Sunday, December 30, 2007

二十歳の微熱?(「哲学と大学」のために)

プロ野球選手は、選手として自分のパフォーマンスを最大限に上げることを目指すと同時に、一事業主として、自分たちの属するプロ野球界がより公正で、より魅力ある形で発展するよう、議論を怠らない。若手選手であろうが、同じことである。

若手研究者はよりよい研究をすることにだけ没頭していればよいのだろうか?私は「政争」などに首を突っ込もうとは思わない。ただ、自分の置かれた状況に関して、その「歴史」を学び、その「政治学」を学び、哲学的な分析を施し、そのことによって状況がより開かれたものになるよう、稚拙ではあれ、絶えず試みたいとは思う。

私個人の研究は、それがいかに拙いものであれ、研究史を学び、その問題点を浮き彫りにすることで当該分野の刷新に貢献しようとする問題意識に貫かれている。

問題意識に貫かれた研究をするだけでなく、問題意識そのものをすでに何度も公表している(「世界におけるB研究の現在」「観客でも批評家でもなく」)。

状況に対する批判的考察だけでなく、積極的な「介入」も行ないうる限り行なっている。例えば、国際シンポジウムをやる。ただし、西欧の有名な研究者を読んでお話を拝聴、そんなことはやらない。彼らを呼ぶとしても、それはガチンコ勝負の場を用意するためであり、日本の第一線の研究者たちにフランス語で発表してもらうため、その現場を若手研究者たちに見せるためだ。

このような発想は、過去数十年の日本の哲学研究に対する私なりの見方から出てきた私なりの回答である。つまりは、私なりの「理論的介入」であった。何人かの若手は本当の意味でインパクトを受け取ってくれたように思う。それは彼らの今後の行動で分かってくるだろう。

自分がそこに身を置いてものを考えている「場所」について考え、書き、そして介入すること、この「理論的実践pratiques théoriques」なしに哲学的思索の深まりなどあり得ない。これが私の素朴な、しかし深い信念である。

日本において哲学は大学で展開されている。哲学の唯物論的基盤は大学であり、日本の哲学的思考は大学という知の再生産機構によってその形態・内容を規定されている。だが、「哲学と大学」という結びつきは決して普遍的に自明な事柄ではない。そしてだからこそ問いかけねばならないのだ。哲学と大学はいかなる関係を結んでいるのか、結びうるのか、と。

「哲学と大学」と言ったとき、単に「哲学科」のみが問題になっているわけでもないし、教えられる学科内容としての「哲学」だけが問題になっているわけでもない。

私がこの問題について考え始めたのは最近のことではない。新しいのは、少人数ながら同志を得て、共に考え始めたこと、このことである。

レディングズを読み、『諸学部の争い』を読み、フンボルトを読む。それは、哲学・思想研究者なら誰もが通り過ぎる「二十歳の微熱」なのだろうか?そうかもしれない。だが、そうであるとしても、日本の過去数十年の思想的・政治的状況は、まさに、「それは誰しもが通り過ぎる道」と言いながら、実は誰も真に通り過ぎてはいなかった、誰も共に通り過ぎてはこなかったという事実を端的に示してはいないだろうか?

大学論も哲学論も教育論も教養論も山ほどある?そのとおり。そして結果は、西洋哲学の観客であり批評家である。日本の現状に対して毒にも薬にもならない観客であり批評家である。「教育再生会議」!

哲学には現実を分析し、分析によって介入する力があると信じるのか否か、問題はそれだけだ。哲学史は哲学の重要な一要素だとは思うが、哲学のすべてだとは思わない。

「教育の哲学、哲学の教育」「結婚の形而上学とその脱構築」「旅行の哲学。世界観と遠近法主義」、他人から見てどれほど幼稚に見えようとも、私にとってはどれも哲学的なessaiなのである。

Thursday, December 27, 2007

「理科系離れ」が本当に意味していること

飛行機の中で、『教育民主化の袋小路。「理科系の危機」について』という本を少し読んだ。

Bernard Convert, Les impasses de la démocratisation scolaire. Sur une prétendue crise des vocations scientifiques, éd. Raisons d'agir, octobre 2006.

内容をかいつまんで説明しておくと――

≪近年、理科系離れの進むフランスは、世界的な科学技術競争で後れをとっている。これはおおよそ事実だが、その説明とされる主張は完全に誤っている。いわく「嫌いになったから」、「怠けるようになったから」、最近の子供たちは、理科系の授業の厳しさから逃げ出すようになった、というのである。

フランスの大学における理科系離れの兆候は、1990年代中頃に現れた。物理学と化学、次いで生物学と数学。この現象には歯止めがかからず、教員たちは懸念を表明し始めた。事が公になると、ジャーナリストや政治家がさまざまな説明を付け始める。時の文科相[ministre de la Recherche]は、科学に対する「意欲の欠如」だと「説明」した。この手の分かりやすい説明は、多くの人々の賛同を得やすく、反論するのが不可能なほど曖昧模糊としているので(「努力しようという意欲の喪失」などなど)、またたく間に広まってしまった。

モリエールの医者たちが説明に持ち出したvirtus dormitivaの現代版[日本で言えば「昔は空き地があり、ガキ大将がいたから、いじめがなかった」というアレな説明である]には大きく分けて三つある。

一つは、イメージの問題である。科学技術の進歩が問題解決よりもむしろ解決不可能な問題を量産することに役立ってしまっている、というのである。だが、各種世論調査が示しているように、科学や科学者という職業は常に非常な敬意の対象となっているし、それより何より、大半の生徒たちはそういった「イメージ」で進路選択をしているわけではない。

二つ目は、教育の問題である。科学教育は、アカデミックすぎる、堅すぎる、例えば最近の物理学は過度の数学化が進み、素朴な好奇心や直にものに触れ、実験するという姿勢を忘れてしまった、というのである[有馬…]。この問題は、結局は、次の三つ目の問題と結びついている。

要するに、現在の理科教育は難しすぎる、だからより「易しい」、より「報われる」学問が選ばれるのだ、理科系の学問は学者として成功するのが最も難しい学問だ、というわけである。だが、この手の主張は説明すべき事柄を先延ばしにしたにすぎない。理科系の学問に「難しい」というイメージがあるのは今に始まったことではない。ならば説明すべきは、二十年前より易しい内容を教えているはずの今日の理科系からなぜ学生は離れていくのか、ということであるべきだろう。

これらの説明が不十分であるのは、見定めるべき「兆候」を見誤っているからである。理科系に進学する学生数の減少に目がくらみ、国を支える科学・技術の未来を憂えて、ジャーナリストや政治家、有識者たちは、この現象に過度に注目しすぎているのである。生徒たちが理科系に進まなくなったのは、科学に不満を持っているからだ、科学が好きでなくなったのだ、イメージだ、教育だ、難しすぎる…

だが、この事態において本当に問題になっているのは「理科系」なのだろうか?筆者コンヴェールの主張はこうだ。

いわゆる「理科系離れ」の背後には、実は、1980年代末に始まった高等教育の変化が潜んでいる。行政当局の圧力と、数を増す一方の生徒(そして親)の要望に圧され、大学は、企業の要求に応える即戦力教育(formations professionnalisées)を重視し、いわゆる純粋理論系の基礎研究を疎かにしてきた[言うまでもないが、金になる基礎研究は別である]

1990年から2000年までの高等教育への進学内訳を見てみると、興味深い事実が浮かび上がる。それは、生徒たちが離れていったのは「理科系」ではなく、「大学全体」だということ[ここには特殊フランス的な要因があり、日本と単純比較はできない]、より正確に言えば、大学で教えられる「理論的な学問全体」だということである。すなわち文学、人文学、経済学、法学もまた、まったく同じ時期に入学者数が減少に転じているのだ。これらの学問も突如として「イメージ」が悪くなったり、突如「難しく」なったり、突如教育を見直さねばならなくなったのだろうか?

理科系離れは、現在なお進んでいるより大きな現象の一要素にすぎず、このグローバルな現象をこそ解明せねばならないのである。≫

日本には、「理科系離れ」の神話よりさらに厄介な神話もあるわけだが。。


理科専科教員の設置、「道徳」教科化…教育再生3次報告
12月25日22時42分配信 読売新聞

 政府の教育再生会議(野依良治座長)は25日、首相官邸で総会を開き、理科教育強化のために理科専科教員の設置を進めることや小中学校で「道徳」の教科化などを柱とした第3次報告を決定し、福田首相に提出した。

 同会議は来年1月、これまで3回の報告を踏まえ、最終報告を取りまとめる予定だ。 第3次報告は、「公教育の再生」を掲げ、<1>学力の向上<2>徳育と体育の重視<3>大学・大学院の抜本改革<4>学校の責任体制の確立――などを重点課題とした。

 具体的には、2006年国際学習到達度調査(略称PISA)などで、理数系の学力水準が低下していることを踏まえ、小学校高学年に理科専科教員の設置を進めるなど、理科教育の強化を打ち出した。さらに、学力向上に向けた意見交換のため、各都道府県の代表者による「全国教育再生会議」の開催を提案した。

Tuesday, December 25, 2007

クリスマス・プレゼント

パリを去る前日、友人ヴァイオリニストjvがオペラ・コミックでのゲネプロに招待してくれた。フレンチ・オペラの救世主ガーディナーの指揮で、ChabrierのL'étoile。演奏は少し硬かったかもしれないけれど、素人の私にそんなことが気になるはずもない。通常のオペラ・ブッファより繊細なタッチの音楽にのせた馬鹿馬鹿しくも大胆不敵なリブレットに、みんな大喝采。ちょっと早いクリスマス・プレゼントだった。

"Malgré toutes les qualités que j'ai évoquées, L'Etoile reste pour beaucoup à redécouvrir.

