Wednesday, March 14, 2007

ゴト師(壮年の林達夫を読む)(上)剽窃…

15日の締め切りが近づいてきた。5月下旬の仏文学会用の発表要旨提出期限である。メタファー論は今のところこれ以上進められない。アナロジーの問題を入れたい。この間の発表でも「メタファー論だけだと、きれいにまとまりすぎてる」と指摘を受けた。そのとおりだ。

rythmeとmesureを組み合わせたときのように、見掛けは似ているけれど実は異質で、しかし緊張関係にあるという二つの項を衝突させることで何かが見えてくる、という手法はスリリングで好きだ。メタファーとアナロジーがそうなるかどうかはまだ分からないが。

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2月上旬に書いたもの。

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さまざまな器具等を使用し、パチンコ店等で不正に出玉を獲得する人を「ゴト師」という。まあ要するに、いかさまをやる人のことと思ってもらえばいいだろう。ここでは、「ゴト師」という言葉をもちろん犯罪的な意味においてではなく、広義の意味で用いる。

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林達夫は、広義の意味での「ゴト師」の側に自分を置き入れた。板垣直子の三木清に対する「剽窃」告発騒動のさなか、「いわゆる剽窃」(1933年)という文章で三木を擁護したときのことである。

「もっとも仮借なき《職業的》廓清家(レーニンのいわゆる職業的革命家と同じような尊敬的意味で)」たる板垣直子の「秋霜烈日の如き断罪的方法」に、林達夫は「多少ともかの中世的スコラ的宗教裁判方法に似通う形式主義、機械主義、末梢主義への危険」を嗅ぎ取る。

いわゆる剽窃は日本の今日の現象であるばかりでない。シェークスピアやモリエールやスタンダール。プラトンやデカルト。古来その独創性を以って鳴る西洋の大文豪や大学者のうちにさえ、証拠歴然たる剽窃行為が見出される(しかも当の張本人たちがその正当性を主張している)。

人類社会の共通現象であるとも言えそうで、となると、他人の思想や文句のドロボウ、インチキ師、ゴト師は、無数に世界を横行していることになる。何という恥ずべき、嘆かわしい犯罪的世界!

むろん林達夫はありとあらゆる剽窃を擁護しているのではない。「私がこんなことをいいだしたのは、いわゆる剽窃にはピンからキリまであるということがいいたかったからだ」。そこで林は、板垣夫人とはまったく異なる見解をもつ知識人を引く。アナトール・フランスである。

かつてドーデが剽窃のかどで攻撃されたとき、彼はドーデの擁護者として立ち、有名な「剽窃の擁護」を書いた。詳しく知りたい人のために原典を挙げておく。

Anatole France, "Apologie pour le plagiat", Le Temps, 4 janvier 1891, reprise dans La Vie littéraire, quatrième série, Paris, Calmann-Lévy, 1924, pp. 157-167.

BNFでは原本をウェブ上で読むことすらできる。日本の知識人の端くれとしては羨ましいというほかない。「フランスを羨ましがってばかりいないで、日本の厳しい現実を見たほうがいい」としたり顔で忠告してくれる人もいる。だが、まず夢見るところから始めなくて、この国に何が残されているのか。

アナトール・フランスによれば、剽窃家とは、何でもかでも、他の家から家財でも雑巾でもゴミ箱でも滅茶苦茶に盗んでくる人間のことであって、かかる輩は思想の殿堂に住むに値しない。

「だが、他人から自分に適したもの、得になるものだけを取る作家、選択することを心得ている作家について言うならば、それは立派な人間である」。

また、アナトール・フランスによれば、それは「節度の問題」でもある。「人はミツバチのように他に迷惑をかけずに盗むことができる。だが、穀粒をまるごと略奪するアリの盗みは決して真似してはならぬ」。
つまり剽窃には二つあるのだ。法のレベルに納まるものと、法の概念そのものを揺るがし、ひそかにその根本的刷新を促すものと(アンチゴネーを剽窃の問題から考えることも出来るかもしれない)。

Tuesday, March 13, 2007

自己内対話(ブログに抗するブログ)

murakamiさんからまたまた重要な指摘をいただく。さらに追加情報もいただいた。
http://philosophy.cognitom.com/exec/page/page20050703222358/

他の人に誤解のないように言っておけば、私がmurakamiさんに敬愛の情を抱くのは、彼が彼のフィールドで精力的に活躍されているからであって、彼が私のブログを読んでくれる、あるいはそこに書き込んでくれるからではもちろんない。

思想における友情あるいは愛は、ブログへの書き込みからは生じない。なぜならブログも書き込みも所詮その程度のものでしかないからだ(これは日常会話でも同じである。社交的に振舞うことはどんな場合にも望ましいことだが、そこに過剰な意味を見出すべきではない)。

少なくとも思想の世界では――いや、おそらくありとあらゆるプロフェッショナルの世界でも同様だろう――逆なのだ。大事なのは「人」ではない、「アイデア」だ。あらゆる意味におけるideaである。

したがって思想的ブログにおいて大事なのは、思考の断片的なアイデアが流通すること、最低限、貴重な情報が流通すること、そしてそれらが電脳空間の外で現実化・具体化することだ。実際の「出会い」が、効果的な「出来事」がそこを通じて(そこから、ではないとしても)生じること、それがすべてである。

この「外部」はまた、思想の「外部」でもなければならない。私が、この思想系ブログ以外のブログ(政治・社会系、語学系…)を、区別しつつも、連動させているのはそのためである。ドゥルーズの言うとおりなのだ。

≪ある一つの分野はみな、それぞれの仕方で非なるものと関係している。

芸術は、芸術家でないこの私たちを育成し、覚醒させ、私たちに感覚する仕方を教え、哲学は概念的に理解する仕方を教え、科学は認識する仕方を教える――それだけのことを言っているのではない。そのような教育法が可能になるのは、それぞれの分野に関わっている〈非〉に対して、その分野がそれ自身の側で本質的に関係している場合だけである。

芸術が非芸術を必要とし、科学が非科学を必要としているように、哲学は、哲学を理解している或る非哲学を必要とし、非哲学的理解を必要としているのだ≫(『哲学とは何か』結論)

ここに丸山真男の言葉が反響する。

≪若いうちに、感受の弾力性があるうちに、異質的なものと対決せよ。Stirb und werde ! ≫(『自己内対話』)

私のブログはブログ的ではない。ブログは、私が研究論文としてでなくエッセイという形で言いたいことを載せる最良の形態ではないのだろう。別にそれで結構だ。私にとって、ブログとは「井戸端会議と投瓶通信のあいだ」(penses-bêtes japonais, 2007年2月4日の項)にある何かなのである。

さらに、こうも付け加えよう。時流に抗して、私が思想的ブログでまず突き詰めたいと思っているのは、自己内対話のほうなのだ、と。

≪国際交流よりも国内交流を、国内交流よりも、人格内交流を!自己自身の中で対話をもたぬ者がどうしてコミュニケーションによる進歩を信じられるのか。

論争がしばしば無意味で不毛なのは、論争者がただもっともらしいレトリックで自己の嗜好を相互にぶつけ合っているからである。自己内対話は、自分の嫌いなものを自分の精神の中に位置づけ、あたかもそれが好きであるかのような自分を想定し、その立場に立って自然的自我と対話することである。他在において認識するとはそういうことだ。≫(丸山真男、『自己内対話』。1967年3月の最終講義メモ)

「まず」とわざわざ強調したのは、英語で『日本政治思想史』や『日本の思想』を発表し、座談の名手であった丸山のこの文章内に、不可視の、しかし確固たる「まず」を読み取れない読者のことを慮ってである。私は常に「両面作戦」(pratiques théoriques, 2004年11月1日の項)の支持者である。

Friday, March 09, 2007

制度の唯物論(脱構築の前に構築を!)

まだまだ先だと思っていたら、仏文学会用の論文の締め切りが迫っていた。この数日、慌てて見直し。日仏哲学会よりは紙数に余裕があるので、割と細部まで盛り込める。というわけで、「催眠」論文脱稿。後は結果を待つのみ。

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「コレギウムとは何か」の項に、尊敬するmurakamiさんからコメントをいただいた。

そうですね、私にもどうすればいいのか分かりませんが、おそらく劇的な治療法はないのでしょうね。

ただ、解決策はないとしても、地道な対処法はあります。例えば、学術雑誌の作り方です。

仏文学会の雑誌『フランス語フランス文学研究』は、学会発表を行なった者の中で選抜を行ない、研究論文を書く権利を与えるのですが、その際、フランス語論文8本、日本語論文4本と定められています。

つまり、日本語論文の数を少なく限定しているのです。仏文学会が本当のところ、どういう「意図」でこの比率を決定しているのかは知りませんが、執筆者に与える「効果」は明白です。掲載されたければ、フランス語で執筆したほうが圧倒的に可能性が上がるのです。

こうして制度が意識を少しずつ変えていき、仏語能力の地道な向上につながっていく、という「制度の唯物論」(笑)があるわけです。

翻って、例えば日仏哲学会の雑誌『フランス哲学・思想研究』はどうでしょうか?

(他の人にも誤解のないように言っておくと、もちろん両雑誌の内容や質を云々しているわけではありません。言語の問題を論じているのです。)

まず言語による「枠」がありません。そうなると、結果は火を見るより明らかです。最新号である第11号を見てみると、仏語論文は公募論文7本中2本。一本はフランス人(前述の西田研究者のDalissierさん)、もう一本は私です。

むろん、これは学会の規模、それぞれのmilieuがもつ雰囲気というものも大きく関係しています。仏文学会は日本のフランス系の学会でおそらく最も規模が大きく、最も国際的に活躍している学会であり(現在の国際仏文学会の会長は、日本の仏文学会の会長である塩川徹也先生です)、フランス語で書くことが半ば自明視されているmilieuです。もともと仏語で書ける人が一定数以上いないと、せっかくの理想的な制度も成り立たないということはあります。

しかし、いずれにせよ、制度の善用とは言わないまでも、制度というものの持つ力をもっと積極的に活用すべきではないか、少なくとももっと意識的になるべきではないだろうか、と私は思っています。日本版アグレグを夢見るのも、そういうところから来ています(これについては、これまで断片的にこのブログに書いてきました)。

哲学科(フランス系)の人は仏文科の人から、仏文科は哲学科から、もっといろんなことを学べるのではないかと私は思っているのですが、なかなかどちらにも聞いてもらえません。ドイツ哲学と独文より親密な関係を築く可能性があるようにも思われるだけに、残念なことです。

コレギウムの話、ご一緒に進めていければこんなに嬉しいことはありません。実はもう若干進めつつあります。今度お会いしたときにでもお話しできれば。 hf

Thursday, March 08, 2007

制度と脱構築(Jean-Luc Amalric情報)

一月ほど前に書いたもの。デリダ・リクール論争についてまとめている途中での副産物。小ネタはすぐにあがるが、大ネタは。いずれまた。

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さて、ジャン=リュック・アマルリックである。

『リクール、デリダ。隠喩の争点』という本を出した叢書"Philosophies"は、きわめて優れた叢書で、私のお気に入りの一つである。例外もあるが、もっぱら若手にある哲学者のあるトピックに絞って書かせることで有名だ。

(日本のように、すでに功なり名を遂げた研究者が入門書的な軽い本ばかり書くのは何重にも無駄だと思う。たまに息抜きに、というのならいいが、そればっかりのような気がするのだ。だいたい大家に限らず、著書でも翻訳書でも、アメリカ同様、入門書が多すぎる。もういいよ、そういうのは。短くてもいいから、一つのテーマに絞って力作を書いてほしい。

誰か、〈ベルクソン研究叢書〉をつくってほしい!グイエのは翻訳が進行中とのことだが、イポリットとかユッソンとかミレーとかアイドジックとか、良書を精選して。『年鑑』とか、良質論文を精選して。)

アマルリックを、「モンペリエ大教授」とおっしゃっている方がいるが、私の知る限りでは、彼は職業としては高校(Lycée Joffre)で教え、研究としてはCFPE(Crises et Frontières de la Pensée Européenne, EA738)という研究グループに間接的に所属して、博論執筆に励んでいる若手研究者である。

ネットというのは本当に恐ろしいもので、Jean-Luc Amalricの家計図まで調べられてしまう。それによると、父はJean-Claude Amalricという英米文学者であるようだとか、どうでもいいことまで分かってしまう。政治的な発言を行なっているな、とか。

アマルリックの関係しているCFPEには、私の知っているだけでも、エピステモ系のアナスタシオス・ブレンネール、コント研究のアニー・プチ、ハイデガー研究のマルレーヌ・ザラデールなどがいる。昨年惜しくも夭折してしまったフランソワ・ズラヴィシュヴィリもこのグループに属していたようだ。

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ちなみに、フランスの研究機関でよくUMRとか見かけて、「あれは何だ」と思われている方があると思うが、研究単位のことである。私が様々な形でお世話になっているSavoirs, Textes, LangageはUMRだが、これはUnité Mixte de Recherche、上述のCFPEはEAだが、これはéquipe d'accueilの略である。大体、JE→EA→UMRという形で大きくなっていく。例えばこんな感じだ。略称についてはリンクのところにリストを挙げておいたので、参考にしていただきたい。

フランス現代思想やフランス哲学、フランス文学の研究者で、(フランスの)学問制度のことを知らない人がけっこういる。むろん、EAが何を意味するかを知らなければデリダの思想は分からないなどと言っているのではない。だが、それにしてもあまりにも制度ということに鈍感であり、無邪気すぎはしないか。

一方でデリダや脱構築に興味を持っていると言いつつ、他方で制度的なことを知ろうとしないのは矛盾している。デリダほど制度との距離どりを考えた人はいない。

-Peter Trifonas, The Ethics of Writing : Derrida, Deconstruction, and Pedagogy, 2000. プロフィールはこちら。
-Tom Cohen, Jacques Derrida and the Humanities: A Critical Reader (Cambridge University Press, 2002).
-Peter Trifonas and Michael A. Peters, Derrida, Deconstruction and Education: Ethics of Pedagogy and Research, Blackwell Publishing, 2004.
-Simon Morgan Wortham, Counter-Institutions: Jacques Derrida And the Question of the University, Fordham University Press, 2006. プロフィールはこちら。

彼がどうGREPHに関わったか、どうしてCIPhを創ろうとしたのか、もっと日本でも知られていいはずだ。デリダの訳者たちよ、うすっぺらい本を訳すほうが楽なのは分かるが(薄い本だってすでに大変というのもよく分かるが)、この「暗い時代」にあってデリダの大部の大学論・教育論であるDu droit à la philosophieが本の形でまず訳されるべきではないのか。

脱構築とは何よりもまず諸々の制度の脱構築である。学問とは研究者の頭の中だけで抽象的に構築されていくものではなく、それ自体歴史的に形成されてきた具体的な制度の上で、ほとんど唯物論的に形成されていくものなのだ。博論一つ取ったってそうだ(笑)。その自覚なしに、その自覚を実際に示す実践なしに、脱構築とは笑わせる。

Wednesday, March 07, 2007

サクラサク(Master Mundusの結果)

Master Mundus、どうやら日本人が複数名(主要リストに2名、補欠リストに1名)、通ったようです。告知・宣伝にご協力いただいた皆様、本当にありがとうございました。

受かられた皆様、栄えある第一号として思う存分、そして思い残すことのないよう、研鑽を積んできてくださいね。プロになりたいなら、本物のプロになりたいなら、二年間くらい猛烈に勉強する時期があってもいいと思います。

残念ながら届かなかった方、気を落とさずに。来年またチャレンジするつもりで、お励みください。

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今回の結果(暫定的な合格発表)がウェブ上で公開されています。主要候補全15名のうち、南米が5名(ブラジル3、アルゼンチン2)、アジアが5名(中国3、日本2)、ロシア2名、カナダ・レバノン・ゲオルギア各1名という結果でした。南米・アジアはほぼ予測どおりでしたが、中東が1、合衆国がゼロというのは少し驚きました。

おそらく何らかの方針なり、各地域のinvisible quotaがあるのでしょうが、来年度以降徐々に「枠」を増やしていけるように、日本のフランス哲学研究者が共同で何かアクションを起こせればいいですね。

いつか、仏独英語で世界標準レベルの哲学的な議論をできるのが、当たり前とは言わずとも、珍しくはなくなる、もう語学力か哲学力かなどという議論がナンセンスでしかなくなる、そしてその結果、このMaster Mundusの有り難味が徐々に薄れていく、そんな日を夢見て。 hf

Tuesday, March 06, 2007

コレギウムとは何か?

3月2-3日、学習院大学人文科学研究所で行なわれたMichel Dalissier氏の「ベルクソンの読者としての西田」講演会を拝聴。すでにメールではやりとりしていたtm氏やys氏と初めて対面。年来のCollegium Japan構想を実現すべく、少しずつ動いていきたい。

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まず、コレギウムのことを説明しておかねばならないだろう。正式名称はCollegium Phaenomenologicumである(公式サイトはこちら)。ジョン・サリスやジャック・タミノーがほぼ三十年前に創設したものだ。

アメリカの大陸系哲学研究者たちの夏のささやかな祭典と言っていいと思う。毎年7月中旬から8月上旬の三週間、イタリアのチッタ・ディ・カステッロ――ペルージャからそれほど遠くないところにある何もない田舎町だ。強いて言えば、モニカ・ベルッチを輩出した(笑)――で、行なわれるバカンスを兼ねた合宿である。

参加はアメリカ全土の教授レベル数人、助教授・講師・ポスドクレベル十数人、院生四十人程度。主催者・参加者は毎回かなり変わる。ベースはアメリカ人だが、院生には何割かヨーロッパ中の学生が混じる。私は2003,2004年の二年続けて参加したが、アジア人は私一人だった。

三週間で三人の哲学者の幾つかのテクストを読み、レクチャーコースを聴き、議論する。大体フランス(現代思想)系とドイツ系(ハイデガー)が一年ごとに来ている(ようにも思われる)。例えば2003年はベルクソン、レヴィナス、ドゥルーズ。2004年は、カント、シェリング、ハイデガーという感じである。

何がいいかというと、プログラムの仕方がいい。

月・午前:レクチャーコース(1)、午後:午前中の議論を踏まえて、ディスカッション
火・中堅による発表数本
水・午前:レクチャーコース(2)、午後:午前中の議論を踏まえて、ディスカッション
木・中堅による発表数本
金・午前:レクチャーコース(3)、午後:午前中の議論を踏まえて、ディスカッション
土:遠足
日:オーバーホール

朝は10時開始。レクチャーコースは、午前中まるまる2時間超、一人の哲学者のあるテーマについて一人の大物(ないし有望な中堅)がじっくりと話す。三日間あるからいろんな細部を扱える。いろんな人を呼ぶと幕の内弁当的にカラフルだが、「食い足りない」という現象が往々にして起きるものだが、それを回避できる。

午後は、その人の提示したテーゼについて、あるいは扱われたテクストについてディスカッションする。その際、ポイントは二つある。1)院生を数人程度のグループに分ける。皆で議論というのは効率が悪い。2)各グループに一人、若手研究者(講師、ポスドクレベル)をチューターにつけて、議論の進行役、まとめ役をさせる。議論は往々にして迷走しがちだからだ。

だらだら長くやればいいというものではない。集中してやって、午後は4時で終わり。あとはフリー。院生でサッカーしたりね、イタリアだけに。腰痛めたりとか(笑)。地元のイタリア人も飛び込み参加で、英語のできないイタリア人と、イタリア語のできないアメリカ人の間で、似非英語とインチキ伊語を操って通訳したり。楽しかったな。

しかし、同時に、こんな重量級の議論・濃密なディスカッションが連日立て続けでは、やる方もやられる方も身が持たない。そこで、飛び石にして、間に中堅どころの短い発表ばかりやる日を入れる。こうすることで、中堅も実力を発揮できる場が設けられる。聞くほうも目先が変わって気分転換になる。

こんな濃い一週間の後にはリフレッシュが必要だ。土曜日にはフィレンツェやアッシジなどに出かける。日曜日はゆっくり骨休め。とかいいながら、翌週の予習をしてたけど。

院生にも発表の場が与えられる。この三週間が始まる前日・前々日にPre-Conferenceというのがあり、そこで一人20分程度話すのである。

こういうのが三週間繰り返されるわけだ。大学の枠を超えて、研究者と学生の枠も超えて、ダイナミズムとリラックスの同居した合宿。むろん悪い点は幾らも挙げられるだろうが、私のような何もしていない日本人にそんなことを言う資格も権利もない。

ちなみに、参加費用は教授も院生もすべて自己負担で、報酬なし。自己負担といっても、欧米の場合は大学が負担してくれるわけですが(日本の場合はどうか分かりません)。

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特に私が注目したいのは、2004年に参加したときのこと。ディスカッションには一グループだけ、ドイツ語オンリーのグループがあった。日本人同様に外国語のできないアメリカ人だが、ヨーロッパ人に混じって、頑張ってドイツ語を話している人もいた。

これを日本のフランス哲学業界でやりたいのである。規模はもちろんもっと小さくなる。期間もずっと短くなる。けれど、コンセプトとしてはこんな感じのことを、日本で、基本的にフランス語ないし英語で、やりたい。

日本人とフランス人(英米系も)の大物若干、中堅・若手数名、院生二十数名くらいで、例えば夏の一週間、軽井沢あたりに合宿する。連日、フランス語ないし英語で哲学的な議論をする環境を作り出す。これが私の構想するCollegium Japanプロジェクトです。

むろんすぐ始めることはできない。十分な下準備が必要である。まずは、本場のコレギウムを日本人の有望な中堅・若手研究者・院生に発表者・チューター・聴講者として「体験」してきていただくプランを考えている。参加にはアメリカないしヨーロッパの教授二名の推薦書が必要です。そういうわけで、興味のある方は、私までご連絡ください。

文句ばかり言っていても始まらない。具体的に変えていくこと、ほんの少しずつでも。

Friday, March 02, 2007

近況

23日、最近韓国で発表してこられたojamoさんに韓国のベルクソニアンを紹介していただく。どうもありがとうございました。

24日、SAB(Société des Amis de Bergson)、要するに国際ベルクソン学会のcorrespondant étrangerになってくれないかとの打診。もちろん喜んでお引き受けする。

27日、ynさんより、ラクー=ラバルト逝去の報受ける。リールで一度一緒にご飯を食べたことがあったっけ。今はただ、ご冥福をお祈りします。


Les vendredis de la philosophie
vendredi 2 mars 2007 La grammaire politique d'Antonio Negri, avec lui-meme
vendredi 16 mars 2007 Philippe Lacoue-Labarthe
となっています。放送後、一週間はネット上で聞けますし、Podcastも可能です。 念のため、リベラシオン紙掲載のナンシーの追悼文も転送しておきます。では失礼します。

