Sunday, February 13, 2005

「連帯」と「世間」

 先の高校生のデモにしてもそうだが、日本でもよく知られているように、フランスはデモの多い国である。人口のこともあるから一概には言えないが、ドイツやスペインに比べても多いのではないか。いわゆるdésobéissance civique、「公民的不服従」の伝統である。ここでは二つのことに注目しておきたい。

1)公民的(civique)であって、市民的 (civile)ではないこと。英語における対応表現"civil disobedience"との、些細だが重要な差異を見落とさないようにしよう。実際、フランス語の表現において問題になっているのは、単に権威に反対する個人としての一市民ではなく、重大事態に際して、国家への不服従を公然と率先して行うことによって、市民権を創り直す公民なのである(この点に関して は、エチエンヌ・バリバール『市民権の哲学 民主主義における文化と政治』(松葉祥一訳、青土社、2000年)、第一章「公民的不服従について」を参照 のこと)。この差異は、デモの規制、取り締まりないし弾圧において顕著になる。誇張して言えば、日本のデモにおいては、警官は個人をターゲットとする。写真を撮り、尾行 し、個人の私生活への介入を平気で行うが、フランスのデモにおいて規制されるのは、運動であって、個人ではない。
Étienne Balibar, Droit de cité. Culture et politique en démocratie, éd. de l'Aube, 1998. Notamment le 1er chap. "Sur la désobéissance civique".

2)この「公民的服従」の根底にあるのは、solidaritéすなわち「連帯」というイデーである。この点に関して、いつも頭をかすめる文章がある。少し長いが、引用しておこう。  
 三年目の冬、論文の完成を目前に問題が生じた。それまでは寮に好きなだけ滞在できた外人学生が、今後は三年と期限を切られることに、急遽決定したのである。論文を仕上げるのに、あと三月必要だった。その間だけ延長は出来ないものかと掛け合ったが無駄だった。
 全力投球の論文が乗るか反るかの瀬戸際に、これから宿探しかと暗澹たる気分のところに訪問を受けた。見覚えのない顔が三つ並んで、寮の自治会委員を名乗った。外人学生が困っていると耳にして、実態調査に来たという。よかったら学校側に掛け合ってやろうと言われて、目から鱗が落ちた。
 自分たちの利害とは別の位相で、マイノリティの被る困難に積極的に係わろうとする人々がいる。市民社会という概念にも、こうして実態が宿る。厳然たる階級制度に則った縦社会のフランスは、横のタガもまた太いのである。
 当時寮には数人の日本人がおり、うち二人が三年目で論文を抱えていたが、お互いに「困ったわね」、「大変ですね」を繰り返し、おろおろするばかりであった。
 連帯という言葉にリアリティーを持てない国民性をわが身に感じた。(荻野アンナ「解説 フランスで、一心不乱す」、ポリー・プラット著『フランス人、この奇妙な人たち』、393-394頁。) Polly Platt, French or foe ?

 この文章の続き(フランス語に関する) もなかなか興味深いのだが、それはまたの機会に紹介することにして、ここでもう少しだけ深めておきたいのは、「では、日本における『連帯』にあたる概念は何か」という問いである。「それは、『世間』でしょう」といった人がある。なかなか当を得ているように思う。いずれ詳細に比較するとして、ここでは次の文章を引用するにとどめる。

 「世間」というのは曖昧模糊としたものです。はっきりした主体がない。誰かが親を追及するとなると、その人は自分はともかく、「世間が納得しない」からだというでしょう。

 欧米にはキリスト教的道徳があり、それが個人主義の基盤になっていると、よく言われます。しかし、別の意味で、儒教圏の中国や韓国にも道徳的機軸があり、それが逆説的に、一種の個人主義を可能にしています。日本にはそのようなものがない。その代わりに、「世間」という得体の知れないものが働いているのです。本居宣長は、道徳というようなものは中国から来たもので、いにしえの日本にはそんなものはなく、またその必要もなかったといいました。ある意味で、この指摘は正しい。日本人は、道徳というと、何となくけむたいような感じを受けます。戦後、アメリカ化によって道徳観が壊れたというようなことをいう人がいますが、それは嘘です。しかし、道徳的規範がないということは、まったく自由で、共同体の規制がないということを意味するのではありません。なぜなら、
規制は「世間」というものを通してなされるからであり、この「世間」の規制はきわめて強く存続しています。(柄谷行人著『倫理21』、平凡社、2000 年、23-24頁。とりわけ「『世間』という得体の知れないもののもつ力」(22-30頁)というセクション全体を参照のこと。)

 「連帯」と「世間」の差異は、宗教的なものなのか、歴史的・文化的なものなのか。おそらくは、そもそも「個人」や「宗教」といった日本語の概念とindividuやreligionというフランス語の概念の差異自体から分析を始めなければならないのだろう。

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