C'est qu'en effet le public français du XXe siècle s'est éloigné de sa tradition musicale pour se tourner principalement ves les répertoires italien et allemand. C'est l'une des bizarreries de l'évolution du goût moderne. On peut l'expliquer en partie par le fait que l'internationalisation des pratiques rend le répertoire français, et singulièrement comique ou bouffe, plus difficile à appréhender.

Pourtant, je pense que nous vivons aujourd'hui un moment historique et je suis heureux d'avoir la chance d'y participer. C'est un grand plaisir artistique de renouer avec ce répertoire mais aussi avec ce théâtre, où l'on sent battre l'âme de la musique française." Sir John Eliot Gardiner

On pourrait dire la même chose à propos de la philosophie française du XIXe et du début du XXe siècle. Husserl et Heidegger sont un Rossini et un Wagner en philosophie. Pourtant, je pense que nous vivons aujourd'hui un moment historique et je suis heureux d'avoir la chance d'y participer...

今夏来、彼と私の軽くて熱い議論の主題だったからだろうか。一昨日、友人vcがラルースの彼のコレクションから「結婚の形而上学とその脱構築」のポピュラー・バージョンを出さないかと提案してくれた。poisson d'avrilじゃないのと軽口を叩きつつ、もちろん承諾。軽い本になるけれど、書きたい主題なので。二年後に出す予定。これもクリスマス・プレゼントかな。

Thursday, December 20, 2007

喫緊の課題

12月18日、パリ第8大学のClaude Mouchard教授が、東大・駒場で開かれていたレクチャー・セミナーに参加。ミショーのL'espace aux ombres読解にはいろいろ示唆を受けた。私の「記憶の場所」論に活かせないかと思ってのこと。

12月19日、青山大学のFrançois Bizet助教授の講演"Post-exotisme : sur Antoine Volodine"に参加。「旅行の哲学。世界観と遠近法主義」に活かせないかと思ってのこと。

当面の課題。ひと月で三本。フィジカルと技術的精度。

1)十二月末までに日本語論文を某雑誌に投稿。
2)一月中旬までに仏語論文を完成(掲載決定済)。
3)同じく一月中旬までにベルクソンの隠喩論を完成(掲載決定済)。

Wednesday, December 19, 2007

課題

声を掛けてみる。何度も、何度も。辛抱して待ってみる。じっと待つ。粘り強く。

呼び声は、「自分が呼びかけられているのだ」と呼びかけられている者が気づいて、はじめて成立するものだ。

それでも駄目なら、仕方がない。諦めるというのではない。時節を待つ。

奉仕は往々にして罠に変わるものだから。奉仕という病の疾病利得。

ただ待つのではない。その間、自分を鍛え続ける。



どのように前に進むのか。フィジカルと共に技術的な精度を上げること。課題はひとまず三つ。

A. 言葉。語学力の向上。

1.フランス語をもう一度、一から叩き直したい。関連して、翻訳技術の向上に取り組みたい。つまりは日本語力の向上に。
2.英語とドイツ語のパフォーマンスをもっと上げたい。
3.ラテン語とギリシャ語再入門。
(4.イタリア語とポルトガル語をせめて継続的に勉強していきたい。)

B. ベルクソン研究の深化(ショートプログラム)

ひとまず完成したばかりの研究だが、各パーツの再検討を始める。それぞれを深めるために、資料を再検討し、可能な限り厳密な形を目指したい。幾つかの論文として、仏語・英語・日本語での雑誌掲載を目指す。最終的に、二年後くらいに本にできればいいが。

C. 哲学の教育、教育の哲学(フリー・プログラム)

「旅行の哲学」「結婚の形而上学とその脱構築」とともに今後の研究課題なのだが、現在、「哲学と大学」グループが動き出したので、まずはこれから。

Tuesday, December 18, 2007

long périple chapitre II

12月4日夜、そういうわけで、コンピュータをはじめ、電子機器ほぼすべて、各種資料を盗られてしまった。電話番号さえも。。友人に緊急のヘルプ・コールをかけるの一苦労。安ホテルを選んだのが災いし、電話が故障中。テレホンカードを買っても、かけ方を教えてくれる人がいない。人々は親切で、我慢強く私の言葉に耳を傾けてくれるのだが、帰ってくる言葉は(ブラジル訛りの)ポルトガル語。読めばおおよそ分かる言葉でも、聞くと本当に分からない。初めてのブラジルの夜は、言葉がまったく通じない(英語もフランス語も似非イタリア語も)絶望的な状況の中、過ぎていった。。しかし、最終的に友人に電話をかけ、警察やタクシー会社に盗難手続きを頼む。かなりへこんで床に就く。


12月5日、ようやくサン・カルロスのデボラ・モラート教授に電話することができた。タクシーをサン・パウロまでよこしてくれる。タクシーで片道三時間。バスより多少割高だそうだが、ハイウェイ強盗にでも会わない限り、盗難の可能性はない。妻子と大量の荷物が一緒ではこれがベストの選択だろう。タクシーを待つ間、市内観光。Sujinho(スジーニョ、「汚い奴」くらいか?)というレストランで、feijoada paulistaなどを食べる。正直、平均的日本人のお腹には重すぎると思う。ブラジル料理には一撃で完敗、という感じ。largo de Sao Bento、pátio do Colégioを駆け足で見て、サンカルロスへ。くたくた。。

12月6日、UFSCar (Universidade Federal de Sao Carlos) で、日本とブラジルのフランス哲学研究分野の交流を目的とする、小規模セミナーを開催。私なりのベルクソン『試論』読解(リズムと催眠)を提示。盗難で発表原稿を紛失し、1時間半くらいでつくった資料をもとに、アドリブで喋りまくり、気が付くと三時間。それでもとても反応がよくて(優しく忍耐強くて?)、来年は『物質と記憶』のレクチャーをしに来てくれ、と言われた。




左はDébora Cristina Morato Pinto教授と。右は参加者の何人かと(左から二番目の男性が現在の哲学科長でドイツ観念論の専門家EduardoBaioni教授。フランス語がうまく、盗難の件では最後まで本当にお世話になりました。その右手前の小柄な女性が同じく哲学科で教鞭をとるSilene Torres Marques教授。バルバラスのもとで、ベルクソンの自由概念について研究していたとのこと)。


ホテルに帰ると、子供が体調を崩していた。デボラさん(ブラジルではすぐにファーストネームで呼び合う)に付き添ってもらい、慌てて病院へ。なれないこと続きで、点滴を打ってもらうだけで三時間。またもや、くたくた。。


12月7日、友人mbの住む隣町カンピーナスへ。子供の調子は小康状態。夜は、ブラジル的な料理ということで、churrascoにチャレンジ。よほどお腹の調子を整え、体調万全で行かないと、まるで歯が立たない。この料理には永遠に勝てない気がする。。




友人の愛犬Jolie


12月8日、カンピーナスでゆっくり。近くの自然公園を散策し、市場をぶらついてタコスみたいなのを食べたり。前日は子供の誕生日だったが、この日は友人の誕生日。彼が友人たちを自宅に招いてパーティ。深夜まで深酒し、結局ホテルに戻らず。友人宅で一泊。


12月9日朝、友人が青ざめた顔で部屋の中にふらふら倒れこんできて、肩で息をしながら言う。「とても気分が悪くて、サンパウロには行けない。病院に行ってくる」。この日、友人の車でサン・パウロまで送ってもらい、そのまま一緒に市内観光するはずだったのだが。。またもやinfans状態に取り残された私たち。合鍵で入ってきたお手伝いさんとの気まずい時間(そりゃ怪しむよね)。。結局、病院から戻ってきた友人の奥さんがタクシーを呼んでくれて、それでサン・パウロへ。家族が市内観光している間に、Eduardoに付き添ってもらい、空港へ。空港警察に盗難の経緯を説明し、盗難証明を出してもらう。


12月10日、私に残された数時間。もちろん…サン・パウロ一という大書店Culturaへ直行。Bento Prado Jr.の数冊の書物や、今のところポルトガル語でしか手に入らないGérard Lebrunの巨大な論文集 Filosofia e sua História などを購入(ちなみに言っておけば、彼はブラジルに大きな足跡を残した人である)。




傷心と満足感を抱いて、帰途に就く。最近の飛行機には、ベルリッツの語学練習ゲームが搭載されている。ポルトガル語とドイツ語の練習に励む。。語学の鍛錬は、新たな出発に向けての第一課題である。

Sunday, December 16, 2007

帰国

帰って参りました。三週間に及ぶ遠征は、赤ん坊連れで荷物が極端に多かったこともあって、さすがに疲れた。

11月21日に東京発、パリ着。発表準備に勤しむ。

22日にベルクソン国際学会総会に出席。その後、学会の粋なはからいで、ジャック・ドゥーセ図書館に所蔵されているベルクソンゆかりの品々の特別展示にしばし見入る。

23日、コレージュ・ド・フランスでの大規模コロック。夜、韓国チームと会食。お膳立てに奔走したものの、日本人参加者が少ない。残念だが、そういうものだ。

24日、ENSでコロック二日目。第一セクションにて、ベルクソンとレヴィナスにおける物質性についての発表を行なう。ヴォルムスの締めの発表で私の発表に言及があった時は素直に嬉しかった。

その後、パリにしばし留まり、gsbやpcと旧交を温める。

27日‐29日、リールに到着。まだしていなかった諸々の準備に大慌てで着手。例えば、potとか、pain surpriseを予約したり、ワインの選定をしたり、これはこれで少し時間が要る。

30日、運命の日。良いところも悪いところも、そのまま評価された気がする。「リール大学にとって君は誇りだった」と言われた時はさすがにぐっときた。そして寂しいような、なんとも言えない感じが残る。泊めてもらったgb、df、clとch'ti longで会食。一年半ぶりでもウェイターは覚えてくれていた。

12月1日‐2日、アルザス人のlpとcp(昼食)、ヴァランシエンヌの日本人(夜・鍋)、ベルギー人(昼・ベトナム料理)、リールのミャンマー人(夜・ミャンマー料理)の友人たちと慌ただしく再会。もちろんお会いしたい方々はもっともっといたのですが、基本的に日本でお会いできる可能性のない方々を優先せざるを得ませんでした。すみません。。。

12月3日早朝、ブラジルに向けて出発。12月4日夜、サン・パウロのグアルーリョス国際空港に到着。タクシーでホテルへ…しかし、この後、ホテル前で荷物を降ろしている間に、荷物を盗られてしまった。それも、PCはじめ大事なものが詰め込まれたコンピュータ・ケースを。。

Sunday, November 18, 2007

メモ

自分用のメモに。シンポジウムや講演などは新たな出会いの場である。教えてもらった情報を忘れないうちに書きつけておかないと。

1.PAMから勧めてもらった本を読むこと。生物学者たちが「生物の論理Logique du vivant」(ジャコブの本の原題)でなく「生命の論理Logique de la vie」に関心を持つようになってきている、その代表例として挙げてくれたが、はたして…?
Denis Noble, The Music of Life, Oxf. Univ. Press.

