Monday, October 14, 2002

ボチュル、『カントの性生活』(3)

(今年はじめに書いたもので、ML01075,01081の続きです。)

 皆さん、こんにちは。リールでも(当たり前のことですが)始まりました、ユーロ。まあどうしてもふだんよりは混雑するけれど、思ったほど混乱はなくて、ほっとしています。

 前回から提示しているのは「翻案」であって「翻訳」はありません、念のため。

***閑談の壱(承前)

 カントは時代から、都市生活から離れて、隠遁生活を送ったわけではありません。彼のことを象牙の塔に独り引きこもった、社交的な生活の敵として思い浮かべるなどとはとんでもないことです。

 私はカントの伝記作者たちが、彼の生涯のざらつきやシミをぼかしてしまうために「艶出し」し、人柄を「透化」することによって、歴史の中に老いさらばえ強迫観念に取り憑かれたカントというイメージを定着させようとしたのではないか、と疑っています。

 しかしカントにしたところで、有名になるまでは、つまり六十歳になるまでは、人並みの生涯を送ってきたのです。一介のMagisterにすぎなかった頃は、居酒屋に出入りし、ビリヤードをたしなみ、時には深夜に帰宅したのです。

 正教授になり、家を購入し、下男を独り雇うようになると、カントは好んで昼食に人々を招き、この昼食はしばしば午後遅くまで続いたものでした。

 カントはケーニヒスベルクの上流社会からの招きにも自ら好んで応じました。この「感じのいい仲間」について、あるものは次のように証言しています(興味のある方のために申しあげておけば、J.H.L.Meierottoという人物です)。

 「彼は老人たちの中でも最も軽快で、最も愉快な老人であり、言葉の最も高貴な意味でbon vivant(享楽主義者、美食家)です。彼が読むようにと与えてくれる哲学を人々がうまく消化できないのとは見事に対照的に、彼はどんなに重い食事でもぺろりと平らげ消化してしまうのです」。

 青年時代に家庭教師とし て勤めたカイザーリンク伯爵夫妻の晩餐会では、貴賓席が与えられていました。というのも、ある証言によれば、「ほとんどいつも会話の鍵を握っていた」から です。カントは、あらゆる話題について話をすることができました。そして人々も彼に何でも相談したのです。

 例えば1774年、ケーニヒスベルクで最初の避雷針をハーベルベルガー教会の上に設置するよう、市当局から依頼を受けた物理学者は、我らの哲学者に意見を求める手紙を書き送りました。雷カウンセラー・カントというわけです。

(続く)

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