Tuesday, May 10, 2005

教育の哲学、哲学の教育(2)エリート教育の問題

 以前「スシボンバーの憂鬱」に書いたようなことを普段の会話でもよく話しているのだが、最近海外での研究をスタートさせた友人(理科系の研究者)で、「サッカー選手の譬えは、今の自分の状況にとてもよく当てはまっていて、考えさせられました」と言ってくれた人がある。このスポーツ選手の比喩はもちろん、誰にでも分かりやすいようにという「啓蒙的」な意図から出た、半ば冗談にすぎないものだが、しかし高等教育の現状が提起する諸問題には想像以上によく当てはまる。

 以下、どこまでプロスポーツの比喩を学問に適用することが可能か、その限界を常に意識しつつ、展開してみることにする。今回は、エリート教育の問題をこの比喩によって考えてみよう。

1.プロスポーツとしての学問 :エリート教育とは何か?

 誤解を防ぐために最初から言っておくが、私がここで「エリート教育」と呼んでいるのは、早い時期からの徹底したスペシャリスト教育、プロフェッショナル教育のことである。「早い時期から」ということで念頭においている対象年齢は、18歳から22歳くらいまでであり、「徹底した」ということで想定しているのは、大学生に与えられる通常レベルの教育以上のハイレベルな教育ということである。

 また、対象学問としてはとりわけ人文科学を念頭においている。なぜなら、エリート教育に対して最も拒否反応を示すのが人文系の学者だからである。自然科学ではエリート教育は半ば公然化してきていると言っていい。なぜ人文科学だけが悪しき平等主義、言葉の最も悪い意味での「衆愚政」の弊害を受けなければならないのか。真のエリート教育とは何か。いかなる先入見も排除して考えなければならない。

a.
 プロスポーツの将来を真剣に考える者で、エリート教育を疑問視する者はいない(文末のニュースを参照のこと)。サッカーで小中学から訓練を積んでいない超一流のプロ選手などいない。Jリーグには下部組織として小中学生くらいからクラブがあり、衰えたとはいえ国民的スポーツであるプロ野球にはリトルリーグがある。幼い頃からの切磋琢磨によってごく一握りのプロ選手が磨かれていくが、その際、誰も「エリート主義」などと騒ぎ立てはしない。

 クラシック音楽についても同じことが言える。たしかに芸術はすべての人に開かれている。しかし、そのことは、クラシック音楽の分野で一流の芸術家を育てあげようとする特別な機関までがすべての人々に開かれているという意味ではない。

(私が単に音楽と言わず、ポピュラー音楽を外してクラシック音楽を例に選んだ理由は、①今現在、ポピュラー音楽の「レベル」「基準」は限りなく資本の論理によって決定されている、②ジャズ、ポピュラー音楽、ロック、パンクは「我流」「無手勝流」とまでは言わないまでも、「反制度」を基本としており(例外はいくらでも挙げられるが、例外であることに違いはない)、学問におけるエリート教育制度のモデルにはなりえない。むろんこれらの理由は美的な価値基準に基づくものではなく、制度の必要の度合いに基づくものである。)

 狭義の意味での学問はプロスポーツや職業としてのクラシック音楽に近い、プロフェッショナルな「職業 profession」である。「狭義の意味での学問」とは、ここでは、高等教育と研究者養成という二重の目的を兼ね備えた大学で行われる活動を指す。この狭義の意味での学問の未来を考えるなら、エリート教育ということを真剣に考えねばならない。エリートはどんな国、どんな時代でも評判が悪いものである。しかし狭義の学問の本質を考えるとき、我々は必ずエリート教育の問題にぶつかる。この問題を避けて通ることは、真実から目を逸らすことである。

b.
 「私は子供にはエリート教育など与えたくない」という人も当然いるであろう。自然な、ごく普通の教育の信奉者である彼らには、彼らの望む教育を可能な限り、可能な範囲で青少年に与える権利が保障されている。しかし他方で、一流の音楽家になりたいと真剣に願う青少年の願いを圧殺する権利は彼らにはない。したがって一般の音楽教育とエリート音楽家教育を区別しなければならない。「エリート音楽教育が日本に存在することが必要だ」ということは、「すべての人々にそれが制度として押し付けられねばならない」ということではない。一流のクラシック音楽家だけがクラシック音楽を愛しているのでないことは言うまでもないし、一流の音楽家になることが音楽の唯一重要な目標だというのでもない。

