Saturday, February 18, 2006

ベルクソン、『アリストテレスの場所論』

これからしばらくベルクソンのアリストテレス論読解に向けて準備作業を行っていく。今回は余談。

***

『時間と自由』すなわち『意識の直接与件に関する試論』は、ベルクソンが1889年に提出した博士号取得のための主論文であり、処女著作として有名であるが、その時の副論文である『アリストテレスにおける場所の観念』は圧倒的に読まれていない。

国家博士号取得のための主論文・副論文の制度はその後も長らく続き、フーコーであれば主論文が『狂気の歴史』で副論文が『カント『人間学』の生成と構造』(未刊行)、ドゥルーズであれば主論文が『差異と反復』で副論文が『スピノザと表現の問題』といった感じで、主論文に自己の哲学的な営為の到達点を示すもの、副論文によりアカデミック("thèse d'érudition"と呼んでいる人もいるくらいである)、より哲学史的、より文献読解的なものを提示するという伝統があった。

とはいえ、ベルクソンの時代とフーコーやドゥルーズの時代の間にもすでに明確な違いがある。それは副論文はラテン語で書かれたという点である。

たとえば、ラヴェッソン(1813-1900)
の有名な『習慣について』(1838年)の副論文は、プラトンの甥でその死後アカデメイア学頭の地位を継いだスペウシッポス(Speusippe)に関する
Speusipii de primis rerum principiis placita qualia fuisse videantur ex Aristotele.
であるし、

ベルクソンが生涯にたった一度献辞を付したその宛先であるラシュリエ(1832-1918)の、これまた有名な『帰納法の基礎』(1871年)の副論文は、
De Natura syllogismi
であり(のちにRevue philosophiqueの1876年5月号に"Les conséquences immédiates et le syllogisme"という表題で掲載され、1907年にEtudes sur le syllogismeという論文集に収められたものの元になったのではないかと思われる)、

最後にブートルー(Emile Boutroux, 1845-1921)
の代表作『自然法則の偶然性について』(1874年)もまた博士論文であるが(これはラヴェッソンに捧げられている)、その副論文は、
De Veritatibus aeternis apud Cartesium.
である(本論文はその後、1927年にブランシュヴィックが序文を書き、カンギレムが仏訳して出版された。1985年の再版は現在でも原則的には入手可能である。Des Vérités éternelles chez Descartes, traduite par G. Canguilhem, Paris : J. Vrin, coll. "Vrin-reprise", 1985.)。

ちなみにきわめて細かい話だが、このとても有益なサイト - sublime, absolument sublime ! - からダウンロードできる"L'histoire de la philosophie"というのは、ブートルーの1908年の著作 Etudes d'histoire de la philosophie の巻頭に置かれた論文である。なんと著作全体がBNFでダウンロードできる。

Friday, February 17, 2006

それから

Aix-en-Provence大学での発表を無事終えた。主催者側のご好意で、単なるdoctorantとしては恐縮するほど至れり尽くせりの待遇であった。出席者は15人くらいで、ベルクソンの思想に(とりわけ『二源泉』に)共感を示すかどうかは別として、私の発表に関しては「明晰でとても分かりやすく、はじめて『二源泉』が分かった気がした」と好意的な評が多かったので、準備に手間をかけた甲斐があった。

とはいえ、口からでまかせのお世辞などお手の物の南仏気質。彼らの評価と好意が本当に分かって嬉しかったのは、ゼミを終えたあと。フランスでは通常(少なくとも私の知る限り)、教官や発表者を交えたゼミ後の飲み会などそうそうあるものではないし(教官の性格やゼミの性質にもよるけれど)、実際、彼ら自身も「めったにしない」と言っていたが、「一緒に飲みに行こう」と誘ってくれたこと。みんな何となく残って一緒に喋りたそうだったので、これはよかった。

中身は結局、こんな感じ。

1.『二源泉』の概観
(1)ベルクソン哲学における『二源泉』の位置
(2)各章ごとの争点

2.『二源泉』の一読解:人格・情動・合理性
(1)人格と個人性:ベルクソンからシモンドンへ
(2)情動:ベルクソンとカントにおける「熱狂」概念
(3)新たな合理性に向けて:グランジェの『非合理』を批判する

***

さて、その後は徹夜続きの代償として病気で倒れたり、事務作業に集中したりとろくに勉強できなかったが、今後の予定としては:

1)3月3日にリールで若手ベルクソン研究者の集いがあるので、そこでの小さな発表の準備。ベルクソンとアリストテレスにおける運動と場所の話にしようと思っている。

2)5月18日にやはりリールの有名なマシュレ・ゼミで発表することになっているので、その準備。こちらは遂に本格的にベルクソンの身体概念についての博論の概要を打ち出すことになる。

これから数ヶ月が山場になる。

Tuesday, January 31, 2006

ベルクソンの人格理論

『二源泉』についての講演まで、もうあと一週間となってしまった。今日、レジュメとベルクソンのテクスト抜粋を向こうの大学宛てに送った。テクスト抜粋は、5から40ページという話だったので、『二源泉』全体を概観できるよう、各章から断片を合計20ページほど選び出した。さまざまな要求(1)DEA学生向け、2)経済学ないし社会科学に関するもの)を満たすべく努力したつもりだが、一週間で読ませるには長すぎた気もする。

同時進行で発表用原稿も書いている。やはり書き出すと面白くてとまらなくなる。大筋は頭にあるものの、詳細は書きながら「発見」するし、ときにはまったく予想外の発展を見せることもある。こういうときに日頃「無意味な博学」と揶揄されている事柄が役に立つこともある。

どうやら一時間強喋ればもう十分といった感じであるようなので、逆に時間が足りないな、と思い始めている。各セクション20分くらい。

現在は『二源泉』を概観する第一セクションを書いている段階。大体のイメージはできつつあるが、神秘主義についてゴダール(Jean-Christopheのほうね)のものを読みきるには時間が足りないので、第三章の部分はどうするか。

今日は、グイエの論文「創造的人格」を読んだ。哲学史家の本領発揮といった論文で、ベルクソンの人格理論の発展を時代順におさえている。理論的には得るところが少ない。大変失礼ながら、グイエにしてこのレベルかと安心させられる。

『二源泉』が新たにもたらした理論的寄与として、たとえばドゥルーズは情動の理論や哲学的蓋然性を積極的にプッシュしているが、人格性に関してももう少し掘り下げられるのではないか、というのが私の発表で理論的に新しいところである。人格性に関する議論は各章に出てくるが、とりわけ第二章の出来事の「人格性の要素」はきわめて興味深い。私はカントとシモンドンを使う。

Thursday, January 26, 2006

根源の彼方に

デリダはほとんど読んだことがないが、なんとなく嫌いだ、という方は哲学関係者の中にも多いであろう。だが、少なくともプロである限り、読まず嫌いは禁物である。ここでは、食わず嫌いを緩和していただくべく、ごく簡単にデリダ的な思考の一典型を示してみたい。

