Monday, February 21, 2005

哲学の教育、教育の哲学(1)数の問題

フランスの人口 は約六千万人、日本は一億二千七百万人だから、日本の人口はフランスのほぼ二倍である。では、各種職業の数もそのまま二倍になるかというと、そうではな い。たとえば哲学教師の数は、正確な統計データがあるわけではないが、比較にならないほど違う。理由としては少なくとも次の二点が考えられる。

1)フランスの教育の大きな特徴のひとつは、高校の最終学年に哲学を置いていることであるが、これによって哲学教師の数は格段に違ってくる。
「ヨー ロッパにおける哲学教育は、知識の暗記ではなく、哲学を自分なりにどう表現できるか、つまり哲学的教養に裏付けされた「作文」技術、といっても過言でない と思います」とおっしゃる方を見かけたが、高校・大学教養レベルで言えば、まったくそのとおりである。http: //www.nets.ne.jp/~keio/methode_philo.html

「哲学的教養に裏打ちされた」というところが味噌 で
フランスの高 校における哲学は、日本の「倫理・政経」といった結局のところ知識詰め込み方の教育とはまったく異なるものである。無論、フランスの高校 における哲学教育が問題をはらんでいないと言えば嘘になる。むしろ多くの問題をはらんでいるが、それは社会構造からくるかなりの程度不可避的な問題なので ある(郊外に住み、「問題のある」高校に通う生徒たちに、哲学という、一方で短期ハイリターンをもたらさず、他方で思考力・忍耐力・知識を必要 とする学問をどのように教えるか)。

2) 「哲学」というものの社会的な位置づけが日本とフランスにおいて決定的に異なる。フランスにおいて「哲学者」という職業は尊敬されるに値するものであ るが、日本においては「奇矯」な振る舞いをする、「偏屈」な思い込みに凝り固まった、「変人」といったあたりが通り相場ではなかろうか。これは言いすぎだ としても、決して社会的に積極的に評価される位置についているとは言いがたい(このことは第一点と相関関係にある)。

こ れには歴史的に、日本の哲学者たちがきちんと自分たちの存在意義、哲学という学問の存在意義を社会にアピールしてこなかったという面もあるだろうし、そ れはそれで絶えず改善されていかねばならないが、他方で、世間の側からの「知」一般に対する敬意の欠如といったものがありはしないか。21世紀にもなっ て、未だに哲学といえば、「ソフィーの哲学」だの「本田宗一郎の人生哲学」だのが幅を利かせているのではないのか。これでは哲学者になりたいと思う青年た ちの数が少なくなり、ますます「奇人変人」ばかりが集うようになっても不思議はない。

当然、次のような反論が予想される。「哲学がかつて 社会の多数派の関心を占めたこ とはない。かえって、占めたときには(旧共産圏諸国におけるマルクス・レーニン主義哲学の特権的な位 置)、異常事態が起こっている証拠である。哲学は常に少数の真に思考を愛する者のものであればよい」と。しかし、これは、現代の知 の布置を考えたとき、あまりにユートピア的、浪漫主義的、大正教養主義的にすぎて容認できない。民主主義体制下における「大学での大衆啓蒙」という限りな くパラドクシカルな任務に直面して、それでは職場放棄も同然ではないか。

基本的なことを確認しておけば、本来、大学とは勉強する場であっ た。だが、現代日本にあって、大学とは「就職のためのパスポート」にすぎないという認 識が完全に定着している。この認識は、不況にあおられて、ようやく学生が真面目に勉強するようになったというここ数年でも、特に変わったようには見受けら れない。このような社会通念は、極端にまで推し進めて表現すれば、つまりはこういうことになる。「
偏差値、ネームバリューなどから見て、少しでも「よい」大学に入学することが最重要事項なのであって、大学で何を学ぼうが、そんなことはさして重要ではない。大学で得るべきものは、サークル活動によるかけがえのない友人、アルバイトによる得がたい社会的経験など、むしろ大学外で「学ぶ」ことのできるものである」。

こ のような考えは、中学・高校といった中等教育にまで浸透している。「
偏差値、ネームバリューなどから見て、少しでも「よい」高 校は、「よい」大学へのパスポートである」、「中学は・・・」というわけだ。これが、日 本の社会が過去数十年にわたって是認してきた通念であり、現在の学力低下は、教育の内容ではなく、教育がもたらす「実益」(むろん表面的な)に関心を持ち続けた、そ の必然的な帰結である(アメリカやヨーロッパでも事情は似たり寄ったりであるが、もたらされる帰結は異なる。日本ほど大学進学率が高くないからである)。 これは一部の「教育熱心」な「教育ママ」の行き過ぎや 歪んだ価値観といった個人的な資質に帰される問題ではない。「知」や「文化」に無関心でありながら、その世評や功利的価値には過大な評価を与える、社会の 全般的な風潮自体が問題なのである(言うまでもないが、偏差値やネームバリュー を評価したり、有名塾の校長の講演会に足繁く通うことが「知」に敬意を持つことではないし、ハイカルチャーに精通することが必ずしも「文化」に親しむこと なのでもない)。「ゆとり教育」や「総合学習」の意義は決して小さいものではないが、問題の根はもっと深いのである。

では、「知」への敬意を持てばそれでいいのか。そうではない。まだ、「実学志向」という、結局のところ「能率」や「効率」、一言で言えば、performativityの問題と結びついた根強いイデオロギーが残っている。これについては、項を改めて述べる。

い ずれにせよ、ここで確認しておきたかったのは、民主主義において決定的な重要性を持つ「数の問題」は、哲学の教育にも、教育の哲学にも、無関係であるどこ ろか、その本質的な契機のひとつである、ということである。ス ポーツでも何でもそうだが(昨今のサッカーの 隆盛ぶりとラグビーの凋落ぶりを見ればよい)、裾野の人口と社会的な位置づけは決定的に重要な要素である。有能な人間は、金が儲かる、自分が社会的に認め られるという職種へと自然に導かれていく。現代世界においては(大金持や貴族、遺産などで哲学をしていた過去の大哲学者たちとは違って、カント以降、哲学 者=哲学教師なのである)、哲学も職業、professionである以上、これらの要素は無視し得ないものであるにもかかわらず、社会も自分たち自身も相 変わらず、どこかに「哲学者=無垢な(社会的地位にこだわらない)、清貧の(経済状況にこだわらない)聖人」といったイメージがあるのではないか。哲学と いう学問は、悪循環スパイラルに落ち込んでいる、というこの見方が見当違いなものであってくれればよい が、と願わずにはいられない。

哲 学のみならず、人文・社会科学全般は、若者たちの健全な批判的思考能力を養い、社会がファシズム化してい くのを食い止める、最後にして最大の砦である。逆 に言えば、社会がファシズム化していくとき、まず最初に標的にされるのがHumanitiesなのである。石原都知事による暴力的な都立大学「改革」、の みならず全国各地の大学における文系学部の縮小改編や第二外国語の削減は、 まさにそのことを典型的な形で示している。