Monday, April 11, 2005

New Deal

このポストは、ごく簡単に言えば、こういうブログをやる意味自体を問い直すことを目的としている。もう少し詳しく言えば、哲学以外(政治的・経済的・社会的・文化的・教育的事象)に関する私の考察の妥当性・射程を問い直すことを目的としている。

自分の意見の妥当性・射程を正確に知るというのはなかなか難しいものだなどと言うと、「何を今さらその歳になって」と言われそうだが、残念ながら今の私にはまだまだきわめて難しいと正直に認めなければならない。

カントとスピノザの間で

一方では、市民の積極的な政治参加・意見表明は(その質の高低を問わず)常に重要である。この一般的な観点からすれば、HPやブログに私的な形で、政治や教育に関する私見を表明すること自体は間違ってはいないと思うし、とりわけ現在の日本のような状況においては非常に重要であるという考えに変わりはない。慎重・確実を期すあまり結局何も言わないという姿勢は、単なる無為同様、決して事態を動かすことはないと思うからである。だからこそ私自身、少なからぬ時間を割いて、日本のニュースをフォローし、日本の政治・経済・社会・教育状況について考えるのみならず「発言」しようとしているわけだ。 この点では、カントが「啓蒙とは何か」の冒頭で述べていた"Sapere aude !"、「敢えて賢かれ!」、つまり自分自身の理性・悟性を用いる勇気を持て、が私のモットーである。

しかし他方で、もし仮に自分のこの「発言」が単なる友人間でのおしゃべり、言いっ放しの放談、結局のところ平凡きわまりないドクサ(臆見)であることを超えて、なんらかの理論的で普遍的な価値を獲得することを望むのであれば(公的publicな形で、雑誌・大学紀要等に発表publicationしようというのであればなおさらのこと)、それなりの準備・覚悟がいるということもまた確かである。「床屋政談」は、いくら積み重ねてみても、その性質をいささかたりとも変えるわけではないからである。だからこそ私自身、少なからぬ時間を割いて、「床屋政談」から一歩でも先へ進み、本当の政策論議や理論的考察に近づくために模索を続けているわけである。この点では、スピノザが時に書簡の結びに用いた言葉"Caute !"、「用心せよ!」、つまり(この言葉を私なりに流用すれば)政治・教育問題を論じるにあたっても哲学の諸問題を論じるときと同様の手続きを取ることで方法論的な慎重さを欠かぬよう気をつけよ、が私のモットーにならねばならない。

カントとスピノザのこの二つのモットーの間での悪しきアポリアの作り方はこうである。「何も言わないよりましだから、とりあえず何でもいいから言ってしまえ」という無知の蛮勇主義者に対して、「どうせ床屋政談にとどまるのであれば、時間と労力をかけるに値するであろうか?」とだんまりを決め込む理知の無為主義者。

カントとスピノザの二つのモットーの間に織り成される正しいアポリアにおいては、逆に、これら二つの誘惑を同時に退けることが問題となる。一方では、「時間がないから」「これは私の本来の仕事ではないから」という理由で、あるいは「平凡な床屋談義ではない何か完璧に独創的なものが生まれるまでは沈黙を守りたい」という理由で、専門領域以外への発言を控えることが態度として因襲化しないよう気をつけねばならない。しかし他方では、「時間がないし、私本来の仕事でもないけれど、とにかく何かを言わねばならないし、言わずにおれないから」という理由で、自分の発言の平凡さや質の低さ(主題に関する確実で広範な知識の欠落、思索の浅さ:論理の飛躍・論拠の不確実さ・論証の不十分さ、など)に言い訳をするようなことがあってはならない。

要するにカントの「敢えて賢かれ!」とは、あくまでも理知の蛮勇であって無知の蛮勇や理知の夢精ではないし、スピノザの「用心せよ!」とは、あくまでも理知の自制であって理知の無為や理知の無声ではない。前者は競技に参加することを奨励するが、だからといって参加者の放埓を奨励しているわけではないし、後者は思考が力強く走り出す前に必要な弾みをつけるためのテイクバックであって、単なる後ずさりではないのである。

しかしこういった予備的な考察は、抽象的なレベルでいくら展開してみても、虚しい言葉遊びにすぎない。では、毎日の仕事が終わった後の限られた時間と残された労力の中で、具体的にどうやって満足に足る言説を紡ぎ出しうるのか。これを考えない限り、結局のところこのようなブログをやって何か発信している気になっても、所詮は自己満足にすぎない。


Pas du gribouillage à l'article

実際、毎日の仕事が終わった後の限られた時間と残された労力の中で、具体的にどうやって満足に足る言説を紡ぎ出しうるのか。たしかに、gribouillage(下手くそな殴り書き)とarticle(論文)の間には埋められない隔たりがある。しかし、このことは両者がまったく無関係だということを意味するのではない。両者の間には、言ってみれば否定的・批判的・héautonomeな関係がある。そもそも暴論を書こうと思って書いているわけではない以上――この点は決定的に重要である。もし暴論でよいと思って書いているのなら、話はまったく違ってくるし、これほど悩む理由はまったくなくなる――、暴論が正論になる唯一の道は、暴論が暴論である所以の特徴を一つ一つ消し去っていくこと、なぜ殴り書きになってしまっているのかを否定的・批判的に考え抜くことである。pasという語が「否」であると同時に「一歩」であることを思い出すならば、私たち自身のモットーは、今のところ、Pas du gribouillage à l'articleとでもなるだろうか。

héautonomieというのは、カントが『判断力批判』序論第5節で、判断力の特性を規定する際にautonomieと区別するために用いた語である。カントの区別を一言で言えば、autonomieとは常に他に対する自立=自律であり、自と他の直接的な規定関係であるのに対し、héautonomieとは常にまず自分自身にのみ関わる自立=自律であり、徹底した自と自の関係から間接的に他への規定関係が生じる。

(少しだけ詳しく言えばこうなる。自然の法則をひとたび発見すれば、あとはそれを機械的に適用すればよいだけといった悟性や理性の場合と異なり(規定的判断力)、判断力はケースバイケースで判断するので(反省的判断力)、理性や悟性がその対象に対して直接的に規定的であるという意味でautunomeなのに対して、判断力はその対象に対して間接的に規定的である(その対象に対して反省が生じるために自分自身に法則を指定する)という意味でhéautonomeなのである。)

ここで我々にとって重要なのは、暴論がひたすら自分を突き詰めていくことによって正論になりうる可能性である。この意味では、暴論のautophagieによる理論的考察の生成の可能性と言ってもよい。では、暴論の自己批判は、いかにして遂行されるのか。別に答えを持ち合わせているわけではないが、少なくともひとつ自分自身に向かって戒めておきたいことはある。

たしかにあらゆる思想は現状に対する不満から生まれる。しかし重要なのは、その後育つかどうか死産かどうかを意に介さずとにかく生みまくることではなく、数少ない本当に生まれた子供を見極め確実に育てることである。言いたい放題の殴り書きは自分の憂さ晴らしにはなるかもしれないが、それだけなら生みっ放しの無責任な親と同じである。

たとえシーシュポスの岩のように倦まず弛まず思考を練り上げていくほかないのだとしても、怠け方をではなく、よりよい岩の押し上げ方を考え続けなければならない。

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