次に引用する一節では、「記号」を主題として、それが形而上学的歴史の桎梏から抜け出すことの困難が語られている。簡単に歴史と縁が切れて、新たな思考を始められるとする立場(ここでは新たな記号学・記号論の創設)のナイーヴさに注意を喚起するという態度は、彼の哲学を一貫して貫くものである。

だが、デリダと単なる歴史重視の保守派ないし相対主義を振りかざす懐疑主義者とを隔てる一線は、次の二点において明確である。1)「閉域外のほのかな光を未だ名づけえぬままに垣間見せている断層」、すなわち一時代の閉域を超えて新たに到来しようとするものを正確に捉えようとする注意、2)歴史的相対主義(価値判断停止の恒久化)に落ち込むまいとする意識、がそれである。

以上の方法論的なレベルにおいて見られる超越論的なアプローチは、分析対象の措定の仕方にも現れている。シニフィアンを含む記号、さらにはエクリチュール全般の「外在性」が、それらの概念に存在論的に先行する、という考えがそれである。起源には起源の代補が、差延が先行する、という考えは超越論哲学の過剰なまでの徹底化に他ならない。この意味で、ヴァンサン・デコンブがデリダの思想をフッサール、とりわけハイデガーの「現象学の徹底化」と呼んでいるのは正しい。

*

≪もちろん、これらの概念を捨て去ることが問題なのではない。それらは必然的なものであって、少なくとも今日われわれは、それらなしにはもはや何事も思惟することはできない。まず問題なのは、分離しうるものだとしばしば素朴に信じられている諸概念と思惟の諸態度との一貫した、歴史的な連係を明らかにすることである。記号と神性とは、同じところで同じ時に生まれた。記号の時代は、本質的に神学的である。それは、おそらく決して終わらないであろう。しかしながら、その閉域はすでに素描されているのだ。

"Bien entendu, il ne s'agit pas de "rejeter" ces notions : elles sont nécessaires et, aujourd'hui du moins, pour nous, plus rien n'est pensable sans elles. Il s'agit d'abord de mettre en évidence la solidarité systématique et historique de concepts et de gestes de pensée qu'on croit souvent pouvoir séparer innocemment. Le signe et la divinité ont le même lieu et le même temps de naissance. L'époque du signe est essentiellement théologique. Elle ne finira peut-être jamais. Sa clôture historique est pourtant dessinée.

 以上の諸概念の構成する遺産を揺り動かすために今日これらの概念が不可欠であるだけに、なおさらわれわれはそれらを放棄してはならない。閉域の内部において、斜に構えた、常に危うい運動によって、そして自身が脱構築しているものの手前に再び落ち込んでしまうという危険をたえず冒しているひとつの運動によって、危機的で危険な諸概念を慎重で綿密なひとつの言説で包囲し、それらの危機的な概念の有効性の諸条件、場、諸限界を提示して、それらが所属している機構はそれら自身によって脱構成しうるのだということを厳密に指摘せねばならず、また同時に、閉域外のほのかな光を未だ名づけえぬままに垣間見せている断層についても、指摘せねばならない。

Nous devons d'autant moins renoncer à ces concepts qu'ils nous sont indispensables pour ébranler aujourd'hui l'héritage dont ils font partie. A l'intérieur de la clôture, par un mouvement oblique et toujours périlleux, risquant sans cesse de retomber en-deçà de ce qu'il déconstruit, il faut entourer les concepts critiques d'un discours prudent et minutieux, marquer les conditions, le milieu et les limites de leur efficacité, désigner rigoureusement leur appartenance à la machine qu'ils permettent de déconstituer ; et du même coup la faille par laquelle se laisse entrevoir, encore innommable, la lueur de l'outre-clôture.

この場合、記号の概念は範例的なものである。われわれは先ほど、それが形而上学に所属していることを見た。しかしながら周知のように、一世紀ほど前から、記号という主題は、意味作用の運動を意味、真理、現前、存在などからもぎ離すのだと自称していた一つの伝統の、断末魔の苦悶である。[…]われわれが気にかけているのは、[新たな記号論の誕生の成否などではなく]記号の概念――これは(現前の)哲学の歴史の外では決して存在もせず、機能もしなかった――の中でなおも一貫して、また系譜的にこの歴史によって規定されているものである。だからこそ、脱構築の概念、またとりわけ脱構築の作業、その「スタイル」はその本性上、さまざまの誤解や誤認にさらされ続けているのである。

Le concept de signe est ici exemplaire. Nous venons de marquer son appartenance métaphysique. Nous savons pourtant que la thématique du signe est depuis près d'un siècle le travail d'agonie d'une tradition qui prétendait soustraire le sens, la vérité, la présence, l'être, etc., au mouvement de la signification. [...] Nous nous inquiétons de ce qui, dans le concept de signe -- qui n'a jamais existé ni fonctionné hors de l'histoire de la philosophie (de la présence) -- reste systématiquement et généalogiquement déterminé par cette histoire. C'est par là que le concept et surtout le travail de la déconstruction, son "style", restent par nature exposés aux malentendus et à la méconnaissance.

 <意味するもの>の外面性はエクリチュール全般の外面性であって、われわれはもっと先で、エクリチュール以前には言語記号は存在しないということを示そうと思う。この外面性なしには、記号の観念そのものが崩壊してしまう。それとともにわれわれのあらゆる世界、あらゆる言語は崩壊するであろうがゆえに、またこの観念の明証性と価値とはある分岐路までは破壊不可能な堅固さを保有しているがゆえに、この観念が、ある一つの時代に所属しているからといって「他のものに移行」せねばならぬとか、また記号を、記号という用語や観念を捨て去らねばならぬとか結論することは、いささか愚かしいことであろう。われわれがここで素描している態度を適切に把握するためには、新たな仕方で「時代」、「一時代の閉域」、「歴史的系譜」という表現を理解せねばならず、まずもってこれらの表現をあらゆる相対主義から引き離さねばならない。≫ (デリダ、『根源の彼方に グラマトロジーについて』、足立和浩訳、現代思潮社、1972年、36-37頁。一部改訳。)

L'extériorité du signifiant est l'extériorité de l'écriture en général et nous tenterons de montrer plus loin qu'il n'y a pas de signe linguistique avant l'écriture. Sans cette extériorité, l'idée même de signe tombe en ruine. Comme tout notre monde et tout notre langage s'écrouleraient avec elle, comme son évidence et sa valeur gardent, à un certain point de dérivation, une indestructible solidité, il y aurait quelque niaiserie à conclure de son appartenance à une époque qu'il faille "passer à autre chose" et se débarrasser du signe, de ce terme et de cette notion. Pour percevoir convenablement le geste que nous esquissons ici, il faudra entendre d'une façon nouvelle les expressions "époque", "clôture d'une époque", "généalogie historique" ; et d'abord les soustraire à tout relativisme." (Jacques Derrida, De la grammatologie, éd. Seuil, 1967, pp. 25-26.)

