Tuesday, January 30, 2007

ユースから一歩ずつ階段を上がる(エリート教育の問題・補遺)

たぶん気づかれたと思うが、ブログの装いが幾つか変わった。これには、この数ヶ月来進められているBloggerというブログ運営会社とグーグルの提携強化、それによるブログの性能向上が関係している。

性能強化の一つとして、日本のブログではすでに当たり前のものとなっていたラベリングが可能になった。こうなってくると、四つも五つも別名のブログをもっている意味もないようなものだが(今回のように主題がクロスオーバーすることもしばしばあるし)、当面は各ブログの方針を従来どおり維持していくつもりである。

引き続き他のブログ(profileから入る)もご愛顧のほどを。hf


エリート教育」の問題について述べたとき、最後にサッカーの関連記事を付していたが、気づかれただろうか。Mundusのことだけではない。私たちは他領域を参照しつつ、教育の問題、制度の問題をもっと具体的に考えていくことができる。

(ちなみに、今期のテレビドイツ語会話では、昨年のサッカーW杯まで技術委員会のトップだった田嶋幸三JFA専務理事、つまり日本サッカー教育界のドンがインタヴューされ、ドイツ語で話していた

アラビア語会話は会話向きの講師を発掘し、ナビゲーターに落語家を起用して素晴らしい効果をあげている。フランス語会話の製作陣もそろそろ抜本的な改革を真剣に模索しないと、今のままでは駄目だ。

田嶋氏については、宇都宮徹壱氏のいつもながら冴え渡るエッセイ「“総括”で隠されたもの。第5回フットボールカンファレンスより」(2007年1月10日)も参照のこと。そのうえで、私の「スシボンバーの憂鬱」(2004年10月20日)を読んでもらうと、拙いなりに私が何を言いたいのかがわかってもらえるかもしれない。

梅崎の武器は“NOVA仕込み”の仏語
2007年1月29日(月) 10時56分 デイリースポーツ

 大分からフランス2部リーグのグルノーブルに期限付きで移籍するMF梅崎司(19)が28日、成田空港を出発した。U-20日本代表のエースは、31日の入団会見に備えて、語学学校のNOVAに10日間通学。覚えたてのフランス語を駆使して、チームメートのハートをつかむ。

 フランス入国を前に、梅崎は大分で“駅前留学”を済ませた。先に入団したFW伊藤翔(中京大中京高)から「待ってます」と言われて不安は多少和らいだが「言葉の壁が一番。積極的に話をしていきたい」。通訳をつけない裸一貫での移籍だけに、まずはコミュニケーションを図る作戦だ。

 「海外のビッグクラブでプレーしたい。まずはグルノーブルで結果を出す。日本の魂を見せ、一部に引き上げる」。現在、リーグで20クラブ中8位のチームを押し上げた先には、夢見るスペインでのプレーが見えてくるかもしれない。


将来性が海外挑戦の鍵に 森本、はい上がって活躍

 18歳8カ月、森本のセリエAデビューは衝撃的だった。後半39分から少ない時間でチャンスを生かし、鮮烈な同点ゴール。試合後はイタリア人記者に囲まれ「びっくりした。(頭の中が)真っ白になった」と喜んだ。

 引退した中田英以来となるデビュー戦での得点。だが、日本代表で不動の地位を築いていた中田英とは違い、森本にフル代表歴はなく、10代で海を渡った。カターニアのユースで活躍し、はい上がって欧州屈指の舞台で出場機会をたぐり寄せた。

 マリーノ監督は「彼は伸びている最中。特に体の強さが成長している」と目を細める。プルビレンティ会長も「若くて質が高い。この得点を一生の思い出にしないと」。周囲の目は温かく、森本は純粋に才能と将来性を見込まれている。

 森本が所属するマネジメント事務所のモラーナ氏は「今の日本で中田英のように欧州で十分に活躍できる選手を探すのは難しい。クラブは若い内に体力と戦術両面を鍛える必要を感じている」と話す。ジャパンマネー目当てではなく、戦力に育ちそうな逸材を探すクラブが、日本にも関心を示している。

 かつてオランダでプレーした平山や、このオフにフランスに渡った伊藤や梅崎など、若くして海外に挑戦する例は増えている。こうした傾向が今後も続くかもしれない。(共同)(了) [ 共同通信社 2007年1月29日 17:00 ]


新しい挑戦の道切り開く デビュー戦ゴールの森本

 セリエAに初出場した森本がいきなりゴール。名前の発音が似ているためにサポーターから「マレモート(イタリア語で津波の意味)」と呼ばれる18歳の日本人が、愛称に負けない衝撃的なデビューを飾った。

 主軸FWが出場停止で得たベンチ入りの機会だった。これまでは控えのまま投入されない試合が続いたが、そのたびに「焦りはない。いつでも準備はできている」と話していた森本に、ようやく晴れ舞台が訪れた。

 0-1の後半39分にピッチに立つと、まずは巧みなポストプレーで試合の流れに入った。ユースの試合では活躍を続けているだけに「試合勘は忘れていなかった」と落ち着いていた。

 試合終了間際にゴール前のスペースに忍び込むと、右斜めからのクロスを左足でトラップし、複数の相手DFと交錯しながら右隅へ決めた。「頭が真っ白になった」と驚きと喜びの混ざった表情。チームの仲間にもみくちゃにされながら祝福された。

 これまでセリエAに挑戦した日本人は、フル代表として活躍した実績を引っ提げていた。だが森本は若くして本場へ移り、ユースから一歩ずつ階段を上るという新しい道を切り開いている。マリーノ監督は「無理なく自然に成長している」と、将来が楽しみな日本の若手に目を細めた。(ベルガモ共同)(了) [ 共同通信社 2007年1月29日 9:51 ]


森本がセリエA鮮烈デビュー=日本人最年少出場とゴールをマーク-伊サッカー

 【ロンドン28日時事】サッカーのイタリア1部リーグ(セリエA)で、カターニアのFW森本貴幸は28日、イタリアのベルガモで行われたアタランタ戦で後半39分からセリエA初出場を果たし、同43分に初ゴールを挙げる鮮烈デビューを飾った。18歳8カ月でのセリエAデビューと得点は日本人選手最年少。ゴールは貴重な同点弾となり、カターニアは1-1で引き分けた。

 欧州の主要リーグで、デビュー戦で得点をマークした日本人選手はMF中田英寿(1998年、ペルージャ)、FW大久保嘉人(2005年、マジョルカ)、FW平山相太(05年、ヘラクレス)に続いて4人目。

 森本は88年5月生まれ。Jリーグ時代にも15歳だった04年に、当時J1東京Vでリーグ最年少出場、最年少得点を果たした。昨年7月に期限付き移籍でカターニアに加入した。北京五輪世代の1人としても期待されている。  [ 時事通信 2007年1月29日 9:31 ]

Thursday, January 25, 2007

ベント・プラドJr.逝去


ベント・プラドJr.が亡くなった。私が『ベルクソン読本』の「世界におけるベルクソン研究の動向」で特筆していた人物の一人である。これで日本にお呼びすることが永遠に叶わなくなった。享年69歳。

今年の十二月にはサン・パウロでも『創造的進化』百周年ブラジル版が予定されており、彼が主催者の一人として名を連ねていた(実質的な責任者であった)だけに、さぞ無念であったろう。ようやくフランスでも彼の仕事が認知されつつあったというのに。

せめてもの手向けに、FAPESP(Fundação de Amparo à Pesquisa do Estado de São Paulo サンパウロ州研究支援財団?)の「おくやみ」を生齧りのポルトガル語から翻訳しておく(したがって正確さは保証のかぎりではありません)。

日本でもせめてベルクソン研究の文脈において彼の業績がきちんと導入され吸収・消化されることを祈ってやまない。



ベント・プラドJr.逝去、享年69歳

FAPESP通信 哲学者のベント・プラドJr.氏が1月12日金曜日の午前1時ごろ、サンカルロスの病院で亡くなった。享年69歳。ブラジルの哲学界を代表する人物の一人であった氏は、サンカルロス連邦大学(UFSCar)の哲学・科学方法論科で教鞭をとっていた。

UFSCarの発表によると、死因は喉頭がんの悪化による心肺機能停止。埋葬は同日、サンカルロスの墓地にて執り行われた。

UFSCar哲学科長 José Eduardo Marques Baioni 氏は、プラド氏をブラジルにおける哲学研究の構築における主要人物の一人であり、「哲学、文学、芸術の間のきわめて興味深い境界領域を、卓越した手腕をもって探求していた、偉大な著述家」であった、と語っている。

ベント・プラドJr.の哲学への最も偉大な寄与の一つは、フランスの哲学者アンリ・ベルクソンに関する業績である。1965年に諮問を経た彼の博士論文『現前と超越論的領野。ベルクソン哲学における意識と否定性』は、今もこの主題に関する国際的なレフェランスであり続けている[そのとおりである!]。本書は2002年に翻訳され、フランスで出版された。

「ベルクソンをめぐるあらゆる研究は、サルトルやメルロ=ポンティを含む二十世紀のフランス現象学についての研究同様、ベント・プラドの諸研究との対話を続けることを必要とする」とバイオニは語っている。

サンパウロのJaúで生まれた Bento Prado de Almeida Ferraz Júnior は、1961年から1969年までサンパウロ大学で教鞭をとっていたが、軍事独裁政権が倒れ、大統領令によって大学から追放された。同法令によってCaio Prado Júnior、Octavio IanniやFernando Henrique Cardosoなど23人の教員が退職を余儀なくされた。1998年に、USPの名誉教授号を得た。

1970年から1974年まで、プラドは、フランス国立科学研究センター(CNRS)の研究者としてポストドクター職を得た。1977年にUFSCarに入る。

なによりもまず教育者

最近、プラドは、20世紀のフランス現象学とアングロサクソンの分析哲学が共通の根を持ち、繋がりを保ち続けていることを示す研究を展開していた。

「2006年の最後まで彼は授業を続け、大学院の学生を指導し続けていた。2007年度に予定されている哲学科の学部の授業の編成を主に担当するなど、最後までUFSCarに重要な遺産を残した」とバイオニは語る。