2.YKがドイツの生気論の歴史をフォローしたものとして教えてくれたのがこれだった。読まねば。
Timothy Lenoir, Strategy for Life.

3.MKが「オランダにはほとんどベルクソニアンがいないけれど」と言いながら紹介してくれたのが彼。
Jan Bor, thesis Bergson en onmiddellÿke ervaring (1990)
(Bergson and Immediate Experience)

Retired 2005 from Hogeschool (Polytechnic) van Amsterdam, Bor is interested also in art, (zen-)buddhism.

大国のベルクソン受容ばかり追うのは何だか…という気がしている。英仏独語、それは確かに大事なのだが、そこに留まって安穏としているのも何だか…。マイナー言語を母国語とする者としての問題意識を大切にしたいし、それを何らかの形で実践に変えていきたい。

フランス、ブラジルに発つので、ひと月ほど更新できなくなります。では、十二月中旬以降に。皆様もお体にはくれぐれもお気をつけて。

Sunday, November 11, 2007

悪い奴ら…誰が?

あまりにも忙しすぎる。事務作業で一日が終わる、そんな繰り返し。それでも、そんなときにこそ真価が問われるのだと自分に言い聞かせる。自分がイラついているとき、何かに、誰かにかこつけて爆発してみせることはあまりに容易い。

ymさん、fiさん、ご著書およびご研究、お送りいただき本当にありがとうございました。ぜひ参考にさせていただきます。



「奨学金削減」の記事を見たとき、この記事を思い出した。

生活保護不正受給、4年で1・5倍に増加…厚労省

3月6日1時52分配信
読売新聞

 2005年度の生活保護費の不正受給額は、前年度を約10億円上回り、約71億9000万円だったことが5日、厚生労働省のまとめでわかった。

 01年度(約46億7000万円)と比べ、約1・5倍に増加している。

 厚労省によると、件数も1万2535件で、前年度比で1624件増加。内訳を見ると、働いて得た収入をまったく申告していなかったケースが53・4%と最も多く、働いて得た収入を過少申告していたケースも加えると、63・5%だった。「各種年金などの無申告」も15・5%あった。

当たり前のことだが、不正受給を擁護しようというのではない。問題は、「不正受給」が増えてきたからという名目のもとに正当な受給そのものを削減するという手口である。なぜ事業予算そのものの削減なのか。なぜ不正受給防止策の練り直しではないのか。この件については、「善意を利用する者たち」(tours de babel, 2006年6月5日)も見ていただければ。


善意を利用する者たちを利用して、善意を盗みとろうとする人々がいつでもいる。そして、小悪を叩いて回ることに血道をあげ(反撃を恐れなくていいから)、巨悪に盲目な人々がいつでもいる。


財務省 奨学金事業の見直し検討 遊興費転用の学生増加で
10月29日8時33分配信
フジサンケイ ビジネスアイ

 財務省は28日、2008年度の奨学金事業予算を削減する方針を固めた。同事業費が年々増額を続ける一方で、奨学金を遊興費に転用する学生が目立ち、苦学生支援という奨学金本来の意味が薄れつつあるためだ。

 奨学生数は、07年度に全国の大学・短大生の3分の1に当たる114万人に達し、同事業予算も年々増加を続けている。同事業を所管する文科省は、08年度概算要求で奨学金関係予算で前年度比約210億円増の1439億円を求めた。

 これに対し、財務省は「苦学生でない人が同事業の対象に入っている」と指摘する。無利子奨学金に比べ審査基準の緩い有利子奨学金を含めると所得1344万円以下の世帯が対象となり、大学生などの子供を抱える世帯の約8割が条件に当てはまる。学力基準も緩く「手を挙げれば大体、奨学金がもらえる」(主計局)のが現状という。

 財務省の資料によると、奨学金を電話代や海外旅行費など勉学以外の目的に使う奨学生が増加する一方で、勉学費や書籍購入費は大幅に減少している。

 また、奨学生の増加に伴い奨学金が回収できなくなる例が続出。05年度末の時点では、14万件が不良債権化し、06年度には延滞債権総額が2000億円を超えた。旧育英会の奨学金事業を引き継いだ「日本学生支援機構」が回収を進めているが、06年度に扱った1万件のうち、約半数の4395件は居所不明などの理由で未解決のままだ。

 財務省は、この対策として「機関保証」の義務化などを検討している。機関保証は奨学生が毎月一定額の保証料を「日本国際教育支援協会」などの保証機関に支払い、返済が滞った場合、同機関が本人に代わり国に返済する制度だ。

 文科省は「事業費の不足で、貸与の条件を満たしていても奨学金を受けられない学生が毎年いるのが現状」として予算増額の必要性を強調するが、財務省は「納税者に説明できるとは思えない」としている。


奨学金予算削減へ 回収不能2000億円/遊興費に転用増え…
10月29日8時0分配信
産経新聞

 財務省は28日、来年度予算で文部科学省の奨学金事業予算を削減する方針を固めた。奨学金を遊興費に転用する学生が目立ち、苦学生支援という奨学金本来の意味が薄れつつあると判断している。奨学金を返さず、回収不能に陥った延滞債権総額も急増、平成18年度には2000億円を突破しており、財務省では新たな保証制度の義務化も迫る構えだ。

 文部科学省は来年度予算の概算要求で、奨学金関係予算として前年度を約210億円上回る1439億円を計上した。

 奨学生数は、19年度で全国の大学・短大生の3分の1に当たる114万人に膨らんでおり、奨学生数の拡大を背景に奨学金関係予算は年々増加している。

 ただ、財務省は奨学金が「必ずしも苦学生でない人も対象に入っている」と指摘。無利子奨学金に比べて審査基準が緩い有利子奨学金まで含めると、年間所得が1344万円以下の世帯が対象で、大学生などの子供を抱える世帯の約8割が条件に当てはまる。審査の学力基準も緩く「手を挙げた人はだいたい奨学金がもらえる」(主計局)のが現状だという。

 財務省によると、奨学金を電話代や海外旅行費など勉学以外の目的に費やす奨学生が増加傾向にある。これに対して勉学費や書籍購入費は大幅に減少しており、財務省は奨学金が勉学よりも娯楽に振り向けられているとみている。

 一方、貸し出した奨学金が回収不能に陥るケースも急増している。

 18年度には延滞債権総額が2000億円を超え、15年ほどで約3倍に膨らんだ。旧日本育英会の奨学金事業を引き継いだ日本学生支援機構が回収を進めているが、18年度に回収を行った1万件のうち、約半数の4395件は居所不明などの理由で未回収のままだ。

 このため、財務省は奨学生に対する機関保証の義務化などを検討している。奨学生が毎月一定額の保証料を日本国際教育支援協会など保証機関に支払うことで、返済が滞った場合、保証機関が本人に代わって返済する制度を導入することにより、同省は未回収リスクを回避できるとみている。

 文科省は「事業費の不足で、貸与の条件を満たしていても奨学金を受けられない学生が毎年いるのが現状」として予算増額の必要性を強調するが、財務省は「納税者に説明できるとは思えない」として削減方針を固めている。

Wednesday, November 07, 2007

哲学と大学と…余暇

ドゥルーズ・スピノザ研究者であるIzumiS/Zさんの11月5日付のブログ「大学における哲学教育をめぐる雑感」を読む。

まったくそのとおりである。最後は、自分の哲学する力を高めること、それに尽きる。それには静かな時間、孤独な時間が必要だ。社交からも、ブログからも解き放たれる時間。こうして一方に余暇の問題がある。

他方で、学校で教わること、「学び」の重要性がある。とりわけ現在の若手研究者が高度な研究を遂行していく上で必要な語学力――正確な読解力だけでなく、書き、話す力――を確実に養成する制度的枠組み作りには、大学別といった枠を超えて、日本の西洋哲学研究者全体で取り組む必要があるように思う。

余暇と学び、要するに伝統的な「スコラ」の問題である。

西洋の哲学研究者たちは、長期休暇を利用して思索を深め、研究を進める。学期中は丹念な教育活動とダイナミックな研究活動(学会・研究会)に忙殺されるからである。

私たちの国の大学は、それを許す環境にあるだろうか?

