で完敗、という感じ。largo de Sao Bento、pátio do Colégioを駆け足で見て、サンカルロスへ。くたくた。。
12月6日、UFSCar (Universidade Federal de Sao Carlos) で、日本とブラジルのフランス哲学研究分野の交流を目的とする、小規模セミナーを開催。私なりのベルクソン『試論』読解(リズムと催眠)を提示。盗難で発表原稿を紛失し、1時間半くらいでつくった資料をもとに、アドリブで喋りまくり、気が付くと三時間。それでもとても反応がよくて(優しく忍耐強くて?)、来年は『物質と記憶』のレクチャーをしに来てくれ、と言われた。
左はDébora Cristina Morato Pinto教授と。右は参加者の何人かと(左から二番目の男性が現在の哲学科長でドイツ観念論の専門家EduardoBaioni教授。フランス語がうまく、盗難の件では最後まで本当にお世話になりました。その右手前の小柄な女性が同じく哲学科で教鞭をとるSilene Torres Marques教授。バルバラスのもとで、ベルクソンの自由概念について研究していたとのこと)。
ホテルに帰ると、子供が体調を崩していた。デボラさん(ブラジルではすぐにファーストネームで呼び合う)に付き添ってもらい、慌てて病院へ。なれないこと続きで、点滴を打ってもらうだけで三時間。またもや、くたくた。。
12月7日、友人mbの住む隣町カンピーナスへ。子供の調子は小康状態。夜は、ブラジル的な料理ということで、churrascoにチャレンジ。よほどお腹の調子を整え、体調万全で行かないと、まるで歯が立たない。この料理には永遠に勝てない気がする。。
友人の愛犬Jolie
12月8日、カンピーナスでゆっくり。近くの自然公園を散策し、市場をぶらついてタコスみたいなのを食べたり。前日は子供の誕生日だったが、この日は友人の誕生日。彼が友人たちを自宅に招いてパーティ。深夜まで深酒し、結局ホテルに戻らず。友人宅で一泊。
12月9日朝、友人が青ざめた顔で部屋の中にふらふら倒れこんできて、肩で息をしながら言う。「とても気分が悪くて、サンパウロには行けない。病院に行ってくる」。この日、友人の車でサン・パウロまで送ってもらい、そのまま一緒に市内観光するはずだったのだが。。またもやinfans状態に取り残された私たち。合鍵で入ってきたお手伝いさんとの気まずい時間(そりゃ怪しむよね)。。結局、病院から戻ってきた友人の奥さんがタクシーを呼んでくれて、それでサン・パウロへ。家族が市内観光している間に、Eduardoに付き添ってもらい、空港へ。空港警察に盗難の経緯を説明し、盗難証明を出してもらう。
12月10日、私に残された数時間。もちろん…サン・パウロ一という大書店Culturaへ直行。Bento Prado Jr.の数冊の書物や、今のところポルトガル語でしか手に入らないGérard Lebrunの巨大な論文集 Filosofia e sua História などを購入(ちなみに言っておけば、彼はブラジルに大きな足跡を残した人である)。
傷心と満足感を抱いて、帰途に就く。最近の飛行機には、ベルリッツの語学練習ゲームが搭載されている。ポルトガル語とドイツ語の練習に励む。。語学の鍛錬は、新たな出発に向けての第一課題である。
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