「ベント・プラドのおかげで、私は教育的で啓発的な哲学研究というものが存在するという感覚を学びました。したがって彼のおかげで私は、学生と知の間に先生がしゃしゃり出てこない場合に哲学教育というものがあるということを学んだのです[…]。学生自身が「先生」になりえたとき、哲学教育というものは成り立つ。なぜなら、先生とはすべての者に開かれた、無限の研究のサインに他ならないからです。言葉を換えて言えば、ベント・プラド先生のおかげで、私は教え学ぶことに潜む自由の感覚を発見したのです」と、哲学者 Marilena Chauí さんは雑誌『高等研究』(Estudos Avançados)2003年号に発表された論文の中で語っていた。現在USPで教鞭をとる彼女は、かつて1967年にDEA課程に在籍しベント・プラドの指導を受けたのであった。

ベント・プラドはまた、カンピナス州立大学(Unicamp)やサンパウロ州立大学(Unesp)、カトリック司教大学(PUC-SP)などの機関でも研究に従事していた。

ベルクソンの哲学以外に、ベント・プラドJr.氏は、哲学史、認知哲学・言語哲学、心理学・精神分析のエピステモロジーなどの領域で活躍した。代表作には上記の博士論文のほかに、
『幾つかの試論:哲学、文学、精神分析』(Alguns ensaios: Filosofia, literatura e psicanálise),
『誤謬、錯覚、狂気』(Erro, ilusão, loucura
『精神分析の哲学』(Filosofia da psicanálise
などがある。

Friday, January 19, 2007

短すぎる夏の輝きよ―阿部良雄墜つ

個人的な面識はなかったが、常々仏文学者、いや端的に学者の典型のような人だと敬意を抱いていた(2000年6月1日の項。MLの気安さも手伝ってとんでもなく若い)。確か彼がノルマルへの留学第一号ではなかったか。今、仏文科の学生はフランスで博論を書くのがかなり当たり前になりつつある。彼以降の先人たちの地道な、継続的な努力のおかげである。

制度を整えていくには、友愛と信頼に支えられた連携作業が必要不可欠である。

私がフランス詩をいくらか暗誦するようになったのは、フランスに行く一年ほど前だったろうか。友人たちが彼の家に招かれ、詩の暗誦大会などをやって楽しんだ、という話を伝え聞いてからであった。

それまでは「詩を暗誦する」などとはなんとなくスノッブで厭だったのだが、その話を聞いて肩の力が抜けた気がした。そうか、そんな風にワイワイやってもいいのか、それなら自分にも出来そうだな、と。

フランス語の練習ももちろん兼ねていた。詩の暗誦は今もやる。言葉はスポーツと同じだ。やればやっただけ上達するし、やらなければ忘れる。プロとしての心構え。これも私が阿部良雄から(一人合点して)受け取った「教え」の一つかもしれない。

Bientôt nous plongerons dans les froides ténèbres ;
Adieu, vive clarté de nos étés trop courts!


<訃報>阿部良雄さん74歳=東京大名誉教授、仏文学者
1月18日0時43分配信 毎日新聞

 阿部良雄さん74歳(あべ・よしお=東京大名誉教授、仏文学者)17日、急性心筋こうそくのため死去。葬儀は25日午前11時、東京都渋谷区西原2の42の1の代々幡斎場。自宅は非公表。喪主は妻文子(ふみこ)さん。ボードレール研究で知られ、著書に「西欧との対話」などがある。95年度に和辻哲郎文化賞を受賞。
最終更新:1月18日0時43分

Thursday, January 18, 2007

哲学と政治

ヤミナ・ベンギギの『移民の記憶』についての告知メールをいただきましたので、pense-bêteのほうをご覧ください

哲学を政治から切り離そうとする人々はこう主張する。「いったい誰が、数学者に政治を論じるよう求めるだろうか。政治は政治学者に任せておけばよい。哲学者は哲学をすることだけが任務なのである」と。日本のみならずフランスにも多くいるタイプである。

なるほど餅は餅屋であり、床屋政談などに大した意味はない。一市民として政治的な言論を行なうのは結構だが、それはすでにもはや哲学ではない、と。だがしかし、そのような物言いは、哲学という営みと、哲学科で行なわれているアカデミックな活動を我知らず同一視してしまっている。

アカデミズムを徒に敵視する人にも、アカデミズムに頑なに立て籠もろうとする人にも、あまりに個人的ルサンチマンが見えすぎる。問題はそんなところにはないのだ。

《なるほどひとは、哲学に、精神がおこなう快適な商売を見たくなるのも致し方ないのかもしれない。今度はコミュニケーションに倫理を提供することができる社会性、しかも西洋の民主主義的な会話を糧とする不偏不党の社会性だ、というわけである。

しかし、近代哲学に救いがあるとするなら、近代哲学は、古代哲学が都市国家の友ではなかったように、資本主義の友ではないという点を挙げねばなるまい。

そのつどユートピアを携えてこそ、哲学は政治的なものに生成し、おのれの時代に対する批判をこのうえなく激しく遂行する。

なぜなら、哲学が呼び求めるような人種は、芸術同様、純粋だと主張されるような人種ではなく、ある虐げられた、雑種の、劣った、アナーキーな、ノマド的な、どうしようもなくマイナーな人種だからだ。》(ドゥルーズ、『哲学とは何か』)

Tuesday, January 16, 2007

『創造的進化』百周年(英語雑誌投稿募集)

などと言いつつ早速更新である。

***

皆様、今年もよろしくお願い致します。

ベルクソンにご関心がお有りかと思われる方々に一括送信させていただいております。長文メール、あらかじめご寛恕のほどをお願い致します。

ご存知のように本年は『創造的進化』百周年にあたり、11月のコレージュ・ド・フランスにおける大規模なコロックをはじめ、各地で様々なイヴェントが企画されております。

私も若輩者ながら4月にトゥールーズで行われるコロックの主催者に名を連ねさせて頂き、日本の『創造的進化』読解の最前線を担う方々にご協力を仰ぎつつ日本チームでの「遠征」をして参ります。
http://w3.univ-tlse2.fr/philo/article.php3?id_article=100

出版物も例外ではありません。ベルクソン「公認」の名の下に久しく改訳の出なかった英語でも、ようやく『創造的進化』の新訳がアンセル・パーソンのイニシアティヴでWarwick大学から出るようです。

この機会に、英訳者二名が、ウィスコンシン大学出版の"SubStance"という雑誌から『創造的進化』特集号を出すので英語論文を投稿してみないかというお誘いが参りました(下記および添付ファイル参照のこと[添付ファイルはもちろんここには採録されていない])。

この投稿募集を広く告知してよいということなので、こうして皆様にもお知らせする次第です(転送歓迎です)。掲載の保証はもちろん私にもありませんが、チャレンジされてみてはいかがでしょうか?

寡聞にしてこれまでその存在を知りませんでしたが、数号の目次を眺めていると、定期的にフランス現代思想や現代文学、アートなどの特集がある雑誌のようです。
雑誌について:
http://muse.jhu.edu/journals/substance/index.html
雑誌のサイト:
http://www.french-ital.ucsb.edu/substance/category/home/

英・独・仏語で哲学することがますます重要になりつつある昨今――むろん、これは裏を返せば「何故、いかに、日本語で哲学するのか」がますます問われるということでもあります――、こうしたささやかな挑戦を、しかし粘り強く積み重ねていくことも大切なのではないかと思っています。

日本でもさまざまな雑誌で『創造的進化』特集が組まれ、実りある議論が活発に交わされるようになることを心から祈りつつ。

hf

Date:Mon, 15 Jan 2007 00:59:58 +0900
Subject: Bergson's Creative
Evolution CFP

Dear HF,

As you are no doubt aware 2007 is the centenary of Henri Bergson's master-piece Creative Evolution. Please find attached the call for papers for a special issue of SubStance devoted to this text.

The coming year will see a series of events devoted to Creative Evolution at (among others) the University of Warwick, the University of Toulouse Le Mirail, etc. There will also be a new edition of Creative Evolution published by Palgrave Macmillan in 2007, edited by ourselves along with Keith Ansell Pearson.

Please feel free to forward this message to any person who might be interested.

Yours Sincerely,

Michael Kolkman and Michael Vaughan
Department of Philosophy
University of Warwick

Sunday, January 14, 2007

新年

年末から新年にかけて、二つ大きな出来事があった。一つは子供が生まれたことである。これは新鮮な体験で、身をもって(体を張って?)いろいろと考えさせ られる。もう一つはパソコンがクラッシュしたこと。どうやら復活の見込みはないようだ。メアドにしても、書きかけの草稿にしても、パソコンに取り込んで バックアップを取っていなかった録音や写真にしても、もう取り返しはつかない。すでに不便は不便なのだが、これからじわじわと苦労するのだろう。しかし、 これも何かの巡り合わせだろう。もっと精進せよ、という。そういうわけで、当面新しいパソコンではメールもブログもしないことにした。

というわけで、メール返信速度が鈍り、ブログ更新回数が減ることを私の仕事(研究にせよ子育てにせよ)が捗っていることと解して喜んでいただきたい。むろんメールはチェックするし、このブログも更新はするので、たまに見に来ていただけると嬉しい。

「世の中に人の来るこそうるさけれ とはいふもののお前ではなし」

という蜀山の狂歌を玄関に貼り出した内田百閒は並べて

「世の中に人の来るこそうれしけれ とはいふもののお前ではなし(當家あるじ)」

今年もよろしくお願い致します。hf

Wednesday, December 27, 2006

おばあちゃんは追いかけない

2006年11月24日付の『中国新聞』社説が的確に指摘している。

 川崎市は事件が頻発した十年前、教員向けに冊子を作った。襲われた人たちは高齢、病弱、障害者で、「襲撃はいじめと同質」と分析。加害者の少年も周囲から疎外されていたとしている。
 時を経ても、構造は変わらないようだ。景気は「いざなぎ」を超え戦後最長という半面、正社員になれず希望が持てない人がたくさんいる。いじめや虐待が毎日のように発覚する。「勝ち組」と「負け組」に選別され、不満が弱い方へ向く傾向がありはしないか。
 ホームレスへの偏見も根強い。広島市の聞き取り調査では、ホームレスになった原因の四割は倒産や失業。リストラや公共事業削減のしわ寄せが表れている。「気まま」「怠け者」といった見方は正しくない。住まいを確保して、就労、自立を促す策も必要である。
そう、こういったことすべてはつながっている。誰を、何を批判すべきなのか。見間違えるべきではない。