そもそも、長期休暇自体が短く、しかも休暇中にしばしば拘束される(私は「一流大学」の話ばかりをしているわけではない)。これは日本の社会全体が労働過多を容認しているからである。日本は「経済大国」だと思っている人は多いが、日本企業の実に多くの部分は「時間泥棒」をしてはいないか(最近のpenses-bêtesの一連の記事を参照のこと)。
「短絡的な考えがもたらす害の例の一つは、多くの教授たちは週六時間しか働かないという現在の認識である。野球選手が、打者としてバッターボックスに立つ時間によって報酬が決まるとは誰も考えない。

他の選手が走るのに、キャッチャーはしゃがんでいるからといって、報酬が他の人より少なくて当然とは誰も思わない。

スポーツの世界からもう一つ例をとれば、例えば、冬季オリンピックのフィギュア・スケートの相対的人気は、速さを競う他の種目とは違った意味をもっている」(レディングズ、『廃墟のなかの大学』)

膨大な量の事務作業は、大学教員の仕事なのか?サッカーにおける「ホペイロ」の役割を、日本で大学を論じる人々はもっと知るべきだ。
Jリーグ開幕前、僕が日本に戻ってきたとき、日本サッカーには本当に何もなかった。ある程度予想はしていたけど、さすがに少し戸惑った。ブラジルでは、ドクターやマッサージ師はもちろん、ホペイロ(ポルトガル語で「用具係」)や洗濯係まで、選手を支える各ポジションに「プロ」がいたからね。僕が加入した読売クラブ(現・東京ヴェルディ1969)は、当時の日本では、プロフェッショナリズムという点では一番進んでいたと思うけど、それでもクラブハウスはプレハブ小屋の域を出ていなかった。スパイクの手入れもユニフォームの洗濯も、みんな選手が自分でやるのが当然のことだった。(『カズの手紙』第27回、2005年7月7日付)
(日本人ホペイロ・プロ第一号である松浦紀典(まつうら・のりよし)さんに関する基本情報は、こちらこちらなど)


日本の大学の研究・教育環境の整備状況は、Jリーグ開幕以前的である。独創的な研究活動を行なうにも、丹念な教育活動を行なうにも、財政支援だけでなく、何よりも時間が必要である。

そのためにこそ、経団連や財務省の推進する「資本の論理」、その尻馬に乗る文科省の「エクセレンスの論理」「産学共同」ではない道、もう一つのパフォーマティヴを、哲学的に、模索する必要がある。時間泥棒の張本人が時間をもっと有効に使えと説教するとは!

古来から時間が哲学の特権的主題の一つであったこと、哲学が「余暇」との関係抜きに考えられないことを思い起こせば、「哲学と大学」を論じるにあたって、時間と哲学、時間の哲学が問題にならないはずはない。


国立大交付金/地方国立大学を守ろう
(『山陰中央新報』、2007年5月30日付論説)

 国立大学の運営費交付金の配分をめぐり、ホットな論争が続いている。経済財政諮問会議の民間議員からの提案がきっかけだ。成果に応じて配分される競争的研究費だけでなく、日常の人件費などランニングコストにあたる運営費交付金も各大学の成果を反映した配分としたらどうか、というのだ。

 運営費交付金は、国立大収入の約半分近くを占める。教員数など規模に応じて配分され、人件費や日常の教育・研究費など基盤的経費として使われる。大学法人化後は毎年度1%ずつ減額され、一方で競争的研究費の割合が高くなってきた。

 提案は、国際競争力を高めるため、基盤的経費の配分にも競争原理を導入し、資金の選択と集中を促そうというものだ。

 これに対し国立大側は、成果の見えやすい分野ばかりが評価されることになり、基礎研究や自由な発想による研究の芽がつぶされる、と反論。産業基盤の弱い地方大学や教育系大学の経営が困難になると主張している。

 資源の有効活用は必要だが、大学の役割を考えれば、ここは国立大側の方に説得力がある。「努力と成果に応じた配分」と言うが、大学は産業界の下請けではない。企業にすぐ役立つ応用研究ばかりに目が向くような一面的な議論では国の将来を誤りかねない。

 ノーベル賞につながるような問題発掘型の研究には、研究者の自由な発想が不可欠だ。長期に問題に取り組める土壌が必要で、基盤的研究費は欠かせない。

 教育という視点も忘れてはならない。教員養成など人材育成はそもそも競争になじみにくく、すぐに「成果」が見えるようなものでないが、大学の重要な仕事だ。

 財務省の試算によれば、競争的経費である科学研究費補助金の配分実績で運営費交付金を再配分すると、現在より配分が増えるのは東京大など十三大学だけで、七十四大学が減額となる。

 中でも、教員養成が目的の教育系大学の減額幅は大きく、現状の一割以下になるところもある。まさに「技術開発に取り組める人たちが申請した件数だけでお金を配分したら、将来の人材を養う基礎にお金が回らなくなる」(伊吹文明文部科学相)。

 試算では、交付金が半分以下になる大学が五十大学。鳥取大が60%、島根大に至っては70%以上の減額となる。文部科学省によると、半分以下となれば経営破たんは免れないという。民間議員からは「努力しない大学がつぶれるのは仕方がない」「全都道府県に国立大が必ず一つ必要なのか」との声もあるが乱暴すぎる。

 私大の多い大都市圏と違い、地方国立大の地域への貢献度は大きいものがある。医師や教員など地域を担う人材育成で重要な役割を担っている。都市と地域の格差が広がる中で、地域と密着した地場産業支援の役割を担えるところがほかにあるだろうか。

 授業料設定などに自由競争を持ち込む動きもある。だが「効率」だけでこの問題を切り取るのはあまりに短絡ではないか。研究面での独創をどう生かすか、人材育成や地域の主体性をどう支えるのか、地方分権への展望も含めた複眼的論議が絶対に必要だ。



地域格差を誘導する恐れ/国立大交付金減額

 財務省は国立大学法人(全国八十七大学)の運営資金として国が支出している「運営費交付金」について、競争原理に基づき再配分する試算を公表した。

 科学研究の成果等という一面で評価した試算で、全国の85%の七十四大学で交付金が減額されるという内容だ。そして50%以上の減額が弘前大学の68.7%など五十大学、50%未満が二十四大学になるとされた。教育系大学は悲惨な内容だ。

 国の財政改革という命題の中で、歳出削減が検討されたものという。一つの試算とはいえ、直線的な評価であり、大学間格差を助長し、ひいては地域格差を誘導する恐れのある机上の財政理論といわざるを得ない。

 国立大学法人が歳出削減の聖域とはいかない。しかし、財務省が示した試算が科学研究費の配分実績を尺度にしたことには、異論がある。わずかに東大、京大、東京工業大、東北大、北大など十三大学が増額されるだけ。これに対し、地方大学は脅かされる内容だ。

 こうした財務省の成果主義に対抗し、文部科学省は大学の地域経済に与える影響を検証し、弘前大学の四百六億円、雇用創出六千七百七十四人をはじめ、中堅大学が生み出す経済効果を試算。「大学の地域貢献を無視した(今回の)議論は、あまりに乱暴」と、財務省試算に反発した。国が教育再生を叫ぶ中で、多くの大学も同様だろう。

 科学研究とはいっても、地方の経済基盤は脆弱(ぜいじゃく)で、大学の産業振興研究(シーズ)への企業参加は極めて少ない。そもそも中央との格差は、歴然としている。

 一方で、大学の役割には教育、研究、地域貢献がある。科研費のみを指標に大学を測り、地方切り捨てにつながるシミュレーションに、真に合理性や総合的見地があるのだろうか。

 弘前大学の二〇〇七年度予算をみると、予算総額はざっと三百六十億五百万円。約半分は総人件費に充てられる。歳入は付属病院収入百数十億円を見込み、国からの運営費交付金が約百二十億円。これに授業料、検定料、入学金などが加わる。大学の経営に、運営費交付金がいかに寄与しているかがわかる。

 時期は示されていないが、仮に試算通り68.7%、約八十億円もの減額なら総合大学の維持、経営は死活問題となる。

 いま、日本社会を少子化の大波が襲う。「大学全入時代」に突入するともいわれる。さらに、国は未曾有の財政赤字に苦しんでいる。大学間に競争原理を導入した独立法人化の狙いのその深奥には、こうした時代背景を基にした大学の再編・統合があるといわれる。もちろん、各大学は改革を積極的に進め、一層の努力をする必要がある。

 運営費交付金については経済財政諮問会議等でも、一部から見直し論や意見書が出された。弘大は二十五日夜、政府諸会議に対し遠藤正彦学長名で緊急声明を出し「人を育むための百年の計に真に耐えるものか疑いを持たざるを得ない」と批判した。

 試算について財務省主計局は「大学改革の一つの論議の中で、交付金配分ルールも論議への一つの材料」としたが、地方をよく見つめる必要がある。

Friday, November 02, 2007

哲学と大学(第一回)

「哲学と大学」第1回に参加してきた。楽しく刺激的な時間を過ごさせていただき、どうもありがとうございました。

とりわけynさんの活躍ぶりを間近に見ることが出来てよかった。あらためて「色んな分野で活躍している人たちというのは、やりたいこととやるべきことをきちんとやってのけているんだな」という思いを深くした。

討議での発言を幾つか拾っておこう(後記:討議についての報告が既にUTCPのHPに掲載されている。簡にして要を得た、見事なまとめである。この報告を読まれた後に、以下の文章を読んでいただくと、問題の所在が分かりやすくなるように思う)。

1.「宛先」の問題

こういった議論を始めるにあたっては、常に議論の「場」がどのように形成されているのかに注意を払わねばならない。言い換えれば、「ここにいない者」に注意を払わねばならない。

a(・女性)*女性はいらっしゃったので。
b・「崖っぷち弱小大学」(杉山幸丸)の存在
 *「一流大学」との両極だけでなく、中間層(例えば、地方大学)も考慮に、との声もあった。
c・自然科学・理工系の存在
 *自然(自然科学)と人間(人文科学)の間の社会(社会科学)も考慮に、との声もあった。
d・非西洋系の存在