 しかし、一流のクラシック音楽家、一流のスポーツ選手になりたいのであれば、また国際的に活躍できる一流のクラシック音楽家・スポーツ選手が日本からどんどん輩出されるようになるのを望むのであれば、話は別である。むろんみんなが自由にのびやかに好き放題、無手勝流に練習を積んで一流の芸術家になれるのであれば、それに越したことはない。あらゆる機関などというものは、制約や拘束を課す以上、嫌がられ、嫌われる類のものである。しかしみんながみんな天才であるわけではない以上(この教育における天才主義の問題には後で戻る)、類まれな才能をごく幼い頃からの厳しい練習によってさらに磨きをかけて育て上げていくには、「コンセルヴァトワール」のような機関の存在が不可欠である。したがってエリート養成機関とは、ある種の芸術・スポーツにとって「必要悪」なのである。

 同様に、たしかに「国民には等しく学問、研究と自由に取り組む基本的権利がある」が、それは高等教育機関に誰でも入れるということを意味しはしない。

(ここで重要なことを一つ強調しておきたい。たしかに、哲学はすべての人に開かれている。哲学は専門の職業的な哲学者の占有物ではない。誰にでも何かを言う「権利」がある。しかし、このことは誰にでも哲学について何かを判断する「能力」があるということを意味しはしない。物理学や数学についてなら、このような混同は起こりえないのだが、哲学をはじめとして人文系諸科学に関してはほとんど常に起こりうる。現代物理学者は新たな数式や記号を提唱して当該分野の進歩に寄与すると敬意をもって眺められるが、現代哲学者が新たな造語や比喩を提唱しようとすると外野から野次が飛ぶ。「俺たちに分からない議論は、すべて非人間的で、似非知性主義的、エリート主義的、貴族主義的だ」と言わんばかりではないか。

 大衆食堂で飯を食っているオヤジがうなる。「こら、キヨハラ、そんなボールもよう打たんのか!」。隣でこっそり飯を食っているプロ野球選手はこういった発言を耳にしても咎め立てはしないだろう。だが、この発言が卑しくもプロの端くれのものであるならば、「じゃあおまえ、打ってみろや」ということになるだろう。そして実際に打てなければ、自分の能力の欠如を恥じてそのような自分の能力を超えた発言は慎むべきである。素人と玄人の決定的な違いがここにある。

 政治的な議論でも同じである。インターネット上で言論を展開する者は(私も含め)、あたかもその差異が消え去ったかのような妄想を持ちがちだが、能力の差は厳然としてある。)

 もちろん、「一流の芸術家だけが芸術に関わる権利がある」とかいった誤まった「エリート主義」が問題になっているわけでないことは言うまでもない。  ここで、有害無意味な「エリート主義」と必要悪としての「エリート教育」とをはっきりと区別しておく必要がある。エリート主義とは、「エリートは素晴らしい」「エリートには一般人より多くの特権が認められるべきだ」といった単なるイデオロギーであり、エリート教育とは、学問において国際的な競争に勝つのに必要不可欠な国家からの支援を制度化する、単なる教育施策である。エリート主義は平等主義を否定するものであるが、エリート教育は平等主義を否定するものではなく、むしろそれを補完するものである。反エリート主義者の敵は、エリート主義であって、エリート教育ではない。敵を見間違えてはならない。


2.平等主義の陥穽、天才主義の弊害
  
 教育においてこういったスペシャリスト養成を目的とする改革を実現しようとすると、途端に非難の声が上がる。平等主義者の声である。

(ちなみに重要なことなので強調しておくが、教育の哲学が戦うべき相手は二つある。一つは、冷めた目で教育政策を政争の道具としか見ていない教育行政担当者(文科相・文科省官僚)であり、もう一つは、熱い心をもち高い志を掲げてはいるが残念ながら教育の本質を見誤った教育論者である。エリート教育は、むろん異なる観点からではあるが、両者から評判が悪い。

 「エリート教育機関の創設などと言えば、世論から反発を食らうに決まっている」という単純な理由から、教育行政担当者は、意識的なポピュリズム戦略に徹している。これに対して、教育熱血漢は、エリート教育の弊害をむしろ指摘するであろう。エリート教育で育てられた野球選手、体操選手、音楽家などなどの性格の「歪み」など指摘するものは誰もいないが、事が学問教育になると、このような議論が出てくることは容易に想像がつく。しかし、これは物事の本質を捉えそこなった無意識的なポピュリズムである。普通の教育を受けても性格の歪んだ人間はいくらでもいるという単純な事実をこの手の議論は忘れている。)


