Friday, November 19, 2010

リマインド:11/20結婚シンポ

阪大での結婚論シンポは盛況でした。パトリス・マニグリエの仕事のほんの一端でも日本で紹介できたこと、そしてそれを堂々と自分の問題関心の中に取り込みながら行ないえたことは、うれしいことでした。

「結婚の脱構築」というプロジェクトを少しは理解してもらえたかなと思っています。

次は福岡。大阪では「ドゥルーズを例に」とって喋りましたが、福岡では「デリダから出発して」
喋ります。

まず言っておくべきは、結婚の脱構築(déconstruction)は決して結婚の破壊(destruction)ではないということ。姦通・不倫など呼び方は何でもよいが、二人の人間を実体的存在、「主体」として捉えたうえでの「結婚からの逸脱」などが問題になるわけではないということ。その程度の「侵犯」なら、わざわざ20世紀思想・文学の到来を待つまでもない。

次に、私は「結婚の脱構築」を、「哲学と大学」という、もう一つのプロジェクトと同じ問題意識で進めているということ。すなわち、哲学・思想研究者が最も目をそむけている自らの「唯物論」的な基盤、自らの思考を枠づけているものの省察である。私は大した哲学研究者ではないが、自分が足を置いて考える「思考の場所」への意識だけは大学生のころから持ち続けてきた。個人的にいかなる選択肢をとるとしても、「結婚」が多くの人々にとってと同様、哲学者にとっても重要な問題の一つであるという自明の事実をその選択肢が覆い隠してはならない。

最後に、結婚は我々の手によって脱構築されるのではないということ。我々の手によってなされる「べき」という未来のプログラムというよりは、「結婚が常にすでに脱構築されつつある」そのプロセスを明らかにするのが我々のプログラムなのである。だからこそ、最近の諸々の徴候や、最低限の歴史はおさえておく必要がある。結婚の歴史を…。


à partir de とは「~から出発して」という意味ですが、「~から立ち去るべき」という意味をも持ちえます。

何度も言っているが、デリダやドゥルーズ、あるいはベルクソンでも同じことだが、哲学研究者にとって、彼らの「ファン」や「訓詁学者」になることが重要なのではない。彼らが言ったことをただ反復・パラフレーズしたり、彼らの価値基準を押し戴いたりすることが重要なのではない。

彼らの思想の可能性の中心を、彼ら自身に抗して掴み取ることが重要なのだと思っている。そして、いかに稚拙な形であれ、常にそれを実践しようとしているつもりである。

「結婚の脱構築」という名を付したから、このプロジェクト全体がデリダ思想の庇護のもとに置かれているに違いないと考える人は多いようだ。もしそうであるならば、それはマルクスの『資本論』の副題「経済学批判」がカント哲学の庇護のもとに置かれているのと同じ程度においてである。

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