Tuesday, October 15, 2002

ボチュル、『カントの性生活』(4)

*カント商店

 これまでほとんど言われたことがありませんけれども、カントがまったくケーニヒスベルクを離れたがらなかったことには、ごく単純な理由があります。彼はそこで「店」を営んでいたのです。

 人々はカントが大学教員 だったからといって、とかく彼のことを、大学から給料をもらい、日々の必要に迫られて汲々とすることのなかった、ほとんど官吏のように思い描きがちです。 これはまったく誤ったパースペクティヴのとり方であり、歴然たる時代錯誤であると言わざるをえません。

 確かにカントは、王立図 書館副司書として俸給を得ていましたが、それは微々たる物でした。大学教員としてのカントは、自営業者として、独立事業者として、この職種の者に科される あらゆる制約に縛られながら生きていたのです。彼の主要な収入源は、講義に出席している学生たちの支払う謝礼でした。客が入らなければ金も入らない、とい うわけです。

 言ってみればカントは、聴衆が大学教員たちに金を払う中世的な古いシステムの支配下に生きていたようなものです。20世紀の我々の近代的な大学や、1830年代にヘーゲル教授の職と生活の安定を保証していたベルリン大学とはまったく違うシステムのもとに。

 カントは、医者や弁護士 のように、自由業者として哲学という商売を営んでいました。客を迎えるには、そのための部屋が必要です。だからこそカントは、その一階に講義室(家の中で 最も広い部屋であり、カントの生活の中心の一つ)を設えるために、絶えず自分の家を持ったのです。まあこの仕事道具は借りるだけでも良かったはずではない かと言われそうですけれども

 カントが隣人たちのたて る音に(とりわけ隣人たちが歌い始めたときには)口喧しかったことをからかう者もいます。隣人の歌と言っても、独房の開け放たれた窓から厭でも聞こえてく る、必ずしも聞いて心地よいとは言えない、囚人たちが大音量で歌うように命じられていた単調な旋律のことですがカントはこのような状況が改善されるよう市庁に手紙を書き送ったのでした、歌う囚人たちについて。

 しかし私たちは、カント にとって自宅が仕事場であったということを思い起こす必要があります。彼はそこで講義を準備し、そこで講義を行なわねばならなかったのです。静寂が求めら れるのは当然のことであり、騒音などとんでもないことです。カントの家は、二人の労働者、すなわちカントと下男のランペ

を抱える零細企業だったのですから。

 客は学生や社会人、プロ グラムには地理、詩、砲術、天文学など、どんな科目でもありましたが、カントは哲学を主に教えていたわけではないということがしばしば忘れられています。 彼を近代的な制度のもとでの初の哲学教授と考えるのは間違いです。カントは近代の最初の哲学者ではなく、旧制度(アンシャン・レジーム)の最後の哲学者 だったのです。(続く)

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