Thursday, January 19, 2006

運転再開

Auf deutschを新たな形を加えつつ再開することにしました。よろしければご覧ください。hf

Monday, January 16, 2006

1.『二源泉』の位置(1)新たな論理の探求

慌しく一週間が過ぎた。さぞ集中して勉強に励んでいることだろうと思われるかもしれないが、まったくさにあらず。相変わらずの事務処理に加え、思いがけない事件に巻き込まれ、2,3日潰れてしまった。

卑俗な、物悲しい、救いのない話で、精神的に疲弊した。私なりの「大リーグ挑戦」を励ましてくれる方もいれば、こうしてものの見事に脚を引っ張ってくれる人もいる。安心して背中を見せていたらいきなり撃たれたという感じである。疑念を抱くということは誰しもあるものだが、その疑念を客観的に相対化し、最低限度コントロールできるかどうかは知性、すなわち学者に必要不可欠な能力の枢要である、ということだけは付言しておきたいと思う。そもそも私の精神の単純率直さが分からないとは!

これから留学される私の友人たちには、この先きっと色んなことがあるだろうけど、nervous breakdownしないよう精神的なタフさを身につけることをお奨めしておきたい。一人で、海外で、博論準備の重圧に耐えるのはそう簡単なことではない。

*

さて、リズム論文の校閲も終了し、残るは『二源泉』読解である。もう残り一カ月をきってしまった。

以下は、いずれフランス語で書かれる講演の素描である。ベルクソンの『二源泉』をまったく(あるいはほとんど)読んだことがない、しかしベルクソンについて一応の予備知識を持っているという哲学科の学生を聴衆として念頭においている。

*

あまりscolaireな形で、protocoleにのっとって皆さんを眠くさせるのは本意ではないので、一気に主題に入らせていただきます。

ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』の主題とは何か?この一見きわめて容易に見える問いが、実は、『二源泉』をめぐる問いのうちで最も難しいものの一つなのです。

はたして『二源泉』は哲学書なのか?道徳と宗教の歴史的起源を探る歴史書なのか?社会学的・人類学的著作なのか?誰がこれらの問いに完全な答えを与ええたでしょうか?

実はこの諸科学を横断しているところから来る曖昧さこそ、ベルクソン哲学の独創性をなす構成要素の一つなのです。その独創性は、ベルクソン哲学が諸科学と特殊な関係を結んでいるところに由来します。その関係とは一言で言えば、それら諸科学の絶えざる再鋳造の試みとでも言えるでしょうか?

実際、『試論』とは何でしょうか?人間の意識を抽象化して取り出すことに反対し、生のままの具体的な意識を持続の中に見出すことを主眼とする著作だと考えられています。しかし、実際には、人間の意識を粗雑な抽象化によってその本質を毀損することなしには捉えられなかった当時の実験心理学(精神物理学)に対する批判であり、持続概念を用いることによって、意識をより正確に、より繊細に把捉しようとする新たな論理を提出しようとした著作ではなかったでしょうか?

『物質と記憶』とは、記憶を大脳の物理化学的機能によって説明しようとするいわゆる局在化理論に反対し、記憶の真の精神的性質を見出すことを主眼とする著作だと考えられています。しかし、実際には、記憶を粗雑な一対一対応によってその本質を毀損することなしには捉えられなかった当時の大脳生理学に対する批判であり、記憶概念の洗練(運動記憶と想起記憶の区別)によって、心身問題をより正確に把握しようとする新たな論理を提出しようとした著作ではなかったでしょうか?

『創造的進化』についても同じことが言えます。生命進化の過程をすでに進化し終えたものの総体から説明しようとする従来の進化論に反対し、ありのままの生命の流れの原理を「エラン・ヴィタル」の中に
見出すことを主眼とする著作だと考えられています。しかし、実際には、生命進化を粗雑な網の目にかけることでその本質自体を毀損することなしには捉えられなかった当時の進化論に対する批判であり、新たな生命進化の概念である「エラン・ヴィタル」を用いることによって、生命進化の問題をより正確に把握するための新たな論理を提出しようとした著作ではなかったでしょうか?

要するに、ベルクソンとは、合理的説明に非合理的現実をつきつけることで対抗しようとした非合理的・神秘的な哲学者ではなく、粗い網の目しか持たない不十分な合理性に対して、より繊細な網の目をもった計測装置、概念装置の必要性を説く哲学者、したがって当時の合理性の観点からすれば非合理と捉えられるとしても、単に新たな、より広く、より柔軟な合理性を探し求めた哲学者であったということができます。

むろん、すぐに付け加えておかねばなりませんが、彼の試みが成功したかどうかというのはまた別の話です。もし我々がベルクソンは上記の諸分野において新たな「科学」を確立したと言えば、それは言い過ぎということになるでしょう。

しかし少なくとも、彼は新たな「論理」を提出しようとしたということはできるし、またそこにこそ彼の哲学探究の真価を見て取らねばならない。では、ベルクソンの四大著作のうち、前三作の探求した論理が以上にごく簡単に素描したようなものであったとして、最後の大著『二源泉』の探し求めた論理とは、いったいどのようなものであったのでしょうか?(続く)

Monday, January 09, 2006

plan G (続)

以前、plan Gとして話していた計画がほぼ正式に決まったので報告しておきます。2月8日に南仏Aix-en-Provence大学の「哲学と経済学(および社会科学)」というセミネールで、ベルクソンの『二源泉』について話すよう招待を受けたという件です。

友人の招待ですが、とても嬉しく思っています。今後の日本人若手研究者のこともあるから、あまり恥ずかしい事はできないな、とも。気を引き締めてかからねば。日本人研究者もハイテク機械で高名な哲学者の録音ばかりしているわけではなく、なかなかやるじゃないか、と言われるように。

二時間半くらい話せ、ということなので、もちろんきちんと原稿を用意していくつもりです。日本ではどうか分かりませんが、少なくともフランスの哲学分野においては、セミネールで(もちろん学生向けのセミネールではなく、研究者間のセミネールで、ということだが)一つ発表をせよという招待を受けた場合、多かれ少なかれ完成した読み原稿を用意してきているように思います。

しかし、参加者の中には、DEAの学生もおり、『二源泉』が課題として挙げられているということなので、講演の組み立ては以下のようにしようと考えています。

1.ベルクソン哲学における『二源泉』の位置(DEA学生向け)

2.ベルクソン哲学(とりわけ『二源泉』)における身体論の重要性(ベルクソン研究者向け)

3.ベルクソン哲学(とりわけ『二源泉』)における合理性・功利性の取り扱い(社会学者・経済学者向け)

それぞれA4で十二三枚ずつくらい書いていけば、二時間半ということになるでしょう。というわけで、以後しばらくベルクソンの話ばかりになります。

Friday, January 06, 2006

Caute !

