Sunday, August 03, 2003

意志的隷従と怠ける権利

 現在の日本の思想界にとってひょっとして最も重要かつ緊急の課題であるのは、どんな華やかな最先端の西洋現代思想を紹介することでもなく(それも重要だが)、実はある二冊の古典の分かりやすい翻訳、そして廉価な出版ではあるまいかと思うことがある。その二冊とは、エチエンヌ・ド・ラ・ボエシーの『意志的隷従に関する論文』とポール・ラファルグの『怠ける権利』である。

 なぜ、この二冊なのか。それは、この二冊が現代日本の問題を凝縮した形で提示しているように思われるからである。

1)意志的隷従。私は偶然、しばらくの間、日本最大の自動車会社で働く人々を間近に見、話を聞く機会に恵まれた。彼らはまるで新興宗教の信者のように(実際、「僕らはみんなT教信者なんですわ」という人すらいた)、憑かれたように有名な「某システム」の素晴らしさを語ってくれた。「Tは、50年間一度もストしたことがないのが自慢なんですわ」という人もいた。実際、現代日本の多くの人々はストに対して反射的な拒否感、本能的な警戒感、少なくとも違和感をもっている。しかし、日本人が自国政府や経団連の言うことを何でも鵜呑みにするようになったのは安保闘争以後のこと、長年にわたる政治的「去勢」の結果であって、決して「太古の昔から連綿と受け継がれてきた美しい日本人の心」などではない。

 おそらく日本の公共交通機関がストでもしたら、まず真っ先に出てくる反応は「彼らは他人様に迷惑をかけてまで、自分のエゴイスティックな要求を通そうとしている」というものであろう。自分の権利を守るよりも、周囲への配慮が重要、というわけだ。会社の中でも同じである。「賃上げ闘争などとんでもない。会社ににらまれたくないし、第一、会社や同じ部の連中に迷惑がかかる。もし会社が儲かれば、その分を還元してくれる(はずだ)から、俺たちは一生懸命黙々と働けばいいんだよ。考えるなんてまどろっこしい。すべて会社に任せておけば、後は会社が万事よくしてくれる(はずだ)」。こうして社員は我慢に我慢を重ねることだけ上手になっていく。

 これでは、誰も個人の権利を守るために立ち上がることができない。多少周りに迷惑をかけてでも、自分の生活環境を少しでも良くするために政府や企業とかけあう、周りも理解を示して多少の不便を我慢する、といった「連帯」の精神は、残念ながら現代日本では、私たち一人一人の手によって圧殺されてしまった。自分がリストラされてはじめて、事態がどれほど悪化しているかに気づくのであろうが、そのときにはもう遅い。連帯のない社会には、最低限のセーフティネットも用意されていない。年金問題があのような結末に落ち着いたのに、日本のどこからも抗議の声が聞こえてこない。

 なぜか?「忙しいし、そんなこと考えてる暇ないから。あんた暇でしょ。考えてよ」。このような受身的な姿勢(政治的カウチポテト族。ちょっと古い?)を一億総出でとっていたら、個人の生活が改善されるはずもない。そのとおり、意志的隷従の問題は、余暇の問題と分かちがたく結びついているのである。

2)余暇。学校(スクール)という言葉が、スコラ(余暇)という言葉に由来するというのはよく知られた話だが、結局のところ、ものを考えるには時間が要る、ということである。現在の日本のサラリーマンが置かれた状況がいかに企業に都合のいいものであるかは、少し考えてみれば分かることであるが、それにも時間が要る。いろいろなものを見聞=検分するためには、精神的な余裕も必要である。

 「あんたが言ってることはいちいちもっともなのかもしれない。でもさ、もうちょっと現実を見たら。そんなことできるわけないでしょ。我慢するしかないわけ。だいたい、政治とか興味ないし」。なるほど。ちなみに「ノンポリ」というのは、政治的に中立だと思っている人がいまだにいるが、それは間違いである。『告発の行方』という映画の中でジョディ・フォスターが言っていたように、レイプが行われている現場で犯罪に対して「No!」の声をあげない人は「Yes」と言っているのと同じなのである。そう、道は二つに一つである。このまま政治的去勢の刻印を刻まれた羊として(「羊たちの沈黙」)行き着くところまで行くか、それとも別の道を選ぶ勇気を持つか、である。

 別の道を選ぶなどということが可能か?それは一人一人が考えるべき課題であるが、さしあたり選挙という行為を通じて、少なくともオルターナティヴを探す(二大政党制などというまやかしに乗らないように!)ことはできる。少なくとも。

 Etienne de La Boétie, Le discours de la servitude volontaire (1563?), texte établi par Pierre Léonard, Petite Bibliothèque Payot, 2002, 9 euros.

 本書は他にも数種出版されているが、ラ・ボエシーに関する様々なテクスト(Lamennais, P. Leroux, Simone Weil, M. Gauchet, Pierre Clastres, Claude Lefortなど)を一緒に収めている点で、この版がベスト。

 Paul Lafargue, Le droit à la paresse (1883), éd. Mille et une nuits, 1994, 1,52 euros.

 さらに付け加えておけば、éditions Alliaからサミュエル・ジョンソンやロバート・スティーヴンソンから、マレーヴィッチにいたる思想家・作家・芸術家の《怠ける》シリーズが廉価(6ユーロ程度)で出ている。

 一人でも多くの人に手にとってもらうためには、値段は重要な要素である。出版者の中には綺麗な上装丁にこだわる方もいるようだが(実際、思想関係の本には圧倒的に多い)、Mille et une nuits出版社のような戦略をとる可能性は日本にはないのだろうか?日本の人文系出版業界の悩みを綴った文章を読んでいると、日本の映画業界と同じで、嘆き方が少し間違っている気が時々するのだが。。

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