ノンポリのインテリでいることも、インテリ嫌いのアクティヴィストでいることもたやすい。私は確信している。どれほど抽象的な思考に没頭しているように見えても、真の知識人は決して現実から目をそむけない、と。どれほど社会的・政治的な行動に没頭しているように見えても、真の活動家は決して理念のもつ力を軽視しない、と。


<教育再生会議>素案提示も、委員から不満続出
12月21日11時6分配信 毎日新聞
 政府の教育再生会議の全体会議が21日午前、首相官邸で開かれ、来年1月の第1次(中間)報告に向け、学力向上やいじめ防止など5項目を柱とする素案を各委員に提示した。これに対し「議論したテーマが削除され納得できない」(渡辺美樹ワタミ社長)などの不満が続出。義家弘介担当室長が「(了承は)これから」と語るなど、取りまとめは難航必至だ。
 安倍晋三首相はあいさつで「法律を改正すべきは改正し、予算も充当していく」と報告を重視する考えを示した。
 素案は、社会人の教員への中途採用や授業時間数の増加、いじめなど問題行動を起こす子への出席停止を提言。基本的な考え方で「家庭、地域社会、経済界、メディアが当事者としての自覚を欠いた」と批判している。
 これに対し委員からは大学の9月入学の削除や「ゆとり教育の見直し」の明記を見送ったことに不満が噴出。「メッセージ性が弱い」(中嶋嶺雄国際教養大理事長)と具体的な政策を盛り込むよう求める声が相次いだ。山谷えり子首相補佐官は終了後の記者会見で、こうした不満について「今後議論を詰めていきたい」と述べるにとどまった。【平元英治】
最終更新:12月21日12時56分


足の悪い高齢女性ら狙いひったくり、少年6人を逮捕
12月19日14時8分配信 読売新聞
 高齢の女性を狙ってひったくりを繰り返していたとして、警視庁少年事件課と小松川署は19日、東京都江戸川区内の中学3年男子生徒ら、14~15歳の少年6人を窃盗容疑で逮捕したと発表した。
 被害に遭った女性7人は65~83歳で、うち4人は足が悪く、歩くのにつえや手押し車を使っていた。
 調べに対し、少年たちは「つえを持っているようなお年寄りの女性なら、追いかけて来ないと思った」などと供述しているという。
 調べによると、6人は今年5月5日午後2時30分ごろ、同区松江7で歩いていた女性(70)に自転車で近づき、追い抜きざまに現金約7万円入りの手提げかばんを奪い取るなど、7月までに同区内で計7回、被害総額約16万4000円のひったくりをした疑い。
最終更新:12月19日14時8分


「おばあちゃんは追い掛けない」=高齢女性狙いひったくり-中学生6人逮捕
12月19日13時1分配信 時事通信
 高齢女性ばかりを狙いひったくりを繰り返したとして、警視庁少年事件課と小松川署は19日までに、窃盗容疑で、東京都江戸川区に住む中学3年の男子生徒(14)ら男子中学生6人を逮捕した。調べに対し、「おばあちゃんだから追い掛けてこないと思った」と供述している。 
最終更新:12月19日13時1分


<路上生活者殺害>殺人発覚後も襲撃重ねる 中2少年ら
12月20日15時6分配信 毎日新聞
 愛知県岡崎市の河川敷で無職、花岡美代子さん(当時69歳)が殺害されるなどした路上生活者襲撃事件で、中学2年の少年(14)=強盗殺人の非行事実で補導=らのグループが花岡さん殺害後も、「もっと金が欲しい。別の路上生活者を襲おう」と謀議し、襲撃を重ねていたことが20日、分かった。県警岡崎署捜査本部は悪質さが際立つとして、他の関与事件の特定を急いでいる。また、少年らが襲撃に使った凶器の多くは、花岡さん殺害を含め現場で調達していたことも分かった。
 調べでは、岡崎市内では先月、路上生活者が襲撃される事件が少なくとも8件発生。この多くに、同市内のいずれも14歳の中学校2年の少年3人(事件当時14歳1人、13歳2人)と逃走中の無職の男(28)のグループが関与したとみられる。
 このうち、少年2人は(1)同市明大寺町の殿橋南側河川敷で11月19日午前0時ごろ、警備員男性(39)から約5000円入り財布を強奪(2)同市板屋町の河川敷で同1時ごろ、花岡さんを殺害(3)同市真宮町の真宮遺跡で同3時10分ごろ、男性(56)を襲い小屋に放火――の3件の順で、襲撃を続けたことを認めた。 さらに、少年らは花岡さんの遺体が同20日朝に発見され、21日に殺人事件として捜査が始まったのを報道で知りながら、22日午前4時半、殿橋南側で再び同じ警備員男性を襲い、6500円を奪った疑いが浮上。この際、「(前回襲われたことを)警察に密告しただろう」などと男性を脅していたという。
 一方、花岡さんは解剖の結果、棒状のもので殴り殺されたことが分かったが、捜査本部は凶器とみられる複数の棒を現場で押収した。真宮遺跡の事件では男性の襲撃に鉄パイプが使用されたが、これらもその後、遺跡近くで発見、押収された。捜査本部は、凶器を持ち歩くと目立つことから、少年らが凶器になりそうなものを現場付近で調達し、襲撃後はその場に遺棄したとみている。 花岡さんへの暴行は特に激しく行われ、河川敷で殴打を加えた後に川に突き落とすなどしていた。少年は「4人で徹底してやった」などと供述しており、捜査本部は花岡さんへの暴行がエスカレートした理由や奪った金品の捜査を続ける。最終更新:12月20日15時6分


<いじめ自殺>先輩隊員が暴行 事実隠す 空自浜松基地
12月20日15時4分配信 毎日新聞
 航空自衛隊浜松基地(静岡県浜松市)が、隊員の内部暴力の懲戒処分を発表する際、暴力を受けた男性隊員がその後自殺した事実を隠して発表していたことが20日、分かった。男性隊員の両親は「先輩からのいじめが原因」と訴えていたが、同基地からは「行き過ぎた指導があった」としか説明はなかった。両親は「『いじめられれば泣き寝入り』ということかもしれないが、そうはしたくない」と話している。
 同基地によると、基地内にある第1術科学校の30代の2曹が04年3月~昨年11月ごろ、20代後半の男性隊員に対し、20~30回にわたって殴るけるの暴行を繰り返した。同基地は今月15日、「2曹に行き過ぎた指導があった」として停職5日の懲戒処分とし、報道機関に発表した。暴力を受けた男性隊員は昨年11月、浜松市内の自宅で自殺しているが、その事実については発表しなかった。
 関係者によると、男性隊員は日ごろから周囲に「隊内でいじめを受けている」と漏らしていたという。両親は「『人間性を失っていて生きていけない』など、2曹に書かされた『反省文』が残されていた。隊内のいじめが自殺の原因だ」と主張し、同基地に説明を求めていた。
 同基地は、男性隊員の自殺から1年以上過ぎてようやく2曹を処分したが自殺には触れなかった。両親は「(処分翌日の)16日に術科学校長が説明に来たが、『行き過ぎた指導』というだけで、最後まで十分な説明がなかった」と憤っている。
 空自第1航空団司令部は毎日新聞の取材に、2曹の暴力について「仕事熱心のあまりの行為で、いじめではないと聞いている。被害者に外傷などがなく、長期間気付かなかった」と説明。男性隊員の生死については「処分とは関係がなく、個人も特定されるので答えられない」と回答した。【望月和美】最終更新:12月20日15時6分

Sunday, December 24, 2006

いじめ-教員への(スクラップブック)

あがるまさん、そうですね、世界の教育状況にも目配りをする必要がありますね。フランスの教育状況については幾つかの有益なサイト、ページがあります。私自身も少しずつでも教育関係の著書をここで紹介していければと思っています。hf



「不適格教員」?「排除」?「厳しい措置」?ファシスト国家や共産主義国家に住んでいるわけではないのだ。本当にこんな表現を用いていいと思っているのだろうか?

(安倍政権の好きな言葉「厳しい措置」が北朝鮮といい勝負の大時代的な表現であることには嘆息しつつもあらためて注意を喚起しておこう。)

政府が上手に「誘導」しているわけだが、この国の人々はどこまで公務員、とりわけ教員に八つ当たりすれば気が済むのだろうか?では、「勤労意欲や指導力を欠く不適格社員の排除」という表現を用いていいとでも?このような表現を用いさせる社会の雰囲気こそがいじめを助長していることに気づかねばならない。各種新聞で指摘されていることだが、大人の社会にすらいじめがあるのに、子供のいじめを根絶できるはずがない。これは教員に対するいじめである。

指導力欠く不適格教員を排除=いじめに厳格対応-中間報告の骨格固まる・再生会議
 政府の教育再生会議(野依良治座長)が来年1月にまとめる中間報告の骨格が9日、固まった。教育意欲や指導力を欠く不適格教員の排除を明記。児童・生徒の相次ぐいじめ自殺問題への対処としては、問題行動を起こす子どもに対し「出席停止」を含む厳しい措置を取るとともに、教育委員会制度の抜本的な見直しも盛り込んだ。また、学力向上のため学習指導要領を改定し、現行の「ゆとり教育」も改めるよう求める。 (時事通信) - 12月9日19時0分更新


<教員意識調査>会社員以上に、仕事に満足感と多忙感
12月12日0時33分配信 毎日新聞

 公立小中学校の教員は会社員よりも仕事に満足感を得ていると同時に、多忙感も感じる傾向にあることが11日、文部科学省の調査で分かった。また、教員自身は勤務実績などで給与に差をつけることを否定的にとらえているが、保護者は肯定的ということも分かった。
 文科省は10月、全国354校の公立小中学校教員8976人(回収数8059人)と保護者1万4160人(同6723人)を対象に意識調査を行い、平均点を算出。中央教育審議会の「教職員給与の在り方に関する作業部会」に中間報告した。
 中間報告によると、「仕事にやりがいを感じている」と答えた教員が5点満点で平均4.23点だった。一方、「仕事が忙しすぎて、ほとんど仕事だけの生活になっている」のは3.75点となり、調査会社が所有している会社員のデータと比較すると、教員は会社員よりも満足感と多忙感を同時に感じているという。
 また、「指導力不足教員らに給与などへの反映が必要」と考える教員は3.37点。保護者への同種の質問では4.41点となり、両者のかい離が際立った。【高山純二】
最終更新:12月12日1時23分


<いじめ自殺>教委に理由「不明」と報告した元校長の苦悩
 
 女子生徒がいじめを示唆するメモを残し命を絶った苦い経験を持つ元校長(61)が、一連のいじめ報道を受けて取材に応じた。生徒の死はいじめと関係があると遺族に説明したが、教育委員会には自殺の理由を「その他(不明)」と報告した。「(報告は)あれでよかったのか。彼女はなぜ死に急いだのか。いろんな思いが今も頭から離れません」。退職した後も、心穏やかに過ごせないという。【井上英介】

 東日本の公立中学校に校長として勤務していた時のことだ。初夏のある日、教え子の女子生徒が自宅で亡くなった。自室にあったノートに「死にたい」と書かれ、級友たちから害虫呼ばわりされたことなどを苦にする記述があった。
 遺族からノートを見せられ、級友への聞き取り調査で生徒が不快なあだ名で呼ばれていた事実を確認した。「いじめはあった。自殺と関係があると認識している」と遺族に説明し、保護者会でも報告した。
 「お母さんは泣き崩れ、私も泣きました。あだ名で呼ばれたのは短期間だが、ささいなことでも本人が嫌だと思えばいじめです」
 教職員とともに誠意をもって対応し、いじめた子も親とともに謝罪、月命日のたびに焼香に訪れたこともあって、遺族の一定の納得は得られた。半年以上かかって学校は落ち着いたが、一人でいる時にぼんやりと生徒のことを考え、はっと我に返るようなことがしばらく続いた。
 いじめ問題への文部科学省の取り組みに、疑問を感じないではない。「いじめかどうかを判断する認定基準が厳しすぎる。『いじめがいじめではない』という極めて奇妙な結果を導き、現場を誤らせかねない」
 文科省は「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じている」という認定基準を定めている。だが、基準とは別に「いじめか否かは、子どもの立場に立って判断せよ」と何度も現場に呼びかけ、教育現場に混乱を招いている。
 「教員はみな基準を頭に刻みつけている。なぜ実態に即したものに変えないのか。いじめの芽を見逃しかねない」。現役時代、日ごろから教員たちに「いじめの小さな前兆を見逃すな」と言ってきた。それでも前兆を察知し、防ぐことができなかった。
 教え子の死から半年以上たち、教委にいじめがあったことを報告した。しかし、自殺については「主たる理由を一つ挙げよ」との指示に基づいて「その他」とした。「いじめは理由の一つだとは思うが、主たる原因だったのかどうか……学校は警察ではない。真相究明は難しい」。対応が正しかったのかどうか、答えは出ていない。(毎日新聞) - 11月12日7時41分更新

Monday, December 18, 2006

「よい」学校へ-実学志向の呪縛(スクラップブック)

これらのことについては以前書いたこと以上に言うべきことはない。当該部分だけを引用しておこう。


このような考えは、中学・高校といった中等教育にまで浸透している。「偏差値、ネームバリューなどから見て、少しでも「よい」高校は、「よい」大学へのパスポートである」、「中学は・・・」というわけだ。これが、日本の社会が過去数十年にわたって是認してきた通念であり、現在の学力低下は、教育の内容ではなく、教育がもたらす「実益」(むろん表面的な)に関心を持ち続けた、その必然的な帰結である(アメリカやヨーロッパでも事情は似たり寄ったりであるが、もたらされる帰結は異なる。日本ほど大学進学率が高くないからである)。これは一部の「教育熱心」な「教育ママ」の行き過ぎや歪んだ価値観といった個人的な資質に帰される問題ではない。「知」や「文化」に無関心でありながら、その世評や功利的価値には過大な評価を与える、社会の全般的な風潮自体が問題なのである(言うまでもないが、偏差値やネームバリューを評価したり、有名塾の校長の講演会に足繁く通うことが「知」に敬意を持つことではないし、ハイカルチャーに精通することが必ずしも「文化」に親しむことなのでもない)。「ゆとり教育」や「総合学習」の意義は決して小さいものではないが、問題の根はもっと深いのである。では、「知」への敬意を持てばそれでいいのか。そうではない。まだ、「実学志向」という、結局のところ「能率」や「効率」、一言で言えば、performativityの問題と結びついた根強いイデオロギーが残っている。これについては、項を改めて述べる。

「ゆとり教育」や「総合学習」についてのみ付言しておく。未履修問題などはなから起こることが分かっていた事態であり、今さら何を騒いでいるのかという感じである。未履修問題とは、文部省が教えるよう定めた正規のカリキュラムと受験勉強用に学校で設定された特別なカリキュラムとのずれの問題である。奔走されている関係各位には申し訳ないが、本当の問題はそんなところにはないと思う。

すべては「受験戦争」に対する誤った反省から始まった。受験戦争は苛烈にすぎた。だから「ゆとり教育」が必要なのだ、と。受験勉強は不毛にすぎた。受験のための知識、知識のための知識ではなく、厳しい現実社会を生き抜いていくための知恵が必要だ。そのための「総合学習」なのだ、と。

だが、「ゆとり」とは学校で教えられるものなのか?ゆとりもなく働いている親の姿を間近で見ているほうがよほど「人生勉強」になっているというのに?「生きるための知恵」とは授業で教えられるものなのか?子供たち、教師たちは、総合学習の時間を受験勉強にあてることがまさに厳しい現実社会を生き抜くための知恵だと本能的に知っているというのに?何も分かっていないのは、いったい誰だ。

いじめが巷で話題になっている。「大人の間にすら陰湿ないじめがあるのに、子供の間でだけ根絶できるはずがない」という意見がある。一理あると思う。学校は社会の鏡である。親が馬車馬なのに子供にはゆとり、有給すらろくすっぽとれない親の黄金則が「カイシャに盲従」なのに子供には総合学習。大人の社会が虚弱で歪んでいるのに、子供だけたくましく清廉潔白などとはムシがよすぎるというものだ。

共通一次はセンター試験になった。前期・後期に分かれた試験方式はまもなく前期のみに一本化されようとしている。まもなく大学全入時代を迎えるのだという。大学は生き残りを賭けて必死なのだという。大学も一企業として「当たり前の」営業努力を求められているのだという。本当にこれでいいのか?議論すべきはこんなことなのか?

大学とはどのような場所であるべきなのか。社会の中にどのような位置を占めるべきなのか。そのことを国民の間で十分に議論したうえではじめて、本当にすべての子供たちが大学に行くことが「必要」なことなのか、その子供たちにとって「いいこと」なのかが議論できるようになるはずではないか。そして大学に入るためにどのような基礎知識・基礎教養が必要なのかについて、つまり大学受験についての議論が可能になるはずではないか。

今現在、国民は大学で与えられるべき教育について明確なヴィジョンをもっていないというのが偽らざるところではないか。本当に大学に行くことが「必要」なのかどうかも。子供にとって本当に「いいこと」なのかどうかも。理念のもつ力を深く信じる必要性を説く声すらも、今の日本国民の耳には届かない。

「私たち」は本当の問いを回避し続けている。他の多くの問いとともに。仕事が忙しいから。時間がないから。


<家庭学習時間>小中学生で増加「学習離れ」に歯止めか

 減少していた家庭での学習時間が増加に転じるなど小中学生の「学習離れ」に一定の歯止めがかかっていることが、「ベネッセコーポレーション」(岡山市)の調査で分かった。また「いい友達がいると幸せになれる」と小中高校の9割以上が答え、子どもが「友人関係」を重視していることも浮き彫りになった。
 同社の「学習基本調査」は90年からほぼ5年おきに実施。今年6~7月に全国の公立小中高生計9561人を対象に行った。回答は児童生徒に直接記入してもらった。
 家庭学習時間(平日)の平均は90年調査から2回続けて減少していたが、今回小学生は前回01年の71.5分から81.5分、中学生は80.3分から87.0分に増えた。今回70.5分の高校生は前回とほとんど差がなかった。
 社会観に関する問いでは、「いい友達がいると幸せになれる」とした小中学生はいずれも9割を超え、高校生は96.3%に達した。子どもたちが友人関係を重んじ、生活の中心にしていることがうかがわれる。「いい大学を卒業すると将来幸せになれる」と答えた小学生は61.2%だったが、高校生は38.1%に減少。学年が上がると「高学歴が有利」とは考えない傾向を示した。 また、「日本は努力すれば報われる社会だ」と答えた小学生は68・5%▽中学生54・3%▽高校生45・4%となり、こちらの答えも年齢が上がるにつれ減少した。さらに高校生の75・8%が「日本は競争の激しい社会だ」と答えた。【吉永磨美】

 耳塚寛明・お茶の水女子大教授の話 ゆとり教育の実施で学力低下論や保護者の不安が高まり、「脱ゆとり」論が出てきた。その結果、家庭教育や基礎学習が徹底され、小中学生の「学習離れ」に歯止めがかかったのではないか。(毎日新聞) - 12月11日19時21分更新


高校生宿題しないの? 「家庭学習ない」4割 やる気も格差拡大 
12月12日8時0分配信 産経新聞

 「家庭でほとんど勉強しない」と答えた高校生が4割近くに増加し、学習離れが広がっていることが、教育シンクタンク「ベネッセ教育開発センター」(東京)の「学習に関する意識実態調査」で11日、明らかになった。小中学生では「できる子」と、そうでない子の学習時間の差は広がる傾向がみられ、同センターでは「学習意欲の格差が広がっている」とみている。
 調査は今年6月と7月に全国の小学生2736人、中学生2371人、高校生4464人に学校を通じて実施。平成2年、8年、13年にも同一調査を実施しており、結果を比較した。
 家庭での学習頻度は、高校生は「ほとんど勉強しない」が前回の23・1%から27・9%に、「週に1日くらい」も8・8%から9・9%に増えた。1日平均の家庭学習時間も「0分」が前回の22・8%から24・3%に増え、「約30分」も15・2%で、全体の4割近くが家庭でほとんど勉強しなかった。
 小中学生では、成績上位者の学習時間が前回調査結果より大幅に長くなった。全体では家庭学習時間は平均5~10分延び、小学生で81・5分、中学生は87分となった。
 これに対して高校生の家庭学習は、平均70・5分で前回と比べてほぼ横ばい。平成2年時の調査と比較すると、成績で平均点前後に位置する中間層の生徒の勉強時間が約30~50分近く減るなど、生徒の学習離れが広がった格好だ。
 今回の結果についてベネッセ教育開発センターは「小中学生では前回より改善した点もみられたが、高校生では、家庭学習は限られた生徒が行うものになっており、深刻な結果だ」と指摘。「少子化の影響で大学受験がやや広き門となっていることが、高校生を家庭学習に駆り立てなくなった理由だろう」と分析している。
最終更新:12月12日8時0分


