このサイトは、現代思想「入門一歩前」の人々を対象としている。しかし、ここで思い違いを与えないように言っておけば、現代の思想を研究するから現代思想なのではない。現代という時代にあって、その時代を通して、その時代とともに、その時代のために、思想を研究し、思想するからこそ、現代思想なのである。いやしくも思想と呼ばれるに値するものは、どんな時代のどんな対象を相手にしていても、それが力あるものであるなら、「現代思想」である。まさにこの意味で、現代思想という言葉、そして「現代思想入門一歩前」という言葉は、もはや恐ろしく冗語的な言葉である。
「現代思想界」はいつの時代のどんな国にあっても混乱している。かつてそうでなかったためしはないし、これからもないだろう。そのカオスが様々な思想の沸騰する百花繚乱のメルティング・ポットであるかぎりにおいて、現代思想界の混乱状態はむしろ歓迎すべきものですらある。けれど、現代日本の「現代思想界」に見られる混乱は、あまりに奇妙だ。一方で奔放に「攻める」側にいるはずの現代思想家が不在であり、他方で執拗に「守る」側にいるはずの守旧的なアカデミシャンもいない。「日本のジラール」や「和製ボードリヤール」ならたくさんいる。ア カデミズムをいたずらに敵視しつつ幼児的な罵詈雑言を吐いて、香具師めいたラディカルな議論のほうがまっとうだが面白みのない議論よりマシだなどと究極の 選択を迫る人たち。「日本のミシェル・セール」だっているかもしれない。アカデミズムの側に組み込まれようと涙ぐましい営業活動を続けた結果、見事な「業 績」を手に殿堂入りを果たす人たち。だが、どちらの側も同じ土俵の上に立っていることには気づかない。彼らは中途半端な態度で、互いにほとんどあるはずもない差異を言い立てあっている。
「ドゥルーズ・フーコー・デリダ」のような存在は、 哲学アカデミズムの粋を完璧に身につけたうえで、その後ではじめて、さらにそれをはるかに凌駕する仕事を残すことができたのだということに何の不思議があ ろうか?だが、現代日本の「知識人」は、ジャーナリズムとアカデミズムを対立させ、ありもしない差異をことさらに際立たせることで互いの既得権益を確保し 続けることしか念頭にない。文壇人相手にはアカデミックな場では通用するはずもない中途半端な哲学の知識を振りかざし、アカデミシャン相手にはジャーナリスティックなフットワークの軽快さを盾にとる「批判的=批評的」態度こそが日本で思想家たりうる唯一の方途だと考えた「批評家」の影響力が大きすぎたのか。哲学にも文学にもコストパフォーマンスに見合った必要最小限の介入を行なうことで影響力を保持する術だけに長けた映画評論家の影響力が大きすぎたのか。哲学と決してフロンタルな関係を結ぶことなく、流行りの思想家たちの著作について優雅な手つきで「斜めから」横断的に語ってみせる自称「社会思想史家」の影響力が大きすぎるのか。その後、真剣に哲学を学ぶことは、現代思想をするにあたって不可欠の条件ではないかのように見なされている。
「真面目である必要はない。ただ真剣でさえあれば」とある思想家は言った。だが、そのことは、貧相な哲学の知識しか持ち合わせずとも流行りのテーマに流行りの道具立てで取り組むポーズをつければそれで十分「営業」できる、ということを意味しはしない。デリダの『滞留』に付された文章のタイトルは示唆的である。≪「冒頭よりも先」を読むこと≫。
以上の注意書きが意味を持つのは、我々自身に対する自戒としてのみである。そしてその成否は成果においてのみ問われうる。
1 comment:
snより:【はじめに】を読んで、「ああそうやな、俺も何にでもちょこっと首を突っ込んではちょこっと口出しして、専門家やないねん、アマチュアでええねん、どこの誰兵衛でも何かに関心もったら自分で勉強してみて自分の頭でちょっと考えてこうやと思ったらそれを口に出していった方がええねん、「エセ専門家」に言わせとったらアカン。そやないと世の中ようなるはずないねん、一人一人が考えんと、なんて最近は思ってるけど、やっぱりこれだけじゃちょっと気安すぎるというか足りんところもあるんかもしれんなあ。サイードみたくめちゃくちゃ勉強してから「アマチュアやで」って言うのとでは、やっぱり何か大事なところが違ってくるんかもなあ、うーん・・・」などとアホな脳みそでつらつら考えたりしてます。
最近読んだ本といえば、前に紹介した「前夜」は季刊誌をもう2冊出しているんだけれど、2号は僕としては結構興味深い記事がたくさん載っていました。韓国の歴史家のインタビューなんか勉強になった。雑誌と本はちょっと違うけどね。
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