 民主主義や機会均等は確かに重要であり、通常の国民教育制度が維持・改善されねばならないことは言うまでもない。しかし、それと同時並行的に高等教育や研究者養成制度がもっとはっきりと確立されるのでなければ、学問研究は天才頼み、「神頼み」の状況になってしまう。平等主義の陥穽は、天才主義の弊害と表裏一体の関係にある。

 たしかに、叩き上げのジャズピアニストには、「気取った」(これもまた偏見にすぎないが)クラシック音楽の演奏家にはない魅力があるかもしれない。が、それは二つのまったく異質なものを混同しておいて、無い物ねだりをしているのである。また、茶道や華道の場合に顕著に見られるように、硬直してしまってむしろ弊害のほうが多い制度も確かにある。しかし、完全な制度というものは存在しないからといって、制度自体が存在しなくてもいいということにはならないし、制度の改善を諦めねばならないということにもならない。

 モーツァルトはコンセルヴァトワール出ではないとか、田中角栄は小学校しか出ていないのに総理大臣になったとかいう人がいる。しかし、教育を論じるとき一番やってはいけないのは、天才について語ることである。 天才とは自ら規則の体系を作り出す人のことだとカントは言ったが、まさに教育のモデルとして考えるべきなのは、ごく普通の凡人である。一例を挙げよう。大検制度「改革」に関する、『東奥日報』の2003年8月10日付「社説」(!)の一節である。

 国民には等しく学問、研究と自由に取り組む基本的権利があり、学問には広く国境を越えて接すべき根源的性格がある。管理、運営する立場のみからこの問題を偏狭に考えると、後世に甚大な後遺症を残すことになりかねない。

 ちなみに、今年は本県の生んだ世界的板画家棟方志功の生誕百年。ここで少し頭をひねって考えてみよう。好奇心旺盛な彼が今、仮にどこかの大学を受けようとしても、現状では大検に合格しない限り、大学の受験資格さえ得られないのだ。あれほどの人間だ。明らかに変な制度ではないか。

 大検は専門に大検の受験勉強をしなければ合格は難しいという。これでは板画や油絵をライフワークにしながら、大学にも通って研究を深めたい人の学問の自由は、はく奪されたも同然だ。

 逆に言えば、一芸に秀でた学生の入学を促進し、学内の活性化を図ることは、そうした学生の門前払いをせざるを得ない現行制度では、不可能ではないか。これでは大学、学生双方にとって、はなはだ不幸で不都合なことと言わなければならない。

 未来の棟方志功のために大検制度「改革」を心配するよりも、現在の『東奥日報』論説委員の選抜制度を心配したほうがいいのではないかとこちらが要らぬ心配をしてしまいそうな文章だが、平等主義と天才主義はどのような形で結びつくのか、ポピュリズムの論理を典型的な形で示してくれている。

 そもそも棟方志功のような版画の天才が大学に入る必要はどこにもない。そして入って学びたいのであれば、そこで要求される条件を満たすべきである。『東奥日報』論説委員は、小泉首相が政治手腕において「あれほどの人間だ」から(どういう意味なのか明確にされていないところが味噌である)、専門の訓練を必要とする入団テストのせいでメジャーリーグに入れてもらえないのは「はなはだ不幸で不都合」だとでも言うつもりだろうか?

 異なる能力を混同してはいけない。人間は確かに平等だが、それは個々人が現在持っているあらゆる能力において平等なのではなく、異なる能力を発展させうる潜在的な可能性において平等なのである。こういう事を言うとすぐに、差別だの傲岸不遜だのと言い出す人がいる。しかし、物事の本質を見極めず、理性分別を欠いた意見を押しつけることほど、差別的で傲岸不遜な行為はない。

 大学は高等教育の中枢である。「好奇心旺盛」でさえあれば、そして金と暇さえあれば、「専門に受験勉強」をしなくても誰でも入れるカルチャーセンターではない。この論説委員は、大学とカルチャーセンターを勘違いしており、能力の論理と資本の論理を混同している。