格差の現場:/5 広がる 異なるスタート地点 /宮崎

 宮崎市中心部の進学塾の前では、毎晩同じ光景がみられる。午後9時過ぎ、授業を終えた小学生たちが、ドアから次々と駆け出してくる。通りには親たちの迎えの乗用車が並んでいる。
 小学6年の息子と5年の娘がこの塾に通う父親(38)は、はるばる日南市から送迎に来ていた。妻と交代で1日に昼夜2往復することもある。片道1時間の両市を週10往復はする。
 「正直、大変だと感じる時もあります。まだ小学生だし……。でも人生のスタートが異なればゴールも違ってしまう」。息子は県外の名門私立中高一貫校を志望する。「地元に学力を伸ばす教育環境があれば一番いいんですが」と言い、日南市へとハンドルを切った。  

 ◇   ◇

 04年度の県教委の7教育事務所管内別の学力調査は興味深い結果を示している。小学低学年までは、なぜか都市部より田舎の方が学力が高い。しかし高学年以降、都市部の学力が急上昇し、田舎は追い抜かれるのだ。
 小学3年、小学5年、中学2年を比較すると、小学3年で西臼杵(高千穂町など)と西諸県(小林市など)が同率1位。児湯(高鍋町など)も3位と郡部の順位が高い。都市部の宮崎(宮崎市など)は最下位の6位だ。ところが、宮崎は小学5年で3位に浮上、中学2年では1位に躍り出る。
 小学低学年までは田舎の学力が高い理由を、ある小学校教諭は「郡部の少人数の学校では一人一人の子供に合った教え方ができる。子供も指導を素直に受け入れ、まじめだからでしょう」と分析する。小学高学年以降、都市部の学力が上昇する理由を、宮崎市内の進学塾関係者は「塾の影響」と断言する。この塾は、市外からの塾生が2割を占める。「地方の親にも危機感があるから、日向市や小林市、都城市からも子供を通わせるんでしょう」と明かす。
 日南市から通う父親は「自分が高校生だった20年前と比べ、全国と宮崎との格差はさらに広がり、県内の地域間での格差もますます広がってきたようだ」とため息をついた。県教委の調べでも毎年、約45人が県外の有名私立中学に進学している。競争社会を生き抜くための受験技術を得る機会も、都市と地方で差が広がっているのかもしれない。
6月27日朝刊(毎日新聞) - 6月27日18時0分更新


都教委“未履修”を黙認 都立高20校 総合学習で受験対策
12月12日8時0分配信 産経新聞

 必修科目の未履修が全国の高校で相次いで確認された問題に絡み、東京都立高校約20校が「総合的学習」の授業を数学や英語など受験対策に振り替えていたことが11日、都教育委員会の調査で分かった。総合的学習は体験学習やテーマ研究を狙いとするが、学習指導要領を逸脱した受験対策の隠れみのになっていた。都教委は都立高の未履修は1校のみとしていたが、これら“偽装授業”を行っていた学校については「成績表は総合的学習でつけている」として未履修ではないとの判断を示し、黙認の態度だ。進学率の向上を目指した都立高改革の落とし穴が浮かび上がった形だ。
 都立八王子東高で倫理の未履修が発覚したのを契機に都教委が11月、全都立高207校を対象に調査。その結果、約20校が総合的学習の一部を受験対策に振り替えていたことが判明。この中には、戸山や立川の進学指導重点校も含まれていた。
 多摩地区の中堅校では、3年生約45人が2単位(70時間)すべてを数学の応用問題集を購入した受験勉強に活用。同校は平成15年度の総合的学習の導入からこうした授業形態をとっていた。
 また、区部の高校では3年生の2単位(同)の3~4割を「入試基礎講座」などの授業に振り替え。校長は「不適切と受け取られかねない授業」と話しているが、進学校を中心に総合的学習を受験対策に特化させていた傾向が強いとみられる。
 都教委は「(20校は)限りなく灰色に近いが、成績表は総合的学習でつけており、未履修でないと判断している」との見解を示した。いずれも「正規履修の範囲内」として、改善指導にとどめる方針。しかし教育関係者は「受験対策は明らかに総合的学習の趣旨を逸脱しており、都教委が都合よく解釈しただけ。他県では未履修扱いだ」と批判している。
 今回のケースについて文部科学省は「個別の具体的な内容を見てみないと分からないが、総合的学習の趣旨を踏まえず、授業で入試問題ばかりを解かせていたのであればおかしい」としている。 文科省によると、必修科目の未履修が確認された国公私立合わせた高校は全国で663校(11月22日時点)。都は私立14校と都立1校の計15校。                   

◇【用語解説】総合的な学習の時間 平成14年度(高校は15年度)施行の学習指導要領で導入。(1)問題解決能力を養う(2)自己の在り方、生き方を考える(3)教科、科目の知識、技能を総合的に生かす-が狙いで、「国際理解」「環境」「生徒の興味・関心、進路に応じた課題」などを例示している。高校3年間で3~6単位が配当されるが教科書はなく、内容は地域や生徒に応じ、学校で決めるよう求めている。最終更新:12月12日8時0分

Saturday, December 16, 2006

memento mori -またひとつ私たちの手で自由が殺されていく。

覚えておけ、言い訳をするな。「彼ら」をあてにできない以上は。「彼ら」は「私たち」ではないのだから。まったく興味を示してこなかった「私」。口先だけで何もアクションを起こさなかった「私」。電子署名が精一杯だった「私」。議員たちにファックスを送り続けて満足してしまった「私」。国会前の人間の鎖で完全燃焼した「私」。「私」たち一人一人の手で、今日またひとつ、自由が圧殺されていく。戦争への道を切り開いたのは「私」たちだということになるだろう。

「思想の自由」とは冗語である。思想とは自由であり、自由とは思想である。思想という自由を人間のかけがえのない、奪うことの許されない権利と考える一人でも多くの「私たち」と出会うために、堅忍とともに「彼ら」を呼び招き続けること。それが哲学でなくて何であろうか。


教育基本法改正案きょう成立へ 会期18日まで延長 与党調整
12月15日8時0分配信 産経新聞

 今国会の最重要法案である教育基本法改正案は14日、参院教育基本法特別委員会で自民、公明両党の賛成多数で可決された。15日の参院本会議で成立する見通しだが、民主党など野党4党が内閣不信任決議案提出を決めたため、与党は15日に会期末となる国会を小幅延長する方針を決めた。
 教育基本法の改正は、昭和22年の施行以来初めて。前文には現行法にはない「公共の精神」、教育の目的には「伝統と文化の尊重」「わが国と郷土を愛する態度を養う」などが明記された。
 自民党が当初求めていた国を愛する「心」の盛り込みは、公明党との与党協議で「態度」となった。公明党を除く宗教界から要望が強かった「宗教的情操の涵養(かんよう)」については、「宗教に関する一般的な教養」との表現にとどまった。
 現行法10条の「教育は、不当な支配に服することなく」との条文は、教職員団体などが国旗掲揚・国歌斉唱を拒否する根拠とされてきた。改正案にもこの部分は残ったが、「法律の定めるところにより」との文言が追加された。安倍晋三首相は14日、特別委の質疑で「法律にのっとって行われる教育行政は『不当な支配』ではない」と強調した。
 特別委は14日夕、野党による追加質疑終了後、与党が緊急動議を提出し、採決に踏み切った。野党4党はこれを受け、15日朝、衆院に内閣不信任決議案を提出することを決めた。参院でも首相問責決議案提出を検討しているが、当初予定していた麻生太郎外相の不信任決議案提出は見送ることになった。
 与党は法案成立を確実にするため、会期延長に踏み切る方針。20日に平成19年度予算の財務省原案内示を控えていることから、延長は18日までの小幅にとどめる方向で調整している。参院自民党の国対幹部は14日夜、記者団に対し、15日午前に同党の衆参国対委員長会談を開いた上で、首相と会期延長について最終協議する考えを示した。
最終更新:12月15日8時0分

Wednesday, December 13, 2006

棚から一掴み(大学関係記事スクラップブック)

というわけで、忙しいときは棚から一掴み。


<学術会議調査>研究機関の12.4%が論文などで不正 
12月12日11時32分配信 毎日新聞

 日本学術会議が全国の大学、研究機関、学会を対象に初めて実施した論文や研究資金などに関する不正の実態調査で、有効回答数の12.4%にあたる164機関が「過去10年間に不正行為の疑いがあった」と答えた。02年以降の発生件数が増えており、同会議は「国立大学の法人化など、研究現場の競争激化が影響している可能性がある」と分析している。
 調査は今年5~6月に実施。全国の大学、高等専門学校、研究機関、学会の計2819機関に質問表を送付し、1323機関(46.9%)から回答があった。
 不正行為の疑いは計236件あり、そのうち150件が「不正があった」と認定された。認定された不正の内訳は、▽論文の多重投稿52件▽研究資金の不正使用33件▽研究の盗用31件▽データ改ざん5件▽プライバシーの侵害4件▽データねつ造3件▽その他22件。論文にまつわる不正が全体のほぼ3分の2を占め、研究資金の不正使用が約2割だった。
 不正行為の疑いの発生件数は01年までは10件前後だったが、02年19件▽03年33件▽04年29件▽05年46件と急増。内容別では、データのねつ造・改ざんや盗用、論文の多重投稿の増加が目立った。
 調査を実施した同会議科学者の行動規範に関する検討委員会の浅島誠委員長は「04年の国立大学法人化の前後で不正が増えたのは、隠されていた事案が表に出たことに加え、研究資金の獲得競争やポストの任期制導入で研究者が追い詰められ、過酷な環境にいることも背景にあるようだ」と話している。【永山悦子】
最終更新:12月12日11時32分


