Thursday, October 21, 2004

スシボンバーの憂鬱

ssさん、一点だけレスポンスを。

動き、というのは、雑誌などの媒体を作る、という意味ではないですよね?

 aaさんは以前、柄谷さんの「アメリカコンプレックス」を少しからかったりしていたけれど、柄谷さんが「日本人は世界でものを考えてると思われていない」と常々言ってるのは、そのとおりだと思うんです。私の場合は、まずはフランスに向けて(もちろん同時に英語でも、そしていずれは――warum nicht?――独語でも)発信したいと強く願っているんです。一般的なフランス人哲学者たちはもちろんのこと、いわゆる重要な現代思想家、バリバールは別だけれど、たとえばラクー=ラバルトなんかでさえも、日本人をせっせと自分の著作を自国に紹介してくれる気のいい翻訳者としてしか見ていない。

 それも当然なんで、過去数十年来、そして今もなお、私の同業者たちはフランス人と対等の位置に立とうとはしていない。彼らをスターか何かのように見ている。舞台に上がるのはいつも彼らで、自分たちは観客か、せいぜい舞台批評家。実際、ドイツ哲学はいざ知らず、少なくともフランス哲学の分野でフランスでも認められている日本人研究者(翻訳者として名前を知られている人、ではなくて)が何人いるでしょうか?客観的に見て、日本人哲学者の平均レベルはフランス人哲学者のそれと比べて、質的に劣っている。それは何故なのか。

 馬鹿げた比喩ですが、サッカーのFWには最低でも二つの能力が要る。巧みな技巧を使って相手DFをかわしていく能力と、多少強引にでも自らゴールを狙っていく能力。日本のFWには、後者の能力が欠けている場合がほとんどです。ゴール前までは何とかいけても、決定的なチャンスを自分で決められない。柳沢など、せっかくのシュートチャンスを得ても、「ゴールの確率をあげるため」と称して味方に余計なパスをして、挙句の果てに監督に「男に媚びる女のようなスタイルlezioso(ま、これは日本の週刊誌の扇情的な翻訳なんで、正確には「マニエリスト」という感じですけど)」だと評されている。欧州で活躍している(もちろん相対的に、ですが)日本人に中盤の選手が多いことは偶然ではありません。

 哲学にも最低二つの能力が要る。哲学史的・語学的な基礎教養と、ほとんど本能的と言ってもいいかもしれない図式を直感する力。どちらが欠けても国際的な舞台では活躍できない。例えば、浅田さんには自らゴールするという意欲が根本的に欠けているように思われるし、柄谷さんには――たいへん失礼ながら――強引にシュートを放って「決めた!」と自信満々だけれど、実はすでにオフサイドの笛が吹かれていた、というようなことが大変多いのではないでしょうか。日本の「哲学」にはエースストライカーがいない。むろんお二人は「私は批評家だ」とおっしゃるでしょうが、まさに誰も責任を持って「哲学」を引き受けないところにこそ問題があると思うのです。

 「サッカーと同じで、そもそもあちらの文化だから」「始めたのが遅く、向こうのレベルに到達するまでに時間がかかるから」という文化的・歴史的な理由。「日本にはノルマルにあたるエリート養成国家装置も、アグレグにあたる最低限の大学教育を保障する国家装置もないから」という制度的な理由。「哲学の場合、世界に向けて発信するには、英・独・仏のいずれかの言語で書かなければならないから」「そもそもフランスの哲学界は閉鎖的だから」という言語的・地政学的な理由。大言壮語に響くのを承知の上で言えば、こういった理由を冷静に分析し、社会的なレベルでの底上げを図るにはどうすればいいかを模索することと平行して――私の「アグレグ」論文はこの文脈に位置しているわけです――、私自身が個人のレベルで量的にも質的にもアウトプットを向上していかなければならない。そのこともあって(もっと本質的な諸理由もありますが)、仏語で思考し書くことにこだわってるんです。

 「世界に向かって開かれる」ということは、世界のさまざまな動向を知る(自国に翻訳紹介する)というだけではまったく十分ではなく、その動向に自ら能動的に携わっていく(外に向かって発信していく)ということでなければならない。前回「動き」といったのは、この思想のレヴェルでのムーヴメントということです。組織・媒体づくりももちろん重要なことだと思っていますが、今の私の主要目標ではありません。

註:「スシボンバー」は、2004年現在ドイツのサッカークラブ「ハンブルガーSV」に所属するFW高原直泰にドイツのスポーツメディアが付けた、なんとも芸のない渾名。頑張れ、タカハラ!

No comments: