Friday, October 18, 2002

ボチュル、『カントの性生活』(5)

 カントは哲学の著作を仕事の前や後に、あるいは情熱に焦がれて、あるいは癒しのように書いたのです。彼は大学界のお偉方たちからは長い間、アマチュア哲学者と見なされていました。非常に遅くにではありますが、栄光が訪れた後も、カントは生き字引の役を演じ続けました。

  75歳まで、すなわち力の尽き果てるまで、彼は講義を続けたのです。退職年金がなかったからです。なんという骨折り仕事でしょうか!生きていくのも楽では ありません。平然と謝礼を払わなかった学生もいましたし、払いたくともお金がなく、友達に薦められたからやって来たという者たちは無料で迎え入れられたこ とでしょう。

 農民が一年中畑と作物に縛られているように、カントは長期休暇を取ることができなかったのです。子沢山の一家に生まれた、つましい職人の息子、この知識人の生涯はそれだけでもすでに一つの成功とは言えないでしょうか。

  パリやヴェニスへぶらつきにでも行ければ、それはさぞかし良かったことでしょう。結婚していればさぞ良かったかもしれません。子供たちを養うために講義の 数を増やし、その子供たちが廊下をはしゃいで飛び跳ねている間、講義室ではロシア人客やプロイセン人客やを手放さぬよう努めながら、よく聞き取れないか細 い声で講義を続けるカント…

***

 しばし脱線的考察。ボチュルの講演自体はその真偽を疑わせ る要素はないにしても、フレデリック・パジェス(友の会代表)の解説文を読んでいると、このボチュルなる人物は本当に実在するのか、ヌエヴァ・ケーニヒス ベルクも、カント原理主義者の超越論的共同体も、すべてはボルヘス的欲望に取り憑かれたフレデリック・パジェスの倒錯的創作ではないのかという疑念が、ど うしても頭をかすめてしまう。以下、怪しい点には注意を喚起する。しかしそういった点をすべて考慮に入れたとしても、この小冊子は取り上げるに値する試み を行なっていると思う。



 私は先に「あらゆる危険を承知で」と言った。敗戦直後のドイツ人移 民共同体の前で、フランス人がドイツの哲学者について語るという現実的・政治的な危険だけではない。「カント原理主義者と呼ばれもしたあの奇妙な移民た ち」の前でカントについて語るという思想的・イデオロギー的な危険(笑)だけでもない。その両方をあわせた政治的かつ思想的な危険があった。

  カント哲学の愛好者(専門家も含めて)にとっておそらくは最も触れられたくない、と同時にいくらか誇るべき点でもあるような問題を前面に押し出すボチュル が最も不安に思っていたのは、辺鄙な土地に住み着いたドイツ人移民共同体であるというよりは、フランス本国の思想的=政治的権威、とりわけソル
ボンヌの動向であった(ボチュルの具体的な伝記的事実について何も分からない以上、ソルボンヌが最大の脅威であったと断定することはできないはずだが)。(続く)

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