これは経済効率を優先する日本の教育行政の論理的帰結である。

大学夜間部 東海地方で次々募集停止 教育格差拡大に懸念

愛知県議との意見交換会では、県立大の募集停止の方針に対し、学生から反発の声が上がった=名古屋市中区で9月、浜名晋一写す  

 苦学生の象徴「夜学」が次々に姿を消している。東海地方で6校あった大学夜間部のうち、日本福祉大と愛知大、名城大が00年から05年にかけて学生募集を停止した。岐阜大は07年、愛知県立大は09年に募集を停止し、存続するのは名古屋工大の1校だけだ。募集を停止する各大学は「勤労学生の減少」を理由に挙げる。専門家からは「経済的に苦しい家庭に生まれた子供の行く大学がなくなってしまう」と、さらなる教育格差の拡大を心配する声が上がっている。【浜名晋一】

 「働きながら学び、異なる世代の人と机を並べられるのが魅力。廃止を撤回してほしい」。愛知県立大英米学科4年の真野由紀さん(24)は、募集停止の方針を残念がった。先月19日、名古屋市内で存廃をテーマに、学生約10人と県議との意見交換会が開かれ、学生から反発の声が噴出した。昼間、喫茶店でアルバイトをした後、大学に通う松岡浩平さん(21)=3年=は県議に対し、「家計を助けるためにも、学費の安い夜間はありがたい」と強調した。
 同大では主に夜に授業がある「夜間主コース」に996人が在籍する。学費は昼間主コースの半額の約27万円で、ここ3年間の入試倍率は4~5倍と人気が高い。しかし、勤労学生の比率は大幅に低下し、98年度には全体の62.6%と半数を超えていたが、今年度は25%に。関係者は「昼間部の受験に失敗した学生が志望した結果だ」と、夜間部本来の意義が失われている現状を指摘する。このため、県は「勤労学生に高等教育を提供するという夜間大学の本来の趣旨から逸脱している」として、今年3月に募集停止を決定した。
 一方、04年度に夜間部の募集をやめた愛知大。同市東区の車道キャンパスには授業が始まる夕方になると、学生が続々と登校する。定員400人に対し、286人が在籍。法科大学院進学を目指して法学部に通う女性(40)は「大学教育は社会人にも開かれるべきで、社会人が通える夜間部を廃止するのは間違っている」と主張する。
 だが、定員割れもあって、多くの学生の関心が薄いのも現実だ。4年の男子学生(22)は「働きながら勉強したいという人は減っているし、廃止は時代の流れでは」と冷静に話す。
 文部科学省によると、夜間部のある大学は全国で79校。99年には104校あったが、7年間で25校が夜間部を廃止した。

 教育関係の著書も多いルポライター、鎌田慧さんの話 勤労学生の排除は教育の機会均等の理念に反する。少数でも受け皿の保証をすべきだ。エリート養成を進める一方、広く学業の機会を認めないのは教育格差の拡大につながる。(毎日新聞) - 10月14日17時12分更新


<科研費>9大学で不適切経理10億円超 会計検査院が指摘

 文部科学省が交付する科学研究費補助金(科研費)を巡り、東京大など九つの国立大学で、研究用に購入した物品の納品書の日付が、業者側に残った日付と大幅に異なる不適切な経理を行っていたことが、会計検査院の調べで分かった。日付が1カ月以上異なっていた納品書の総額は10億円を超え、文科省は、1年以上ずれていた6大学の計約2000万円分について、補助金適正化法に基づき返還させた。また、私立大学も含めた全大学に対し、納品検査の徹底を通知した。

 科研費は独創的・先駆的な研究を発展させる目的で、文系・理系や基礎・応用を問わず、あらゆる学術研究を対象にした政府の研究資金で、06年度の文科省分の規模は総額1895億円。
 検査院の調べでは、9大学で注文した物品を業者が大学に納入したものの、事務担当者の確認が遅れたため、業者側と大学側で、それぞれ保管していた帳簿類の納品日付にずれが生じた。うち約2億円分については、大学側の納品が年度末の3月31日を越え、補助対象の翌年度になっており、文科省の補助条件に違反した状態になっていた。さらに約2000万円分は、研究者が1年以上前に納品があったにもかかわらず、大学側に届けていなかった。
 ただ、研究費の私的流用やプールなどといった不正行為はなかった。
 文科省学術研究助成課は「公務員の定数削減の影響で、事務スタッフの減少が納品を確認する体制の不備につながった。今後、納品検査を徹底させ再発防止したい」と話している。
 科研費を巡っては昨年、慶応大医学部教授ら4大学の研究者らが、実験用動物などの架空購入などで、総額約8900万円の不正受給を検査院から指摘された。このほか、別の研究費を巡っても今年、早大理工学部教授の不正受給が発覚している。【斎藤良太】(毎日新聞) - 10月1日3時11分更新

Tuesday, December 05, 2006

グレゴリオ『純粋理性批判殺人事件』

旅の本。8月末日、羽田空港にて、機中読書・バカンス読書のため、マイケル・グレゴリオ作『純粋理性批判殺人事件』(角川文庫、2006年)の上巻を、巷で話題沸騰であるらしいdeath noteという漫画の最終巻とともに購入。原題は、Critique of Criminal Reason。『犯罪理性批判』とでも訳せば、サルトル『弁証法的理性批判』に始まり、ドゥブレ『政治的理性批判』を経て、スローターダイク『シニカル理性批判』に至るカント・パロディの系譜に(かすかに)連なることが容易に想起されるわけだが、一般読者向けにはたしかにこの邦題がいいだろう。

表題から察するに、名探偵カントか、天才的犯罪者カントが登場するのであろうという見込みであった。背表紙によれば、「世界中の出版エージェントの度肝を抜いた大型新人デビュー作、壮大な歴史ミステリ!」であるとのこと。遅読の私も、二三日で読了。

別にどうということのない本なので下巻を買わずにいたが、やはりなんとなく気持ちが悪いので、最近下巻を購入。堅忍の一字とともにやはり数日で読了した。「唯一の手掛かりが導くありえない真実」という帯の文字は先の触れ込みに比べれば食指をそそるが、しかし内容に適合したものとは必ずしも言えない。

カントの「根元悪」(radikale Böse)の概念を「あらゆるものの中で最も極悪非道なもの。冷酷な殺人。動機のない殺人」(下・139頁など)と結びつけるという発想自体は悪くない。カントが探偵なのか犯罪者なのか最後まで分からないというプロットも悪くないと思う。にもかかわらず、読後感を正直に言えば、本書を人に薦めようとは思わない。なぜか。

結局本書をつまらないものにしているのは、作者の皮相なカント理解である。カントが探偵なのか、犯罪者なのか、あるいはそれ以外なのかはここでは重要ではない。本書の舞台は1804年2月のケーニヒスベルク。したがって登場するカントは最晩年のカントである。問題は、従来のカントを「人間の肉体的および精神的世界を、論理という手段で定義するために一生を費やしてきた」(下・57頁)哲学者と捉え、晩年のカントを老衰や狂気によるそこからの逸脱ないし成熟と見る主人公のカント像がまったく魅力的でない、という点にある。
しかし、彼はおだてられなかった。癇癪を爆発させ、目をぎらつかせ、両手を激しく振り回した。「いかれたカント、と不埒な連中はわしのことを呼んでいる。精神と魂を堅苦しい理論体系と不変の法則の世界に閉じ込めたというのだ。大学での最後の日々は耐えがたかった。実に屈辱的だった。あんな処遇をされたことは、これまで一度もなかった。苦悶に耐えていたのだ!」感情が激して、カントの目はぎらついていた。声は怨念でかすれていた。彼の唇からもれた恨みのこもった笑い声には、ユーモアのかけらもなかった。「やつらは大馬鹿なのだ!非現実的な夢想者…わし一人で計画を立て、実行できるとは想像もできないのだ。連中にはわからんだろう、美しさが…」(下・134-135頁)。

グレゴリオ的カントの言う「美しさ」が探偵的なものであれ、犯罪者的なものであれ、このような取り乱した場面は必要なかったのではないか(カント時代の大学については、下記2002年10月14日の項参照)。性格の複雑さを見せるのはいいのだが、それを老齢や時代状況の変化のせいにするのは安易に過ぎるということだ。

晩年のカントが聖書的伝統に準じて弱い人間の魂を「曲がった木」(下・138,140頁)と見た、というのはよい。しかし、それを「人と人の関係では論理は通じない」(同上)などという凡庸な一言で片付けてしまっては、《道徳的カントから探偵的あるいは犯罪的カントへ》という移行の両側が―いわゆる批判期までのカントも晩年のカントも―色褪せて見える。

「いや、グレゴリオの描写はもう少し微妙だ」と言う人もあるだろう。実際、カントの発言が魅力的に見える場面も確かにある。だが、カント「最後の著作」を主人公が破いて川に捨てる場面を見る限り、作者がこの論文の「書き手」がカントでなかったという事実を最大限利用しなかったこと、ひいては哲学者カントの何も理解しなかったことは残念ながら明らかである。

翻訳は読みやすかったが、一点だけ。下巻285頁の《カント教授なら「至上命令」だといっただろう》というのは、原文を確かめたわけではないし、最近出た岩波版全集の訳語も知らないのだが、「定言命法」としたほうがよかったのではないだろうか。

道徳的カントから探偵的あるいは犯罪的カントへという移行に豹変を見るのではなく、むしろ、それまでのカントの思索の「論理的」帰結として、『実践的見地からする人間学』――これは1798年、カントが生前自らの手で刊行した最後の著作である――刊行と並行して、『犯罪的理性批判』の実践(執筆ではなく)が行われていた、といったストーリーのほうが少なくとも私には興味がもてるような気がする。要するに、pathologischという語のカント的用法に着目することで、リゴリズム道徳哲学の極北と見なされていた『実践理性批判』の只中に享楽の論理を見て取ったラカンの「サドとともにカントを」(Kant avec Sade)のほうが、はるかに『犯罪理性批判』の名にふさわしいのではないか、ということだ。