(ちなみに、大学における悪しき平等主義の最たるものは、国立大学の授業料の値上げである。国立大学の最大の利点は、金のない人間でも、能力さえあれば、最高の教育を受けられるという点にあった。日本政府および文科省は、「私立大学との格差をなくすため」(!)この政策を徐々に放棄した。現在、国立大学の授業料は年間50万円近くに達している(ちなみに、フランスの国立大学の年間授業料は5万円にも達しない)。さらにあろうことか、小泉政権は、大学法人と称して、大学の「経済的」な効率化を求めている。将来的なさらなる授業料値上げは目に見えているではないか。

ところが、小泉政権に対する異議申し立てが盛んにならないところを見ると、日本人の大半は、この政策の致命的な帰結を気に留めていないらしい。もしかすると「自分たちには関係ない。国立大学の授業料値上げ?そりゃけっこう。みんな苦しいんだから、あいつらだけが優遇されるのは我慢ならない」と思っているのかもしれないが、それによって割を食うのは、金持ちのボンボンや教授の子女ではなく、苦学生たちであるということを日本人は本当に分かっているのだろうか?

最も守られるべき機会の均等が守られず、ポピュリズムに受けのいい偽の平等主義がまかり通る。偽の平等主義がはびこる国で勝つのは、きまって強者である。そして自分を強者と心情的に同一視したがる「弱者」――とにかく暇ならあるとばかりネット上に罵詈雑言を撒き散らしている人々が「精神的弱者」でなくて一体なんであろうか――が、意志的隷従の拡大再生産に邁進する。日本人はニーチェをかつて一度たりとも読んだことがないに違いない。)

 ところで、「学生や両親を顧客と考えて弛まぬサーヴィス改善に努めねばならない」とはよく言われることで確かに一理あるが、学問は「職業profession」ではあっても「商売commerce」ではない。これが、大学と予備校の本質的な違いである。大学教育は本質的に資本の論理とは相容れないものなのである。

 イチローをモデルにプロ野球の下部組織としてのリトルリーグ改革を考えても仕方がない。天才はおそらく彼(彼女)独自のメソッドを持っているであろうが、その方法論は必ずしも万人向けのものではない。制度とは、それがたとえエリートのためのものであっても、天才をモデルに作ってはいけない。教育制度は、あくまでも「凡人」のためのものであり、高等教育や研究者養成は「プロフェッショナル」のためのものであって、決して「天才」のためのものではない。

 また、一芸入学制度はあくまで副次的な制度にとどまるべきであって、これを中心に大学を考えるのは本末転倒である。大学は知名度のある女優を入学させることによって学生の関心を集め、学生数を確保することで「学内の活性化」はできるかもしれないが、そのことによって「学問の活性化」ができているかは大いに疑問だからである。


3.大学院では遅すぎる:プロフェッショナルとしての学問研究の未来を真剣に憂慮するなら、若手エリート養成機関が必要不可欠である

 事実を事実として率直に受け止めることから出発するのでなければ、客観的で説得的な論理など創出できるはずもない。

 日本の大学にとっての事実とは何か?それは、「大部分の大学生にとって、大学は就職のためのパスポート、証明書にすぎない」ということである。彼らが法学部に入るのは大抵の場合、文系学部で最も偏差値が高いからであって、法学という学問の研究を志してのことではない。経済学部や商学部に入るのは、就職後何らかの役に立つのではないかと思っているからであって、学問としての経済学を学びたいからではない。

 究極的に言えば、彼らにとって、無事卒業さえできれば、大学で何を学ぶかはどうでもいいことである。大学は受験戦争という厳しい資格試験を勝ち抜いた褒美としての、これからまたしばらく(退職まで)資本の論理に完膚なきまでに従属する前の「四年間の休暇」である。これは「一流大学」と呼ばれる大学の学生であろうと同じことである。

 繰り返すが、これは嫌味でも何でもなく、単なる事実の確認である。理想主義的に、あるいはポピュリズムから否定してみても始まらない。むしろこの単純だが厳然たる事実から出発せねばならない。大学が社会人になるための一般教養なりある程度特化した知識をつけるための機関であることを日本人の多数が望むのであれば、大学人がこれに反対する理由はない。大学をそのように捉える結果、大学がどのような性質のものになろうとも、それは国民が望んだことであり、その責任は国民自身が負うだけのことである。