冬休みは二つの論文の仏訳、フランスの某雑誌に掲載される予定のエッセイの改稿、そして何よりも書類の処理に明け暮れた。実際、一昨日、ようやく二ヶ月以上にわたる滞在許可証更新作業を終了し、昨日は一日中、事務処理に忙殺された。その甲斐あって、幾つかの懸案事項が一挙に解決されたことは喜ばしい限りだが、精神的にはかなり消耗した。

これら一連の作業およびそれにまつわることどもを通じて痛感したのは、「慎重に」という姿勢の重要性であった。一つだけさして支障のないものを例として取り上げてみる。

先に言及したエッセイとは、昨年、リールのとある独立系書店の25周年を祝って(2005年5月31日のpostを参照のこと)刊行された小著Ici, là-bas, etc...(ブログを参照のこと)のために執筆したBright future? Quelques réflexions sur les "sans-papiers" à venirのことである。ここで言う「サン・パピエ」とはいわゆる滞在許可証を持たない不法滞在者のことではなく、文字通り「紙なし」の電子空間の到来が決定的な影響をもたらす独立系書店とその未来のことである。

改稿にあたっては、再三再四「中立性」を要望された。もともとが独立系書店の可能性を探るという展望のもとに書かれている以上、当然予想されることだが、改稿は困難であった。そもそもその手の「中立性」など信じてはいないということもあったが。しかし、中立的(毒にも薬にもならない)でない効果をもたらすためにはまさに中立的でなければならない、ということも教えられた。

また、ある種の思想的党派性がなくもない雑誌なので、引用する哲学者の名前一つでリジェクトされる可能性もあると言い含められた。その結果、重要なレフェランスも落とさざるを得なかった。むろん分かる人には分かる目配せはしてある。

かなりタイトなスケジュールで辛かったが、私にとっては実に貴重な体験だった。

*

「初夢」などという過激な小文を正月早々ものしておきながら「慎重に」もないものだと嗤われるかもしれないが、慎重さはすでにスタイルの中にわずかながら努力として顔をのぞかせている。

ホワイトヘッドは、

諸事物の本性のうちにある深みを探索する努力は、どんなに浅薄で脆弱で不完全なものであるか。哲学の議論においては、陳述の究極性に関して、独断的に確実だと単にほのめかすだけでも愚かさの証拠である。
Combien sont superficiels, insignifiants et imparfaits les efforts pour sonder la profondeur des choses. Dans la discussion philosophique, c'est folie que de laisser entendre paraître la moindre certitude quant au caractère définitif de toute affirmation.

と言っている(『過程と実在』、序文)。また、彼は合理主義の口を借りて、

哲学における主な誤りとは、誇張である。
L'erreur primordiale en philosophie est l'exagération.

とも言っている(『過程と実在』第一部・第一章・第三節)。年初にあたって肝に銘じておきたい。

Saturday, December 31, 2005

優しいFWは生き残れない(哲学においても)

今日、リズム論文の仏訳を終えた。明日はオーバーホールすることにして、新たに動き出すのは新年からにする。新年早々の目標は二つ。1)一月上旬に指導教官と会う予定なので、その際に約束の博論序論の一部を渡すこと。2)二月のAix遠征に向けて準備を始めること。

ところで前回のようなことをしょっちゅう書いていると、私は傲慢で叩かれたことがないかのように思われるかもしれない。しかし、かなり厳しい目にあっていることも事実である。未だに「こんな程度のフランス語のレベルじゃ出版できる状態じゃないね」と厳しいフランス人の友人に言われたりすると、かなりめげる。そりゃお前はいいよな、と思う。正直腹も立つ。けれど、こればかりは仕方がない。相手の土俵で、相手の流儀で戦っているのだ。手加減してもらって、勝ったことにしてもらって、最後に「よく頑張ったね」などと言われたいためにフランスに来ているわけではない以上、言い訳はできない。

*

友人の間では周知のことだが、私がスポーツネタを話題にする場合には、ほぼ必ずや学問研究の比喩としてである。したがって、以下に書くことは直接サッカーに関することではない。サッカーファンの方々に無駄な時間を使っていただきたくないので、あらかじめお断りしておく。

*

私は「スポーツナビ」の欧州各地のサッカーコラムの愛読者である。これらの記事はすべてフリーランスのライターによって書かれており、もちろん新聞記者の書くものより断然面白い。書くときの緊張感が違うし(彼らは面白いものを書かなければそれまでなのだ)、欧州についての文化的理解の深さも違えば、そもそも欧州サッカーという以前に、サッカーについての理解の深さが違う。

ホンマヨシカさんの「セリエA・未来派宣言」も私が愛読しているコラムの一つである。今日は、2005年12月28日付の記事「優しいFWは生き残れない」を読んで印象に残ったので、ご一読をお勧めしておく。ここではとりわけ印象に残った部分だけを引用させていただく。

いつものようにほほ笑みを浮かべながら質問に答えていた柳沢からは、試合に出場できない悔しさは伝わってこなかった。インタビューが終わった後、日本人ジャーナリストの輪の中に知り合いのジャーナリストを見つけたので、「柳沢から悔しさが感じられないね」と聞くと、「いや、やはりインタビューをしたくなかったようで、そのまま立ち止まらずに行こうとしましたよ」とのことだった。だがそれでも僕が「でも、悔しさが全然感じられないよ」と続けると、面識のないジャーナリストの1人が、「悔しくても、彼はそれを外に出さないタイプだから」と答えてその場を去った。僕にしても柳沢が悔しい思いをしているだろうと重々承知しているのだが、問題は彼がその悔しさを外に表わさない(表わせない)ことだ。 インタビューを受けたくなかったのなら、待ち受けている日本人記者たちには失礼だが、無視して通り過ぎるか、「何も言うことがありません」と立ち去るぐらいの悔しさを表わす行動を見せてほしかった。

この一文を読んで感じることは二つ。

1)一つは「悔しくても、彼はそれを外に出さないタイプだから」と答えてその場を去ったジャーナリスト氏は、質問の真意をなんら理解していない、典型的な日本人ジャーナリストである可能性があるということ。欧州に何年住んでいても、いつまで経っても悪い意味で日本人のままという人がいる。柳沢が周囲に嫌な気分を味わわせまいと悔しい思いをじっと押し殺しているだろうことは百も承知のうえで、彼がイタリアで活躍するために必要な感情表現上の工夫とは何なのかを問うているのだ。日本人が日本人スタイルで仕事をしていて受け入れられる土壌(たとえば寿司屋などの日本料理店ないし海外進出した日本の大企業)で仕事をしている人はよい。また、自分のスタイルや信条を投げ打ってまで成功などしたくないという人も勝手にすればよい。だが、そうでない場合には、時には自分の性格も信条も投げ打ってでも、相手の要求に応えてみせる用意が必要だ。「自分のスタイル」を云々するのはその後でいい。ちなみに、ホンマさんは