ちなみに、帯には「呪いと理性が同居する稀有な時代を精緻に描く、この夏のミステリ決定版」という文句もある。フリーメーソンや黒魔術、あるいは錬金術や動物磁気のことを念頭においての台詞だろうが、心理学や精神分析、社会学やシステム論、「マイナスイオン」や「トキソプラズマ」だって、百年後にどう言われているかは知れたものではあるまい(2002年10月19日の項)。細木某や江原某の流行る日本については何をかいわんや、である。呪いと理性は、 この意味では、あらゆる時代に同居しているのである。

カントについては、ドイツ語訳も出ているこちらのほうが圧倒的に面白いので、お勧めしておきたい。紹介はいつものごとく中途半端で終わってしまっている。
ボチュル『カントの性生活』(1)2002年1月2日の項
ボチュル『カントの性生活』(2)2002年1月12日の項
ボチュル『カントの性生活』(3)2002年10月13日の項
ボチュル『カントの性生活』(4)2002年10月14日の項
ボチュル『カントの性生活』(5)2002年10月17日の項
ボチュル『カントの性生活』(6)2002年10月21日の項

Monday, December 04, 2006

時間をかけて(efficacité du temps)

きちんとお答えしなくてはと思いつつ、忙しいとそういう義務感が負担になって余計に筆が重くなるという悪循環に陥ってしまいました。これではせっかく重い腰を上げて、ひとまずコメント欄を限定的に開放した意味もないわけですが…。「投瓶書簡」のような感じで気長にお願いします。お便りには目を通しておりますので。



制度的な努力は静かに進行している。ちょっとしたトラブルもある。年かさの人であれ、誰に対してであれ、もっとゆっくり時間をかけて、十分に意を尽くして説明していかねばならないと繰り返し自分に言い聞かせる。

研究面での努力は、これに比べればもっとフィジカルだ。やらねばならないことはすべて技術論的なレベルで解決できることである。マルクスの言うように、人間は解決できる問題しか(本当の意味では)提起しないのである。

私のような人間でも悩み相談などを受けることがあるが、そういうときいつも困ってしまう。たいていの場合、彼らの中で答えはすでに出ており、私にはアドヴァイスの仕様がないように思われるからである。「研究が進まない」「どうすれば良い論文が書けるんでしょう」云々。こういう質問はたいていの場合、偽の問題であり、問題のすり替えである。偽の問題に悩まされ、疲労困憊し、それを振り払うのに時間と労力を費やす(その実、それは彼らが発明したものなのだ)ことが彼らの真の目的なのであり、これをフロイトは「疾病利得」と呼んでいた。彼らは問題を精神的なものにし、深刻にとる。pathétiser, psychologiserしすぎるのである。

『二源泉』の人格性概念を、ベルクソンが用いている声という形象を通して分析してみようという趣旨の論文をひとまず書き上げた。ハイデガーによるカントの人格性概念分析と比較したり――和辻は1931年の段階でこの分析を取り上げて論文に組み込んでいる。やはりあの当時の即応力には並々ならぬものがある――、パスカルのさまざまな習慣論を持ち出したりと、いつもどおり好き放題である。今、この論文の細部を詰める作業を始めている。

というわけで、いつも斜め読みの『パンセ』とともに、斯界の泰斗・塩川徹也氏の『パスカル『パンセ』を読む』、岩波セミナーブックス80、2001年を読んでいる。開始数頁でいきなりつまづく。「着手」って、チェスのmoveのこと(ほぼ同義)だったのね。

Thursday, November 30, 2006

感謝知らず-高潔の哲学史(取るに足らぬ序文)

sympaな人はいくらもいる。magnanimitéをもった人はなかなかいない。フランス語のmagnanimeの語源であるラテン語のmagnanimusは、magnus(大きい)とanimus(心)からできた語である。寛大・高潔・高邁・高貴・広量・雅量などと訳される。

純潔を保つために人を遠ざけ、あるいは「孤客(ミザントロオプ)」であるがゆえに否応なく保たれた純潔が腐り落ち、傲岸不遜に堕する、そういった人々のことをいっているのではない。純潔と高潔は異なる。マニャニミテは、泰然自若とも訳せるはずだ。

人と交わることを怖れず、人の輪の中にあって高潔を保ち、どうしても空の高さを感じさせずにおかない人。ごく稀にそういう人に出会うと、性別はどうあれ、心がときめく。少し時代がかっているかもしれない、でもそれがなんだろう。

Sed omnia praeclara tam difficilia, quàm rara sunt.

とスピノザも言っているではないか。私自身も、常々magnanimeでありたいとは思っているし、またそのように振る舞うよう努力もしているのだが、修行が足りないのでずいぶんつまらないことで腹を立てることもある。

もっとも、《いろいろと親切に教えてあげてもなんとも思わない》とか、《情報をしれっと利用した挙句にあたかもはじめから自分は知っていたと言わんばかりのポーズで対抗意識をむき出しにしてくる》とかいうくらいはかわいいもので、全然許容範囲である。

パリのとある友人があるテーマについてゼミを開くことにしたと予告を送ってきたのだが、そこに並んでいる参考文献は一年前なら彼の知らなかったものばかりだ。たしかに悔しい気持ちもないとはいえない。だが、この悔しさはフランス人の彼がパリで当該テーマについてセミナーを開くという事実に対する私の地政学的な関心(羨望?)に由来するもので、彼のそういう性格自体への怒りに由来するものではない。たぶん彼は私に情報提供を乞うたという事実すら忘れている幸福な人なのだから…。まあ、そういう人は世界中どこにでもいる。

自分のmagnanimitéを本当に試されるのは、いわれのない攻撃を受けた場合ではあるまいか。火のないところに煙は立たぬという。しかし、マッチ一本から大きな山火事に至るには、相当乾ききった心か、苛立ちの大風という下地がなければならないはずである。なんでも悪く取る用意のある人に対してどう毅然とかつ穏やかに対処できるか。哲学者たちの声に耳を傾けてみよう。

ちなみに、「取るに足らぬ序文」とは、キェルケゴールのドン・ジョバンニ論である「直接的エロス的諸段階、あるいは音楽的-エロス的なもの」(『あれか、これか』第一部第二論文)序文の表題である。ウェブ上ではデンマーク語で読むこともできる

Tuesday, November 28, 2006

混線、混戦-戦場で友に送る手紙

最近年齢の壁やfameないしstatusの壁にこつんと当たる小さな事件が幾つか起こってきている。今自分が置かれている状況と自分にできること、あるいは自分が実現したいと思っていることの間に開きがあるからだ。しかし、それでもなお、弛まず進んでいきたいと願い、日夜努力を続けている。

そんな中で、温かい声を掛けてくださる方々がいてくださって、精神的にとても助かっている。自分の研究のことは自分でやるほかないという以上に、単に自分の事柄なわけだが、状況を変えていこうとすると、求められるのはそういった事柄以上のものだ。しかし、自分の仕事と決して無関係ではない。見知らぬ人が他人を判断する基準は仕事しかないのだから。

他方で、物見高く見ているだけという人々もいる。自分は知らないよ、と。おこぼれには与るけれど、と。 ある程度優秀な学者も含めて、普通はそういうものかもしれない。たぶん「羊たちの沈黙」はいつの時代にもある。彼らはいつも小声で文句を言いながら付き従う。私の努力が実を結ぶのはまだまだ先のことだろうが、そのとき彼らは、今私が時代状況に感じている閉塞感やそれを突破するために払っている努力や犠牲の大きさなど一顧だにせずに、結果だけを平然と受け取るだろう。彼らはいつも小声で文句を言いながら誰かにつき従うだけだからだ。あてにできるのは、研究レベルの努力と制度的なレベルの努力という「両面作戦」で行動を共にしてくれる友人たちだけだ。

しかし、「日本は知的砂漠である」という意見には反対である。教育国家と文化国家の違いも弁えないそのような放言にはルサンチマン以上のものを認められない。言い放つだけならとても簡単だとも思う。大切なのは内側から(繰り返すが研究レベルだけでなく制度的なレベルで)少しずつでも変えていくことだ。そのような努力抜きの「鋭い批判」などに何の意味もない。

aboutに掲げているが、大事なのは嘲笑することでも、慨嘆することでも、呪詛を投げつけることでもなく、理解しようと努めることである。真の理解はやがていつの日か真の変革につながる。

Thursday, November 23, 2006

Master Mundus追加情報

専用サイトが設置されたと連絡がありました(11月1日の項に追記)。すでに複数の日本人に連絡が行っているようなので、今回はメールでは流しません。もしかすると新たな情報が追加されているかもしれませんので、興味のある方はチェックを、周りに興味のある方がいらっしゃりそうな場合にはアナウンスをお願いします。hf

Sunday, November 19, 2006

予行演習にゼミを活用する

現在、「《大いなる息吹…》 ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』における呼びかけ・熱狂・情動」(仮)という論文を執筆中である。

『二源泉』に現れる《声》《火》《道》のイメージを丹念に追いかけることで、「開かれたもの」(開かれた道徳・動的宗教)のダイナミズム、創造的行動の論理の構成要素、すなわち《呼びかけ》《熱狂》《情動》の諸特徴を明らかにするとともに、哲学研究において隠喩をたどること、テクストの声に耳を傾けることの重要性を強調する――といった趣旨である。

先々週、h大学aゼミで、先週t大学sゼミで、それぞれ予行演習として発表させてもらった。自分の考えをまとめるのにこういった形で親しい先生方のゼミを使わせてもらうのが好きだ。勝手知ったるアットホームな雰囲気で、けれど真剣勝負で発表する。

まあ、往々にして最初はアイデアをたくさん詰め込んだまとまりのない発表で、聞いていただく方々に申し訳ないくらいなのだが、それでも徐々に形になっていくのだから、やはり発表はしてみるものだと思う。人それぞれ自分なりの仕事のスタイルがあるから、別にお勧めするわけじゃないけれど。

発表はたいてい同じ反応。最初に哲学科で聞いてもらうと、たいてい構成がクリアでないと言われるので、ここで大枠を明確にするよう努める。次に仏文科で聞いてもらうと、専門ではないので難しいと言いながら、けっこう細かい点をいろいろと突っ込んでくれるので、ここで微調整する。

先週の発表では読み上げ原稿を完成できず、三分の二程度はアドリブで喋ったのだが、そのほうが圧倒的に分かりやすくて面白かったとほとんど全員言っていた。喜んでいいのか悲しむべきなのか。