もう一本、深く静かに進行中の企画について、あまり良くないメールをいただく。院生を適当に並べてお茶を濁す、だって!?どうすれば志は理解されるのか?粘り強く、粘り強く。

28日、ようやく「呼びかけ」論文校正提出。できるかぎりレベルを上げようと悪戦苦闘。限られた時間の中でやれることはかなりやったと思うが、あまり満足していない。

遅れに遅れて、今日から「ベルクソンの手」改稿に本格的に取り掛かる。しばらく前から技術論関係の本を読んでいるのだが、まだ新しいアイデアを思いつくまでには至っていない。

例のトゥールーズ遠征、なんとヴィデオ撮影されるらしい。カナル・フィロでオンライン化されるかも、という話。乗り気ではないが、許可した。日本の哲学者がフランスでどんな風に戦っているか、日本でも見られるようになる。少しでも〈時代状況の閉塞〉を変えていければと思ってのこと。笑いたい奴は笑え。

語学能力か哲学能力か、などとありもしない不毛な二者択一で自分の怠惰を誤魔化すのは、いい加減やめるべきだ。両方必要に決まってるじゃないか。

Friday, February 23, 2007

近況(ゼミでやるべき三つのこと)

2月17-18日 合宿飛び込み参加。しゃべりまくって疲れる。自分としては一応「恩返し」のつもりなのだが、理解されているかどうか。まあ、「呼びかけ」はなされた。あとは、呼びかけられた人が気づくかどうかだが、こればかりはね。

ちなみに、その場で言ったことだが、ゼミなどでやるべきこと、ゼミの効用は三つある。一つは、発表そのものに関わることで、自分の考えを整理して発表をし、他人のコメントをもらうこと、あるいは他人の発表を聞くことだ。そのとき、ただ漫然と聴かずに、自分だったらどうするか、どこをどう直してあげるとさらにいい発表になるのかを考えながら聴くといい。

二つ目は、先生(方)、他の学生たちのコメントの仕方を観察すること。発表に対してコメントをするというのも一つの重要な技術であり、立派な教育だ。彼らはその発表をどんな風に良くしてあげようとしているのか、に注意しながら聴く。全体の構造をきちんと把握できている的確なコメントは、偉大な指揮者のinterprétationに似て心地よい。うまいinterventionをできる人を観察して「技を盗む」こと。

三つ目は、その盗んだ技を自分自身試してみること、つまり失敗を恐れず積極果敢に質問してみることだ。むろん、質問したいこともないのに質問するのは、百害あって一利なし。奮うべき蛮勇と、単なる野蛮の違いを知るべし。


2月19日 大学紀要論文校正。28日最終締め切りだそうなので、もう少しだけ手を入れるつもり。

2月21日 友人宅で集まって発表三本、そのうち一人が私。「隠喩」論文を二十分程度、レジュメのみ原稿なしで喋った。評判は上々だが、「ベルクソンの隠喩論はデリダの先駆者」という言葉に困ってしまう。それを乗り越えないと凡百の研究と同じになる。なぜならベルクソンにデリダを見てしまうのは、私の凡庸な隠喩理解のしからしめるところだからだ。終わった後は楽しく鍋パーティ。詩の暗誦大会、続けたいな。

したがって、この十日間でやるべきこと。
大・「ベルクソンの手」英語論文バージョンアップ(三月上旬まで)。技術論関係読み直し。
中・身体論進める。
中・「呼びかけ」論文最終直し(28日提出)。
小・「隠喩」論文準備進める。

Wednesday, February 14, 2007

正和ではなく不和を!(中教審新会長選任)

《哲学は誰も救済せず、誰も哲学に救済を求めない。たとえ政治家、法律家、医者、その他あらゆる職能集団が審議会を開く際に、考えること一般の専門家として哲学者を招聘する習慣が、社会的要求に合わせた諸規則によって制度化されているとしても。この招聘が、何らかの思想的成果を挙げるためには、この出会いによって不和(mésentente)の点が特定されなければならない。》(ジャック・ランシエール、『不和あるいは了解なき了解 政治の哲学は可能か』、松葉祥一+大森秀臣+藤江成夫訳、インスクリプト、2005年)

わが国に哲学教授ではなく哲学者はいるのか?哲学科ではなく哲学はあるのか?もっとはっきり響く哲学の声を!

中教審総会 評論家の山崎正和氏を会長に選任
2月7日9時50分配信 毎日新聞

 1日付で任命された第4期中央教育審議会の総会が6日、東京都内のホテルで開かれ、委員の互選により、評論家の山崎正和氏(72)が会長に選任された。中教審は山崎新会長のもと、安倍晋三首相が今国会の成立を目指している学校教育法、地方教育行政法など教育関連3法に関する審議を行う。

 伊吹文明文部科学相は教育関連3法の改正に向け、「国会の都合を申しあげると恐縮だが、できれば2月中か3月早々にまとめていただきたい」とスピード審議を求めた。これを受け、山崎会長は「大臣のみならず内閣からの諮問なので、精力的に間に合うように議論していきたい」とあいさつした。

 各委員のあいさつでは、教育再生会議の教育委員会改革の方向性について、石井正弘・岡山県知事が「(地方が)独自性を発揮できる改革にしてもらいたい」などと批判した。【高山純二】

◇「改正」から制度設計へ=解説

 中央教育審議会の会長が6年ぶりに交代し、評論家の山崎正和氏が就任した。前会長の鳥居泰彦・文科省顧問の3期6年は教育基本法の「改正シフト」とも呼ばれ、与党・自民党の悲願とされた同法改正を受けて役割を終えた。第4期中教審をリードする山崎氏は、同法改正後の具体的な制度設計を担う。

 安倍晋三首相は教育再生を最重要課題に掲げ、今国会で学校教育法など教育関連3法案の成立を目指している。しかし国会優先の強行日程に、文科省からも「改正案の提出はできる。ただし中身は保証できない」との声が漏れる。

 政治主導の教育改革が進む中、山崎新会長と第4期委員はどのような姿勢で臨むのか。1月30日の第3期最後の総会で、委員から「中教審の役割は教育の政治的な中立性を確保することだ」と指摘する声が挙がった。審議の継続性を求める意見も出ている。

 中教審は今、存在意義と位置づけが問われている。文部科学省組織令では中教審の役割として、「文部科学大臣または関係行政機関の長に意見を述べること」と明記されている。

 まず政府や国会審議、教育再生会議と一定の距離を保ち、文科相らと対等の立場に立って、大所高所からの意見が求められる。また、各委員は、教育現場の主役である子どもや保護者、教員の声に耳を傾けてほしい。永田町だけに目を向けて、間違っても「拙速」に加担してはならない。【高山純二】

Tuesday, February 13, 2007

カタカナコトバ(思想書翻訳における)

大したことではないのだが折にふれて思うことというのがあって、その一つに、

「思想系の翻訳書でカタカナ表記をするというのは一体どういうことなのか」

というのがある。話を分かりやすくするために、私の知る限り最も過剰な例を挙げておこう。渡邊二郎氏の手になるハイデッガー『「ヒューマニズム」について』(ちくま学芸文庫、1997年)である。

すぐに言い添えておくが、この「非難」は訳文に関するものではないし、個人攻撃が目的でもない。さらに言っておけば、翻訳能力とは一切関係ない。この例を挙げるのは、ひとえにその過剰さが問題の本質をはっきりと浮き立たせてくれるものであるからに他ならない。
《サルトルは次のように言明している。すなわち、プレシゼマン・ヌー・ソンム・シュール・アン・プラン・ウー・イリヤ・スルマン・デ・ゾンム〔正確ニハ、私タチハ、タダ人間タチノミガイルヨウナ平面ノ上ニイル〕、と(『実存主義ハヒューマニズムデアル』三六頁)。右の命題に代えて、『存在と時間』のほうから思索されるならば、次のように言い述べられねばならないであろう。すなわち、プレシゼマン・ヌー・ソンム・シュール・アン・プラン・ウー・イリヤ・プランシパルマン・レートル〔正確ニハ、私タチハ、原理的ニハ存在ガ与エラレテイルヨウナ平面ノ上ニイル〕、と。》(66頁)

「il y aは、《es gibt》を不正確にしか翻訳していない」という一節がこの後に続く重要な箇所であるが、率直に言って私にはフランス語の部分がカタカナ表記される意味が理解できない。

非フランス語使用者にとって、この部分はアルファベットで記されようが、カタカナで記されようが、同じように目障りである。フランス語使用者にとって、カタカナでフランス語を読むことに肯定的な意味があるとも思えない。したがって、訳文だけを記すか、アルファベット表記するか、のいずれかが望ましいと思われる。

*

以上は文章に関する、しかも極端な例なので、異論はそれほどないと思うが、概念や固有名の場合はどうであろうか?

これはケース・バイ・ケースだろう。例えば、「エンテレケイア」「コナトゥス」「エラン・ヴィタル」ならカタカナ表記でもいい気がするし、「プラトン」「デカルト」「カント」を必ずアルファベット表記せよ、というのもたしかに馬鹿げている。よく知られたものに関しては従来どおりカタカナ表記でよいと思う。

しかし、新造語、のみならず、あまり知られていない固有名(人物名・地名)、従来とは異なる用法で強調して用いられている語などに関しては、それらがアカデミックな文脈において有用であると判断される限りにおいて、訳語とともにカタカナでなくアルファベット表記されるべきであると考える。

これに関しては、折衷的な解決策もありうる。訳語の横にカタカナ表記のルビを振る、という手である。たしかに、翻訳書の種類、読者層によっては、この解決策のほうがより効果的である場合もあろうことは否定しない。

*

なぜこんな些細な問題をつらつら考えるかというと、まずは自分自身の実感から来ている。

私自身、ドイツ語にそれほど習熟していないので、カタカナ表記されたドイツ語の語彙・概念をよりよく知ろうとして辞書を引いても、すぐにその言葉にたどり着けないことがある。そんなとき、「ああ、アルファベットで書いていてくれたら」と思ってしまうのである。

このことを友人に話すと、「そんな奇特な人間はほとんどいないのだから、そんな人のことを考慮に入れて翻訳などしていられない」と言われてしまう。それも分からないではない。原文挿入ならアルファベット、原語挿入ならカタカナルビ、啓蒙書ならそもそも挿入なし、という原則でも良さそうな気もする。

しかしまた、翻訳はアマからプロになろうとする者の熱意を拒むものであってはならないのではないか、とも思う。カタカナ表記とは、アルファベットの異質さを隠蔽する似非民主主義的な折衷主義にすぎないのではないか、とも。

ハイデガーやデリダの文章のように、明らかに原文・原語で読むことを強いる文章というものがある。その場合、カタカナ表記で表層的に「読める」ものにしてしまうことは、本来その哲学が目指しているもの自体を損なっていはしないか。

結局、「学術書の翻訳はいったい誰のためのものか」、あるいは「アカデミックな学術書として翻訳する(あるいはしない)とはどういうことか」ということを考えてしまう。

一般に翻訳は「非専門家」ないし「非学者」のためのものであるが、しかしまた、学者が時間の節約のために翻訳書で済ますということも往々にしてある。学術書の翻訳はまさに学者のためと言えそうだが、しかしまた学術書を(啓蒙書とのグレーゾーンにある著作ならなおさら)いかにアカデミックに訳さないか、平明に砕いて訳すか、なるべくアルファベットを登場させず読者を萎縮・倦怠させないか、ということもまた、一つのポリティクスでありうる。

*

いずれにしても常に立ち戻るべきは、はじめて補助輪なしの自転車に乗れたときの喜び、かな。翻訳は、その喜びに至る手助けでなくてはならないのでしょう。

Friday, February 09, 2007

隠喩の退引(原語挿入、誤訳情報ページ)

締め切りが十日延びたので、思い切って「人格性」論文を解体し、本格的に組み立てなおすことにした。

焦眉の点は、長い序論―25頁中14頁。三回分載計75頁の序論だから、実はこれまでの私の基準からすると、それほど長くはないつもりだったのだが―をどの程度「隠喩」論文にもっていくか。しかしそうすると、逆に、「隠喩」論文の全体が見えないと「手術」にかかれない。

というわけで、以前からちらちら目を通していた隠喩論関係の本をふたたび読み始める。

『現代思想』1987年5月号「特集 メタファーの修辞学、意味の規則」。デリダとデイヴィッドソン、ある意味で二つの極を代表する隠喩論が日本語で読めるのは貴重である。デイヴィッドソンに関しては、畏友ssさんの文献解説もどうぞ。

それにしても、デリダの「隠喩の退-引」の翻訳(前半のみ。後半は翌月号に分載)は問題だ。翻訳の質が問題なのではなく、原語の挿入が甚だしいのである。

フランス現代思想を読んで思想形成を行なったので、私は原語の挿入には相当寛大なつもりだ。その私が言うのだから、かなりのものである。デリダの最終頁とデイヴィッドソンの冒頭を比較してみよう。緑の部分が原語挿入である(下の写真をクリックすると、拡大して読めるはずだ)。



デリダのほうの下段は、訳者付記なので、原語挿入はまだ他の頁より少ないくらいである。たしかに、難解な文を書き、複雑なレトリックを駆使することで有名なデリダのほかならぬレトリック論、隠喩論なので、デリダの「言葉遊び」がひどくなるであろうことは予想がつくし、訳者の苦労もひとかたならぬものがあろうとは思う。

だが、ハイデガーの反響を読み取ろうとして、デリダの原テクストにはないドイツ語を挿入するに至っては明らかにやりすぎであろう。しかも、訳注やルビを用いず原語挿入を選ぶという訳し方について説明するはずの「訳者付記その1」の書き方が、何と言えばいいのか、中途半端に思わせぶりで、いい加減にペダンティックなのである。要するに、ありもしない深みを匂わせようとして、こけている感じなのだ。「訳注」や「ルビ」について思うところがあるのなら、単純明快にそれを論じればいいではないか。
蛇足とは思うが訳者の理解した限りで以下に、議論の展開の跡を追い、あるいは通読に困難を感じられる読者の一助としていただくことで訳者としての務めを果たしたいと考える。(「デイビッドソン・メタファー論への註解」、上掲、68頁)
デイヴィッドソンの訳者・高藤(たかとう)直樹さんのこのような姿勢のほうがよほど「健全」に知的だと思うが、如何?

*

ちなみに、上のデリダの件とは無関係だが、私があれやこれやの翻訳に注文を付けると「大した翻訳力もないくせに」という人がいる。しかし、それはちょっと筋が違うのではないか。

私に翻訳力があるかないかということと、いい翻訳を見分ける力があるかないかということは別である。問題が的確に指摘されているなら、それは批判であって非難ではない。

たしかに一般的に、文句をつけるのは容易い。それは、すでに数年前に「海の広さとerrata」(2000年12月26日の項)で述べたとおりである。また、たしかに誤訳をあげつらうのはいい趣味とは言えない。

が、また同時に、現在の学術出版の苦境に(少なくとも部分的には)由来する《誤訳の放置》という由々しい現状はどうするつもりなのか?

「出版社に誤訳を指摘した手紙を送ればいいんです。再版のときに直すでしょう」。なるほど、しかしそれは、もし再版されればの話である。それまで、読者はどうすればいいのか?出版社や訳者のproduct liabilityはないのか?

せっかく各出版社がHPを持つようになったのだから、それぞれの翻訳出版物に関して、誤訳情報ページを作ればいいのではないか。スレッド&チャート方式で、頁・行・誤訳のポイント(簡潔に)を読者に書き込んでもらうのである。これなら、忙しい編集者の手を煩わせない。もちろん定期的に訳者がチェックし(忙しいというなら、年に一回でもいい)、「たしかにこれは直したほうがいい」という指摘だけを「確定事項」にして、ページに残していく。

こうすれば、出版社としては、自社のPL精神をアピールできる。読者は、いつ来るか分からない再版を待たずとも、小規模の「バージョンアップ」を行なえる。パソコンのソフトであれば、小規模の(限定的)バージョンアップは無料で、大規模な(本格的)グレードアップは有料で、といった考え方が一定程度理解されていると思うのだが。要は、多少の誤訳は「セキュリティ・ホール」と考えて、無償で、早急に、対策を講じる、というスタンスだ。

これまで誤訳というもののあり方についてきちんと考えた人はいるのだろうか?どなたか面白い「誤訳論」をご存知の方はお教えください。

Thursday, February 08, 2007

百年の大計ではないのか(教育再生会議第一次報告)

今日は一日中「人格性」論文の直し。少しでも深く。苦手中の苦手なのだが、適切に深く。締め切りが十日ほど延びた。嬉しいやら、不安やら。

春のベル哲研(第21回)のお知らせ、hmさんどうもありがとう。困った、重なってる。他の人もいろんな情報お待ちしてます。

*

私がゆとり教育の反対者のように見えたとすれば、それは誤解である。「ゆとり教育」は必要な改革過程であったと思っている。ただ、親にも、何よりもまず親にこそ、ゆとりが与えられるべきであり、親が自覚的にゆとりを求めて闘うべきであったと思っているのである。

「ゆとり教育」の“戦犯”(Web現代、2003年10月22日)
論旨が読み取りづらいが、
マニュアル世代が多数を占めるようになってきた官僚・教員たちにこそ小・中学時代に「ゆとり教育」が必要だったのである。

そのとおりである。しかし、付け加えさせてもらおう。 数十年来の「会社至上主義」「仕事人間大量生産」によって、家庭で子供を育てていく力が衰えてはいないか。土日が休みとなると、親たちは子供を塾や習い事に通わせることで安心しようとしてはいないか。家庭が教育を学校に任せすぎるようになったとすれば、それはなぜか。マニュアル世代が多数を占めるようになってきた子どもの親世代にもまた、小・中学時代に「ゆとり教育」が、ただし親や地域共同体自身がゆとりをもって子どもの教育に参加できるような「ゆとり教育」が必要だったのである。たしかに、子どもは教師に教えられて育つものだ。しかしまた、子どもは親の背中を見て育つものでもある。


[教育再生報告] 百年の大計でないのか
『南日本新聞』、2007年1月27日付社説

 政府の教育再生会議が第1次報告を決定した。これを受け、安倍晋三首相は通常国会に教員免許法改正案など関連3法案を提出する方針を示すとともに「教育再生国会にしていきたい」と表明した。
 報告には、ゆとり教育見直しに伴う授業時間数増、教員免許更新制、教育委員会改革などさまざまな処方せんが並ぶ。だが、これまでの教育のどこがどう問題だったのかが見えてこない。
 肝心の現状分析が欠落したまま処方せんを並べても、説得力に欠ける。
「50年先、100年先を見据えた議論もしてまいりたい」(首相)というなら、腰を据えて取り組むべきだ。急ぐ背景には教育再生で政権浮揚のきっかけをつかもうという思惑が見え隠れする。夏の参院選に備える動きととられても仕方あるまい。
 問題はまず、ゆとり教育見直しとして掲げた授業時間数の10%増だ。「すべての子どもに高い学力を」という首相の意向をくんで盛り込まれたに違いない。だが、子どもたちの学力のどこにどんな問題があり、授業時間数という処方せんにたどりついたのか、判然としない。
 ゆとり教育については、文部科学省や中央教育審議会は「趣旨は間違っていないが、手だてに問題があった」として、学習指導要領の見直し作業を積み上げているところだ。どんな学力を目指すのか、十分な論議もないまま、政治の力で横やりを入れるやり方は乱暴すぎる。
 授業時間数を増やすことと学力との相関関係が実証されていないことは、文科省も認めている。それどころか、学力世界一といわれるフィンランドの授業時間数は、日本よりはるかに少ない。
 2003年の公立小中学校授業時間数は、日本の9歳から11歳が年間709時間に対してフィンランドは654時間、12歳から14歳が817時間に対し796時間となっている。
 また、報告は基礎・基本の反復・徹底など指導方法にまで言及しているが、これらは学校が子どもの状況に応じて判断すべき事柄であり、官邸が口を出す問題ではない。
かつての画一教育に戻そうというつもりなのか。
 ゆとり教育見直しなどいったん消えかかったテーマが、報告に次々と復活したのは「先送り、先送りでは首相の指導力が見えないということになる」という官邸の意向だったという。教育は政治の道具でなく、子どもや国民のためにあることを忘れてはならない。

Wednesday, February 07, 2007

近況

とうとう『物質と記憶』の新訳が出た。合田正人さんと松本力さんの訳。『試論』の新訳が出たのが2002年だから五年ぶりになる。どんな仕上がりになっているか楽しみだ。


文庫化されるというのは本当に大切なことだ。

最近の仕事。十二月末に目的論に関する論文を学会誌に投稿した。結果待ち。同じく十二月末、カッシーラー論文の校正現状報告受ける。『ベルクソン年鑑』第三巻は、今年春刊行予定とのこと。「時間がないので校正刷りを送らない」って。。『二源泉』における呼びかけと人格性に関する大学紀要論文の査読結果を受け取る。受諾とのこと。
今後の予定。
1)二月上旬、某ゼミにて博論の『試論』に関する部分の構成について発表させてもらう。昨日終わったが、まだまだ全然駄目だ。
2)二月中旬、大学紀要論文の直し。まだまだレベルアップの必要あり。および、某合宿飛び込み参加で『物質と記憶』について発表させてもらう。
3)二月下旬、「ベルクソンの手」を全面改稿し、英訳する。例の英語雑誌への投稿のため。
4)三月上旬、昨秋の仏文学会で発表した「催眠」論文の提出。
5)三月中旬、今春の仏文学会の要約締め切り。全体のプランだけでもまとめないと。
6)三月下旬、トゥールーズ篇の発表、すでに出来上がっているので、練り直しに取り掛かる。
「研究のストックを総ざらいしたいという気持ちはわかるが、論文のエレガンス(文章美学)にとっては、いかに言わずに我慢するかも重要なポイント」という指摘は、今の私にとって最も重要なもの。単なる書誌情報マニアにならず、散漫なエッセイ風にもならず、といって手堅いだけが売りの論文でもなく。面白い思いつきにとどまらず、それをどこまで具体化し、不要な部分を容赦なく切り捨てていけるか。自分のレベルをどれだけ上げていけるか、「鳴り渡る今この時が重大なのである」。

Tuesday, February 06, 2007

蛍雪(マラルメ斜め読み・2)

博論を書く傍ら、マラルメを読み、ドゥルーズを読む。友人との読書会や知り合いの先生のゼミに顔を出していたらお鉢が回ってきてしまったのである。しかし、これも何かの縁だろう。一人だとまず読まないものを読み、斜め読みしかしてこなかったものを多少詳しく読み直す機会を与えられたのだから、感謝している。