今年の初めだったか、スペインリーグのコラムを書いておられる木村氏が、大久保の日本人には珍しいアグレッシブな姿勢を評価されていたのを読み、セリエAでもそれくらいの姿勢(特にFWというポジションでやっていくには)が必要だと、僕は至極納得した。

とも書いておられ、木村さんの当該記事ではないが、大久保に関するKosuke Itoさんの記事(や別の記事の抜粋)を賛意とともに引用させていただいた私としては、意を強くした次第である。

2)二つ目は、この点(悔しさをストレートに表に出すこと)をそのまま哲学研究に応用することは、もちろん(笑)、できないということ。哲学というのは、悪く言えば、鼻持ちならないお高くとまった分野である。日本はいざ知らず、とりわけ欧州では、未だに良家の子女が「修身」として学ぶ学問である。実際、私の知り合いにも、貴族の末裔のような人々がいくらでもいる。この点、私たち哲学研究者の要求される技術は、サッカーにおける上記のような闘争心むき出しのガッツの見せ方とは、100%逆でなければならない。つまり、インテリジェンスとユーモアを兼ね備え、スマートでエレガントでなければならない。

(むろん、両者の差異を相対化することは幾らでもできるが、本質的な差異が残ることに変わりはない。)

このことはサッカーを低く見ることも、哲学を高く見ることも意味していない。哲学に対して皮肉を込めて言っているのでもない。フィギュアスケートやシンクロナイズドスイミングにおいて、何よりもまず優美さが要求されるからといって、彼らにガッツが求められないわけでないのと同じである。ただ、ガッツをまったく別の形で表現しなければ、そのガッツ自体が無意味になってしまう領域・分野というものが存在するのである。

ただ、哲学研究とフィギュアやシンクロの違い、そして哲学とサッカーの共通点の一つは、それが多民族間の「チームスポーツ」だということである。この点はきわめて重要なので、項を改めて書くことにして、ここで言いたかったことを最後に一言でまとめておくとこうなるだろうか。

私たちは競技場に「心優しいFW」を見に来ているのではない。「点取り屋」を見に来ているのである。哲学においても事は同じである。

Thursday, December 29, 2005

自己点検(仏語添削について)

以前、自分のblog(もちろんblog一般ではまったくない)に対するとるべき態度と、とるべきでない態度して、こういうことを書いたことがある。

しかし、誰のためのblogなのか、何のためのblogなのか、ということをさらに考えた場合、結局のところ、上に挙げた二つの態度は必ずしも両立しえないものではないのかもしれない、という思いを強めている。自分の活動状況についてより詳しく書くことは、私が思っていた以上に、他人の役にも立つものなのかもしれない。したがって日々の活動報告のようなものを少し増やしていこうと思う。

*

昨日、身体論文の仏訳およびレジュメを終えた(いずれ正式に公刊されることになったら、要約も公開しよう)。とりかかったのが21日だったから、6日で終えたことになる。この間、二度フランス人の友人にチェックしてもらい、議論している。こういう慌しい時期に快くチェックを引き受けてくれたlpに感謝したい。昨日は、論文抜きで、ご飯(pissaladière, tarte à l'oignon du Sud de la France)をご馳走になったので、そのことにも感謝したい(笑)。

今日からリズム論文の仏訳に取り掛かる。こちらはすでに以前始めていたので、できれば年末までに終えたい。そして別の友人edに送る。

仏文の添削というのは――断るまでもないと思うが、以下は私の体験に基づく主観的な体験談ないし内省の結果であって、必ずしも一般性・普遍性をもつものではない――、よほどの仏語の達人でもない限り、ほぼ誰しもやってもらっていることと思うが、複数の依頼相手がいたほうがいい。もちろん渡仏しても最初のうちはそれほど多くの友人がいるわけでもなく、また相手のレベルを選べるわけでもないが、いずれそうなることが望ましい。添削相手によって、出来上がりは一変する。しかし、そのためには自分のフランス語の質を常時brush upしていくことが大切である。逆の状況を考えてみればいいので、日本語初心者が書いた、間違いだらけの論文を直すときと、日本語上級者が書いた論文を直すときとで、同じ原則をもって接しているわけはない。

ちなみに、私はお金を払って添削してもらったことは一度もない。友人に頼んで、あとで一杯おごったり、ご飯をおごったりする程度である。だからプロフェッショナルな添削の良し悪しについてコメントすることはできない。私の場合、直す側は基本的に親切心ないし友情でやってくれているので、添削のやる気は1)こちらの書くものの質と2)相手の忙しさによって決まる。

1)彼らは哲学者であり、面白いものを読まされれば、基本的に知的興奮を覚える人々である。したがってこちらが一定水準に達しているものを書けば、添削にも自然と身が入る。そのためには基本的なところでミスを繰り返してはいけない。サッカーと同じである。名コーチに指導してもらいたければ、あるいは能力ある同僚と共同自主トレをやりたければ、「自分はこの人のトレーニングのために時間を割いてあげてもいい」と思ってもらえるレベルに達していることが必要である。

2)しかし、いくらこちらが努力していい物を書き、相手が興味を持ってくれようとしても、相手が忙しければ駄目である。そして当たり前のことだが、能力のある人ほど忙しい。自分の言いたいことに自分が思いもつかなかった言い回しや面白いコメントをくれることがあるのも、そういう人々である。しかし、彼らには時間の制限がある。こちらも相手のことをリスペクトしているので、もともと長々と意味なく引き止めたりはしないが、そうはいっても相手も忙しく、必ずしもこちらの意図に沿ってくれるとは限らない。そういう場合、友情に満ちていながらも、知的緊張感をもった関係を複数保持しておくことが肝要である。でないと、緊急にヘルプが必要な場合に、お手上げということになる。

添削を頼める友人を複数持っておくことはまた、自分の書く物の分野によって、添削を頼む適任者を選べるという利点を生む。経済的な内容ならslだなとか、少しエピステモ系ならplだなとか、リズムなどの変わった主題ならedだなとか、フランス語を重視したいのでkgだなとか。

そのためには普段の自然な会話がすでに一定程度のレベルを備えていなければならない。フランス語がひどかったり、哲学の知識がなかったりすれば、能力のある誰が助けてくれようか。人が親切心で動いてくれる場合には限りがある。プラスアルファを引き出すのは自分の責任である。つまり結局のところ、普段の努力、不断の努力でほとんどのところは決まっている。「365歩のマーチ」とはそういうことである。

以上のことは自分に自戒をこめて言う。

Saturday, December 24, 2005

365歩のマーチ(Gebrauch der Füße)

"So geht es allen noch rohen Versuchen, in denen der vornehmste Teil des Geschäftes auf den Gebrauch der Vernunft ankommt, der nicht, sowie der Gebrauch der Füße, sich von selbst vermittelst der öfteren Ausübung findet" (Kant, Kritik der praktischen Vernunft (1788), Beschluß).