水曜が締め切りなのに、まだ最終形が見えない。『二源泉』を読んだことのない人にも分かるように丁寧な序論を書いたら、それだけでかなりの分量になってしまったので、ひとまず《声》《火》《道》で三分割することに決めた。というわけで、今回は「(上)《声》-呼びかけにおける人格性の問題」を扱う。査読側がなんと言うか分からないけれど…。

Friday, November 17, 2006

近況

このへんで、帰国後の仕事ぶりをまとめておきます。まず研究発表。

1)9月9日(土)日仏哲学会2006年秋季研究大会(於:法政大学)にて、「ベルクソンと目的論の問題-「苔むした」生気論?」と題した研究発表を行なう。

2)9月18日(月)第20回ベルクソン哲学研究会(於:学習院大学)にて、「場所の記憶、記憶の場所-ベルクソンとメルロ=ポンティ」と題した研究発表を行なう。

3)10月28日(土)日本フランス語フランス文学会2006年秋季大会(於:岡山大学)にて、「唯心論(スピリチュアリスム)と心霊論(スピリティスム)-ベルクソン哲学における催眠・テレパシー・心霊研究」と題した研究発表を行なう。

1と3はそれぞれの機関紙に掲載されるよう、これから論文化を鋭意行なっていくつもりですが、2は機関紙がないのでどうしたものか。

次に、論文(掲載決定済み・現在投稿中・投稿予定)ですが、

4)カッシーラーのベルクソン『二源泉』に関する長い書評(というより研究論文)の仏訳、および、それに付した私のこれまた長い序文が『ベルクソン年鑑』(PUF)に掲載されます。近日校正刷が送付されてくる旨(ようやく・・・)連絡がありました。

5)「哲学の教育、教育の哲学」(仮)と題するエッセイを某所に投稿中。これは厳密には私の研究分野ではありませんが、興味をもっている主題の一つなので、これまでに書きなぐったものを出してみました。まったくの床屋政談ですが、どうなることか。

6)大学紀要に「《大いなる生の息吹…》 ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』における呼びかけ・情動・熱狂」と題する論文を投稿予定。現在鋭意執筆中です。

これからの執筆計画。

7)ベルクソンにおけるメタファーやアナロジー(修辞学の問題)に正面から取り組んでみたい。これは来年春の仏文学会向け。

8)来年の百周年トゥールーズ篇では、もう一度「目的論」の問題を取り上げなおし、いっそうの深化を試みるつもり。あるいは技術論をやり直そうか。

9)最後に、問題の大論文。これらと同時並行的に。というか、これらの仕事は全部、大論文のélaborationの過程なわけですが。

Monday, November 13, 2006

テクストの聴診-杉山直樹『ベルクソン 聴診する経験論』

ネットでフランス哲学に関するラジオが聞けるという話をした。朗読や講義のCDがあるという話もした。もちろん重要なのは有名人のお話(師のお声)を謹聴することではない(2005年3月2日の項「追っかけは追っかけ(『異邦人のまなざし』余談2)」)。聴くという体験を通じて思考を紡ぐことが何をおいても重要なのだ。

「聴く」と言えば、日本のベルクソン研究者一同が待望していた杉山直樹氏の著作がこの10月に刊行された。その名も『ベルクソン 聴診する経験論』(創文社)。カバーに印刷された仏語題名は、

Naoki SUGIYAMA, Bergson, auscultateur de l'expérience, Sobunsya, 2006.

となっている。いずれ仏訳していただきたいものだ。書評はまた別の機会にして、本書の印象を一言で言えば「王道を行く」という感じ。私はしばしば杉山氏を「日本のヴォルムス」と呼ぶのだが、そのような直感は間違っていなかった、と本書に目を通しながら思った。

王道にもいろいろあるので、守永直幹氏の著作『未知なるものへの生成 ベルクソン生命哲学』(春秋社、2006年)も、個人的には「王道」路線だと思っている。ファイティング・ポーズが勝っているので、分かりやすく言えばマイク・タイソン、より正確な比較対象を探せば輪島功一ということになろう。杉山氏は、一見より穏やかだが、舌鋒は鋭い。分かりやすく言えばモハメッド・アリ、より正確な比較対象を探せば具志堅用高ということになる。プロレスで分かりやすい例を探せば、猪木と馬場となる(ちなみに「猪木スタイル」必ずしも「ストロングスタイル」ならず、と言っている人がいるが卓見である)。

ちなみに、檜垣立哉氏の『ベルクソンの哲学 生成する実在の肯定』(勁草書房、2000年)は、入門書と研究書の中間くらいという位置づけだと思うが、チャーミングな魅力に満ちているので、『酔拳』のジャッキー・チェンといったところであろうか。千鳥足だからと打ちかかったらとんでもない目に遭う。彼の研究スタイル全般に言えることだが、やりたい放題に見えて、けっこう計算されているのだ。

話を元に戻せば、ベルクソンを「経験の聴診者」と定義する杉山氏自身のアプローチが実にベルクソニアンである、つまり「聴診的」である。
[ベルクソンの文体は]流麗なリズムをそなえた繊細な文体、などと言われはするし、確かに目の前の数行単位で読む限り、彼の言葉はそう言われもしよう心地よい滑らかさを有してはいると思うが、しかしそうしたフレーズたちが構成する全体はというと、それは私には、実に見通しの悪く、ぎこちない、今にも崩れそうな集塊のように映る。ノートを取り、用例集を作り、自前のレキシコンを作成し、つまりは「哲学書」を前にしての通常の読みの作業をするのだが、こんな難物はない。[…]このような哲学を「明晰」だの「端正」だの形容する人々が少なくないようだが、きっと彼らは、ベルクソンのテクストを本当に自分で読んだことがないのだ。

引用の仕方でその人がテクストを読むという行為をどう考えているのかは如実に分かる。explication de texteの伝統のない場所では、読むという行為にあまり注意が払われないようにも思える。引用とは添え物ではないし、偉大な哲学は論理の骨組みだけに解体されはしない。

というわけで、本書にはいくつかの偏りが生じている。本書は「ベルクソン哲学」というものの包括的な注釈書とはなっていない。参照される著作のページリストを作れば、どこが素通りされているかは明らかだと思う。私としてはまず、テクストとして前述の「異様さ」を強く孕むと感じられた箇所を中心に読解を試みたつもりである(ある意味、この取捨選択が本書の一番大きな主張だとも言える)。[…] このように一定のテクストの読解だけにこだわる態度がある種の顰蹙と嘲笑の対象になることは分かっているが、今の私は、騒がしい「アクチュアリティ」にとびつくよりもむしろその種の地味な作業を続けることにこそ意義があるように感じている。

テクストを前にすればごく当たり前の態度をこのように「偏り」と呼ばせ、いくつかの特権的テクストを執拗に読解し続ける態度が「ある種の顰蹙と嘲笑の対象になることは分かっているが」と予防線を張らせずにおかない場所において、哲学のテクストを「読む」とはいったい何でありうるのだろうか?

この「読む」ことに関する無関心はまた、「読みあげる」ということに関する無頓着と切り離せない関係にあるように思う。現在の哲学系(思想系ではない)の発表はたいがい原稿を事前に配布しそのまま読み上げる形式のものだが、形式としては実に退屈で工夫がない。原稿を配るのなら、わざわざ読み上げる必要はないではないか。

もちろん、目の前にテクストがあったほうが親切だという考えは分からないではないし、一字一句を点検できるという意味で可能性としては緻密な議論が展開できるようになっていることは認めるが、テンションが如実に下がることもまた事実だ。これでは、耳で話を追うという重要な思考の体験がまったく蔑ろにされていると思うのだが、どうだろうか。思考の刺激ということだけから言えば、いっそ「4分33秒」のケージよろしく発表時間中ずっと沈黙を守っていたほうがいいのではないかと思うくらいだ。

海外では数え切れないほど発表を聴いたが、読み上げ原稿を配布する場面に出会ったのは、外国人相手とか自分が慣れない外国語で話すとか、そういう例外的事態だけである。もちろん、何も配らないことが多いフランス流のやり方が完全だというのではない。おそらく両方の中間くらい、各項目のレジュメ+引用文がいいのではないか。

「読む」ことへの無関心、「読み上げる」ことへの無頓着は、結局のところ「聴く」ということに対する不感症に通ずる。何度でも言おう。耳からはじめること、哲学の歌を聴け。

Saturday, November 11, 2006

哲学の歌を聴け(追加情報)

あがるまさん、「ファンレター」(!)、ありがとうございました。読みやすいシンプルな外観さえ整えば、あとはあまりデザインにこだわらないという私のような機械音痴にとって――この怠惰があまり快いとは言えない事件を惹起したりもしましたが――、ブログは大変便利な道具です。

今のところ直接お顔とお考えを存じ上げない方とブログ上で交流させていただくことには消極的ですが(したがってこういった形でいつもお返事を差し上げられるか分かりませんが)、いただいた貴重な情報は皆で共有できればと思いますので、これからもぜひご教示くださいませ。

*あがるまさんのメールより一部抜粋
ウィーン大学の講義や講演(の一部)はhttp://audiothek.philo.at/modules.php?op=modload&name=Downloads&file=indexで聞くことが出来ることを知りました。大御所E.Tugendhatの2002年の動物と人間の違ひについての2つの講演などもあり、内容は余り面白くもなささうですが、話し方は明確で聞き易いですね。その他の大学はどうなつてゐるのか知りませんが、Toulouse大学の資料の頁は充実してゐました。ところでパリのF.Dasturの許で(10年くらい前に)九鬼周造についての論文を書かれた方の消息をご存知ですか?

こういった「耳」の情報、とてもありがたいです。最近はいろいろな音源がネット上にアップされていて、こういったものを「哲学耳」のトレーニングにどんどん活用していくべきだと思っています。九鬼の方は存じ上げません。DasturはパリⅠのあと、今は亡きジャニコーの誘いでニース大学に移り、近頃退官したはずです。私は彼女を見るといつも「やんちゃで憎めない精悍なドラ猫のようだ」と思います。彼女は私と会うといつも(たぶん日本人なら誰にでも)「デリダとヘーゲルについてすごい博論を書いた日本人がいるんだけど、知ってる?どこの出版社も出してくれないのよ」というのですが、そのたびに「名前なんだっけなあ」と言ってました。覚えといてよ、っていう(笑)。日本人の名前って彼らには難しいですからね。