この「宛先Adressat」の問題は、今回取り上げられたレディングズの『廃墟のなかの大学』についても指摘された。誰に向かって書かれているのか?大学人に向かって書いていていいのか。

a・性差などマイノリティの問題は、カルスタの勃興を通じて明瞭に意識されている。
・その一方で、「大学は従来、国民文化と強く結びついていたが、グローバリゼーション状況下でその結びつきが決定的に解消される」という図式が、例えば戦後日本にどれほど当てはまるのか、疑問が残る。言い換えれば、本書においては「文化」と「国民文化」がほぼ同一視されてしまっているように思えるが、果たしてそれは妥当か。この同一視は、日本のように大学の数がきわめて多い国における

b)大学と文化の関係、教育と研究の関係(大学に「文化=教養」を求めるのか、ノウハウ=各種資格を求めるのか)、
c)文科系と理科系の関係(文科系が圧倒的に多い)、
d)カルスタの現状

を分析する上で、見逃しえない影響を及ぼすように思われる。

2.『廃墟のなかの大学』の大枠

・批判的分析の部分(主に1~3章)および
・歴史的経緯の部分(主に4~9章)はおおむね的確と言えるが、
・積極的提言の部分(主に10‐12章)にはかなり不満が残る、 といった印象が共有されたように思う。

批判的分析に関して「的確」というのは、現状を客観的に分析するに際して、「エクセレンス」概念がそのイデオロギー的な性格を暴露するところまで徹底的に議論を進めることによって、この「空疎な概念」に批判的な射程をもたせたからであり、

「おおむね」というのは、その批判的射程が厳密に(とりわけ特殊日本的に)どこまで届きうるものなのか、未だ判然としないところも残るからである。

もう少し時間があれば議論を深めたかったのは、むしろ後半部について、とりわけ「不同意の共同体」や「大学をめぐる信の問い」の真の射程についてであった。

3.商業主義(commercialism)と消費者主義(consumerism)

 エクセレンスを量的一元化志向と捉えるとしても、大学によって追求するエクセレンスは質においても量においても異なる。研究における学問的エクセレンスを追求する姿勢が文科省によって奨励・推進されるという事態と、「即戦力」教育・資格取得を強調することで少しでも多くの学生を囲い込もうとする事態は、まったく同じ事態の裏表ではないように思われる。

では、前者は国際競争における生き残りを賭けた闘いであり、後者は少子化を踏まえ生き残りを模索する闘いであると定義できるだろうか。これについてはもう少し考えてみる必要がある。

エクセレンスの「本性の差異」に対して、あらゆる大学を貫く傾向、「差異の本性」として指摘できるのは、学生や学費を払う親を「消費者」として位置づける消費者主義の蔓延ではないだろうか。周知のように、オープン・キャンパスなどの試みはすべて、学生獲得競争の一端にほかならない。


企業の研究職社員、学士の3割期待外れ…文科省調査
10月30日13時42分配信 読売新聞

 研究職で採用した社員が「期待を上回った」と考える企業は1~2%程度にとどまっていることが、文部科学省の調査でわかった。

 「期待はずれだった」とする企業の割合も、大学の学部卒者(学士)で3割にのぼるなど、企業に利益をもたらす新規事業や新製品開発を担う中心的な人材として採用されながら、期待に沿えない企業研究者が相当数いることが浮き彫りになった。

 調査は今年2~3月、研究開発を行う資本金10億円以上の企業1791社を対象に実施。過去5年間に採用した学士、大学院の修士、博士の各課程修了者、博士号を取得済みの「ポストドクター(ポスドク)」の四つに分けて、研究者の資質などを聞いた。有効回答は896社。

Wednesday, October 31, 2007

まず踊ること

11月末にコレージュ・ド・フランスで大規模なベルクソン・シンポがあり、ワークショップの部に参加する。その一週間後、リールで私にとっては重要な出来事がある。

その後、12月中旬にブラジルでベルクソン・シンポがあるので、パリからサン・パウロに飛ぶ。我々のプロジェクトの目的の一つが、世界規模のベルクソン研究ネットワークを確立することだからである。

リールに来ていたブラジルのベルクソン研究者mbとは仲が良かったので、久しぶりに会えるのが楽しみだ。すぐメールに返事をくれたのは嬉しかった。

リールにいた頃、「ブラジルの夜」と銘打って何人かで集まり、私はエリュアールの長大な詩を暗唱してみせ、彼はサンバの踊り方を教えてくれたことを懐かしく思い出す。



「プロジェクトX」とか、その進化型の「プロフェッショナル~仕事の流儀」とか、「単なるガンバリズムでしょ」と敬遠する人もあろうし、大好きな人もあろうし。

しかし、格好などどうでもいい。ヒントは何から得てもいいのだ。

***

常々口にすることがある。「展開が許せば三振を狙いたい。見ている人に感動を与えたい。自分の力でそれができるのであれば」(「これぞ守護神!球児3K5セーブ」、スポーツニッポン - 2007/4/11 6:04)。



14球の直球勝負には大胆かつ、したたかな計算もあった。「オール直球? そうやったかな? まあナイターでバッターも球が見にくいと思ったんでね」。 打者の目はまだ完全にナイター・モードにはなりきっていない開幕間もないこの時期。さらに中日は3カードをすべてドーム球場で戦っている。“我が家”甲子園が直球をより速く感じさせてくれることを知っていた。(「阪神球児オール直球3K!中日ねじ伏せた」、日刊スポーツ - 2007/4/11 10:05)



勝ちに謎めきやミラクルはあっても、負けに不思議はない。敗北に至る背景には、そこにたどりつくまでの必然的な過程がある。鉄壁の堅守を誇る落合竜が10日・阪神戦で、唯一の弱点から崩落した。ウッズの落球。山本昌の心は乱れ、リズムが狂った。(「竜の弱点…マサ狂わせたウッズの落球」、デイリースポーツ - 2007/4/11 10:27 )

Tuesday, October 30, 2007

教養と政治

≪「教養」と「政治」との組み合わせ。――このように問題を取り上げると、そこにエリート主義の匂いをかぎつけ、「教養」なき衆生を支配しようとする権力意志を読み取る人もいるかもしれない。とりわけ、この日本、少なくとも現在の日本社会では、そうした反応をする人が大半を占めるだろう。

だが、ここであえて、「教養」と「政治」とを組み合わせて論じるのは、これまでこの国では、三木清のような少数の例外を除いて、そうした課題を追求した試みが、ほとんど見られないからである。例えば、かつて1969年(昭和44年)に、蠟山政道は、『政治学』を収録した『アリストテレス全集』の一巻に寄せた短文でこう述べていた。

「その[『政治学』の]第7巻と第8巻が教育に関する見解に当てられている。そして、政治的な理想と教育の原則との関係が述べられている。/近代になってから政治学と教育学とはまったく袂を分かってしまい、政治学の立場で教育問題を取り扱っているのはきわめて少なく、特に日本ではその傾向が強い。

戦後日本で、教育の政治的中立ということが主張された。その際、政治の意味が政党政派の政治というような狭くかつ低いものにされてしまい、それに戦前の極端な国家主義への反動も加わって教育基本法における「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない」(第8条)とあるにもかかわらず、教育界には政治と教育との根本的な関係について関心を払うことが避けられてきた。

そこに、戦後日本の民主教育の欠陥の一つがあり、それがいま大学紛争その他となって現れている、といっても過言でない」≫(苅部直(かるべ・ただし)、『移りゆく「教養」』、NTT出版、2007年、103-105頁)


Q. あなたはよく「素人」と「専門家」の区別を強調するが?

A. そのとおりです。ただし、哲学に関する知識のレベルにおいてではありません。例えば哲学的概念は、それがどんなに難解なものであっても、一つ一つ取り上げてみれば、本やインターネットによって習得可能なものであり、決して思われているほど理解不可能なものではありません。

たいていの学問においてと同様、哲学において素人と専門家が区別されるのは、知識が活用されるその仕方においてです。具体的に言えば、直面している問題を正確に把握し、関連すると思われる知識を記憶の中から必要なだけ呼び出し、的確な形に組み合わせ、問題を論じる、その仕方においてです。

さらに、この「判断力」を駆使して論文を執筆し、研究を遂行する人が「研究者」と呼ばれるわけです。

ここで強調しておきたいのは、私はこのブログでほとんど常に「研究」の視点から語っているということ、若い人について語る場合でも、「大学院生」や「ポスドク」と言わず、「若手研究者」という言葉を用いているということです。

このように区別を強調せねばならないのは、日本の大学制度が、若手研究者がなるべく早く経済的自立を達成し、自尊心をもった形で独立できるような制度を未だ完全に確立していないからです。

日本学生支援機構(旧・育英会)がある?貸与するにも親を保証人に取る制度に頼って自立できるでしょうか。日本学術振興会がある?それによって何パーセントの若手研究者が身分を安定的に保証されるというのでしょうか。

人文系の学問を研究することがモラトリアムの延長線上で語られかねない現状は、学生および家庭・教員および大学・社会や政府の利害が複雑に混ざり合うことで成り立っていますが、一つだけたしかに言えることは、このような状況は研究にとって危機的なものであるということ、「大学院大学」という戦略では、大衆化に対抗して研究の質を維持できないだろう、ということです。

資本の論理、エクセレンスの論理に抗するには、どうすればいいのでしょうか?レディングスの提唱する不同意の共同体は、実現可能なものなのでしょうか?


TVでよく見る「特任・特命・特別教授」って何なの?
5月31日10時0分配信 日刊ゲンダイ

 TVのワイドショー等で、コメンテーターとして引っ張りダコの有名人センセイ。例えば、作家の猪瀬直樹(60=信州大)は国立の東工大の特任教授。元 TBSアナウンサーの木場弘子(42=千葉大)は、千葉大の特命教授。俳優の原田大二郎(63=明大)は明大の特別招聘教授、アグネス・チャン(51=カナダ・トロント大学)は目白大学の客員教授。「教授」は分かるとしても、「特命」や「特別招聘」って何なの?

「法律上、大学には学長、教授、准教授(旧・助教授)、助教、助手および事務職員を置くように決められています。ほかに副学長や学部長、講師、技術職員など置くことができます」(文部科学省広報担当)

 ナントカ教授というのは、各大学がそれぞれ設けている特別な肩書。実務レベルで、大学側から依頼する場合が多い。「本校の場合、特任、特命、客員を設けています。教授になるには年齢規定(60歳未満)がありますが、特任教授は不適用。授業は担当するので、一番教授に近い立場です。特命教授は授業なし。客員は1年ごとの更新で、常勤と非常勤があります」(早大広報)

「ここ最近、特別な教授が増えています。宣伝になり、各大学の特色を出しやすいためではないでしょうか」(明大広報) ま、一流大学はナントカ教授なんかで受験学生を集めず、プライドを持ってほしいものだが……。

Monsters of Excellence

≪いささか大げさな言い方で恐縮だが、大学こそ現代日本の普通の若者の集まる場である。その大学を変えなければ日本の将来はない。≫(『崖っぷち弱小大学物語』)

レディングスの『廃墟のなかの大学』に全面的に賛成というところからは程遠い位置に私はいるわけだが、それでも数々の指摘は実に真実を穿っていると思う。

例えば、大学における高等教育を取り巻く状況の中で、「エクセレンス」を追求する姿勢(COE=Center Of Excellence)と、「消費者主義」が密接に結びついているという指摘は正しい。

エクセレンスとは何か?量的基準への一元化であり、その基準への盲目的信仰の嬌声=強制である。エクセレンス主義と消費者主義の結合についてだけ言えば、「弱小大学」だろうが、「一流大学」だろうが、抱えている構造的な問題は同じである。

この問題をCOEで取り上げるという姿勢自体、高く評価できる。絶えざる自己省察、自己批判の姿勢、そう、それこそ哲学の仕事だと思う。



昨今、巷で話題になっている社会現象は、多かれ少なかれこの大きなグローバリゼーションの流れの中にある。

「小さい政府」「民間の活力の導入=競争社会」に快哉を叫び、トヨタが自動車生産台数で世界二位になったと自慢げで、経済大国になった今も世界有数の長時間労働を続け、サラリーマンの年収が8年連続でダウンしているのに、小さなデモさえ民衆自身から非難される。

「ハケンの品格」を信じ込まされ、テレビ・雑誌を通じて「セレブ」に羨望の眼差し。持ち上げて落とすことが昨今の現象なのではない。その周期と落差が加速度的に速く、大きくなったことが新しいのであり、その背後には「エクセレンスの論理」がある。

食品にまつわる偽装や、少年ボクサーのルール違反といった問題が新しいのではない。エクセレンス至上主義(売上高、株価や視聴率といった量的基準への急速な一元化)が、丸山真男の指摘した「無限責任→無責任」という特殊日本的な風土と見事に結びついたことが新しいのである。

消費者的「非難」が一向に生産的な「批判」、建設的な「議論」に転じていかない。

レディングスの大学をめぐる状況分析は、どこまで日本に当てはまるのか?これが私の素朴な疑問である。



この国は経済的貧者・社会的弱者を切り捨てる方向に進んでいる、それは確かだ。人々はそんな国の姿勢を知らず知らず真似し、子供はそんな親の姿勢を知らず知らず真似する。それでいて「いじめをなくせ」だの、「教育再生」を願っているなどと言う。

教育を語る際に「斜交いからの視線」――夜回りや元不良といった「マージナル体験」への盲目的な信仰――を持ち上げること自体がすでにデマゴギー的である。批判装置自体が「エクセレンスの論理」に取り込まれてしまっている。

揚げ足取りの「批判」で己の知的優越感を感じ、悦に入ろうというのではない。哲学が政治や教育になしうる寄与があると言いたいだけだ。「忙しいから」「興味ないから」と逃げないこと、少しでも知ろうと努め、事態を把握しようとすること、まずはそこから始まる。

行動を起こすこと、大事なのはそれだけだ。社会や政治が変わるのでなければ、教育が変わるはずもない。教育が変わるのでなければ、社会が変わるはずもない。政治や教育を変えられない哲学にさほどの意味があるとも思えない。哲学には経済効率以外の、人間精神を豊かにするパフォーマティヴもある、と示すことができるはずだし、また示すことができるのでなければならない。

学問は何の役にも立たず、役に立たないことに意味がある、と大正教養主義的な「虚学」賛歌を言っているのではない。質的に異なるさまざまな「役に立つ」がある、異質なパフォーマティヴを模索せねばならない、と言っているのである。


保護者の理不尽なクレーム、専門家による支援検討 文科省
7月9日8時1分配信 産経新聞

 理不尽な要求で学校現場を混乱させる保護者ら、いわゆる「モンスターペアレント」について、文部科学省が来年度から、本格的な学校支援に乗り出す方針を固めた。地域ごとに外部のカウンセラーや弁護士らによる協力体制を確立し、学校にかかる負担を軽減することを検討している。来年度の予算要求に盛り込みたい考えで、各地の教育委員会にも対策強化を求める。

 文科省が検討している支援策は、保護者から理不尽な要求やクレームが繰り返された際、教育専門家ら外部のカウンセラーが保護者と学校の間に入り、感情的なもつれを解消して問題解決を図るというもの。

 保護者とのトラブルが法的問題に発展するケースもあるため、学校が地域の弁護士からアドバイスを受けられるような協力体制づくりも進める。地域ごとにカウンセラーや弁護士らの支援チームを結成することも検討する。

 教育現場では近年、無理難題を押しつける保護者らが急増。こうした保護者らは「モンスターペアレント」と呼ばれ、校長や教員が話し合いや説得に努めてきた。しかし感情的なもつれなどから問題解決がこじれ、学校にとって大きな負担になることが少なくないという。

 モンスターペアレントについては今月初めの副大臣会議でも取り上げられ、文科省の池坊保子副大臣が早急に対策に取り組む姿勢を示していた。 文科省幹部は「学校が一部の保護者らの対応に追われて、子供たちの教育活動に支障が出るようになったら本末転倒。各教委が率先して対応に乗り出す必要がある」としている。


【主張】問題親 非常識に寛容すぎないか
産経新聞(06/19 05:17 )

 自分の子が悪いのに、しかった教師のところに怒鳴り込む。なんでも学校のせいにして損害賠償まで請求する。そんな理不尽な親の問題が深刻になっている。

 親からの無理難題の事例は枚挙にいとまがない。 大阪大の小野田正利教授らがつくる「学校保護者関係研究会」の聞き取り調査からも、その一端がうかがえる。「なぜうちの子が集合写真の真ん中ではないのか」「子供がけがをして学校を休む間、けがをさせた子も休ませろ」「子供から取り上げた携帯電話代を日割りで払え」など、要求内容はあきれるばかりだ。

 東京都港区教育委員会は、弁護士と契約して校長らの相談窓口をつくった。親とのトラブルで訴えられるケースを想定し、保険に入る教職員も増えている。こじれる前の対応が重要なのはいうまでもないが、やむにやまれない措置をとる教委が目立つ。

 学校関係者を中心に、「モンスターペアレント」(怪物親)という造語が広がっている。絶え間ない苦情攻勢で学校教育にも支障を来す親の存在は、教師を萎縮(いしゅく)させている。学校が壊されてしまうという恐れも抱くという。そんな関係は危機的だ。

 学校給食費を払わないばかりか、子供が通う保育園の保育料を払わない親も増え、自治体が法的措置を講じて督促するなど対応に苦慮している。支払い能力があるのに払わない親が増えているのだという。ここでも、自己中心的で規範意識のない親、学校を軽くみる親の姿が浮かび上がる。

 問題親が増えている背景に、子育てに対する学校、家庭、地域の役割分担意識の希薄化を指摘する見方もある。教育はすべて学校の責任とする風潮である。教育委員会も親からのクレームに過敏となる傾向がある。その結果、親の非常識が放置され、理不尽な要求に振り回されている。

 今年元日付の「年頭の主張」でも紹介したが、かつて欧米人は礼節を備えた日本の子供たちに目を瞠(みは)り、その子供たちを一体となって育(はぐく)む日本の社会や家庭の姿に感銘を受けたという(渡辺京二著『逝きし世の面影』から)。そうした社会を取り戻す必要がある。それにはまず、親の非常識を正すところから始めなければなるまい。

想像力、海外組

私とは入れ違いなので交流はないのだが、リールにClaudio Majolinoという若手の分析系現象学者がいる(おそらくJocelyn Benoit的な方向性と考えてそれほど間違いではないだろう)。

彼のやっているセミネールは想像力に関するものである。
Séminaire « Facta et ficta : analyse du traitement phénoménologique de l’imagination (Phantasie) et des actes non positionnels ».