しかし、赤ん坊が泣くと思考が妨げられる。泣いても読める本を読み(柏倉康夫、『マラルメ探し』、青土社、1992年。読みやすい)、暇つぶしにブログを書く。これじゃ以前と変わらない。

*

難解、晦渋、孤高の詩人、特異な言語観、『骰子一擲』において到達した独自の《書物》概念、などのイメージがあるマラルメ。先に読んでもらった「芸術の異端、萬人のための芸術」は、若者の傲慢で実態のない単なる強がりと嗤うこともできる。ロマン主義から派生した高踏派の典型、そう文学史的にくくることもできるかもしれない。

五歳で母を失い、妹とともに外祖父母のもとで育てられたが、十五歳でその妹も失い、父は時を同じくして脳を患って病床についた。三年後、大学入学試験に通ったものの、進学を諦め、公証人事務所の臨時雇いとして働き始める。二十歳のことである。彼には詩があった。詩しかなかったというべきか。

『悪の華』に深く感動し、ボードレールを介してポーの虜となったマラルメにとって、ポーをよりよく理解し訳したい、英語に磨きをかけ、将来英語教師となって、その傍らに文学をやりたい、という気持ちは半端なものではなかった。

登記所管理官を長く務めた祖父の意見も頷けるものである。せっかく得た安定した仕事を捨てて、なぜ不安定な道を好んで選ぶのか。英語教師となるにはマラルメの英語の知識は初歩のものでしかないこと、「リセにおける現代語の授業は、お前が考えるほど魅力のあるものではなく、ごく初歩的なものだ。文法の域を出ず、文学的な意義などありはしない」こと、そのうえ収入も低く、のべつ話していなければならず大変疲れるので、丈夫とはいえないマラルメには向かない、というのが反対理由であった。

だが、マラルメの決意もまた固かった。祖父母の同意を得られないまま、1862年2月、二十歳のマラルメは個人教授について英語の勉強を開始する。

「週に五日、木曜日を除いて一日一時間の授業で、作文、仏文への翻訳、文法、会話を習い、宿題も多かった。公証人事務所での仕事は、もちろんそのまま続けていた。その上で、これらの個人授業も受けたのである。」(柏倉、上掲、78頁)

そして1862年11月、すなわち勉強開始の9ヵ月後、職業からの逃避、恋の逃避行をも兼ねたロンドン行きを決行する。後年、俗に「自叙伝」と呼ばれるヴェルレーヌ宛書簡で、当時を回顧してマラルメは次のように述べる。

「単にポーをもっとよく読もうとして英語を学んだ私は、二十歳のときイギリスへ旅立ちました。主として遁れ去るためでしたが、その一方、この国語を話せるようになって、これを学校で教えて世の片隅で生活し、他の糊口の手段を強いられるのを免れるためでもありました。私は結婚していたので、それは差し迫っていました。」

二十歳のマラルメが1862年9月に発表した「芸術の異端、萬人のための芸術」を読むとき、例えば以上のような状況を頭に入れて読むのと読まないのとでは、意味がぜんぜん違ってくる。

繰り返せば、若者の傲慢で内実の伴わない単なる強がりかもしれない。ロマン主義から派生した高踏派の典型、そう文学史的にくくることも間違いではないだろう。だが同時に、詩しかなかった八方破れの青年にとって、平凡ながらも幸せを手に入れた人々が「ついでに」「ちょっとした(偽善的な)好奇心で」詩集を購入し、気晴らしに詩を口ずさんだり批評家を気取ってくさしたりするのを見るのは憤懣やるかたないことだったに違いない。

現在、私たちはルサンチマンを胸に腐るマラルメも、努力するマラルメすらも、思い浮かべない。志ん生と精進もそうだが、マラルメと努力という言葉ほど一見懸け離れたものはない。そして、それは彼らの栄誉である。

*

言うまでもなく、私は自分の怠惰を弁護しているのである(笑)。

Saturday, February 03, 2007

「偽善的な好奇心…」(マラルメ斜め読み・1)

例えばこんな文章を読むと、どんな感想を持つだろうか。読後感をしばし省察しておいてもらいたい。マラルメ二十歳の詩論である。

《すべて聖なるもの、聖たらんと欲するものは、うちに神秘を含んでいる。宗教は選ばれた者にだけ神秘をあらわす。音楽がその一例を我々に提供する。

…こうした不可欠の性質が、なぜ唯一つの芸術、しかも最も偉大な芸術には拒まれているのかと私はしばしば自問した。それは偽善的な好奇心をもつ人々に対し、何らの神秘も持たず、無信仰な人々に何の恐怖をも抱かせない。何らなすところなく、無知な者、敵対する者の微笑や渋面のもとに晒されている。私は詩のことを言っているのだ。

…ずぶの初心者が土足でずかずかと傑作の中に入り込んでくる。そして、この闖入者たちといえば、覚えたばかりのアルファベットの一頁を、まるで入場券よろしく手にしているのだ!ああ、もの古りし祈祷書の黄金の留め金よ、パピルスの巻物の神聖な形象文字よ!

…ひとは民主主義者となりうる。だが、芸術家は二重人格なのであり、貴族としてとどまらねばならぬ。しかし、我々の眼に映るのは、およそ正反対のことだ。人々は詩人の著作の廉価版をつくって増刷する。しかも、それが詩人の同意と満足を得て行われるのだ。だが、貴方はそれで栄光を得られると信じているのか、夢見る人よ、抒情の人よ。大衆が安売りで貴方の本を買ったとして、彼らはそれを理解するだろうか。

…鳴り渡る今この時が重大なのである。教育は人々のあいだで行われ、さまざまの偉大な教義は普及していくだろう。それは一つの大衆化だが、あくまで富の大衆化ではあっても、芸術のそれではない。

…大衆が教訓譚は読んでも、後生だから、彼らに我々の詩を味わわせてはならない。詩人たちよ、貴方がたはこれまで常に誇り高くあった。そしてこれからもさらに尊大であれ!》(「芸術の異端、萬人のための芸術」)

Tuesday, January 30, 2007

ユースから一歩ずつ階段を上がる(エリート教育の問題・補遺)

たぶん気づかれたと思うが、ブログの装いが幾つか変わった。これには、この数ヶ月来進められているBloggerというブログ運営会社とグーグルの提携強化、それによるブログの性能向上が関係している。

性能強化の一つとして、日本のブログではすでに当たり前のものとなっていたラベリングが可能になった。こうなってくると、四つも五つも別名のブログをもっている意味もないようなものだが(今回のように主題がクロスオーバーすることもしばしばあるし)、当面は各ブログの方針を従来どおり維持していくつもりである。

引き続き他のブログ(profileから入る)もご愛顧のほどを。hf


「エリート教育」の問題について述べたとき、最後にサッカーの関連記事を付していたが、気づかれただろうか。Mundusのことだけではない。私たちは他領域を参照しつつ、教育の問題、制度の問題をもっと具体的に考えていくことができる。

(ちなみに、今期のテレビドイツ語会話では、昨年のサッカーW杯まで技術委員会のトップだった田嶋幸三JFA専務理事、つまり日本サッカー教育界のドンがインタヴューされ、ドイツ語で話していた。

アラビア語会話は会話向きの講師を発掘し、ナビゲーターに落語家を起用して素晴らしい効果をあげている。フランス語会話の製作陣もそろそろ抜本的な改革を真剣に模索しないと、今のままでは駄目だ。

田嶋氏については、宇都宮徹壱氏のいつもながら冴え渡るエッセイ「“総括”で隠されたもの。第5回フットボールカンファレンスより」(2007年1月10日)も参照のこと。そのうえで、私の「スシボンバーの憂鬱」(2004年10月20日)を読んでもらうと、拙いなりに私が何を言いたいのかがわかってもらえるかもしれない。)

梅崎の武器は“NOVA仕込み”の仏語
2007年1月29日(月) 10時56分 デイリースポーツ

 大分からフランス2部リーグのグルノーブルに期限付きで移籍するMF梅崎司(19)が28日、成田空港を出発した。U-20日本代表のエースは、31日の入団会見に備えて、語学学校のNOVAに10日間通学。覚えたてのフランス語を駆使して、チームメートのハートをつかむ。

 フランス入国を前に、梅崎は大分で“駅前留学”を済ませた。先に入団したFW伊藤翔(中京大中京高)から「待ってます」と言われて不安は多少和らいだが「言葉の壁が一番。積極的に話をしていきたい」。通訳をつけない裸一貫での移籍だけに、まずはコミュニケーションを図る作戦だ。

 「海外のビッグクラブでプレーしたい。まずはグルノーブルで結果を出す。日本の魂を見せ、一部に引き上げる」。現在、リーグで20クラブ中8位のチームを押し上げた先には、夢見るスペインでのプレーが見えてくるかもしれない。


将来性が海外挑戦の鍵に 森本、はい上がって活躍

 18歳8カ月、森本のセリエAデビューは衝撃的だった。後半39分から少ない時間でチャンスを生かし、鮮烈な同点ゴール。試合後はイタリア人記者に囲まれ「びっくりした。(頭の中が)真っ白になった」と喜んだ。

 引退した中田英以来となるデビュー戦での得点。だが、日本代表で不動の地位を築いていた中田英とは違い、森本にフル代表歴はなく、10代で海を渡った。カターニアのユースで活躍し、はい上がって欧州屈指の舞台で出場機会をたぐり寄せた。

 マリーノ監督は「彼は伸びている最中。特に体の強さが成長している」と目を細める。プルビレンティ会長も「若くて質が高い。この得点を一生の思い出にしないと」。周囲の目は温かく、森本は純粋に才能と将来性を見込まれている。

 森本が所属するマネジメント事務所のモラーナ氏は「今の日本で中田英のように欧州で十分に活躍できる選手を探すのは難しい。クラブは若い内に体力と戦術両面を鍛える必要を感じている」と話す。ジャパンマネー目当てではなく、戦力に育ちそうな逸材を探すクラブが、日本にも関心を示している。

 かつてオランダでプレーした平山や、このオフにフランスに渡った伊藤や梅崎など、若くして海外に挑戦する例は増えている。こうした傾向が今後も続くかもしれない。(共同)(了) [ 共同通信社 2007年1月29日 17:00 ]


新しい挑戦の道切り開く デビュー戦ゴールの森本

 セリエAに初出場した森本がいきなりゴール。名前の発音が似ているためにサポーターから「マレモート(イタリア語で津波の意味)」と呼ばれる18歳の日本人が、愛称に負けない衝撃的なデビューを飾った。

 主軸FWが出場停止で得たベンチ入りの機会だった。これまでは控えのまま投入されない試合が続いたが、そのたびに「焦りはない。いつでも準備はできている」と話していた森本に、ようやく晴れ舞台が訪れた。

 0-1の後半39分にピッチに立つと、まずは巧みなポストプレーで試合の流れに入った。ユースの試合では活躍を続けているだけに「試合勘は忘れていなかった」と落ち着いていた。

 試合終了間際にゴール前のスペースに忍び込むと、右斜めからのクロスを左足でトラップし、複数の相手DFと交錯しながら右隅へ決めた。「頭が真っ白になった」と驚きと喜びの混ざった表情。チームの仲間にもみくちゃにされながら祝福された。

 これまでセリエAに挑戦した日本人は、フル代表として活躍した実績を引っ提げていた。だが森本は若くして本場へ移り、ユースから一歩ずつ階段を上るという新しい道を切り開いている。マリーノ監督は「無理なく自然に成長している」と、将来が楽しみな日本の若手に目を細めた。(ベルガモ共同)(了) [ 共同通信社 2007年1月29日 9:51 ]


森本がセリエA鮮烈デビュー=日本人最年少出場とゴールをマーク-伊サッカー

 【ロンドン28日時事】サッカーのイタリア1部リーグ(セリエA)で、カターニアのFW森本貴幸は28日、イタリアのベルガモで行われたアタランタ戦で後半39分からセリエA初出場を果たし、同43分に初ゴールを挙げる鮮烈デビューを飾った。18歳8カ月でのセリエAデビューと得点は日本人選手最年少。ゴールは貴重な同点弾となり、カターニアは1-1で引き分けた。

 欧州の主要リーグで、デビュー戦で得点をマークした日本人選手はMF中田英寿(1998年、ペルージャ)、FW大久保嘉人(2005年、マジョルカ)、FW平山相太(05年、ヘラクレス)に続いて4人目。

 森本は88年5月生まれ。Jリーグ時代にも15歳だった04年に、当時J1東京Vでリーグ最年少出場、最年少得点を果たした。昨年7月に期限付き移籍でカターニアに加入した。北京五輪世代の1人としても期待されている。  [ 時事通信 2007年1月29日 9:31 ]

Thursday, January 25, 2007

ベント・プラドJr.逝去


ベント・プラドJr.が亡くなった。私が『ベルクソン読本』の「世界におけるベルクソン研究の動向」で特筆していた人物の一人である。これで日本にお呼びすることが永遠に叶わなくなった。享年69歳。

今年の十二月にはサン・パウロでも『創造的進化』百周年ブラジル版が予定されており、彼が主催者の一人として名を連ねていた(実質的な責任者であった)だけに、さぞ無念であったろう。ようやくフランスでも彼の仕事が認知されつつあったというのに。

せめてもの手向けに、FAPESP(Fundação de Amparo à Pesquisa do Estado de São Paulo サンパウロ州研究支援財団?)の「おくやみ」を生齧りのポルトガル語から翻訳しておく(したがって正確さは保証のかぎりではありません)。

日本でもせめてベルクソン研究の文脈において彼の業績がきちんと導入され吸収・消化されることを祈ってやまない。

*

ベント・プラドJr.逝去、享年69歳

FAPESP通信 哲学者のベント・プラドJr.氏が1月12日金曜日の午前1時ごろ、サンカルロスの病院で亡くなった。享年69歳。ブラジルの哲学界を代表する人物の一人であった氏は、サンカルロス連邦大学(UFSCar)の哲学・科学方法論科で教鞭をとっていた。

UFSCarの発表によると、死因は喉頭がんの悪化による心肺機能停止。埋葬は同日、サンカルロスの墓地にて執り行われた。

UFSCar哲学科長 José Eduardo Marques Baioni 氏は、プラド氏をブラジルにおける哲学研究の構築における主要人物の一人であり、「哲学、文学、芸術の間のきわめて興味深い境界領域を、卓越した手腕をもって探求していた、偉大な著述家」であった、と語っている。

ベント・プラドJr.の哲学への最も偉大な寄与の一つは、フランスの哲学者アンリ・ベルクソンに関する業績である。1965年に諮問を経た彼の博士論文『現前と超越論的領野。ベルクソン哲学における意識と否定性』は、今もこの主題に関する国際的なレフェランスであり続けている[そのとおりである!]。本書は2002年に翻訳され、フランスで出版された。

「ベルクソンをめぐるあらゆる研究は、サルトルやメルロ=ポンティを含む二十世紀のフランス現象学についての研究同様、ベント・プラドの諸研究との対話を続けることを必要とする」とバイオニは語っている。

サンパウロのJaúで生まれた Bento Prado de Almeida Ferraz Júnior は、1961年から1969年までサンパウロ大学で教鞭をとっていたが、軍事独裁政権が倒れ、大統領令によって大学から追放された。同法令によってCaio Prado Júnior、Octavio IanniやFernando Henrique Cardosoなど23人の教員が退職を余儀なくされた。1998年に、USPの名誉教授号を得た。

1970年から1974年まで、プラドは、フランス国立科学研究センター(CNRS)の研究者としてポストドクター職を得た。1977年にUFSCarに入る。

なによりもまず教育者

最近、プラドは、20世紀のフランス現象学とアングロサクソンの分析哲学が共通の根を持ち、繋がりを保ち続けていることを示す研究を展開していた。

「2006年の最後まで彼は授業を続け、大学院の学生を指導し続けていた。2007年度に予定されている哲学科の学部の授業の編成を主に担当するなど、最後までUFSCarに重要な遺産を残した」とバイオニは語る。

「ベント・プラドのおかげで、私は教育的で啓発的な哲学研究というものが存在するという感覚を学びました。したがって彼のおかげで私は、学生と知の間に先生がしゃしゃり出てこない場合に哲学教育というものがあるということを学んだのです[…]。学生自身が「先生」になりえたとき、哲学教育というものは成り立つ。なぜなら、先生とはすべての者に開かれた、無限の研究のサインに他ならないからです。言葉を換えて言えば、ベント・プラド先生のおかげで、私は教え学ぶことに潜む自由の感覚を発見したのです」と、哲学者 Marilena Chauí さんは雑誌『高等研究』(Estudos Avançados)2003年号に発表された論文の中で語っていた。現在USPで教鞭をとる彼女は、かつて1967年にDEA課程に在籍しベント・プラドの指導を受けたのであった。

ベント・プラドはまた、カンピナス州立大学(Unicamp)やサンパウロ州立大学(Unesp)、カトリック司教大学(PUC-SP)などの機関でも研究に従事していた。

ベルクソンの哲学以外に、ベント・プラドJr.氏は、哲学史、認知哲学・言語哲学、心理学・精神分析のエピステモロジーなどの領域で活躍した。代表作には上記の博士論文のほかに、
『幾つかの試論:哲学、文学、精神分析』(Alguns ensaios: Filosofia, literatura e psicanálise),
『誤謬、錯覚、狂気』(Erro, ilusão, loucura)
『精神分析の哲学』(Filosofia da psicanálise)
などがある。

Friday, January 19, 2007

短すぎる夏の輝きよ―阿部良雄墜つ

個人的な面識はなかったが、常々仏文学者、いや端的に学者の典型のような人だと敬意を抱いていた(2000年6月1日の項。MLの気安さも手伝ってとんでもなく若い)。確か彼がノルマルへの留学第一号ではなかったか。今、仏文科の学生はフランスで博論を書くのがかなり当たり前になりつつある。彼以降の先人たちの地道な、継続的な努力のおかげである。

制度を整えていくには、友愛と信頼に支えられた連携作業が必要不可欠である。

私がフランス詩をいくらか暗誦するようになったのは、フランスに行く一年ほど前だったろうか。友人たちが彼の家に招かれ、詩の暗誦大会などをやって楽しんだ、という話を伝え聞いてからであった。

それまでは「詩を暗誦する」などとはなんとなくスノッブで厭だったのだが、その話を聞いて肩の力が抜けた気がした。そうか、そんな風にワイワイやってもいいのか、それなら自分にも出来そうだな、と。

フランス語の練習ももちろん兼ねていた。詩の暗誦は今もやる。言葉はスポーツと同じだ。やればやっただけ上達するし、やらなければ忘れる。プロとしての心構え。これも私が阿部良雄から(一人合点して)受け取った「教え」の一つかもしれない。

Bientôt nous plongerons dans les froides ténèbres ;
Adieu, vive clarté de nos étés trop courts!


<訃報>阿部良雄さん74歳=東京大名誉教授、仏文学者
1月18日0時43分配信 毎日新聞

 阿部良雄さん74歳(あべ・よしお=東京大名誉教授、仏文学者)17日、急性心筋こうそくのため死去。葬儀は25日午前11時、東京都渋谷区西原2の42の1の代々幡斎場。自宅は非公表。喪主は妻文子(ふみこ)さん。ボードレール研究で知られ、著書に「西欧との対話」などがある。95年度に和辻哲郎文化賞を受賞。
最終更新:1月18日0時43分

Thursday, January 18, 2007

哲学と政治

ヤミナ・ベンギギの『移民の記憶』についての告知メールをいただきましたので、pense-bêteのほうをご覧ください。

哲学を政治から切り離そうとする人々はこう主張する。「いったい誰が、数学者に政治を論じるよう求めるだろうか。政治は政治学者に任せておけばよい。哲学者は哲学をすることだけが任務なのである」と。日本のみならずフランスにも多くいるタイプである。

なるほど餅は餅屋であり、床屋政談などに大した意味はない。一市民として政治的な言論を行なうのは結構だが、それはすでにもはや哲学ではない、と。だがしかし、そのような物言いは、哲学という営みと、哲学科で行なわれているアカデミックな活動を我知らず同一視してしまっている。

アカデミズムを徒に敵視する人にも、アカデミズムに頑なに立て籠もろうとする人にも、あまりに個人的ルサンチマンが見えすぎる。問題はそんなところにはないのだ。

《なるほどひとは、哲学に、精神がおこなう快適な商売を見たくなるのも致し方ないのかもしれない。今度はコミュニケーションに倫理を提供することができる社会性、しかも西洋の民主主義的な会話を糧とする不偏不党の社会性だ、というわけである。

しかし、近代哲学に救いがあるとするなら、近代哲学は、古代哲学が都市国家の友ではなかったように、資本主義の友ではないという点を挙げねばなるまい。

そのつどユートピアを携えてこそ、哲学は政治的なものに生成し、おのれの時代に対する批判をこのうえなく激しく遂行する。

なぜなら、哲学が呼び求めるような人種は、芸術同様、純粋だと主張されるような人種ではなく、ある虐げられた、雑種の、劣った、アナーキーな、ノマド的な、どうしようもなくマイナーな人種だからだ。》(ドゥルーズ、『哲学とは何か』)

Tuesday, January 16, 2007

『創造的進化』百周年(英語雑誌投稿募集)

などと言いつつ早速更新である。

***

皆様、今年もよろしくお願い致します。

ベルクソンにご関心がお有りかと思われる方々に一括送信させていただいております。長文メール、あらかじめご寛恕のほどをお願い致します。

ご存知のように本年は『創造的進化』百周年にあたり、11月のコレージュ・ド・フランスにおける大規模なコロックをはじめ、各地で様々なイヴェントが企画されております。

私も若輩者ながら4月にトゥールーズで行われるコロックの主催者に名を連ねさせて頂き、日本の『創造的進化』読解の最前線を担う方々にご協力を仰ぎつつ日本チームでの「遠征」をして参ります。
http://w3.univ-tlse2.fr/philo/article.php3?id_article=100

出版物も例外ではありません。ベルクソン「公認」の名の下に久しく改訳の出なかった英語でも、ようやく『創造的進化』の新訳がアンセル・パーソンのイニシアティヴでWarwick大学から出るようです。

この機会に、英訳者二名が、ウィスコンシン大学出版の"SubStance"という雑誌から『創造的進化』特集号を出すので英語論文を投稿してみないかというお誘いが参りました(下記および添付ファイル参照のこと[添付ファイルはもちろんここには採録されていない])。

この投稿募集を広く告知してよいということなので、こうして皆様にもお知らせする次第です(転送歓迎です)。掲載の保証はもちろん私にもありませんが、チャレンジされてみてはいかがでしょうか?

寡聞にしてこれまでその存在を知りませんでしたが、数号の目次を眺めていると、定期的にフランス現代思想や現代文学、アートなどの特集がある雑誌のようです。
雑誌について:
http://muse.jhu.edu/journals/substance/index.html
雑誌のサイト:
http://www.french-ital.ucsb.edu/substance/category/home/

英・独・仏語で哲学することがますます重要になりつつある昨今――むろん、これは裏を返せば「何故、いかに、日本語で哲学するのか」がますます問われるということでもあります――、こうしたささやかな挑戦を、しかし粘り強く積み重ねていくことも大切なのではないかと思っています。

日本でもさまざまな雑誌で『創造的進化』特集が組まれ、実りある議論が活発に交わされるようになることを心から祈りつつ。

hf

Date:Mon, 15 Jan 2007 00:59:58 +0900
Subject: Bergson's Creative
Evolution CFP

Dear HF,

As you are no doubt aware 2007 is the centenary of Henri Bergson's master-piece Creative Evolution. Please find attached the call for papers for a special issue of SubStance devoted to this text.

The coming year will see a series of events devoted to Creative Evolution at (among others) the University of Warwick, the University of Toulouse Le Mirail, etc. There will also be a new edition of Creative Evolution published by Palgrave Macmillan in 2007, edited by ourselves along with Keith Ansell Pearson.

Please feel free to forward this message to any person who might be interested.

Yours Sincerely,

Michael Kolkman and Michael Vaughan
Department of Philosophy
University of Warwick

Sunday, January 14, 2007

新年

年末から新年にかけて、二つ大きな出来事があった。一つは子供が生まれたことである。これは新鮮な体験で、身をもって(体を張って?)いろいろと考えさせ られる。もう一つはパソコンがクラッシュしたこと。どうやら復活の見込みはないようだ。メアドにしても、書きかけの草稿にしても、パソコンに取り込んで バックアップを取っていなかった録音や写真にしても、もう取り返しはつかない。すでに不便は不便なのだが、これからじわじわと苦労するのだろう。しかし、 これも何かの巡り合わせだろう。もっと精進せよ、という。そういうわけで、当面新しいパソコンではメールもブログもしないことにした。

というわけで、メール返信速度が鈍り、ブログ更新回数が減ることを私の仕事(研究にせよ子育てにせよ)が捗っていることと解して喜んでいただきたい。むろんメールはチェックするし、このブログも更新はするので、たまに見に来ていただけると嬉しい。

「世の中に人の来るこそうるさけれ とはいふもののお前ではなし」

という蜀山の狂歌を玄関に貼り出した内田百閒は並べて

「世の中に人の来るこそうれしけれ とはいふもののお前ではなし(當家あるじ)」

今年もよろしくお願い致します。hf

Wednesday, December 27, 2006

おばあちゃんは追いかけない

2006年11月24日付の『中国新聞』社説が的確に指摘している。

 川崎市は事件が頻発した十年前、教員向けに冊子を作った。襲われた人たちは高齢、病弱、障害者で、「襲撃はいじめと同質」と分析。加害者の少年も周囲から疎外されていたとしている。
 時を経ても、構造は変わらないようだ。景気は「いざなぎ」を超え戦後最長という半面、正社員になれず希望が持てない人がたくさんいる。いじめや虐待が毎日のように発覚する。「勝ち組」と「負け組」に選別され、不満が弱い方へ向く傾向がありはしないか。
 ホームレスへの偏見も根強い。広島市の聞き取り調査では、ホームレスになった原因の四割は倒産や失業。リストラや公共事業削減のしわ寄せが表れている。「気まま」「怠け者」といった見方は正しくない。住まいを確保して、就労、自立を促す策も必要である。
そう、こういったことすべてはつながっている。誰を、何を批判すべきなのか。見間違えるべきではない。

ノンポリのインテリでいることも、インテリ嫌いのアクティヴィストでいることもたやすい。私は確信している。どれほど抽象的な思考に没頭しているように見えても、真の知識人は決して現実から目をそむけない、と。どれほど社会的・政治的な行動に没頭しているように見えても、真の活動家は決して理念のもつ力を軽視しない、と。


<教育再生会議>素案提示も、委員から不満続出
12月21日11時6分配信 毎日新聞
 政府の教育再生会議の全体会議が21日午前、首相官邸で開かれ、来年1月の第1次(中間)報告に向け、学力向上やいじめ防止など5項目を柱とする素案を各委員に提示した。これに対し「議論したテーマが削除され納得できない」(渡辺美樹ワタミ社長)などの不満が続出。義家弘介担当室長が「(了承は)これから」と語るなど、取りまとめは難航必至だ。
 安倍晋三首相はあいさつで「法律を改正すべきは改正し、予算も充当していく」と報告を重視する考えを示した。
 素案は、社会人の教員への中途採用や授業時間数の増加、いじめなど問題行動を起こす子への出席停止を提言。基本的な考え方で「家庭、地域社会、経済界、メディアが当事者としての自覚を欠いた」と批判している。
 これに対し委員からは大学の9月入学の削除や「ゆとり教育の見直し」の明記を見送ったことに不満が噴出。「メッセージ性が弱い」(中嶋嶺雄国際教養大理事長)と具体的な政策を盛り込むよう求める声が相次いだ。山谷えり子首相補佐官は終了後の記者会見で、こうした不満について「今後議論を詰めていきたい」と述べるにとどまった。【平元英治】
最終更新:12月21日12時56分


足の悪い高齢女性ら狙いひったくり、少年6人を逮捕
12月19日14時8分配信 読売新聞
 高齢の女性を狙ってひったくりを繰り返していたとして、警視庁少年事件課と小松川署は19日、東京都江戸川区内の中学3年男子生徒ら、14~15歳の少年6人を窃盗容疑で逮捕したと発表した。
 被害に遭った女性7人は65~83歳で、うち4人は足が悪く、歩くのにつえや手押し車を使っていた。
 調べに対し、少年たちは「つえを持っているようなお年寄りの女性なら、追いかけて来ないと思った」などと供述しているという。
 調べによると、6人は今年5月5日午後2時30分ごろ、同区松江7で歩いていた女性(70)に自転車で近づき、追い抜きざまに現金約7万円入りの手提げかばんを奪い取るなど、7月までに同区内で計7回、被害総額約16万4000円のひったくりをした疑い。
最終更新:12月19日14時8分


「おばあちゃんは追い掛けない」=高齢女性狙いひったくり-中学生6人逮捕
12月19日13時1分配信 時事通信
 高齢女性ばかりを狙いひったくりを繰り返したとして、警視庁少年事件課と小松川署は19日までに、窃盗容疑で、東京都江戸川区に住む中学3年の男子生徒(14)ら男子中学生6人を逮捕した。調べに対し、「おばあちゃんだから追い掛けてこないと思った」と供述している。 
最終更新:12月19日13時1分


<路上生活者殺害>殺人発覚後も襲撃重ねる 中2少年ら
12月20日15時6分配信 毎日新聞
 愛知県岡崎市の河川敷で無職、花岡美代子さん(当時69歳)が殺害されるなどした路上生活者襲撃事件で、中学2年の少年(14)=強盗殺人の非行事実で補導=らのグループが花岡さん殺害後も、「もっと金が欲しい。別の路上生活者を襲おう」と謀議し、襲撃を重ねていたことが20日、分かった。県警岡崎署捜査本部は悪質さが際立つとして、他の関与事件の特定を急いでいる。また、少年らが襲撃に使った凶器の多くは、花岡さん殺害を含め現場で調達していたことも分かった。
 調べでは、岡崎市内では先月、路上生活者が襲撃される事件が少なくとも8件発生。この多くに、同市内のいずれも14歳の中学校2年の少年3人(事件当時14歳1人、13歳2人)と逃走中の無職の男(28)のグループが関与したとみられる。
 このうち、少年2人は(1)同市明大寺町の殿橋南側河川敷で11月19日午前0時ごろ、警備員男性(39)から約5000円入り財布を強奪(2)同市板屋町の河川敷で同1時ごろ、花岡さんを殺害(3)同市真宮町の真宮遺跡で同3時10分ごろ、男性(56)を襲い小屋に放火――の3件の順で、襲撃を続けたことを認めた。 さらに、少年らは花岡さんの遺体が同20日朝に発見され、21日に殺人事件として捜査が始まったのを報道で知りながら、22日午前4時半、殿橋南側で再び同じ警備員男性を襲い、6500円を奪った疑いが浮上。この際、「(前回襲われたことを)警察に密告しただろう」などと男性を脅していたという。
 一方、花岡さんは解剖の結果、棒状のもので殴り殺されたことが分かったが、捜査本部は凶器とみられる複数の棒を現場で押収した。真宮遺跡の事件では男性の襲撃に鉄パイプが使用されたが、これらもその後、遺跡近くで発見、押収された。捜査本部は、凶器を持ち歩くと目立つことから、少年らが凶器になりそうなものを現場付近で調達し、襲撃後はその場に遺棄したとみている。 花岡さんへの暴行は特に激しく行われ、河川敷で殴打を加えた後に川に突き落とすなどしていた。少年は「4人で徹底してやった」などと供述しており、捜査本部は花岡さんへの暴行がエスカレートした理由や奪った金品の捜査を続ける。最終更新:12月20日15時6分


<いじめ自殺>先輩隊員が暴行 事実隠す 空自浜松基地
12月20日15時4分配信 毎日新聞
 航空自衛隊浜松基地(静岡県浜松市)が、隊員の内部暴力の懲戒処分を発表する際、暴力を受けた男性隊員がその後自殺した事実を隠して発表していたことが20日、分かった。男性隊員の両親は「先輩からのいじめが原因」と訴えていたが、同基地からは「行き過ぎた指導があった」としか説明はなかった。両親は「『いじめられれば泣き寝入り』ということかもしれないが、そうはしたくない」と話している。
 同基地によると、基地内にある第1術科学校の30代の2曹が04年3月~昨年11月ごろ、20代後半の男性隊員に対し、20~30回にわたって殴るけるの暴行を繰り返した。同基地は今月15日、「2曹に行き過ぎた指導があった」として停職5日の懲戒処分とし、報道機関に発表した。暴力を受けた男性隊員は昨年11月、浜松市内の自宅で自殺しているが、その事実については発表しなかった。
 関係者によると、男性隊員は日ごろから周囲に「隊内でいじめを受けている」と漏らしていたという。両親は「『人間性を失っていて生きていけない』など、2曹に書かされた『反省文』が残されていた。隊内のいじめが自殺の原因だ」と主張し、同基地に説明を求めていた。
 同基地は、男性隊員の自殺から1年以上過ぎてようやく2曹を処分したが自殺には触れなかった。両親は「(処分翌日の)16日に術科学校長が説明に来たが、『行き過ぎた指導』というだけで、最後まで十分な説明がなかった」と憤っている。
 空自第1航空団司令部は毎日新聞の取材に、2曹の暴力について「仕事熱心のあまりの行為で、いじめではないと聞いている。被害者に外傷などがなく、長期間気付かなかった」と説明。男性隊員の生死については「処分とは関係がなく、個人も特定されるので答えられない」と回答した。【望月和美】最終更新:12月20日15時6分

Sunday, December 24, 2006

いじめ-教員への(スクラップブック)

あがるまさん、そうですね、世界の教育状況にも目配りをする必要がありますね。フランスの教育状況については幾つかの有益なサイト、ページがあります。私自身も少しずつでも教育関係の著書をここで紹介していければと思っています。hf

*

「不適格教員」?「排除」?「厳しい措置」?ファシスト国家や共産主義国家に住んでいるわけではないのだ。本当にこんな表現を用いていいと思っているのだろうか?

(安倍政権の好きな言葉「厳しい措置」が北朝鮮といい勝負の大時代的な表現であることには嘆息しつつもあらためて注意を喚起しておこう。)

政府が上手に「誘導」しているわけだが、この国の人々はどこまで公務員、とりわけ教員に八つ当たりすれば気が済むのだろうか?では、「勤労意欲や指導力を欠く不適格社員の排除」という表現を用いていいとでも?このような表現を用いさせる社会の雰囲気こそがいじめを助長していることに気づかねばならない。各種新聞で指摘されていることだが、大人の社会にすらいじめがあるのに、子供のいじめを根絶できるはずがない。これは教員に対するいじめである。

指導力欠く不適格教員を排除=いじめに厳格対応-中間報告の骨格固まる・再生会議
 政府の教育再生会議(野依良治座長)が来年1月にまとめる中間報告の骨格が9日、固まった。教育意欲や指導力を欠く不適格教員の排除を明記。児童・生徒の相次ぐいじめ自殺問題への対処としては、問題行動を起こす子どもに対し「出席停止」を含む厳しい措置を取るとともに、教育委員会制度の抜本的な見直しも盛り込んだ。また、学力向上のため学習指導要領を改定し、現行の「ゆとり教育」も改めるよう求める。 (時事通信) - 12月9日19時0分更新


<教員意識調査>会社員以上に、仕事に満足感と多忙感
12月12日0時33分配信 毎日新聞

 公立小中学校の教員は会社員よりも仕事に満足感を得ていると同時に、多忙感も感じる傾向にあることが11日、文部科学省の調査で分かった。また、教員自身は勤務実績などで給与に差をつけることを否定的にとらえているが、保護者は肯定的ということも分かった。
 文科省は10月、全国354校の公立小中学校教員8976人(回収数8059人)と保護者1万4160人(同6723人)を対象に意識調査を行い、平均点を算出。中央教育審議会の「教職員給与の在り方に関する作業部会」に中間報告した。
 中間報告によると、「仕事にやりがいを感じている」と答えた教員が5点満点で平均4.23点だった。一方、「仕事が忙しすぎて、ほとんど仕事だけの生活になっている」のは3.75点となり、調査会社が所有している会社員のデータと比較すると、教員は会社員よりも満足感と多忙感を同時に感じているという。
 また、「指導力不足教員らに給与などへの反映が必要」と考える教員は3.37点。保護者への同種の質問では4.41点となり、両者のかい離が際立った。【高山純二】
最終更新:12月12日1時23分


<いじめ自殺>教委に理由「不明」と報告した元校長の苦悩
 
 女子生徒がいじめを示唆するメモを残し命を絶った苦い経験を持つ元校長(61)が、一連のいじめ報道を受けて取材に応じた。生徒の死はいじめと関係があると遺族に説明したが、教育委員会には自殺の理由を「その他(不明)」と報告した。「(報告は)あれでよかったのか。彼女はなぜ死に急いだのか。いろんな思いが今も頭から離れません」。退職した後も、心穏やかに過ごせないという。【井上英介】

 東日本の公立中学校に校長として勤務していた時のことだ。初夏のある日、教え子の女子生徒が自宅で亡くなった。自室にあったノートに「死にたい」と書かれ、級友たちから害虫呼ばわりされたことなどを苦にする記述があった。
 遺族からノートを見せられ、級友への聞き取り調査で生徒が不快なあだ名で呼ばれていた事実を確認した。「いじめはあった。自殺と関係があると認識している」と遺族に説明し、保護者会でも報告した。
 「お母さんは泣き崩れ、私も泣きました。あだ名で呼ばれたのは短期間だが、ささいなことでも本人が嫌だと思えばいじめです」
 教職員とともに誠意をもって対応し、いじめた子も親とともに謝罪、月命日のたびに焼香に訪れたこともあって、遺族の一定の納得は得られた。半年以上かかって学校は落ち着いたが、一人でいる時にぼんやりと生徒のことを考え、はっと我に返るようなことがしばらく続いた。
 いじめ問題への文部科学省の取り組みに、疑問を感じないではない。「いじめかどうかを判断する認定基準が厳しすぎる。『いじめがいじめではない』という極めて奇妙な結果を導き、現場を誤らせかねない」
 文科省は「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じている」という認定基準を定めている。だが、基準とは別に「いじめか否かは、子どもの立場に立って判断せよ」と何度も現場に呼びかけ、教育現場に混乱を招いている。
 「教員はみな基準を頭に刻みつけている。なぜ実態に即したものに変えないのか。いじめの芽を見逃しかねない」。現役時代、日ごろから教員たちに「いじめの小さな前兆を見逃すな」と言ってきた。それでも前兆を察知し、防ぐことができなかった。
 教え子の死から半年以上たち、教委にいじめがあったことを報告した。しかし、自殺については「主たる理由を一つ挙げよ」との指示に基づいて「その他」とした。「いじめは理由の一つだとは思うが、主たる原因だったのかどうか……学校は警察ではない。真相究明は難しい」。対応が正しかったのかどうか、答えは出ていない。(毎日新聞) - 11月12日7時41分更新

Monday, December 18, 2006

「よい」学校へ-実学志向の呪縛(スクラップブック)

これらのことについては以前書いたこと以上に言うべきことはない。当該部分だけを引用しておこう。


このような考えは、中学・高校といった中等教育にまで浸透している。「偏差値、ネームバリューなどから見て、少しでも「よい」高校は、「よい」大学へのパスポートである」、「中学は・・・」というわけだ。これが、日本の社会が過去数十年にわたって是認してきた通念であり、現在の学力低下は、教育の内容ではなく、教育がもたらす「実益」(むろん表面的な)に関心を持ち続けた、その必然的な帰結である(アメリカやヨーロッパでも事情は似たり寄ったりであるが、もたらされる帰結は異なる。日本ほど大学進学率が高くないからである)。これは一部の「教育熱心」な「教育ママ」の行き過ぎや歪んだ価値観といった個人的な資質に帰される問題ではない。「知」や「文化」に無関心でありながら、その世評や功利的価値には過大な評価を与える、社会の全般的な風潮自体が問題なのである(言うまでもないが、偏差値やネームバリューを評価したり、有名塾の校長の講演会に足繁く通うことが「知」に敬意を持つことではないし、ハイカルチャーに精通することが必ずしも「文化」に親しむことなのでもない)。「ゆとり教育」や「総合学習」の意義は決して小さいものではないが、問題の根はもっと深いのである。では、「知」への敬意を持てばそれでいいのか。そうではない。まだ、「実学志向」という、結局のところ「能率」や「効率」、一言で言えば、performativityの問題と結びついた根強いイデオロギーが残っている。これについては、項を改めて述べる。

「ゆとり教育」や「総合学習」についてのみ付言しておく。未履修問題などはなから起こることが分かっていた事態であり、今さら何を騒いでいるのかという感じである。未履修問題とは、文部省が教えるよう定めた正規のカリキュラムと受験勉強用に学校で設定された特別なカリキュラムとのずれの問題である。奔走されている関係各位には申し訳ないが、本当の問題はそんなところにはないと思う。

すべては「受験戦争」に対する誤った反省から始まった。受験戦争は苛烈にすぎた。だから「ゆとり教育」が必要なのだ、と。受験勉強は不毛にすぎた。受験のための知識、知識のための知識ではなく、厳しい現実社会を生き抜いていくための知恵が必要だ。そのための「総合学習」なのだ、と。

だが、「ゆとり」とは学校で教えられるものなのか?ゆとりもなく働いている親の姿を間近で見ているほうがよほど「人生勉強」になっているというのに?「生きるための知恵」とは授業で教えられるものなのか?子供たち、教師たちは、総合学習の時間を受験勉強にあてることがまさに厳しい現実社会を生き抜くための知恵だと本能的に知っているというのに?何も分かっていないのは、いったい誰だ。

いじめが巷で話題になっている。「大人の間にすら陰湿ないじめがあるのに、子供の間でだけ根絶できるはずがない」という意見がある。一理あると思う。学校は社会の鏡である。親が馬車馬なのに子供にはゆとり、有給すらろくすっぽとれない親の黄金則が「カイシャに盲従」なのに子供には総合学習。大人の社会が虚弱で歪んでいるのに、子供だけたくましく清廉潔白などとはムシがよすぎるというものだ。

共通一次はセンター試験になった。前期・後期に分かれた試験方式はまもなく前期のみに一本化されようとしている。まもなく大学全入時代を迎えるのだという。大学は生き残りを賭けて必死なのだという。大学も一企業として「当たり前の」営業努力を求められているのだという。本当にこれでいいのか?議論すべきはこんなことなのか?

大学とはどのような場所であるべきなのか。社会の中にどのような位置を占めるべきなのか。そのことを国民の間で十分に議論したうえではじめて、本当にすべての子供たちが大学に行くことが「必要」なことなのか、その子供たちにとって「いいこと」なのかが議論できるようになるはずではないか。そして大学に入るためにどのような基礎知識・基礎教養が必要なのかについて、つまり大学受験についての議論が可能になるはずではないか。

今現在、国民は大学で与えられるべき教育について明確なヴィジョンをもっていないというのが偽らざるところではないか。本当に大学に行くことが「必要」なのかどうかも。子供にとって本当に「いいこと」なのかどうかも。理念のもつ力を深く信じる必要性を説く声すらも、今の日本国民の耳には届かない。

「私たち」は本当の問いを回避し続けている。他の多くの問いとともに。仕事が忙しいから。時間がないから。


<家庭学習時間>小中学生で増加「学習離れ」に歯止めか

 減少していた家庭での学習時間が増加に転じるなど小中学生の「学習離れ」に一定の歯止めがかかっていることが、「ベネッセコーポレーション」(岡山市)の調査で分かった。また「いい友達がいると幸せになれる」と小中高校の9割以上が答え、子どもが「友人関係」を重視していることも浮き彫りになった。
 同社の「学習基本調査」は90年からほぼ5年おきに実施。今年6~7月に全国の公立小中高生計9561人を対象に行った。回答は児童生徒に直接記入してもらった。
 家庭学習時間(平日)の平均は90年調査から2回続けて減少していたが、今回小学生は前回01年の71.5分から81.5分、中学生は80.3分から87.0分に増えた。今回70.5分の高校生は前回とほとんど差がなかった。
 社会観に関する問いでは、「いい友達がいると幸せになれる」とした小中学生はいずれも9割を超え、高校生は96.3%に達した。子どもたちが友人関係を重んじ、生活の中心にしていることがうかがわれる。「いい大学を卒業すると将来幸せになれる」と答えた小学生は61.2%だったが、高校生は38.1%に減少。学年が上がると「高学歴が有利」とは考えない傾向を示した。 また、「日本は努力すれば報われる社会だ」と答えた小学生は68・5%▽中学生54・3%▽高校生45・4%となり、こちらの答えも年齢が上がるにつれ減少した。さらに高校生の75・8%が「日本は競争の激しい社会だ」と答えた。【吉永磨美】

 耳塚寛明・お茶の水女子大教授の話 ゆとり教育の実施で学力低下論や保護者の不安が高まり、「脱ゆとり」論が出てきた。その結果、家庭教育や基礎学習が徹底され、小中学生の「学習離れ」に歯止めがかかったのではないか。(毎日新聞) - 12月11日19時21分更新


高校生宿題しないの? 「家庭学習ない」4割 やる気も格差拡大 
12月12日8時0分配信 産経新聞

 「家庭でほとんど勉強しない」と答えた高校生が4割近くに増加し、学習離れが広がっていることが、教育シンクタンク「ベネッセ教育開発センター」(東京)の「学習に関する意識実態調査」で11日、明らかになった。小中学生では「できる子」と、そうでない子の学習時間の差は広がる傾向がみられ、同センターでは「学習意欲の格差が広がっている」とみている。
 調査は今年6月と7月に全国の小学生2736人、中学生2371人、高校生4464人に学校を通じて実施。平成2年、8年、13年にも同一調査を実施しており、結果を比較した。
 家庭での学習頻度は、高校生は「ほとんど勉強しない」が前回の23・1%から27・9%に、「週に1日くらい」も8・8%から9・9%に増えた。1日平均の家庭学習時間も「0分」が前回の22・8%から24・3%に増え、「約30分」も15・2%で、全体の4割近くが家庭でほとんど勉強しなかった。
 小中学生では、成績上位者の学習時間が前回調査結果より大幅に長くなった。全体では家庭学習時間は平均5~10分延び、小学生で81・5分、中学生は87分となった。
 これに対して高校生の家庭学習は、平均70・5分で前回と比べてほぼ横ばい。平成2年時の調査と比較すると、成績で平均点前後に位置する中間層の生徒の勉強時間が約30~50分近く減るなど、生徒の学習離れが広がった格好だ。
 今回の結果についてベネッセ教育開発センターは「小中学生では前回より改善した点もみられたが、高校生では、家庭学習は限られた生徒が行うものになっており、深刻な結果だ」と指摘。「少子化の影響で大学受験がやや広き門となっていることが、高校生を家庭学習に駆り立てなくなった理由だろう」と分析している。
最終更新:12月12日8時0分


格差の現場:/5 広がる 異なるスタート地点 /宮崎

 宮崎市中心部の進学塾の前では、毎晩同じ光景がみられる。午後9時過ぎ、授業を終えた小学生たちが、ドアから次々と駆け出してくる。通りには親たちの迎えの乗用車が並んでいる。
 小学6年の息子と5年の娘がこの塾に通う父親(38)は、はるばる日南市から送迎に来ていた。妻と交代で1日に昼夜2往復することもある。片道1時間の両市を週10往復はする。
 「正直、大変だと感じる時もあります。まだ小学生だし……。でも人生のスタートが異なればゴールも違ってしまう」。息子は県外の名門私立中高一貫校を志望する。「地元に学力を伸ばす教育環境があれば一番いいんですが」と言い、日南市へとハンドルを切った。  

 ◇   ◇

 04年度の県教委の7教育事務所管内別の学力調査は興味深い結果を示している。小学低学年までは、なぜか都市部より田舎の方が学力が高い。しかし高学年以降、都市部の学力が急上昇し、田舎は追い抜かれるのだ。
 小学3年、小学5年、中学2年を比較すると、小学3年で西臼杵(高千穂町など)と西諸県(小林市など)が同率1位。児湯(高鍋町など)も3位と郡部の順位が高い。都市部の宮崎(宮崎市など)は最下位の6位だ。ところが、宮崎は小学5年で3位に浮上、中学2年では1位に躍り出る。
 小学低学年までは田舎の学力が高い理由を、ある小学校教諭は「郡部の少人数の学校では一人一人の子供に合った教え方ができる。子供も指導を素直に受け入れ、まじめだからでしょう」と分析する。小学高学年以降、都市部の学力が上昇する理由を、宮崎市内の進学塾関係者は「塾の影響」と断言する。この塾は、市外からの塾生が2割を占める。「地方の親にも危機感があるから、日向市や小林市、都城市からも子供を通わせるんでしょう」と明かす。
 日南市から通う父親は「自分が高校生だった20年前と比べ、全国と宮崎との格差はさらに広がり、県内の地域間での格差もますます広がってきたようだ」とため息をついた。県教委の調べでも毎年、約45人が県外の有名私立中学に進学している。競争社会を生き抜くための受験技術を得る機会も、都市と地方で差が広がっているのかもしれない。
6月27日朝刊(毎日新聞) - 6月27日18時0分更新


都教委“未履修”を黙認 都立高20校 総合学習で受験対策
12月12日8時0分配信 産経新聞

 必修科目の未履修が全国の高校で相次いで確認された問題に絡み、東京都立高校約20校が「総合的学習」の授業を数学や英語など受験対策に振り替えていたことが11日、都教育委員会の調査で分かった。総合的学習は体験学習やテーマ研究を狙いとするが、学習指導要領を逸脱した受験対策の隠れみのになっていた。都教委は都立高の未履修は1校のみとしていたが、これら“偽装授業”を行っていた学校については「成績表は総合的学習でつけている」として未履修ではないとの判断を示し、黙認の態度だ。進学率の向上を目指した都立高改革の落とし穴が浮かび上がった形だ。
 都立八王子東高で倫理の未履修が発覚したのを契機に都教委が11月、全都立高207校を対象に調査。その結果、約20校が総合的学習の一部を受験対策に振り替えていたことが判明。この中には、戸山や立川の進学指導重点校も含まれていた。
 多摩地区の中堅校では、3年生約45人が2単位(70時間)すべてを数学の応用問題集を購入した受験勉強に活用。同校は平成15年度の総合的学習の導入からこうした授業形態をとっていた。
 また、区部の高校では3年生の2単位(同)の3~4割を「入試基礎講座」などの授業に振り替え。校長は「不適切と受け取られかねない授業」と話しているが、進学校を中心に総合的学習を受験対策に特化させていた傾向が強いとみられる。
 都教委は「(20校は)限りなく灰色に近いが、成績表は総合的学習でつけており、未履修でないと判断している」との見解を示した。いずれも「正規履修の範囲内」として、改善指導にとどめる方針。しかし教育関係者は「受験対策は明らかに総合的学習の趣旨を逸脱しており、都教委が都合よく解釈しただけ。他県では未履修扱いだ」と批判している。
 今回のケースについて文部科学省は「個別の具体的な内容を見てみないと分からないが、総合的学習の趣旨を踏まえず、授業で入試問題ばかりを解かせていたのであればおかしい」としている。 文科省によると、必修科目の未履修が確認された国公私立合わせた高校は全国で663校(11月22日時点)。都は私立14校と都立1校の計15校。                   

◇【用語解説】総合的な学習の時間 平成14年度(高校は15年度)施行の学習指導要領で導入。(1)問題解決能力を養う(2)自己の在り方、生き方を考える(3)教科、科目の知識、技能を総合的に生かす-が狙いで、「国際理解」「環境」「生徒の興味・関心、進路に応じた課題」などを例示している。高校3年間で3~6単位が配当されるが教科書はなく、内容は地域や生徒に応じ、学校で決めるよう求めている。最終更新:12月12日8時0分

Saturday, December 16, 2006

memento mori -またひとつ私たちの手で自由が殺されていく。

覚えておけ、言い訳をするな。「彼ら」をあてにできない以上は。「彼ら」は「私たち」ではないのだから。まったく興味を示してこなかった「私」。口先だけで何もアクションを起こさなかった「私」。電子署名が精一杯だった「私」。議員たちにファックスを送り続けて満足してしまった「私」。国会前の人間の鎖で完全燃焼した「私」。「私」たち一人一人の手で、今日またひとつ、自由が圧殺されていく。戦争への道を切り開いたのは「私」たちだということになるだろう。

「思想の自由」とは冗語である。思想とは自由であり、自由とは思想である。思想という自由を人間のかけがえのない、奪うことの許されない権利と考える一人でも多くの「私たち」と出会うために、堅忍とともに「彼ら」を呼び招き続けること。それが哲学でなくて何であろうか。


教育基本法改正案きょう成立へ 会期18日まで延長 与党調整
12月15日8時0分配信 産経新聞

 今国会の最重要法案である教育基本法改正案は14日、参院教育基本法特別委員会で自民、公明両党の賛成多数で可決された。15日の参院本会議で成立する見通しだが、民主党など野党4党が内閣不信任決議案提出を決めたため、与党は15日に会期末となる国会を小幅延長する方針を決めた。
 教育基本法の改正は、昭和22年の施行以来初めて。前文には現行法にはない「公共の精神」、教育の目的には「伝統と文化の尊重」「わが国と郷土を愛する態度を養う」などが明記された。
 自民党が当初求めていた国を愛する「心」の盛り込みは、公明党との与党協議で「態度」となった。公明党を除く宗教界から要望が強かった「宗教的情操の涵養(かんよう)」については、「宗教に関する一般的な教養」との表現にとどまった。
 現行法10条の「教育は、不当な支配に服することなく」との条文は、教職員団体などが国旗掲揚・国歌斉唱を拒否する根拠とされてきた。改正案にもこの部分は残ったが、「法律の定めるところにより」との文言が追加された。安倍晋三首相は14日、特別委の質疑で「法律にのっとって行われる教育行政は『不当な支配』ではない」と強調した。
 特別委は14日夕、野党による追加質疑終了後、与党が緊急動議を提出し、採決に踏み切った。野党4党はこれを受け、15日朝、衆院に内閣不信任決議案を提出することを決めた。参院でも首相問責決議案提出を検討しているが、当初予定していた麻生太郎外相の不信任決議案提出は見送ることになった。
 与党は法案成立を確実にするため、会期延長に踏み切る方針。20日に平成19年度予算の財務省原案内示を控えていることから、延長は18日までの小幅にとどめる方向で調整している。参院自民党の国対幹部は14日夜、記者団に対し、15日午前に同党の衆参国対委員長会談を開いた上で、首相と会期延長について最終協議する考えを示した。
最終更新:12月15日8時0分

Wednesday, December 13, 2006

棚から一掴み(大学関係記事スクラップブック)

というわけで、忙しいときは棚から一掴み。


<学術会議調査>研究機関の12.4%が論文などで不正 
12月12日11時32分配信 毎日新聞

 日本学術会議が全国の大学、研究機関、学会を対象に初めて実施した論文や研究資金などに関する不正の実態調査で、有効回答数の12.4%にあたる164機関が「過去10年間に不正行為の疑いがあった」と答えた。02年以降の発生件数が増えており、同会議は「国立大学の法人化など、研究現場の競争激化が影響している可能性がある」と分析している。
 調査は今年5~6月に実施。全国の大学、高等専門学校、研究機関、学会の計2819機関に質問表を送付し、1323機関(46.9%)から回答があった。
 不正行為の疑いは計236件あり、そのうち150件が「不正があった」と認定された。認定された不正の内訳は、▽論文の多重投稿52件▽研究資金の不正使用33件▽研究の盗用31件▽データ改ざん5件▽プライバシーの侵害4件▽データねつ造3件▽その他22件。論文にまつわる不正が全体のほぼ3分の2を占め、研究資金の不正使用が約2割だった。
 不正行為の疑いの発生件数は01年までは10件前後だったが、02年19件▽03年33件▽04年29件▽05年46件と急増。内容別では、データのねつ造・改ざんや盗用、論文の多重投稿の増加が目立った。
 調査を実施した同会議科学者の行動規範に関する検討委員会の浅島誠委員長は「04年の国立大学法人化の前後で不正が増えたのは、隠されていた事案が表に出たことに加え、研究資金の獲得競争やポストの任期制導入で研究者が追い詰められ、過酷な環境にいることも背景にあるようだ」と話している。【永山悦子】
最終更新:12月12日11時32分


これは経済効率を優先する日本の教育行政の論理的帰結である。

大学夜間部 東海地方で次々募集停止 教育格差拡大に懸念

愛知県議との意見交換会では、県立大の募集停止の方針に対し、学生から反発の声が上がった=名古屋市中区で9月、浜名晋一写す  

 苦学生の象徴「夜学」が次々に姿を消している。東海地方で6校あった大学夜間部のうち、日本福祉大と愛知大、名城大が00年から05年にかけて学生募集を停止した。岐阜大は07年、愛知県立大は09年に募集を停止し、存続するのは名古屋工大の1校だけだ。募集を停止する各大学は「勤労学生の減少」を理由に挙げる。専門家からは「経済的に苦しい家庭に生まれた子供の行く大学がなくなってしまう」と、さらなる教育格差の拡大を心配する声が上がっている。【浜名晋一】

 「働きながら学び、異なる世代の人と机を並べられるのが魅力。廃止を撤回してほしい」。愛知県立大英米学科4年の真野由紀さん(24)は、募集停止の方針を残念がった。先月19日、名古屋市内で存廃をテーマに、学生約10人と県議との意見交換会が開かれ、学生から反発の声が噴出した。昼間、喫茶店でアルバイトをした後、大学に通う松岡浩平さん(21)=3年=は県議に対し、「家計を助けるためにも、学費の安い夜間はありがたい」と強調した。
 同大では主に夜に授業がある「夜間主コース」に996人が在籍する。学費は昼間主コースの半額の約27万円で、ここ3年間の入試倍率は4~5倍と人気が高い。しかし、勤労学生の比率は大幅に低下し、98年度には全体の62.6%と半数を超えていたが、今年度は25%に。関係者は「昼間部の受験に失敗した学生が志望した結果だ」と、夜間部本来の意義が失われている現状を指摘する。このため、県は「勤労学生に高等教育を提供するという夜間大学の本来の趣旨から逸脱している」として、今年3月に募集停止を決定した。
 一方、04年度に夜間部の募集をやめた愛知大。同市東区の車道キャンパスには授業が始まる夕方になると、学生が続々と登校する。定員400人に対し、286人が在籍。法科大学院進学を目指して法学部に通う女性(40)は「大学教育は社会人にも開かれるべきで、社会人が通える夜間部を廃止するのは間違っている」と主張する。
 だが、定員割れもあって、多くの学生の関心が薄いのも現実だ。4年の男子学生(22)は「働きながら勉強したいという人は減っているし、廃止は時代の流れでは」と冷静に話す。
 文部科学省によると、夜間部のある大学は全国で79校。99年には104校あったが、7年間で25校が夜間部を廃止した。

 教育関係の著書も多いルポライター、鎌田慧さんの話 勤労学生の排除は教育の機会均等の理念に反する。少数でも受け皿の保証をすべきだ。エリート養成を進める一方、広く学業の機会を認めないのは教育格差の拡大につながる。(毎日新聞) - 10月14日17時12分更新


<科研費>9大学で不適切経理10億円超 会計検査院が指摘

 文部科学省が交付する科学研究費補助金(科研費)を巡り、東京大など九つの国立大学で、研究用に購入した物品の納品書の日付が、業者側に残った日付と大幅に異なる不適切な経理を行っていたことが、会計検査院の調べで分かった。日付が1カ月以上異なっていた納品書の総額は10億円を超え、文科省は、1年以上ずれていた6大学の計約2000万円分について、補助金適正化法に基づき返還させた。また、私立大学も含めた全大学に対し、納品検査の徹底を通知した。

 科研費は独創的・先駆的な研究を発展させる目的で、文系・理系や基礎・応用を問わず、あらゆる学術研究を対象にした政府の研究資金で、06年度の文科省分の規模は総額1895億円。
 検査院の調べでは、9大学で注文した物品を業者が大学に納入したものの、事務担当者の確認が遅れたため、業者側と大学側で、それぞれ保管していた帳簿類の納品日付にずれが生じた。うち約2億円分については、大学側の納品が年度末の3月31日を越え、補助対象の翌年度になっており、文科省の補助条件に違反した状態になっていた。さらに約2000万円分は、研究者が1年以上前に納品があったにもかかわらず、大学側に届けていなかった。
 ただ、研究費の私的流用やプールなどといった不正行為はなかった。
 文科省学術研究助成課は「公務員の定数削減の影響で、事務スタッフの減少が納品を確認する体制の不備につながった。今後、納品検査を徹底させ再発防止したい」と話している。
 科研費を巡っては昨年、慶応大医学部教授ら4大学の研究者らが、実験用動物などの架空購入などで、総額約8900万円の不正受給を検査院から指摘された。このほか、別の研究費を巡っても今年、早大理工学部教授の不正受給が発覚している。【斎藤良太】(毎日新聞) - 10月1日3時11分更新

Tuesday, December 05, 2006

グレゴリオ『純粋理性批判殺人事件』

旅の本。8月末日、羽田空港にて、機中読書・バカンス読書のため、マイケル・グレゴリオ作『純粋理性批判殺人事件』(角川文庫、2006年)の上巻を、巷で話題沸騰であるらしいdeath noteという漫画の最終巻とともに購入。原題は、Critique of Criminal Reason。『犯罪理性批判』とでも訳せば、サルトルの『弁証法的理性批判』に始まり、ドゥブレの『政治的理性批判』を経て、スローターダイクの『シニカル理性批判』に至るカント・パロディの系譜に(かすかに)連なることが容易に想起されるわけだが、一般読者向けにはたしかにこの邦題がいいだろう。

表題から察するに、名探偵カントか、天才的犯罪者カントが登場するのであろうという見込みであった。背表紙によれば、「世界中の出版エージェントの度肝を抜いた大型新人デビュー作、壮大な歴史ミステリ!」であるとのこと。遅読の私も、二三日で読了。

別にどうということのない本なので下巻を買わずにいたが、やはりなんとなく気持ちが悪いので、最近下巻を購入。堅忍の一字とともにやはり数日で読了した。「唯一の手掛かりが導くありえない真実」という帯の文字は先の触れ込みに比べれば食指をそそるが、しかし内容に適合したものとは必ずしも言えない。

カントの「根元悪」(radikale Böse)の概念を「あらゆるものの中で最も極悪非道なもの。冷酷な殺人。動機のない殺人」(下・139頁など)と結びつけるという発想自体は悪くない。カントが探偵なのか犯罪者なのか最後まで分からないというプロットも悪くないと思う。にもかかわらず、読後感を正直に言えば、本書を人に薦めようとは思わない。なぜか。

結局本書をつまらないものにしているのは、作者の皮相なカント理解である。カントが探偵なのか、犯罪者なのか、あるいはそれ以外なのかはここでは重要ではない。本書の舞台は1804年2月のケーニヒスベルク。したがって登場するカントは最晩年のカントである。問題は、従来のカントを「人間の肉体的および精神的世界を、論理という手段で定義するために一生を費やしてきた」(下・57頁)哲学者と捉え、晩年のカントを老衰や狂気によるそこからの逸脱ないし成熟と見る主人公のカント像がまったく魅力的でない、という点にある。
しかし、彼はおだてられなかった。癇癪を爆発させ、目をぎらつかせ、両手を激しく振り回した。「いかれたカント、と不埒な連中はわしのことを呼んでいる。精神と魂を堅苦しい理論体系と不変の法則の世界に閉じ込めたというのだ。大学での最後の日々は耐えがたかった。実に屈辱的だった。あんな処遇をされたことは、これまで一度もなかった。苦悶に耐えていたのだ!」感情が激して、カントの目はぎらついていた。声は怨念でかすれていた。彼の唇からもれた恨みのこもった笑い声には、ユーモアのかけらもなかった。「やつらは大馬鹿なのだ!非現実的な夢想者…わし一人で計画を立て、実行できるとは想像もできないのだ。連中にはわからんだろう、美しさが…」(下・134-135頁)。

グレゴリオ的カントの言う「美しさ」が探偵的なものであれ、犯罪者的なものであれ、このような取り乱した場面は必要なかったのではないか(カント時代の大学については、下記2002年10月14日の項参照)。性格の複雑さを見せるのはいいのだが、それを老齢や時代状況の変化のせいにするのは安易に過ぎるということだ。

晩年のカントが聖書的伝統に準じて弱い人間の魂を「曲がった木」(下・138,140頁)と見た、というのはよい。しかし、それを「人と人の関係では論理は通じない」(同上)などという凡庸な一言で片付けてしまっては、《道徳的カントから探偵的あるいは犯罪的カントへ》という移行の両側が―いわゆる批判期までのカントも晩年のカントも―色褪せて見える。

「いや、グレゴリオの描写はもう少し微妙だ」と言う人もあるだろう。実際、カントの発言が魅力的に見える場面も確かにある。だが、カント「最後の著作」を主人公が破いて川に捨てる場面を見る限り、作者がこの論文の「書き手」がカントでなかったという事実を最大限利用しなかったこと、ひいては哲学者カントの何も理解しなかったことは残念ながら明らかである。

翻訳は読みやすかったが、一点だけ。下巻285頁の《カント教授なら「至上命令」だといっただろう》というのは、原文を確かめたわけではないし、最近出た岩波版全集の訳語も知らないのだが、「定言命法」としたほうがよかったのではないだろうか。

道徳的カントから探偵的あるいは犯罪的カントへという移行に豹変を見るのではなく、むしろ、それまでのカントの思索の「論理的」帰結として、『実践的見地からする人間学』――これは1798年、カントが生前自らの手で刊行した最後の著作である――刊行と並行して、『犯罪的理性批判』の実践(執筆ではなく)が行われていた、といったストーリーのほうが少なくとも私には興味がもてるような気がする。要するに、pathologischという語のカント的用法に着目することで、リゴリズム道徳哲学の極北と見なされていた『実践理性批判』の只中に享楽の論理を見て取ったラカンの「サドとともにカントを」(Kant avec Sade)のほうが、はるかに『犯罪理性批判』の名にふさわしいのではないか、ということだ。

ちなみに、帯には「呪いと理性が同居する稀有な時代を精緻に描く、この夏のミステリ決定版」という文句もある。フリーメーソンや黒魔術、あるいは錬金術や動物磁気のことを念頭においての台詞だろうが、心理学や精神分析、社会学やシステム論、「マイナスイオン」や「トキソプラズマ」だって、百年後にどう言われているかは知れたものではあるまい(2002年10月19日の項)。細木某や江原某の流行る日本については何をかいわんや、である。呪いと理性は、 この意味では、あらゆる時代に同居しているのである。

カントについては、ドイツ語訳も出ているこちらのほうが圧倒的に面白いので、お勧めしておきたい。紹介はいつものごとく中途半端で終わってしまっている。
ボチュル『カントの性生活』(1)2002年1月2日の項。
ボチュル『カントの性生活』(2)2002年1月12日の項。
ボチュル『カントの性生活』(3)2002年10月13日の項。
ボチュル『カントの性生活』(4)2002年10月14日の項。
ボチュル『カントの性生活』(5)2002年10月17日の項。
ボチュル『カントの性生活』(6)2002年10月21日の項。

Monday, December 04, 2006

時間をかけて(efficacité du temps)

きちんとお答えしなくてはと思いつつ、忙しいとそういう義務感が負担になって余計に筆が重くなるという悪循環に陥ってしまいました。これではせっかく重い腰を上げて、ひとまずコメント欄を限定的に開放した意味もないわけですが…。「投瓶書簡」のような感じで気長にお願いします。お便りには目を通しておりますので。

*

制度的な努力は静かに進行している。ちょっとしたトラブルもある。年かさの人であれ、誰に対してであれ、もっとゆっくり時間をかけて、十分に意を尽くして説明していかねばならないと繰り返し自分に言い聞かせる。

研究面での努力は、これに比べればもっとフィジカルだ。やらねばならないことはすべて技術論的なレベルで解決できることである。マルクスの言うように、人間は解決できる問題しか(本当の意味では)提起しないのである。

私のような人間でも悩み相談などを受けることがあるが、そういうときいつも困ってしまう。たいていの場合、彼らの中で答えはすでに出ており、私にはアドヴァイスの仕様がないように思われるからである。「研究が進まない」「どうすれば良い論文が書けるんでしょう」云々。こういう質問はたいていの場合、偽の問題であり、問題のすり替えである。偽の問題に悩まされ、疲労困憊し、それを振り払うのに時間と労力を費やす(その実、それは彼らが発明したものなのだ)ことが彼らの真の目的なのであり、これをフロイトは「疾病利得」と呼んでいた。彼らは問題を精神的なものにし、深刻にとる。pathétiser, psychologiserしすぎるのである。

『二源泉』の人格性概念を、ベルクソンが用いている声という形象を通して分析してみようという趣旨の論文をひとまず書き上げた。ハイデガーによるカントの人格性概念分析と比較したり――和辻は1931年の段階でこの分析を取り上げて論文に組み込んでいる。やはりあの当時の即応力には並々ならぬものがある――、パスカルのさまざまな習慣論を持ち出したりと、いつもどおり好き放題である。今、この論文の細部を詰める作業を始めている。

というわけで、いつも斜め読みの『パンセ』とともに、斯界の泰斗・塩川徹也氏の『パスカル『パンセ』を読む』、岩波セミナーブックス80、2001年を読んでいる。開始数頁でいきなりつまづく。「着手」って、チェスのmoveのこと(ほぼ同義)だったのね。

Thursday, November 30, 2006

感謝知らず-高潔の哲学史(取るに足らぬ序文)

sympaな人はいくらもいる。magnanimitéをもった人はなかなかいない。フランス語のmagnanimeの語源であるラテン語のmagnanimusは、magnus(大きい)とanimus(心)からできた語である。寛大・高潔・高邁・高貴・広量・雅量などと訳される。

純潔を保つために人を遠ざけ、あるいは「孤客(ミザントロオプ)」であるがゆえに否応なく保たれた純潔が腐り落ち、傲岸不遜に堕する、そういった人々のことをいっているのではない。純潔と高潔は異なる。マニャニミテは、泰然自若とも訳せるはずだ。

人と交わることを怖れず、人の輪の中にあって高潔を保ち、どうしても空の高さを感じさせずにおかない人。ごく稀にそういう人に出会うと、性別はどうあれ、心がときめく。少し時代がかっているかもしれない、でもそれがなんだろう。

Sed omnia praeclara tam difficilia, quàm rara sunt.

とスピノザも言っているではないか。私自身も、常々magnanimeでありたいとは思っているし、またそのように振る舞うよう努力もしているのだが、修行が足りないのでずいぶんつまらないことで腹を立てることもある。

もっとも、《いろいろと親切に教えてあげてもなんとも思わない》とか、《情報をしれっと利用した挙句にあたかもはじめから自分は知っていたと言わんばかりのポーズで対抗意識をむき出しにしてくる》とかいうくらいはかわいいもので、全然許容範囲である。

パリのとある友人があるテーマについてゼミを開くことにしたと予告を送ってきたのだが、そこに並んでいる参考文献は一年前なら彼の知らなかったものばかりだ。たしかに悔しい気持ちもないとはいえない。だが、この悔しさはフランス人の彼がパリで当該テーマについてセミナーを開くという事実に対する私の地政学的な関心(羨望?)に由来するもので、彼のそういう性格自体への怒りに由来するものではない。たぶん彼は私に情報提供を乞うたという事実すら忘れている幸福な人なのだから…。まあ、そういう人は世界中どこにでもいる。

自分のmagnanimitéを本当に試されるのは、いわれのない攻撃を受けた場合ではあるまいか。火のないところに煙は立たぬという。しかし、マッチ一本から大きな山火事に至るには、相当乾ききった心か、苛立ちの大風という下地がなければならないはずである。なんでも悪く取る用意のある人に対してどう毅然とかつ穏やかに対処できるか。哲学者たちの声に耳を傾けてみよう。

ちなみに、「取るに足らぬ序文」とは、キェルケゴールのドン・ジョバンニ論である「直接的エロス的諸段階、あるいは音楽的-エロス的なもの」(『あれか、これか』第一部第二論文)序文の表題である。ウェブ上ではデンマーク語で読むこともできる。

Tuesday, November 28, 2006

混線、混戦-戦場で友に送る手紙

最近年齢の壁やfameないしstatusの壁にこつんと当たる小さな事件が幾つか起こってきている。今自分が置かれている状況と自分にできること、あるいは自分が実現したいと思っていることの間に開きがあるからだ。しかし、それでもなお、弛まず進んでいきたいと願い、日夜努力を続けている。

そんな中で、温かい声を掛けてくださる方々がいてくださって、精神的にとても助かっている。自分の研究のことは自分でやるほかないという以上に、単に自分の事柄なわけだが、状況を変えていこうとすると、求められるのはそういった事柄以上のものだ。しかし、自分の仕事と決して無関係ではない。見知らぬ人が他人を判断する基準は仕事しかないのだから。

他方で、物見高く見ているだけという人々もいる。自分は知らないよ、と。おこぼれには与るけれど、と。 ある程度優秀な学者も含めて、普通はそういうものかもしれない。たぶん「羊たちの沈黙」はいつの時代にもある。彼らはいつも小声で文句を言いながら付き従う。私の努力が実を結ぶのはまだまだ先のことだろうが、そのとき彼らは、今私が時代状況に感じている閉塞感やそれを突破するために払っている努力や犠牲の大きさなど一顧だにせずに、結果だけを平然と受け取るだろう。彼らはいつも小声で文句を言いながら誰かにつき従うだけだからだ。あてにできるのは、研究レベルの努力と制度的なレベルの努力という「両面作戦」で行動を共にしてくれる友人たちだけだ。

しかし、「日本は知的砂漠である」という意見には反対である。教育国家と文化国家の違いも弁えないそのような放言にはルサンチマン以上のものを認められない。言い放つだけならとても簡単だとも思う。大切なのは内側から(繰り返すが研究レベルだけでなく制度的なレベルで)少しずつでも変えていくことだ。そのような努力抜きの「鋭い批判」などに何の意味もない。

aboutに掲げているが、大事なのは嘲笑することでも、慨嘆することでも、呪詛を投げつけることでもなく、理解しようと努めることである。真の理解はやがていつの日か真の変革につながる。

Thursday, November 23, 2006

Master Mundus追加情報

専用サイトが設置されたと連絡がありました(11月1日の項に追記)。すでに複数の日本人に連絡が行っているようなので、今回はメールでは流しません。もしかすると新たな情報が追加されているかもしれませんので、興味のある方はチェックを、周りに興味のある方がいらっしゃりそうな場合にはアナウンスをお願いします。hf

Sunday, November 19, 2006

予行演習にゼミを活用する

現在、「《大いなる息吹…》 ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』における呼びかけ・熱狂・情動」(仮)という論文を執筆中である。

『二源泉』に現れる《声》《火》《道》のイメージを丹念に追いかけることで、「開かれたもの」(開かれた道徳・動的宗教)のダイナミズム、創造的行動の論理の構成要素、すなわち《呼びかけ》《熱狂》《情動》の諸特徴を明らかにするとともに、哲学研究において隠喩をたどること、テクストの声に耳を傾けることの重要性を強調する――といった趣旨である。

先々週、h大学aゼミで、先週t大学sゼミで、それぞれ予行演習として発表させてもらった。自分の考えをまとめるのにこういった形で親しい先生方のゼミを使わせてもらうのが好きだ。勝手知ったるアットホームな雰囲気で、けれど真剣勝負で発表する。

まあ、往々にして最初はアイデアをたくさん詰め込んだまとまりのない発表で、聞いていただく方々に申し訳ないくらいなのだが、それでも徐々に形になっていくのだから、やはり発表はしてみるものだと思う。人それぞれ自分なりの仕事のスタイルがあるから、別にお勧めするわけじゃないけれど。

発表はたいてい同じ反応。最初に哲学科で聞いてもらうと、たいてい構成がクリアでないと言われるので、ここで大枠を明確にするよう努める。次に仏文科で聞いてもらうと、専門ではないので難しいと言いながら、けっこう細かい点をいろいろと突っ込んでくれるので、ここで微調整する。

先週の発表では読み上げ原稿を完成できず、三分の二程度はアドリブで喋ったのだが、そのほうが圧倒的に分かりやすくて面白かったとほとんど全員言っていた。喜んでいいのか悲しむべきなのか。

水曜が締め切りなのに、まだ最終形が見えない。『二源泉』を読んだことのない人にも分かるように丁寧な序論を書いたら、それだけでかなりの分量になってしまったので、ひとまず《声》《火》《道》で三分割することに決めた。というわけで、今回は「(上)《声》-呼びかけにおける人格性の問題」を扱う。査読側がなんと言うか分からないけれど…。

Friday, November 17, 2006

近況

このへんで、帰国後の仕事ぶりをまとめておきます。まず研究発表。

1)9月9日(土)日仏哲学会2006年秋季研究大会(於:法政大学)にて、「ベルクソンと目的論の問題-「苔むした」生気論?」と題した研究発表を行なう。

2)9月18日(月)第20回ベルクソン哲学研究会(於:学習院大学)にて、「場所の記憶、記憶の場所-ベルクソンとメルロ=ポンティ」と題した研究発表を行なう。

3)10月28日(土)日本フランス語フランス文学会2006年秋季大会(於:岡山大学)にて、「唯心論(スピリチュアリスム)と心霊論(スピリティスム)-ベルクソン哲学における催眠・テレパシー・心霊研究」と題した研究発表を行なう。

1と3はそれぞれの機関紙に掲載されるよう、これから論文化を鋭意行なっていくつもりですが、2は機関紙がないのでどうしたものか。

次に、論文(掲載決定済み・現在投稿中・投稿予定)ですが、

4)カッシーラーのベルクソン『二源泉』に関する長い書評(というより研究論文)の仏訳、および、それに付した私のこれまた長い序文が『ベルクソン年鑑』(PUF)に掲載されます。近日校正刷が送付されてくる旨(ようやく・・・)連絡がありました。

5)「哲学の教育、教育の哲学」(仮)と題するエッセイを某所に投稿中。これは厳密には私の研究分野ではありませんが、興味をもっている主題の一つなので、これまでに書きなぐったものを出してみました。まったくの床屋政談ですが、どうなることか。

6)大学紀要に「《大いなる生の息吹…》 ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』における呼びかけ・情動・熱狂」と題する論文を投稿予定。現在鋭意執筆中です。

これからの執筆計画。

7)ベルクソンにおけるメタファーやアナロジー(修辞学の問題)に正面から取り組んでみたい。これは来年春の仏文学会向け。

8)来年の百周年トゥールーズ篇では、もう一度「目的論」の問題を取り上げなおし、いっそうの深化を試みるつもり。あるいは技術論をやり直そうか。

9)最後に、問題の大論文。これらと同時並行的に。というか、これらの仕事は全部、大論文のélaborationの過程なわけですが。

Monday, November 13, 2006

テクストの聴診-杉山直樹『ベルクソン 聴診する経験論』

ネットでフランス哲学に関するラジオが聞けるという話をした。朗読や講義のCDがあるという話もした。もちろん重要なのは有名人のお話(師のお声)を謹聴することではない(2005年3月2日の項「追っかけは追っかけ(『異邦人のまなざし』余談2)」)。聴くという体験を通じて思考を紡ぐことが何をおいても重要なのだ。

「聴く」と言えば、日本のベルクソン研究者一同が待望していた杉山直樹氏の著作がこの10月に刊行された。その名も『ベルクソン 聴診する経験論』(創文社)。カバーに印刷された仏語題名は、

Naoki SUGIYAMA, Bergson, auscultateur de l'expérience, Sobunsya, 2006.

となっている。いずれ仏訳していただきたいものだ。書評はまた別の機会にして、本書の印象を一言で言えば「王道を行く」という感じ。私はしばしば杉山氏を「日本のヴォルムス」と呼ぶのだが、そのような直感は間違っていなかった、と本書に目を通しながら思った。

王道にもいろいろあるので、守永直幹氏の著作『未知なるものへの生成 ベルクソン生命哲学』(春秋社、2006年)も、個人的には「王道」路線だと思っている。ファイティング・ポーズが勝っているので、分かりやすく言えばマイク・タイソン、より正確な比較対象を探せば輪島功一ということになろう。杉山氏は、一見より穏やかだが、舌鋒は鋭い。分かりやすく言えばモハメッド・アリ、より正確な比較対象を探せば具志堅用高ということになる。プロレスで分かりやすい例を探せば、猪木と馬場となる(ちなみに「猪木スタイル」必ずしも「ストロングスタイル」ならず、と言っている人がいるが卓見である)。

ちなみに、檜垣立哉氏の『ベルクソンの哲学 生成する実在の肯定』(勁草書房、2000年)は、入門書と研究書の中間くらいという位置づけだと思うが、チャーミングな魅力に満ちているので、『酔拳』のジャッキー・チェンといったところであろうか。千鳥足だからと打ちかかったらとんでもない目に遭う。彼の研究スタイル全般に言えることだが、やりたい放題に見えて、けっこう計算されているのだ。

話を元に戻せば、ベルクソンを「経験の聴診者」と定義する杉山氏自身のアプローチが実にベルクソニアンである、つまり「聴診的」である。
[ベルクソンの文体は]流麗なリズムをそなえた繊細な文体、などと言われはするし、確かに目の前の数行単位で読む限り、彼の言葉はそう言われもしよう心地よい滑らかさを有してはいると思うが、しかしそうしたフレーズたちが構成する全体はというと、それは私には、実に見通しの悪く、ぎこちない、今にも崩れそうな集塊のように映る。ノートを取り、用例集を作り、自前のレキシコンを作成し、つまりは「哲学書」を前にしての通常の読みの作業をするのだが、こんな難物はない。[…]このような哲学を「明晰」だの「端正」だの形容する人々が少なくないようだが、きっと彼らは、ベルクソンのテクストを本当に自分で読んだことがないのだ。

引用の仕方でその人がテクストを読むという行為をどう考えているのかは如実に分かる。explication de texteの伝統のない場所では、読むという行為にあまり注意が払われないようにも思える。引用とは添え物ではないし、偉大な哲学は論理の骨組みだけに解体されはしない。

というわけで、本書にはいくつかの偏りが生じている。本書は「ベルクソン哲学」というものの包括的な注釈書とはなっていない。参照される著作のページリストを作れば、どこが素通りされているかは明らかだと思う。私としてはまず、テクストとして前述の「異様さ」を強く孕むと感じられた箇所を中心に読解を試みたつもりである(ある意味、この取捨選択が本書の一番大きな主張だとも言える)。[…] このように一定のテクストの読解だけにこだわる態度がある種の顰蹙と嘲笑の対象になることは分かっているが、今の私は、騒がしい「アクチュアリティ」にとびつくよりもむしろその種の地味な作業を続けることにこそ意義があるように感じている。

テクストを前にすればごく当たり前の態度をこのように「偏り」と呼ばせ、いくつかの特権的テクストを執拗に読解し続ける態度が「ある種の顰蹙と嘲笑の対象になることは分かっているが」と予防線を張らせずにおかない場所において、哲学のテクストを「読む」とはいったい何でありうるのだろうか?

この「読む」ことに関する無関心はまた、「読みあげる」ということに関する無頓着と切り離せない関係にあるように思う。現在の哲学系(思想系ではない)の発表はたいがい原稿を事前に配布しそのまま読み上げる形式のものだが、形式としては実に退屈で工夫がない。原稿を配るのなら、わざわざ読み上げる必要はないではないか。

もちろん、目の前にテクストがあったほうが親切だという考えは分からないではないし、一字一句を点検できるという意味で可能性としては緻密な議論が展開できるようになっていることは認めるが、テンションが如実に下がることもまた事実だ。これでは、耳で話を追うという重要な思考の体験がまったく蔑ろにされていると思うのだが、どうだろうか。思考の刺激ということだけから言えば、いっそ「4分33秒」のケージよろしく発表時間中ずっと沈黙を守っていたほうがいいのではないかと思うくらいだ。

海外では数え切れないほど発表を聴いたが、読み上げ原稿を配布する場面に出会ったのは、外国人相手とか自分が慣れない外国語で話すとか、そういう例外的事態だけである。もちろん、何も配らないことが多いフランス流のやり方が完全だというのではない。おそらく両方の中間くらい、各項目のレジュメ+引用文がいいのではないか。

「読む」ことへの無関心、「読み上げる」ことへの無頓着は、結局のところ「聴く」ということに対する不感症に通ずる。何度でも言おう。耳からはじめること、哲学の歌を聴け。

Saturday, November 11, 2006

哲学の歌を聴け(追加情報)

あがるまさん、「ファンレター」(!)、ありがとうございました。読みやすいシンプルな外観さえ整えば、あとはあまりデザインにこだわらないという私のような機械音痴にとって――この怠惰があまり快いとは言えない事件を惹起したりもしましたが――、ブログは大変便利な道具です。

今のところ直接お顔とお考えを存じ上げない方とブログ上で交流させていただくことには消極的ですが(したがってこういった形でいつもお返事を差し上げられるか分かりませんが)、いただいた貴重な情報は皆で共有できればと思いますので、これからもぜひご教示くださいませ。

*あがるまさんのメールより一部抜粋
ウィーン大学の講義や講演(の一部)はhttp://audiothek.philo.at/modules.php?op=modload&name=Downloads&file=indexで聞くことが出来ることを知りました。大御所E.Tugendhatの2002年の動物と人間の違ひについての2つの講演などもあり、内容は余り面白くもなささうですが、話し方は明確で聞き易いですね。その他の大学はどうなつてゐるのか知りませんが、Toulouse大学の資料の頁は充実してゐました。ところでパリのF.Dasturの許で(10年くらい前に)九鬼周造についての論文を書かれた方の消息をご存知ですか?

こういった「耳」の情報、とてもありがたいです。最近はいろいろな音源がネット上にアップされていて、こういったものを「哲学耳」のトレーニングにどんどん活用していくべきだと思っています。九鬼の方は存じ上げません。DasturはパリⅠのあと、今は亡きジャニコーの誘いでニース大学に移り、近頃退官したはずです。私は彼女を見るといつも「やんちゃで憎めない精悍なドラ猫のようだ」と思います。彼女は私と会うといつも(たぶん日本人なら誰にでも)「デリダとヘーゲルについてすごい博論を書いた日本人がいるんだけど、知ってる?どこの出版社も出してくれないのよ」というのですが、そのたびに「名前なんだっけなあ」と言ってました。覚えといてよ、っていう(笑)。日本人の名前って彼らには難しいですからね。

Thursday, November 09, 2006

『創造的進化』百周年トゥールーズ篇

トゥールーズ大学のサイトに告知されてしばらく経つから、もう日本でも伏せておく必要はないだろう。来年はベルクソンの『創造的進化』が刊行されてからちょうど百年目にあたり、世界各国でそれを祝う催しが企画されている。トゥールーズ大学でも来年2007年の4月にAtelier Bergsonを開こうという企画が持ちあがり、私にorganisateursの一人になるよう要請が来た。

まだろくにキャリアもスタートしていない人になぜ、と驚いてはいけない。フランスではコロックを仕切るのは、どちらかと言えば、将来を見込まれた(?)若人たちのやる仕事なのである。フランスの御大たちはむしろ自ら率先して発表をしたがる。これは齢を重ねるほど落ち着いて「差配」仕事だけを引き受けたがる風土とはかなり異なる。

今回の一件で本当に驚くべきは、まだろくにキャリアもスタートしていない「外国人」になぜ、ということである。これには正直私も驚いた。それとともに、人種の分け隔てなく人を見る目を持った(?)co-organisateursに驚嘆もし感謝もしている。と同時に、冷静に見れば、これは「アジアを引き込む」という遠大な戦略のごくわずかな一端なのだとも思う。

それはともかく、今回の私の望みは、1)『創造的進化』に関する日本最強布陣をつくること(もちろんフランス語ができることが最低条件である)、2)フランス側に旅費を出させること、であった。二つ目は些細な金銭問題のようだが、決してそうではない。フランス側にほぼ全額出してもらって日本人哲学者チームが丸ごと呼ばれたことが、果たして過去何度あったか?

日本人がフランスに行って発表したといっても、たいていの場合は個人招待が限度、グループの場合は持ち出しが多い。しかし相手の誠意、こちらに対する評価は、そういう部分に表れるのである。望みは十分に叶えられたので、とても満足している。

このブログを読んでくれている数少ない私の友人たち――しかし真の知的友情とはいつの時代も稀なものだ。無理に耳目を集める必要はない――にはまだもう少しサプライズがある。いずれここで一番にご報告できればと思う。

Tuesday, November 07, 2006

哲学の歌を聴け-『意志的隷従に関する文言』のCD



フランスやドイツには哲学関係のCDが少なからず存在する。ドゥルーズのものは日本でも(日本でこそ?)よく知られているであろうから、ここでは日本人にとってもっと切実な意味で重要なCDを紹介しておく。切実だという理由はすでに述べたことがあるので、ここでは繰り返さない(2003年8月2日の「意志的隷従と怠ける権利」の項を参照のこと)。

朗読しているドゥニ・ポダリデスは、名前からしていかにもギリシャ系移民の二世ないし三世。私のお気に入りの役者だ。コメディー・フランセーズで「リュイ・ブラース」に出演しているのを見たこともあるし、ブルデューの息子の情けないドキュメンタリーにも友情出演したりと芸の幅は広いが、やはり軽い映画がいい。ガストン・ルルー原作の『黄色い部屋の謎』は誰にでもお薦めできる佳作である。

このCDを出しているテレーム出版社の名前はもちろんラブレーの「テレームの僧院」から来ている。作家・思想家の言語のもつ「音楽性」に注目し、「声に出して読むことは、偉大なテクストを誰の手にも届くものにする」と宣言できるのは、それ以前のフランス知識人たちの地道な努力、歴史の積み重ねがあるからにほかならない。日本の哲学はどうだろうか?「聞くに堪える」だろうか?あるいは、より正確に言えば、思想の重みに堪えて聴き続けようとする聴衆はいるだろうか?



日本でも西田の対談の録音などが残っているようだが、記念館の独占物にしておくというのはいかがなものか。また、西田の主著の録音などは不可能なものか?もし不可能に思えるなら、なぜ不可能なのか?近代日本の哲学がはらんでいる問題の核心には案外そんな素朴なところから接近できるかもしれない。耳から始めること、哲学の歌を聴け。

Sunday, November 05, 2006

哲学に-耳を澄ませば(ネットラジオの効用) 

哲学の祖をソクラテスとするか、プラトンとするか。いずれにしても、哲学と耳の関係は決定的に重要だ。ソクラテスは著述活動より口頭での対話を自らの思考の手段として選んだ。プラトンはそのスタイルをできるかぎりエクリチュールに、すなわち韻とリズムを重んじた言葉に移し変えようと試みた。

日本の西洋哲学研究にはいろいろと大きな問題があるが、その一つに「耳」の問題がある。より詳しく言えば、西洋諸語を聴くことの困難という問題があり、また翻訳日本語で西洋哲学を聴くことの困難という問題がある。

*

フランスは文化国家であり、日本は教育国家である。フランスにはarteがあり、日本には教育テレビがある。フランスには一流の研究者が最先端の研究成果を自由に発表するコレージュ・ド・フランスがあり、日本には大家が実に行き届いた入門コースで懇切丁寧に教えてくれる放送大学がある。

悪平等社会である日本は「目」新しいものをすぐに取り入れる自由闊達さがあるが、また資本の論理に従ってすぐに忘れてしまうという気風があり、階級社会であるフランスは外来のもの、新手のものをなかなか取り入れないが、いったん取り入れると粘り強く「耳」を傾けるという気風がある。ニュートラルに言えばそういうことだが、殊高等研究に限って言えばそうはいかない。

日本では大衆教育や啓蒙には金を出すので人が集まるが(文化センターやレクチャー・コースの隆盛を見よ!)、金を出すだけではどうにもならない高等研究は遅々として蓄積していかない。建築への意志、文化への意志、すなわち堅固(堅実にして着実)な制度化が欠けているのだと思う。アメリカのそれとかなりよく似た、自由で軽やかで純粋資本主義的な状況下で、日本の人文科学、とりわけ哲学・思想研究は無限の後退戦を強いられている。

このような気風を一朝一夕に変えられるわけもないし、状況を客観的に見れば、そんなことを望むことすら非現実的と笑われかねない。だが、小さなところから始めることは暗い時代の人々にも可能だし、暗い時代にはむしろそのようなところから始めざるを得ない。

France Cultureでは、毎週金曜日に哲学に関する放送「Vendredis de la philosophie」が朝十時から一時間放送される。私たちはそれをネットで聴き、podcastで録音していつでも聴きなおすことができる(Windowsでも)。日本はどうだろうか?日本の哲学は、真剣な哲学・思想研究は、人々の耳に届いているだろうか?

耳から始めること、哲学の歌を聴け。

***

p.s.ラクラウ=ムフのすでに古典となった『ヘゲモニーと社会主義者の戦略』に関するバリバールらとのCollège International de Philosophieにおける討議もよろしければどうぞ。

Wednesday, November 01, 2006

Master Mundus、あるいは無限の後退戦を戦い抜くこと

数ヶ月前からすでに数人の方にはお知らせしておりましたが、Master Mundusがとうとう本格的に動き出すこととなりました。

Erasmusというヨーロッパの大学間短期留学・単位互換制度はご存知の方も多いと思います。Erasmusは学部レベルですが、それを今度は大学院レベルで長期、それも独仏の哲学・思想研究の少数精鋭に絞ったもの、それがMaster Mundus EuroPhiloです。

詳細は当該サイトを参照していただきたいのですが(専用サイト設置:2006年11月22日追記)、年間2万1千ユーロ(150円換算だと315万円)相当の奨学金を得ながら、二年間で仏・独などの三つの大学で優秀な研究者のもとで研究し、フランス哲学とドイツ哲学両方のスペシャリストを目指す、というものです。この制度に非ヨーロッパ圏からも参加者を募ることがこの度正式に決まった旨、フランス側の代表者であり私の友人でもある
Jean-Christophe Goddard氏から連絡がありました。

一年に全世界(非ヨーロッパ圏)から13人だけ選ばれるという超難関コースですが、教育内容的にも財政的にも恵まれた環境で研究するという経験は、日本の優秀な哲学・思想系の若手研究者にとって何物にも代えがたい財産となることでしょう。

この壮大な実験を見るにつけ、現在の日本の西洋哲学・思想研究には大きく二つの構造的問題があるという事実が浮かび上がってきます。今この話に関係のある限りで簡潔に言えば、一つ目は、哲学研究における語学教育(とりわけ書く・話す)の軽視や早期からのインテンシヴな教育の不在など、「高等教育」という視点が決定的に不足していること、二つ目は、ドイツ哲学とフランス哲学の間に積極的な共闘の姿勢があまり見られず、とりわけ「両刀使い」を育てようとする姿勢がほとんど見られないことです。
Cf. 以前書いたgribouillage「哲学の教育、教育の哲学」を参照されたい。
(1)数の問題 (2005年2月21日)
(2)エリート教育の問題 (2005年5月9日)


私たちの国の問題を他国の新制度によって解決できるなどと幻想を抱いているわけではありませんし、日本人にとって西洋諸語の言葉の壁が大きいことも重々承知しています。ただ、手遅れになる前にその欠を少しでも埋めていくのは現在の大学人、哲学・思想研究者の責務であるとも思っています。人文科学が強いられている無限の後退戦をただ嘆くばかりでは何も始まりません。若手の優秀な研究者の出現を偶然の産物とするのでなく制度的に促進していくこと、今回のMaster Mundusはそのごくわずかばかりの補完になりうるのではないかと期待しています。

自薦他薦を問いませんが、皆様の周りの優秀な大学院生(来年度から即留学できるので修士終了間際がベスト、博士前半まで)をこの制度にご推薦いただけませんでしょうか?現実問題としましては、フランス語ないしドイツ語のどちらか一つがとてもよく出来(読み書き話す)、もう一つは読める(少し話せる)くらいでよいと思います。仏独の思想を研究対象としていれば、どの学科に所属していても問題はありません。

フランスの大学に応募される場合、いろいろとご相談に乗ることも出来るかと思いますので、どうぞ私のほうまでお気軽にご相談くださいませ。

Wednesday, May 31, 2006

最後の発表

とうとうフランスで最後の発表が終わった。これからもフランスで、あるいは海外で発表する機会があるといいけれど、ともかくも「武者修行」の一階梯としては終わった。

いろんなところで発表してきた。フランスのニース、イタリアのチッタ・ディ・カステッロ、ノルウェーのベルゲン…。リールでは小さい発表も含めれば、かなりやった。

もちろんやりのこしたことがないと言えば嘘になるけれど、後悔はしていない。自分なりにできることはやってきたと思う。

(サッカー選手の大久保が帰国したそうだけれど、彼のも含め、「欧州組」のインタヴューにはいつもいろいろと考えさせられた。)

*

最後の発表は、2006年5月17日水曜日。午後5時から7時まで、マシュレ・ゼミで行われた。与えられた発表時間は一時間、質疑応答が一時間。

外国人や新参者の作法は与えられた規則を完璧に守ることであり、望むらくは、それでいて、内容において、大方の聴衆の予想をいい形で裏切ることである。

バリバールなどの「権威」筋は悠々と与えられた時間をオーバーして喋るが、若手や新参者がそれをやるのは好ましくない。発表や講演は聴衆あってのものであり、聴衆の注意・忍耐力は若手や新参者に対してそれほど寛大ではないからである。もちろん発表の内容が格段に面白ければ別だが、それにしても限度はある。

数週間前にバリバールがマシュレ・ゼミに来たときは、1時間50分喋った。おかげで質疑応答がほとんどなかった。私が唯一の質問をする特権を得たのだが、まともに発展させられなかった。友人たちはそれでも「名人」のお話を長時間拝聴できて至極満足そうだったけれど。

私はちょうど一時間きっかりで終えた。これは少し後悔している。あと五分から十分延ばしてでも、具体例を交えて、論点を補強すればよかった。マシュレ・ゼミの常連でもあり、ある程度発言を認められてもいるので、そのように振舞うことは、発表の内容を豊かにするという意味でも、むしろ望ましいことであったろう。

*

発表後の質疑応答では、まずマシュレがこれまでの6年間を振り返り――私の6年間はまた、マシュレ・ゼミの6年間でもあった――、私の努力をずいぶん賞賛してくれた。これは本当に嬉しかった。なぜなら、彼こそは私がどのような努力をしてきたかを最もよく知る人だからである。

ゼミの最終回(5月24日)が終わった後の打ち上げ(仏語でpotという)で、マシュレは乾杯の音頭をとって、こう言った。「この乾杯は、6月に帰国してしまうわれわれの友人hfに捧げたいと思います。彼はこのゼミに本当に多くのものをもたらしてくれました」。

むろん彼だけではない。このゼミに定期的に参加している誰もが、私の努力と進歩の軌跡を知っている。私はこのリールで少しずつ友人の輪を広げてきた。遊び友達のことを言っているのではない(ここはそれを語る場ではない)。仕事のレベルの話をしているのである。この「知的な友情」はいくつかの形で花を咲かせた。これから実をつけていくだろうか?

それはともかく、質疑応答はいつの日かやってくる諮問を想定した形で行われ、その意味でためになった。主に、「ベルクソンと現象学の関係」「ベルクソンの傾向概念とシモンドンの個体化理論の関係」などが話題にあがった。これについてはまた後日。

*

発表後、ゲストスピーカーの恒例行事となっているマシュレとの晩餐に連れて行ってもらう。とはいっても、派手嫌いのマシュレのこと。リヨン料理を出すこじんまりしたレストラン(というか大衆食堂?)で、なごやかに食べ、しばし歓談にふけった。これも思い出になるだろう。

*

テキストは推敲を経て、昨日、研究グループ"Savoirs, Textes, Langage"のサイトに掲載されたので、ご興味のある方はどうぞ。

Friday, May 12, 2006

騎馬槍試合か、ボクシングか(質疑応答の作法)

発表が来週に迫ってきている。毎回、発表のたびに、課題をもって取り組もうとしている。少しでも内容をより豊かなものにしようといった一般的な注意点だけではなく、「めりはり、緩急をつけよう」とか、「聴衆の反応を見て難易度の調整をできるようになろう」とか。ほんのちょっとしたことなのだけれど、これがフランス語だと、日本語でよりもさらに難しくなる。

聴衆とのアイコンタクト以外にも大事なことはある。自分が発表者ではなく、質問者である場合。コロックのような場所での質問と、ゼミでの質問はやはり同じような仕方でするわけにはいかない。それぞれのTPOを考えつつ、掛け合いというか間合いを図るのが難しい。フランス語だから難しいというのもあるが、それぞれの分野の特徴のようなものを頭に入れておかないといけないので余計に難しいのだ。

私はしばしば「フランス哲学の質疑応答はjouteのようなものだ」と言う。joute(ジュート)とは、中世の騎馬槍試合のことである。この試合の目的は、相手をむやみやたらに突き殺すことにあるのではない。高度に儀式化され、形式化されたこのゲームの目的は、いかに優雅に相手の急所とされるところに軽く触れて見せるか、というところにあるのである。

フランス哲学者の保守本流たちの議論は、素人目には勝負がついていないように見える。お互いに優雅に称え合っているだけのようにも見える。しかし実際には、大抵の場合、勝負はついているのである。

科学哲学や古代哲学あるいはphilologieの分野では、事情はまったく異なる。これはボクシングである。すなわち、いかに的確に最も強い力で相手を打ちのめすことができるか、が重要なのである。しかし、さらに重要なことは、ボクシングはストリート・ファイト(喧嘩)ではない、ということだ。科学哲学者たちは「お前の言ってることはナンセンスだ」と言わんばかりの猛攻撃を仕掛けあうが、よほどのことがないかぎり、議論が終われば、後は仲良く飲み仲間になる。フランス哲学のほうは、飲み会のほうも限りなく社交界の縮小再生産である…。あんまり具体的に書けないけどね(笑)。

Tuesday, May 02, 2006

Penseurs japonais(日本の思想家たち)

店頭で見て驚いた。



今年の3月に発売になった本らしい。
http://www.lyber-eclat.net/nouveautes.html#kassile1

幾つもの懐かしい顔、よくメディアで見かける顔が見られてよかったし、彼らのフランス語力を知ることもできてよかった。中身は…。

しかし、いずれにせよ、dialogues du commencement ならぬ、commencement des dialogues が必要なことだけは間違いない。まだ始まってもいないのだから。

Wednesday, April 26, 2006

固有身体、身体の所有(身体=技術哲学)

固有である(être propre)とはどういうことか。

あるものに固有であるということは、あるものをしてそのものたらしめている、ということである。内角の総和が二直角に等しいという事実は三角形の本性から演繹されるものである以上、三角形に固有である(être propore)。つまり三角形の特性(propriété)である。

所有物(propriété)を所有(appropriation)するとはどういうことか。

所有の原理とは比喩的・アナロジカルなものであるのか。あるものとそれに固有なものの関係と、所有者とその所有物の関係は相似である、といったように?

何かを所有するという身振り、さらには何かに固有であるという存在様態の奥に潜む人間学、存在論とはいかなるものであるのか。

あらゆる身体の哲学は、実は、この驚くほど単純で、恐ろしいほど神秘的な問いへの応答の試みではないのか。なぜなら身体とは特性(propriété)と所有物(propriété)の間で揺れ動くものだからである。そもそも原理的に切り離しえないもの――だが、これはそれほど自明なことではなくなりつつある――を手に入れるとはどういうことか。

おそらく以上の言述はひどく抽象的なものに見えるかもしれない。サミュエル・バトラーの言葉を引いておこう。

「多様な人種を区分する主なものは、黒人諸部族、チェルケス人、マレー人、アメリカ原住民などの間に求めるべきではなく、むしろ、金持ちと貧乏人との間に求めるべきである。この二つの人種に見られる身体組織の差異は、いわゆる人種の類型間にある差異よりもはるかに大きい。金持ちの人間は、ここから英国へと、行きたくなればいつでも行ける。それに対し、もう一方の人間の脚は、目に見えぬ運命にしばられて、彼らを一定の狭い範囲を越えて運んでいくことができない。

…自分の身体に、いずれかの太平洋航路客船会社の一船室を付け加えられる人は、それができない人よりも、はるかに高度な身体組織にめぐまれているのである。

…見事にあつらえられた一揃いの手足をもつのは、大金持の人間でしかない。われわれは、このうえない科学的厳密さをもって断言することができるのだが、知られうる限り最も驚くべき身体組織となっているのは、かのロスチャイルド家の人々にほかならない。」

ここにベルクソンの身体=技術哲学の根本原理をなす一節を重ね合わせる。

「有機的に組織された(ほかならぬ直接の行動を目指して組織された)われわれの身体は、ひどくちっぽけなものだが、その表面がわれわれの現実運動の場所だとすれば、有機的ならぬわれわれの巨大な身体(宇宙)は、将来とられうる行動の、また理論的に可能な行動の場所だと言える。

…われわれの身体諸器官が自然の手になる道具と言えるとすれば、われわれの手になる道具は、当然人工の身体器官だということになる。職人の使う器具は、彼の腕の引き続きだと言えよう。してみれば、人類の道具制作は、自分の身体の延長である。」

ドゥルーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス』や『ミル・プラトー』がこの延長線上に来るのはもはや明白である(ドゥルーズをきちんと勉強していない人のために言っておけば、先のバトラーの一節は、若きドゥルーズがつくった教科書的アンソロジーからの引用である)。この問題系に、表層的なレベルではなく、最も概念的なレベルで、しかし常に現実から離れることなくアプローチすることを可能にするもの、それが身体なのである。

いかに冗談ととられようとも(笑)、「結婚の形而上学」とその脱構築が位置するのも、まさにこのレベルにおいてである。愛する人を所有するということ、とはどういうことか。浅見さんの本は出発点として貴重である。私たちは哲学的な問題としてまだまだ展開できるし、西洋哲学史にはいくらでも扱うべきテクストがある。

Tuesday, April 25, 2006

怠け三題

アレルギーに悩まされている。動物の毛というか皮膚成分+ハウスダスト+花粉症のトリプルパンチである。フランス北地方の花粉の飛ぶ時期は2~4月らしいのでそろそろ終わってほしいのだが、ひどいときはまったく何もできない。する気さえ起こらないのである。

アレルギー患者でない人の目には「単に怠けているだけ」と映るようで、そのような無理解はもちろん十分理解できることなのだが、実際は怠けているのではない。偏頭痛や生理などの身体的理由、欝などの心理的理由から仕事が手につかない、という人にはお分かりであろう。

*

私自身はさほど怠け者だとは思っていないが――昨年度だけで論文4本、ドイツ語からフランス語への翻訳ひとつ、発表を5つ(仏語2、英語1、日語2)やっているのだ。怠け者などと言われる筋合いはないと思うが――、しかし、たしかに学者の仕事につきものの「怠け」というものもある。

教育者・大学教員としての話をしているのではない。学者・研究者には、芸術家に近い、創造的な部分があり、この部分を単にお役所仕事的に、半ば機械的・事務的にこなしていくのは、予算をとるためといった外的な理由を除けば、あまり意味がない。

短期的・個人的には利益もあり、「生産性」もあるかもしれないが、真の意味で生産的・創造的であるとは言えない。創造的であるためには余暇や怠けが必要であるという点で、少なからぬ思想家・芸術家の意見は一致している。

*

フランス人は怠け者でバカンス好き、日本人は働き者で有給もとらない、といった紋切り型が通り相場かと思うが、別の見方もあり、それはそれで筋が通っている。日本人の働き方は効率が悪い、朝から晩までずっとオフィスにいるが、常に集中して仕事に取り組んでいるわけではない、というものである。だからといって、フランス人の勤労意欲を弁護しようという気にもなれないのだが(笑)。

しかし、哲学者に限って言えば、フランス人のバカンスの取り方はやはり堂に入っている。何度も言うように、日本では哲学というのは教授の子息でなければ変人のやるものであるが、ヨーロッパでは教授の子息でなければブルジョワや貴族崩れのやるものなのである。この社会階層の違いは、よきにつけ悪しきにつけ、哲学をする「スタイル」にまで影響を及ぼしている。

*

近況としては、四月末までに共訳書の2稿をひとまず終え、それと同時に身体論文の校正を終える予定。同時並行で、5月中旬の発表の準備も進めている。これだけ働いても文句が出るのだから、やはり社会人というのはおそろしく働いているらしい。…日本人だけという気もするが。バカンスなのに、こんなに狂ったように朝から晩まで働いているのは。

Friday, April 14, 2006

翻訳について(1)

ここしばらく書くほどのことがない。そういうわけで、(き)(ふ)さんたちからお借りしているユリイカ特集号『翻訳作法』から抜粋でもしようか。

柴田元幸のインタヴュー≪君は「自己消去」できるか?ゼロ志向の翻訳ゲーム、最強プレイヤーかく語りき≫より

≪実は翻訳ほど、受験英語をちゃんとやったことが報われる仕事もないんじゃないですかね。[…]誰も使わない表現や古くなってしまった表現なんかを教えたって仕方がないっていう批判があるわけですが、翻訳する上ではどんな表現も一通り知っていたほうがいい。[…]受験英語で覚えて、そのあとずっと見たこともなかったけど、翻訳していて小説のなかで出会った表現というのはけっこうある気がする。≫

≪大学の授業で学生の翻訳を見ていると、特に「時制」についての理解が雑だったりします。[…]「時制」の理解は、翻訳する上ですごく重要です。≫

≪基本的な表現に関しては、単に辞書的な意味を知ってるだけじゃなくて、その言葉の「顔」を実感としてわかっていることが大事でしょうね。tiredと言わずにexhaustedと言ったら「あー疲れた」という疲労感がより強いとか、justifyは「正当化する」と訳されるけど、日本語の「正当化」みたいに否定的なニュアンスは普通ないとかね。そういうのを覚えるにはやはり受験勉強のようなやり方ではなく、濫読的に英語を読んだり、映画を見たりするのがいいでしょうね。もちろん英語圏で暮らすのが理想だけど、なかなかそうもいかないし、英語圏に住んでも周りが日本人ばっかりだったりするとあんまり効果はないしね。≫

≪一度「この言葉はこう訳せばいいんだな」と定まってしまうと、もう文脈も考えずに、自動的にそう訳してしまう。これはマズいです。やはり原文のトーンを聞かないといけません。だから、翻訳は数をやればうまくなるかどうかも実はわからない。逆にある種の「型」にはまってしまう危険性があるかもしれません。これって人生すべてそうかも(笑)。≫

≪岸本佐知子さんが言ってましたが、「翻訳者は小心者のほうがいい」ということもあって、「辞書にはこう書いてあるけど、これでいいのかな」と常に不安を感じる人のほうが向いてますよね。特に、形容詞、副詞とかで、辞書にそう定義が載っているからといって、なんかしっくり来ないなあと思いながらそのまま書いたりするのはマズい。そういうときは、少なくとも英英辞典の一冊や二冊は引かないとね。英英辞典は形容詞や副詞に関しては英和辞典よりずっとよくわかる。そもそも英和辞典はたいてい、プリンタとスキャナとファクスの複合機みたいな感じで、どんな状況にも対応できるように、よく使う意味もあまり使われない意味も全部ずらっと並べていて、どれを選んだらいいかよくわからないことが多いですよね。それに対して、ロングマンなどで出している学習用の英英辞典は、あまり使われない意味は見事に切り捨てています。現代英語を訳す上では、むしろそのほうがありがたかったりもする。まあ、何でも載ってる英和と併用するからそう思うんでしょうけど。≫

≪たしかに昔の翻訳者には、英語のスピリットがよくわかっていなかった人も多かったかもしれない。文字通りにも比喩的にも英語が「聞けない」し、文章を読んでもそのトーンがわからないということがあったかもしれません。バイリンガルの人たちはその逆で、英語のトーンとか、どういう感じかというのはよくわかるんだけど、そこで完結してしまって、それを日本語ではどう言えばいいかということをあまり律儀に考える気にならないんじゃないか。まあでもバイリンガルの人だってみんな一人ひとり違うから、あんまり一般化しないほうがいいでしょうけど。[…]理想的ってことで言えば、もっと若い人たちのなかで出てきはじめている、アメリカでバリバリ勉強してきて博士号までとってきて英語力から発想からボディランゲージから何から全部身につけてきた人のほうが理想的じゃないですかね。なんて言うと嫌味か(笑)。≫

≪人文科学の翻訳が総じてひどいのは、心理学なら心理学の専門家が一人で訳しているからであって、ほんとは心理学の専門家と英語を専門にしている人間が協力し合うのが理想。それと同じことを、日本語母語者と英語母語者でやるといいよね。≫

≪英語翻訳の場合、英語について言えば、いろんな英語の文体を知っていて、いろんな声を聞き分けられる、ということは必要ですね。日本語の語彙や表現も豊富でないと、ということもよく言われるし、理屈としてはそうだと思うけど、実感としてはあんまりそういう感じがしないですね。僕は日本人として決して語彙が多いほうだとは思いません。敬語とかも全然知らないし(笑)。で、実感としてはむしろ、「この文体には、この日本語はそぐわない」というように、「原文の雰囲気や感じにそぐわない言葉を削り取る」能力が大事な気がする。例えば、ヘミングウェイの禁欲的な文体に妙に男臭い、安っぽくハードボイルド風の言葉が混じってしまうとかいうのは、マズいよね。

 英語は、土着的なアングロサクソン語と、知的なラテン系の言葉で成り立っている。それと同じように、日本語も、土着的な大和言葉と、インテリ発の漢語で成り立っている。だから、レベッカ・ブラウンやポール・オースターが書くような、アングロサクソン語中心の文章を、やたら漢語の多い日本語にしてしまうと、かなり違ったものになってしまう。推敲する作業って、そういうそぐわない言葉を抜いていくという面がかなりありますね。これとこれは雑草だから抜かないと、みたいな感じかなあ。≫

思想系翻訳の場合には、したがってある程度漢語が多くなるのは必然なのだが、とはいえ読者層を意識しなければいけない場合、このバランスが難しい。フランス語は名詞偏重の言語でもあるだけにいっそう厄介な問題だ。

Tuesday, April 04, 2006

神の一手か、最善手か

以下の文章の端々に『ヒカルの碁』を読んだ痕跡が見られる(笑)…。

ところで、いい機会なので、ここで一言はっきりさせておけば、私は別にポップカルチャーを蔑視しているわけではない。連ドラでも漫画でもJ-POPでも芸能ニュースでも、分け隔てなく楽しむことができる。ただし、ポップカルチャーはあくまでもポップカルチャーであって、これが大なり小なり普遍的な価値をもつ、などと主張することはできない。早い話が、ベビースターラーメンは好きだが、だからといって誰にでも「これほんとにおいしいから」と薦めようとは思わない、ということである。私が何らかの文化現象に「くだらない」という表現を使う場合、それは必ずしも個人的な趣味判断の問題ではない。普遍的には「素晴らしい」が個人的には「つまらない」場合と、普遍的には「くだらない」が個人的には「好きだ」という場合を分けて考えなければならない。


3月29日(水)

マシュレゼミ。友人fkのロバートソン=スミスに関する発表。やっぱり同世代の中では、彼の社会学・人類学に関する情報収集・整理能力はずば抜けている。しかし、私同様、アイデア先行の部分が目立つ。議論ではそこを突いてやる。議論はいつも真剣かつ楽しく。議論の仕方にちょっと八方美人的過ぎるところもある彼だが、彼となら真剣かつ楽しい議論ができる。

同日夜、鮨聖Mの「最後の晩餐」を味わうべく、親友gb&df、畏友cdmおよび共通の友人aら六人で集合。共通の知人で博論に苦しむpの話が出る。cdmの指摘はいつもながらとても鋭い。

「彼の問題はね、アリストテレス解釈の中で議論の余地があるとされている部分と、識者の間ですでに評価の定まっている部分との見分けがついていないってこと。彼にとってはすべてが重大な問題で、すべてが議論し直される必要があるっていう感じなのね。で、それはまずい。別に識者の意見に盲従しろっていってるんじゃないのよ。ただ、従来の「常識」を覆して自分の意見を言うにせよ、まずはそれが常識であるってことを踏まえてる必要がある。そうじゃないと、彼は単なる知的アナーキストになっちゃう。」

日本では哲学科の学生たちというのは男も女も「もさい」というのが定番になっているような気がする(そうでもないか?)。ヨーロッパのさまざまな国籍の哲学者を見てきたが、おしゃれのみならず知的洗練の度合いは平均的に高い(これは社会階層の問題が関係しているのだと思う)。男女を問わず、「知的な美しさ」というものがある。もちろん「知的」というのは「物知り」intellectuelということではない。「本物を知っている」intelligent ということだ。

『ヒカ碁』第18巻「番外編」の「奈瀬明日美」の回などはまったくその好例である(笑)。風俗ビルの囲碁サロンで、かなり胡散臭いおっさんに囲まれて、しかしひたむきに碁を打つ奈瀬。碁の院生・奈瀬のルックスに惹かれて彼女を口説こうとしていた若者は、自分の「常識」をはるかに超えた世界にただただ恐怖を覚えて逃げていく。彼女の真剣さに打たれたわけですらない。ただ、彼女と彼女の生きる世界が「ちょっとヘン」だから怖くなったのだ。こういう人には「知的な美しさ」は一生分からない。ひたむきに本物であろうとする人の美しさが。

共訳者の翻訳チェック。コメントを書くのは翻訳の直しより時間がかかる。


3月30日(木)

たまにメールを見ない夜に限って重要なメールが入っていたりする。どうして私の指導教官は、ぎりぎりまで重要なことを言わないのだろうか?「緊急にカッシーラー論文&解説をPUFの担当者に送れ」って。日程を知ってれば、あらかじめ間に合うように最後の微調整(語句をいじるなど)をしておくのに…。豪友gcに頼んでおいた添削を慌てて取り入れて送信。

「明日(木)15-16時に会えるから、よかったら大学に来たら?」って…。はじめてバリケードと妙に威張った学生検問をかいくぐり、指導教官と会談。博論に関していろいろ収穫あり。

前々から懸念されていたカッシーラー論文の「問題」が最終的に浮上。カッシーラー全集の著作権を握っているのはイェール大学なのだが、著作権料がかなり高いらしい。で、それをPUFが買ってくれるかどうか。それから、仏語版全集を出しているCerfがすでに翻訳権を取得してしまっていないか。…って、もっと前から調べといてくれよ(笑)。

翻訳チェックで徹夜。徹夜しないとまとまった時間が取れないのである。


3月31日(金)

アレルギー科の医者に診てもらう。最近の疲れは、もしかすると花粉のせいかも、という仮説も捨てきれない。

共訳者と会合。彼に叱られるのは精神的な滝に打たれているようで痛いが心地よい。私はひそかにexercice spirituelle と呼んでいる(笑)。


4月1日(土)

awからメールあり。来週月曜日にバディウと一緒にラジオ番組をやることが急遽決まったので、私がバディウをどう思っているか聞きたい、とのこと。急遽決まったとはいえ、なんで急ぎで「私のバディウ観」を言わなきゃいけないの?調子のいい甘えん坊だなあ。しょうがないので、ごく基本的な視座を与え、去年edがやったバディウ&ダヴィド=メナールとのセッションでの私の「質問」(という名の批判)のtranscriptionを添付ファイルで送付。

同日、日仏哲学会から公募論文の査読結果が到着。「採用」とのこと。条件付きだから完全に問題のない論文として認められたとは言えないが、「再査読なしの採用」だから論文全体のクオリティは認めてもらえたらしい。査読の論評は、これまで読んだどんな論評よりも私の論文の特性と問題点を捉えていて、素直に嬉しかった。こんな論評を自分も書けるようになりたいものだ。

夜、6年来の戦友およびラトビアなyy嬢にそれぞれの「愛と哀しみの青春」を語りつくしていただく会。この歳で夜更かしはもう無理だ。二三日引きずってしまう。「絶対面白いから!!」と『ヒカルの碁』を手渡された。悪魔の贈り物


4月2日(日)

を一日半廃人のように読み耽り、最終第23巻まで読了。

夜、fkよりメールあり。次の水曜日のマシュレゼミでの発表(二回連続)の前に会いたい由。彼とは、2000年に私がリールに来て以来の仲。今はボルタンスキーのところで研究員をやっている。ノルマリアンたちが抜け、今やずいぶん発言者のレベルが下がってしまったマシュレゼミでは、残念ながら私の発言くらいしかまともな質問がないので、彼は私の前回の質問の続きを聞きたいのだろう。少しずつfkにも実力を認められつつあるのだなと素直に嬉しい。実力は論文や講演、発表、質疑応答の中ではかられる。それ以外のところで、いかに友達ぶろうが、私的な会話の中で知識をひけらかそうが、駄目である。

『ヒカルの碁』は、前半三分の一くらいは、『月下の棋士』路線(強烈な個性同士がぶつかり合い「神の一手」を追求する路線)で行くか、もう少し現実に近い「切磋琢磨」路線で行くかに揺れがあった。『月下の棋士』の棋士たちの多くは研究会を開かなさそうだが(一手一手に命がこもっているので、下手に練習できない(笑))、『ヒカルの碁』の棋士たちは実に精力的にいろんな研究会を飛び回っている。

しかしまた、あまりにリアルになると(毎日シコシコと棋譜の読解・整理に励む院生、プロの間の低俗な感情のもつれ…)、これはこれでドラマ性に欠けるし。際立ったカリスマであるアキラや野生の天才をもつヒカルといった「選ばれし者たち」も、普通に研究会や碁会所で切磋琢磨し、最善手を検討する。その「天才」と「リアル」のバランスがよかったのであろう。

「切磋琢磨」のリアリティがよく出ているのが伊角(イスミ)くんのエピソードである。筋はいいのだが、優しい性格が災いしているのか精神的に脆く、日本棋院院生からなかなかプロに上がれない彼(第10巻)。ついに四つ年下の主人公ヒカルたちにまで先を越され院生をやめてしまう(第12巻)。立ち直りのきっかけをつかもうとやってきた中国での特訓中に「感情のコントロールは、習得できる技術」と教えられ、少しずつ復調していく(第16巻)。実際のプロ棋士の間で伊角くんの人気が高い(最終第23巻)というのも、あながちルックス面や性格的な面での評価ばかりではあるまい。我々別種の「院生」から見ても、なかなかリアルな悩みを抱えた人物だからではあるまいか。しかし、彼が主人公であれば、ずいぶん地味なドラマしかできない。


4月3日(月)

畏友lfが予告どおり最新の論文を送ってくれる。Cahiers Gaston bachelard に載った奴。「君にも興味ある主題だと思って」なんて言いつつ、「○○や××にも渡してくれ」なんてちゃっかりしてる。それぞれへの献辞が関係を表していて面白い。一番世話になった人には「友愛と最良の記憶とともに」、親しくないけど関係を大事にしておきたい人には「amicalement」、友達には「amitiés」(後二者はわずかな程度の差で、ほとんど同じ)。

夜は、独立系書店Meuraの集い。

Wednesday, March 29, 2006

天使の比較解剖学

インリンさんのコメントにつらつら返事を書いているうちに長くなったので、本文のほうに移します。

***

フェヒナーのダンス論やジェイムズの紹介文などが入ったやつですね。フェヒナーの天使論というのは、要はかなり怪しげ(笑)な宇宙人論みたいなもので、人間以上の超高等生物(生きた遊星)を呼ぶのに他にいい名前もないから「天使」でどうだ、と。というか、フェヒナー自身もふざけて書いてるので、戯作といってもいいかも。

Gustave Theodor Fechner, Anatomie comparée des anges, suivi de Sur la danse, postface de William James, éd. de l'Eclat, coll. "Philosophie imaginaire", 1997.

ランブダシズムのせいでダンス論を翻訳しているラバンは、ラバノテーションのRudolf Laban (1879-1958)のことだと思ってました。が、そうではなく、現代の精神分析家・哲学者Claude Rabantだったのですね。今は亡き"imago"(feu imago...)の1995年10月号に榎本譲さん訳の「死の名」という論文が出ているようです。

ちなみに、僕が「非人間の心理学」会場に持っていったもう一冊の本は、最近復刻されたコルバンの古典。

Henri Corbin, "Nécessité de l'angélologie" dans Le Paradoxe du monothéisme, éd. de l'Herne, 1981, 2003.

Tuesday, March 28, 2006

疲れた旅人

3月21日 ベルクソン業界の某御大より連絡あり。私の労作カッシーラーを軽くいなしてくれた某大書店にもう一度それとなくとりなしていただけるとのこと。親切な目利きが周りにいてくれてよかった。

3月22日 指導教官からメールあり。カッシーラー論文の仏訳に寄せた長文の解説は評価してもらえたようで、いつも以上のお世辞("parfait", "un beau travail")をかなり割り引いても率直に嬉しい。「君の博論にも何らかの形で絶対組み込めると思うよ」…というわけで、早く博論の全体像が見えるプランを出せ、とのこと。アメとムチねっていう。

恒例のマシュレ・ゼミ。ローゼンバーグについての議論。グリーンバーグやら、ジャッドやら。フランスの標準的な哲学者がマイケル・フリードやロザリンド・クラウスに気づくのは一体いつになることやら。

3月23日 献本の報せ。もちろんすべてお世話になった先生行き。ところで、某出版局の連絡はどうして全部郵便なんだろう?執筆者全員に送っていると手間もコストも馬鹿にならないと思うのだが…。その割りに専門書業界の苦境にご理解賜りたく今回は印税なしでというのは、本格的な財務金融改革に手をつけずに増税する小泉政権のようでなんか納得がいかない。まあ、メールにすると余計に煩瑣になるのかもしれないが。

3月24日 一日中アリストテレス・中世哲学ゼミ。非人間の心理学ということで、動物・ロボット・天使の心理学。圧倒的に知的な発言を聞いていると、なんとも言いようのない精神的高揚を覚える。こうなると学問は舞台芸術に近い。

3月25日 友人を招待。徹夜して翻訳。

3月26日 友人に招待される。徹夜して翻訳。翻訳とは何ぞやてな文章も書きたいのだが、あまりにも疲れていて頭が回らない。普段雑誌を通し読みしたりはしないが、『ユリイカ』の「翻訳作法」特集だけは頭から読み続けている。舌津智之(ぜっつ・ともゆき)さんが、柴田元幸訳の同名小説にひっかけて、「憑かれた=疲れた旅人」とは「翻訳家」の別名なりと論じている。
『憑かれた旅人』(1999)Haunted Traveller
バリー・ユアグローの不条理ショート・ショート累積型小説。「呪われた旅人」と訳したくなる原題だが、あえて「憑かれた」とした訳者の柴田元幸は、もちろん「疲れた」との掛け言葉を意識している。ネット上で読める訳者/著者の往復Eメール書簡によると、ユアグロー自身も邦題のダブル・ミーニングを「嬉しい」と気に入っているようだ。本作品でこの拙文を締めることにしたのは、ある意味、「憑かれた旅人」とは、「翻訳者」の別名であるように思われたからである。原作者に憑依された夢遊病者。自由のきかない金縛り状態で疲弊する創作者…。もちろん、どうせ憑かれる/疲れるなら、その結果印税が入るに越したことはないのだが[…]。(112頁)

憑かれているかはともかく、疲れた旅人であることだけは間違いない。

Tuesday, March 21, 2006

終わり良ければすべて良し

1)長らく刊行予定と聞かされ続けてきた『ベルクソン読本』(法政大学出版局)がようやく4月12日に刊行されるとの報。本当に長かったが、出ると聞くとやはり嬉しい。私のごく短いサーヴェイも載っているので、よかったらご覧ください(というか、買ってください)。

2)昨晩から徹夜し、今日早朝、今週の翻訳予定分を終える。ほぼ予定通りに進んでいる。

3)フランスの雑誌に依頼されて出したはずのエッセイにレフェリーで文句がついていた件。「飛び道具」を出してみた。さて、どうなるか?

4)その後、疲れを癒す暇もなく家事・炊事、その合間に仏文学会誌掲載論文の校閲を終える。添削してくれた親友edは、何度も校閲者の仏語能力に疑問を呈していたが、「まあ、そういうもんだから…」と慰める。仏語能力だけでなく、哲学に関する素養、ベルクソン研究に関する基本的な知識など怪しい点はいくらでもあるし、それはそれで仏文学研究者なのだから責められない点もあるが、いずれにせよ校閲の結果、論文が良くなったのだから、それでいいではないか。理性の狡知というべきか。

Wednesday, March 15, 2006

パプラス

無用の書類のことをフランス語でpaperasse、無用の書類の山のことをpaperasserieという。別に無用とは言わないが、今日は一日中、年度末にあたって、および年始に備えての書類作りに忙殺された。実際、教師生活を始めたらこんなもんじゃないのだろうとは十分承知しているつもりだが、それにしても疲れる。

友人が貸してくれた『ユリイカ』の特集「翻訳作法」を読む。柏倉さんのマラルメ連載ものからヒントを得て短いエッセイが書けそうな気がする。スピノザ・マラルメ・ヴィトゲンシュタインの教科書をめぐる三題噺なんてどうだろう。他にも引用したいエッセイ・論考多数。それはともかく、「自己評価」パプラスに関して、相変わらずの高山宏節炸裂。
見事に2000年、2001年あたりから高山マシーンは油切れのポンコツ状態。自著リストを見ても、そして翻訳リストを眺めても、改めてぞっとするような真空状態に陥っている。大体がこういう自己回顧そのものが、ひたひたと前のめりにのみ走ってきたぼくには相当違和のあることのはずなのだが、三十年間一度もやらされたことのない自己評価、自己査定をくり返し巻き返しやらされたこのたびの大学「改革」のお蔭である。「自己評価」などというウソに決ってるばかばかしい作業を象徴する語にして、この四、五年、ジョークにもならぬ当り前の日常語に化してしまった。なんだか履歴書と業績一覧ばかり書かされている。翻訳家暮しがこう簡単に「自己点検」「自己評価」できてしまうのも、今という残酷なタイミングだからだ。土日も会議、夏休みもずたずたに寸断されるこの三年ほど、五百、六百、七百というページ数のハードな本の翻訳を引き受けてきた高山宏にとって、石原慎太郎の官僚どもと、同じくらい愚鈍な大学機構はかなり決定的なダメージだったことが改めてよくわかった。主客一如、批評と翻訳が完璧に合体できた陶酔境には十五年ほどの時間がいっぱいいっぱいかもしれない。でないと「死んでいたかもしれない」(一息入れさせてくれて石原さん、ありがとう、のバカヤロー)。(2005年1月号、177頁)

ところで、同じブラウザ、同じ文字コードunicode (UTF-8)を使っているはずなのに、なんだか文字がおかしい。友人にギリシャ語フォント・ギリシャ文献CD-ROMを入れてもらったことと関係あるんだろうか?ショートカットの割り当てが勝手に変わっていたり、添付ファイルが送信できなくなったり…。

Tuesday, March 14, 2006

校閲、校閲、校閲…

3月10日(金)

ある本を共訳している友人に私の担当部分の初訳を見てもらう。率直に言って目も当てられない状態。この翻訳は、一般的な教養をもつ日本の社会人が少し頑張れば理解できるようなものでなければならない。友人の優れた言語能力、翻訳に対する真摯な取り組みに改めて感服すると同時に、自分の至らなさを痛感。時間がないのは誰でも同じことで言い訳にはできない。

とあるフランスの雑誌から依頼されていたエッセイがレフェリーで厳しい意見をいただいているとの通知を受け取る。仏語の問題、そして内容的な「薄さ」の問題。書き直す時間はあまりにも限られているが、全力を尽くしたい。


3月13日(月)

rythmesureに関する論文の校閲が届く。二人の先生方の「参考意見」はかなり異なる。一人はほとんどノータッチ。もう一方はかなり親切なのか(あるいは哲学論文に馴染みがないのか)、ずいぶん私の仏文に赤を入れてくださっている。これでも、本を何冊か出しているフランス人の友人とかなり議論して練り上げた仏文なのだが…。

むろん、どの件に関しても、低レベルのルサンチマンなど抱いても仕方がない。こちらとしては最善を尽くして自分にできる限りの日本語と仏語を練り上げるほかない。

Monday, March 06, 2006

ベルクソンをめぐる会合

前にも言っていた3月3日の会合(Wormsという現在の第一人者主催の、ベルクソンに関する博士論文を準備している学生たちのゼミ)は無事終了した。きわめてこじんまりとした集まりで、お誘いした(き)(ふ)さんご夫妻には悪いことをしてしまったかな…。でも、聴きに来ていただいてありがとうございました。

発表者は全部で四人。ベルクソンの精神物理学的二元論をとりわけ「物質」概念に即して見ていこうというフランス人。このブログにも参加していただいている、ベルクソンとピエール・ジャネの比較研究を行っていらっしゃる日本人の方(インリンさん――これは「ハッスル」で活躍したアイドル(?)の名を私に発音させようという、そしてプロレスファンの注目を集めようという、きわめて巧妙な謀略なのでしょうか!?困惑しますね――)。ベルクソンにおいて比喩や文彩がもつ言説戦略的な効果を持続概念に即して見ていこうというロシア人。そして私。

私の発表のタイトルは、"Endroit de durée, lieu de mémoire. Quelques réflexions sur Quid Aristoteles de loco senserit"というもの。

ごく簡単に言うと、持続は空間の中には見つからないとして、ではどこに見つかるのか。いや、より正確に言えば、「純粋持続の中にいる」と言うとき、「の中に」が意味していることは厳密には何であるのか、持続の場所はどこか?という問いに対する答えの断片をアリストテレスの場所論に探る、というもの。全体の構成は、

1)アリストテレス論の紹介
2)とりわけ最終章の奇妙な構成を、先述した仮説に基づいて読み解こうとする
3)持続の場所、記憶の場所についてより広範な仮説の提示

という感じ。言いたいことがすべて伝わったとは思わないが、質問も盛んに出たし、私の研究に関心をもってくれたようなので、ひとまず所期の目的は達せられた(と思う)。

今後の予定。

1)友人から催促を受けている翻訳に取り掛からねばならない。いろいろ制約が課されて閉口気味だが、まあ一応全力と誠意は尽くさねばならない。

2)5月18日についに博論の本格的な概観についての発表を行なう。そのため、三月中旬に指導教官と話し合いを持つ。それまでに、去年書いた「ベルクソンの身体概念」に関する論文を出発点にしつつ、より広汎で、より体系的な見取り図を描かねばならない。これから先は、書かねばならない章に取り組みつつ、すでに書いた論文に手を入れて、章に仕立てていくという作業に取り組んでいこうと思う。