Tuesday, February 22, 2005

「おフランス」と「ここがダメだよ日本人」

ところで、こういうブログをやっていると、必ずやいただく初歩的な「非難」がある。それは、「結局、あなたはフランス(ないしヨーロッパ)がやってること はなんでもよくて、日本は何でもダメダメって言いたいんでしょ」というものである。答えはもちろん、「まったく違います」である。この種の議論に個別的に 応答することはできないので、ここでお答えしておきたい。

1)「おフランス」。このような反発を感じる人は、フランスないし西洋や、これ らの国に何らかの形で関わる仕事に携わる人々に対して自分自身が抱いているところの紋切り型のイメー ジを勝手に他者に投影して、話を展開することが多い。私は、フランス人の「カッコイイ」先生目当てにカルチャーセンターにいそいそと通う有閑マダムのよう に、「おフランス」に興味をもっているわけでもなければ、フランスという国家が過去になしてきた非道極まりない植民地主義的・帝国主義的行為(その傷痕は 現在なお裂開したままである)や現在フランス社会が抱えている諸問題に関して、無知なわけでも目を閉じているわけでもない。小坂井敏晶は、
フ ランス語を学ぶ人のほとんどはフランス文化に魅了された人であり、フランスに特別な関心を持たぬ私と気の合う人はアテネ・フラ ンセにあまりいなかった。フランスかぶれの教師や生徒に対する反発もあって、つい私は反西洋、そして第三世界支持の立場を主張する。(・・・)私が西洋に 定住する必然的な理由はなかった。家庭環境からいっても、また私自身の関心からいってもフランスなどとは無関係だった。様々な偶然が重なり、たまたま出 会った人、そして思いもかけないチャンスが私を日本の外に連れ出したのだった。(『異邦人のまなざし 在パリ社会心理学者の遊学記』、現代書館、2003年、25-26、54頁。)
と書いているが、私もこのような感想を、さらには彼が論じたいと考えていた次の三つのテーマをも、関心として共有している。
一 つ目は、なぜ、第三世界の諸国で失業が生じ、仕事にあぶれた人々が移民という形で先進国に流れるのかを検討するもので、サミー ル・アミンなどがマルクス主義の立場から理論展開していた。二つ目のテーマとしては、移民がフランス社会で生きる意味を、経済面だけでなく、社会関係や心 理の動きをも含めた多角的角度から探ることを考えた。残る三つ目は、「『名誉白人』 西洋人に対して日本人が抱く劣等感」と題して、明治以降に日本人が西 洋人を手本にして国の近代化を目指す過程で生まれた、西洋に対する憧れや劣等感を検討するものだった。(同上、46-47頁。この第三の点に関しては、『異文化受容のパラドックス』(朝日選書、1996年)、あるいは Les Japonais sont-ils des Occidentaux? Sociologie d'une acculturation volontaire (1991) という著書の形で出版されているようである。)
したがって、「おフランス」「西洋かぶれ」に対する漠然とした反感ないし嫌悪感から私の論述に反論を抱かれている場合には、もう少しフランスや西洋についてご自身で勉強していただくほかはない。

2) 「ここがダメだよ日本人」。これは、このブログでやろうとしていることではまったくない。何様のつもりか大知識人ぶって日本の現状を慨嘆してみせ、結 局のところ平凡なコメントをはく、といったことに時間と労力を費やしたいわけでもない。私がここで(時間の許す限り)考えてみたいのは「その先」である。 現代日本の政治・経済・社会状況に問題があるとして、それは一体いかなる問題であるのか、その根本原因は何か、いかなる対処療法がありうるのか、というこ とを理論的・哲学的に考えてみることなのである。例えば、私は、NAMの活動が不調に終わった原因は、「連帯」と「世間」の間の差異と決して無関係ではな いと考えているし、日本における現代思想、のみならず哲学自体の全般的な退潮は、その激しい流行の移り変わりとともに、決して「名誉白人」的な、西洋への 憧れや劣等感と無関係ではない、と考えている。

さて、せっかく小坂井氏の著書を引いたので、もう少し「遊学記」らしい、面白いところを引いて、このトピックを終えることにしよう。
パキスタンの旧都ラワルピンディにいた時、現地の民族衣装を買って身につけ、得意がって町を歩いていたら、道行く人が皆私のほうを見て笑う。外人がキモノを着て渋谷を歩くようなものかなと思っていたら、何と私が身につけていた服は女性用だった。(同上、23頁。)

フ ランスに住むようになってからも大学に就職するまで通訳はずっと続けた。他人の考えを伝えるよりも、自分自身の意見を述べたい性分の私には本来不適な職 種だが、通訳をすること自体よりもそれに付随した経験が興味深かったし、後の研究生活において間接的に役立っていると思う。(・・・)例えば鉄道をはじめ とする乗客輸送の分野では、乗り心地を良くするために騒音防止が大切だが、騒音を他の音で相殺するという発想にとても感心させられた。音は波動だから、そ の波形には山もあれば谷もある。だから騒音の山の部分に対して谷が、また谷の部分に対して山がちょうど重なり合うように調整した他の音を客室にわざと流す と、人間の耳に騒音が聞こえなくなる。ノイズを消すために、さらにノイズを発生させることで解決するという、いわば毒を以って毒を制する素晴らしい発想だ と思う。我々社会学に従事する研究者もこのような柔軟な頭で問題にあたらなければならない。(同上、40-41頁。)

1 comment:

hf said...

snのコメント:「おフランス」では僕も言いたいことが一つある。日本のレコード店のフランスの棚(ポピュラー音楽)に並んでいるものといえばそれこそ日本側のイメージ押し付けというか誇大妄想というか、つまりはあの「おフレンチ」という奴なわけだ。ゲーンズブールだのバーキンだのコジャレ系?だの、そんなんばっか。最近はようやく少しずつ幅広くなってきてはいるが。おい、わが麗しの革命的シャンソンロッカー、マノ・ソロ様はどこだ! 担当者、音楽好きなら自分で発掘して自分の耳で選べや。と商業主義の権化みたいなところに言ってもせんないか。でもレコード屋って本屋と同じように文化の媒介者だろ。共振の媒介者というべきかな。ブラジルはボサノバでアルゼンチンはタンゴなんて安易過ぎないか。南米大陸には500年の植民地支配をかいくぐってきた音楽がいっぱいあるはずだよ、たぶん。あんまり知らんけど。

ま、とにかくこんな感じで楽しませてもらってるということです。