"Il en est ainsi de tous les essais encore rudimentaires, dans lesquels la partie principale du travail dépend de l'usage de la raison, qui ne s'acquiert pas de lui-même, comme celui des pieds, par un exercice fréquent" (Kant, Critique de la raison pratique, Conclusion).

「研究の仕事の最も重要な部分が、理性の使用にかかわる試みであっても、もしその試みが粗笨であれば、結果はいずれもこのようなものになるのである。理性の使用は、足の使用と異なり、ただ反復使用したところで、おのずからその使用法が手に入るわけではない。」(カント、『実践理性批判』、結び)

Friday, December 09, 2005

知の末路

pense-bêteにも参加してくれている友人toshoheiさんが『週間金曜日』の「金曜アンテナ」というコーナーに、稲荷明古さんという方の「廃寮問題で係争中の山大」というごく短い報告が掲載されていることを教えてくれた。末尾を引用させていただく。
 国賠訴訟の控訴審判決(今年9月)で仙台高裁は、大学から寮自治会への「人格権」侵害を認め、国側に賠償を命じた。この判決に原告側は「組織としての大学の違法性を免罪する不当判決」として上告。原告団は最高裁勝訴へ向け、全国行脚を続ける(詳細は、URL http://dorouso.hp.infoseek.co.jp/)。
 廃寮の背景には独立行政法人化の流れがあった。全国で2番目に小さな国立大学(学生8323人)である山大は生き残りをかけて、文科省通達を強行した。「貧乏人は大学に来るなという圧力は全国で目に見えて深刻化」している。信州大学では今年、休学者の1人に「学内への立入を一切禁止する」との通告が出された。


これ以上愚かなことを続けるつもりなのだろうか。生き残りをかけて死に物狂いの大学のことだけを言っているのではない。国公立大学をそういう状況に追いやることで、日本の知の状況を決定的な壊滅状態に追い込んでおいて、「民営化=合理化」で得をしたつもりでいる日本国民のことを言っているのである。

ほとんどフリーター(派遣社員でもよい)状態でカップメンをすすりながら巨大掲示板に延々と愚劣な極右的言辞を書き込み続ける者、嬉々として小泉政権を支持し続ける薄給のサラリーマン…。自分の政治的行動――何度でも言うが、ノンポリも一つの政治的行動である。自分はノンポリだからなどと悠長に構えているつもりの者は、完全に勘違いをしている。レイプの現場に居合わせながらNoの声をあげない者はYesと言っているのと同じである。――の論理的帰結を考え抜くことのできない者が大半を占めたとき、ファシズムは到来する。

左翼的言説か否かなどどうでもよい。まずは『週間金曜日』の編集長コラム「「下流」の敵は、格差社会実現をもくろむ米国かぶれの為政者にあり」を読んでいただきたい。大筋には賛同できる。

Saturday, December 03, 2005

京大図書館BNC移転問題について

私の友人たちの中にはすでにご存知の方も多いと思うが、一応念のためにここにも掲載しておく。

現在、京都大学附属図書館BNC(バックナンバーセンター)の桂キャンパス移転計画が持ち上がっており、それに対する反対運動が組織されている。署名頁はこちら。

大したことではない、どうでもいいじゃないか、必要部分だけ頼んでコピーしてもらえばいいじゃないか、と言う方もいるかもしれない。だが、こういう考え方は、研究活動の創造的な部分の実態をきわめて矮小化して捉えていると言わざるをえない。

学者にとって(少なくとも人文系の学者にとって)、雑誌のバックナンバーを手にとって眺められるということには測り知れない価値がある。研究者であれば、大なり小なり思いがけない発見をしたという経験があるはずだ。

自分の大学ではないから関係ない、という方もいるかもしれない。だが、えてして話はこういう「大したことではない」ところから、「自分と関係ない」と思っていたところから始まるのだ。

ディティールにしか真実は宿らず、実践にしか真実は宿らない。

Friday, December 02, 2005

plan G

現段階ではまだ詳細は書けないのですが、フランスのある地方大学に勤める友人が、ベルクソンについて話をしに来てはどうかという提案をしてくれました。

正直言って、嬉しい気持ちと不安の両方があります。一方では、もちろん嬉しいに決まっています。友人と言えども、まったく話のできない奴と思われていれば、誘ってくれるはずはないからです。したがってフランス人研究者に伍して対等に扱ってもらえている、という点ではとても喜んでいます。

しかし他方で、不安要素には事欠きません。

たしかに、コロックや研究会(Journée d'étude)など発表者が複数いる場合、あるいは一人で話す場合でも、知り合いのたくさんいるゼミなどで発表するなどの経験は私にもあります。しかし、知り合いがほとんどいないところに乗り込んで行って、私が唯一の「ゲスト」として一人で延々としゃべり、質疑応答に答えねばならないという状況ははじめてです。

しかも発表・質疑応答(もちろん仏語)含めて2時間半!これは未だ博論も仕上げていないような若造にはかなり荷が重い。これまでに呼ばれた講演者のリストを見ていると、はっきり言って場違い、お門違いもいいところ、という感じです(笑)。

また、「哲学と経済学」を主題とするゼミに呼んでくれているので、「ベルクソンにおける経済学の扱い」といった感じのテーマで話すことになっているのですが、これまた門外漢もいいところ。これも気を重くしている大きな要因です。

しかし、そろそろ次のステージにチャレンジするいい機会です。与えられた機会を確実にものにして、次のチャンスにつなげていきたいと思っています。

こういう私的なことを書くことには正直躊躇いがないわけではありません。しかし、私の友人たち、とりわけ私より若い友人たちの参考になればと願っています。

そろそろお客さん的、物見遊山留学生的な立場を脱却しなければなりません。

Thursday, November 24, 2005

日本は文化国家ではない?

まったく正当な意見である(この対談「日本を取り巻く無責任の体系」は必読)。
国家は費用を出さない、その代わり地方の都合で六・三制さえ五・四制に変えていいなんて、事実上、国家が公教育を放棄したに等しい。教育の自由化・地方分権化を進めるっていうと聞こえはいいけど、実際には、子どもを塾にやる余裕のある人とない人、都市と地方の格差が開く一方だよ。

公教育の理念さえ放棄しようとする国家をもはや文化国家と呼ぶことはできないだろう。教育さえいささかの躊躇いもなく自由化・地方分権化の名の下に――しかしながら実際にはネオリベ的「民営化」の一環にすぎない――叩き売りに付してしまえる国家は、単なる資本主義国家と呼ばざるを得ないのではないか?

義務教育費負担金移譲 高校経費8400億円で代替 地方は反発

 自民党の文教制度調査会と文部科学部会は十八日、三位一体改革で焦点となっている義務教育費国庫負担金八千五百億円の削減に対する代替案として、地方交付税で賄っている公立高校の関連経費八千四百億円を地方へ「税源移譲」する案を党執行部に提示した。与党案として検討した上で首相官邸と交渉するよう求めているが、地方六団体や総務省は「改革の趣旨から外れた内容で論外」と猛反発している。
 代替案によると、教職員給与費など公立高校の運営関連費は全国で約二兆千億円(二〇〇四年度分)。このうち、地方交付税分は約八千四百億円で、残りは地方税で賄っている。この八千四百億円を地方税へ振り替えることで「地方交付税への依存度が低くなり、地方財政の自立が図られる」としている。
 河村建夫調査会長は記者団に対し「交付税が抑制される中で教育費削減の懸念も出ている。まずそちら(高校分)を移譲し、きちっと自主財源で行うべきではないか」と語った。
 これに対し、総務省は「『税源移譲は補助金負担金から』という骨太の方針に反する」と批判。全国知事会も「地方交付税は地方の固有財源で、いわば一般財源。まさに形だけの移譲案だ」と切り捨てた上で「もし地方税に振り替えた場合、財政難の自治体は高校教育費を捻出(ねんしゅつ)できない恐れも出てくる」と反論した。
 同負担金は昨年の政府・与党合意で税源移譲の対象となった二兆四千億円の中に含まれているが、削減は暫定扱い。地方六団体は一般財源化を求めているが、文科省や中教審は負担金制度維持を主張。同調査会と同部会も制度堅持の緊急決議をしている。(西日本新聞) - 11月19日2時18分更新

また、もう少し一般的にいうと、この意見にはまったく同感である。
小泉みたいなやつが暴走すると、ある種、国権派と真の民権派が最低限綱領では一致しちゃうわけだ。たとえば、教育は国家の義務だというのは、森喜朗や石原慎太郎が言うとおりだし、公共事業の無駄をなくしつつ、しかし、地方でも安心して暮らせるインフラをつくるのが国家の義務だというのは、亀井静香の言うとおりであって、その点では一致せざるをえない。

Monday, November 21, 2005

アメとムチ?

<東京大>学業優秀なら行きたい学部へ 来年度から

 優秀な学生はお望みの学部へ――。東京大(小宮山宏学長)は1~2年の学部前期課程から後期課程に進む際、成績優秀者には、入学したすべての科類から、すべての学部に進学する可能性がある「全科類」枠を06年度の新入生から導入する。一方、導入後、例えば文科1類から従来は全員が法学部に進めたが、成績次第では必ずしも「全入」とはいかない場合も出る。日本を代表する大学がアメとムチで学業のレベルアップを促す異例の取り組みと言え、大学改革がどこまで進むのか注目される。

 同大では、入学1年半後に学生の志望と成績によって、後期課程の学部・学科などを決める進学振り分け制度を実施している。従来は文科1類から法学部、文科2類から経済学部、理科3類から医学部医学科には前期課程を終えた全員が自動的に進学できた。

 同大が15日発表した06年度入学者募集要項によると、新制度では成績による振り分けを行う。主に成績優秀者の選択肢を増やすため、教養学部後期を除く全学部に「全科類」枠を設け、文系から理系、理系から文系を含め、より自由な進路変更を認める。

 例えば、法学部は受け入れ予定数415人のうち、文科1類からは395人(入学定員415人)に絞り、14人を「全科類」枠に割り振る。理科全類を対象とした6人の枠も加えると、文科1類の20人が予定数からあふれる形だ。

 全科類枠は学部によって差があり、法、工、医各学部は予定数の1割を下回る一方、最大は4割を超す教育学部までさまざま。同大は「安易な進路変更を奨励するものではない。強い動機と優秀な成績があり、場合によっては進学先の『要求科目』の履修をこなす、かなりハードな努力をすれば、変更も不可能ではなくなるのが趣旨」とくぎも刺している。【長尾真輔】(毎日新聞) - 11月16日9時35分更新

Thursday, November 17, 2005

情動の科学哲学(épistémologie des affects)

パスカル・ヌーヴェル(Pascal Nouvel)が、情動の科学哲学(épistémologie des affects)についてのセミネールをパリ7で行っているようだ。

ダーウィンの古典的な情動研究から、情動をコントロールする(エクスタシー、 MDMAなど)現代のメディカル・テクノロジーまで、カンギレム=フーコーのエピステモロジーを「情動」という現象に適用しようということであろう。

興味のある方は、彼のサイトをご覧ください。

Tuesday, November 15, 2005

nemo repente turpissimus

"Croire le mal moins rude quand il nous est commun avec plusieurs personnes, c'est, disait-il, une grande marque d'ignorance, et c'est avoir bien peu de bon sens, que de mettre les peines communes au nombre des consolations." (Spinoza, selon Lucas)

上の世代が戦わなかったツケは、下の世代に押し付けられる。その結果、我々は同時に複数の戦線で戦わざるをえない。上は「生意気な」と言うか、「やるならやれば」と言うだけである。周りは無知な呑気さを振りまいているか、勇気を出せずに怯えているかである。少しずつでも「連帯」できる友人の輪を広げていくほかない。

はじめに(2005年2月10日)

New Deal (2005年4月10日)

「連帯」と「世間」(2005年2月12日)

意志的隷従と怠ける権利(2003年8月2日)

「おフランス」と「ここがダメだよ日本人」(2005年2月22日)

哲学の教育、教育の哲学(1)数の問題(2005年2月21日)

哲学の教育、教育の哲学(2)エリート教育の問題(2005年5月9日)

哲学のアグレガシオン、アグレガシオンの哲学(序論断片)(2004年10月11日)

アグレグ(2004年9月28日)

両面作戦(哲学の地政学)(2004年11月1日)

スシボンバーの憂鬱(2004年10月20日)

デーゲーム(2005年5月19日)


「国立大は安い」今は昔? 入学料では私大と逆転

 国立大で入学料や授業料の値上げが続いた結果、入学料では国立大の方が私立大より高い“逆転現象”が起きている。充実した施設とともに、国立大の売りだった「安さ」。各大学は「これ以上学生の負担を増やすことがないように」と、国の予算編成を前にさらなる値上げを警戒している。

 長崎市で7日、開かれた国立大学協会(国大協)の総会。会長の相沢益男東京工業大学長は「入学料の値上げは断固反対だ」と発言した。今春に授業料の基準となる「標準額」が1万5000円引き上げられたため、「次は入学料」という警戒感を国大協として表した。(共同通信) - 11月14日11時37分更新

cf. 大学は出たけれど2005(2005年5月7日)


授業料減免 全学年一斉に厳格化 大阪府立高 公平性など重視

 大阪府教委は十一日までに、来年度から適用基準を厳しくする府立高校の授業料減免制度について、全学年一斉に適用する方針を固めた。九月議会では新入生から段階的に実施する方向で検討していることを明らかにしていたが、公平性の観点や、財政難から早期に全面適用を求める声などもあり、一斉適用を採用することにした。今年度に減免を受けている生徒については、経過措置として新基準で除外されても現行基準(旧基準)で再審査する。