興味のある方はSTLの該当頁を覗いてみてはいかがでしょうか。



サッカー日本代表のオシム監督は、「残念ながら日本には個人のスターしかいない。私はチームとしてスターになりたいし、いつかそういう時代がやってくる」と言った。選手によって人気が上下する日本のサッカー文化の未成熟さに原因があるというのはもっともだ。

「人気が低下している」フランス思想・哲学研究も同じことではないだろうか。「殿様商売」を改めねばならない。だが、「観客が見たいのは海外組」などというマーケティングの専門家は、期待の地平を一歩も超え出ていない。評価基準を自らつくりだし、「需要」を創出するのが真のパフォーマティヴではないか。

いつまでも海外組でもあるまい。だが、一昔前の広島カープのように、純国産にこだわる意味もない。チームとして向上するにはどうすればいいか、それだけが重要だ。人気は監督の考える最優先事項ではない。



スター不在で集客・視聴率低迷 サッカー日本代表
産経新聞
07:36
トラックバックURL: http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/63366/TrackBack/

 サッカーの日本代表人気が低下している。かつてプラチナチケットだった入場券は昨年のオシム監督就任以降、減少傾向で6月のモンテネグロ戦は日韓W杯以降、最低の2万人台の入場者数を記録した。危機感を募らせる日本協会“殿様商売”を改め始めた。そんな中、アジア杯が開幕したが、29日の決勝戦が参院選投開票日とぶつかり大会が選挙戦とかぶってしまい、前回大会のような盛り上がりは期待しにくい。

ヒデの穴 日本代表戦といえば、スタジアムがレプリカユニホームを着たファンで真っ青に染まるのが相場だった。ところがオシムジャパン発足後、国内開催7試合中、4試合で観客の入りは9割未満。モンテネグロ戦に至っては2万8635人と、6割にも満たなかった。


 視聴率も低迷気味だ。平均視聴率が20%を超えたことはなく、特に3月24日のペルー戦の13・7%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)は同時間帯に行われた女子フィギュア(38・1%)、プロボクシング亀田興毅ノンタイトル戦(16・2%)にも及ばなかった。


 この低迷の原因を、あるテレビ局関係者は「中田英寿氏の引退が大きい」と語る。「今の代表の先発を言える人、どれだけいますか?普段スポーツを見ない人をひきつけるためにも、スターは不可欠です」。現代表にも中村俊、高原ら人気選手はいるが数字上は「スーパースター不在」を意味している。

■低い満足度 もっとも「個」を尊重したジーコ前監督と異なり、オシム監督は特定の選手に頼らずチームとしての機能性を重視する。このため、新たなスターが生まれにくい状況も生み出している。


 そんな“オシム” について間宮聰夫・順大大学院客員教授(スポーツマーケティング論)は「スポーツをビジネスとしてみた場合、観客満足度を高めていない」と断じる。「観客が見たいのは海外組。直前合流による肉体的負担や連係不足はわかるが、日本協会がクラブ側に金銭補償してでも海外組がチームに長くいられるような環境作りも必要」と提案する。



 当のオシム監督は「残念ながら日本には個人のスターしかいない。私はチームとしてスターになりたいし、いつかそういう時代がやってくる」。選手によって人気が上下する日本のサッカー文化の未成熟さに原因があると言いたげだ。

 

■動く協会 日本協会オシム監督のチーム作りを支持している。人気低下についても、オシム路線というより「ドイツW杯への期待と(惨敗という)結果のギャップが大きかった」と田嶋幸三専務理事はみる。それでも、ここまでの観客減は衝撃だった。



 田嶋専務理事は最近、現場とマーケティングの連携の重要性が身にしみるという。「レアル・マドリードスペイン)の成功も、その点を無視していないから」。代表戦というだけで黙っていてもチケットが売れた時代は終わったという。



 今年に入り日本協会はチケット券種に変更を加えた。代表戦の観戦者動向調査データを参考に一番値段の高い座席数を減らしファミリーシートを増やし、北京五輪アジア2次予選では自由席を1000円で販売するなど柔軟性をみせ始め殿様商売から一歩踏み出した。



 アジア杯も日本代表の活躍で低迷打破の起爆剤にと期待されたが、参院選の余波で視聴率への影響も考えられる。田嶋専務理事は「一番大事なのはみんなが応援に来てくれるような魅力あるチームを作り勝つこと。チケットの売り方などはその次」とオシムジャパンへの注文と期待を語るのだが…。(森本利優)

Monday, October 29, 2007

ゴールドクレスト

子供が生まれた時、記念に区役所からもらったゴールドクレストが遂に枯れ果て、捨てられてしまった。。私も連れ合いも、植物を育てるのにはとことん不向きな人間である。

赤ん坊を育てていると、対人関係について考えさせられることが多い。別に高尚なことや深遠なことではなく、ごく普通のこと。

袖を通してあげるときは、こちらで袖を折りたたみ、赤ん坊の腕を一気に通してしまう。こちらで全部準備して、相手には最小限の負担、最短の時間しかとらせない。でないと、ぐずってしまう。時間がなく焦っているとき、つい面倒くさくなったとき、袖をそのままに腕を通そうとして失敗する。

子育ては、赤ん坊の理不尽さと親の至らなさの間で揺れ動く。授業・教育でも、事務作業でも、シンポの準備でも(笑)、同じだとつくづく思う。



日曜は家庭サービスの日。ときどきレディングスを読む。



我々のベルクソン・プロジェクトもシンポまでは成功した。次は出版の段階である。が、研究者個人の研究書ならともかく、シンポジウムの出版はなかなか難しいのだそうだ。

今回のシンポは内容的にもきわめて充実していたと思うので、なんとか流通に乗る出版にこぎつけられればと思うが、果たしてどうなるか。



<学位商法>熊大教授が米国の非公認大学「博士号」を公表
8月30日9時1分配信 毎日新聞

 熊本大学教育学部の教授が、公的機関から学位として認められていない米国の非公認大学の「博士号(文学)」を、自らの最終学歴・学位として公表していたことが分かった。非公認大学の学位の多くは、数十万~百数十万円を支払うだけで簡単に取得できる「学位商法」として米国などで問題になっている。文部科学省は、海外の非公認大学で取得した学位で採用や昇進を認められた大学教員がいないか、全国1206大学を対象にした実態調査を進めている。

 関係者によると、この熊大教授は、大学の教育水準を評価・保証する全米高等教育機関基準認定協議会(CHEA)が、大学として認定していない、米パシフィック・ウエスタン大学(PWU)から学位を取得。独立行政法人・科学技術振興機構の研究者情報サイトには、PWU大学院の博士号を95年に取得と登録し、福祉教育に関する著書(02年)にも経歴欄に博士号を指す「Ph・D」と記載した。教授は佛教大などを経て99年に熊大に移籍したが、現在の同大サイトの研究者情報には「文学修士」のみ記載がある。

 取材に対して教授は、同大学広報室を通じ「論文提出などの審査を受けて、学位を受けた。当時は非認定の大学という認識は全くなかった。熊大採用時の履歴には記載していなかった」と回答した。文科省は国内の大学教員の一部が、国際的に無意味な学位を最終学歴に掲げていることを問題視。国内の全大学に、米国などの公的な認定リストに掲載がない機関が授与した学位名称の有無▽採用・昇進審査の判断材料にしたか――などについて回答を求めている。文科省は、こうしたやり方が横行すれば「大学教育の質の維持が危ぶまれ、国際的な信用低下につながる」として、今秋にも調査結果を公表する。【石田宗久】

Sunday, October 28, 2007

来場者数

子供を預けられない休日のほうが疲れる。。そして書類、書類、書類。

ynさんが誘ってくれたUTCPの「哲学と大学」の第一回が11月1日にある。
レディングスの著作をもとに哲学と大学の歴史的関係を概観し、グローバル状況下における人文学の現状を考察します。事前にテクストを読んできたり、購入して持参したりする必要はとくにありません。どなたでも御自由に手ぶらでご参加ください。

ご興味がおありの方は、誰でも参加してよいそうなので、ぜひどうぞ

第一回の分析対象であるビル・レディングスの『廃墟のなかの大学』(原書1996年、法政大学出版局、2000年)、少しずつ読んでます。今の私の年齢の時に亡くなったのですね。コスモポリタン的な大学歴はまた、英語圏の特権でもあるのではないでしょうか(フランス語圏から飛び出した人は、ごくわずか…)。

コレージュ篇ワークショップでの発表レジュメの締め切りも同じ日。『創造的進化』と『全体性と無限』の一節を取り上げて(以前このブログで取り上げた「踏切板と石板」である)、ベルクソンとレヴィナスにおける物質と記憶、自由と制度の問題を簡潔に論じてみたい。

***

来場者数

さて、『創造的進化』シンポ私的報告の続きである。

一週間のマラソン・シンポジウムは、フランス人にとっても、私たち迎える側にとっても、生易しいものではなかった(さらに、私を含め、数人の人々は、直後に韓国に行ったので、けっこう壮絶な極道ぶりではあった。。)。

しかし、参加者にかなりの無理を強いたこの企画は、観客動員において十分に報いられたと言っていいだろう。この種の催し(フランス語で行われたフランス哲学に関する専門的なシンポジウム)では、相当健闘した結果だったと思う。私の個人的な印象でしかないが、

第一日目(学習院大学):100~120名
第二日目(法政大学):70~90名
『二源泉』ワークショップ(東京大学):60~80名
第三日目(京都大学):60~80名

来て下さった皆様、本当にありがとうございました。

下の写真は、すべての日程を終え、京都を出発する直前に、京都大学裏の寺を散策した折に撮ったものである。疲れた、しかし充実したフランス人たちの雰囲気を伝えてはいないだろうか。



Saturday, October 27, 2007

撒種するとはどういうことか?