 したがって、日本の高等教育機関たる大学はエリート教育機関ではないし、今後もそうなることはないであろう。東大や京大をエリート大学だと言う人が(東大生や京大生の中にも少なからず)いるが、彼らが間違っているのはこの意味においてである。

 ここまで私の論を追ってきた人は、「大学院はまさにそのために、研究者を育成するためにあるのではないか」と言うであろう。それは間違ってはいないが、重要なポイントを一つ見落としている。ここで、スポーツの比喩が再び重要になる。

 なぜ大学院では不十分なのか、理由は簡単である。それは、大学院では遅すぎるからである。

 スポーツにおいて、18歳から22歳といえば最も重要な成長の時期であるが、研究者においても事情は変わらない。日本の教育行政は、この時期に将来研究者になるべく専門的な努力をすべき若手の研究者に、一般の大学生と同様の教育しか与えないことによって彼らの成長を妨げている。

 したがって大学とは異なる(大学内にでも構わないが)新たな機関を創設することが急務の課題である。フランスで言うところのGrands Ecolesのような存在を構想することである。

未来の日本代表を育成 「JFAアカデミー」を発表 日本サッカー界に“超エリート選手”誕生だ!
 27日、2006年度から福島県の「Jヴィレッジ」(楢葉町、広野町)で開始される中高一貫のサッカーエリート教育プログラム「JFAアカデミー福島」の概要が発表された。会見に出席した日本サッカー協会の田嶋幸三技術委員長は「4人に1人はJリーガーにし、(初年度の)男子は2014年と2018年のワールドカップを、女子は2008年の北京五輪を目指す」と高らかに宣言した。
 日本サッカー界の未来を背負って立つ最初の「金の卵」となるのは、男子が中学1年の15人程度、女子は中学1年から3年生15人程度、高校1年生8人程度という少数精鋭。8月下旬から11月上旬にかけて3度の選考試験を実施して選抜される。求められる人材について、田嶋委員長は「特色のあるプレーヤー」と語り、特にポジションにはこだわらず「全員がFWでもいい」と未知なる選手たちの才能に期待を寄せた。
 3泊4日の合宿形式など、過酷な選抜テストをくぐり抜けることができた選手たちは、優秀な指導者と専用の寮・練習場など充実した施設の中で、長期的かつ集中的なエリート教育を受ける。またサッカーのみならず、勉強面についても「Jヴィレッジ」の地元となる福島県、富岡町、広野町、楢葉町の公立中学、高校と連携。「真の国際人として社会をリードする人材」の育成を目指した教育を中高一貫で受けることができる。
 この教育プログラムは、フランス代表のアンリ、アネルカらを輩出したフランスのナショナルフットボール学院(INF/クレールフォンテーヌ)がモデル。同学院の元校長であるクロード・デュソー氏も来日し、アドバイザーとして指導にあたる予定である。活動拠点となる「Jヴィレッジ」のある福島県も40億円を投じ、万全のバックアップ体制で未来の日本代表選手の輩出を目指す。[4月27日 19時14分 更新 ] http://sports.yahoo.co.jp/hl?c=sports&d=20050427&a=20050427-00000018-spnavi-spo

<JFA>エリート教育でフランス協会との提携模索
 日本サッカー協会(JFA)の川淵三郎会長は27日、選手のエリート教育についてフランス協会との提携を模索する考えを明らかにした。中高一貫で選手のエリート教育を目指すJFAアカデミー福島が28日から来年度の募集要項を配布し、本格始動する。川淵会長は「この試みを日本全体に普及させるためにも、フランスのノウハウを吸収したい」と話した。
 フランス協会は72年に、今回の福島のモデルの一つとなったナショナルフットボール学院(INF)を設立。13~15歳の選手が寄宿生活を送り、トレーニングを積んでいる。フランス代表・アンリ(イングランド・アーセナル)もINF出身。この世代の育成システムの確立がフランス代表を支えている。日本代表の世界トップ10入りを目指す日本協会も、エリート教育の範とする。
 渡欧していた田嶋幸三技術委員長がフランス代表のジャケ元監督と会談し、手応えをつかんでいるという。今秋以降、具体的な調整に入る。【小坂大】[4月27日 20時7分 更新 ]http://sports.yahoo.co.jp/hl?c=sports&d=20050427&a=20050427-00000121-mai-spo

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