 府立高校の年間授業料は全国一高い十四万四千円。平成十六年度で全国トップの24・4%、ほぼ四人に一人が減免を受けている。新制度では両親と子供二人のモデルケースで、これまでは総収入四百三十六万円以下だった全額免除の基準を二百八十八万円以下まで引き下げる。

 減免の基準になる収入は、これまで源泉徴収票や確定申告書の控えなどで判断してきたが、不動産などの副収入や複数の収入先がある場合などは把握が難しいため、新制度では住民税の課税証明書をもとに正確な収入を算定する。

 運用について府教委は、九月議会で「在校生は現行の減免制度を利用することを前提に府立高校に進学したという事情もある」と答弁。新基準の適用は新一年生からとし、二、三年生については旧基準を適用する方向で検討してきたが、公平性などを欠くことから見直すことにした。

 ただし、今年度に減免適用を受け、新制度では除外対象になる生徒については、経過措置として旧基準で再審査を行い判定する。

 この場合の適用期限は修業年限プラス一年で、全日制などは平成二十年度、定時制や通信制などは二十一年度、高専は二十二年度まで運用される。

 府教委は新基準での正確な収入状況を把握できる書類を基に、これまでの適用者に制度見直しに伴うしわよせが大きくならないように努めるとともに、「収入が多いのに減免を受けているケースがある」といった批判も解消したい考えだ。(産経新聞) - 11月11日15時12分更新

Sunday, November 06, 2005

Invasions barbares

以下のことは、特に、科学哲学や分析哲学など、科学性・厳密性・普遍性を標榜する学問に携わる若い研究者たちに向けて書かれている。

哲学が、あるいは一般的に言って学問が、真理を目指し、普遍性を目指す営為であるなら、それにより見合った手段でなされるべきである。現在、自然科学の分野で英語がスタンダードと化したのは、――愚かなファシストが言うように、英語が「数を数えるのに適している」からでないことは言うまでもない――、世界の歴史的・政治的・経済的な動向がもたらした必然的帰結である。

哲学では、現在、英・独・仏の三ヶ国語が他にぬきんでて、特権的な地位を占めている。もし私たち日本の哲学者が世界の哲学の動向に積極的にコミットしたいと思えば――それ以外に真理や普遍性の探究に参与する方法があるというなら、禅でも日本語でも「日本固有」のものを持ち出せばよい――、好むと好まざるとにかかわらず、これらの言語で読み、書き、話していかなければならない。

この厳然たる事実の哲学的な意味を理解している日本の哲学者はどれくらいいるのだろうか。逆に言えば、日本語でしか思考できないことを思考し、書けないものを書いている哲学者がどれくらいいるのだろうか。そうでなければ、普遍性の探求であり、世界に開かれてあるべきはずの哲学研究を、なぜ日本語という普遍性に開かれているとは言いがたい言語で書くのか(私はもちろんここで各言語の質的優劣を論じているのではない)。

≪ある個人が言語共同体の外にいるとき、その人は社会的な共同体一般からも脱落してしまうことになるのです。なじみのない言葉を話す人はそのままよそ者、すなわち、内的な人間的-道徳的な絆が成り立たない「野蛮人」と思われてしまうのです。

たとえその人が高度の精神文化を身につけていても、今所属している共同体の内部で言語的に理解されないならば、その人はすぐさま「野蛮人」になってしまうのです。オヴィディウスがTristia ex Pontoで、「この地では、わたしは野蛮人だ。というのは、何も分かってもらえないのだから」と述べているとおりなのです。

言語を越えた共同体という思想、すなわち特定の言語の使用により作り出され、まとめあげられるのではないhumanitasという思想が獲得されるまでには、きわめて大きな努力が費やされ、きわめて大きな精神的-道徳的な苦労が必要であったことを、人類の歴史は教えてくれます。

たしかに、この「人間性」という理念は言語を越え出ています。しかし観点を変えれば、言語はこの理念への不可欠の通過点であり、この理念に至るためにぜひとも必要な段階だということになるのです。≫
(カッシーラー、「言語と対象世界の構築」)

Saturday, November 05, 2005

Ce qui nous manque

France Cultureというラジオ局がある――以下に書くことはどれもフランスに住んでいる知識人なら知っている基本的な情報ばかりである――。プログラムを一瞥していただければ分かるように、ハイカルチャー・ラジオ局である。

(Des tours de Babelではハイカルチャーテレビ局の話をした。どうもこういう話ばかりしていると、自分が鼻持ちならない教養主義者のような気がしてくるのだが、しかし教養総崩れの現在の日本を見ていると、やはりどうしてもこのような「反動」的な姿勢をとらざるを得ない。私が教養主義者なのではなく、現在の日本の知識人の平均があまりにも教養を軽視しすぎるのである。)

毎週金曜日の午前9時からは、CIPのFrançois Noudelmannらが監修する"Les Vendredis de la philosophie"という番組がある。今日は、ベルクソンについて、フレデリック・ヴォルムスが50分ほど話した。先週はドゥルーズについて新しい世代(我々の世代まで含めて)が話していた。放送はネット上で一週間だけ聴くことができる(一週間経つと消えてしまうので注意!)ので、興味のある方はどうぞ。

日本では、いかに文化的な放送局であっても、純粋に哲学的な議論のためだけに毎週金曜日の午前9時という時間帯を開放してくれるところがあるだろうか。古くはデモクリトスやエピクテトスから、エックハルトやジョルダーノ・ブルーノを経て、ナンシーやランシエールに至るまで、毎週専門家を呼んで、小一時間しゃべってもらえるところが?

もちろん、こういったことは一方で、国家の文化政策(文化省)のバックアップが欠かせないし、他方で、哲学の新刊書を出す際に宣伝を打ちたいと考えている学術系出版社との協力が欠かせない。フランスの大学界がさまざまな問題を抱えているとしても、こういう側面では日本よりはるかに進んでいる、と言わざるをえない。

すると、こんな答えが返ってくる。フランスと日本では制度が根本的に違うのだから、羨んでみても仕方ないのだ、と。そんなことなら何十年も前から分かっているのだ、と。なるほど。

では、少なくとも、羨むところから始めよう。この放送を聴いて、我々(個人としての我々、制度としての我々、文化国家としての我々)に欠けているものが何かを正確に把握するところから。少なくとも。

しかし、それすらも難しいのだ。なぜならネオリベ的な大学改革に反対している私の友人たちですら、1)フランスにおける哲学の特殊な位置づけに話を還元して事を片付けるか、2)こちらも「現実主義」で対抗すべきなので、古典教育だとか教養主義だとか悠長なことは言っていられない、と考えているようだからである。しかし、果たしてそうだろうか。