大作を何とか書き終え、激動の一週間を終え、トンネルを抜けると、そこは家事と事務書類の国だった。。共働き&赤ん坊持ちの同世代の若手研究者たちは、いったいどうやって研究したり、まめにブログを更新したりできているのだろうか。自分ではけっこう働いているつもりなのだが、まだまだ甘いということなのだろう。

さて、三日間の『創造的進化』百周年記念国際シンポジウム+『二源泉』ワークショップ+韓国篇である。

★以下に書き連ねることはあくまでも私の個人的な考えであって、他の主催者、主催団体や発表者の方々の意見を代表するものではありません。

企画の意図

一番大きな眼目は、「日本のベルクソン研究(ひいてはフランス思想・哲学研究)の活性化に少しでも寄与する」ということであった。

そのためには、一日か、せいぜい二日、数人の海外研究者を呼んで、こぢんまりと世界の最先端のお話を興味深く拝聴する、といった旧来の方式ではあまり意味がないと思われた。

やるなら三日、ベルクソン研究の先端を行く世界の研究者(フランスだけでなく、少なくとも英米系)と、世界に紹介して恥ずかしくない日本を代表するベルクソン研究者の真剣な議論を、日本の聴衆、とりわけ若手研究者に、ライヴで見てもらうことが最も重要であるように思われた。

今回のシンポを旧来の延長線の感覚で見てしまった人がいるとしたら、この企画は失敗である。

やれ「フランスの誰某は大したことがない」だの、「日本の誰某の新刊はイマイチ」だの、批評家気取りで、言いたいことを言う。それでは巨大掲示板に「言いっ放し」を書き込んで、いっぱし専門家気取りの素人とたいした違いはない。それでいて、自分は満足に英・仏・独語で論文一つ書けはしない。日本語でなら、単に業績づくりの口実でなく、単に訓詁学的でもない、問題提起的な論文を書けているのだろうか?

若いのだから、大きなことを言ってもいい。ただ同時に、もっと自分の足元を見つめ直すべきなのだ。そう痛感してくれた若手(要するに私と同世代の人たちのことである)が一人でも増えたとしたら、この企画は成功である。


発表者の陣容

かねてから、ベルクソン研究をきちんと多様化する必要がある、と感じていた。「何でもアリ」がいいというのではない。一定の水準を保ちつつ、しかし、過度に訓詁学的にならない、という警戒感は必要であるように思われた。また、純粋哲学的と言おうが、形而上学的ないし存在論的と言おうが、同じことだが、とにかくベルクソン哲学における重要なモーメントである「科学との接触」を失うことも避けねばならないと思われた。ここから、以下の三本柱が決定した。

1.哲学的・哲学史的研究
2.科学的・科学史的研究
3.現代思想との関わり

今回は、画期的な「事件」「出来事」としてこのプロジェクトが一定の認知を得る必要があった。そこで、著名な実力者のみにご登場いただいたわけだが、次年度以降は、できれば小さなセミナー形式であれ、若手に発表の場を与えられるような「プラス・アルファ」を可能な限り導入していきたい(財政的な問題も含め、クリアしなければならない問題が山積しているので、約束はできないが)。



中堅以上の研究者には、真摯に努力を続けている若手を「救う」義務がある。もちろん自助も大切だろう。だが、若手を取り巻く状況は、帝大時代とも、バブル期とも違う。業界自体が崩れようとしているのである。

私と共に立ち上がってくれた方々、手を差し伸べてくださった方々もいた。その方々には篤く感謝申し上げ、今後ともご協力をお願い致します。

だが、あるときは私をエリート主義者と呼び、あるときはポピュリストと呼ぶ、都合のいい態度を取っていらっしゃるだけの幾人かの人々もいた。「私は授業をちゃんとやっていますよ」とか、「大学の委員を積極的に引き受けていますよ」、というのは状況に対する何らの積極的な打開策ではない。その方々は、ならば、このような状況をどうお思いなのか、どう対処していくべきだと思っていらっしゃるのか。

Friday, October 26, 2007

共に、そして離れ離れに

とうとう激動の一週間が終わった。一週間にわたる『創造的進化』百周年日本篇を終え、その足でソウル国立大学で行われた韓国篇に向かったのが日曜日のこと。昨日、韓国から戻ってきた。これらの動きについては追々、少し詳しく報告していくつもりだ。

***

私の「大学と哲学」論はとても単純だ。一方で、左翼=現代思想系の人々は往々にして「自由」を称揚しすぎる気味がある。大衆を積極的に取り込んでいく、象牙の塔に閉じこもらない、という基本姿勢にはまったく同感である。しかし、次のような姿勢が彼らの思想のうちに(実際のCOEや科研費獲得競争においてではなく)ほとんど見られないように思うのだ。
≪研究を進めるためには研究費を獲得しなければならない。大学院生の分まで必要である。研究費を獲得するためには次々と成果を上げなければならない。出てきた成果をできるだけ早く論文に書いて、主要な部分は英語で公表しなければならない。書いた原稿は国際的な学術誌に投稿して、審査員からどんなにケチをつけられても繰り返ししっかりと書き直して最後はパスし、掲載されるところまで持っていかなければならない。世界の最先端でいまどんな研究が進められているか、いつも外国語で書かれた膨大な量の論文に目を通して把握していなければならない。そして、どうやって最先端を自分自身が作り出せるかという、厳しい競争にさらされていたことは確かだ。誰もが必死だった≫(杉山幸丸(すぎやま・ゆきまる)、『崖っぷち弱小大学物語』、中公新書ラクレ、2004年)。

つまり、「エリート教育」(これが悪しき「エリート主義」と峻別されるべきことは繰り返し述べてきた)の問題が考え抜かれていないように思うのである。だとすれば、彼らの姿勢は根底においてポピュリズムの危険を孕んではいまいか。

しかし、他方で、自分をノンポリだと思い込んでいる純粋学術系の人々は、えてして「哲学・教育・政治」の根本連関自体を軽視することによって、自分が悪しきエリート主義に陥っていることに気づいていない。そのような人々の紡ぐ思索は、いかに「現実との接触」を語ろうとも、大学という自らの思索の唯物論的な基盤、「場所」についての哲学的省察を欠いてるがゆえに、本質的に脆弱な思考である。
≪大学が危機に直面しているのは日本だけではない。先進国の大学は、第二次世界大戦後に拡張政策をとったために、それぞれ構造的な問題が生じている。古典的な高等教育を維持しようとするイギリス、平等な公立大学の限界から脱出しようとするドイツ、大学以外の高等教育機関との調整に苦慮するフランス、そして大学院化が一層進むアメリカ。それぞれに事情の異なる各国の対処法から日本の大学が学ぶべきことは何か≫(潮木守一(うしおぎ・もりかず)、『世界の大学危機 新しい大学像を求めて』、中公新書、2004年)。

「大学と哲学」をめぐるこのような二極分化の間で、いかに理念を失わない現実主義を貫けるか。私の関心はそこに尽きている。以上の問題関心から出発して、昨今、フランスで展開された「哲学の教育、教育の哲学」の議論の一端を垣間見てみたい、というのが私の願いである。

***

このブログを見てくださる方が増えているそうである。とてもありがたいことだ…とばかりは、しかし、言えない。

別に、思ったことが書けなくなるとか、そんなくだらないことを心配しているのではない。私はそういう人間ではない。

ただ、多くの人にとって時間の無駄じゃないだろうか、と思うだけだ。

私がここに書いていることが本当の意味で理解できるのは、それぞれの道において「極道=道を極める」ことに精進している人だけである。それ以外の人々は、高名な学者であれ、残念ながら私(のブログ)とは本質的に関係がない。

読んでいますよ、などという目配せも不要である。本当に読んでいるかどうかは、その人の行動で分かる。言葉によってではなく、行動によって人の価値は測られる。読んでいても、大半の人は読んでいない。

不遜な言い方だ、と言われるだろう。しかし、それが数年間ブログを書き綴ってきた私の正直な実感である。自分のたかの知れた哲学的な実力を過大評価しているわけではない。ただ、理念をもって現実に立ち向かう大学人の少なさを知っているというだけのことである。

山羊の熟れ乳の人よ、共に、そして離れ離れに、道を極めることに勤しもう。それ以外の世の毀誉褒貶など、すべて塵に等しい。昨日「君のやっていることは本当に素晴らしい」と言っていた人間が、明日は「前々から不遜な奴だと思っていた」と陰口を憚らない、そんな世界にあって、信念と行動を同じくする人はごく少数だ。

Friday, October 05, 2007

近況・展望(自分の仕事の)

仕事と言えば、やはり自分の研究が一番しっかりしていないといけない。華やかな仕事などは、理想をもった現実主義の「現実」の一部分にすぎない。

・2007年8月:日仏哲学会刊行の『フランス哲学・思想研究』第12号に「ベルクソンと目的論の問題―『創造的進化』百周年を迎えて―」。

・2007年9月:大学紀要に三部作の第二篇。

・2007年9月:日本フランス語フランス文学会刊行の『フランス語フランス文学研究』第91号に「唯心論(スピリチュアリスム)と心霊論(スピリティスム) ―ベルクソン哲学における催眠・テレパシー・心霊研究―」。

今年はこれで大論文一つ、論文6本掲載(日4、仏1、12月ごろに英1)、翻訳(独→仏)1本、檄文一つ。各種応募用に日本語論文を増やすという所期の目的は達したと言える。来年も、少しでも質の高い日本語論文を、2カ月に一本のペースで書き、少なくとも一本は「これぞ」というフランス語論文を書ければ、と思う。

で、論文の内容なのだが、従来の研究の核であるベルクソン研究に加えて、ひとまず三つの軸を持ちたいと考えている。

1)「旅行の哲学」というときわめて軽そうなのだが、実際には"Weltanschauung et perspectivisme"という哲学的な問題体系を裏に秘めている。

2)「結婚の形而上学とその脱構築」。これまた「宗教と聖性」「存在と所有」「fides概念」といった形而上学直球の問題系を現実問題と交錯させて論じたい、という意図がある。

3)「教育の哲学、哲学の教育」。これも長年やりたいと思っていたテーマ。その一部はすでにこのブログでも書き散らかしてきた。

お約束した関係もあるので、まずは3あたりから、研究論文の形で徐々に書いていきたい。

翻訳はお約束したものが幾つかありますが、これは何とかやり遂げたいと思っています。それ以後は、原則的にお引き受けしないと思います。